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2017年1月

2017/01/31

和製ウェザー・リポート

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ジャズ側からフュージョン・ミュージックをやっている日本人で一番好きなのは、僕の場合もちろん渡辺貞夫さん。大学生〜院生の頃に熱心に聴いた貞夫さんの音楽。そのフュージョンのなかに、あんな風なブラジル音楽テイストやアフリカ音楽テイストがなかったら、僕はいまごろなにをしていたか分らない。

 

 

最初はチャーリー・パーカー直系のビ・バッパーだった貞夫さんが、いつ頃どうしてそうなったのかの話は長くなってしまうので今日はやめておくが、とにかく僕は大のフュージョン・ファンで、世代的にはちょぴり後追いながらも、でも僕が熱心な音楽リスナーになった1979年だと、日本でならまだまだフュージョン全盛期だった。たくさん聴いたけれど、そのなかで忘れられない一人がコルゲンこと鈴木宏昌。

 

 

鈴木宏昌はもちろんキーボード奏者で、コルゲン・バンドの名で活動していたのを改めて、ザ・プレイヤーズのバンド名になってリリースしたベスト作が1981年の『マダガスカル・レディ』。大の愛聴盤だったんだけど、アナログ盤を手放して、というかレコード・プレイヤー自体を手放して以後、全く聴き返す機会がなかった。

 

 

どうしてかというとCD リイシューがされていないからだ。なんと!咋2016年まで一度も CD になっていなかった。これはひどい。これはひとえに世間のフュージョン・ミュージックに対する「ぼんくら評価」(by 荻原和也さん)のせいだ。前々から嘆いているように、フュージョンは真っ当な音楽的評価がされてこなかった。

 

 

そのまあ、フュージョンがいかに不当な扱いをされてきたか、中身についていかに正当な音楽批評が存在しないまま現在にいたっているかを、今日ここでまた繰返す気はない。だってこれまた長くなってしまうし、また機会を改めて一度じっくり書いてみたいと思っている。

 

 

さてコルゲンこと鈴木宏昌率いるザ・プレイヤーズの1981年作『マダガスカル・レディ』。咋2016年4月にようやく CD になったわけだけど、それもタワーレコード限定販売というもので、う〜ん、そうでもしないと CD リイシューが叶わないものなのか?なかなかの良作なのに?オカシイね。

 

 

あ〜、また愚痴っぽくなってしまった。やめておこう。とにかくそんなタワーレコード限定販売なので僕はしばらくこれに気付かず、昨年六月の萩原和也さんのブログでとりあげられていたのでようやく気が付いて、慌ててタワーレコード通販で買った。あぁ〜、久しぶりだったなあ、あの爽快なサウンドの快感を味わうのは。

 

 

ザ・プレイヤーズの『マダガスカル・レディ』最大の特徴は、和製ウェザー・リポートだっていうところにある。『マダガスカル・レディ』だけでなく、その前からそうなんだけど、このウェザー・リポートに強く影響された鈴木宏昌の音楽性が完成されたのが1981年の『マダガスカル・レディ』なのだ。

 

 

アメリカの方の本家ウェザー・リポートはといえば、1981年はジャコ・パストリアス、ピーター・アースキン、ボビー・トーマスという最強布陣だった時期で、そんでもってそのなかからパーカッショニストのボビー・トーマスを、ウェザー・リポートの一員として来日したのをつかまえて、ゲスト参加で招いて、ザ・プレイヤーズの『マダガスカル・レディ』は録音されている。

 

 

鈴木宏昌、ボビー・トーマス以外は、サックスの山口真文、ギターの松木恒秀、ベースの岡沢章、ドラムスの渡嘉敷祐という布陣。本家ウェザー・リポートとの違いはエレキ・ギタリストがいることだね。松木恒秀のギター・スタイルは、スタッフのエリック・ゲイルみたいな部分があってなかなかいい。

 

 

また特に山口真文のサックスは聴きもので、彼が抜けて以後このバンドはイマイチという感じになってしまったくらいなんだよね。その他、ベースの岡沢章やドラムスの渡嘉敷祐は、まるでスタッフを聴いているかのような野太いグルーヴを出していて、そこにボビー・トーマスのパーカッションが彩りを添えるんだから文句なし。

 

 

『マダガスカル・レディ』がウェザー・リポート的であるのは、アルバムを聴けば全員納得できることだ。アルバム四曲目(アナログ盤では B 面一曲目)の「C.P.S.(Central Park South)」。これは要するにジョー・ザヴィヌルの書いた「バードランド」そのまんまなんだよね。エレキ・ギターが聴こえるという違いしかなく、曲想・メロディともに引き写しみたいなもの。

 

 

それじゃあウェザー・リポートの『ヘヴィ・ウェザー』を聴けばいいんじゃないかと思われるかもしれないが、なんというかザ・プレイヤーズの「C.P.S.(Central Park South)」には、「バードランド」とは若干フィーリングの違う爽快感がある。上手く説明できないんだけど、確かに鈴木宏昌だけはあるという味は聴き取れるのだ。

 

 

またそれに続く五曲目は「8:30」。ウェザー・リポートの1979年作『8:30』の二枚目 B面一曲目だったもの。あの二枚組ライヴ・アルバムは二枚目B面だけがスタジオ録音サイドだったんだけど、その冒頭を飾っていた名曲(だと僕は思っている)。

 

 

本家ウェザー・リポートのがわずか三分もない小品だったのに対し、ザ・プレイヤーズ『マダガスカル・レディ』ヴァージョンの「8:30」は六分を超える演奏で、かなり趣向を凝らして、これは完全にザヴィヌル引き写しではない独自解釈を展開している。特に 1:14 からリズムがパッとチェンジして、ミドル・テンポのシャッフルになったりしているし、そうかと思った次の瞬間にテンポ・ルパートのバラード風になる。

 

 

そのかなり静謐なテンポ・ルパート部分ではエレベのソロもあったりするが、それもすぐに終わって、また元通りの賑やかなリズムとサウンドになって、本家ウェザー・リポートから借りてきているボビー・トーマスのコンガも大活躍。そして鈴木宏昌のフェンダー・ローズ・ソロになる。ファンク・ミュージックをやる時のハービー・ハンコックにちょっと似ている。

 

 

この大胆な独自解釈でウェザー・リポートのオリジナル・ヴァージョンを凌駕せんとする「8:30」こそが、僕にとっては『マダガスカル・レディ』のクライマックスなんだよね。あるいはアルバム・タイトル・ナンバーの一曲目、そして三曲目の「ゲット・アウェイ」、この二つで聴ける山口真文のソプラノ・サックス・ソロも絶品だ。

 

 

やはりウェザー・リポートのウェイン・ショーターによく似ているんだけど、それら二曲ともハードなスウィング・ナンバーでの山口真文のソプラノ・サックス・ソロは、彼にとっては生涯ベスト・パフォーマンスだったと言いたいくらいの出来なんだよね。ショーターだけなく、ソプラノを吹く時のジョン・コルトレーンからの影響も感じられる。

 

 

またリリカルなバラードである二曲目「シークレット・エンブレイス」、六曲目「ウィズ・オール・ビューティフル・ラヴ」などでは、鈴木宏昌のメロディ・メイカーとしての有能ぶりもよく分る美しい曲で、しかも前者ではボビー・トーマスがかなり控え目ながら、欠かせないスパイスになっているし、後者ではサックスと鍵盤がひたすら幻想的でメロウに攻める。

 

 

こんなにも充実しているザ・プレイヤーズの1981年作『マダガスカル・レディ』。傑作なのに、2016年までただの一度も CD にならなかったなんて、荻原和也さんの言葉を借りれば、世の音楽関係者・評論家はみんなボンクラか!もうそろそろフュージョン・ミュージックに対する偏見を捨てて、ちゃんと中身を聴いて評価・分析してもらえないだろうか?

2017/01/30

ホークスとはザ・バンドのことではない

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ロック史において、どうでもいいような気もするが、どうでもよくないような気もする人物の一人にロニー・ホーキンズがいる。この人を重要と考えているファンでも、その最大の理由は、のちにザ・バンドと名乗るようになるミュージシャンたちをバック・バンドに起用していた時代があるからに違いない。僕だってザ・バンド、当時の名をホークスという彼らを知ったからからこそロニー・ホーキンズに興味を持ったわけだ。

 

 

ザ・バンドに興味を持ったのは、僕の場合、ボブ・ディラン関連でだったので、つまりディランを知らなかったらロニー・ホーキンズにも行き着いていないか、もっとずっと遅れることになっていたはず。そんなことで行き着いたロニー・ホーキンズ。しかしこのロック・シンガーを、のちにザ・バンドとなる面々がバック・バンドをやっていたからこそ重要なのだという認識であれば、この歌手を聴いたことにはならない。

 

 

なぜならばロニー・ホーキンズの音楽を聴いていると、のちのザ・バンド、当時の名をホークスが伴奏をやった時代、その前の時代、その後の時代と三つ続けても、主役のヴォーカルになんらの変化もないし、バンドのサウンドだってあまり変わっていないし、レパートリーだってとりあげ方に変化なし。つまり音楽的にはほとんど変わらないからだ。

 

 

さらに、これはあるいはひょっとして誤解されている可能性があるんじゃないかと思うんだが、「ホークス」というバンド名。別にこれはのちのザ・バンドになる面々を指すものではない。ロニー・ホーキンズ(Hawkins)という名前からそのまま取ってホークス(The Hawks)になっているだけであって、ザ・バンドになる面々を雇う前からホークスなんだよね。 特にザ・バンドの前身というわけではなく、1957年頃からロニー・ホーキンズが自分のサポート・バンドに付けていただけの話だ。

 

 

だから、たぶんほとんどのロック・ファンはザ・バンド関連でだけ興味を持っているんじゃないかと思う歌手ロニー・ホーキンズなんだけど、まあ僕だって同じような興味の持ち方だったわけだからえらそうなことはなにも言えないが、それだけしか考えていないと、ちょっともったいない歌手だと思うんだよね。あんな甘ったるいポップなロカビリー歌手なんか、(のちの)ザ・バンド抜きじゃ聴いていられないよとおっしゃられるかもしれないが、最近の僕はそんなポップなフィーリングのものも結構好きだ。全くなんでもないような感じだけど、案外悪くもないよ。

 

 

といっても僕が持っているロニー・ホーキンズのアルバムは、CD 二枚組の『ザ・ルーレット・イヤーズ』だけ。英国のシークエル・レコーズというところが1994年にリリースしたもので、1958〜62年までの録音集、全57曲。ルーレットとはもちろんお馴染のレーベル名。そういえばカウント・ベイシー楽団にもルーレット盤があったなあ。

 

 

『ザ・ルーレット・イヤーズ』で聴くロニー・ホーキンズに、自らのオリジナル楽曲みたいなのは全く一つもないみたいだ。全てカヴァー曲。それも誰か他のリズム&ブルーズ〜ロック歌手が歌ってヒットさせたものばかりとりあげて歌っている。このアルバム一曲目は、あのリーバー&ストーラー・コンビが書いた「ルビー・ベイビー」(ドリフターズ)だもんね。

 

 

『ザ・ルーレット・イヤーズ』では収録曲の作者名クレジットが全然ないんだけど、その必要もないほどの有名曲が多いんだよね。「サーティ・デイズ」(チャック・ベリー)、ビートルズもやった「ディジー・ミス・リジー」(ラリー・ウィリアムズ)、「メアリー・ルー」(ヤング・ジェシー)、これまたビートルズもやった「マッチボックス」(カール・パーキンス)、「フー・ドゥー・ユー・ラヴ?」(ボ・ディドリー)、ドクター・ジョンもやった「ハイ・ブラッド・プレッシャー」(ヒューイ・ピアノ・スミス) などなど。

 

 

なかには「サマータイム」みたいなジャズ歌手もよくやるスタンダードや、カントリー歌手ハンク・ウィリアムズの「ジャンバラヤ」もある。ただし「マッチボックス」だけは注意が必要だ。これは確かにカール・パーキンスがやってスタンダード化した曲だけど、彼のためのオリジナル曲では全くない。

 

 

あまり深入りすると面倒くさいことになってしまう曲なんだけど、「マッチボックス」を、まず「マッチ・ボックス・ブルーズ」という曲名で最初にレコーディングしたのは、あのブラインド・レモン・ジェファースンだ。それも三回も。一回目は1927年3月14日のオーケー録音。二回目と三回目は1927年4月頃(とだけしか分っていない)のパラマウント録音。

 

 

それら三つを、僕の持つ CD 四枚組の ブラインド・レモン・ジェファースン完全集で聴くと、一回目のオーケー録音は若干歌詞とフィーリングが違うかなと思うけれど、でも一部でカール・パーキンス・ヴァージョンと同じ歌詞がやはり出てくる。二回目・三回目のパラマウント録音なら、もはやカール・パーキンスはほぼこのままカヴァーしただろうというような内容だ。

 

 

さらにこのブラインド・レモン・ジェファースンがやった「マッチ・ボックス・ブルーズ」とは、その三年前の1924年にマ・レイニーが歌ってパラマウントに録音した「ロスト・ワンダリン・ブルーズ」のことなのだ。歌詞が一部同じだし、まあ要するにこれは古くからある定型ブルーズ・リリックの一つなんだよね。

 

 

 

つまりロカビリー・ナンバーとして大ヒットさせたカール・パーキンスも、そんなブルーズ伝統の末裔だということで、そのカール・パーキンス・ヴァージョンをそのままカヴァーしたロニー・ホーキンズやビートルズもやはりその末裔なんだよね。ビートルズの「マッチボックス」といえば、ポール・マッカートニーの1990年リリースのライヴ盤『トリッピング・ザ・ライヴ・ファンタスティック』にも収録されている。カッコイイんだぞ〜。

 

 

 

ロニー・ホーキンズの「マッチボックス」は1961年9月18日録音で、既にロビー・ロバートスン、リック・ダンコ、リヴォン・ヘルムがいる。もっともそのうちリヴォンだけはもっとずっと前からロニー・ホーキンズのバックでドラムスを叩いている。僕の持つ『ザ・ルーレット・イヤーズ』では、一番早い時期の録音である1958年6月で既に参加しているんだよね。

 

 

ロニー・ホーキンズの活躍の舞台は主にカナダで、トロントに拠点を置き、カナダだけでなくアメリカ合衆国をツアーしていたが、元はアーカンソー出身。つまり出身地がリヴォンと同じなんだよね。リヴォンがロニー・ホーキンズのバンドに参加したのは1957年暮れ頃のことらしいが、だからあるいはもっと早くから知り合っていた可能性がある。というかおそらくそうに違いない。

 

 

ただ大成功したのがカナダでだったので、当地カナダのミュージシャン、すなわちまずロビー・ロバートスンを1960年に、次いでリック・ダンコを61年夏に、リチャード・マニュエルを61年暮れに、その直後にガース・ハドスンを雇ったということなんだろう。のちのザ・バンドになるこのメンバーが勢揃いして整ったのが、1962年か63年あたりだ。

 

 

今ではザ・バンドになった面々がバックをやっていた時代があるロック歌手という認識しかされていないかもしれないロニー・ホーキンズで、そのザ・バンドとは一人のアメリカ南部人と他はカナダ人で結成されたものだとされているが、そういう編成になったのは、とりもなおさずロニー・ホーキンズがアーカンソー出身のアメリカ南部人でありかつカナダで活躍したからに他ならないんだよね。この歌手がそういう経歴を持っていなかったら、ザ・バンドはそもそも誕生していないんだぞ。

 

 

そんないわばタレント・スカウトでもあったロニー・ホーキンズ。そのヴォーカルの味は、まあ確かにどうってことないような甘くてポップなフィーリングで、特にここが取り柄だとか特長だとか指摘できるようなものが薄い。というかほとんどない。自分では曲も書かず、もっぱら他人のヒット曲をカヴァーするだけだしね。

 

 

しかし以前も書いたように「歌手は歌の容れ物」だという考えに傾きつつある最近の僕。この記事では主に鄧麗君(テレサ・テン)とパティ・ペイジをとりあげて、むりやり歌手独自の個性的な味付けをせず、楽曲の持つ元々の美しさをそのままストレートに歌い表現し、それを聴き手に伝えるようなスタイルの歌手たちを絶賛した。

 

 

 

ロニー・ホーキンズって、ひょっとしたらそんな歌手たちと同資質の人だったんじゃないか(いや、まだ生きているけれども)と、だんだん僕は考えるようになってきている。そうなると、のちのザ・バンドになった面々がバックであろうとなかろうと、あるいはやはりロビーのあのビヨ〜ンっていう変態ギターが聴こえると楽しいとかありはするものの、それはこの歌手の本質になんの関係もないんだなと分ってきたんだよね。

2017/01/29

猥褻ジャズ・トランペッター、ホット・リップス・ペイジ

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トランペットをスケベな感じでいやらしくグロウルさせたら、この人以上のジャズ・マンはいなかっただろうというのがホット・リップス・ペイジ。一般の多くのジャズ・ファンにはカウント・ベイシー楽団での活躍で知られているはず。ベイシーのところには1936年までいたようだ。

 

 

アメリカ中西部テキサス生まれのホット・リップス・ペイジは、そもそものプロ・キャリアをカンザス・シティではじめたと言っても過言ではない。1926年にウォルター・ペイジのブルー・デヴィルズ、次いでベニー・モーテンの楽団で活動した。モーテン楽団はカンザスの代表格バンドだもんね。

 

 

ご存知の通りモーテンは1935年に急死してしまう。それがカウント・ベイシー楽団の出発点になったこともよく知られているはず。ホット・リップス・ペイジもそのまま必然的にベイシーが率いるようになった楽団に参加して活躍。しかもトランペットだけでなく、ときおりヴォーカルも披露していた。

 

 

ベイシー楽団の「パーフェクト・サウンド」(ジョン・ハモンドの言葉)を聴き染めたハモンドの招きで、ベイシー楽団は1937年にニュー・ヨークに進出して大成功するようになるが、ホット・リップス・ペイジは既に同楽団にいなかった。そもそも常時在籍のレギュラー・メンバーでもなかったようで、リップス・ペイジは一足先の36年12月にニュー・ヨークに進出している。

 

 

翌1937年からホット・リップス・ペイジは自らの楽団を率いて活動し、たくさん録音もするようになって、その後スモール・コンボ化したり、他の楽団に参加したりもしているが、1954年にニュー・ヨークで亡くなるまで自己名義の録音は200曲を超えるとか、300曲はあるだとか。しかし僕は全部は聴いていない。

 

 

ホット・リップス・ペイジは、その面白さのわりには、ジャズ・リスナーやジャズ史家・研究家・批評家からニグレクトされ続けてきている存在で、その音源も例によってアメリカ人はあまりリイシューせず、またしてもフランスのクラシックスが年代順全集で何枚にもわたってリリースしてくれている。ところが僕は二枚しか持っていない。

 

 

それが『1938 - 1940』と『1940 - 1944』。二枚あわせ全部で49曲。アメリカのレーベルが申し訳程度にテキトーにチョイスしてリイシューしているものなんかより、この二枚の方が絶対にいいんだよね。もちろんもっとたくさんあって、1944年以後の録音ではリズム&ブルーズに接近していたりもするのだが、もはや入手不可能なのだ。

 

 

だから今日は仏クラシックスの年代順全集で、ホット・リップス・ペイジの1938〜44年録音を辿ってみたい。二枚計49曲のうち、いろんな意味で最高に面白いと思うのは11曲。トランペットにワーワー・ミュートを付けて実にいやらしくグロウルしたり、猥褻でコミカルなヴォーカルを聴かせたり。あるいはジャイヴ・ミュージックだとしか思えないものがあるし、一曲だけラテン・ナンバーもあるのだ。

 

 

そんな11曲を録音順に辿ると、まず1938年4月27日、ブルーバード録音の「アイ・レット・ア・ソング・ゴー・アウト・オヴ・マイ・ハート」が来る。言わずと知れたデューク・エリントン・ナンバーで、今ではスタンダード化しているが、エリントン楽団自身による同曲初録音は38年3月3日だから、ホット・リップス・ペイジが録音する前には、あるいはひょっとしてまだエリントンのレコードは出ていなかったかもしれない。

 

 

仮にそうだとすると、ホット・リップス・ペイジはどうやってエリントンの「アイ・レット・ア・ソング・ゴー・アウト・オヴ・マイ・ハート」を知ったのか?スタジオ録音前からエリントン楽団がライヴなどで演奏していたのだろうか?リップス・ペイジもそれを耳にして聴き憶えた?分らない。録音がたったの一ヶ月前で、1930年代だということを勘案すると、レコードは未発売だった可能性の方が高いんじゃないかなあ。

 

 

そのあたりの正確な事情は分らないが、ホット・リップス・ペイジ楽団ヴァージョンの「アイ・レット・ア・ソング・ゴー・アウト・オヴ・マイ・ハート」は、最初まず普通のスウィング・ジャズ・ナンバーとしてはじまって、中盤でボスのパワフルなトランペット・ソロが出てくる。問題は二分が過ぎた終盤だ。ボスがワーワー・ミュートを付けて実にいやらしくグロウルするのだ。

 

 

そのグロウル部分はかなり短いものだが、これが実にスケべに響く。ご紹介したいが YouTube にない。しかしこの後こんなスケベ・グロウルが聴ける曲がどんどん増えてくる。例えば1940年1月23日デッカ録音の「アイ・ウォント・ビー・ヒア・ロング」。

 

 

 

お聴きのヴォーカルもホット・リップス・ペイジ。曲調も歌詞内容も下品で最高だが、最大の注目点は歌い終わってからのトランペット・ソロだ。ワーワー・ミュートを付けてここまでドスケベなフィーリングでグロウルしまくるジャズ・トランペッターは他にいないんじゃないだろうか。少なくとも僕の聴いている範囲では、リップス・ペイジが一番スケベだ。

 

 

また1944年3月8日コモドア録音の「ユード・ビー・フランティク・トゥー」。なんだこの猥褻さ具合は?ヴォーカルも、ワーワー・ミュートでグロウルするトランペットも、もちろんホット・リップス・ペイジで、この曲はリップス・ペイジの録音中、僕の聴いている範囲では、最もエッチな情緒がある。

 

 

 

この曲ではテナー・サックス・ソロも特筆すべき出来だ。それを吹いているのがラッキー・トンプスン。この名前はマイルス・デイヴィスの1954年録音『ウォーキン』A面でみなさんご存知のはずだから有名人だが、もともとこういった湿ってエッチな情緒を表現するテナー・マンだったんだよね。

 

 

似たような情緒を持ったのが1944年6月14日サヴォイ録音の「ダンス・オヴ・ザ・タンバリン」。ホット・リップス・ペイジの猥雑なヴォーカルとグロウリング・トランペットにくわえ、これのテナー・サックス・ソロもいい感じのスケベな吹き方。ただしこれはラッキー・トンプスンではなくドン・バイアスだ。

 

 

 

ホット・リップス・ペイジのこんな猥褻路線の最高傑作が、1944年11月30日録音の「ジー・ベイビー、エイント・アイ・グッド・トゥー・ユー?」だね。ここではテナー・サックスがラッキー・トンプスンに戻る。これはドン・レッドマンの書いた曲で、レッドマンもまたどスケベ・ジャズ・マンなんだよね。

 

 

 

猥褻路線以外のホット・リップス・ペイジの話も少しだけしておこう。まずジャイヴィーな味。それは二曲しかないが、なかなか面白いものだ。録音順に1940年1月23日デッカ録音の「アイ・エイント・ガット・ノーバディ」と、44年9月29日コモドア録音の「フィッシュ・フォー・サパー」。

 

 

 

 

お聴きになってお分りのように、二曲とも少人数編成のヴォーカル・グループが参加していて、それがまるでジャイヴ・ヴォーカル・グループそのまんまじゃないか。「アイ・エイント・ガット・ノーバディ」はハーレム・ハイランダーズとのクレジットがあるが、「フィッシュ・フォー・サパー」の方は記載がないのが残念。

 

 

けれども聴いた感じ、「フィッシュ・フォー・サパー」の方はホット・リップス・ペイジ以下バンド・メンが歌っているんじゃないかと思う。ヴォーカルのクレジットはボスのところにしかないが、コーラスになっている部分での楽器伴奏はリズム・セクションだけだし、プロの熟練したコーラス・ワークにも聴こえないので、たぶん間違いない。

 

 

最後にホット・リップス・ペイジに一曲だけあるラテン・ナンバーの話をしておこう。1940年12月3日デッカ録音の「ハーレム・ルンバリン・ザ・ブルーズ」。どうですこれ?ラテンなリズムに乗って、しかもリップス・ペイジがワーワー・ミュートでいやらしくグロウルするなんて、最高じゃないだろうか?

 

 

 

「ルンバ」という言葉が曲名に入っているが、これはお聴きになってお分りの通り、キューバ現地でのルーツ的アフロ・ミュージックであるルンバのことではない。北米合衆国や欧州その他でルンバの名で広まったソンだ。もともと「son」と言うと「song」と混同しそうになって紛らわしいので、北米合衆国人が勝手に「rhumba」と言いはじめただけだ。おそらく1930年の「南京豆売り」の爆発的大ヒット以後のことだろう。

 

 

そのあたりから北米合衆国のジャズ・メンも、どんどんソン風のキューバン・ナンバーをやるようになり、それらの曲名に「ルンバ」の名を冠しレコード発売した。ご存知デューク・エリントン楽団にも複数あるよね。ところでどうでもいいが、ルンバという名称は社交ダンスにもあって、それもまた音楽のソンとはあまり関係がないようだ。つまり「ルンバ」は三種類に分化していて、めんどくさいことこの上ない。

 

 

社交ダンスの世界には僕は興味がないのだが、キューバ現地のアフロ音楽であるルンバと、ソンをベースにして主に北米合衆国のジャズ・メンがやるルンバの二つはかなり面白いよね。北米合衆国でのこの用語の使い方がいい加減でも、音楽的にはキューバン・ジャズとして面白く楽しく聴けるじゃないか。

 

 

それは上で音源を貼ったホット・リップス・ペイジの「ハーレム・ルンバリン・ザ・ブルーズ」一曲お聴きになれば分るはず。陽気で楽しいもんね。スネアのパターンでなかなか上手いラテン・リズムを叩き出している A・G・ガッドリーというドラマーを僕は知らないが、同じくラテン・リフを弾くピアノは、あのブギ・ウギ・ピアニストのピート・ジョンスンなんだよね。

 

 

ルンバの名を冠し1930年代から北米合衆国のジャズ録音にはたくさんあるこういったキューバ〜ラテン・ナンバーだけど、ホット・リップス・ペイジの「ハーレム・ルンバリン・ザ・ブルーズ」の他では聴けない最大の特徴は、やはりボスがトランペットにワーワー・ミュートを付けて、実にいやらしくスケべな感じでグロウルしていることだなあ。

 

 

曲名通り楽曲形式は12小節3コードのブルーズで、しかもハーレムと曲名にある通り、当時ホット・リップス・ペイジが拠点にしていた街の名を持ってきている。つまりリズムもエキゾティックなラテン調なら、グロウルするトランペットもエキゾティックで、まるでハーレムの夜のクラブでいやらしく踊るコットン・クラブで聴いているみたいだよね。

 

2017/01/28

これが現場の生のグナーワ?

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アメリカの黒人ブルーズでもなんでも現場の生の姿って部外者にはなかなか分らないんじゃないのかなあ。日本のもの以外、どんな音楽でも僕はそんな現場に踏み入った経験がないから実感はないけれど、モロッコのグナーワもそうなんだろう。ただアメリカ黒人ブルーズもモロッコのグナーワも、僕の場合いくら続けて聴いていても聴き飽きるということが全くない。なにか通底するものを感じているのかなあ?

 

 

ともかくモロッコの夜の儀式で演奏される生の素の姿のグナーワは現地体験したことがないので、録音されたものを聴いてぼんやりと想像しているだけなんだけど、そんななかでひょっとしたらこのアルバムがそんな儀式現場で行われる生のグナーワに近いのかもと思うのが『グナーワ・ホーム・ソングズ』。

 

 

『グナーワ・ホーム・ソングズ』は2006年のアコール・クロワゼ盤。例のイラン人オーナーがやっているフランスのレーベルだよね。今ではこのレーベルが出す音楽は全部買っているというに近い僕だけど、2006年というとまだほとんど意識していなかった。激しく注目するようになったのは2014年のドルサフ・ハムダーニ盤以後だ。

 

 

だから『グナーワ・ホーム・ソングズ』もアコール・クロワゼのフランス盤ではなく、オフィース・サンビーニャがリリースした日本盤で持っている。そのリリースは翌2007年。この頃には既にグナーワずぶずぶの僕で、一時期はグナーワとかモロッコとかいう文字が見えるだけで全部根こそぎ買っていたんじゃないかと思うほど。

 

 

日本盤といってもオフィス・サンビーニャのリリースだから、『グナーワ・ホーム・ソングズ』も例によって本国盤そのままに日本盤解説文を載せた紙が入っているだけ。このアルバムもフランス語原文に並びその英訳も元から付いているし、フランス語に堪能な蒲田耕二さんが(おそらく仏語から直接)日本語訳してくださったものが入っているので助かる。

 

 

ただ少しもどかしいのは『グナーワ・ホーム・ソングズ』全13曲、録音年がどこにも記載がないことだ。音がかなりいいから古いものではなく、かなり最近の録音だろうとは思うのだが、はっきりしない。これは書いておいてほしかった気がするが、しかし考えてみたら本質的なことじゃないのかも。

 

 

というのも『グナーワ・ホーム・ソングズ』収録の全13曲は、全て伝承的な民俗音楽としてのグナーワの姿を捉えたもので、モロッコで17世紀以後何百年も続く口承芸が姿かたちを変えずに続いているものをそのまま収録したものらしいからだ。そういうものは録音時期などに関係なく、だいたい同じ音楽であり続けているわけだ。

 

 

解説文を読むと、「グナーワ」という言葉は、元々マグレブ地方に連れてこられた黒人奴隷たちを指す言葉だったらしい。これは前々から僕も読む情報と合致する。サハラ以南のブラック・アフリカ地域からモロッコに強制移住させられた黒人たちが、現地ベルベル系のアミニズムやイスラムの精神と結びつき、モロッコで発展した音楽がグナーワだ。

 

 

『グナーワ・ホーム・ソングズ』で演唱している全13名は、全てモロッコのグナーワ・フェスティヴァルの常連さんであるグナーワ名人(マアレム)たちなんだそうだ。儀式現場でなくともそんな音楽フェスティヴァル(があるらしいが、マラケシュに)などでこんなのが聴けたら最高だよなあと思うような内容が続く。

 

 

『グナーワ・ホーム・ソングズ』ではほぼ全てがゲンブリ弾き語り。僕は大衆音楽としてポップ化したりミクスチャー状態になったものの方を圧倒的に多く聴いているもんだから、相当にシンプルというか渋くて地味に感じる。ポップで他愛のないものが好きとおっしゃる方や、演唱の華麗さ、賑やかさみたいなものを求める方々には絶対に推薦できない。

 

 

ただ例えば、この人の例の1993年のリアル・ワールド盤『トランス』でグナーワ(・ベースの音楽)が世間一般に広く認知されたんだろうハッサン・ハクムーンや、あるいは僕の場合このバンドでグナーワにどっぷりハマったフランスの ONB(オルケストル・ナシオナル・ドゥ・バルベス)、 グナーワ・ディフュジオンなどなど、ああいった人たちの音楽がどうやってできているのか、やっぱり知りたいよねえ。

 

 

少なくとも僕はルーツ探究派だから、やっぱり深く知りたいわけなんだよね。いろんな大衆音楽としてのグナーワ(やそれを土台に展開したもの)ですっかりこのモロッコのブラック・ルーツ・ミュージックの虜になってしまった僕は、2007年に買った『グナーワ・ホーム・ソングズ』はもってこいだった。

 

 

いざ『グナーワ・ホーム・ソングズ』を聴いてみたら、書いたようにほぼ全曲ゲンブリ一台での弾き語りで、他にはなんだか分らないチャカチャカというなにかを叩くか擦るようなパーカッシヴな音と、手拍子と、コール&リスポンス的に入るコーラス隊の歌声と、本当にそれしか聴こえない。

 

 

『グナーワ・ホーム・ソングズ』を聴くまで、僕はゲンブリが必須楽器との認識はあったけれど、同時に鉄製カスタネットのカルカベも欠かせない楽器に違いないと信じ込んでいた。だってほぼ全てのグナーワ・ベースの音楽で聴こえるもんなあ。ところが『グナーワ・ホーム・ソングズ』ではカルカベは一切なしだ。

 

 

パーカッシヴな音は、附属解説文によれば(楽器名や担当者名のクレジットは一切記載なし)、瓶やマッチ箱を叩いて出している音なんだそうだ。瓶の方は僕にはちょっと分らないんだけど、マッチ箱の方はそう言われればそうかもなと思えるものが鳴っている時間が結構ある。

 

 

マッチ箱を叩いている(んだと思う)音は、僕たち米英大衆音楽を聴き慣れた耳には、クローズド・ハイハットをスティックで叩く音によく似たサウンドに聴こえる。瓶は全く分らない。だがしかしここはカルカベなんじゃないだろうかというのが一曲だけある。

 

 

それは七曲目「バンゴーロ」。奏者は「全員」となっているが、この曲もまずゲンブリのブンブンと鳴る低音に続きリード・ヴォーカル、コーラス隊が入り、マッチ箱を叩いているんだろう音も聴こえはじめる。その状態でトランシーなグルーヴ感が続く。ところが 4:13 から明らかな金属打音が聴こえるのだ。

 

 

七曲目「バンゴーロ」は約五分間。だからその金属打音は終盤のたった一分間程度なのだが、その部分で聴こえるのはカルカベのように聴こえるなあ。違う?しかも普段よく聴くカルカベの音よりもピッチが低いように思うから、カルカベだとしても大型のものかなあ?

 

 

明らかに瓶やマッチ箱ではない金属音だけどねえ。他の曲で聴いてこれはマッチ箱を叩く音なんだろうというシャカシャカというサウンドとは完全に異質な似ても似つかないもので、絶対に金属打音だからカルカベ、それも大型のものだと僕は推測しているんだけど、仏英日文のどこにもそんな記載はない。

 

 

ヴォーカルで一番聴かせてくれるのは二曲目「アイシャ・ハムドゥシア」のハミッド・カスリだ。ゲンブリを弾きながら歌っているんだろうが、歌の節廻しにはアラブ・アンダルース色があって、そんな系統の旨味のある歌い方をしているように僕には聴こえるなあ。

 

 

グナーワはモロッコの黒人奴隷ルーツの音楽であるとはいえ、サハラ以南から連れてこられたのが17世紀以後のことだから、それ以前からモロッコも一部だったイスラム帝国文化の影響は当然あるはずだ。マグレブ地域がイスラム帝国の版図に組み入れられたのはウマイヤ朝時代で、ウマイヤ朝時代にはイベリア半島(アンダルース)も支配下に置いているわけだから。

 

 

二曲目「アイシャ・ハムドゥシア」は『グナーワ・ホーム・ソングズ』中、最も長い九分以上もある。ゲンブリとリード・ヴォーカルとコーラス隊のほかは手拍子だけ。それ以外は打楽器含め一切なんの音も聴こえない。だが後半の盛り上がり方は相当に激しく興奮できるものだ。特に手拍子が激しいリズムを奏でるようになると、ハミッドのリード・ヴォーカルも熱を帯びてくる。コーラス隊とのコール&リスポンスで昂揚する。

 

 

八曲目は「ゲンブリ独奏」(アンストルモンタル)となっていて、確かにゲンブリ一台だけの演奏を聴かせるものだけど、冒頭おそらく人声だろうようなものが入っている。アザーンみたいなものに聴こえるんだけど、これは意図的に挿入したのか、たまたま録音時に混じり込んだだけの日常なのか、どっちだろう?

