エレクトロニクスで蘇るポップ・ピシンギーニャ
今でこそ当たり前みたいになっているアフロ・ブラジリアン・ミュージック。これを最も早くやったブラジル人は1930年代前半のピシンギーニャだったんじゃないかなあ。といってもその時代のピシンギーニャの「アフロ・ショーロ」とでもいうような仕事を、現在 CD でも配信でも簡単かつ存分に聴くことは難しい。なぜならばあまり復刻されていないからだ。
一部聴けるんだが、全貌が分らない。僕が聴いているのはライス盤『ブラジル音楽の父』13曲目「ご主人様は猫を捕まえる」(1931)から17曲目「俺は戻っている」(1932)までのたった五曲だけだ。このライス盤の解説文を書いている田中勝則さんによれば、当時のピシンギーニャにはかなりの数の録音があるらしい。
あとは例のベネジート・ラセルダとの共演分についてだけは、以前から書いているように iTunes Store に完全集があって、そのなかには「ヤオー」みたいなアフロ・ブラジリアン・ショーロ、あるいはカリブ・ショーロと呼べるものがあったりするけれど、このコンビの録音は1940年代末にはじまったので、ピシンギーニャは既に旬を過ぎていた。
全盛期ピシンギーニャの完全集をと言っても、むろんそのなかには今聴くとちっとも面白くないようなものもあるんだろうが、そうなのかどうなのか実際に聴いて自分で判断したいわけだから。早くブラジルでもどこでもいいから完全集をリリースしてくれないかなあ。偉大だったとの評価が定着している音楽家に対する扱いとは思えない。
ともかくライス盤『ブラジル音楽の父』13〜17曲目のオーケストラ作品を聴くと、かなりパーカッションが賑やかで、そもそも曲がリズミカルでパーカッシヴでダンサブル。そんでもって相当にポップでユーモラスですらある。ピシンギーニャというと「カリニョーゾ」「ラメント」など、シリアスな音楽家だと思われているかもしれないが、そんなその後現在でも頻繁にカヴァーされる名曲の方がむしろ例外だったのかもしれないよ。
そんな1930年代前半のポップなピシンギーニャ作品を現代に甦らせた、それも当時そのままのアレンジではなく、打込み中心の現代的デジタル・サウンドで再現したアルバムがある。エンリッキ・カゼス他二名による『エレトロ・ピシンギーニャ』だ。プロデュースもエンリッキがやっている2003年の(僕が持つのは)ライス盤。
打込み中心のデジタル・サウンドはもはや時代の先端ではないという見方になりつつあるように思うけれど、それでも人件費がかからないので、世界中で大量生産されるポップ・ミュージックは今でもやはりコンピューター・メインで音創りしているんじゃないかなあ。
『エレトロ・ピシンギーニャ』に参加しているエンリッキ以外の二名とは、デジタル・キーボードやプログラミング担当のフェルナンド・モウラ、アクースティック&エレクトロニック・パーカッション担当のベト・カゼス。ベトはエンリッキのお兄さんだ。エンリッキも普段から弾く生のカヴァキーニョやギターなどにくわえ MIDI カヴァキーニョも弾いている。
他にゲスト・シンガーが入る曲があったり、ゲスト参加でプログラマーがいたりもするようだけど、まあ以上三名がメインには間違いない。僕にとってはエンリッキこそが最も馴染のある音楽家だけど、一般的にはマリーザ・モンチやマルコス・スザーノの作品にも参加しているフェルナンド・モウラが最も知名度があるんだろう。
ショーロはシリアスな音芸術で、エンリッキもそんな分野の現代における第一人者で、一方フェルナンド・モウラはポップ・ミュージックの世界の人間とされているだろう。間違っているわけじゃないが、この二人が合体している『エレトロ・ピシンギーニャ』を聴くと、無意味な区分に思えてくる。と同時に1930年代前半のピシンギーニャ作品についても同じ無意味さを感じるね。