 

 

八曲目でアブデルケビール・アムリルによるゲンブリ独奏を聴くと、三弦の楽器たった一台だけの演奏だけとはいえ、リズムはかなり複雑だ。二拍子と三拍子が入り混じった細かいフレーズを弾きこなしていて、そんなリズムが手拍子やカルカベなど、バックのパーカッション・サウンドに応用されたんだなと分る。

 

 

だから、『グナーワ・ホーム・ソングズ』でも、他の曲での手拍子やマッチ箱の奏でるリズムや、あるいは『グナーワ・ホーム・ソングズ』では(ほぼ)聴けないカルカベなどの、あの入り組んでしかもトランシーなリズム感覚は、やっぱり元々ゲンブリ一台での演奏(と歌)だけで表現されていたものが土台になっていいるんだろう。

 

 

つまりアメリカの黒人ブルーズなんかでも最初はギター一本の弾き語りではじまって、そこにいろんな楽器が加わるようになって徐々にバンド形式の音楽になっていった。アメリカ音楽の場合は、録音物で誰でもはっきりと辿って実感できるものだけど、モロッコのグナーワの場合、その発展過程を実際の音で実証的に辿るのはやや難しい。

 

 

『グナーワ・ホーム・ソングズ』に収録されているのものは、おそらく全て初期型そのままのルーツ的グナーワ、生の素の姿なんじゃないかと僕は想像している。そんでもってハッサン・ハクムーンとかグナーワ・ディフュジオンその他ポピュラー音楽化したものは僕も大好き。その「中間」がイマイチ分んないんだなあ。

 

 

それでも『グナーワ・ホーム・ソングズ』を聴いて、そのルーツ的な現場の生のグナーワを聴くと、ハッサンやグナーワ・ディフュジオンなどのやる音楽の一部は、相当な部分までその生の現場の姿を再現しているなと理解することは充分できる。ポップ化したグナーワ(的なもの)ならたくさんあるが、『グナーワ・ホーム・ソングズ』みたいな現場のプリミティヴなものって、他にどんなのがあるんだろう?

 

2017/01/27

トランペットのマチスモ・イメージとマイルスのフィーメイル・サウンド

Milesdavisbyjanpersson








ジャズ・トランペットのサウンドはかなりマチスモ的なイメージがあるように思う。だいたいあの楽器自体、男根的だ。雄々しく大きな音で吹き上げるのがジャズ・トランペッターで、そもそも誕生期のジャズ界におけるトランペッターは演奏技巧云々よりも、より大きく高い音を出せるかどうかを競っていたと、昨年九月に復刊された油井正一さんの『生きているジャズ史』にも書いてある。

 

 

どっちがよりバカデカい音を出せるかを競うっていうのは、要するに男子小学生のオシッコの飛ばし合いとか、あるいはペニスの大きさを自慢するとか、そんなことと同じような神経だ。そういうこともあるし、またそんなアホみたいな競争ではなく、立派な演奏技巧を聴かせるようになってからでも、この分野における最初かつ最大の影響源がルイ・アームストロングだからなあ。

 

 

サッチモは太くて大きくて雄々しい音の持主じゃないか。つまりマチスモ的なサウンド。サッチモの場合はサウンド的巨根であるばかりでなく、テクの方も超一流だったので、だから女にモテてモテて、という話ではなく立派なジャズ演奏家として、その後現在までも尊敬を集めコピーされまくるようになった。

 

 

もちろんサッチモは非常に繊細なプレイ・スタイルで、非常に微細な隅々にまで気配りの行き届いた演奏をする。でもバラードなどをそうやって吹く時ですら、音それ自体は太くて丸くてヴィブラートが効いているよね。サウンドはマチスモ的でありかつ細かな気配りをする技巧も最高、つまりその両面兼ね備えていたからこそ、あれだけの影響力を持った。

 

 

そんなサッチモ・スタイルがジャズ・トランペットの世界を支配した。違うスタイルでありかつ一流だったビックス・バイダーベックがいるじゃないかと言われるだろうが、あの人が唯一の例外であるのは、ビックス出現後も彼をコピーする人は白人でも少なく、黒人ジャズ・トランペッターならサッチモ・スタイルばかり。

 

 

白人ジャズ・トランペッターのあいだでだって、どっちかというとサッチモ・スタイルの方が優勢だもんね。最も知られているのはおそらくマグシー・スパニアだね。マグシーは1925〜27年頃のサッチモ・スタイルのイミテイターだもん。その他一人一人名前とスタイルをあげていたらキリがないんだ。

 

 

そんなマチスモ的イメージが支配するジャズ・トランペットの世界。それを柔らかくて女性的な感じでも吹けるようにしたのは、誰あろうマイルス・デイヴィスなんだよね。これはだいたいみなさん聴けば納得していただけるんじゃないだろうか。マイルスのあの弱々しいナヨナヨとしたトランペットの音を聴けば。

 

 

マイルスの生涯初ソロは、チャーリー・パーカーのコンボでサヴォイに録音した1945年11月26日の「ビリーズ・バウンス」なんだけど、この時から既にマイルスのトランペットの音に雄々しく猛々しいイメージは全くない。オープン・ホーンだけど、ヴィブラートなしのストレート・サウンドで、それもか弱い感じだ。なんなんだ、この弱々しい音は。

 

 

 

パーカーのところを卒業し自らのバンドで活動するようになって以後は、1970年代に電気トランペットを吹いていた五年間だけが例外的にマチスモ的なサウンドだけど、ファンク・ミュージックってのはそもそもそんな種類の音楽だろうし、リズムがどんどんハードになっていくにつれ、自分のこんな女性的なトランペットの音ではこんな音楽は表現できないと考えたのかもしれない。だがまあ、やはりたった五年間だけだからなあ。

 

 

マイルスの音楽キャリアの長さを考えたら、たったの五年間だけ違ったというのはやはり例外だろう。例外だから無視したり排除してよしという意味ではない。音楽だってなんだって例外こそが面白く、その人物の本質がある意味露見しているという場合が非常にしばしばある。それに前から繰返しているように、僕はその例外的五年間のマイルス・ミュージックをこそ最も愛する人間だ。

 

 

ただまあやはり全体的に見ればマイルスのトランペット・サウンドに男根的・マチスモ的なイメージはなく、女性的(なのを「か弱さ」と言うと女性陣から一斉にツッコミが入りそうだが)で線の細い音だよなあ。特に1955年以後は頻繁にハーマン・ミュートを付けて吹くようになり、そうする時の音は誰がどこから聴いてもフィーメイル・サウンドだ。

 

 

ハーマン・ミュートを付けるとトランペットの音はだいたい誰でもそうなるという部分はある。このミュート器とマイルスがイメージ的にはピッタリ張り付いているので、他のトランペッターでもハーマン・ミュートで吹くとマイルスに聴こえてしまうという非常に困った現象も発生している。そもそもジャズ界であまり使われることのなかったこのミュート器を頻用しはじめた最初の人物がマイルスだからね。

 

 

マイルス以前のジャズ界でミュート器といえば、ほとんどの場合カップ・ミュートかワーワー・ミュート。ミュートというくらいだから消音器であって、音が小さくなって、だから普通に吹くと大きな音になってしまうトランペットを練習する際、大きな音を出せない環境で使われるものだった。

 

 

音量が小さくなるばかりでなく音色も違ってきて、それがオープン・ホーンでは出せないなかなかチャーミングな音色に聴こえるので、ジャズ・トランペッターは消音目的ではなく、独特の音色を求めて各種のミュート器を用いるようになった。あくまでオープン・ホーンで吹くのが本来のありようである楽器だけど、そこに別種の表現方法が加わった。

 

 

マイルスがハーマン・ミュートを(どうしてだか)頻用するようになる以前に使われていたカップ・ミュートとワーワー・ミュート。カップ・ミュートは確かに音が小さくなるし、音色も男性的イメージからやや遠ざかるけれど、ワーワー・ミュートはむしろ逆だ。あのグロウル・サウンドはかえってマチスモ的セクシーさを表現する。

 

 

さらにマイルス以前にたった一人存在したビックス・バイダーベック(は正確にはトランペットではなくコルネットだけど、まあ同じだ)のサウンドは、確かにマイルスを先取りしたようなノン・ヴィブラート奏法でストレート・サウンドだけど、音量は大きいしアタック音も強く、そんなに女性的なサウンドのイメージは僕にはない。その後ビックスをコピーしたボビー・ハケットら白人コルネット奏者たちも、かなりハッキリ・クッキリと歯切れのいい音だ。

 

 

ってことはやはりこのトランペットという楽器を男性的に強い音でではなく、女性的に柔らかいサウンドにしたのはマイルスが史上初だったよなあ。そもそもオープン・ホーンで吹く時でも小さな音量しか出せない人物で、だから最初から女性的イメージのあるトランペッターなのに、それにハーマン・ミュートを付けるもんだから、もうか弱いことこの上ないサウンドで、言ってみれば短小包茎サウンド(笑)。

 

 

どうもマイルスという人物は最初からあんな音しか出せなかったようだ。それは最初、かなりのコンプレックスだったはず。だってデビュー前からの最大のアイドルがディジー・ガレスピーだったわけだからさ。あんなパッパラパッパラ太い音で高音ヒットの連続みたいな男根技巧派を間近で聴いていたら、それに比べて自分はなんてダメなんだと落込んでいただろう。

 

 

それをお前はそのサウンドでいいんだぞと励ましたのがチャーリー・パーカーで、マイルスも徐々に自信みたいなものを持つようになり、というか自分はこういうやり方で行こう、これが自分が音楽家として成功する唯一の道だと見定めたのが、アンチ・ビ・バップ的でアレンジ重視の均整の取れたグループ一体表現だったのだ。

 

 

マイルスが1955年にファースト・クインテットを結成して以後91年に亡くなるまで、彼のバンドには常に極上にスウィングしたりファンキーにドライヴしたりするリズム・セクションがあって、そうでなかったことはただの一度もなく、さらにフロントでマイルスと並んでソロを吹くサックス奏者には、雄々しい音色で能弁に吹きまくるタイプを起用することが多かったのは、自らの女性的なトランペット・サウンドの特色をフルに活かそうとしてのこと。

 

 

そうじゃないと伴奏がまるでデイヴ・ブルーベック・カルテット(の悪口を言いたいわけではない)みたいに、マイルス同様に女性的というか、激しいスウィング感が足りないようなものだったりすると、上物があれなもんだから、どうにも魅力的な音楽にはならないだろう。マイルス自身、これを非常に強く自覚していたのは間違いない。自覚して実行した結果、ああいった音楽ができあがったのだ。

 

 

それにマイルスは、これはあまり音楽と関係ないかもしれないが、身長が低い。168センチ程度しかなかった。これは僕の身長よりも低いんだよね。1981年以後何度も体験したライヴ・ステージではかなりデカく見えたけれど、ステージ上における芸能者とは、誰でもだいたいそう見えるもんだし、マイルスの場合はカリスマティックなオーラが、観ている素人観客にビンビン伝わってくるものすごいものだったので、そのせいもあって一層デカく見えた。

 

 

はっきり言って身長もチビだったマイルス。そして奏でるトランペットの音も短小包茎的。この二つはどうも関係があったかもしれないなあ。つまりコンプレックスのかたまりで、だからこそそれをバネにして、というか逆手にとってどんな音楽を創ればチャーミングに聴こえ売れるのかを考えたっていう。これはマイルス以上のチビだったプリンス(なんでも160センチもなかったとか)にも共通して言えることだ。プリンスのヴォーカルもかなり中性的なものだけど、サウンドやリズムはファンキーで激しい場合が多い。

 

 

マイルスの場合、弱々しくナヨナヨした女性的(女性のみなさん、ゴメンナサイ)なサウンドだとはいっても、それはまあしかしトランペットなりではある。やはり元々男性的な音を出すようにつくられた楽器だからね。音色を含めた楽器のサウンドとは、自分の創意工夫でなんとか独自色が出せる部分と、奏者自身ではどうにも変えられない楽器構造上の固有のものがあるだろう。

 

 

だからマイルスがどれほど女性的なトランペット・サウンドの持主で、マチスモ的なイメージがつきまとうこの楽器の男根イメージを塗り替え一変させた人物であったとはいえ、やはり雄々しく聴こえる部分は少しある。それはこの楽器奏者としてはどうにもならない避けられない宿命なんだよね。

 

 

さらにマイルスがあんなサウンドで一世を風靡したのちも、彼をフォローし真似て似たようなトランペット・サウンドを追求した人がいるのかというと、それもほぼ皆無だ。マイルスの名声確立後も、やはりサッチモ的なスタイルを取るトランペッターがほとんど。やっぱりこの楽器はそういうもんなんだろうな。

2017/01/26

あぁ、ベシー、大好きだ

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僕の愛機 MacBook Pro は無事修理が完了して手許に戻ってきて、データも全て戻し終え、完璧に環境は復旧いたしました。と言いたいが、実はインポートしたはずの CD 音源が iTunes で見ると少し失われていて、それらをもう一回入れ直さないといけないのは面倒くさい。一度に全部は無理なので、少しずつやるしかない。

 

 

2007年型 MacBook を使っていた数日間、その OS X 10.6.8にも iTunes はあって、しかし一度全部クリアにしたので、入っていた音源はゼロ。どうしても聴きたいと思って入れたのがベシー・スミスの完全集八枚と、ルイ・アームストロングの1925〜33年オーケー(その他)録音10枚組。本当にそれら二つしか入れなかった。つまりそれらを僕は本当に大事に思っていて、いついかなる時でも聴きたいわけなんだよね。

 

 

CD で聴けば問題ないじゃないかという感じではあるんだけど、八枚とか十枚とかあるのをとっかえひっかえするのが面倒くさいのだ。iTunes で一つのプレイリストにすれば、部屋のなかでずっと流しっぱなしにできちゃうもんね。そういうメリットも(その他いろいろと)ある。CD で複数枚のそういうものがいっぱいあったけれど、今回はとりあえずベシーとサッチモだけ入れて流していた。特に深夜にピッタリ。

 

 

というわけで、昨日までの記事もそうですが、今日も以下は2007年型 MacBook を使っていた時期に書いた内容(に少しだけ今日手を加えた)です。明日以後は MacBook Pro のトラックパッド故障前の平常運転に戻れます。のはずです。

 

 

ベシーとサッチモは僕のなかでは深く深く結びついている。ベシーはジャズ歌手、サッチモはブルーズ・マンとかさ、まあそんな風に思っているんだよね。いや、そんな区別も無意味だ。不可分一体になっている。もちろんサッチモがベシーの伴奏をやったものが結構あるのも大きな理由だけど、それは本質的なことじゃない。

 

 

ベシー、サッチモ関係なく、あの1920年代当時のブルーズとジャズのありようがそうだったというだけの話だよね。ただ今はベシーの八枚組全集しかブルーズ歌手の音源が iTunes に入っていないので、それだけ聴いて感じることを少し書いておこう。しかもやっぱりサッチモとの共演全九曲+ワン(がなにかはあとで書く)について。

 

 

っていうのはさ、ベシーの全集は、一つのプレイリストにしてある iTunes で見ると154曲もあって、計八時間を超える。それを全部集中して聴き直すなんてことは、僕には不可能だ。夜中に部屋の照明を少し落として、ただ単に流しているだけであれば、何時間でもそれが気持良いベシーだけど、なにか書くとなれば絞らざるをえない。

 

 

それでやはりベシーの絶頂期だったように僕が考えている、ベシー全集の二巻目の二枚(にサッチモとの共演+1は全てある)にあたる1924年8月〜1925年11月録音のものだけを真剣に集中して聴き直してみたけれど、やっぱり素晴らしすぎてため息しか出ない。

 

 

あ、ベシー全集全八枚は、今は一つにまとまっているのかな?僕が持っている最初に CD でリイシューされたものは、二枚組×4というかたちでリリースされていた。つまり四つバラ売り。どうして八枚組セットのボックスにしなかったんだろう?1991年から二年間ほどで順次全部発売された。

 

 

ベシーとサッチモとの初共演は1925年1月14日録音の五曲。この日最初にレコーディングされたのが「ザ・セント・ルイス・ブルーズ」。W・C ・ハンディが版権登録したブルーズ・ソングでは、やはりサッチモとの共演で25年5月26日に「ケアレス・ラヴ」も録音している。もう一つ、非常に重要な曲の録音があるが、それにはサッチモ不参加。それの話はあとで。

 

 

ベシーとサッチモとの共演全九曲では、しかしベシーの絶品ヴォーカルだけに集中できないのが、なんとも痛し痒し。というのはお聴きの方であればお分かりの通り、サッチモの存在感が抜群すぎるだからだ。伴奏者、つまりあくまで脇役であるはずのこのコルネット奏者が、主役の女性歌手を食ってしまう。

 

 

だからベシーはサッチモの伴奏をあまり好まなかったらしい。そりゃそうだろうなあ、共演全九曲を聴けば、僕みたいな素人にだってその気持はよく理解できる。背後であんな雄弁にパッパラパッパラやられたら、フロントで歌う人間はそりゃたまらん。あくまで自分の歌をレコード吹込みして発売したいのにねえ。

 

 

なかにはサッチモのコルネット・サウンドが、まるで1970年代マイルスの電気トランペットそっくりに聴こえたりする曲もある。例えば「レックレス・ブルーズ」「コールド・イン・ハンド・ブルーズ」「ユーヴ・ビーン・ア・グッド・オール・ワゴン」が典型的にそうだ。お前は電化マイルスの聴きすぎのせいで耳が腐ってるんだよとおっしゃる向きは、だまされたつもりで是非一度 YouTube で検索して聴いてみてほしい。

 

 

それらでのサッチモはおそらくワーワー・ミュートを使っているので、あんなサウンドになっているんだろうね。でもサッチモのワーワー・ミュート・プレイって他では全く聴けないんだけど、どうなんだろうかなあ。あるいはワーワー・ミュートではなく、1925年当時の録音技術のせいかとも一瞬思ったが、それは違うな。だって同じ日の録音である他の曲では普通のコルネット・サウンドに聴こえるからだ。

 

 

あまりサッチモ関連に深入りすると、ベシーの歌からどんどん離れていって、しかもいくらでも長文が、それも複数書けてしまうので、このあたりまでにしておこう。ベシーとサッチモとの共演九曲で、ベシーのヴォーカルはどれも輝いているが、なかでもいいのがやはり W・C ・ハンディが版権登録したブルーズ・ソング二曲。

 

 

すなわち上でも書いた「ザ・セント・ルイス・ブルーズ」と「ケアレス・ラヴ」の二つだ。声の張り方が実に堂々としていて、朗々たるビッグ・ヴォイスで聴き惚れる。しかもそうでありながら実に細やかなフレイジングの隅々にまで気配りが行き届いている。

 

 

ベシーの発声と歌い方はかなり古風というか、いかにもヴォードヴィル・ブルーズ・シンガーだというようなもので、同じような時代と種類の女性歌手でも、アルバータ・ハンターにあるようなポップなスウィートさはベシーには微塵もない。ちょっと近寄りがたい雰囲気すらあって、ずっと時代が下ってのアトランティック移籍後のアリーサ・フランクリンの持つオーラと同種のものを僕は感じる。

 

 

そんなベシーのヴォーカルの、凄みと迫力と繊細さが共存している最高傑作が、これにはどうしてだかサッチモが参加していない「ザ・イエロー・ドッグ・ブルーズ」だ。1925年5月6日録音で、伴奏は当時のフレッチャー・ヘンダスン楽団からのピック・アップ・メンバー六人。

 

 

是非に!是非に!YouTube で(あるのは分っている)「The Yellow Dog Blues Bessie Smith」で検索して聴いてほしい。この一曲こそベシーの頂点だ。「ザ・イエロー・ドッグ・ブルーズ」に関しては、油井正一さんが詳しく解説している。それは昨年九月に復刊文庫化された『生きているジャズ史』のなかの一章なので、せっかく復刊されたんだし、それを引用しながら話を進めたい。

 

 

文庫版『生きているジャズ史』では98ページから125ページにわたる「ジャズ・ヴォーカルの変遷と鑑賞」。このなかで油井さんはベシーなどの歌手を聴く際の重要ポイントを三つあげている。ちょっと引用する。

 

 

「ひるがえって、このりっぱなベッシー・スミスのヴォーカルが、なぜ日本のジャズ・ファンに理解しにくいかという点を考えてみましょう。(1)歌詞の意味がわからないこと。(2)電気吹き込み以前のものが多いため、録音がひどいこと。(3)これは、たいへん重要なことですが、ジャズ・ヴォーカルは、ルイ・アームストロングの出現を転機として、正統的な歌唱法のみに準拠することなく、ヴォイスを楽器のひとつとしても取り扱い得るという独自の分野を開拓したこと。」(p.100)

 

 

さて、僕はこの油井さんの視点には、今では異議を唱えたい気持がある。油井さんは上記引用部分だけでなくこの一章では頻繁に、ベシーを聴く際には歌詞の意味の理解が非常に重要で、歌詞内容をどう表現するかという点が、意味をどう伝えるかという点こそが、ベシーのあの発声と歌唱法と不可分一体化しているのだと繰返し強調している。

 

 

それがサッチモの大活躍によって、スキャット唱法に代表されるように、意味などではなく音のシラブルを楽器的に歌うやり方が一般化し、その後のジャズ歌手(しか油井さんは書いていないが、間違いなく他の分野の歌手も)はそういう歌い方になったので、ベシーみたいな歌い方の歌手は理解されにくいのだと。

 

 

以前から繰返しているように、僕は歌詞の意味内容の伝達などは重視しない人間で、場合によっては全く無視して聴いている。どういう場合かというと、ありきたりの単純明快なラヴ・ソングの場合だ。男(or 女)に惚れた、好きだ、愛している、また逆に逃げられた、捨てられた、悲しい、苦しい、孤独だ、などなど。

 

 

それですね、非常に重要なことを言いますが、ベシーの歌うものの歌詞内容は、100%完全に、そんなようなありきたりのどうでもいいような失恋歌なんですよ。僕はそんなもの、ま〜ったく重視しないというか完全無視してベシーを聴いている。大学生の頃から同様で、それでベシーが大好きでたまらなくなり、CD で完全集が出ると、喜び勇んで買ったのだ。

 

 

『生きているジャズ史』のなかでの油井さんは、「ザ・イエロー・ドッグ・ブルーズ」については、英語原詞と、大橋巨泉による日本語訳までつけて掲載しているほどで、それをベシーがどう表現しているのかを詳細に分析している。しかしこの W・C ・ハンディが版権登録したブルーズ・ソングは、ただ単に私の彼氏(イージー・ライダー)に逃げられた、あの男はどこへ行ったの?朝夕泣きはらしているのよ、というだけのものでしかない。

 

 

イエロー・ドッグとはヤズー・デルタ鉄道のことで、つまり鉄道頻出の定型ブルーズ・リリックでしかないし、こんなものなぁ。油井さんは「二グロの悲しみを」云々(でんでんとは読まない、1/25注)と書いているものの、僕にとっては別に人種関係なく、全人類共通の普遍的な、言い換えればそこいらへんにいくらでも転がっていそうなものだと思える。

 

 

だから油井さんの言うベシーが理解されにくく、熱心に聴いているファンがほとんどいない(と当時から書いているし、2017年現在でもその状況は変化なし)のは、歌詞の表現方法などでなないはずだ。少なくとも僕は歌詞の中身を全く意識せずにベシーに惚れた。

 

 

ってことは僕がベシーのヴォーカルが大好きでたまらない理由や、逆に多くのブルーズ・ファン、ジャズ・ファンがベシー(などああいう種類の女性歌手たち)が苦手だと言って敬遠している理由は、歌詞の表現方法などではないんじゃないかなあ。ないかなあというか、間違いないように思う。

 

 

じゃあなんなんだろうなあ?とここまで書いてきて行き詰まってしまった。どうして僕はベシーのヴォーカルがこんなに大好きなんだろう?どうしてみなさんベシーが苦手なんだろう?どこに原因があるんだろう?どこをどう言えば僕のベシー愛を説明できて、その結果ここがこうだからベシーの歌のこのあたりを聴いてくれ、ここがいいんだから苦手だという方もと説明することが、結局今日はできなかった。

 

 

やっぱり油井さんの言う通りなのか?そうじゃないだろうという強い実感が僕のなかにはあるんだけど。すみません、出直します。「ザ・イエロー・ドッグ・ブルーズ」のなかの「All day the phone rings. But it’s not for me」の部分を、phone と rings のあいだで息継ぎして一拍空白を入れるのが、宇多田ヒカルのデビュー曲「automatic」における「七回目のベルで受話器を取った君」の出だしで、な、なかいめのと空白を入れるのと同じだとか、また別の機会に話します。

 

2017/01/25

Nothing Compares 2 U, Prince!

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あぁ、プリンス(の話ばかり書いて申し訳ないが、いまごろになってプリンス・ロスの大波が…)の『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』って、どうしてこんなに楽しいんだろうか?すんげえキモチエエ〜〜!この2002年リリースの三枚組は、プリンスの生涯唯一の公式ライヴ・アルバムだ。

 

 

もう一つ、プリンスの公式ライヴ盤は2007年の『インディゴ・ナイツ』があるんだが、あれは正確には書籍であって、あくまでそれの附属品として CD もオマケみたいに入っているだけだ。僕はその CD だけほしい気持だったけれど、それがどうしても不可能なもんだから、泣く泣くあの大部の本を買った。

 

 

届いた本の梱包を開封すると、真っ先に附属品の CD を探し見つけて、それだけ外して CD ケースに入れて、CD ラックのプリンスの場所に並べてある。書籍本体の方は一度もめくらず部屋の片隅で眠っているまま。ということを、松山市在住の熱狂的プリンス・マニアの女性(の話もよく出すが)に言うと、「めくれ、めくれ、きっと素敵だぞ」と返事があったが、僕はあくまでプリンスの音楽だけを激しく愛しているのであって、別に彼のお尻とかには興味ないわけだからさ。いや、お尻の写真が載っているのかどうか、めくってないから知らないが。

 

 

まあそんなわけで音楽作品単独でリリースされているものとしては、プリンス唯一の公式ライヴ盤『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』。これがもう最高なんだよね。数多い(というほどでもないが、実は)彼の全作品中、僕が最も頻繁に普段から聴くプリンスがこれだ。

 

 

そのうち三枚目の『アフターショウ:イット・エイント・オーヴァー』については、以前一度詳しく書いたので、今日は省略。そちらをお読みいただきたい。書いてあるけれど、この三枚目こそが長いあいだ僕の最愛プリンス・ファンクだった。

 

 

 

プリンスの本質はファンカーだと思っている僕なのでそういう嗜好になってしまうんだけれど、プリンスが亡くなってしばらく、そうだなあ数ヶ月間かなあ、音楽は彼の CD しか聴いていないんじゃないかとすら思える時期が続いて、そのあいだに『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』もメイン・アクト二枚の方が楽しいかもしれないと感じるようになった。

 

 

それで繰り返しメイン・アクト二枚を聴いていると快感が持続して、その快感は三枚目の『アフターショウ:イット・エイント・オーヴァー』で得られるような種類のものとは違って、もっとポップで明快で分りやすいものなんだよね。どうしてそれに長いあいだ気が付かなかったのか、僕の不明を恥じるばかりだ。

 

 

『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』メイン・アクト二枚は、しかしかなり宗教的な色彩も濃い。音楽化している宗教なら何教であろうと大好きな僕なんだけど、というかだいたいどんな場合でも宗教と音楽は切り離せないものだけど、『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』の場合は、あの時期のプリンスのエホバの証人への傾倒がそのまま出ている。

 

 

つまり先立つ『ワン・ナイト・アローン...』のライヴ版じゃなくて、『ザ・レインボウ・チルドレン』のライヴ版みたいな感じだ。メイン・アクト二枚の各所で、あまり強く音楽と結びついていないような感じで、宗教的メッセージをよく喋っている。一番ひどいのがラストの「アナ・ステシア」だ。

 

 

あの「アナ・ステシア」のオリジナルである『ラヴセクシー』ヴァージョンには、もちろんそんなのはない。ところが『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』ヴァージョンでは、本演奏が終わった後半部でパッとリズムの感じがチェンジしたかと思うと、プリンスが「お前たちは神を信じているか」「神に畏敬の念を抱いているか」などなど、延々数分間喋り続け、そのままメイン・アクトの幕引きとなってしまう。

 

 

その喋りは、キリスト教会内の牧師の説教にあるような、現在のラップとかライムの元祖みたいに韻を踏みながらリズミカルでメロディアスにやるとか、そんなもんじゃなくて、プリンスがただ普通に抹香臭いようなお話をしているようなものでしかないもんなあ。あれはなくてもよかったような気がしてしまう。

 

 

そんな部分が「アナ・ステシア」だけじゃなく、『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』メイン・アクト二枚のいろんなところに顔を出すのだが、しかしそれを無視して音楽作品として聴けば、こんなに楽しいプリンスもなかなかないんだなあ。僕が大のライヴ・アルバム好き人間であるせいもある。普段は一人多重録音の密室作業で音を創り上げる場合が多いプリンスの楽曲を、生の人力バンドがやっているその生のグルーヴ感も強く感じられる。

 

 

『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』メイン・アクト二枚。僕は断然二枚目の方が好きで、おそらく誰が聴いても二枚目の方が興奮できる、盛り上がるものに違いない。二枚目一曲目の「ファミリー・ネーム」が終わって、続く「テイク・ミー・ウィズ・U」〜「ラズベリー・ベレー」〜「エヴァーラスティング・ラヴ」の三曲メドレーになだれ込んでからは、僕はもう興奮のるつぼで、男のアソコがいけないことになってしまう。

 

 

「テイク・ミー・ウィズ・U」と「ラズベリー・ベレー」は古い曲で、まあヒット・パレードみたいなもんだけど、ほぼどんな音楽家だってライヴならやるのが当たり前だし、昔、ハードでシビアなジャズ・ファンだった頃は、そんなもんケッ!とか思っていた僕も、今はそんな気分は完全に抜けた。

 

 

だって聴いていて楽しいことこの上ないもんね、こんなお馴染のメロディをライヴで生バンドで再演するのはね。ただまあプリンスも若い頃に初演した曲なので、2002年のこのライヴでは旋律の高音部が若干苦しそう。ハイ・ノート・ヒットができずに、消え入るようにその部分だけ歌わず、女性サイド・シンガー(誰?)に任せていたりする。

 

 

ただ歌い廻しの非常に細かい部分のテクニック、精細な表現力はかなり向上しているのが聴き取れる。「テイク・ミー・ウィズ・U」でもそうだけど、特に「ラズベリー・ベレー」の歌い出し、「My boss was Mr. McGee」と歌う部分の微妙な節回しなんか絶品だよな。オリジナルである1985年の『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』ヴァージョンから既に同じではあるけれど、『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』ヴァージョンの方がもっと細やか。高音部は出ないけれど。

 

 

しかも歌いながらプリンスが自分で弾いているエレキ・ギターのカッティングも実に巧い。気持いいもんねえ。エレキ・ギターといえば、これは以前もプリンスのラテン関連で書いたけれど、「テイク・ミー・ウィズ・U」「ラズベリー・ベレー」に続くメドレー三曲目の「エヴァーラスティング・ラヴ」。これがラテン・ファンク・ナンバーに仕上がっていて、最高だ。

 

 

その「エヴァーラスティング・ラヴ」の中間部では、プリンスのギター、レナート・ネトのピアノ、グレッグ・ボイヤーのトロンボーン、キャンディ・ダルファーのアルト・サックスの順で、ラテンなアド・リブ・ソロ廻しをやるパートがあり、しかもそのソロ廻しの最後で全員一丸となって演奏するキメのリフがある。カッコイイなんてもんじゃないぞ。

 

 

あのラテンなソロ廻しに続きキメのリフが演奏されるさなかに、僕はもう完全に昇天なんだよね。僕にとっては、これら「テイク・ミー・ウィズ・U」〜「ラズベリー・ベレー」〜「エヴァーラスティング・ラヴ」三曲メドレーと、三曲目のラテン・ソロ、最後のキメのリフ、そここそが『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』のエクスタシーなんだよね。

 

 

聴いていると、どうやら「エヴァーラスティング・ラヴ」はメイン・アクトのラスト・ナンバーという位置付けなんだろう。そこからあとはアンコールみたいな感じかなあ。といってもそっちの方が長いんだけどね。まずプリンス一人のピアノ弾き語りで七曲やって、そこは僕にはイマイチだけど、続く八曲目がお馴染の名曲「ナッシング・コンペアーズ・2・U」になる。そこからはバック・バンド入り。

 

 

その「ナッシング・コンペアーズ・2・U」でのキャンディー・ダルファーのアルト・サックス・ソロが泣けちゃうんだなあ。あのオランダ出身のキャンディ・ダルファーってセクシー美女だし、サックスも上手いし、文句なしじゃん。ちょっと一回チュ〜したい(←アホ)。

 

 

チュ〜は不可能だが、あの「ナッシング・コンペアーズ・2・U」でのアルト・サックス・ソロが素晴らしくて聴き惚れちゃうよ。シネイド・オコナーのオリジナル・ヴァージョンや、プリンス自身によるものであれば三枚組ベスト盤『ザ・ヒッツ/B・サイズ』の一枚目に収録されている、やはりライヴ・ヴァージョン(1990年代初頭?)よりも、はるかに感動的で涙腺崩壊。

 

 

「ナッシング・コンペアーズ・2・U」は、失った恋人を想う歌で「君以上の存在なんてどこにもないよ」(それくらい君のことが大事で忘れられないよ)というものだけど、そう歌っているプリンス本人を失ってしまった僕たちにとっては、この歌詞はまさに今の僕たちの気持を、失った当人に代弁してもらっているかのようで、こう書いているあいだにも涙が出てきちゃった。

2017/01/24

もしも雪が黄色ければ…

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聴いていて楽しいことこの上ないのは間違いないけれど、ブルーノ・ブルムは2016年にもなってこんなアンソロジーを編むってのは、いったいなにがやりたかったのだろう?ほぼ100%知っているものばかり並んでいるっていう僕の方が異常なのか?あるいは、やっぱりジャズのなかのジャイヴやジャンプがまだまだ認知度が低いように見えるので、いまごろになっても熱心に書いている僕の心境と同じってことなんだろうか?

 

 

ラテン趣味のアメリカ音楽ファンにとっては、特にどうってことなかった『キューバ・イン・アメリカ 1939-1962』三枚組と『ジャマイカ・ジャズ 1931-1962』三枚組。特にラテン音楽好きじゃなくたって、北米合衆国のジャズだけ、あるいはリズム&ブルーズだけ、あるいはロックだけしか聴かないファンだって、それらのなかにキューバンやカリビアンやラテンが強くあるという事実には気が付いているはずだ。

 

 

だからブルーノ・ブルムの意図が、僕には分らないんだけど、でもまだブックレットとかは読んでなくて音しか聴いていないので、ひょっとしたら僕が全く気付いていない深遠なる意図があるのかもしれないなあ。なにかそんな新鮮な驚きがブックレットの英文解説に載っている可能性は否定しない。まあしかし音楽だからなあ。肝心の並べた音源そのもので興味を持たせられなかったら、いくら刺激的で立派な「言葉」を並べてみてもなあ…。

 

 

あっ、そういえば今思い出したけれど、『レコード・コレクターズ』誌で、『キューバ・イン・アメリカ 1939-1962』はどなただったか本当に忘れてしまった方が、『ジャマイカ・ジャズ 1931-1962』の方は萩原和也さんがレヴューを書いていらした。萩原さんの方はともかく、前者のお名前を忘れてしまったレヴュワーの方は、新鮮な驚きだったようなことをお書きだったように記憶しているが、僕はそれを読んでエエ〜ッ!?ってなったんだよね。

 

 

確かジャズ専門のライターの方だったように思うんだけど、ジャズの専門家って、今でもジャズしか聴いていないの?そんな人、もう絶滅したんじゃないかとだいぶ前から僕は思っているんだけど、まだもしそうだったら、あの『キューバ・イン・アメリカ 1939-1962』は確かに新鮮味満載だとなるね。

 

 

う〜ん、でも『キューバ・イン・アメリカ 1939-1962』の一枚目一曲目はデューク・エリントン楽団だよ。チャーリー・パーカーなんかも複数曲入っているんだよ。前者の「コンガ・ブラヴァ」とか、後者のオリジナルであるアルバム『フィエスタ』とか、僕は大学生の頃から大ファンなんだけどね。

 

 

僕だけじゃない、日本人のなかにそういう人は多いはず。それもジャズ・ファンというより一般の音楽好き、歌謡曲、流行歌好きのあいだにね。なんたって第二次大戦後しばらくのあいだは、日本でもキューバ〜ラテン音楽は大変な人気があって、日本の歌謡曲にもそんなキューバ〜ラテン風味なものがたくさんあったじゃないか。

 

 

僕はそういうのを意識しながらは聴いておらず、ただなんとなく面白いなと感じて(いたのは間違いない、なんたって僕のハジレコは山本リンダの「どうにもとまらない」で、真似して小学校の教室で歌い踊ってたもんね)いただけで、強く意識するようになったのは、熱心にジャズのレコードを買い集めるようになって数年後。

 

 

でも子供の時分からテレビの歌番組などでバンバン流れていたかから、僕のなかにも沁み込んでいたんじゃないかなあ、歌謡曲にあるキューバ〜ラテンな感覚が。熱心なジャズ・ファンになって、あっ、これはなんだか懐かしいぞというようなフィーリングだったのも、ある意味納得だ。

 

 

いやまあホント、随所で絶賛のブルーノ・ブルム編纂盤だから、僕が気が付かないなにかがあるか、あるいはジャズを中心に聴くリスナーはいまだにラテン・テイストを、なにかこう異物、違和感、妙チクリンな珍しいものだと思っているかのどちらかだ。ブルーノ・ブルムもおそらく僕みたいな人間じゃなく、ジャズのなかにあるラテン要素を排除しようとする、そんな不可能事に果敢に挑んでいるリスナー向けに編んだんだろう。

 

 

ちょっと待って、『ジャマイカ・ジャズ 1931-1962』はジャズとタイトルにあるけれど、『キューバ・イン・アメリカ 1939-1962』は違うじゃないかと聴いていない方は思うかもしれないが、後者の収録曲も90%はジャズだ。残りはほぼ全てリズム&ブルーズ。ロックと言えるのは、二枚目17曲目のボ・ディドリー「ディアレスト・ダーリン」、三枚目14曲目のやはりディドリー「スパニッシュ・ギター」、そして同15曲目のチャック・ベリー「ハヴァナ・ムーン」、この三つだけじゃないかな、おそらく。

 

 

それら二人のうち、ボ・ディドリーなんか3・2クラーベを取り込んで、それがボ・ディドリー・ビートと呼ばれるようになっているくらいの音楽家なもんで、彼に続く米英ロッカーたちもそれをそのまま真似しているんだし、チャック・ベリーの「ハヴァナ・ムーン」は、確かに彼にしては少ないものだけど、元々ルイ・ジョーダンの強烈な影響下でやりはじめた人だ。そのルイ・ジョーダンも『キューバ・イン・アメリカ 1939-1962』に複数曲収録されている。

 

 

そういえば「ハヴァナ・ムーン」で思い出したけれど、昨年暮れだっけ?ローリング・ストーンズ初のキューバ公演盤 DVD がリリースされて、そのライヴ・アルバムのタイトルが『ハヴァナ・ムーン』だった。こりゃ絶対チャック・ベリーのそれをやっているんだぞ、なんたってストーンズ最大のお手本の一人なんだからと思ったら、やっていないんだよね。

 

 

僕はストーンズの『ハヴァナ・ムーン』DVD(に CD も附属しているようだ) は買っていない。各種情報でチャック・ベリーのそれはやっていないと確認しただけ。ストーンズ専門家の寺田正典さんによれば、公演後にリリースするとなった際に思い付いただけでしょうと(と彼は Twitterで喋っていた)。

 

 

まあでもあのストーンズのキューバ公演は、キューバと西側諸国、特にアメリカ合衆国との関係正常化を記念してという意味だったんだろう。ブルーノ・ブルム編纂の『キューバ・イン・アメリカ 1939-1962』と『ジャマイカ・ジャズ 1931-1962』も1962年までなのは、特に前者はキューバ革命完遂前夜までということなんだろうね。しかも関係正常化を祝っての編纂・リリースとか、そんな意味かなあ。

 

 

ただただなにも考えず流し聴きしているぶんには、『キューバ・イン・アメリカ 1939-1962』と『ジャマイカ・ジャズ 1931-1962』の計六枚は、すごく楽しくて面白いものではある。ダンサブルだし陽気だし、時に妖しく隠微でセクシーだしで、気分ウキウキ。しかしそれはあくまでノーマルなセックスみたいなもんで、誰もが知っている既成事実を再確認して快感を得ているにすぎない。

 

 

いや本当に北米合衆国の大衆音楽、ことにジャズのなかにキューバやカリブやラテンがあるなんていう話は、水は透明だとか雪は白いだとか、そんないまさら改めて誰も指摘なんかしない当たり前の事実だ。フランク・ザッパにあるように、もし雪が黄色かったりしたら、それはアブノーマルな快感だから、そうなったらその時に初めて教えてくれ。興味がある。

2017/01/23

ボブ・ディランのライヴ36枚組で聴く音楽の古典的表現

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昨年11月(だったっけ?)にリリースされたボブ・ディランの『ザ・1966・ライヴ・レコーディングズ』36枚組。サイズのわりには二万円台とリーズナブルな価格だったけれど、それでもすぐには買えず、待っていたら予想よりも早く二ヶ月程度で新古品価格が下がって半値程度になったので、今年になってなんとか買えた。

 

 

それで36枚もあるもんだからすぐに全部は聴けないよなと思っていたのだが、確かに全部はまだ聴いておらず三分の二程度だけど、もう充分という気分だ。これ以上聴き進む必要もないんじゃないかと思うほど。その理由はどのディスクも内容がほぼ同じ、というか完全に同じと言い切ってしまいたい。

 

 

一昨年リリースの『ザ・カッティング・エッジ』六枚組なんか、なかなかマーケットで価格が下がらなかったのに、『ザ・1966・ライヴ・レコーディングズ』の価格があっという間に下落したのはこういうことだったのかと、一人で勝手に納得している。定価も36枚組にしては廉価だったのも理解できた。

 

 

ご存知のように1966年のボブ・ディランのワールド・ツアーは、どのステージも二部構成。一部がアクースティック・ギター弾き語りの従来路線で、二部がホークス(のちのザ・バンド)を従えての電化ロック路線となっていたが、どこのステージでの一部も二部も、曲目も同じなら演奏内容も同じ。

 

 

これはごくごく当たり前のことではある。だいたいどんな音楽家だって、同じ年の同じメンツでのライヴ・ツアーなんか、どこでも同じようなものになる。僕は気狂い的マイルス・デイヴィス・マニアだけど、マイルスもやはり同様なんだよね。そうじゃない音楽家ってこの世にいるの?

 

 

ジャズ・メンは一回性のアド・リブ勝負なんだから毎回内容が違ってくるんじゃないの?と思われるかもしれないが、マイルスだけでなく、ほぼどんなジャズ演奏家・歌手も、そんな毎日毎日演奏内容が違ったりはしないというのが事実。演奏曲目もほぼ同じなら、テーマの演奏、アド・リブ内容だってさほどは違わない。

 

 

そんなのがインプロヴィゼイションなのか?と言われるかもしれないが、音楽ってそんなもんだぜ。同じツアーで毎回セットごとにレパートリをガラリと変え、同じ曲でも演奏内容が全く違うなんていう音楽家は、はっきり言ってマトモじゃない(チャーリー・パーカーがそうだ)か、なにか特別な意図があって故意にそうしている。

 

 

ジャズのような音楽だってそうなんだから、ジャズよりも緻密な完成度というか、まあクラシック音楽的な様式美を持つ音楽であれば、ますます毎回の演唱内容が同じになる。場合によってはレコードや CD などとちっとも変わらなかったりするもんね。そして誰もそれを咎めない。「古典的」(古いっていう意味じゃないよ)音楽表現とは、そういうものだからだ。

 

 

そういえばまた思い出したけれど、昨2016年12月に大阪で体験したアラトゥルカ・レコーズの面々によるオスマン古典歌謡のライヴ・コンサートでは、このことを非常に強く実感した。こういうのが「完成された」音楽美なんだろうってね。アルバム『ギリズガ』からの曲は、CD で聴けるのと寸分違わなかったが、じゃあ感動がそのぶん薄いのかというと正反対で、大いに感動して泣いちゃった。

 

 

ボブ・ディランの1966年ライヴも、ある意味そんな古典的完成度にあったんじゃないかと、『ザ・1966・ライヴ・レコーディングズ』を聴き進むうちに思うようになった。上で、三分の二を聴いてもう充分な気分と書いたけれど、それは聴いて退屈しているという意味ではない。古典落語の名人芸でも聴いているような満足感がある。

 

 

あるいは毎回同じネタをやる漫才師とかお笑い芸人とか、そういうのを見てやはり何度見ても楽しくて笑えるとか、そういうものと同じなのかもしれないなあ、ボブ・ディランの36枚組も。ナヌ?ディランをお笑い芸人と一緒くたにするとはナニゴトだ!と頭から湯気を立てて怒り狂う人が間違いなくいるんだけど、ポップ・エンターテイメントだという意味では同種のものだぞ。

 

 

そんな具合のボブ・ディランの『ザ・1966・ライヴ・レコーディングズ』36枚組。一度に続けて三枚も四枚も聴くと、やっぱりちょっとあれだなと思わないでもないが(苦笑)、隔日程度で一枚ずつ聴き進むぶんには、これはこれでなかなか面白いものだ。レパートリーも、客席の批判的でアグレッシヴな反応も、同様にアグレッシヴなステージ上のディランとホークスも、なにもかも丸ごとぜ〜んぶ含めて「同じ」。二部の締めは毎回全部「ライク・ア・ローリング ・ストーン」。

 

 

だけど、これがホント聴いていていい気分になれるものだよ。ボブ・ディランにあまり熱心じゃない音楽リスナーは、サイズのわりにはリーズナブル価格だとはいえ、やはり一万円はする『ザ・1966・ライヴ・レコーディングズ』なんか、見向きもしないだろうけれど,ディランとあの激動の時代の証言だという歴史的価値を差し引いて、ただ単に音だけ聴いても、毎回いつも同じ「ネタ」をやる古典的芸能表現だと思えば、大変に楽しいエンターテイメントなんだよね。

2017/01/22

エリントン楽団戦前録音の魅力

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なんてことは、かなり時間をかけてじっくり考えないと書けるわけもない大きなことだが、今日は主に1930年代のコロンビア系録音を中心にいろいろと聴きなおしていたので、感じたことをちょっとだけ記しておくことにする。僕がそんなことをしているのも、全て Astral さんのおかげというか、彼のせいというか(笑)。

 

 

エル・スールでよく CD を買う Astral さんは、昨2016年リリースのヴァン・モリスンの新作をきっかけに、戦前ジャズにはまってしまい、特にデューク・エリントン楽団を中心にいろいろと熱心にお聴きの模様。そんな様子は彼のブログで読める。

 

 

 

このブログへのコメントでも書いたのだが、三大メジャー・レーベルのものということであれば、戦前エリントンを集めるのはシンプルで分りやすく、たやすい。いや、正確にはたやすかった、という過去形になってしまう。なぜならどれもこれもいまや廃盤で中古しかないからだ。

 

 

アメリカにおける三大メジャーとは、コロンビア、ヴィクター、デッカ。 いちおう僕が持っているそれらのレーベルのエリントン戦前録音集を、リリース年順に記しておこう。

 

 

デッカ系はCD三枚組『The Complete Brunswick and Vocalion Recordings of Duke Ellington 1926-1931』。これは本家デッカが1994年にリリース。

 

 

ヴィクター系はCD24枚組『The Duke Ellington Centennial Editon: The Complete RCA Victor Recordings 1927-1973』。これも本家RCA(BMG)が1999年にリリース。タイトルでお分りのように戦後録音も含むものだが、戦前ものでも完全集といえるのはこれだけ。

 

 

コロンビア系はCD11枚組『The Complete 1932-1940 Brunswick, Columbia and Master Recordings of Duke Ellington and His Famous Orchestra』。これは以前から言っているように本家コロンビアがリイシューしてなくて(激怒)、復刻専門レーベルのMosaicが2010年にリリースした。いちおう「Sony の許諾下で」みたいな文言がパッケージにあるけれども。

 

 

この三つのボックスを買いさえすれば、それが三大メジャーの戦前エリントンの「全て」だ。しかしモザイクがリリースしたコロンビア系を除く二つのものは今や廃盤で、アマゾンなどでは中古価格が高騰。特にヴィクター系音源全集24枚組は、こないだ見たら九万円を超えているじゃないか。

 

 

24枚組だから元々値が張るものではあったけれど、リリース直後に僕がアメリカに注文して(日本のネット・ストアはまだ充実していなかった)買った時は、円換算で四万台だった記憶がある。24枚組というサイズと中身の充実度、歴史的重要性を考慮すれば、四万円は躊躇しない値段だった。しかし九万円ではなあ…。

 

 

同じく廃盤のデッカ系三枚組は、デッカではなく、どこかの得体の知れないコレクターズ・レーベルが三千円程度で売っているみたいだから、今でも入手は難しくないだろう。しかしデッカといいヴィクターといい、どうしてこういう人類の宝、かけがえのない貴重な財産を廃盤にするのかねえ。コロンビアにいたっては、自分ではリイシューすらしていない有様だしなあ。

 

 

僕の場合、1979年にジャズにハマって数年で戦前ジャズの虜になって、その後すぐに CD 時代になって、エリントンの戦前録音も、CD リイシューされるたびにリアルタイムで買ってきたので、今でも特に困ることはない。だが Astral さんのようにごく最近その魅力に気が付いてハマりはじめたリスナーの方々にとっては、入手自体が容易ではない。Astral さんだけじゃない。同じような人たちがたくさんいるんじゃないだろうか。

 

 

まあ文句や愚痴ばっかりたれても仕方ないので、音楽の中身の話も少ししておこう。今日はコロンビア系音源を中心に聴きなおしていたと最初に書いたが、1930年代のエリントンはここがメインなのだ。エリントン楽団のピークはどう聴いても1940〜41年のヴィクター録音だが、その直前のコロンビア系録音だってかなりいい。

 

 

モザイクがリイシューした11枚全部を、一日で聴き返すのはしんどいことなので、今日は最初の四枚しか聴いていないが、最大の魅力は猥雑さだなあ。これはレーベルを問わず戦前のエリントン楽団に強くあった芸能性ってことで、エリントンに限らず、ビ・バップ勃興前までの戦前ジャズなら、だいたいどれを聴いてもそれがある。

 

 

言い換えればポップ・エンターテイメントであるということ。これこそが大衆音楽の最大の魅力、楽しみだと僕は思う。芸術性ではなくってね。クラシック音楽ファンにも人気の高いエリントン楽団だけど、そういう方々は、おそらく一人の例外もなく、エリントンが強い影響を受けた20世紀初頭の欧州クラシック音楽の作品から、という視点でしかエリントン楽団を聴いていない。

 

 

音楽をどう聴こうとその人の自由、勝手であって、それに文句を付けるようなつもりは僕もない。どうぞ、エリントン楽団をクラシック音楽的にお聴きくださって結構。ただ、それ「だけ」では、このアメリカ黒人音楽家の真の姿、全貌は把握できませんよということは、強調しておきたい。アメリカにおける黒人の立場を踏まえずにエリントンを聴いたって、所詮は一部分しか理解できない。

 

 

エリントンはあくまで大衆音楽界の人間。大衆音楽とはポップ・エンターテイメントであって、言い換えればいっときの気晴らし。聴いてウキウキしたりワクワクしたりして、あるいは聴きながら身体を揺すったり踊ったりして、楽しい時間を過ごす、そうやって日頃の鬱憤を晴らして、また明日への活力を得る。そういうもんだぞ、エリントン・ミュージックだってね。

 

 

つまりテレビでお笑い番組を見て楽しかったり、あるいはちょっとしたお金で街の娼婦を買って,その場限りの快感を得る。そんなものだ、大衆音楽とは。そういうなんというか猥雑な芸能性を、モダン・ジャズは失ってしまった。エリントンですら戦後は失ったのだ。死ぬまでこれを忘れず失わず、ポップ・エンターテイメントとしてのジャズに徹したのはルイ・アームストロングだけだ。

 

 

だから戦後のサッチモは、ピュア・ジャズ・ファンからはボロカスに言われてしまうんだが、以前も書いたようにリズム&ブルーズに最接近していたりして、かなりポップで楽しい。まあでも普通のジャズ・ファンはあんなの聴かないね。

 

 

 

ああいうのこそ、ジャズであれなんであれ、大衆音楽の真の輝きだろうと僕は信じていて、戦後は芸術的になったエリントンも、戦前はそういう部分を非常に強く持っていた。正確に言えばアートとしての素晴らしさと両面兼ね備えていたというか、故相倉久人さんの言葉を借りれば、「芸能ってのはお客さんに喜んでもらえなきゃしょうがない。でも、たどり着く頂点はアートと同じですよ」ってこと。エリントンにもサッチモにも当てはまる。

 

 

そんなことが、1930年代のコロンビア系録音で聴くエリントン楽団でも非常によく分ってしまうのだ。こりゃやっぱりあれだよなあ、時代のスポットライトを浴びていたもの、最先端の流行音楽だった時代の音楽だからってことなんじゃないのかなあ。アメリカ大衆音楽の王者だった時代のジャズが持っていた魅力、輝き。

 

 

1930年代エリントン音源で、いまの僕が最も魅力を感じるのはアイヴィ・アンダースンのヴォーカルだ。彼女が歌う「スウィングしなけりゃ意味ないね」が、モザイクの11枚組1枚目の2曲目なんだよね。これは1932年のブランズウィック録音だけど、スウィングというよりも、タイム・トリップして1970年代ファンクに化けたような演唱なんだよね。

 

 

コロンビア系音源でアイヴィ・アンダースンがヴォーカルをとったものは、32曲が随分前に CDリイシューされている。日本の SME が2000年にリリースした二枚組『デューク・エリントン・プレゼンツ・アイヴィー・アンダーソン』がそれだ。どうもこれは1973年に LP で出ていたものなんじゃないかと思えるフシがある(が僕はそれは知らない)。

 

 

その『デューク・エリントン・プレゼンツ・アイヴィー・アンダーソン』の一枚目一曲目が、他でもない1932年ブランズウィック録音の「スウィングしなけりゃ意味ないね」なんだよね。これ、今の若いファンク・ミュージック好きが聴いても、これが32年の音楽なのかとビックリするに違いない。

 

 

僕はいま YouTube サイトで確認してリンクを貼ることができない環境なので、みなさん検索してみてください。「it don't mean a thing duke ellington ivie anderson」くらいの検索ワードで、実に簡単に出てくるはずだから。

 

 

ってことで、Astral さん、とりあえず『デューク・エリントン・プレゼンツ・アイヴィー・アンダーソン』だけでも是非に!そのうちモザイクの11枚組を買えば、全部ダブってしまうんだけどね(地獄への手招き)。

 

2017/01/21

よく晴れた朝のショーロ・カリオカ

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休日のとてもよく晴れた朝。今日の愛媛県大洲市地方がまさにそうだった。そんな朝にはショーロがこの上なくよく似合う。これ以上ピッタリ来る音楽もないんんじゃないかと思うほどだ。それも新感覚のものではなく、古典的な伝統ショーロ、それもショーロ・カリオカ、すなわちリオ・デジャネイロ・スタイルのものがいい。

 

 

ショーロ・カリオカとショーロ・パウリスタ(サン・パウロのショーロ)は味わいが違う。新しいものを求める向きにはショーロ・パウリスタがいいのかもしれないが、今朝の大洲市みたいに、目覚めてカーテンを開けたら抜けるような青空が広がっているという日には、伝統フォーマットでやることが多いショーロ・カリオカの方がいいよね。

 

 

そんなわけで今朝僕が繰返し二回聴いたのが、10弦バンドリン奏者ルイス・バルセロスの2014年作『ジポイス・ダス・シンザス』。僕が買ったのは翌2015年のことで、これを知ったのは荻原和也さんのブログでとりあげられていたからだ。

 

 

 

この記事は2015年4月の日付になっているよね。僕んちに届いたのは同年六月末だった。これ、なかなかの快作で、僕は2015年の年間ベストテンの何位だったか今確認できないが、間違いなく選出した。ショーロの新作というと、昨2016年の、若手がやった新録音のイリニウ・ジ・アルメイダ曲集が超傑作だったけれど、2014年のルイス・バルセロスのだってなかなかいいんだぞ。イリニウ曲集と違って、ほぼ誰も話題にしないけれどさ。

 

 

2015年といえば確か、ブラジルの若手女性歌手ニーナ・ベケールがドローレス・ドゥランを歌うアルバムが日本でも発売されたけれど、あれの伴奏者の一人がルイス・バルセロスだ。僕はニーナの方を先に聴いていたが、その頃伴奏のバンドリンはあまりしっかりと聴いていなかった。

 

 

だがあのニーナのドローレス・ドゥラン集がいいのでいろいろと調べていると、YouTube に彼女がドゥランを歌うライヴの模様がオフィシャルでアップされていて、その動画で、スタジオ・アルバム同様に10弦バンドリンを弾くルイス・バルセロスの顔と演奏風景も観ていた...、はずだがほぼ憶えていなかった。

 

 

昨日書いたように、いま現在 YouTube を観聴きできないパソコン環境なので確認できないが、みなさん検索してみてほしい。たぶん「nina becker dolores duran」とかの検索ワードで、かなり簡単にそのライヴ動画が見つかるんじゃないかと思う。僕はその YouTube 動画から音データだけをダウンロードしたのを当時 CD-R に焼いたので、それを掘り出して、今日聴き直していた。

 

 

さてそんなニーナのドゥラン集でも活躍したルイス・バルセロス。2014年の『ジポイス・ダス・シンザス』はソロ・デビュー作だったみたい。この頃既に売れ筋セッション・マンになっていたらしいバルセロスのこのファースト・アルバムが、最初から書くようにショーロ・カリオカなんだよね。伝統的スタイルでやるリオのショーロ。日差しが眩しいようなよく晴れた朝には、実にピッタリだ。

 

 

ルイス・バルセロスの『ジポイス・ダス・シンザス』。基本的は10弦バンドリン+カヴァキーニョ+ギター+7弦ギター+パンデイロという編成。これら五人はアルバムの全10曲で演奏しているが、なかにはクラリネットやフリューゲル・ホーンやトロンボーンなどが参加する曲もある。

 

 

六曲目のアルバム・タイトル・ナンバーはフリューゲル・ホーン奏者(は他の曲ではトロンボーンを吹いたり)が参加している。それはルイス・バルセロスの YouTube 公式チャンネルが自らアップしていたはずなので、ちょっと聴いてみてほしい。

 

 

個人的にはそれら管楽器が演奏するものよりも、ストリング・バンドみたいになっている曲の方が好みだったりする。例えば一曲目の「ショーロ・プロ・レオ」(Choro Pro Leo)。軽快でノリがよく,実に爽やか。これをアルバムのオープニングに持ってきたのは、すごく納得できる。

 

 

その「ショーロ・プロ・レオ」はルイス・バルセロス自身がアップしていないし、他の誰も上げていないようだったので、僕が自分で上げておいた。でもアクセス数はほとんど伸びないんだなあ。みんな、こういうショーロ・カリオカの新録音なんかに興味ないのかなあ。

 

 

大傑作だった昨年のイリニウ曲集が、ホーン・アンサンブル・ミュージックとしてのショーロだったのに対し、その二年前のルイス・バルセロスのソロ・デビュー・アルバムは、ストリング・バンド・ミュージックとしてのショーロ。なかなかの良作だったと僕は思うよ。

2017/01/20

マイルスの「ムーヴィー・スター」

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予定より少し遅れて今日午後12時40分頃、ヤマト運輸の方が愛機 MacBook Pro を引取りに来た。それで現在僕の手許にはネット接続機器はない…だったのだが、実は一台かなり古い MacBook があって、それがなんとか起動できてネットにも接続できたのだ。それは白い筐体の2007年型モデルで、インストールされている OS は OS X 10.6.8。

 

 

しかし10.6.8ではいろんなことが不可能なのだが、これより上のヴァージョンの OS X にアップグレイドできないことを、Appleサポートの上級スペシャリストの方と散々やり取りして確認した。

 

 

ブログの読み書きはなんとかできる。Facebook はいちおうページの読込みが完了したかのようなことになってはいるが、ブラウザ画面に全くなにも表示されない。

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Twitterの方は、普段愛用しているアプリの対応 OS が最旧でも10.7なので全く使えないが、ブラウザだと Safari(以外のもので使用可能といえるものはインストールできなかった)で Twitterの Mobile サイトにアクセスできる。パソコン用のサイトは Safari のヴァージョンが古すぎてアクセス不可だが、なにもできないわけではないという点で Facebook よりもはるかにマシだ。ハード、ソフト両面ともに10年前に放棄したような環境でもいちおうの発言の読み書きができる。

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だがまあ本格的には無理なので、愛機が戻ってくるまで、一日に少しだけは Twitter Mobile にアクセスし読み書きしよう。ブログの更新もできる。だが15個ほどあるはずの書上げてある文章をバックアップしてある外付 HDD をいま手許にある MacBook は認識しない。

 

 

だから、本格的な文章は無理だから、なにか短めの日々の雑感みたいなものを、愛機 MacBook Pro が戻ってくるまで書続けていくことにする。ブログ更新のお知らせは Facebook にはアクセス不可だから書けないが、Twitterには書く予定。

 

 

というわけで今日はマイルス・デイヴィスがやる「ムーヴィー・スター」という曲のお話。こんな状況で書く話ではないちょっと面白いネタかもしれないが、まあパッと思いついたので。

 

 

この曲名でピンと来る人は、よほどのマイルス・ファンか、そうでなければ間違いなくプリンス・ファン。そう、「ムーヴィー・スター」はプリンスの書いたオリジナル曲なのだ。1988年リリースの四枚組『クリスタル・ボール』の一枚目に収録されている。このボックスは今日夕方自宅に届いたばかりなので、このネタを思いついたという次第。

 

 

あれっ、君は以前『クリスタル・ボール』の話をしたじゃないかと思われそうだが、フィジカル現物を入手したのは今日なのだ。リアルタイムでは買っておらず、気付いたら中古価格が三万円、四万円というものになっているので買えず、松山市在住の熱狂的プリンス・マニアの女性(数日前にも話をしたね)に音源データだけコピーしてもらって聴いていた。

 

 

『クリスタル・ボール』、内容がかなりいいんだけど買えない価格だなあと思っていたら、最近アマゾンにブックオフがこれを出品し、一万円程度だったのでなんとか買えたのが今日届いたんだよね。その一枚目九曲目に「ムーヴィー・スター」がある。

 

 

マイルスはこの曲を1988年のライヴ・ツアーでだけレパートリーにしてやっていた。公式盤収録も一つだけある。20枚組の『ザ・コンプリート・マイルス・デイヴィス・アット・モントルー 1973-1991』の88年分を収録した14枚目。

 

 

1988年のモントルーのマイルスは、演奏時間がかなり長いので、13枚目と14枚目に分割収録されている。これは同年八月に三軒茶屋の人見記念講堂で僕が体験した際のマイルス・ライヴも同じだった。一度も休憩を挟まず、二時間半程度のノン・ストップ演奏が続き、そうなると知らなかった僕は、開演前にコーラを飲過ぎてしまい、途中でオシッコしたくなったが、演奏が止らないので大いに困って、誰だったかサイド・マンの長いソロの間に慌ててトイレに駆込んだ。

 

 

その東京でもやった「ムーヴィー・スター」。だが1988年当時の僕はこれがなんの曲だか全く知らず、自動車がキキ〜ッと止るブレーキ音なんかがサウンド・エフェクト的に入っているし、曲調もかな〜りポップというか、まあ軽薄だとすら感じるようなもので、なんだこりゃ?マイルスはヘンな曲書くようになったんだなとか、客席で思っていたわけだった。

 

 

モントルー・ボックス14枚目(にしかマイルスの「ムーヴィー・スター」は公式収録がない)でいま聴き返すと、なかなか楽しいじゃないかと思うんだが、こういう軽くて他愛のないポップ・ソングがいいなあと思えるようになったのは、僕の場合、ここ数年のことだからなあ。

 

 

これがプリンスの曲だというのを知ったのは、僕の場合、21世紀に入ってからだ。のはずだが、モントルー・ボックスの附属ブックレットには作曲者クレジットとしてはっきり「Prince Rogers Nelson」と書いてあるじゃないか…。全く気付いていなかったぞ、今日の夕刻まで。まあしっかり見ていなかったんだよね。

 

 

マイルスのやる「ムーヴィー・スター」は、しかしやはりジャズ・マンだというようなアレンジではある。マイルスもハーマン・ミュートを付けて吹くのだが、メインはあくまで後半部でアルト・サックス・ソロを吹きまくるケニー・ギャレットだもんね。だから『クリスタル・ボール』で聴けるようなプリンスの持つポップさが、やや失われてはいるんだよね。

 

 

プリンスの『クリスタル・ボール』は1988年1月にリリースされているので、マイルスもそれで聴いてレパートリーにしたんだろう。プリンス・ヴァージョンは例によって音源を共有できないが、マイルスのは以前 YouTube で見た。僕がいま使っているブラウザでは YouTube にアクセスできないので、みなさん「Miles Movie Star」で検索して聴いてみて。

2017/01/19

お知らせ

 

 

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お断りしておきます。昨晩、愛機 MacBook Pro のトラックパッドが突然死(でもないのか?)しました。その後現在まで、外付の USB マウスを繋げてしのいでいますが、その他もろもろ含め、Apple にお預けして完全修理することにしました。その集荷が明日金曜日の午前中で、戻ってくるまでに一週間〜十日ほどかかるとのこと。代替機となるものもありませんので、明日以後、当ブログの更新はお休みです。再開は約十日後になると思います。ご承知おきください。

 

 

ブルーズ・ギタリストとしてのアイク・ターナー

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なぬ?!アイク・ターナーってピアノも弾くのか!そもそもピアニストで、その後ギターもはじめてそっちにスウィッチして、その後は両方こなすようになったのか!たった今初めて知ったぞ(恥)!僕、無知なアホです。こんなのでアメリカ黒人音楽愛好者のようなことを言っているんだから、聞いて呆れるよねえ。まあ僕の文章なんて普段から無知・アホ丸出しであるのがとっくの昔にバレバレのはずだから、この程度でどなたも驚かないだろうが、僕にとってはアイクがピアノも弾くと知ったのは、17歳で音楽に熱中するようになって以後現在までで、最大級の衝撃だ(←大袈裟)。

 

 

じゃああれか、あの「ロケット・88」ではアイクはギターじゃなくピアノなのか?冒頭ギターよりもまず先に聴こえはじめるピアノによるブギ・ウギ・パターン、あれがアイクの演奏なのか?あの1951年録音時点でアイクはまだギターははじめていないのか?既に両方できたとしてもまだ多重録音などはほぼ不可能な時期だから、どっちかだけだ。

 

 

と思って記載がないか探してみたら、僕の持つアイクの単独盤はどれもそのあたりの正確なパーソネル記載がなく、困ったなあと思って、あ、そうだ、 中村とうようさん編纂の『ブラック・ミュージックの伝統〜ブルース、ブギ&ビート篇』に「ロケット・88」があったよなと思い出して、附属ブックレット掲載のディスコグラフィカル・データを見たら、確かに、アイクはピアノとなっているじゃないか。ギターはウィリー・カイザートとなっている。

 

 

そうだったんだぁ。いつ頃だったか「ロケット・88」を初めて聴いて、なんてカッコいいブギ・ウギ・ロックンロールなんだと感じて以来愛聴しつづけること長い間、たった今初めて、あの曲でのアイクはピアノを弾いているんだと知りました(爆恥)。

 

 

まああれだよね、アイクの写真ってどれもこれもギターを抱えているものばっかりだもんなあ。そんでもって世間一般的に大有名人になったのは、間違いなくアイク&ティナ・ターナー時代であって、あるいはもっと正確に言えば、この二人の離婚後、ティナが復帰して再び人気が出て、自伝も出して、そのなかでアイクは暴力亭主だったと書いてあったりするので、それでかえって元夫であるアイクの(ネガティヴな面でも)知名度が上がったんじゃないかなあ。

 

 

だってさぁ、例えば今、Google でアイクの画像検索をしようとしたら、僕は入力もしていないのに自動的に「Beats Tina」っていうタブ項目が勝手に表示されるくらいだもん。つまり今では元夫時代にティナに暴力をふるった男性で、ちょろっとギターを弾く人間で音楽関係者、まあこの程度の認識なのかもしれないぞ、一般のファンには。

 

 

一般のファンには、なんて言ってはみたけれど、僕だってつい二・三分前までアイクは専業ギタリストだと思ってて、ピアノも弾くことをま〜ったく知らなかったわけだから大差ない。五十歩百歩だ。一応言い訳させてもらうと、ギタリスト、セッション・マン、レコード・プロデューサー、A&R マンとしてのアイクにかんしては、まあまあ少し知ってはいるつもりの僕です。

 

 

アイク&ティナ時代のことはまた機会を改めて(暴力亭主云々ではなく音楽家として)考えて別記事にしたいので、今日はアナ・メイ・ブロック、のちにティナと名乗るようになる女性歌手と一緒に活動をはじめる1960年より前の、アイク単独時代の話を少ししておきたい。

 

 

なんといってもアイクといえばこの一曲となるのが、やはり今日も最初から書いている1951年の「ロケット・88」だよね。歌いサックスを吹くジャッキー・ブレストン&ヒズ・デルタ・リズム・キングズ名義のレコードだが、このバンドは実質的にアイクのキングズ・オヴ・リズムに他ならず、曲を創ったのもアイクだ。

 

 

だから「ロケット・88」は実質的にアイクの大ヒット曲で、実際当時から現在までも、世の中の全員にそのようにみなされている。これを録音した1951年時点では、スタジオ・セッション・ミュージシャンから成るアイクのバンドは、南部ミシシッピ州クラークスデイルに拠点を置いて活動していた。51年以後も数年間はそう。

 

 

そうだけど、「ロケット・88」はメンフィスにあるサム・フィリップスのスタジオ、すなわちサン・スタジオで録音されている。この時に初めてこの曲を歌うことになるジャッキー・ブレストンと知り合ったらしいが、引き合わせたのは B・ B・キングだった。アイクは B B のセッションにも関わっていたので。

 

 

メンフィスのサン・スタジオでアイクのバンドは、1950年代前半たくさん録音している。ザ・キングズ・オヴ・リズムズ・フィーチャリング・アイク・ターナー名義の『ザ・サン・セッションズ』という2001年盤 CD があるんだけど、全20曲。しかしほとんどは自分のバンド名義録音ではなく、他の歌手の伴奏なんだよね。

 

 

『ザ・サン・セッションズ』、1953〜58年の録音集だけど、多くがブルーズというよりはリズム&ブルーズだなあ。曲形式としても12小節3コードのブルーズ定型は少ない。そして南部的なイナタさというかダウン・ホーム感というか、泥臭さがあって、サザン・ソウルの勃興形態みたいに聴こえたりもする。

 

 

ただ僕のなかではギタリスト(だとしかついさっきまで思ってなかったからさ)としてのアイクは、どっちかというとブルーズ・ギタリストのイメージなんだけどね。『アイクズ・インストルメンタルズ』という一枚の編集盤 CD があって、タイトル通り歌はなしの楽器演奏オンリーで、アイクのギタリストぶりに焦点を当てたもの。英エイスが2000年にリリースしたものだ。

 

 

この『アイクズ・インストルメンタルズ』を一枚通して聴くと、まあ歌がないし、アイクのキングズ・オヴ・リズムズは歌手の伴奏をやるサポート・バンドというのが実態・本質なので、イマイチな感じはするものの、アイクのギターの上手さや特徴を知るためだけなら、これが一番分りやすい一枚なんだよね。