上で書いたように、ライス盤『ブラジル音楽の父』13〜17曲目で聴けるピシンギーニャのポップなアフロ・ショーロのうち、そんな味が最も濃厚に出ているのが15曲目の「黒人の会話」(1931)だ。1931年というとキューバ発の「南京豆売り」が大ヒットしていた時期だし、ピシンギーニャも意識したんじゃないかな、そんなアフロ・カリブ音楽を。「黒人の会話」をちょっと聴いてみて。
この「黒人の会話」がエンリッキらの『エレトロ・ピシンギーニャ』ではオープニング・ナンバーなのだ。パンデイロの音にはじまり、各種パーカッション、次いで電子鍵盤楽器の音が聴こえる。管楽器みたいな音も入っているが、これはサンプリングしたかシンセサイザー音なんだろう。
スティール・パンのようなサウンドもはっきりと聴こえるが、それはベト・カゼスの生演奏かフェルナンド・モウラが電子的に再現しているのか、僕にはちょっと判断できない。がまあおそらくは電子音だろうなあ、生のスティール・パンの音とはちょっと違うような気がする。
ところでエンリッキはどこで演奏しているんだろう?少なくともアクースティックな弦楽器の音は聴こえないよね。MIDI カヴァキーニョを弾いているのかもしれないが、そうだとすると鍵盤シンセサイザーの音と区別するのは僕には不可能。あるいは生の弦楽器を弾いたが、ミキシングの際に聴こえない程度にまでしたのかもしれない。
でも曲全体のアレンジや方向性はエンリッキが書き決めたものらしい。それに沿ってフェルナンドがプログラミングしたり音を加えたり、ベトが打楽器をオーヴァー・ダブしていったんじゃないかなあ。ベトのことはよく知らないが、フェルナンドの方は元々そんな古いショーロに関わっていたような音楽家じゃないから。
一曲目の「黒人の会話」だけでなく、『エレトロ・ピシンギーニャ』収録の11曲、全てやはりエンリッキがピシンギーニャのオリジナルから現代風に展開してベーシック・アレンジを施した模様。他の二名はあくまでそれに沿って音を重ねていって、それにさらにもう一回エンリッキが MIDI カヴァキーニョの音を足したりしたんだろう。
それにしても書いたように一曲目「黒人の会話」で聴こえないだけでなく、『エレトロ・ピシンギーニャ』収録の他の十曲でもエンリッキの演奏する生の弦楽器はほとんど聴こえない。この人が現代ブラジルにおけるカヴァキーニョ奏者のなかでの最高の存在であることを踏まえると、やや意外な気もする。
が『エレトロ・ピシンギーニャ』では、エンリッキのそんな演奏技巧ではなく、またそれ以外でも生楽器の演奏アンサンブルではなく、あくまで(パーカッションと一部のヴォーカル以外は)デジタル・サウンドを中心に組立てるのだという当初からの目論見通りに事を進めたってことだろうなあ。
ピシンギーニャのオリジナル・ヴァージョンとの聴き比べが、「黒人の会話」「ヤオー」の二曲を除き不可能なので、エンリッキのアレンジがどの程度にまでオリジナルを深化させ展開し、現代的に再現して再構築しているのか、どうも実感できないのが残念極まりない(だからどこか早く復刻を!)。
『エレトロ・ピシンギーニャ』四曲目の「ヤオー」。一曲目の「黒人の会話」以外で、僕がピシンギーニャのオリジナルを聴けるのはこれだけなんだけど、それはアフロなルンドゥーなんだよね。あくまでショーロの枠内ではあるけれど、どこもシリアスではなく、かなりポップに楽しくてダンサブルで、しかもユーモラスだ。
『エレトロ・ピシンギーニャ』ヴァージョンの「ヤオー」は、しかしこの曲だけアルバムのための新録音ではなく、エンリッキがオルケストラ・ブラジーリアで1988年に録音したもののリミックス・ヴァージョン。それは YouTube では再生不可なのが残念だが、かなり大胆なオーケストラ・サウンドになっている。