 

 

この『アイクズ・インストルメンタルズ』、そのまんまなどブルーズから、ソウルっぽいリズム&ブルーズまで、1950年代のモダン・レーベル録音と60年代のスー・レーベル録音からチョイスされた全22曲、ブルーズ・ギター好きにはこたえられない内容なんだよね。

 

 

アイクのギター・スタイル最大の特徴は、トレモロ・アームの多用にあるかもしれない。エレキ・ギターのことをひょっとしてあまりご存知でない方のために一応書いておくと、フェンダーのストラトキャスターなどのボディに細い棒が付いていて、その棒はブリッジ部分と直結している。ブリッジ部分は本体ボディ裏にバネでとめられたフローティング・ブリッジになっているので、それと直結したアームを動かすとブリッジも動いて、弦のテンションが弱くなったり強くなったりして音程が変化する。

 

 

ロック・ギタリストだとジミ・ヘンドリクス(はロックじゃないかもだけど)とジェフ・ベックがアーミングの名手だね。同じストラトキャスター・マスターでもエリック・クラプトンはアームを一切使わず、ボディから外してしまっているくらいだ。アームを効果的に使うと、音程が非常に細かく震えるように変化するので、ピッキングした直後にアームを操作してトレモロ効果を得ることができる。が使いすぎるとチューニングが狂うこともある。

 

 

アイクはこのトレモロ・アーム使いの名手なのだ。『アイクズ・インストルメンタルズ』だとそれが非常によく分る。微妙に震えているようなサウンドになって、ブルージーなフィーリングを上手く出しているんだよね。やっぱりブルーズを表現したいギタリストだよなあ。

 

 

『アイクズ・インストルメンタルズ』で一番面白いのは、アルバム・ラストに収録されている「オール・ザ・ブルーズ、オール・ザ・タイム」だなあ。八分以上もあるが、これはブルーズ・スタンダードをメドレー形式でアイクが弾きまくるものなのだ。

 

 

 

お聴きになってお分りの通り、八曲のメドレー。そのなかでも四つ目に出てくる「ブギ・チルン」、五つ目の「ダスト・マイ・ブルーム」、七つ目の「フーチー・クーチー・マン」はあまりも有名すぎるので、出てきた瞬間に全員分っちゃうよね。このメドレー「オール・ザ・ブルーズ、オール・ザ・タイム」は1963年録音。

 

 

この九分近い「オール・ザ・ブルーズ、オール・ザ・タイム」は、アイク最大の代表曲「ロケット・88」がオープニングを飾る『リズム・ロッキン・ブルーズ』という一枚にも収録されている。主にクラークスデイル時代のセッション集で、これまた英エイス・レーベルが1995年にリリースしたもの。アイク入門盤としては、これが最も好適かもしれない。

 

 

『アイクズ・インストルメンタルズ』には、22曲目に「キューバン・ゲタウェイ(aka バイユー・ロック)」という1955年フレア録音が収録されていて、これがかなり面白い。もちろん歌なしのインストルメンタルだけど、曲名通りキューバン〜カリビアンな一曲なのだ。南部の黒人音楽には実に多いこういったラテン風楽曲。アイクもやっぱりやっているんだよね。

 

2017/01/18

お経を読むプリンス

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こういう言い方はどうかと思わないでもないが、昨年四月に亡くなったプリンス(のその事実はまだしっかりとは受け入れられていないが、僕がそんな気分になっているのはマイルス・デイヴィス以来)の書く曲のメロディが、時々仏式葬儀の読経のように聴こえる時がある。

 

 

これは別にまだ亡くなって間もない人間だからという意味ではない。単に音楽的な部分についてだけ言っているつもりで、だから生きている時からそう感じていたのだが、はっきりと言葉にできず、どう言えば他人に伝わるかずっと言葉を探していたものだ。それでようやく見つけたのが「お経」という表現。でもオカシイよね、これ。

 

 

いろいろとあるけれど、僕が特に読経だなと思うプリンスの楽曲は「ウェン・ダヴズ・クライ」と「アナ・ステシア」の二つだ。メロディが平坦で起伏がなく、同じ音程をずっと続けているし、それも声を張って歌うようなものではなく、なんだかモゴモゴとつぶやいているみたいだ。

 

 

もちろん仏式葬儀でお経を上げる僧侶は、かなり明瞭な声を強く張って朗々と読上げている。しかもその読経は音楽的だよね。各宗派の仏式だけでなく、いろんな宗教葬儀における同じようなものは、全て音楽に聴こるんじゃないかと思うんだが、僕はレコードや CD で聴くだけで仏式葬儀しか現場経験がないので、他のことは自信がない。

 

 

宗教儀礼と音楽との関係については、以前一度詳しく書いた。そこでも書いてあるのだが、僕の場合、仏式の通夜や葬儀において僧侶の読経が音楽に聴こえるというのは、三年前に父が亡くなった際に初めて強く実感した。実父の葬儀で、ある意味「楽しい」「面白い」気分になってしまって、これは不謹慎だなと思ったものの、抑えきれない気持だった。

 

 

 

そんなことはともかくプリンスが読むお経、いや音楽(と区別するのすら無意味だろうと最近思うのだが)。全部の楽曲を聴き返すのは相当しんどいことなので無理だが、彼のヴォーカル・ラインが起伏に乏しく平坦で、まるでお経か、あるいは呪文みたいなもんじゃないかと思うのが、上記「ウェン・ダヴス・クライ「アナ・ステシア」の二曲だ。実はもう一つ、パッと思いつくものがあるのだが、その話は最後にする。

 

 

まず「ウェン・ダヴズ・クライ」。邦題がどうしてこうなっているのか分らない「ビートに抱かれて」は、1984年の『パープル・レイン』の B 面一曲目。これはプリンス最大のヒット・アルバムで、「ウェン・ダヴズ・クライ」もシングル・カットされかなり売れたが、個人的にはシングル・ヴァージョンの方はちょっとね。

 

 

だってシングル・ヴァージョンの「ウェン・ダヴズ・クライ」は、歌本編が終わってギター・ソロがはじまって、さぁいよいよここからだ!という刹那にスッとフェイド・アウトして終わってしまう。まるであっ、イキそう…となった刹那に突然ストップされるセックスみたいなもんで、どうにも不満なのだ。

 

 

だからアルバム・ヴァージョンしか聴かない「ウェン・ダヴズ・クライ」だけど、これ、ホント旋律が平坦で起伏がなく、プリンスの歌はまるでお経を読んでいるみたいじゃないだろうか?同じようなピッチの音を反復しているだけで、全然メロディアスじゃないよね。念のために言っておくと、だからつまらないという意味ではない。

 

 

だいたいあの「ウェン・ダヴズ・クライ」は相当ヘンな曲だ。まずベースが入っていない。ブラック・ミュージックにおける最も重要な要素である低音、ボトムスを抜いてしまうという。だから踊れないダンス・ミュージックみたい。一説によれば、元々ベースも入っていたのだが、ミックスの際にない方が面白いとの殿下自身のアイデアで、ベース・レスにしたらしい。

 

 

アメリカのブラック・ミュージック界においては、完璧に同じものの先例がある。ファンカデリックの1971年『マゴット・ブレイン』のアルバム・タイトル曲だ。みなさんよくご存知の通り、アルペジオを鳴らすギターに乗って主役のエディ・ヘイゼルが弾きまくるギター・インストルメンタルだが、これもベースをミックスの際に抜いてある。

 

 

 

この「マゴット・ブレイン」も演奏・録音の際にはベースはもちろんいろんな楽器が入っていたらしいのだが、ボス、ジョージ・クリントンのアイデアで、ミックスの際にベースばかりかほぼ全ての楽器音を抜いてしまった。要はジャマイカのレゲエなどにおけるダブの手法だよね。ファンカデリックのこれは1971年だもんなあ。

 

 

プリンスと P ファンクは実に密接な関係があるし、だいたい総帥であるジョージ・クリントンが参加しているプリンスのアルバムだってあるもんね。このへんの、ブラック・ミュージックにおいてベースを抜くという極めて斬新というか、まあありえない発想の根源と効果については、P ファンクとプリンスを結びつけた文章を用意中なので、お待ちいただきたい。

 

 

さて「ウェン・ダヴス・クライ」。これが収録された『パープル・レイン』はバンド編成で録音したものや、バンドでなくても複数で録音したものが多いが、「ウェン・ダブズ・クライ」はプリンスの例によっての一人多重録音のみで仕上げている。つまりオール殿下。

 

 

また「ウェン・ダヴズ・クライ」がヘンな曲だなと思う要素は、平坦なお経メロディ、ベース・レスの他にも、いわゆる<展開>が全くないということもある。通常の A メロ、B メロ、サビみたいな流れが存在しないのだ。ティン・パン・アリーやブリル・ビルディングの系譜など、アメリカン・ポップ・ミュージックのメインストリームの曲創りからしたらありえない。

 

 

プリンスはポップ・ミュージックの人間じゃないだろうと言われるかもしれないが、僕はそんなことないと思うね。っていうかだいたいの大衆音楽はポップ・ミュージックだ。アメリカ産の黒人音楽なら、ジャズもブルーズもソウルもファンクもぜ〜んぶポップ・ミュージック、すなわちエンターテイメントだ。

 

 

プリンスだってティン・パン・アリーやブリル・ビルディングの伝統から実に多くを学んでいることは、誰でも曲を聴けば否応なしに痛感できるはず。そんな黄金のアメリカン・ポップスの世界では、書いたような A メロ、B メロ、サビというような、まあ正確にこうじゃないものも多いが、一応の<展開>ってものがある。

 

 

それを「ウェン・ダヴズ・クライ」では完全無視して、ひたすら一直線に同じメロディ・ライン、でもないような平坦なお経・呪文ヴォーカルで突き進み、変化・展開はなし。起承転結は全然聴けない。しかも和音構成は基本、A マイナーと G の二つだけの反復。

 

 

そんな曲なのに「ウェン・ダヴズ・クライ」は大ヒットしたよなあ。通常のポップ・ソング好きにもアピールできたという証拠だ(じゃないとあんなには売れない)。ちょっと考えられないような気がするけれど、それでもプリンスのベスト盤などには欠かせない重要な一曲となったので、なにか秘密があるんだよなあ。

 

 

その秘密を解き明かすのは、僕みたいな素人には不可能だ。ただ面白いと思って聴いて快感をおぼえてイクだけ。そんなお経ヴォーカルをプリンスが歌うもっとひどい典型例が「アナ・ステシア」だ。ご存知気持悪いジャケット・デザインの1988年『ラヴセクシー』収録。

 

 

『ラヴセクシー』は全九曲が繋がっていてワン・トラックなので、一曲だけ抜き出して聴くのは難しいのが残念だが、幸運なことにトラックが九つに切れている『ラヴセクシー』をお持ちの方(笑)は、四曲目の「アナ・ステシア」だけでも聴いて確認してほしい。

 

 

「アナ・ステシア」といえば、愛媛県松山市に女性プリンス・マニアの方がいらっしゃって、その二児の母はとにかく「アナ・ステシア」が大好きで大好きでたまらないらしい。どこがいいんだ?あんなお経だとしか思えないメロディが?と僕は最初思ったのだが、トラックの切れた『ラヴセクシー』で何度も聴き返すうちに、僕もこれはかなり凄い曲だぞ!と強く実感するようになっている。

 

 

メロディの起伏のない平坦さという意味では、「ウェン・ダヴズ・クライ」よりも「アナ・ステシア」の方がはるかにひどい。ピアノの音にはじまり、続いて出てくるプリンスの歌うヴォーカル・ラインは、文字通り一つの音だけをひたすらリピートしている。完璧にワン・ノート・バラード。

 

 

じゃあワン・ノートで平坦なお経だから「アナ・ステシア」を聴いて退屈かというと、全くその正反対に美しいメロディだなと感じるので、こりゃ魔法だよなあ。オカシイぞこれ。だって同じワン・ノートでしか構成(「構成」もヘンだが、だって一音程だもん)されていないのに美しく響くって、どういうこと?やっぱりプリンスってマジシャンだね。

 

 

「アナ・ステシア」の場合、平坦なのはプリンスの歌うメインの旋律だけでなない。冒頭から鳴っているピアノのサウンドも同じフレーズを最後まで続けているし、次いでお経ヴォーカルに続いて入るギターとドラムスも、そして途中から入るバック・コーラスも、同じパターンを反復。そこに効果音的にシンセサイザーの音が入っているだけ。

 

 

一応ギター・ソロが出るが、演奏時間もかなり短いし、入り方もフィーチャーされるソロという雰囲気ではなく、曲全体のなかではやはりサウンド・エフェクトみたいな使われ方だから、ほぼ無視しても差し支えないかもしれない。となると『ラヴセクシー』の「アナ・ステシア」は、なにもかも平坦なお経音楽じゃあるまいか。

 

 

それがどうしてあんなにも美しく妖しく、そしてドラマティックで感動的に聴こえるのか、僕みたいな人間にはサッパリ理解できないんだよね。音楽の魔法ってそういうものだろうけどさ。「アナ・ステシア」は、2002年の三枚組ライヴ盤『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』でもメイン・アクト二枚のラスト・ナンバーとして、非常に劇的に演唱されている。

 

 

『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』での「アナ・ステシア」では、スタジオ・オリジナルと全く同じピアノのフレーズに乗せ、歌いはじめる前にプリンスが「歌詞を知っているなら一緒に歌ってくれ、そうじゃないなら誰かに聞いて」と喋っているが 、あんな平坦なお経メロディ、一緒に歌いにくいし、合わせて歌ったところでちっとも楽しくないだろう(笑)。

 

 

一緒に歌えるパートがある、という意味で、上の方で書いたもう一曲ある話を最後にすると言ったものになるが、それが「パープル・レイン」。プリンス・ファンじゃなくたってみんな知っているというほどの超有名曲で、これこそがプリンスのシグネチャー・ソングだという代表曲。

 

 

「パープル・レイン」で一緒に歌えて盛り上がるのは、例の「ぱ〜ぷぅれいん、ぱ〜ぷぅれいん」という、お馴染のリフレイン部分であって、そこはメロディアスだしもちろん異様に熱を帯びるものだけど、メインの旋律でも他の部分はかなり平坦で起伏に乏しく、これもちょっとお経っぽく僕には聴こえるなあ。

 

 

特にボブ・ディラン風な歌い方になる部分があるよね。2:34 からの「ハニー、アイ・ノウ、アイ・ノウ、タイムズ・アー・チェインジン」ではじまる3コーラス目だ。「You say you want a leader / But you can't seem to make up your mind / I think you better close it」(のあと「And let me guide you to the purple rain」と続く)部分 が、完全なるボブ・ディラン風のヴォーカル・スタイルだ。

 

 

プリンスの場合、直接にはディランよりもジミ・ヘンドリクス由来なんだろうけれど、そもそもジミヘンのあれがディランにルーツがあるもんね。つまりディランが体現している戦前から続くトーキング・スタイル・ブルーズの伝統。もっと言えば、それは英国バラッド由来のものだ。

 

 

ってことはだ、プリンスの「パープル・レイン」のあれとか、あるいは今日書いてきたような「ウェン・ダヴズ・クライ」とか「アナ・ステシア」みたいな、あるいは探せばもっといろいろたくさん見つかるであろう、平坦で起伏がないお経ヴォーカルは、実は古くから英国などに存在する音楽=文学の伝統、お話、バラッドの流れに連なっているのかもしれないよなあ。

 

 

あくまでブラック・ミュージックの音楽家であるプリンス。だけれどもそんな彼のなかにも白人バラッドの伝統は活きている。そして普段から僕も書くように、そもそもアメリカ黒人ブルーズとは、誕生期からバラッド(物語を喋る)の影響が色濃くあって、マディ・ウォーターズのような戦後のモダン・ブルーズ・マンにだってそれはあるし、プリンスもそんな伝統をタダシク引き継いで、彼独自のやり方でそれを表現したんだよね。

2017/01/17

ジャイヴがジャンプするだって〜!

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ジャズのなかでは、前々から言うように1930年代後半〜40年代末までのジャイヴとジャンプが今では一番好きな僕。ある時期以後は、ジャイヴとかジャンプとかいう言葉にはすごく感じやすいカラダになってしまっていて、だからこの二つが合体していたりなんかするような文字列は、もう見ただけで随喜の涙を流してしまうのだ。

 

 

ジャイヴとジャンプの合体名。一番有名なのは、間違いなくキャブ・キャロウェイの「ジャンピン・ジャイヴ」だよね。オリジナルは1939年7月のヴォキャリオン録音。当時から売れて、キャブのやった曲のなかでは最も有名になったものの一つ。キャブ自身その後も繰返しやっているばかりか、直後からいろんな音楽家にカヴァーされ、さらに1981年にはジョー・ジャクスンがやったりもした。

 

 

「ジャンピン・ジャイヴ」、キャブの1939年オリジナルはこれ。

 

 

 

もちろん楽しいが、もっと楽しいのは1943年の映画『ストーミー・ウェザー』のなかでニコラス・ブラザーズと共演したこれだ。

 

 

 

ご覧になればお分りの通り、キャブのパンチの効いたエンターテイナーぶりが非常によく分るものだが、映像なしで音だけ聴けば、楽しく立派ではあるけれど普通のジャズだと僕には聴こえる。特にそんな珍妙なものとは全く感じない。タップとの合体だってたくさんあるじゃないか。

 

 

キャブの音楽については、英 JSP がボックスでリリースしている同楽団の1930〜40年の録音全集、四枚組二つをじっくり聴き返してみて、一度しっかり書いてみる腹づもりでいる。ちょっとだけ言っておくと、ジャズ喫茶でキャブなんてとんでもなかったとおっしゃる方もいるけれど、日常的にレコードがかかっていたジャズ喫茶もあったし、自分でだって普通に LP を買えたので、自宅でも大学生の頃からはどんどん聴いていた。

 

 

キャブの話は改めてするとして、ジャイヴとジャンプというこの二つの言葉が合体している曲がアルバム・タイトルに使われている CD アンソロジーがある。英ウェストサイド・レーベルが1998年にリリースした『ザ・ジャイヴ・イズ・ジャンピン:RCA&ブルーバード・ヴォーカル・グループズ 1939-52』だ 。

 

 

タイトルでお分りのようにいろんなジャイヴ・ヴォーカル・グループのこの時期のヴィクター系録音をいろいろと集めたアンソロジー。この一枚、全22曲で計1時間1分、楽しくない瞬間がない。全編悶絶するほどエンターテイニングで仕方がない。聴いていると、僕なんかイキっぱなし。

 

 

『ザ・ジャイヴ・イズ・ジャンピン:RCA&ブルーバード・ヴォーカル・グループズ 1939-52』のなかで一番重要なのは、おそらく三組。四曲収録のフォー・クレフス、五曲収録のキャッツ・アンド・ザ・フィドル、三曲収録のデルタ・リズム・ボーイズだろう。

 

 

まずアルバム・トップに四曲収録されているフォー・クレフス。その一曲目が「ザ・ジャイヴ・イズ・ジャンピン」なので、これこそ最も面白い一曲だとウェストサイド・レーベルもみなしたということなんだろうなあ。この二つの言葉の合体曲名、フォー・クレフスの録音は1939年6月なので、キャブの「ジャンピン・ジャイヴ」初録音よりも先だ。

 

 

正確には、フォー・クレフスの「ザ・ジャイヴ・イズ・ジャンピン」が1939年6月5日ブルーバード録音、キャブの「ジャンピン・ジャイヴ」が1939年7月17日ヴォキャリオン録音なので、当時の事情からすればキャブの録音時にフォー・クレフスのそれがレコードで発売されていたのをキャブが参考にしたとは考えられない。

 

 

たぶんレコードはまだ発売前だったんじゃないかと思うし、そうであろうとなかろうと、1930年代末頃にはジャイヴとジャンプの二つの言葉をくっつけて遊ぶような発想が、当時のジャズ・メンのあいだで既に一般化しつつあった、拡散しつつあったということだろう。

 

 

フォー・クレフスは少人数コンボで、ギターのジョニー・グリーンとドラムスのウィリー・チャップマンが中心。その他、ピアノ、ベースという楽器編成で、全員が歌う。ただし「ザ・ジャイヴ・イズ・ジャンピン」ではチャップマンはドラムスではなくヴァイブラフォンを担当している。

 

 

 

その他三曲でもフォー・クレフスはホットでタイトでパンチが効いている。特にいいのがアルバム三曲目の「V・デイ・ストンプ」だ。曲名で推察できるように、第二次大戦勝利を願ってのものだ。1945年2月録音なので。僕も以前 V ・ディスクというもののことを詳しく書いたけれど。

 

 

 

フォー・クレフスの「V・デイ・ストンプ」では、特にギター・ソロとリズム・ワークが極めて精緻だ。ヴォーカルが楽しいのはもはや説明する必要がないと思うので、詳しいことは省略する。ただしこの曲ではリード・ヴォーカル(ギター担当のジョニー・グリーン)だけで、バック・コーラスはなし。

 

 

 

ジャイヴ・ヴォーカル・グループに共通するあのワッワッっていうスキャットでのバック・コーラス。あれは最大の特徴の一つなので、だから「V・デイ・ストンプ」でそれがないのは残念だけど、他の三曲ではもちろん全部それがある。やっていないグループを、同傾向の音楽で探す方が難しい。

 

 

さて、『ザ・ジャイヴ・イズ・ジャンピン:RCA&ブルーバード・ヴォーカル・グループズ 1939-52』に五曲収録されているキャッツ・アンド・ザ・フィドル。一般的にはおそらく四弦ギターのタイニー・グライムズが活躍したので知名度があるグループだけど、このアルバム収録の五曲は全て1940年のタイニー参加より前のもの。

 

 

タイニー・グライムズの話と、彼が在籍した時代のキャッツ・アンド・ザ・フィドルの話は、またそれぞれ一つずつの記事にしてみたい。一つ書いておくと、1987年にマイルス・デイヴィス・バンドに参加して晩年は欠かせない重要メンバーだったリード・ベースのフォーリー。彼は一応リード・ベースというクレジットになっているが、出てくる音はエレキ・ギターの音域だ。

 

 

ライヴ現場で何度も観たフォーリー。確かに四弦楽器だったけれど、あれってリード・ベースというより、タイニー・グライムズの弾いた四弦ギターと同じ種類のものだったんじゃないかなあ。それをソリッド・ボディのものでエレキ化してエフェクター類も使って、あんなサウンドになっていたんだと僕は思うけれど、フォーリーとタイニー・グライムズを結びつける文章って全然ないよなあ。

 

 

それはいいとして『ザ・ジャイヴ・イズ・ジャンピン:RCA&ブルーバード・ヴォーカル・グループズ 1939-52』にあるキャッツ・アンド・ザ・フィドルの五曲のうち最も有名で最も重要なのは、間違いなくアルバム六曲目の「アイ・ミス・ユー・ソー」だ。

 

 

 

当然のようにキャッツ・アンド・ザ・フィドルの単独盤にも入っているこの「アイ・ミス・ユー・ソー」は1939年ブルーバード録音だが、既にリズム&ブルーズ系のヴォーカル・グループの歌い方、コーラス・ワークに極めて近い。特にドゥー・ワップ・シンギングへ影響したのは間違いない。

 

 

実際、複数のドゥー・ワップ・グループが、この「アイ・ミス・ユー・ソー」をカヴァーしている。オリオールズ、リトル・アンソニー&ジ・インペリアルズ、リー・アンドリューズ&ザ・ハーツ。どれもこれも楽しく美しく、そして哀しく切ない。

 

 

 

 

 

『ザ・ジャイヴ・イズ・ジャンピン:RCA&ブルーバード・ヴォーカル・グループズ 1939-52』にあるキャッツ・アンド・ザ・フィドルでは、その他「アイド・ラザー・ドリンク・マディ・ウォーター」「ナッツ・トゥー・ユー」など有名な重要曲が多いので、これらは単独の記事に廻すこととしよう。

 

 

『ザ・ジャイヴ・イズ・ジャンピン:RCA&ブルーバード・ヴォーカル・グループズ 1939-52』では後ろの方に三曲収録されているデルタ・リズム・ボーイズ。三つのうち二つはジャズの器楽曲のカヴァーだ。カウント・ベイシー楽団の「ワン・オクロック・ジャンプ」とデューク・エリントン楽団の「A 列車で行こう」。もう一つはハンク・ウィリアムズの「アイル・ネヴァー・ゲット・アウト・オヴ・ディス・ワールド・アライヴ」。

 

 

カントリー・シンガーであるハンクの曲のカヴァーは別段どうってことないはず。ハンクのオリジナルからもちろんヴォーカルが入っているし、それのサウンドをフル・バンド・ジャズにアレンジしなおして、ヴォーカル・コーラスをつけただけの話だ。

 

 

面白いのはやはり「ワン・オクロック・ジャンプ」と「A 列車で行こう」だなあ。この二曲、もちろんオリジナルにヴォーカルなど存在しない。それに意味のある英語詞を付けてコーラス・ワークもくわえ歌うデルタ・リズム・ボーイズの1947年録音は、つまりヴォーカリーズだ。

 

 

 

 

1947年時点でのヴォーカリーズは、もちろんアメリカ音楽史上初事例なんかじゃ全然ないけれど、まあでも一般的にはかなり早い方だろうなあ。もっともデルタ・リズム・ボーイズも「A 列車」の方は、エリントン楽団のオリジナル発売の同年1941年に既にやってはいるのだが。

 

 

 

1930年代末からエディ・ジェファースンが活躍していたとはいえ、ジャズ界でヴォーカリーズが一般化するのは、やはり1950年代後半からのランバート、ヘンドリクス&ロス以後じゃないかなあ。その後はいろんなヴォーカル・グループが似たようなことをやっているのはご存知の通り。

 

 

1930年代後半から40年代末頃あたりまではアメリカにいっぱいあったジャイヴィーなヴォーカル・グループ。その後は一部ヴォーカリーズ・グループを除き地下に潜ってしまった。それを再び掘り起こして復活させてくれたのが1970年代からのマンハッタン・トランスファーだったと僕は思っているのだが、マンハッタン・トランスファーについてそんな位置付けをしているような日本語の文章って、僕はいまだ見たことがない。

2017/01/16

ロック・ファンのみなさん、リトル・ウォルターをもっと聴いてください

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ブルーズと言っていいのか、それともやっぱりロックなのか、僕にはどうも判断しかねるのがポール・バタフィールド・ブルーズ・バンド。一つしっかりと言えるのは、ブルーズを掲げて活動した白人バンドのなかでは最もよかったという事実だ。といっても黒白混交編成だったけどね。もっともそう言えるのは、僕の場合、ギターのマイク・ブルームフィールド在籍時代に限る。

 

 

となるとオリジナル・アルバムは二枚しかない。1965年の『ザ・ポール・バタフィールド・ブルーズ・バンド』と翌66年の『イースト・ウェスト』。二枚とも名盤だ。マイク・ブルームフィールド、エルヴィン・ビショップのツイン・ギター体制だったこの時代のポール・バタフィールド・ブルーズ・バンドこそが、僕にとってはホワイト・ブルーズ(・ロック)最高の存在なのだ。

 

 

名盤であるとはいえ、僕のなかでは二枚目『イースト・ウェスト』の位置付けはやや低い。サイケデリックで分りにくい部分もあって、なかにはかなりの長尺曲とかもあり、いかにも1966年という時代を感じさせるものだが、そのぶんファースト・アルバムのようなブルージーさからやや遠ざかっているかのように聴こえなくもないからだ。特にアルバム・タイトル曲は13分以上もあって、しかもインド風のモーダル・ミュージックで、ちょっとドアーズを思わせる部分もあるが、このバンドにそういうものは求めないなあ、僕は。

 

 

それ以外だと、ベターデイズ時代に再演するロバート・ジョンスンの「ウォーキン・ブルーズ」や、ジャズ・ナンバーであるナット・アダリーの「ワーク・ソング」なんかもやっているけれど、前者はともかく後者の方は、おそらくその曲名から、黒人ブルーズ誕生にまつわるある種の認識を連想しただけなんじゃないかと勘ぐったりしちゃうんだよね。

 

 

だから今の僕は『イースト・ウェスト』はあまり聴かず評価もやや低くなっている(いわんやその後をや)。ってことは結局のところ、僕にとってのポール・バタフィールド・ブルーズ・バンドとはデビュー・アルバムだけってことになってしまうのだが、ガッカリはしていないし、今では音源の数もそんなに少なくもないのだ。

 

 

まず最大の喜びだったのが1995年リリースの『ジ・オリジナル・ロスト・エレクトラ・セッションズ』。これに収録されている全19曲の録音は1964年冬と記載があるので、エレクトラ・レーベルからのデビュー・アルバム『ザ・ポール・バタフィールド・ブルーズ・バンド』を録音した1965年9月よりも前なのだ。

 

 

この『ジ・オリジナル・ロスト・エレクトラ・セッションズ』リリースは本当に飛び上がるほど嬉しかったなあ。さらにその二年後の1997年に CD二枚組の『アン・アンソロジー:ジ・エレクトラ・イヤーズ』が発売され、それの一枚目五曲目までが、それまで CD 化もされていなかった初期曲だった。

 

 

だから『アン・アンソロジー:ジ・エレクトラ・イヤーズ』をただのベスト盤だと侮っちゃいけないんだよね。CD ではこれじゃないと聴きにくいものがあるからさ。一枚目六曲目以後は既存アルバムから選んだただのベスト盤でしかないんだけど、このバンドの熱心なファンなら、この五曲のためだけにでも買う価値はある。

 

 

そういうわけで『アン・アンソロジー:ジ・エレクトラ・イヤーズ』冒頭五曲、『ジ・オリジナル・ロスト・エレクトラ・セッションズ』の全19曲、『ザ・ポール・バタフィールド・ブルーズ・バンド』の全11曲。これら全てあわせた計35曲が、今の僕にとってのポール・バタフィールド・ブルーズ・バンドの<全て>なんだよね。

 

 

35曲で計1時間50分以上あるんだから充分だ。それらは本当に素晴らしい。1960年代半ばのアメリカ白人が黒人ブルーズが大好きになって、真似をして、それを自分たちの音楽として再創造していた姿を聴いて、とても喜ばしい良い気分だし、そんな彼らの心意気だけでなく、実際のサウンドが聴いていて気持いい。

 

 

その計35曲のプレイリストの一曲目は、『アン・アンソロジー:ジ・エレクトラ・イヤーズ』一曲目の「ボーン・イン・シカゴ」。この曲名でみなさんもう全員お馴染のものだよね。1965年のデビュー・アルバム『ザ・ポール・バタフィールド・ブルーズ・バンド』のオープニングだった。このバンド最大の代表曲だ。

 

 

上で書いたようにこのデビュー・アルバムの録音は1965年9月だが、『アン・アンソロジー:ジ・エレクトラ・イヤーズ』一曲目の「ボーン・イン・シカゴ」は、『フォークソング '65』というエレクトラ・レーベルがリリースしたアンソロジーに収録されていたもので、単独では発売されたことがないはず。

 

 

その『フォークソング '65』の B 面一曲目だった「ボーン・イン・シカゴ」。ポール・バタフィールド・ブルーズ・バンドがこれを何年何月に録音したのか記載がないし、調べても分らないのが残念だけど、なんでも1964年あたりから既にバンドのラインナップは整っていて、ライヴではこの曲もやっていたようだ。

 

 

『アン・アンソロジー:ジ・エレクトラ・イヤーズ』附属ブックレットにある記載を見ても、この(ひょっとして1964年冬よりも前の録音?)「ボーン・イン・シカゴ」では、ポール・バタフィールド(ヴォーカル&ハーモニカ)以下、エルヴィン・ビショップ(ギター)、ジェローム・アーノルド(ベース)、サム・レイ(ドラムス)、マイク・ブルームフィールド(ギター)と、全員揃っているもんね。

 

 

1964年でこのメンツというと、ロック・ファンの全員が思い出す翌65年7月、ボブ・ディランのあの例のニューポート・フォーク・フェスティヴァルでのパフォーマンスってことになるだろうなあ。あの時のディランの電化ロック路線を支えたバック・バンドが、まさにこのポール・バタフィールド・ブルーズ・バンドだった。

 

 

あの時に衝撃を受けたのは、直に聴いたマリア・マルダーだけではない。フォーク・リヴァイヴァル・ムーヴメントの真っ只中で、ほとんどのアメリカ白人聴衆が、実はもっとずっと昔から自分たちにもかなり近接したところに存在していたはずの黒人ブルーズを、それもエレクトリック・バンド編成で白人メインで演奏するのを実体験した初めての機会だったかもしれない。

 

 

といっても社会的にも音楽的にも近接していたものなので、それが「初の機会」で衝撃を受けた(とマリア・マルダーは語っているが?)というのも、今考えたらちょっとおかしなことだよなと思わないでもない。がまあしかしあくまで一般的には、それも大規模な白人音楽野外フェスティヴァルにおいて堂々とやったという点においては、やはりビックリしたんだろうなあ。

 

 

そんなことを公の聴衆の前でやっちゃおうと考えたボブ・ディランのあの当時の輝きと、その輝きを一層際立たせるために彼が起用したポール・バタフィールド・ブルーズ・バンドの実力の高さを、改めて痛感させられる思いだ。僕にとってのディランとはそういう人物であって、あくまで黒人ブルーズの伝統をベースにした電化ロックの世界の人で、英語詞の文学的レベルの高さで大きな賞をもらう云々は大したことじゃない。

 

 

ディランのことはいいとして、ポール・バタフィールド・ブルーズ・バンドも、あの1965年7月のニューポート・フォーク・フェスティヴァルで一躍知名度が急上昇して、それが同年のデビュー・アルバム録音・発売にも繋がったんだと思う。

 

 

しかしながら、バンドのスタート地点であるかのように思われていたかもしれないそのデビュー・アルバム『ザ・ポール・バタフィールド・ブルーズ・バンド』は、あるいはひょっとしたらある意味では終着点だたったんじゃないかというのが、今の僕の認識なんだよね。

 

 

それが前述の計35曲のプレイリストを聴いての正直な実感だ。初期ヴァージョンの「ボーン・イン・シカゴ」は、既に『ザ・ポール・バタフィールド・ブルーズ・バンド』収録のヴァージョンとあまり違わない完成度に至っているが、それはおそらくこの曲は録音前からライヴなどでやり込んでいた得意レパートリーだったからだろう。

 

 

それでも、それら2ヴァージョンの「ボーン・イン・シカゴ」を聴き比べると、やはり微妙な違いはある。全体的なアレンジや音の組立てはほぼ同じだが、テンポとノリが明らかに異なっている。初期ヴァージョンの方が、気付かないほどほんの少しだけテンポが遅く、ノリが深くて、タメが効いている。

 

 

そのせいで初期ヴァージョンの「ボーン・イン・シカゴ」は、ホワイト・ブルーズ・ロックよりは、黒人ブルーズに近い。ところが『ザ・ポール・バタフィールド・ブルーズ・バンド』収録ヴァージョンでは、ほんのちょっとだけテンポ・アップし、ややせわしない感じになって、ノリのディープさが薄い。そのぶん、かえって当時の多くの白人聴衆にはとっつきやすかったはずだ。

 

 

僕の拙い文章だけじゃあれなんで、ちょっと音源を貼ってご紹介しておこう。「ボーン・イン・シカゴ」の2ヴァージョン。

 

 

初期ヴァージョン→ https://www.youtube.com/watch?v=aEG39gVoPOA

 

『ザ・ポール・バタフィールド・ブルーズ・バンド』ヴァージョン→ https://www.youtube.com/watch?v=p-xh-Ot12Yc

 

 

どうだろう?微妙に違うのがお分りいただけるはずだ。後者のデビュー・アルバム収録ヴァージョンは、やはりこれはは(ブルーズ・)ロックだと言うべきだろうね。少なくとも前者初期ヴァージョンと比較すれば。それはそうと、この初期ヴァージョンの YouTube 音源の説明文には、1964年12月録音とあるなあ。

 

 

もしそれが本当だとすると、1995年リリースの『ジ・オリジナル・ロスト・エレクトラ・セッションズ』と同時期の録音なんだけど、どうして収録しなかったんだろう?不思議だ。デビュー・アルバムにある既存曲だからじゃないだろう。『ジ・オリジナル・ロスト・エレクトラ・セッションズ』には、デビュー・アルバムで再演した「メロウ・ダウン・イージー」の初期録音が収録されているもん。

 

 

それ以外でも、『アン・アンソロジー:ジ・エレクトラ・イヤーズ』の二曲目には「ラヴィン・カップ」があるが、それは、これまたエレクトラが1966年にリリースした雑多な音楽家のアンソロジー『ワッツ・シェイキン』に収録されて発売されたもの。

 

 

だけどその「ラヴィン・カップ」にかんしては、『ジ・オリジナル・ロスト・エレクトラ・セッションズ』にも再録された。また同じくアンソロジー『ワッツ・シェイキン』には、ポール・バタフィールド・ブルーズ・バンドの「スプーンフル」(ハウリン・ウルフ)や「グッド・モーニング・リトル・スクール・ガール」(サニー・ボーイ・ウィリアムスン)もあったが、その二曲も『ジ・オリジナル・ロスト・エレクトラ・セッションズ』に再録された。

 

 

ってことはやはりどうして「ボーン・イン・シカゴ」だけ、このバンドの初期音源収録を謳った『ジ・オリジナル・ロスト・エレクトラ・セッションズ』に再録しなかったのかがやや解せないような、ちょっぴり分るような分らないような…。ポール・バタフィールド・ブルーズ・バンドのイコン・ソングなんだから、やっぱり入れといてほしかったなあ。

 

 

その他『ジ・オリジナル・ロスト・エレクトラ・セッションズ』にはいろいろと面白い黒人ブルーズのカヴァーがある。「イット・ハーツ・ミー・ソー」はタンパ・レッドの曲だけど、多くのブルーズ・ロッカー同様エルモア・ジェイムズ・ヴァージョンを下敷きにしているかと思うと、さにあらず。ポール・バタフィールド・ブルーズ・バンドが参考にしているのはジュニア・ウェルズ・ヴァージョンだ。

 

 

またひょっとしたら昨年暮れから再注目されつつあるんじゃないかと思うブルーズ・ソングが、『ジ・オリジナル・ロスト・エレクトラ・セッションズ』四曲目の「ヘイト・トゥ・シー・ユー・ゴー」だ。言わずと知れたリトル・ウォルターの曲で、ウォルターはポール・バタフィールドのハーモニカの先生だったもんね。

 

 

これをローリング・ストーンズが昨年暮れリリースの最新作『ブルー・アンド・ロンサム』のなかでカヴァーしている。そもそもあのストーンズのブルーズ・カヴァー・アルバムにはリトル・ウォルターの曲が一番多く、アルバム・タイトルにしている曲だってそう。そして大々的にフィーチャーされているミック・ジャガーのハーモニカ、その模範としたのがやはりウォルターだった。

 

 

それでこの「行かないでくれ」(Hate To See You Go)を、 リトル・ウォルター、ポール・バタフィールド・ブルーズ・バンド、ローリング・ストーンズ、三つのヴァージョンを続けて聴いてみたけれど、ストーンズのはウォルターのオリジナルにかなり忠実だけど、バタフィールドのはかなり違うアレンジとフィーリングだよね。

 

 

そんでもってやはりはっきりした。いくらオリジナルに忠実にやろうが、大胆にリアレンジしようが、リトル・ウォルターのオリジナルと比較したら最後、ストーンズのとポール・バタフィールド・ブルーズ・バンドのは、やっぱりホワイト・ロックに他ならない。三つとも貼っておくので、みなさんも感じてみてください。

 

 

リトル・ウォルター→ https://www.youtube.com/watch?v=9ipVBX5znkI

 

ポール・バタフィールド・ブルーズ・バンド→ https://www.youtube.com/watch?v=aWYc-YVUUf0

 

2017/01/15

ホレス・パーランほどアーシーなジャズ・ピアニストっているのか?

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単に数字をあしらっただけのジャケット・デザインなのに、どうしてこんなにカッコよくてインパクトのあるものになるんだろう?ホレス・パーランの『アス・スリー』。ファンキーでアーシーな弾き方をするモダン・ジャズ・ピアニストのなかでは、僕が最も好きな人だ。

 

 

アメリカ黒人キリスト教会のゴスペル・ソングがルーツになっているアーシーな感覚をモダン・ジャズに活かしたものを、一般にファンキー・ジャズというが、世間一般的には間違いなくボビー・ティモンズの書いたアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズの「モーニン」で認識されているはず。

 

 

「Moanin’」という曲名自体が教会音楽風であることをはっきりと示しているし、 あれを書いたボビー・ティモンズもそんなアーシーな弾き方をするピアニストの代表格。しかしここで僕はまたいつもの調子でいつもと同じことを言うけれど、そんなゴスペル風ジャズをもっと濃厚にした1960年代後半からのものを、みなさんどうして聴かないんだ?

 

 

アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズに代表される1950年代末〜60年代初頭のファンキー・ジャズはあんなに人気があるのに、本質的にはそれと変わるところがなく、さらにファンキー・ジャズのその魅力の源泉をさらに煮詰めて凝縮したようなものは、どうしてあんなに人気がないんだろう?

 

 

こりゃ絶対オカシイよなあ。例のあのレア・グルーヴ・ムーヴメントで再発掘されなかったら、1960年代後半からのソウル・ジャズ〜ジャズ・ファンク(or ロック)は、いまだに埋もれたままのものがあったかもしれないよ。しかもあのレア・グルーヴは基本的にはクラブで踊れるものという選定基準だからなあ。

 

 

一時期以後のキャノンボール・アダリーのバンドなんて、時々「オーヴァー・ファンク」だなんて言われて、完全無視に近いような有様だった。あるいはいまだにそうかもしれない。キャノンボール・バンドの一部のアルバムはなかなか CD リイシューされなかったし、今でも誰一人として話題にしないからだ。

 

 

キャノンボールはそういった資質の持主だからこそ、例えばマイルス・デイヴィスの1958年『マイスルトーンズ』、59年『カインド・オヴ・ブルー』でも、特にブルーズ・ナンバーでああいった吹き方ができたんだと僕は思っているんだけどね。あれら二作をピュア・ジャズ・ファンは崇め奉るじゃないか。

 

 

そんないつものような話はこのあたりまでにして、そんな人たちと同じ資質を持つピアニスト、ホレス・パーラン。この人はおそらくチャールズ・ミンガスのバンドに在籍したことで注目されたんじゃないかなあ。参加アルバムは1959年の二枚『ブルーズ&ルーツ』(アトランティク)、『ミンガス・アー・アム』(コロンビア)。

 

 

実はもう一枚1957年作があるんだけど、それではホレス・パーランは全面参加ではない。一部で弾いているだけで、しかもアルバム全体にキリスト教会的なアーシーなゴスペル風味は薄い。だからそんな黒人音楽のルーツ的鮮明さが如実に表現されている『ブルーズ&ルーツ』『ミンガス・アー・アム』二枚で充分だ。

 

 

それらで真っ黒けなピアノを弾くホレス・パーランも注目されるようになって、翌1960年からブルー・ノートにリーダー作を録音するようになる。『アス・スリー』はその二作目にして、間違いなく最高傑作だ。アルバム・タイトルで分るようにピアノ・トリオ編成。ついでといってはなんだけど、1990年代に活躍したヒップホップ・ジャズの英国ユニット Us3はここから名前をもらっている。

 

 

バド・パウエル以後一般化したピアノ+ベース+ドラムスのトリオ・アルバムは、モダン・ジャズにはとんでもなく多い。一番人気があるのはビル・エヴァンスのトリオだろうなあ。今の僕は滅多に聴かないピアニストだ。同じ頃の人なら、レイ・ブライアントやウィントン・ケリーなどの方が絶対好き。

 

 

ホレス・パーランのスタイルもレイ・ブライアントやウィントン・ケリーと共通しているというか、この二人の影響が間違いなくある。しかし最大の違いはホレス・パーランは右手でシングル・トーンを弾くということが非常に少ない。ひょっとしてあるいは滅多にないと言えるかもしれない。

 

 

もっぱらブロック・コード弾きでグイグイ押しまくるスタイルの人なのだ。そのブロック・コードの和音構成とリズム・タッチのドライヴ感が、僕なんかはもうタマランとなってしまうくらいに真っ黒けで、黒人教会音楽やそれを土台にして成り立っているアメリカ黒人音楽好きには最高の嗜好品なのだ。

 

 

ちょっとその一例をご紹介しておこう。アルバム『アス・スリー』の一曲目のタイトル曲…、と思ったら YouTube にない!見てみたら、アルバムの収録曲は全て上がっているのに、曲「アス・スリー」とその他一曲だけが権利上の問題で日本では再生できないとの表示が出る。じゃあ僕が自分であげてもダメなんだ、きっと。残念極まりない。

 

 

あんなに真っ黒けでカッコいいモダン・ジャズのピアノ・トリオ曲って他にないのに。チェッ、しょうがねえなあ。代わりに、ベースとドラムスは別の人だけど、1997年の再演ヴァージョンは再生できるので、そちらをご紹介しておこう。日本のテイチク盤収録のもの。

 

 

 

どう聴いたって1960年のブルー・ノートへの初演とは比較にもならないが、再生できないんだからしょうがないだろう。上掲テイチク盤のでもなんとなくの雰囲気は少し分っていただけるかもしれない。充分黒くてカッコイイじゃないかと感じたそこのあなた、1960年ブルー・ノート盤のは、これの何百倍も凄いのだよ。

 

 

1960年ブルー・ノート・ヴァージョンの「アス・スリー」ではベースのジョージ・タッカーの野太いベースの音も素晴らしいし、ワイア・ブラシだけで猛烈にドライヴするアル・ヘアウッドのドラミングもいい。特にタッカーのごっついベース音と弾き方はこの演奏の屋台骨だ。

 

 

それに乗ってホレス・パーランがブロック・コード・オンリーで押しまくるアーシーさといったら、こんなにも美味いモダン・ジャズ・ピアノは滅多に聴けるもんじゃないねと思ってしまう。これを書いたパーラン自身、キリスト教会の黒人ゴスペルを想定して書いたんだと語っている。

 

 

しかもあれれっ?この「アス・スリー」という曲だけをリピート再生しているんだが、これ、ひょっとしてコードが全く変わっていないかもしれないぞ。ちょっともう一回それを確認しようと頭からじっくり再生し直してみたが、やはりこの曲、ワン・コード・チューンだ。F マイナー一発。

 

 

1960年録音だし、ワン・コードだし、じゃああれか、いわゆるモーダルな演奏法によるジャズなのかというと、そうじゃないように聴こえるよなあ。マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンやその他いわゆるあのへんのモーダル・ジャズ連中のはもっと抽象的だ。

 

 

それに比べてホレス・パーランの「アス・スリー」には抽象的なところなど微塵もない、極めて明快な音楽で、要するにこれはワン・コード・ブルーズみたいなもんなんだろうなあ。しかもワン・コード・ブルーズにありがちなドロドロした雰囲気(は大好きだが)ではなく、グイグイ快活に疾走する真っ黒さ。

 

 

12小節で(基本)3コードのブルーズはアルバム『アス・スリー』のなかに二曲ある。四曲目の「ウェイディン」と六曲目の「ウォーキン」。後者の方はスタンダード化している有名曲だけど、前者はホレス・パーランのオリジナル曲。しかもどっちもやっぱり教会風にアーシー。

 

 

自身のオリジナル・ブルーズがアーシーに仕上がっているのはこのピアニストの資質を考えたら当たり前で、演奏を聴いても極めてナチュラルなフィーリングだ。またしてもジョージ・タッカーのベース音が野太くグルーヴする。

 

 

 

だが「ウォーキン」(これも権利上の問題があるらしく YouTube 音源は日本で再生不可)の方は、テーマ・メロディにアーシーさがないし、ブルージーなフィーリングすら薄いようなブルーズなんだけど、そんなテーマを弾いている最中ですらホレス・パーランは真っ黒けな弾き方をする。

 

 

そんなわけなので、テーマ演奏が終ってソロ部分なると完全なる自分の世界に没入し、これまた黒人教会音楽風なアーシーさ全開のブルーズ・ピアノになっているんだなあ。いろんなジャズ・メンがやる「ウォーキン」だけど、ここまで真っ黒けに仕上がっているのを、僕は聴いたことがない。

 

 

さてアルバム『アス・スリー』には「カム・レイン・オア・カム・シャイン」「ザ・レディ・イズ・ア・トランプ」といった有名スタンダードもある。そういえば後者の方は昨年だったか一昨年だったか、トニー・ベネットとのデュオでレディ・ガガも歌っていたよなあ。これ↓

 

 

 

こんな感じのポップ・ソングなのにホレス・パーランと来たら、これまた真っ黒けな黒人教会音楽のようにして弾いちゃっているじゃないか。もろろんほぼ全編ブロック・コード弾き。

 

 

 

「カム・レイン・オア・カム・シャイン」も全く同樣。がしかしもっと興味深い曲が一つある。

 

 

アルバム二曲目のバラード「アイ・ウォント・トゥ・ビー・ラヴド」だ。この曲名でピンと来る方も大勢いらっしゃるはず。そう、これはダイナ・ワシントンの歌った曲なのだ。1947年のマーキュリー録音で、だから当然 SP 盤で発売されたもの。

 

 

 

シングル曲でしかもマーキュリーなので、アルバム収録も二種類。発売順だとマーキュリー録音完全集ボックス全七巻の一巻目に収録されたのが1987年発売。『ザ・ファビュラス・ミス D:ザ・キーノート、デッカ&マーキュリー・シングルズ 1943-1953』四枚組の一枚目に収録されたのが2010年発売。

 

 

熱心なブラック・ミュージック・ファンのみなさんには『ザ・ファビュラス・ミス D:ザ・キーノート、デッカ&マーキュリー・シングルズ 1943-1953』の方を強く推薦しておく。最高なんだよね。ジャズ/ブルーズ/リズム&ブルーズの三つの中間あたりで歌ったダイナの持味爆発だからだ。

 

 

だからそんな時代のダイナの歌をホレス・パーランがとりあげて演奏するのは、ダイナ、パーラン両者の資質を考えたら自然なことだけど、面白いのは普段はあんなに真っ黒けなパーランが、黒い音楽性を持つ歌手がやった曲をやっているにもかかわらず、「アイ・ウォント・トゥ・ビー・ラヴド」でだけはあまり黒くないってことだなあ。

 

2017/01/14

ハービー・ハンコックとチャチャチャと加藤茶

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ハービー・ハンコックの1963年録音、翌64年リリースのブルー・ノート盤『インヴェンションズ&ディメンションズ』で、ごく普通のジャズ・ファンが面白いと思うのは、CD だと四曲目の「ミモザ」以外のものだろうなあ。どうしてかというと、その当時の新しいジャズの潮流、すなわちモーダル、あるいはややフリーな演奏法が全面展開しているし、アヴァンギャルドで分りにくいからだ。

 

 

しかし今の僕にとっての『インヴェンションズ&ディメンションズ』は四曲目「ミモザ」こそが一番面白い。どこが面白いのかというと、この曲はチャチャチャなんだよね。もちろんインストルメンタル・チャチャチャだけど、キューバ音楽を聴くリスナーのみなさんであれば、だいたい納得していただけるはず。

 

 

 

『インヴェンションズ&ディメンションズ』現行 CD ではアルバム・ラストに、この「ミモザ」の別テイクも収録されているので、二つ聴ける。まあでも他の多くのジャズ・メン同様、ハービーのこれも本テイクと大差ないので、二つも聴く意味は薄い。

 

 

 

だからどっちのヴァージョンでもいいが、これは明らかにキューバン・チャチャチャじゃないだろうか?『インヴェンションズ&ディメンションズ』は、基本モダン・ジャズのピアノ・トリオ編成なんだけど、一名ラテン・パーカッショニストが参加している。オズヴァルド・チワワ・マルティネスで、コンガやボンゴやギロなどを担当。

 

 

「ミモザ」でのオズヴァルドはボンゴだね。そのボンゴと、ウィリー・ボボのドラムスの二つが出すリズムのかたちは完全にキューバン・ミュージック。チャチャチャといっても甘美なバラード風で、後半部のダンサブルなパートはなし。だからボレーロ風チャチャチャ。あるいはチャチャチャでもボレーロでもないかもしれないが、どう表現したらいいのかよく分らないので、とりあえずボレーロ風チャチャチャと言っておく。

 

 

一定世代以上の日本人なら、この「ミモザ」を聴いて、かなり多くの方があれを思い出すだろう。ザ・ドリフターズの『8時だョ!全員集合』で加藤茶がやっていたコントの BGM として流れるあれだ。「ちょっとだけよ」「あんたも好きねえ」などというあれ。YouTube にいくつもあるので一つ貼っておこう。

 

 

 

僕の場合、確か小学生の頃だなあ、これをテレビで見ていたのは。スケベな感じのコントの背後で流れるエキゾティックなリズムといやらしくグロウルする金管。その頃この BGM がなんなのか分るはずもなかったのだが、のちにキューバ〜ラテン音楽をどんどん聴くようになって、これは「タブー」というキューバン・ソングであることを知った。

 

 

「タブー」はマルガリータ・レクオーナの書いた曲で、何年頃のことかはっきりしないんだけど、1930年代のことらしい。叔父である有名な音楽家エルネスト・レクオーナのレクオーナ・キューバン・ボーイズによる録音がおそらく最初のレコードだろうから。

 

 

 

しかしこのレクオーナ・キューバン・ボーイズのヴァージョンはソンであって、ザ・ドリフターズの加藤茶のコント BGM で聴けるよなフィーリングは薄い。この曲をあんな感じでやったのはペレス・プラードだ。 あのリズムになっていて、金管もワーワー・ミュートを付けて激しくグロウルする。マンボとチャチャチャは関係あるもんね。

 

 

 

ある時期ペレス・プラード楽団は日本でも大人気だったし、こんな感じの「タブー」がストリップ劇場でのショウの BGM として使われたらしい。たぶん1950年代か60年代でも前半までか、いやまあ分らないけれども、使われていたのは間違いない。それでこの「タブー」にセクシャルなイメージがつきまとうようになったので、加藤茶もおそらくストリップ劇場でそれを経験して、自分が出演するスケベ・コントで使うことを思いついたんだろうなあ。

 

 

もちろん『8時だョ!全員集合』でペレス・プラード楽団の音源そのものを使うことは、権利上その他いろんな意味で難しそうなので、日本のどこかの楽団にペレス・プラード楽団ヴァージョンそっくりな感じでやらせて、それを使ったんだろうと思う。念のために付記しておくと、元々の楽曲「タブー」に性的なニュアンスはない。

 

 

それに『8時だョ!全員集合』で加藤茶があれをやっていたのは40年も前のことなので、と言っても僕の世代までだとあのイメージは拭いがたいものだけど、もはや今では「タブー」というキューバン・ソングに性的なニュアンスを嗅ぎとる日本人も少なくなっているかもしれない。

 

 

だからハービーの『インヴェンションズ&ディメンションズ』四曲目の「ミモザ」を聴いて、リズム・パターンが、あの加藤茶の「ちょっとだけよ」と同じだなんて言うのはどうかとも思うし、そもそも1963年録音だから、もちろんハービーとその他三名は、単にちょっとしたキューバン・ソングをやってみようと思っただけに違いない。ジャズ界には、誕生初期からアフロ・キューバンな味付けがしてあるものがかなり多いのも確かだしね。

 

 

そんでもって柔和で甘美なフィーリングもあって、ゆったりなバラードであることもあいまって、やはり僕にはハービーの「ミモザ」はインストルメンタルなボレーロ風チャチャチャに聴こえるんだなあ。オカシイだろうか、この認識は?繰返すが単にアフロ・キューバン・ジャズというだけならメチャメチャ多いが、ボレーロ風チャチャチャ・ジャズなんて、他には見当たらない。僕は知らない。

 

 

ハービーの『インヴェンションズ&ディメンションズ』。 CD では三曲目の「ジャック・ラビット」もアフロ・キューバンではある。けれどもこれは要するに「チュニジアの夜」みたいなもんで、ジャズ界にはごくごく当たり前にあるものでしかないので、格別珍しいとか新しくもない。

 

 

 

中盤でウィリー・ボボとオズヴァルド・チワワ・マルティネス二名による打楽器アンサンブル・オンリーの演奏になるパートがあるものの、それもアート・ブレイキーらが「チュニジアの夜」をやる時などによくやるパターンにソックリだもんね。そのパートではウィリー・ボボが「ソッピーナッ!ソッピーナッ!」(Salt Peanuts) とスネアを叩いているのも普通のジャズ的。

 

 

またその打楽器アンサンブル・パートが終わってからのハービーのピアノも、バド・パウエルの「ウン・ポコ・ロコ」にかなりよく似ているじゃないか。ブロック・コードでそんな感じのフレーズを叩きつけている。むろん曲名がスペイン語であるバドのあれもラテン・ジャズだ。

 

 

だいたいハービーの『インヴェンションズ&ディメンションズ』は、ドラマー以外に全面的にラテン・パーカッショニストが参加しているにもかかわらず、アルバム全体は、一部を除きどこもラテン・ジャズではないという、なんだかよく分らない一枚なんだよね。ハービーはオズヴァルド・チワワ・マルティネスを起用して、いったいなにがやりたかったんだろう?

 

 

アルバム中、上で書いた「ミモザ」「ジャック・ラビット」以外でも、リズムはかなり複雑で普通のモダン・ジャズではなかなか聴けないような感じではある。ウィリー・ボボのブラシが印象的な一曲目「スコタッシュ」は6/8拍子、すなわちハチロクのリズム。

 

 

 

二曲目「トライアングル」はなんでもない4/4拍子ではじまるものの、中盤 4:31で突如12/8拍子に移行する。といっても極めてスムースにすっと変化しているので、ぼんやりしていると気付かない。そして 8:44 で4/4に戻るという三部構成だからこの曲名になっているんだね、きっと。

 

 

 

アナログ盤ではラストだった五曲目「ア・ジャンプ・アヘッド」だけが、ごくごく普通のモダン・ジャズのピアノ・トリオ(+パーカッション)演奏で、これにはリズムの面白さみたいな部分が全くないのだが、こう見てくるとハービーの『インヴェンションズ&ディメンションズ』は、ドラマーの他にパーカッショニストも起用して、複合リズムの実験をやろうとしたアルバムだったのか?

 

 

さらに言えば、アルバム中「ミモザ」以外の全四曲ではコード・チェンジが全くない。さらに用意されたテーマらしきものすらない。これはハービー以下全四名がどうやって演奏を組立てているのか、僕にはちょっと分りにくいようなものだ。たぶん一個のコードだけを提示して、あるいはひょっとして事前に一個のコードすらも用意されず、 フリーにやったかもしれない。

 

 

つまりリズム面でも和声面でも、そんなアヴァンギャルド、あるいはポスト・バップ的なモーダル・ジャズ作品であるという意味でこそ、ハービーの『インヴェションズ・アンド・ディメンションズ』は聴かれているはずだ。だからテーマ・メロディやコード・チェンジがあって、それなのにジャズではないような四曲目「ミモザ」はイマイチかも。ごく普通のジャズ・リスナーにはね。

 

 

しかしながら最初から書いているように、僕にはキューバン・ボレーロ風チャチャチャに聴こえる「ミモザ」こそが、この1963年のアルバムでは一番面白く、また一番美しいもののように思えるんだよね。しかしこれ、僕は長年全く感づいていなかった。チャチャチャとかボレーロとかもなんだか知らなかったし、チャチャチャといえば「おもちゃのチャチャチャ」、ボレーロといえばモーリス・ラヴェルの有名な「ボレロ」、あれしか思い浮かばなかったもんなあ。

 

 

それはそうとラヴェルのその「ボレロ」。一曲の終盤でパッと転調するのが大変ドラマティックに聴こえて絶大なる効果を発揮することを実証した史上初の作品かもしれないなあ。今日の本題とは全くどこも関係ないかもしれないが、このテーマはこれはこれで一度考えてみてもいいようなものかもしれない。その後、曲終盤での劇的転調が増えるようになったからさ。それに関連して、全く転調なんかしないワン・コード、ワン・グルーヴのブルーズ、ファンクとの関係とかさ、面白そうじゃない?

2017/01/13

静/動の共存〜マイルスとザヴィヌルの関係

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マイルス・デイヴィスの音楽がもっとも激しく変化した1968〜70年頃。この時期のマイルスに、音楽的かつ直接的に最も大きな影響を及ぼしたキー・パースンがジョー・ザヴィヌルだ。この時期のザヴィヌルはまだキャノンボール・アダリー・バンドの一員だったのだが、そのかつてのサイド・マンだったサックス奏者のバンドで鍵盤楽器を弾くザヴィヌルにマイルスもかなり注目していたようだ。

 

 

マイルスがザヴィヌルを初めて知ったのは、よくよく調べ直してみると、ザヴィヌルがダイナ・ワシントンの伴奏をやっていた時らしい。僕は長年キャノンボール時代のザヴィヌルを聴いて知ったんだと思っていたので、今回この文章を書くにあたり調べて、初めてこの事実を知った。

 

 

ザヴィヌルのダイナとの活動期間は1959〜61年。そういえば、のちにこの鍵盤楽器奏者とバンドを組んで大成功することになるウェイン・ショーターも、マイルスはこの時期に知っている。そしてザヴィヌルとショーターの二名も、このほんのちょっと前に知り合っていたようだ。

 

 

しかしダイナ時代のザヴィヌルはアクースティック・ピアノを弾いていた。マイルスとの録音歴では電気鍵盤楽器のイメージしかないし、そのフェンダー・ローズ(やときたまオルガン)のもたらす独特のサウンドこそが、マイルスのニュー・ミュージックにとっても必要不可欠なものだったので、ダイナ時代に知っていたとはいえ、本当にいいなと思ったのは、やはりフェンダー・ローズを弾くようになるキャノンボール時代じゃないかなあ。

 

 

キャノンボール時代のザヴィヌルについては以前詳述したので今日は省略する。アメリカ黒人ゴスペルを土台とした真っ黒けでアーシーでグルーヴィーな曲を、ザヴィヌルはボス、キャノンボールのために書いて、自ら演奏もした。マイルスもそういうのを聴いて、こりゃいいなあ、この電気鍵盤楽器のサウンドは、そしてそれを弾くザヴィヌルは、って思ったんだろう。

 

 

 

しかしこのリンク先では、ザヴィルヌルの黒い音楽性に焦点を当てたものだから書かなかったが、同時にザヴィヌルはかなり静かでピースフルな作風の曲も、キャノンボールのバンド用に書いていた。それらは、オーストリアはウィーン生まれで同地で育ち音楽教育を受けたというザヴィヌルの、一種の音楽的里帰りだったのかもしれない。

 

 

ファンキーでグルーヴィーなものを書く時のザヴィヌルはわりとシンプルな作風で、ワン・グルーヴ的なもの(まあファンキー・ミュージックってだいたいそんなもんだ)なのだが、ウィーンへの里帰り的郷愁を帯びたスタティックなものを書く時は、難しいコードをたくさん使った入り組んだ作風なんだよね。

 

 

キャノンボール・バンド時代から、ザヴィヌルにはこの一見相反するかのような両面があって、それがまるで一枚の紙の表裏のようにピッタリ貼り付いていた。マイルスが、まずこの鍵盤奏者兼コンポーザーと共演したいと考えた際には、ひょっとしたらこれらの要素を二つとも持ってきてくれということだったかもしれない。

 

 

マイルスとザヴィヌルの初共演は1968年11月27日。2曲3トラック録音しているが、2曲ともザヴィヌルのオリジナル・コンポジションで、「アセント」1つと「ディレクションズ」2ヴァージョン。そしてこの初共演から既に、書いてきたようなザヴィヌルの持つ<静/動>両面が表現されている。

 

 

1968年11月27日の録音セッションでまず最初にやったのは「アセント」。これが静的極まりない作品で、全編にわたりテンポ・ルパート。三人の鍵盤奏者(ハービー・ハンコック、チック・コリアのフェンダー・ローズ、ザヴィヌルのオルガン)がひじょ〜にピースフルでシンフォニックな響きを奏でる上で、マイルスとショーターがソロを吹く。

 

 

 

しかしこれ、ちっとも面白いようには聴こえない。僕にとっては14分以上もあるこれを最後まで集中して聴き通すのは、はっきり言って苦痛だ。でもクラシック音楽のファンであれば少し違った見解になるかもしれないなあ。なぜならば、ちょっと新ウィーン楽派っぽいような感じもあるんじゃないかと思うからだ。

 

 

新ウィーン楽派とは、多くの場合、無調音楽、十二音技法で知られているはず。もちろん上で音源を貼ったマイルスの「アセント」はそのどっちでもない。明確なトーナリティが存在する音楽だ。しかしこの1968年頃からマイルスは「トーナル・センター・システム」という用語を使って、和声的にはほぼフリーに近いようなものを指向するようになっていた(言う必要はないと思うが、フリー=無調ではない)。

 

 

僕は楽理には全く詳しくないので間違っていたらゴメンナサイだけど、マイルスの言うトーナル・センター・システムとは、用語通り中心となる一個の音だけを決めて、例えば C なら C だけ決めて、C (に類する各種)のコード、C をキーとする各種モード(施法=スケール)、特に C を起点とするクロマティック・スケールなどなど、どんなものを使って演奏しても構わないというもの。これがマイルスについての場合に限り、僕のトーナル・センター・システム理解だ。

 

 

それらのうち、クロマティック・スケールこそが最も重要で、かつマイルスは最もやりやすかったものかもしれない。半音階の使用は、西洋クラシック音楽でなら結構古くからあって、J・S・バッハに既にそういう作曲があるけれど、十二音的(=クロマティックな)音列配置が普及・一般化するのは、やはり20世紀に入ってからじゃないかなあ。

 

 

そしてそんな和声システムの影響なのか関係ないのか、マイルスはある時期以後、特にライヴ演奏での自らのトランペット・ソロのなかで、クロマティック・スケールを上下するようなものを吹くことが増えていた。主にアップ・テンポのハードな曲調のものでのことだけけど、バラードでも1960年代中期、あのハービー・ハンコック&ロン・カーター&トニー・ウィリアムズがリズム・セクションだった時代からはそうなっているものが散見される。

 

 

たぶんその1960年代中期のライヴでは、マイルスもまだ十二音技法的なトーナル・センター・システムというものをはっきりと自覚してやっていたわけではないと僕は思う。しかし前々から書くようにこの人はキャリア初期から西洋クラシック音楽が好きで勉強もたくさんやっているので、例えばバルトークなどだって当然聴いている。

 

 

マイルスは1975年のインタヴューでバルトークの名前と作品名を出したこともあるのだが、それは今日の話題に関係ない文脈においてだったので放っておく。自覚的にか無自覚的にか分らないが、クロマティック・スケールをライヴでの自らのソロでは頻用するようになっていたマイルスが、はっきりと自覚してそんな和声システムをサイド・メンにも指示するようになったのは、1968年あたりだろうと思う。

 

 

マイルスがそれを「トーナル・センター・システム」と呼んでいたというのを知ったのは、僕の場合、1989年にバンドに在籍したケイ赤城の発言によってだった。記憶ではマイルスの死後にケイ赤城がインタヴューでマイルス・バンド時代のことを聞かれて、この用語でバンド・メンに指示していたと発言していた。

 

 

ようやく今日の本題に戻るが、そんな西洋クラシック音楽的な和声システムにも通じているザヴィヌルが、1968年暮れにマイルスのレコーディング・セッションに参加して、オリジナル楽曲を書いて持参し演奏でも参加したことは、かなり深い関係があるように僕は思うんだなあ。

 

 

ザヴィヌル初参加の1968年11月27日の録音3トラックでは、上掲「アセント」が、まあ全くつまらないものでしかないように僕は思うけれど、これがマイルスが初めて演奏したザヴィヌル・ナンバーだったというのは、なかなか意義深いことかもしれない。この(評判の悪い言葉で言えば)牧歌的路線が、約三ヶ月後に録音される「イン・ア・サイレント・ウェイ」となって結実するからだ。

 

 

これまた非常に重要なことだから注意してほしいのだが、ザヴィヌルがマイルスのために書いた牧歌的で静的な作品の演奏では、アド・リブ・ソロがない。まず100%ないと言って差し支えない。リアルタイムでの未発表作品も含めてざっと勘定すると、そんなスタティックなものが全部で七曲あるんだが、管楽器もギターも鍵盤もなにもかも、アド・リブ・ソロを演奏しない。

 

 

ザヴィヌルの書いた静的だが美しいメロディをひらすら反復するだけなのだ。唯一、1969年11月19日録音の「オレンジ・レディ」でだけ、後半部でリズムがかなり活発になる。その部分はザヴィヌルの書いたものではないはず。だがその部分にもアド・リブ・ソロと呼べるものはなく、リズム・セクションの躍動感も突発的な即興とは思えない。

 

 

これはかなり前に一度書いたのだが、ザヴィヌルがまず最初マイルス・ミュージックに共感を抱いたのは、あの「ネフェルティティ」だったらしい。アド・リブ・ソロが一切なく、同じメロディを何度も何度もリピートするだけっていうあれ。あれを聴いたザヴィヌルは、「この人は自分と同じ考えを持っている」と思ったんだそうだ。

 

 

マイルスの録音用にとザヴィヌルが書いたピースフルでスタティックなナンバーでアド・リブ・ソロが全くないというのが、マイルスの考えだったのかザヴィヌルの持ち込んだ発想だったのかを判断するのは難しいし、あまり意味もないと思う。両者とも同じ時期に同じ指向性を持っていたということだろう。その最高の果実が1969年2月18日録音の「イン・ア・サイレント・ウェイ」になる。

 

 

さて、マイルスとザヴィヌルの初顔合わせとなった1968年11月27日の録音セッションでやった、ザヴィヌルの持つもう一つの方向性、すなわち動的でファンキーな要素が、2ヴァージョン録音された「ディレクションズ」だ。これは激しい曲調で躍動するグルーヴ・ナンバー。

 

 

 

僕は前々から繰返しているが、1969〜71年の全てのマイルス・ライヴにおいて例外なく、この「ディレクションズ」がオープニング・ナンバーだった。その三年間の同曲の変遷を辿るだけで、この時期のマイルス・ミュージックの変遷が端的に理解できてしまうほどの最重要曲。これはかなり前に詳述したのでお読みいただきたい。

 

 

 

 

この路線の延長線上にあるのが1969年2月18日録音の「イッツ・アバウト・ザット・タイム」(はマイルス作とのクレジットになってはいるが、実質的にはザヴィヌル作と言って差し支えない、『イン・ア・サイレント・ウェイ』収録)とか、69年8月21日録音の「ファラオズ・ダンス」(『ビッチズ・ブルー』)だ。

 

 

アルバム『ビッチズ・ブルー』になった1969年8月の録音セッションを最後に、マイルス・ミュージックにおけるザヴィヌルは、表面的には消えてしまう。だがしかし当時は未発表だったものが1970年2月6日の録音セッションまであって、ザヴィヌルはやはり曲を書き演奏もしている。

 

 

しかしながら、マイルス&ザヴィヌルの共演で未発表だったものでは、1970年頃のものよりも、2001年の『ザ・コンプリート・イン・ア・サイレント・ウェイ・セッションズ』で初めて世に出た1969年2月20日録音の二曲「ザ・ゲットー・ウォーク」「アーリー・マイナー」が最も面白いように思う。この日付は『イン・ア・サイレント・ウェイ』録音のわずか二日後。

 

 

録音パーソネルもドラマーがトニー・ウィリアムズからジョー・チェンバーズに交代しているだけで、あとは全員同じ。この日に録音された「ザ・ゲットー・ウォーク」「アーリー・マイナー」では、後者がザヴィヌルの書いた曲で、やはり「アセント」「イン・ア・サイレント・ウェイ」路線の静的なもので、和声構造的に探求すると面白そうだが、聴いた感じでは、僕にはどうにも退屈でしかない。

 

 

 

だがマイルス作となっている「ザ・ゲットー・ウォーク」の方は相当にカッコイイ。これはファンキーなグルーヴ・ナンバーだ。ザヴィヌルはやはりオルガンを弾いていて、その弾き方もファンキーだし、またフェンダー・ローズを弾くハービーも、ギターのジョン・マクラフリンもかっちょええ〜。

 

 

 

さらにウッド・ベースのデイヴ・ホランドがファンキーなラインをリピートしていて、それがこの「ザ・ゲットー・ウォーク」の肝になっているように思うんだが、ホランドの即興ではないし、作曲者となっているマイルスに書けそうもないものだし、やっぱりこれもザヴィヌルの書いたものだったに違いないと僕は踏んでいる。このウィーン生まれの人物は、こういったファンキーなベース・ラインを書かせたら当時の白人では右に出る存在がいなかった。

 

 

この1969年2月時点でのマイルス・ミュージックとしては最高にファンキーな「ザ・ゲットー・ウォーク」。プロデューサーのテオ・マセロも、26分以上もある長さのためなのかどうなのかお蔵入りにはしたけれど、相当気に入っていて、1972年発売の『オン・ザ・コーナー』用に編集しオーヴァー・ダビングなども行って収録しようというプランもあったようだ。その際には『オン・ザ・コーナー』は二枚組になる予定だったとか。

 

 

ザヴィヌルがマイルスにもたらしたものは、1972年のあんな作品にまで続いていたんだね。なお、ザヴィヌルが曲を書いたり演奏で参加したりと、なんらかのかたちでマイルスと共演したものは、『ザ・コンプリート・イン・ア・サイレント・ウェイ・セッションズ』『ザ・コンプリート・ビッチズ・ブルー・セッションズ』、この二つのボックスで残さず全部聴ける。

2017/01/12

アルバータ・ハンターらあれらの歌手たちとモダン・ブルーズは繋がっているぞ

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歌手アルバータ・ハンターの録音集では、オーストリアのドキュメント・レーベルが出しているバラ売り四枚(五枚だという話もあるが?)の『コンプリート・レコーディッド・ワークス・イン・クロノロジカル・オーダー』 という味も素っ気もないタイトルのものが一番いい。それにしても、ドキュメントってどうしてボックスにしてリリースしないんだろう?