だからアルバム中「ヤオー」だけはデジタルな音の感触が薄い。というか電子鍵盤楽器らしきサウンドはほぼ聴こえない。フェルナンド・モウラはあるいは全く参加していないかも。やはりパーカッション群がかなり賑やかで、アフリカンなリズムを演奏する上に、ホーン群とユーモラスなヴォーカルが乗っている。
また二曲目「ケ・ケレケー」なども完全なる現代的デジタル・サウンドによるアフロ・ブラジリアン・ミュージック。途中パーカッションのみの(おそらく多重録音による)アンサンブル・パートがあるなと思った次の瞬間に女声ヴォーカルが入る。そしてベネジート・ラセルダ風なフルート(の音を模したデジタル・サウンドだろう)。
そんな二曲目の「ケ・ケレケー」や一曲目の「黒人の会話」や四曲目の「ヤオー」など、エンリッキらが『エレトロ・ピシンギーニャ』で現代的に再現しているものを聴くと、1930年代前半のピシンギーニャがやっていたのは、シリアスなショーロではなく、賑やかでポップで楽しくてダンサブルでユーモラスな娯楽音楽だったんだなとよく分るのだ。
『エレトロ・ピシンギーニャ』中他の八曲も、リズムがかなりアフリカンでパーカッション・アレンジが賑やか。その上に電子鍵盤楽器やプログラミングされたデジタル・サウンドが彩り豊かに乗っている。一部ヴォーカルの入るものには、やはりユーモラスなニュアンスがあるもんなあ。
七曲目のタイトルは「ドラムスのコンサート」(コンセルト・ジ・バテリアス)。これは YouTube で探したらピシンギーニャのオリジナル・ヴァージョンだろうと思われるものがアップされていた。どうだ、これ?曲名通りドラムスほか打楽器メインのかなり派手なサウンド創りで、聴こえるフルートがピシンギーニャなんだろう。
『エレトロ・ピシンギーニャ』収録ヴァージョンの「ドラムスのコンサート」は YouTube ではこれまた再生不可なので残念だが、オリジナル同様にやはり打楽器メインの組み立てで、これは間違いないデジタルなスティール・パン音なども聴こえ、電子鍵盤楽器の短いリフがスタッカート気味に効果的に入っている。
八曲目の「言っとくぞ」でもヴォーカルが聴こえるが、注目すべきはリズムだ。冒頭からドラム・セットの音が聴こえるがそれは間違いなく打込み。その打込みドラムスが出すのがちょっぴりヘヴィなグルーヴ感で、まるで北米合衆国のファンク・ミュージックっぽい。かと思うと、すぐに軽くてポップなサウンドが入ってくるが、その背後でもノリはディープだ。
あっ、九曲目「パトロン、家畜を縛っておけよ」では鮮明にアクースティックな弦楽器が聴こえるぞ。エンリッキだ。ここまではっきりとエンリッキの生演奏によるアクースティック弦楽器が聴こえるのは、『エレトロ・ピシンギーニャ』中これだけのような気がする。全体を通して聴くとかえって珍しくて新鮮な感じ。
10曲目「カエルよ、跳べ」のリズムのかたちは、曲名通りいかにもカエルが跳ねているかのようなヒョコヒョコっとしたもので、相当にユーモラスだ。これも探したら YouTube にこんなのがあったけど、これがピシンギーニャによるオリジナル・ヴァージョンなんだろうか?
『エレトロ・ピシンギーニャ』ヴァージョンの「カエルよ、跳べ」は、この(オリジナル?・)ヴァージョンのヒョコヒョコ跳ねるリズムのユーモラスな感じをさらに一層強調したようなアレンジで、聴いていて思わず笑ってしまえるようなフィーリングなんだよね。
今日は触れられなかった曲も含め『エレトロ・ピシンギーニャ』、どれもこれもそんな賑やかでユーモラスなものばかり並んでいて、聴いていて本当に楽しい。しかもそれはブラジルの楽聖とまで言われるピシンギーニャのソングブックなんだからさ。ホントどうしてそのへんの録音をちゃんとした完全集にして復刻しないんだろうなあ?
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