 

 

アメリカの戦前ブルーズならドキュメント、同戦前ジャズならフランスのクラシックス。この二大復刻レーベルのものは全てバラ売りで、同一人物で何枚あってもボックスにしたことがない。僕なんかはどうせ全部買うんだし、それなら買う手間が一度で済むし、散逸しない(バラ売り複数枚のものが離れ離れにしまって、もう一度一緒にするため整理するのに手間取った経験がある)ボックスの方が助かるんだけど、一般的には逆なのかもなあ。

 

 

まあそれはいいや。アルバータ・ハンターは、一般的にはブルーズ歌手となっている。といっても僕のなかではどっちかというとジャズ歌手なんだけどね。あの1920年代に大活躍した女性ブルーズ歌手たちの伴奏は、ほぼ100%と言っていいほど同時代のジャズ・メンがやったんだしなあ。まあジャズ・メンってのはあの時代からずっと21世紀までも、いわばユーティリティ・プレイヤーではあるけれども。

 

 

一番知名度があるだろうベシー・スミスだって、僕が大学生だった30年以上前にはジャズの枠で日本盤レコードが出ていたよ(例のCBS ソニーの「肖像」シリーズ)。ベシーの伴奏だって全てジャズ・メンだし、アルバータ・ハンターにしても、その他のあの時代の女性ブルーズ歌手にしても全員そう。

 

 

あのへんの歌手たちのことを、ブルーズ・リスナーでも(そしてジャズ・ファンも)苦手だという方がいるように見えるのは、たぶん古い1920年代ジャズ・バンド風サウンドに馴染が薄いか、あるいは聴いてはっきりと分るいかにもブルーズという黒い音楽感覚がないせいなのかもしれない。19〜20歳頃からは古いジャズがこの上なく好きになってしまった僕は、アルバータにしろベシーにしろマ・レイニーにしろ、みんな大好きだ。

 

 

だけれども、僕のなかではジャズ歌手という位置付けのアルバータの録音集にしてからが、ドキュメント・レーベルが復刻するということ自体、ブルーズという枠内で認識されているという証拠だから、そこは素直に認めなくちゃね。それにしてもアルバータについての英語・日本語問わず各種文章って、だいたいどれも彼女の劇的な人生のことは詳述しているけれども、肝心の音楽的内容についてはほとんど書かれていない。

 

 

アルバータは、まだ商業録音がはじまっていない1910年代半ばからシカゴで歌手活動をはじめていて、特にドリームランド・カフェでキング・オリヴァーのバンドと一緒にやったあたりでブレイクしたらしい。それが1917年のことで、大人気になって同年に欧州公演も実現している。その頃、録音がはじまっていればなあ。

 

 

レコーディング開始はニュー・ヨークに進出した1921年から。主にフレッチャー・ヘンダスンのバンドが伴奏で、ドキュメント盤のデータ記載では「ヘンダスンズ・ノヴェルティ・オーケストラ」という名称になっている。まだホットにスウィングするジャズ・バンドになる前の時代で、しかし同バンドをバックにアルバータがブラック・スワン・レーベルに吹き込んだ二曲を聴くと、なかなかどうして悪くない演奏だ。

 

 

ただしピアノのフレッチャー・ヘンダスン以外のメンバーは判明していない。あと1921年のブラック・スワン録音では、残り二曲の伴奏をレイズ・ドリームランド・オーケストラがやっている。聴いた感じ、そっちの方が伴奏の腕前は上だなあ。だいたいフレッチャー・ヘンダスン自身、あの頃はまだピアノの腕前も全く大したことはないんだ。

 

 

それでもブラック・スワンではなくパラマウントに録音するようになる、ドキュメントのアルバータ完全集一枚目五曲目〜二枚目以後も、やはりフレッチャー・ヘンダスン楽団からのピック・アップ・メンバーやヘンダスンのピアノ一台が伴奏をやっているものが多いので、なにかあったのかもなあ。大して上手くもないからね。


 

 

パラマウントでの初録音である1922年7月(何日かは不明)録音の「ダウン・ハーティッド・ブルーズ」。これはアルバータの自作曲だが、これこそがアルバータの名前を一躍有名にしたレコードだ。といっても有名になったのは、翌23年にこれをカヴァーして歌ったベシー・スミスのヴァージョンだけどね。

 

 

そもそもベシーの「ダウン・ハーティッド・ブルーズ」は彼女の生涯初録音だ。前年リリースのアルバータのレコードを聴いて感銘を受けたに違いなく、聴き比べると、ベシー・ヴァージョンはクラレンス・スミスのピアノ一台の伴奏だけで歌っていることもあるし、声の張りもより堂々としていて、アルバータのよりも人気が出るのは分る気がする。

 

 

 

これに対しアルバータのオリジナルはジャズ・バンドの伴奏で、ビュービー・ブレイク(Bubie Blake)ズ・オーケストラとなっている。ピアノがビュービー・ブレイクである以外のメンバーは全員不明だが、聴いた感じ、トランペット、トロンボーン、サックス、クラリネットなどの管楽器主体のバンドだ。

 

 

ところでこのビュービー・ブレイク(Bubie Blake)と書かれているピアニストは、ユービー・ブレイク(Eubie Blake)とは違うんだろうか?ユービーはジャズっぽいピアニストで、ヴォードヴィル・ショウなどでも活動した有名人だが、ビュービー・ブレイクという名前の人物は僕は知らないなあ。

 

 

ともかく1922年パラマウント・オリジナルの「ダウン・ハーティッド・ブルーズ」におけるアルバータのヴォーカルには、黒っぽいようなフィーリングがあまり聴き取れないばかりか、声の張りもさほど朗々としたものではない。どっちかというとやはりジャズ系の歌手に近い軽快でポップなフィーリングでの発声と歌い廻しだ。

 

 

 

同じ曲だから聴き比べがたやすいアルバータのとベシーのと、どっちがいいかはリスナーの好み次第だなあ。ただはっきりしているのは後年まで人気が続いているのはベシー・ヴァージョンの方だってこと。アルバータの方は「ベシーに影響を与えた歌手」だという位置付けになってしまっている。

 

 

僕はどっちも好きなので、どっちがいいとかは言えない。どっちも素晴らしくいいじゃないか。そして「ダウン・ハーティッド・ブルーズ」はアルバータ最大の代表曲になって(それはベシーがカヴァーしてくれたおかげかもしれないが)、彼女は1970年代後半に「奇跡の復活」を遂げて以後も、繰返しこの自作ブルーズを歌っている。

 

 

多くのみなさんには、そういう現代の再演ヴァージョンの方が聴きやすいんだろうと思うので、探したら YouTube に上がっていたものを二つ紹介しておこう。録音も極上だし、しかもアルバータの声も奇跡的にあまり衰えていない。

 

 

 

 

1976年に音楽界に復帰し、ジョン・ハモンドの肝煎でコロンビアと契約して再びレコード(今度は LP アルバム)をリリースするようになったアルバータのそれが、どうして「奇跡の復活」で、それまでの数十年間なにをしていたのかなどは、上で触れたように多くの文章が彼女の人生を語っているので、ご一読いただければ分る。僕は音楽そのものにしか興味がない。

 

 

なお、上で二個貼ってご紹介した「ダウン・ハーティッド・ブルーズ」のアルバータ自身による現代再演を聴けば、あることに気付くはず。モダン・ブルーズとほぼ変わらないという事実だ。これは1920年代(を中心とする)あれら女性ブルーズ歌手についてのある種の言説が、真っ赤なウソであることの明白な証拠だ。

 

 

その言説とは、アルバータやベシーやマ・レイニーなどなどあれらの歌手は、一応ブルーズに分類されてはいるが、マディ・ウォーターズたちのやったものや、それに続くいろんなブルーズとは「根本的に」異なる種類のもので、クラシカルなブルーズなのだというもの。

 

 

こういう文章は実に多い。僕も大学生だった30年以上前からいろいろと読んできた。しかしそんな言い方は上でご紹介した二つのアルバータによるモダンな再演の「ダウン・ハーティッド・ブルーズ」を聴けば、完全なる誤謬として消え失せるはずだ。ダウン・ホーム感のあるモダン・シカゴ・ブルーズに近いからだ。

 

 

アルバータの復帰作である1980年のコロンビア盤『アムトラック・ブルーズ』の大半は、やはりジャズっぽいブルーズ、あるいはジャズ・ソングと呼ぶべきものもあるが、刮目すべきは B 面一曲目だったアルバム・タイトル曲「アムトラック・ブルーズ」なんだよね。

 

 

 

タイトルでお分りの通り、アメリカにある大きな鉄道に題材をとったもの(この点でも、鉄道が頻出する、戦前から続くカントリー・ブルーズとの共通項がある)。そして出だしのエレキ・ギターに注目してほしい。これは完全なモダン・シカゴ・ブルーズ・ギタリストの弾き方だよね。

 

 

その後アルバータのヴォーカルが出てきて以後の伴奏はやはりジャズ・バンドだけど、その後のソロを弾くエレキ・ギターは強烈なダウン・ホーム・ブルーズじゃないか。歌の部分ではクラリネットやトランペットが絡んだりするが、それもジャジーというよりもブルージーだもんね。

 

 

つまり1920年代のあの都会派女性ブルーズ歌手と、そのルーツになっていたであろうアメリカ南部における誕生期のカントリー・ブルーズと、そこからそのまま直接発展した戦後のシカゴなどにおけるモダン・バンド・ブルーズと、それらぜ〜んぶ繋がっているぞ。どこが根本的に異質なクラシカル・スタイルなもんか。

 

 

確かに聴感上は音も古いし、伴奏はジャズ・メンだし、ヴォーカルの感じにもブルージーなフィーリングが明確じゃないし、そもそも発声と歌い廻しが大衆音楽の歌手にしてはやや古風なものだしで、とっつきにくいのは僕もよく分る。だが先入見を捨ててよく聴いてほしいのだ。根本的にはモダン・ブルーズと同質の音楽だろう。

 

 

あぁ、本当はドキュメントがリリースした CD 四枚の『コンプリート・レコーディッド・ワークス・イン・クロノロジカル・オーダー』 の話をもっとたくさんするつもりだったのに。三枚目で全面的に参加しているルイ・アームストロングはレッド・オニオン・ジャズ・ベイビーズの一員で、1924年11月録音。クラリネットのバスター・ベイリーやピアノのリル・アームストロング(既に「ハーディン」ではないので結婚していた)もいる。

 

 

またその三枚目には、サッチモは参加していないが、「ドント・フォーゲット・トゥ・メス・アラウンド」「ヒービー・ジービーズ」という二曲のサッチモ・ソングがある。それらのアルバータによる録音は1926年だから、サッチモ・オリジナルの、前者は同年、後者は翌年。

 

 

またファッツ・ウォーラーのオルガン伴奏一台で「シュガー」などのポップ・ソングや、W・C・ハンディが版権登録したブルーズ・ソングなどを歌うアルバータもなかなか悪くない。アルバータやベシーらが活躍したあの時代、ジャズとブルーズが切り離せないものだったということも含め、またモダン・ブルーズと繋がっているということも含め、ああいった女性歌手たちをもっとしっかり聴いてくれないかなあ。

2017/01/11

ひょっとして矢野顕子の大先輩?〜 ネリー・ラッチャー

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第二次大戦が終わるか終らないかという時期に出現したアメリカ大衆音楽の特色の一つとして、ピアノを弾きながら歌う黒人女性歌手というのがある。むろんもっと前からいるにはいて、パイオニアはおそらくクリオ・ブラウンじゃないかなあ。クリオの初録音は1935年だからね。

 

 

同じような音楽の場合、男性だとファッツ・ウォーラー、そしてなんといっても1940年からのナット・キング・コールで有名だけど、女性の活躍が一般化するのはやはり40年代半ば以後だったんじゃないかと思う。その後はたくさん出てくるようになって、例えばニーナ・シモンなんか有名だし、21世紀の現在までたくさんのピアノ弾き語り黒人女性歌手がいる。そんななか、僕にとって忘れられない一人がネリー・ラッチャー。

 

 

しかしこのネリー・ラッチャーという黒人女性ピアノ弾き語り歌手、どこへ分類したらいいのかよく分らない。僕のなかではジャズ系のイメージもあるんだけど、でもジャジーな感じは薄いなあ。かなりスウィングするピアノの弾き方と歌い方だけどね。黒っぽいという人もいるようだけど、そんなフィーリングも僕はあまり感じない。

 

 

もっとこうポップだよね、ネリー・ラッチャーは。ポップ〜ジャズ〜ブルーズ〜 R&B を全部足して四で割ったような人だ。だからどれか特定のジャンルを熱心に聴いているリスナーだと、ネリー・ラッチャーは見逃している場合が多いかもしれない。ネリーだけでなく、クリオ・ブラウンもローズ・マーフィーも。

 

 

ルイジアナ生まれのネリー・ラッチャー。キャリアのスタートは早い。12歳の時(1924年)にマ・レイニーの伴奏をやった経験があるらしい。その後30年代から活動が本格化するが、このピアノ弾き語り黒人女性歌手が一般に広く知られるようになったのは、やはりなんといっても1947年にキャピトル・レーベルと契約してからだ。

 

 

特に同年のシングル盤「ハリー・オン・ダウン」が大ヒットして、ビルボードの R&B チャート二位、ポップ・チャートですら20位まで上昇したミリオン・セラーになって、これでこのちょっと危険な香りもするポップ・ソングを歌うネリー・ラッチャーも有名になった。

 

 

危険な香りっていうのは、この「ハリー・オン・ダウン」は、ボーイ・フレンドを電話で呼びつけ、早く家に遊びに来て!私以外誰もいないのよ、早く!早く!早く来てくれないと別の男(サム)を呼ぶわよ、という内容の歌なんだよね。ネリー・ラッチャーの自作。だからまあピアノを弾く女性シンガー・ソングライター(矢野顕子とか)の走りみたいな人だった。

 

 

そんな歌であるのに、しかしネリーのピアノの弾き方と歌い方にはねっとりとしたセクシーさみたいなものはなく、もっと軽快でポップで、明るく笑っているようなフィーリングだよね。黒さみたいなものもほぼ全くないと言って差し支えない。

 

 

 

僕が持つネリー・ラッチャーの録音集は、27曲入りの『ハリー・オン・ダウン』という英 Sanctuary Records がリリースしているもの。2003年リリースとジャケット裏に記載があるが、この年はおそらく僕がこの女性歌手をちゃんと知った最初だったはずだ。英国のレーベルが出しているというのは理解できる。ネリーは英国でも人気があったからだ。

 

 

1947年の「ハリー・オン・ダウン」の大ヒットで、ネリーはその後キャピトルから続々とレコードを出せるようになった。僕の持つ録音集『ハリー・オン・ダウン』でも17曲目までは全部47年録音。その後48〜51年までのものが10曲。

 

 

ただしそのうち、22曲目以後は、24曲目の「パズ・ナット・ホーム - マズ・アップステアズ」という、「ハリー・オン・ダウン」の歌詞と完全に同内容の曲名のものを除き、全て管楽器奏者も参加している。特に最後の三曲は大編成オーケストラの伴奏。しかしこの頃になると、ネリーのチャーミングさは失われかけていて、ピアノも弾かず、あまり面白いもんじゃないなあ。

 

 

ただしその直前である1950年録音の22、23曲目が、トランペット奏者とサックス奏者が参加して、伴奏だけでなくソロも吹くが、大変面白い。なぜかというとナット・キング・コールがピアノとヴォーカルで参加しているからだ。言うまでもなくナットもまたキャピトルと契約していた。

 

 

ナットとの共演はネリーにとっては願ったり叶ったりというものだったはず。1947〜49年のネリーの録音は、僕の聴いている限り全てギター、ベース、ドラムスのカルテット編成で、ドラムスを外せばナット・キング・コール・トリオと同じことになるし、実際、サウンドを聴いても非常によく似ている。

 

 

ナットはネリーにとってのアイドルでありお手本だったようだ。むろんネリーは1930年代から活動しているので、最初はナットの影響化でやりはじめたわけじゃない。特にピアノの方は例によってアール・ハインズ・スタイルの持主だけど、書いたように1947年に活動を本格化するわけだから、その頃には既にレコードも売れていたナット・キング・コール・トリオの影響も大きくなっていたはずだ。

 

 

カルテット編成だってナット・キング・コール・トリオを真似してドラマーを足しただけじゃないかなあ。ピアノの弾き方も似ているし、ポップな感じの強いジャズ・ピアノ弾き語りと、そしてそれにジャイヴィーでユーモラスな味があるヴォーカルを乗せるスタイルもナットを下敷きにしたんだろう。

 

 

ネリーの歌い方には、ホント面白い味がある。発音のやや誇張した感じとディクションに特徴があって、これは女性に限れば彼女がはじめたものかもしれない。その後は上で名前を出したニーナ・シモンなど、いろんな女性歌手がいるけれど、第一号はネリーじゃないかなあ。

 

 

だから真っ当というかシリアスなものを好むタイプのジャズ・ファンであれば、こんな芸能色の強いネリーは敬遠するだろう。音楽的にはジャズにかなり近いものだと僕には聴こえるが、まあジャズには入れず、録音時期からしてもリズム&ブルーズなどに分類した方が理解されやすいんだろう。

 

 

とはいえ、ネリーは有名ジャズ・ソングも複数やっている。最も有名なのは、僕の持つ録音集だと11曲目の「ファイン・アンド・メロウ」だ。その他15曲目には「アレクサンダーズ・ラグタイム・バンド」もある。前者はビリー・ホリデイであまりにも有名。後者はアーヴィング・バーリンが書いて、ベシー・スミスやルイ・アームストロング以下、実にたくさんのジャズ歌手・演奏家がやっているもんね。

 

 

「ファイン・アンド・メロウ」はビリー・ホリデイ最大の得意レパートリーの一つで、1939年4月のコモドア録音を手はじめに、その後もヴァーヴ、(戦後の)コロンビアにも録音している。これは12小節3コードという、意外に思われるかもしれないが彼女としてはかなり少ないブルーズ・ソングだ。

 

 

ブルーズ・ソングだから、ジャズ・バンドの伴奏でやる洗練された都会の1920年代女性ブルーズ歌手、アルバータ・ハンターも録音している。それは1939年8月録音と、ビリー・ホリデイのコモドア・ヴァージョンの直後。ビリーのもアルバータのも、いかにも粘っこい感じの歌い廻しでやるブルーズ。

 

 

 

アルバータ・ハンター https://www.youtube.com/watch?v=N4s94lQwwZU

 

 

どっちかというとアルバータ・ヴァージョンの方が僕は好き。ビリー・ホリデイ最大の得意分野は小唄、すなわちポップな流行歌であって、ブルーズはちょっと得意じゃない人だというか、僕にはやや聴き苦しいんだよね。オカシイかなあ?アルバータのはやっぱりブルーズが本領の歌手だけあるという出来だ。

 

 

ところがネリー・ラッチャーがこのネチっこい「ファイン・アンド・メロウ」をやると、まあブルーズを歌っているというフィーリングはあるけれど、それよりもグッとポップになって軽快な感じで、やはりまるで小唄。こういう感じになるのがネリーの持味だったと僕は思うんだよね。ビリー・ホリデイやアルバータ・ハンターと比較すれば、違いは瞭然としている。

 

 

 

「ハリー・オン・ダウン」同様大ヒットになった「ヒーズ・ア・リアル・ゴーン・ガイ」 もいいなあ。ポップで軽快でスウィンギー。同じく大ヒット・ナンバー「ファイン・ブラウン・フレイム」はミドル・テンポで軽々と粋に歌うお洒落な感じで、これまたポップで黒い感じはない。

 

 

 

 

僕の持つネリーの録音集だと13曲目は、最初に聴いていた時「オォ、レイ・チャールズ!オォ、レイ・チャールズ!」と歌っているように聴こえるもんだから、あれれっ、レイ・チャールズのことを歌ってるのか?あるいはなにか関係があるのか? と思ったんだけど、これは Ray Charles ではなく Lake Charles だったという(恥)。曲名も「レイク・チャールズ・ブギ」。その後知ったが、ネリーはルイジアナのレイク・チャールズ生まれらしい。

 

 

 

1940年代後半以後、ホントこういった感じでピアノを弾きながら歌う黒人女性歌手がたくさん出てくるようになって、しかもだいたいどの人も一つの特定ジャンルにだけおさまるような味じゃないから、意外に看過されがちなんじゃないかなあ。ネリー・ラッチャーの他にも、上で名前をあげたローズ・マーフィーの他、ジュリア・リー(はキャリアは古い)、ヘイゼル・スコット、ベティ・ホール・ジョーンズ、マーサ・デイヴィスなどなど。

 

 

だから「ピアノ弾き語り黒人女性歌手」という一つの枠を作ってほしいと思うくらいだけど、欧米にはむろんそんなのは存在しないし、日本でもそんな括り方は中村とうようさんしかしていないような気がする。とうようさんは、今日話題にしたネリー・ラッチャー を世界で初めてフル・アルバム化した人なんだそうだ。

 

 

ネリー・ラッチャーに関してはドイツのベア・ファミリーが CD 四枚組のコンプリート集をリリースしているが、僕はそれを持っていない。そこまで買う必要はない人なんじゃないかと思うんだけどね。しかし上で名前をあげたようなピアノ弾き語りの黒人女性歌手は、みんな一個の特定ジャンルにおさまらないからこそ持味を発揮できた、いわばブラック・ポップ・エンターテイナーだね。ブルーズとか R&B 寄りだけど、ジャズ・ファンも聴いてほしいな。

2017/01/10

これぞ正真正銘のレア・グルーヴ・ライヴ

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間違いなく例のレア・グルーヴ・ムーヴメントによって CD リイシューされたジャズ・オルガニスト、ロニー・スミスの『ライヴ・アット・ザ・クラブ・モザンビーク』。間違いなくと言えるのは、僕が持っているそのアメリカ盤 CD パッケージに「ブルー・ノート・レア・グルーヴ・シリーズ」という文字があるからだ。

 

 

というこの書き方は実は正確ではないというか間違っているんだよね。ロニー・スミスの『ライヴ・アット・ザ・クラブ・モザンビーク』は、タイトル通りデトロイトのクラブ・モザンビークにおける1970年5月21日のライヴを収録したものだが、これはなぜだか当時はリリースされなかった。

 

 

ロニー・スミスの『ライヴ・アット・ザ・クラブ・モザンビーク』の初リリースがなんと1995年の CD によってだったのだ。だからそれは CD「リイシュー」ではなく、世に出た最初だ。現在僕が持っているキャピトル(が当時ブルー・ノートの権利を持っていた)盤 CD もその95年のもの。

 

 

つまりロニー・スミスの『ライヴ・アット・ザ・クラブ・モザンビーク』は、録音されてから25年間も全く世に出なかったってことなんだなあ。すんげえカッコいいジャズ・ファンク・グルーヴなのに不思議だ。今ではジミー・スミスの1972年盤『ルート・ダウン』と並ぶ、僕の大好物なんだよね。

 

 

ファンキーな弾き方をするジャズ(系)オルガニストの1970年代におけるライヴ・アルバムでは、ジミー・スミスの『ルート・ダウン』と、ロニー・スミスの『ライヴ・アット・ザ・クラブ・モザンビーク』が僕にとってはモスト・フェイヴァリットに他ならない。しかしロニー・スミス盤の方が演奏・録音は先だったなんてねえ。

 

 

ジミー・スミスの『ルート・ダウン』にはソウル・マン、アル・グリーン最大の代表曲「レッツ・ステイ・トゥゲザー」のカヴァーがあるが、ロニー・スミスの『ライヴ・アット・ザ・クラブ・モザンビーク』にはファンカーの代表曲のカヴァーが二曲あって、やはり同趣向の音楽だと分るようなものなんだよね。

 

 

ロニー・スミスの『ライヴ・アット・ザ・クラブ・モザンビーク』にあるファンク・カヴァー二曲は、一曲目の「アイ・キャント・スタンド・イット」と七曲目の「アイ・ウォント・トゥ・サンキュー」。ファンク・ファンであれば、いやそうじゃなくたって、だいたいみなさんこれらの曲名だけでピンと来るはず。

 

 

そう、一曲目の「アイ・キャント・スタンド・イット」はジェイムズ・ブラウンの、七曲目の「アイ・ウォント・トゥ・サンキュー」はスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンの、それぞれ超有名曲だ。後者の方は最大のシンボル、ファンク・イコンだと言っても差支えない聖典だもんなあ。

 

 

しかしロニー・スミスの『ライヴ・アット・ザ・クラブ・モザンビーク』では、七曲目の「アイ・ウォント・トゥ・サンキュー」ははっきり S・ストーンとコンポーザー名が明記されているけれど、一曲目の「アイ・キャント・スタンド・イット」は L・スミスと書いてあって、自作曲みたいになっているのは解せない。

 

 

こりゃオカシイね。アルバム一曲目のそれが鳴りはじめた瞬間に、全員、これはジェイムズ・ブラウンのあれだと分っちゃうのになあ。  全くおんなじじゃないだろうか。以下に音源を貼っておくので、ちょっと聴いてみて。

 

 

 

 

 

七曲目の「アイ・ウォント・トゥ・サンキュー」はこれ。一曲目にかんしては作曲者名クレジット問題が残るものの(だいたい初リリースが1995年なんだから、ちゃんとしたらよかったのになあ)、ロニー・スミスのカヴァー・ヴァージョンもカッコイイね、どっちも。

 

 

 

一曲目の「アイ・キャント・スタンド・イット」では、いきなりエレキ・ギターがジェイムズ・ブラウン・オリジナルと同じ単音弾きリフを演奏するが、それはジョージ・ベンスンが弾いているんだよね。ファンク・マナーでのドラミングはジョー・デュークス。二人ともブラザー・ジャック・マクダフと深い関係がある。

 

 

ジョージ・ベンスンもジョー・デュークスも、1950年代末頃からジャズ・オルガニスト、ジャック・マクダフのバンドにレギュラー参加していて、当時ブラザー・ジャック・マクダフ・カルテットと名乗っていた。もう一名はサックスのレッド・ハラウェイ。バンドがこの四人編成だったのはいつまでだったんだろう?

 

 

なお今日の話題の主人公ロニー・スミスは、そのブラザー・ジャック・マクダフ・カルテット時代のジョージ・ベンスンと知り合っていて、1966年にジョージ・ベンスン・カルテットを結成した際にロニー・スミスがレギュラー参加。だからその時期から継続的に演奏活動をともにしていたんだなあ。

 

 

また上掲音源二曲を聴いていただければ、バリトン・サックスのファンキーなソロが出てくるのがお分りだと思うけれど、それがロニー・キューバー。ロニー・スミスの『ライヴ・アット・ザ・クラブ・モザンビーク』がリリースされた1995年頃は、ドクター・ジョンのバンドで吹いたりもしていたよね。

 

 

そのバリトン・サックスのロニー・キューバーは、前述1966年結成のジョージ・ベンスン・カルテットのレギュラー・メンバー。つまりロニー・スミスの同僚だったのだ。なんだかブラザー・ジャック・マクダフをきっかけに全員ずるずる繋がっているよなあ、ファンキー・ジャズ方面の人たちが。

 

 

上でロニー・スミスの『ライヴ・アット・ザ・クラブ・モザンビーク』一曲目の「アイ・キャント・スタンド・イット」(ヴォーカルというか声はロニー・スミス本人)と「アイ・ウォント・トゥ・サンキュー」という有名ファンク・チューンの音源を貼ったけれど、この二曲、典型的にこのアルバムの内容が出ている。

 

 

それら二曲以外の六曲は、一曲を除きロニー・スミスのオリジナル。アルバム・ラストは、マイルス・デイヴィスがやったので有名なヴィクター・フェルドマンの書いた代表曲「セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン」だ。これも普通のジャズじゃないような感じだ。

 

 

 

一応リズムは4/4拍子のストレート・アヘッドなジャズ風で、サックス二名、ギタリスト、オルガニストと続くソロもハード・バップ・ジャズ風であるとはいえ、ドラマーの叩き方がすんなりとしたジャジーなフィーリングじゃないもんね。どっちかというとやはりファンクに近いようなドラミングだよなあ。

 

 

アルバム中、4/4拍子のものがもう一曲ある。二曲目の「エクスプレッションズ」。これはファンクっぽい跳ね方のグルーヴというよりも、フラットにずんずん進む通常のジャズ・ビートで、ドラマーのハイハットの踏み方もそう。各人のソロもジャジーだ。

 

 

 

この「エクスプレッションズ」はアルバム中最も長い11分以上もあるので、まあ目玉というかハイライトなのかもしれないが、ロニー・スミスやジョージ・ベンスンやロニー・キューバーなどなど、その界隈のミュージシャンのこの時期の音楽としては、ちょっと面白味に欠けるかもしれないなあ。

 

 

これよりは、ロニー・スミスのオリジナル・ナンバーであれば、アルバム三曲目の「スクリーム」(https://www.youtube.com/watch?v=d5Gl7sinHgY)とか四曲目の「プレイ・イット・バック」(https://www.youtube.com/watch?v=X43jG5BhUdE)とかの方がグルーヴィーでファンキーでカッコイイじゃん。

 

 

アルバム通してこんなのがメインで続くので、グルーヴの快感が長続きして気持良いんだけど、一曲だけちょっとおとなしめのバラード風なものがある。五曲目の「ラヴ・ボウル」だ。それでもドラマーの、特にスネアのハタハタとした叩き方はまあまあファンキーだ。

 

 

 

アルバム六曲目「ピース・オヴ・マインド」もミドル・テンポのファンク・グルーヴだが、この曲ではロニー・スミスがたくさん喋り、また歌ってもいる。随分と声が若いよなあ。決して上手いヴォーカルじゃないけれど、トーキング・スタイルで悪くない。

 

 

 

このアルバムでも、ギターのジョージ・ベンスンは全編、空洞ボディにピック・アップの付いたいわゆるフルアコと言われる種類のギターを弾いている。これは間違いない。ベンスンはそういう種類のものしか弾かない人だ。ソリッド・ボディ・ギターでファズをかけていたらもっと僕好みだったけどなあ。

 

 

だからこれはこれで充分グルーヴィーだし、ギター・フレイジングもファンキーかつブルージーで(かつてB・B・キングがベンスンを「彼は彼のブルーズを演っている」と褒めたことがある)、ギターと相性のいいハモンド B-3 オルガンを弾くロニー・スミスともピッタリ息が合っていて申し分ないね。

 

 

それにしてもロニー・スミスの『ライヴ・アット・ザ・クラブ・モザンビーク』。こんな素晴らしい内容のジャズ・ファンク・ライヴを録音しておきながら、どうして25年間もリリースせずお蔵入りさせていたんだろう?やっぱりこの点だけが不可解だなあ。CD で出たあとは二枚組 LP でもリリースされたようだ。

2017/01/09

ジャグ・バンドはロックの源流の一つ

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第二次大戦前のアメリカにはたくさんあったジャグ・バンド。その当時の同国大衆音楽の雑多な要素がゴッタ煮になっていて実に楽しい。ジャグ・バンド・ミュージックは基本的には黒人音楽、なかでもブルーズ寄りだけど、そればっかりでもないんだよね。いわゆるヒルビリー・ミュージックも溶け込んでいるし、黒人/白人を問わず当時のポップ・ミュージックがいろいろと混ざり込んでいた。

 

 

ジャグ・バンドというくらいで、瓶(jug)を使う。ガラスか陶器でできた瓶の口をブッブッと吹いて低音を出すわけだ。その他、ハーモニカ、カズー、フィドル、ギター、ウォッシュボードなどが入る場合が多い。ウォッシュボードが今で言うドラムス、ジャグがジャズにおけるチューバとかトロンボーンみたいなもので、それにくわえウォッシュタブ、すなわち洗濯桶に棒を立ててロープを張って鳴らし、それがストリング・ベースの役目。この三つがいわばリズム・セクションで、その上に書いたような楽器で実に素朴なアンサンブルとも呼べないようなサウンドを出し、ヴォーカルを乗せる。

 

 

戦前におけるジャグ・バンドのメッカは、なんといってもまず発祥地とされるケンタッキー州ルイヴィル、次いでテネシー州メンフィス。どっちかというとメンフィスの方が重要かもしれない。どうしてかというと、この都市がアメリカ南部における黒人音楽芸能のある意味中心地、集約地だったからだ。たくさんのジャグ・バンドがあったようだが、なかでもメンフィス・ネイティヴであるハーモニカ(その他)奏者ウィル・シェイドが結成したメンフィス・ジャグ・バンドが最も有名で代表的な存在だ。

 

 

ブルーズ・ファンであればメンフィス・ジャグ・バンドを知らない人はいないだろうというほど有名なのは、あのメンフィス・ミニーが参加したことがあるからだ。録音も残っている。僕が持っているこのバンドの録音集はたったの一枚だけだから偉そうなことは言えないが、それは米ヤズー・レーベルの出した『ザ・ベスト・オヴ・メンフィス・ジャグ・バンド』という全23曲。

 

 

ヤズー盤『ザ・ベスト・オヴ・メンフィス・ジャグ・バンド』は1927〜1934年の録音集だけど、このバンドは1950年代末まで存在し、かなりの量を録音しているみたいだ。だがまあしかしやっぱりアメリカ大衆音楽史で見たら、1920年代末〜30年代半ばまでの録音が重要だろうなあ。

 

 

といっても僕の持つ『ザ・ベスト・オヴ・メンフィス・ジャグ・バンド』で最も新しい時期の録音である1934年ものは二曲だけで、他は全て1930年までの録音が21曲。これは間違いなく例の大恐慌のせいだね。あれでいろんな音楽家(だけじゃないが)の活動も滞ってしまった。

 

 

ヤズー盤『ザ・ベスト・オヴ・メンフィス・ジャグ・バンド』。バンド創設者で中心人物のウィル・シェイドは当然全曲で演奏したり歌ったりしているが、それ以外のメンバーはかなり頻繁に入れ替わっている。CD 附属の紙に全曲の録音年とパーソネルが書いてあるのだが、しかしそれは収録曲順でもなく録音順でもないから(いったいなに順?)やや分りにくいが。

 

 

ウィル・シェイドはヴォーカル、ハーモニカはもちろん、ギターもたくさん弾いている。それ以外のバンド編成は、ジャグはもちろん欠かせないが、もう一名のギター、カズーが基本。多くの曲がそれだけのメンツなんだけど、あとはバンジョーとマンドリンが入ったり、一曲だけフィドルが入るものがある。

 

 

つまり弦ベース代わりのウォッシュタブは全くなしで、だからジャグのブッブッという音がまあ低音担当だなあ。ウォッシュボードやなにかの打楽器など、ドラムス代わりの楽器もなしだ。だからこの1927〜34年頃のメンフィス・ジャグ・バンドは、あくまでジャグとギターとカズーとハーモニカ、そしてヴォーカルなんだよね。

 

 

そんな素人楽器みたいなものばかりで、音楽的な中身もまあルースなものをありがたがることはないだろうと思うような人は、ヴォードヴィル・ショウからブルーズなどアメリカ黒人音楽芸能史に疎いか、ロックンロール誕生の経緯を知らない人だってことになるなあ。どうしてかというと、ジャグ・バンドは、要するに以前も一度書いた原初音楽衝動、つまり「バンドやろうぜ!」というものだからだ。ってことはつまり、仲間が集まって音楽をやる楽しさも知らないんだってことになるんだよね。

 

 

メンフィス・ジャグ・バンドに代表されるメンフィス・エリアは、上で書いたようにアメリカ南部黒人音楽の集約地みたいなところだったので、当地のジャグ・バンドはカントリー・ブルーズ、ホウカム、あるいはもっと前からのアメリカ黒人音楽芸能と一体化して結びついていた。

 

 

なんたってタンパ・レッドが史上初録音を行なったのは、メンフィスで活動していたマ・レイニー&ハー・タブ・ジャグ・ウォッシュボード・バンドでだもんね。 マ・レイニーって、一般的にはあくまでジャズ・バンドの伴奏でやる洗練された1920年代の都会派ブルーズ(例のクラシック・ブルーズという用語は、もう今後は使わないことにした)の歌手だという認識だろうが、意外にそういう録音もあるんだよね。

 

 

1928年録音のマ・レイニー&ハー・タブ・ジャグ・ウォッシュボード・バンドは、実はジョージア・トムのバンドだ。ジョージア・トムはもちろんタンパ・レッドと非常に強く結びついた人物として憶えられているはず。ジョージア・トムの最初の結婚相手ネティがマ・レイニーの衣装係だったので、おそらくはそれでこの女性ブルーズ歌手との縁ができたんだろう。28年にマ・レイニー&ハー・タブ・ジャグ・ウォッシュボード・バンド名義で八曲録音している。

 

 

たぶんその頃にタンパ・レッドも参加したか、少なくとも顔を出していたんだろう。ジョージア・トム・ドーシー&タンパ・レッド二人の名義でマ・レイニーの伴奏をやった録音が、1928年に六曲ある。それはマ・レイニー&ハー・タブ・ジャグ・ウォッシュボード・バンド名義録音の直後なんだよね。

 

 

ジョージア・トムとタンパ・レッドといえば、あの1928年の強烈な「イッツ・タイト・ライク・ザット」だとなるよね。あの曲のパンクな苛烈さは、ロックンロール第一号と呼びたいくらいのものだ。そんなジョージア・トムとタンパ・レッドがメンフィス・エリアでジャグ・バンドに関係していたのは、決して偶然なんかじゃない。

 

 

メンフィスのジャグ・バンドが黒人ブルーズ、特にやはりメンフィス・ブルーズと密接に結び付いていたことは、ヤズー盤『ザ・ベスト・オヴ・メンフィス・ジャグ・バンド』を聴いても非常によく分る。だいたい全部の曲がいわゆるブルーズ形式で、それもほとんど12小節3コードのシンプルな定型。

 

 

それにくわえブルーズ・ファンには超有名人のメンフィス・ミニーがヴォーカルとギターで参加する録音もあったりするので、一層このジャグ・バンドはブルーズ・バンドだという認識になるだろう。だが僕が聴いた限りではメンフィス・ジャグ・バンドにおけるメンフィス・ミニーはさほど重要な意義を持っていない。

 

 

女性歌手参加のものに限っても、数でもハッティー・ハートの方が多いし、音楽の質からしてもハッティーの方が重要だ。ヤズー盤『ザ・ベスト・オヴ・メンフィス・ジャグ・バンド』にあるハッティーが歌うものは三曲(メンフィス・ミニーは一曲)。全部面白いが、最高作は1930年の「コケイン・ハビット・ブルーズ」だね。

 

 

 

伴奏はジャグとギターとカズーとハーモニカ。ハッティーと一緒に歌うのはベン・ラムジー。ジャグの低音が、ジャズ・バンドにおける管ベース、すなわちチューバと同じ役割を果たしていて、さらにウィル・シェイドのハーモニカの吹き方はかなりブルージーだ。そしてなんといってもハッティーのヴォーカルが相当にいいじゃないか。

 

 

同じくハッティーがメンフィス・ジャグ・バンドで歌う「アンビュランス・マン」(1930)と「パパズ・ガット・ユア・ウォーター・オン」(1930)では、まるでベシー・スミスみたいに咆哮するし、「メンフィス・ヨー・ヨー」(1929)では実に寂しく哀しげ。

 

 

 

 

 

これらを聴けば、やはりこのメンフィス・ジャグ・バンドとはすなわちブルーズ・バンドじゃないかとなるんだが、しかしこんな感じじゃないものの方がヤズー盤『ザ・ベスト・オヴ・メンフィス・ジャグ・バンド』には多くて、黒くてブルージーに聴こえるものの方が例外かもしれないと思うほど。

 

 

『ザ・ベスト・オヴ・メンフィス・ジャグ・バンド』を聴くと、白人バラッドの伝統だって混じり込んでいるし、そもそもこのバンドの中心要素であるブルーズは、この1920年代後半は、まだまだバラッドと不可分一体だったし、マウンテン・ミュージック由来の白人音楽、ヒルビリーの痕跡だって感じるものだし、最も重要なのはやはりかなりダンサブルであるという点だろうなあ。

 

 

ヴォーカルの味にも、あるいはカズーやジャグ(あるいはメンフィス・ジャグ・バンドにはないがウォッシュボードやウォッシュタブなど)などの楽器が出す味にも、かなりノヴェルティなフィーリングがあって、しかもこれは僕がジャズ・ファンだからなのか、当時のジャズ・バンドに相通じるものすらあるように聴こえる。

 

 

ホーム・メイドの素人楽器でやるブルーズとバラッドとヒルビリーなどを根底に据えたノベルティでスウィンギーなダンス・ミュージック。それがジャグ・バンド・ミュージックだ。そんなジャグ・バンドとは、ここまでお読みになって既にお分りの通り、あのスキッフルと同質のもの。つまりロックンロールの原初形態だ。

 

 

実際、1960年代にジャグ・バンドは再び注目され復活した。それはいわゆるフォーク・リヴァイヴァル・ムーヴメントにおいてのことで、例の高名なハリー・スミス編纂の『アンソロジー・オヴ・アメリカン・フォーク・ミュージック』に収録されているジャグ・バンドを参考に、白人(アングロ・アメリカン)たちがジャグ・バンドをやりはじめた。

 

 

そんな1960年代のアメリカのコーヒー・ハウス・ジャム・セッションのなかで白人たちがやりはじめたジャグ・バンドのうち最も有名なのは、おそらくジム・クエスキン・ジャグ・バンドとイーヴン・ダズン・ジャグ・バンドだろう。どっちにものちに有名ロック歌手になるマリア・マルダーがいるんだよね。

 

 

またアメリカにおけるジャグ・バンド・リヴァイヴァルは1960年代だが、イギリスではその少し前、50年代中盤にブームになっていた。それが今日も上で名前を出したスキッフルだ。ロニー・ドネガンらのあのスキッフルの本質は、要はイングリッシュ・ジャグ・バンドだってこと。スキッフルが初期 UK ロックにとってどれだけ重要かは、繰返す必要がないはず。

 

 

つまり「バンドやろうぜ!」という原初音楽衝動で、ホーム・メイドの素人楽器やギターなどのシンプルなもので集まったってことなんだよね。こんなのはアメリカにおける田舎町のブルーズ(的なもの)が発端だが、ロックンロールが戦後あれだけ大流行したのも、クラシックやジャズにはない、ちょっとやってみようよっていうそんな気持にさせてくれる親しみやさ、分りやすさがあったからだろう。

 

 

ってことで、ロック・ファンのみなさんも、戦後のフォーク・リヴァイヴァルのなかで復活した白人ジャグ・バンド連中だけでなく、そのルーツたる戦前の黒人ジャグ・バンドもどんどん聴いてほしい、そんな気持で今日は書きました。

2017/01/08

ジャンゴとアメリカの戦前ジャズ・メン

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1930年代後半にフランスに渡ったアメリカ黒人ジャズ・メンとフランス人ギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトが繰り広げた一連のセッション集。前から言っているように、1930年代後半というスウィング黄金時代におけるスモール・コンボ録音では三大名演集の一つだ。あと二つはテディ・ウィルスンのブランズウィック・セッションとライオネル・ハンプトンのヴィクター・セッション。

 

 

それら三つをスウィング期コンボ・セッション三大名演集とする評価は、僕が大学生の頃にははっきりとあったのだが、いつの間にか忘れられてしまい、今では言う人がほとんどいない、というか僕は全然見掛けない。なんたる悲劇だ。最大の理由はジャンゴのものを除きマトモな CD リイシューがされていないことだね。

 

 

テディ・ウィルスンのブランズウィック録音を CD でマトモにリイシューしているのは仏クラシックスだけ。ここがクロノロジカルに全集にして出してくれているのだが、あのテディ・ウィルスンのブランズウィック録音集は数が多く(全132曲、133トラック)、しかもそもそもの目的はジューク・ボックス用の安価なレコードをということで、アレンジ料はなし、参加各人のギャラも安かったらしい。

 

 

それでも名人揃いなので、なかには相当な名演になっているものがあって、だから名演集の一つに数えられるのだが、たいして面白くもない SP がかなりあって、玉石混交の石の方が多いというのが事実。これは油井正一さんもかつて明言していた。僕がこれを実感できるのも仏クラシックスが完全集でリリースしてくれているおかげではあるのだが、一般のジャズ・ファン向けには「玉」だけセレクトした、CD でおそらく二枚程度のアンソロジーがあってしかるべきだ。

 

 

ライオネル・ハンプトンのヴィクター録音集の方はまだマシだ。米モザイクが全集ボックスをリリースしているばかりか、一般のアメリカ盤でも一枚物や二枚物のベスト盤もあるから(といっても本家 RCA は出していないはず)、一般のファンにも買いやすく聴きやすい。僕は完全集含めそれらの選集も全て持っているというアホさ加減。

 

 

それらに比べるとジャンゴの録音集はマトモな扱いを受けているのはどうしてだろう?ギタリストだから、ジャズ・ファン以外の注目も集めやすいせいだろうか?ジェフ・ベックはじめ有名ロック・ギタリストだってジャンゴの名前を出しているしなあ。あるいはそんな理由で LP でも CD でもしっかりリイシューされているので、かなり助かる。

 

 

今では CD 四枚組の完全集になっている『ジャンゴ・アンド・ヒズ・アメリカン・フレンズ』。がしかし僕はそれを持っていない。四枚組は2000年のリリースだったはずだが、1998年リリースの CD 三枚組でもう充分というかお腹いっぱいなんだよね。かつてアナログ・レコードでは二枚(組じゃなかったと思うなあ)で出ていた。

 

 

何枚組でもいいが、僕が聴いている CD 三枚組の『ジャンゴ・アンド・ヒズ・アメリカン・フレンズ』は、ジャンゴのギター・ソロ名人芸を聴くアルバムではない。それを聴きたいとアテにして買うとガッカリする。ジャンゴはソロもまあまあ弾くが、それは必ずしも多いとは言えない。

 

 

『ジャンゴ・アンド・ヒズ・アメリカン・フレンズ』は、あくまで渡仏したアメリカ黒人一流ジャズ・メンの極上のソロを聴くべきアルバムだ。この理由があるからこそ、スウィング期三大名演集の一つに数えられているものなのだ。さほど多くはないソロを除きジャンゴのギターをというなら、リズム弾きの上手さがかなりあるのでそこを聴いてほしい。

 

 

実際、バックに廻ってコードをジャカジャジャカ刻んでいる時のジャンゴもスウィンギーな存在感抜群で耳を奪われるのは確かだ。録音も妙にギターの音が目立つものだしなあ。ジャンゴのギター・コード・カッティングは、同時代のアメリカにおけるそれの最大の名手であるフレディ・グリーンのスタイルとは違っている。

 

 

フレディ・グリーンの弾き方は4ビートにおける一小節に四つの和音を、拍に合わせ均等かつフラットに、それも極めて正確に弾くというもので、その和音構成も複雑な場合があり、さらにそれを一拍ずつ変えたりもする。相当なテクニシャンであるゆえんだが、ジャンゴの場合は、基本、そうでありながらも、しばしば八分音符、十六分音符などでオカズを入れる。

 

 

フレディ・グリーンの場合は一小節四つの音を全て同じ大きさで弾くのだが、ジャンゴの場合は一小節に四つのコードを刻む場合でも、二拍目と四拍目に強いアクセントを置く。そんでもってソロイストのフレーズの切れ目やワン・コーラス終って次に行く節目節目に、多彩な音で味付けをする。これはフレディ・グリーンはやらない。ただタイム感はグリーンの方が正確だ。正確すぎると思うほど4/4拍子の一拍ごとに完璧にジャストなタイミングで刻む。

 

 

そんな聴きどころがありはするものの、やはり『ジャンゴ・アンド・ヒズ・アメリカン・フレンズ』でのジャンゴはあくまで脇役であって、ソロを取る主役はアメリカ人ジャズ・メン。このアルバムでフィーチャーされている大物アメリカ人ジャズ・メンは、コールマン・ホーキンス、ディッキー・ウェルズ、エディ・サウス、ビル・コールマン、ベニー・カーター、ラリー・アドラー、レックス・スチュアート&バーニー・ビガード。

 

 

それにくわえ、大物とは言えず今では無名の存在かもしれないが、 ガーネット・クラーク(ピアノ)、フレディ・テイラー(ヴォーカル)、アーサー・ブリッグズ(トランペット)なども参加している。エディ・サウス(ヴァイオリン)やビル・コールマン(トランペット)らは、今ではあるいはこちらに入れられているのかもしれないね。

 

 

またラリー・アドラーも、ハーモニカに興味があるなら知らない人などいない有名人、というかパイオニアだけど、まあ普通のジャズ・ファンには無視されているよなあ。どなたかジャズ・ファンやジャズ・ライターの方が、ジャズの文脈でラリー・アドラーを話題にすることってあったっけ?

 

 

『ジャンゴ・アンド・ヒズ・アメリカン・フレンズ』最大の目玉はやはりコールマン・ホーキンスだろうなあ。僕の持つ三枚組に全部で八曲あって、これはアメリカ人ジャズ・マンのなかでは二番目に多いし、数だけでなく存在感が圧倒的だからだ。ホークは1934年にヨーロッパに渡り、そのまま1939年まで欧州で演奏活動をしていた。

 

 

これは別に黒人だからアメリカ本国で不遇だったとか、あるいは例の大恐慌のせいで演奏機会が減ったからとかではない。イギリス人ジャズ・バンド・リーダー、ジャック・ヒルトンに自分の楽団員にと招かれて渡英し、そのまま欧州各国をツアーしてまわっていたのだ。

 

 

そんなホークはフランスでジャンゴとのセッションを二回行っている。一回目は1935年5月2日。二回目は37年5月28日。いずれも四曲ずつ録音しているんだが、これが名演揃いなのだ。特に二回目37年セッションが凄い。最高傑作は「クレイジー・リズム」だろう。

 

 

 

どうです、このホークのテナー・ソロのスウィング感は!ホークがアメリカ本国で残したあらゆる録音よりも上なんじゃないかなあ。ここまで猛烈にドライヴするホークって、僕は他に聴いたことがない。なお、この録音にはアルト・サックス奏者二名、テナー・サックス奏者もホーク以外にもう一名参加している。

 

 

その四人のサックス奏者が次々と入れ替わりソロを吹くので、聴き慣れない方はホークのソロはどれ?ってなるかもしれないなあ。1:58 から入ってくる四人目のサックスがホークのテナーだ。その前の三人目がベニー・カーターのアルト。なお、そんなクレジットは一切ないので僕の耳判断だが、間違いないはず。

 

 

ホークのソロの時には、あまりにスウィンギーでカッコイイがために、誰の声だろう「カモン!カモン!」と叫んでいるのが聴こえるよね。この「クレイジー・リズム」一曲だけ取ってみても、このジャンゴのセッションがスウィング期最高の名演集の一つだと納得していただけるはず。

 

 

その他七曲でもホークのソロは素晴らしい。例えば1935年のセッションで録音した「スターダスト」。ジャンゴの盟友ステファン・グラッペリがヴァイオリンではなくピアノを弾くが、バラード吹奏におけるホークの堂々たる貫禄は見事だ。四年後にアメリカで録音し、生涯の名演とされる「ボディ・アンド・ソウル」になんら劣らない。いや、それより上かも。

 

 

 

「スターダスト」は『ジャンゴ・アンド・ヒズ・アメリカン・フレンズ』にもう一つある。1935年11月25日録音で、ガーネット・クラークのピアノ演奏をフィーチャーしたヴァージョン。ビル・コールマンがトランペットで参加しているが、やはりガーネット・クラークのピアノがいいね。

 

 

 

1936年5月4日のセッションでは、例のフランス・ホット・クラブ五重奏団に、ヴォーカルでフレディ・テイラーが参加して三曲録音している。それら三曲ではレギュラー・バンド中心での演奏だということもあるのか、ジャンゴも多めにソロを弾くが、テイラーのヴォーカルも面白い。

 

 

フレディ・テイラー参加の三曲で最も興味深いのは「アイズ・ア・マギン」(I’s A Muggin’)だろうなあ。アメリカ人ヴァイオリニスト、スタッフ・スミスの曲で、彼の最有名曲。といっても多くのモダン・ジャズ・ファンは無視しているかもしれない。そもそも知りすらしないかも。

 

 

でもロック・ファンなら全員「アイズ・ア・マギン」を知っているよ。どうしてかというと、ジョニ・ミッチェルのアルバムにあるからだ。といっても B 面一曲目のたったの八秒間だけどね。チャールズ・ミンガスもスタッフ・スミスがやった1936年のこんな曲が好きだったんだなあ。

 

 

スタッフ・スミスの「アイズ・ア・マギン」は1936年2月録音だから、フレディ・テイラーがジャンゴとやったのはそのたった三ヶ月後だ。バック・コーラスの入り方もスタッフ・スミスのオリジナル・ヴァージョンに忠実で、 ステファン・グラッペリのヴァイオリンにも、ジャイヴィーなフィーリングがあるような気がする。

 

 

 

カウント・ベイシー楽団で有名になるディッキー・ウェルズが、そのベイシー楽団加入1938年の一年前にジャンゴとやったものは省略して、ヴァイオリニスト、エディ・サウスとジャンゴの共演録音。全部で十曲あるが、面白いのは同じ楽器のステファン・グラッペリも参加した五曲だ。

 

 

「レディ・ビー・グッド」「ダイナ」「ダフネ」などなど。ヴァイオリニスト二名がユニゾンでテーマを演奏したり、代わる代わるソロを弾いたり、二人で対旋律的に絡んだりと、かなり楽しい。ジャンゴのリズム・ギターの上手さも非常によく分る。全十曲のうち二曲は、曲名がクラシック音楽風に「なんちゃらのムーヴメントにもとづくかんちゃらの即興」と長ったらしい。

 

 

しかし音楽的に面白いのはそんな二曲の「なんちゃらムーヴメントのかんちゃら即興曲」なのだ。それら二曲はエディ・サウス、ステファン・グラッペリ、ジャンゴ・ラインハルトのトリオ編成。たった三人とシンプルで、しかも曲名通りクラシックのバロック音楽風でもある。

 

 

それら二曲とも、二人のヴァイリニストがどっちがどうなっているだか分らないほど複雑に絡みあうパートがあって、そこが最大の聴きもの。ジャンゴはソロを全く弾かずリズム伴奏に徹していて、あくまでヴァイオリニスト二名の絡みを聴くのが楽しい。

 

 

アルト・サックス奏者ベニー・カーターをフィーチャーしたセッションは飛ばして、ハーモニカのラリー・アドラーがジャンゴと一緒にやって吹くのは全部で四曲。1938年5月31日録音。全部有名スタンダードだが、「ボディ・アンド・ソウル」「恋人よ我に帰れ」を知らない人はいないだろう。

 

 

それらニ曲ともラリー・アドラーのハーモニカ名技が聴ける。ちょっと面白いのは「恋人よ我に帰れ」だなあ。途中、ハーモニカを吹きながら同時に声を出しているのか、ブワ〜ッという音になっている瞬間がある。モダン・ジャズ時代には、ローランド・カークその他が似たようなことをやっているよね。

 

 

 

さて、個人的に『ジャンゴ・アンド・ヒズ・アメリカン・フレンズ』のなかで大学生の頃からの最大の愛聴セッションで思い出深く、今聴いても絶品だなと感心し一番大好きなのが、レックス・スチュアート、バーニー・ビガード二名のエリントニアンを迎えたセッション。1939年4月5日録音で全部で五曲。

 

 

この1939年4月はデューク・エリントン楽団のパリ公演があった時期だから、それで二名のエリントニアンズがジャンゴとセッションしたんだろうなあ。レックス・スチュアートもバーニー・ビガードも大好きな僕。特に後者のクラリネットはジャズ界では最大の好物。

 

 

五曲ともジャンゴ、レックス、バーニーにベーシストが入るだけの四人編成。そのうち僕が特に好きなのは、バラード「フィネス」とスウィンギーな「アイ・ノウ・ザット・ユー・ノウ」。前者でバーニーがクラリネットで表現する情緒とか、その後に出るジャンゴのソロも味があっていいなあ。

 

 

 

「アイ・ノウ・ザット・ユー・ノウ」の方はアップ・テンポでグルーヴする一曲。この曲ではレックス、バーニー二名のソロもさることながら、その背後でのジャンゴのリズム表現を聴いてほしい。彼以外にはベースしか入っていないなんて信じられないスウィング感を出しているじゃないか。ジャンゴ一人でリズムを創っていると言っても過言ではない。

 

 

 

ちなみにこの1939年のエリントン楽団パリ公演の際に、ボスのエリントンもジャンゴと知り合い、そのギター技巧の見事さに驚いて、このギタリストをアメリカに招いて自己のオーケストラとの共演を画策した。それが実現したのは戦後の1946年。この際にいろんな逸話が残っているが、その話はまた別の機会にしよう。

2017/01/07

シャアビ入門にこの MLP 盤を

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フランスの MLP(Michel Lévy Productions だったのが、最近 Michel Lévy Projects と改名したらしい) というレーベル。ここがたくさんマグレブ音楽の CD アンソロジーを出してくれているので随分と助かっている。本当にたくさんあるので全部名前をあげることは不可能だが、そのなかでも『ドゥーブル・ベスト』と銘打って何枚かリリースしているものからシャアビのアンソロジーの話をしたい。『ドゥーブル・ベスト』シリーズには他にもライだとか何枚もあって、僕もだいたい持っている。

 

 

MLP が『ドゥーブル・ベスト:ムジーク・シャアビ・ダルジェリ』二枚組をリリースしたのは2011年。これを翌2012年に日本のライスが日本盤でリリースしたのを僕は買った。シャアビのことをあまりよく知らない音楽好きが、なにか一つアンソロジーを聴いて、手っ取り早くこの音楽の姿を知りたいと思ったら、これが好適かもしれない。

 

 

ライスは、田中勝則さん編纂の例の CD 二枚組アンソロジー『マグレブ音楽紀行 第1集〜アラブ・アンダルース歴史物語』を2008年にリリースしている(「第2集」はいつ頃になるんでしょうか、田中さん?)。まさに入魂という言葉が相応しい力作アンソロジーで、もちろん田中さんご本人が書いている附属ブックレット解説文も驚異の充実度。

 

 

収録曲は全てアルジェリアなどマグレブ地域(と同地域出身で在仏)の音楽だが、ブックレット解説文は欧州イベリア半島におけるアラブ・アンダルース音楽の誕生から説き起し、それが北アフリカに移動、アルジェリアで古典音楽から大衆音楽として花開いたさまをつまびらかに書いてある。

 

 

そんな『マグレブ音楽紀行 第1集〜アラブ・アンダルース歴史物語』のなかにもシャアビは含まれている。当然だ。シャアビはアラブ・アンダルース古典音楽をベースにしてアリジェリアのアルジェで誕生した現代大衆音楽で、なおかつ最も人気のあるジャンルの一つだから、これを収録しないなんてありえない。

 

 

そして『マグレブ音楽紀行 第1集〜アラブ・アンダルース歴史物語』一枚目に、モハメド・エル・アンカが一曲収録されているのだが、これも極めて自然というか収録しないなんて考えられない。なぜならば、エル・アンカがシャアビをはじめた人物と言っても過言ではないからだ。

 

 

そして1920年代にアルジェのカスバでエル・アンカが生んだシャアビこそが、アラブ・アンダルース古典音楽が大衆音楽へと決定的に転回したものだったのだから、エル・アンカはアラブ・アンダルース音楽史における大革命家だったのだと言えるはず。エル・アンカの革命は大きく分けて二点。歌詞に現代アラビア語を用いたこと。古典的楽器ウードに代えてマンドーラやバンジョウを使ったこと。

 

 

この二大革命によって、エル・アンカのやったアラブ・アンダルース音楽はまさに「民衆の」音楽、すなわち文字通りシャアビとなったわけだ。そんなエル・アンカの録音は CD にすると、五・六枚ほど(130曲程度)はあるんだそうだ。たったの130曲程度、 CD で五・六枚ほどであれば全部ほしいが、僕が持っているのは二枚組一つだけ。それもまた MLP が出しているもので、やはり『ドゥーブル・ベスト』シリーズの一つ。

 

 

MLP の『ドゥーブル・ベスト:モハメド・エル・アンカ〜ル・グラン・メートル・デュ・シャアビ・アルジェリアン』の全14曲で代表曲はだいたい聴けるのかなあ?この二枚組も日本盤が、こっちはビーンズ・レコードから出ているようだが、僕が持っているのはこれはなぜかオリジナルのフランス盤。

 

 

『ドゥーブル・ベスト:モハメド・エル・アンカ』の一枚目トップに「ソブハネ・アッラー・ヤー・ルティフ」が収録されているが、この15分超の一曲が、最初に書いた『ドゥーブル・ベスト:ムジーク・シャアビ・ダルジェリ』のラストにも収録されているのだ。トップとラストに収録されている、つまりエル・アンカの、そしてシャアビの象徴的一曲っていうことなんだろうなあ。

 

 

エル・アンカの「ソブハネ・アッラー・ヤー・ルティフ」を聴くと、前々からこういうのがシャアビというものなんだぞと言われて聴いていたこの音楽の姿はもう既に完成している。何年録音なのかサッパリ分らないのだけが残念なんだけど(ご存知の方、教えてください)、楽器編成はかなりシンプルで、おそらくマンドーラとダルブッカだけ。ちょっぴりピアノのような音も聴こえるが、それはあくまで添え物だ。

 

 

マンドーラはエル・アンカ自身が弾いているに違いないんだから、つまりメインは二人だけだ。 ダルブッカで叩き出すリズムのパターンと、マンドーラで弾く魅惑的な旋律がシャアビの基本形。その基本形をエル・アンカが創造し、その後の多くのアルジェリア音楽家に甚大な影響を与え、それはラシッド・タハにまで及んでいる。

 

 

ラシッド・タハの名前を出したが、僕がシャアビというものを、この名前すらもまだ全く知らなかった頃に、その音だけ聴いていたのが、タハのやる「ヤ・ラーヤ」だったのだ。今考えたら、タハの「ヤ・ラーヤ」は普段の彼にしては想像しにくいほどトラディショナルなものだったなあ。このことは以前詳説した。

 

 

 

この記事でも書いてあるように、というか誰でも知っている当たり前の事実だが、タハのやったシャアビの名曲「ヤ・ラーヤ」は、ダフマーン・エル・ハラシが書き歌った曲。エル・ハラシはアルジェリア生まれでフランスで活動した人物で、第二次大戦後のシャアビの代表格だから、『ドゥーブル・ベスト:ムジーク・シャアビ・ダルジェリ』にも当然収録されている。

 

 

『ドゥーブル・ベスト:ムジーク・シャアビ・ダルジェリ』に最も多く収録されているのがエル・ハラシなんだよね。全部で四曲ある。一枚目一曲目の「ヤ・ザイル」もいいが、もっといいのは一枚目七曲目「ヤ・レジラ」や二枚目一曲目「キフェヘ・ラー」だ。なぜならばかなり現代的、あえて言えばロック的なんだよね。

 

 

それら二曲はロック風シャアビとかいうものでは全然ないんだけど、リズムの疾走する感じ、強いドライヴ感、マンドーラで弾くメロディのピチピチした新鮮さなど、やはりどこかロック・ミュージックに通じる部分があるんじゃないかと個人的には感じている。

 

 

エル・ハラシのシャアビをつかまえてロック的だとか言うと、アラブ音楽、マグレブ音楽好きでロック嫌いのリスナーのみなさん(がいらっしゃるかも)は間違いなく眉をひそめ、顔を歪め、頭から湯気を出さないまでも、もうコイツの文章なんか二度と読むまいとなるだろうなあ。

 

 

でもエル・ハラシがフランスで活動しはじめたのは1949年で、最初のレコード発売が1956年。亡くなったのが1980年だ。56〜80年って米欧におけるロック全盛期とピッタリ重なるじゃないか。エル・ハラシが自身の音楽に「直接的に」ロック感覚を導入したとは僕も思わないが、同時代人だからなあ。

 

 

ロック全盛期のフランスで、アルジェリアやその他マグレブ地域からの移民コミュニティ内でエル・ハラシが大人気だったのは、やはり(ロックにも通じる)現代感覚があったからに違いないと僕は考えているんだけどね。なんたって第二次大戦後のマグレブ移民社会では、エル・アンカ・スタイルのシャアビですら通じなかったそうだから。

 

 

シャアビにおける歌詞とフレイジングとリズムの現代化。それはつまり生きた時代の感覚に即応した新解釈ということであって、そんでもって音楽的にはロック大流行期だったんだから、直接にではなくともエル・ハラシの新しいシャアビのムーヴメントにそんなフィーリングがあったんだと言っても、大きくは的を外していないんじゃないかなあ。

 

 

現代アラブ・ロッカーみたいなラシッド・タハが、あれだけ執拗にエル・ハラシの「ヤ・ラーヤ」を繰返しカヴァーしているのだって、そんな現代感覚をあの曲に、そしてエル・ハラシという音楽家のなかに聴き取っているからに違いないと思うけどなあ。オカシイですか、僕のこの見解は?

 

 

『ドゥーブル・ベスト:ムジーク・シャアビ・ダルジェリ』。なんだか詳しいことは、シャアビの創設者エル・アンカと、モダン・シャアビ最大の人物エル・ハラシ二名の話しかしていないけれど、その他、エル・アンカに憧れて活動したゲルアービ、やはりエル・アンカをヒーローとし、エル・ハラシと一歳違いのブジェマア・エル・アンキス。

 

 

また、『マグレブ音楽紀行』でも紹介されていたアブデルカディール・シャーウーはアラブ・アンダルース古典音楽の素養もあるので、収録曲もわりと折り目正しい感じのシャアビ。アルバム中最長の18分近くもある曲をやっているアマール・エザーヒのものには、女声のホロホロ〜というコーラスが入っていてモダンといえばモダン。それはブラック・アフリカのティナリウェンなどにも通じるような感覚かも。

 

 

第二次大戦後生まれのカメル・メッサウディは二曲収録されているが、シャアビにしてはかなり穏やかでソフトなフィーリングで、カメルが憧れたという辛口のエル・ハラシと比較すると、どこか毒気を抜いたような取っつきやすいポップさがある。二枚目三曲目の「コッリ・ヤ・バドゥル・エル・ムニール」には、上記アマール・エザーヒの曲でも聴ける女声のヒョ〜ヒョ〜というかユ〜ユ〜というコーラスが入っている。

 

 

『ドゥーブル・ベスト:ムジーク・シャアビ・ダルジェリ』は、全曲やはり録音年の記載がないが、そんなティナリウェンなど砂漠のブルーズのバンドで聴ける女声のユ〜ユ〜ってのが聴こえるものをやっているアマール・エザーヒとカメル・メッサウディが感覚としてはモダンなように聴こえるので、一番新しい時期の録音なんだろう。

 

 

今日も少し書いたエル・アンカとエル・ハラシに関しては、また機会を改めて一人ずつじっくり書いてみようと思っている。

2017/01/06

ハービー、左手を使うな〜『マイルス・スマイルズ』の形成

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咋2016年、とうとう恐れていた事態が到来してしまった。コロンビア/レガシーがマイルス・デイヴィスのスタジオ録音セッション・リールを発売してしまったのだ。それが CD 三枚組の『フリーダム・ジャズ・ダンス:ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 5』。ご存知ない方も、このアルバム・タイトルだけで中身はおおよそ察しがつくだろう。

 

 

そう、『フリーダム・ジャズ・ダンス:ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 5』の三分の二は、1966年10月24/25日録音で、「フリーダム・ジャズ・ダンス」を含むアルバム『マイルス・スマイルズ』のレコーディング・セッションの模様なのだ。セッション・リールとはいっても、<全部>ではないだろう。全部入れたらこんなもんじゃない。もっともっと長大なサイズになってしまうはず。

 

 

『マイルス・スマイルズ』は全六曲だが、『フリーダム・ジャズ・ダンス:ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 5』にマスター・テイク演奏前のセッション・リールが収録されているのは、登場順に「フリーダム・ジャズ・ダンス」「サークル」「ドロレス」「フットプリンツ」「ジンジャーブレッド・ボーイ」。「オービッツ」はマスター・テイクしか収録されていない。がしかしこれも一回テイクだけで完成したとは到底考えられない。

 

 

またセッション・リールが収録されているものでも、「ドロレス」「フットプリンツ」はどっちも約五分、「ジンジャーブレッド・ボーイ」は約三分と、これだけしかセッションしなかったとは思えないね。それ以外の「フリーダム・ジャズ・ダンス」はセッション・リールだけで23分以上、「サークル」も全部あわせて21分以上あるので、そこそこは聴けるようになった。

 

 

「ドロレス」「フットプリンツ」「ジンジャーブレッド・ボーイ」もそれくらいの尺のセッション・リールがあるんじゃないかと僕は思う。マスター・テイクしか収録されていない「オービッツ」もそうだろうし、またまあまあ長めに収録されている「フリーダム・ジャズ・ダンス」「サークル」の二つも、あるいはもっとあったのかもしれない。いや、きっとあるはず。

 

 

それでもレガシー(コロンビア)がマイルスのスタジオ録音セッション・リールを発売するなんてことは、今までただの一度もなかったから、これは画期的なことだ。「ブートレグ・シリーズ」の名を冠して今まで出ているマイルスの発掘ものは、四つとも全部ライヴ録音集だった。スタジオ未発表集、しかも完成品でなくセッション・リールがリリースされたのは、もちろん初の事態(がしかしコロンビアには完成品で出せるものが残っているはずだけどね)。

 

 

言うまでもなく僕(やマイルス・マニア)は大歓迎。テオ・マセロによれば、1960年代後半頃からはマイルスのスタジオ・セッションの「全て」をテープ収録したという話だから、それを信用するならば、テオがてがけたラスト作である1983年の『スター・ピープル』あたりまで、メチャメチャな量のテープがいまだに倉庫にあるはずなんだよね。

 

 

前々から僕はそれを全部公式に出してくれと言い続けてはきたものの、それも半分本心、半分冗談みたいなもんだったのだ。というか、そんなもの、まさか公式リリースできるわけないだろうとたかをくくった上での発言だったのだ。それをほんの一部だけであるとはいえ、本当にリリースしちゃうとはなあ。

 

 

『フリーダム・ジャズ・ダンス:ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 5』の三分の二は『マイルス・スマイルズ』のメイキングだと書いたけれど、CD 二枚目の最後と三枚目は違うものだ。そこには「ネフェルティティ」「フォール」(『ネフェルティティ』)のセッション・リール、三枚目には「ウォーター・ベイビーズ」(『ウォーター・ベイビーズ』)のセッション・リール、「マスクァレロ」(『ソーサラー』)の別テイク、「カントリー・サン」(『マイルス・イン・ザ・スカイ』)のリズム・セクション・リハーサル、そしてこれは全くの未知のものだったが、「ブルーズ・イン・F」と「プレイ・ユア・エイト」がある。

 

 

最初、このボックスが自宅に届いて開梱しジャケット裏を見た時、僕は「ブルーズ・イン・F」の曲名表記ににわかに色めきだって、だって僕は大のブルーズ好き人間で、しかしこの1960年代後半のマイルス・スタジオ録音にブルーズ・ナンバーは皆無と言って差し支えない状態なので、曲名だけで「ブルーズ・イン・F」に飛びついて、いの一番に聴いたのだった。

 

 

そうするとこのボックス三枚目にある「ブルーズ・イン・F」は、約七分間、ただ単にマイルスがちょろちょろっとピアノを弾くでもなく触りながら喋っているだけという、非常にダラダラしたトラックで、なんじゃこりゃ?となってしまったんだなあ。ピアノを(弾くのではなく)触っている部分だって、ブルーズだかなんなんだか判断しにくいようなフィーリングで、ちっとも面白くない。

 

 

ブックレット記載の英文によれば、この「ブルーズ・イン・F」は1967年頃(circa となっているからね)、ニュー・ヨークはマンハッタンにあるマイルスの自宅での収録。聴いた感じ、ウェイン・ショーターがやってきた時にマイルスがピアノを弾き、いや触りながらウェインにいろいろと指導しているようだ。一瞬「ベースのエディ」という言葉が聴こえるが、エディ・ゴメスのことだろう。1960年代後半のライヴで、時たまロン・カーターが不可能な際に代役を務めた一人(ポール・チェンバースがやったことすらある)だ。

 

 

「プレイ・ユア・エイト」は、たった六秒のマイルスのモノローグで、聴く意味はない。そんなわけなので、『フリーダム・ジャズ・ダンス:ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 5』のメインはあくまで『マイルス・スマイルズ』(とその他ちょっと)のメイキング・セッション模様。それだけ抜き出しても、三枚全部で計約三時間のうち二時間以上にもなるもんね。

 

 

じゃあ残り一時間はなにかというと、セッション・リールやリハーサルや別テイクが収録されている曲の既発マスター・テイクだ。それは昔からみんな持っているわけだから必要ないだろう、そうじゃない部分だけを発売してくれよと、最初は僕も思ったのだが、案外そうとも言い切れない部分がある。

 

 

どういうことかというと、それは『マイルス・スマイルズ』のメイキング部分についてだけだが、セッション・リールとマスター・テイクが連続して収録されているそれらは、一応便宜上トラックが切ってはあるものの、聴いてみたら全く切れ目のない一続きの演奏なんだよね。

 

 

すなわち、マスター・テイク(に結果的になったもの)の演奏に入る前にいろいろと試行錯誤してセッションしているそのままの流れで、(結果的に)マスター・テイクになった本演奏がはじまっていて、マイルスとバンド・メンバーのなかでは、「さあ、リハーサル・セッションはここまで、これから本演奏に行くよ」みたいな様子は微塵もない。つまりもはやリハーサルも本番もない、準備テイクも本テイクもないという状態になっていた。

 

 

だからセッション・リールと(便宜上トラックが切れている)マスター・テイクが連続収録されているのは、実はこれ、一繋がりの動きだったのでそうなっているだけなんだよね。マイルスのスタジオ録音でこんな感じになったのはいつ頃からなんだろう?僕がちょっとだけブートで聴いているものでは、そんな様子はこの1966年以前にはないんだなあ。

 

 

『フリーダム・ジャズ・ダンス:ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 5』にあるセッション・リールのなかでは、トップに収録されている「フリーダム・ジャズ・ダンス」のセッション・リールが一番長く23分以上。だからボックス・アルバムのタイトルにしていることもあって、やはりこれが目玉なんだろう。

 

 

当ブログで僕は以前、1966〜68年のこのいわゆる黄金のクインテットによるスタジオ録音曲では、「フリーダム・ジャズ・ダンス」が案外一番面白いんじゃないかと書いたことがある。昨2016年7月29日付になっている。『フリーダム・ジャズ・ダンス:ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 5』ボックスの発売は10月だった。

 

 

 

それでちょっと笑い話なんだけど、このボックス・セットが昨年10月に出て日本でも買えるようになったので、その直後から現在でも「フリーダム・ジャズ・ダンス」という検索文字列で、上記2016/7/29付の僕の記事に辿り着いている方が大勢いたのだ。いやあ、期待を裏切って申し訳ない。でも今日書いているからさ。

 

 

さて、『フリーダム・ジャズ・ダンス:ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 5』にあるセッション・リールの約半分程度はスタジオ内での会話だ。一番たくさん聴こえるのは当然マイルスの声だが、その次に多いのが意外にテオ・マセロ(マイルスの発音は「ティオ」)の声だ。どう聴いてもコンソール内から喋っているようには聴こえないので、演奏ルーム内にいたんだなあ。そんな写真を見ることもある。

 

 

それ以外のバンドのサイド・メンの声は、実はあまりたくさん聴こえない。喋っていなかったとも考えにくいので、発売時に編集してカットしたのかもしれないが、そうだとしたら理由がよく分らない。それでもハービー・ハンコックとトニー・ウィリアムズの声はまあまあ収録されている。

 

 

そんな会話やボスの指示の声を聴くと、いろいろと面白いことが分る。特に僕にとって一番面白かったのは「ジンジャーブレッド・ボーイ」のセッション・リールだ。どこがかと言うと、いったん演奏がはじまってそれが止まると、マイルスはハービーに対し「ハービー、左手で和音を弾くな、右手だけにしろ」(Herbie, don't play chords on your left hand,  just your right hand)と言っているのだ。

 

 

そうだったのか。『マイルス・スマイルズ』あたりからハービーが左手でコードを弾くことが減り、続く『ソーサラー』『ネフェルティティ』ではほぼ全く和音を弾いていないと言えるような状態になっているのだという事実は、当ブログで僕も前から指摘している。その結果どんな風に聴こえるかは分っても、どうしてそうなったのか理由がよく分らなかったんだなあ。

 

 

つまりはボスの指示だったわけだ。そもそもハービーはそんな和音感というかトーナリティを示さないような演奏を好むピアニストではない。左手でよく和音を押さえる人だ。もっと正確に言えば、モダン・ジャズ・ピアニストにありがちな右手シングル・トーン弾きに熱中するタイプではなく、右手・左手をバランスよく動員してのややオーケストラ的な演奏法を得意とするのがハービーなんだよね。

 

 

ところがマイルス・バンドの『マイルス・スマイルズ』の一部から『ソーサラー』『ネフェルティティ』までは、左手でコードを示すことがグッと減ってしまっているから、こりゃオカシイね、どうしてこうなってんの?と前々から感じていたのだった。結果的に調整感が薄く抽象的で、西洋現代音楽風になっているのは聴けば分るのだが、どういう理由でハービーがこうなっていたのか、僕には不可解だった。デビュー当時からファンキーな資質がある人だもん。

 

 

僕はそんな西洋白人現代音楽風なマイルス・ミュージックはイマイチ好きじゃない場合が多いのだが、これが他ならぬボスの指示によるものだったと判明したんだなあ。考えてみれば自分のバンドでやる自分の音楽なんだし、同時期のハービー自身のリーダー作ではそんなことにはなっていないんだし、だからボスの指示だっただろうと僕でも分りそうなもんだけど、明確な証拠が聴けたのは格別な気分。

 

 

そんな「ジンジャーブレッド・ボーイ」とか、あるいは『フリーダム・ジャズ・ダンス:ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 5』にセッション・リールが収録されている他のものは、だいたい全部リズム・セクションに対する指示、特にベースのロン・カーターへの言葉が多い。ここをこう弾けと言ってコード名を言ったり、それに従ってロンがしばらく弾いてはまた修正するなど。特に「フリーダム・ジャズ・ダンス」のセッション・リールでそうだ。

 

 

またそれ以外でも、マイルスはコード名、というよりもキー名なのかな、F でやれとか B♭ではじめてその後 E ディミニッシュに行けだとか、そんな指示をしている部分が多い。ドラマーのトニー・ウィリアムズにはかなり自由に叩かせている模様で、指示の声は少なく、つまりこの時期のトニーに対するボスの信頼度が分るというか、まあある意味では指示して制御が効くようなドラマーでもないというか。

 

 

演奏内容そのものは、実はセッション・リール部分でも、マスター・テイクで聴けるものとのさほど大きな違いは聴き取れないので、書くべきことはほとんどない。最初はちょっとやってみてすぐに止まったりしているけれど、一度完奏、あるいは途中まででもしっかり演奏したら、ほぼ完成形に近いようなものになっている。

 

 

それでもリズムの感じが少しずつ変化してはいるものの、それもマイルスの指示ですぐにマスター・テイクに近いテンポとリズム・フィギュアとフィーリングになっているから、やはり改めてこのハービー&ロン&トニーの三人のリズム・セクションの実力の高さを思い知る。

 

 

またマイルスとウェイン・ショーターのソロ部分、さらに両名(あるいはマイルス一名)によるテーマ吹奏は、セッション・リールの最初から全くと言っていいほど変化なし。テーマ・メロディはあらかじめ譜面で用意されていたんだろうから、それも納得できるだろうけれど、アド・リブ・ソロ部分だってあまり変わらないもんね。

 

 

最後に付記。セッション・リールで聴ける会話は聴き取りにくい場合がある。人によっては収録されている声量が小さいこともあるし、またマイルスはあの例のしわがれ声で、しかもヴォリュームも小さくボソボソッとしか喋らない人物だから、なにを言っているのやら当のバンド・メンバーですら分らない場合があったそうだから、英語ネイティヴではない僕には聴解不能な時がある。

 

 

そこで助けられたのがこのサイトだ。ここに『フリーダム・ジャズ・ダンス:ザ・ブートレグ・シリーズ Vol. 5』収録のセッション・リールで聴ける全会話を文字起こしして掲載してくれている。こんな面倒臭いことをよくやれたもんだなあ。感謝しかない。本当にありがたかった。

 

 

 

なお、この「Miles Ahead」というサイト、ディスコグラフィカルなデータ記載を含め、僕の知る限りではマイルスに関する各種事実について最も詳しく、しかも正確であろうという記載があるウェブ・サイトだ。今日明かしてしまうが、僕が最も信頼していて、マイルスについて考えたり文章を書いたりする際の最大のネタ元なんだよね。マイルスに興味があって英語を読むのを厭わない方は是非ご覧あれ。

 

2017/01/05

ファンキーかつぬるま湯的な心地良さ〜スリム・ハーポ

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スリム・ハーポって、僕のなかではジミー・リードとイメージが重なっている。どっちも南部的なイナタさがあって、ゆる〜くてダル〜いような感じで、まるでちょうどいい温度のお風呂に浸かっているかのような心地良さ。スリム・ハーポの場合は、まさにスワンプ・ブルーズという言葉がピッタリ似合うような音楽の人だ。

 

 

実際、スリム・ハーポはルイジアナ州生まれで、死んだのもルイジアナ。活動も主にアメリカ南部で行なっていた。そんなスリム・ハーポの代表曲といえば、まず第一になんといっても1960年の「レイニン・イン・マイ・ハート」だ。もちろんエクセロ・レーベルへの録音で、これがビルボードの R&B チャートばかりかポップ・チャートでもまあまあ上位に食込むという、スリム・ハーポとしても初のヒットだし、当時の黒人ブルーズ・マンとしても例外的に売れたものだった。

 

 

 

「レイニン・イン・マイ・ハート」。お聴きになって分るように、基本的にはやはり適温のお湯的に緩いルイジアナ・スワンプ・ブルーズ。好きな女性と離れ離れになった状態を嘆く失恋歌なのに、深刻に落込むようなものではなく、ほんわかしていてポップな感じもあるし、中間部で語りも入る。

 

 

歌の部分も中間部の語りも言っていることは完全に同じ。ベイビー、お前と離れ離れになって以来、俺の心のなかには雨が降っているんだ、早く俺の涙を止めてくれ、だから早く帰ってきてくれという、これだけ抜き出して説明すると、そこいらへんにいくらでも転がっているありきたりのものでしかない。

 

 

それはそうと「泣いている」を「心に雨が降る」と表現するのは、僕の場合、大学生の時にポール・ヴェルレーヌの詩「Il pleure dans mon coeur」で知ったものだった。フランス語でしか読んでいないので、邦訳題は調べないと分らないんだけど、大学二年生の時のフランス語の授業で読んだものだった。

 

 

スリム・ハーポとは全くかすりもしない昔話になってしまうが、大学二年の時に二つあったフランス語の授業のうち一つはフランス人教師によるもので、その教師はいわゆるダイレクト・メソッドの信奉・実践者。四月の第一回目の授業でもフランス語しか喋らなかったがために、その日は30〜40人程度だった学生の人数が、次の週には僕を含めたったの三人になってしまった。

 

 

するとそのフランス人教師は、教室を少人数用の小さなものに変更し、毎週やはりフランス語しか喋らず、かなりハードなフランス語の授業を続けたのだった。あの一年間で随分と鍛えられた。本当にフランス語しか喋らず、学生にもフランス語で喋ることを(フランス語で)要求し、誰かが思わず日本語や英語などを発そうものならたちどころに(フランス語で)怒った。

 

 

しかしあれ、一年間しかフランス語を学んでいない学生向けの授業だったからなあ。よくやれたもんだ。その後自分が語学教師として教壇に立つようになって感心するばかりだ。ある意味無謀ではあったよなあ。そんな授業なので、毎週欠かさず楽しみに出席していた(僕はマゾ体質です)僕以外に、誰も学生が来ない週も結構あった。

 

 

そんな日にはそのフランス人教師は教室では授業をやらず、自分の研究室に僕を連れていってマンツーマンで、もちろんフランス語オンリーで、みっちりしごかれた。しかしそんな日には、相好を崩し日本語で喋りかけてくれることも稀にあった。すると日本語ネイティヴとなんら違わない流暢な日本語を喋った。

 

 

そんなフランス語の授業では、半年みっちりとフランス語のテキスト(は教科書として出版されている既存の本ではなく、そのフランス人教師が前の週にコピーして渡すなにかのフランス語の文章)を読んだわけだけど(残り半年は毎週学生自らテーマを決めて、それについての研究成果を毎週20〜30分ほどフランス語で発表し、その後フランス語での質疑応答があるという、これまた過酷なものだった)、そのなかにポール・ヴェルレーヌの詩集があって「Il pleure dans mon coeur」を読んだのだ。

 

 

あのヴェルレーヌの詩の出だしを日本語にすると「街に雨が降るかのごとく、僕の心にも雨が降っている」となる。心に雨が降るとは、説明するまでもないが泣いているの意で、しかしこの一篇の詩を全部読んでも、どうして泣いているのかはどうも判然としない。なんらかの喪失感があるのだとしか分らない。

 

 

それでも泣くを「心に雨が降る」と表現するやり方は、最も知られているこのヴェルレーヌの詩で広く普及したので、だから巡り巡ってスリム・ハーポの表現にも出てくることになったんだろうね。なにか漠たる喪失感としか分らないヴェルレーヌに比べて、スリム・ハーポの方は上記の通り心に雨が降る理由は極めて明白。

 

 

スリム・ハーポの「レイニン・イン・マイ・ハート」とか、あるいは処女録音の一曲「アイム・ア・キング・ビー」とか、またこれは前から書いている「シェイク・ユア・ヒップス」など、ロッカーたちにもどんどんカヴァーされて、ハーポのオリジナルも有名になっている。そうでなくても、とにかくあの時代のアメリカ黒人ブルーズ・マンとしては最もヒットを放った人物の一人だからね。

 

 

自身最初の大ヒットになった1960年の「レイニン・イン・マイ・ハート」までのエクセロ録音集で辿るスリム・ハーポは、初シングル盤の A 面「アイ・ガット・ラヴ・イフ・ユー・ワント・イット」、 B 面の「アイム・ア・キング・ビー」に代表されるような、前者はブギ・ウギ・パターンの軽いロックンロール・ブルーズ、後者はウォーキング・テンポでのイナタさという、ほぼ全てこの二本立てだった。

 

 

それが1960年の「レイニン・イン・マイ・ハート」のヒットでガラリと運命が変わったわけだけど、しかしいまスリム・ハーポのエクセロ録音全集を聴き返すと、それら1957年3月録音の二曲もかなりいいじゃないか。それもローリング・ストーンズもカヴァーしたので有名な「アイム・ア・キング・ビー」の方じゃなくて、「アイ・ガット・ラヴ・イフ・ユー・ワント・イット」がいいよなあ。

 

 

どこがいいのかというと、「アイ・ガット・ラヴ・イフ・ユー・ワント・イット」はラテン調なのだ。はっきり言えばいかにもルイジアナらしいカリブ風味の3・2クラーベのリズム・パターンを使ってある。直接的にはボ・ディドリー・ビートと言うべきだろうが同じものだし、ルイジアナの音楽家だからカリブ音楽用語を使いたい。

 

 

 

こういうちょっとカリブ〜ラテンなフィーリングのブルーズが、エクセロ録音完全集 CD 四枚組で辿るとスリム・ハーポにも実にたくさんあって、やっぱりルイジアナの音楽家だよなあと実感する。かなりあるのでいちいち具体例をあげていられないくらいだが、例えば1963年の「アイ・ニード・マニー」、64年の「アイム・ウェイティング・オン・ユー・ベイビー」 、65年の「ミッドナイト・ブルーズ」などなど。

 

 

絶対量としては、そんなカリブ〜ラテン風味よりも、歩くようなテンポでのブギ・ウギ・ベースのゆる〜いスワンプ・ブルーズの方が多いスリム・ハーポだけど、そういうのは他のブルーズ・メンの録音にも結構あるわけだから、特にスリム・ハーポの独自なものではないのかも。あのちょっと鼻声というかくぐもった感じで飄々と歌うヴォーカル・スタイルにハーポの持味が出てはいるけれどね。

 

 

ところが1965年録音の「ベイビー・スクラッチ・マイ・バック」から雰囲気が一変する。ファンキー・ブルーズなのだ。曲名通りギターの(おそらく)ジェイムズ・ジョンスンが引っ掻くようなフレイジングでかき鳴らすのも印象的だし、リズムの感じもファンクに近い。

 

 

 

楽しくていいなあ、これ。そう思ったのはこのシングル盤がリリースされた1966年当時の購買層も同じだったようで、このレコードはビルボードの R&B チャート一位、ポップ・チャートですら16位にまでジャンプ・アップするという、スリム・ハーポの生涯最大のメガ・ヒットになった。

 

 

それでその後は従来からのイナタいルイジアナ・スワンプ・ブルーズ路線と並行して、こんなファンク・ブルーズもスリム・ハーポはどんどん録音するようになる。一因にはレーベル側の事情もあったらしい。なんでもエクセロのオーナーであるアーニー・ヤングが1966年にこのレーベルの権利を売ってしまい、それまでエクセロでスワンプ・サウンドを一手に引き受けていたジェイ・ミラーも手を引いて、だからスリム・ハーポもジェイ・ミラーじゃない人がプロデュースするようになった。

 

 

しかし事情はどうあれ、メンフィスで録音をしはじめてからのスリム・ハーポにもかなりいいものがあるんだよね。1967年の「ティップ・オン・イン」とか、「メイルボックス・ブルーズ」とか、「ティ・ナ・ニ・ナ・ヌー」(Te-Ni-Nee-Ni-Nu)とかさ。最高なんだよね。

 

 

全て「ベイビー・スクラッチ・マイ・バック」路線で、つまり大成功した同じ芸風で二匹目・三匹目のドジョウを狙うという、どの国の芸能界でも当たり前によくあるパターン。でも少しリズムの感じがよりファンキーになって、さらにルイジアナ出身の人間らしからぬタイトさが出てきている。特に「ティ・ナ・ニ・ナ・ヌー」なんか文句なしだね。

 

 

 

こりゃもうファンクじゃない?リズムのタイトさ含めサウンドはタイトでダンサブルなファンクでありながら、ハーモニカとヴォーカルはやはりスリム・ハーポらしいダラケた緩さもあるから、さしずめルイジアナ・スワンプ・ファンクとでも言うべきか。楽しいことこの上ないね、これ。

 

 

リリースはやはりエクセロであるものの、録音はナッシュヴィルでやっている1968年と69年の録音となると、こりゃもうどこからどう聴いてもファンク〜ロックだとしか思えない。大規模なホーン・アンサンブルも入るようになる。オリジナルはジョニー・キャッシュである「フォルサム・プリズン・ブルーズ」や、あるいはエレベのラインがファンキーな「アイヴ・ガット・マイ・フィンガー・オン・ユアー・トリガー」や 、ハード・ロックみたいな「ザ・ヒッピー・ソング」などカッコイイけれど、ハーモニカもヴォーカルもスリム・ハーポらしさはもはやないなあ。

 

 

そんなわけなので、P ヴァインが1997年にリリースした CD 四枚組の『ザ・コンプリート・エクセロ・レコーディングズ』では、「ハーポ・ザ・スクラッチャー」と題されている三枚目が一番いい。これの一曲目65年録音「ベイビー・スクラッチ・マイ・バック」から18曲目67年録音の「ティ・ナ・ニ・ナ・ヌー」あたりまでが、僕にとっては最もグッと来るスリム・ハーポなのだ。

 

 

繰返しになるけれどそれら18曲では、ファンキーでタイトなファンク・ブルーズでありながら、同時にいかにもルイジアナのスワンプ・サウンドっぽいぬるま湯的な緩さも共存していて、こんなブルーズをやったのはこれ以前にも以後にもスリム・ハーポ以外一人もいないんだよね。

2017/01/04

ジャズ進化幻想

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音楽が「進化」「進歩」すると思っている人は、早く夢から覚めてほしい。音楽にそんなものはない。変化はしても進化などしない。したことなど人類史上一度もない。ただスタイルの変遷があるだけだ。音楽だけじゃなく、あらゆる文化産物はそうじゃないかなあ。

 

 

人類が進化するのはテクノロジーだけかもしれない。科学技術、なかでも医療技術はどんどん進歩してきて、そのおかげで昔は不可能だったことが可能になった。昔なら苦しむばかりだったり助からなかったりした人が、苦しみを軽減できたり延命できたりしているからね。

 

 

またコンピューターとインターネット技術の大幅な進化のおかげで、以前は繋がりにくかったものや人が繋がりやすいし、膨大な情報にも簡単にアクセスできて、分らないこと、調べるのに手間取ったことが、実に簡便に検索できて分るようになっている。コミュニケーションも容易になって、楽しくて面白い。

 

 

ただしそんな科学技術でも、進化・発展の末に核兵器や生物兵器や、あるいは生命の誕生を操作する技術なども産まれたので、果たしてそれは「進化」したと言えるのだろうか?という強い疑問が僕にはある。じゃあ原始時代に戻りたいのかというとそれも嫌だという、なんというワガママ人間なんだ、僕は。

 

 

音楽に関してもテクノロジーの進化とともに歩んできたのは確かだ。特にポピュラー・ミュージックの歴史は録音技術の歴史と言い換えてもいいくらい、誕生期から両者が一体化していて、スタジオでもライヴでも録音テクノロジーの進化によって、従来は不可能で歯ぎしりしていたことが実現できるようになった。

 

 

録音技術の進化で音楽も変化したのは言うまでもない。まずなんたってレコード(CD)における一曲の長さが大幅に伸びたので、それだけでも表現スタイルは変化した。その他逐一具体例をあげるのは不可能なほど面倒臭いし、みなさんよくご存知のはずなので省略する。

 

 

しかしそれは音楽スタイルの「変化」であって「進化」ではないだろう。進化などと呼ぶのであれば、それはより良い方向へ、良いというような倫理的価値判断用語はふさわしくないかもしれないので「より面白い」方向へとチェンジするのでなければ「進化」とは言えないはず。じゃあ時代を経て、音楽はどんどんと面白くなる一方なのか?

 

 

これははなはだ疑問だよね。より面白くなっているかどうかでいえば、むしろ逆だ。時代を経て、よりつまらない方向へと変化してしまっているかのように僕には思えるので、それは進化じゃなくて退化だ。まあ僕は古い録音音楽こそが大好きな人間だから、単なる個人的趣味嗜好だけでの判断かもしれないが、そればかりとも言い切れないんじゃないの?

 

 

この進化幻想が最もひどいジャンルがジャズだ。というか、僕の見るところ、ここまで進化・進歩ということに、音楽家も聴き手もこだわっているのは、ほぼジャズだけじゃないかなあ。現在の日本でこの傾向が最も著しい方向へ突出しているのが、例の JTNC に分類されるみなさん、特に主導者だ。

 

 

柳樂光隆くんはジャズの「進歩」「斬新さ」「更新」ということにもんのすご〜くこだわっているようで、たとえば昨年暮れの『ミュージック・マガジン』恒例の年間ベストテンにおける個人選出欄でも、「音楽シーンの充実と進化を感じてワクワクしっぱなし」と書いていた。これはほんの一例で、この種の発言は枚挙に暇がないほどメチャクチャに多い。

 

 

しかしこういうジャズ進化幻想は21世紀に入って昨日・今日はじまったものなんかじゃない。ずっと昔から完璧に同じ発想を、聴き手も音楽家も持っていた。ジャズの歴史とは進化(幻想)の歴史だから、そもそも初期からこれはあった。ジャズ・メンも新しいものを創らなくちゃ、聴き手も新しいジャズにワクワクしなくちゃという気持で、20世紀初頭以来ずっと歩んできているんだよね。

 

 

こんなの、ジャズだけだろう。なんという面倒臭い音楽なんだ。ジャズの場合、新しいスタイルがどんどん誕生して、ジャズ史の変遷とは、イコール、スタイル刷新の歴史なもんだからこうなってしまう。特に1940年代半ばにビ・バップ革命があって、50年代末にフリー・ジャズ革命があり、60年代末からは他ジャンルとのクロス・オーヴァー革命があった。

 

 

ジャズはいったい何回革命を起こしたら気が済むんだ?新革命のたびに、それまでの従来のスタイルでやるジャズはもはや古臭いもので、 廃れるべきもので、そして事実、退潮の一途を辿ってきた。聴き手の側もそんな変化についていかないといけないという気持をもってジャズに接してきたはずだ。

 

 

そりゃ油井正一さんだってそんな発想があったもんね。日本のジャズ・リスナーのあいだでは油井正一史観みたいものが支配している時期が長いけれど、その油井史観なるものは、すなわちジャズ進化論のことなんだよね。ジャズはどんどん新しくなって、ジャズ音楽家はそうじゃなくちゃ存在価値がないというようなもの。

 

 

ってことはだ、油井史観みたいなものの「更新」を掲げて、それを堂々と公言しながら執筆その他大活躍中の柳樂光隆くんがジャズの進化・進化とこだわって仕事し続けているのは、要するに油井史観の枠内から一歩も抜け出せていない古色蒼然たる人間にすぎないということなんだなあ。

 

 

どうも柳樂光隆くん自身は、自分は新世代の人間で、新しい感性と批評言語を持っていて、2010年代の新しいジャズをどこがどう新しいのか説明して普及する活動につとめている人間なのだと心の底から信じ込んでいるようなんだけど、こう見てくると、ジャズの進化ということにあそこまでこだわっている姿勢一つとってみても、全くの精神的旧世代だね。

 

 

ジャズの場合、この進化幻想の体現者だった音楽家が他ならぬマイルス・デイヴィスだ。マイルスは音楽は新しくなくちゃいけない、少なくともオレの場合はどんどん進化する、それができなくなったらオレは死にたいとまで発言し、そして実際の音楽的成果でもそれを実践し表現していた。

 

 

ビ・バップ時代にデビューしたマイルスが、その後1950年代末にモーダルな演奏法を完成させたり、60年代後半から和声的にほぼフリーになると同時に、ファンクやロックなどとクロス・オーヴァーして、それまでに存在しなかった新しいジャズを創り出して進化し続けた。僕は(みんなも)そんなマイルスの一面が大好きだった。

 

 

そんなマイルスのジャズ進化幻想の体現史は、ほぼモダン・ジャズの歴史と重なっていて、それが一時隠遁の1975年まで続いたので、聴き手の側もジャズは進化するんだな、そうじゃないと意味がない音楽なんだなと信じ込んできたはずだ。マイルスの歩みを必ずしも十全に把握していたとは今の僕は考えていない油井正一さんも同じだったよね。

 

 

僕もマイルスが死んだ1991年までは完璧に同じジャズ進化幻想の持主だったんだよね。どうやらこれはオカシイぞ、ひょっとして音楽が進化するというのは幻想に過ぎないのかもしれないぞと気付くようになったのはわりと最近の話で、たぶんマイルスの死後しばらく経った21世紀に入ったあたりからだ。

 

 

これはかなり遅かったなあ。僕のジャズ・リスナー歴を考えても妙なことだった。マイルスの、特に1970年代以後のニュー・ムーヴメントが大好きである一方で、僕は1930年代末頃までの古い戦前ジャズも大好きで、たまらなく心地良い魅力を感じて聴きまくっていたのにね。

 

 

僕は古い時代の SP 録音音楽、特にジャズとブルーズとワールド・ミュージックが今でも大好きで、それは単に聴いていて気持良いからだけなんだけど、これはひょっとしたら「古い」んじゃなく「新しい」のかもしれない、少なくとも永久不滅の音楽美があるじゃないか、それに古いも新しいもないじゃないかと、心の底からそう実感するようになったのはかなり最近だ。

 

 

音楽は進化なんかしないものだ、スタイルはどんどん移り変わっても、ただ美しいものがいつまでもその美しい姿を変えずそのままありつづけるだけだという考えこそが、ある意味、2010年代的に最も新しい(笑)。ジャズだって同じだぞ。若いリスナーがなにかをきっかけに戦前ジャズの楽しさ、真の革新性に気が付いてハマってしまう現象が散見されるけれど、それも一つの証拠だ。

 

 

さらに進化・進化と言いすぎる人は、過去の音楽伝統をしばしば無視したり蔑視する。無視・蔑視とまでいかない場合でも、少なくとも新時代の要請にはこたえらえなくなって意味は失ったのだと考えて軽んじる。そういう場合、実は、新しく録音される音楽の、どのへんが真に新しいのか、革新性はどこにあるのかを見逃してしまう場合が多い。新しさを本当に理解するのは、伝統や古典を重視する人間なんだよね。

 

 

僕が大学院生の頃に知った20世紀初頭のドイツ人フィロロジスト(文献学者とか和訳されるけれど、それではどうも掴みにくい言葉だ)。その人はギリシア、ラテンの古典作品の研究が専門なんだけど、そうでありかつ、同時代のマルセル・プルースト、ジェイムズ・ジョイスの革新性を真に見抜いた人物だった。フリードリヒ・ニーチェも古典文献学者にして新時代の哲学者だった。

 

 

こういう事例は実に多い。話を戻すと油井正一さんは柳樂光隆くんとは違って、ジャズの伝統・古典を非常に尊重する批評家だった。非常にというか極度に尊重しすぎと言ってもいいくらいだった。中村とうようさんも同じ姿勢だったね。そして油井さんもとうようさんも、そうであるからこそ音楽の真の楽しさ・美しさが奈辺にあるのかを鋭敏に見抜く感性を磨いていて、新しい音楽も評価したのだ。奇しくも柳樂くんは油井さん、とうようさん両名ともに対し、やぶにらみしているじゃないか。

 

 

さて、ポピュラー・ミュージックにおいて、アメリカ(産・発)の音楽が世界中に拡散して影響力を発揮した20世紀は、かなり雑で大雑把に言えば、ブルーズ、もっと正確にはブルー・ノート(・スケール)が支配した世紀だったと言えるかもしれない。そしてそれはひょっとしたら20世紀だけの特有現象だった可能性がある。

 

 

というのは、どうもここ最近、特に2010年代以後、このブルー・ノートの退潮みたいなものがあるんじゃないか、そうなりつつあるんじゃないかと感じることがある。表現する音楽家の側としては、このまま無自覚にブルー・ノートに頼りっぱなしでいたら、あるいは先がないということになるかもしれない。

 

 

それは今すぐのことではなく、たぶんあと30年とか50年くらい先の話なんだろうと思うけれど、どうもそんな方向へ向かっているように見える(聴こえる)。この先ポピュラー・ミュージックからブルー・ノートは消えるかもしれないね。そしてそれは20世紀だけの特異現象として語り継がれることになるかもしれない。

 

 

そうなったらそうなったでいい。僕はもう生きていないだろうし、生きていても音楽家ではなくプロの批評家でもないんだから、時代の先端を意識してついていかなくちゃみたいな気持なんか毛頭ない。好きなものだけチョイスして聴いて、無自覚にその美しさに身を任せ快感に溺れるだけ。

 

 

その場合、聴くものから新作品が消えてしまう可能性があるんだけどなんの問題もない。趣味で愛好しているだけの素人リスナーにとってはそれはなんでもないことであって、新しかろうが古かろうが関係ないんだよね。それをまるで素人リスナーにまで新しい(と彼らが勝手に思い込んでいるもの)ものについていってくれみたいに押し付けないでくれるかな。

 

 

そして新しい/古いは、音楽美や音楽の値打ちにも全く無関係だ。なんだか新しくないと価値がない、意味がないみたいに考えて実践するのは、プロの音楽家の姿勢としてはそれが当然かもしれないが、批評家やリスナーは、もっとこう音楽のなかにある本質的美しさに目を向けて、それをもっと大勢に伝えるようにした方がいいんじゃないの?

 

 

保利透さんや毛利眞人らのぐらもくらぶが活動したり、ジャネット・クラインやデヴィナ&ザ・ヴァガボンズらが人気があったり、100年以上も前の「古い」ショーロや、さらにもっと「古い」トルコ古典歌謡などなど、そのままのスタイルで2010年代に再演したものが、今でもピチピチ新鮮で最高に美しく感動的に響くという厳然たる真実を前に、彼らはなんと言うのだろうか?

2017/01/03

ライオネル・ハンプトンのビッグ・バンド・ジャンプ

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ライオネル・ハンプトンの担当楽器はヴァイブラフォンで、時々ピアノも弾く。それもご覧になったことのある方には説明不要だけど、ピアノを右手の指一本と左手の指一本だけで弾くという、つまりヴァイブラフォンをマレットで叩く時と同じやり方で弾く(ハンプ以外だと、マレットを三本、四本持って駆使する人もいるが) 人だという認識の方が多いんじゃないなあ。

 

 

ライヴ・ステージではドラム・セットを叩くのをご覧になった方も多いだろうから、それも知られているはず。しかしこの人はまず最初、ジャズ・ドラマーとして出発したのだ。それをドラマーの世界はライヴァルが多くて大変だからヴァイブラフォンにしたらどうかとアドヴァイスしたのは、他ならぬサッチモことルイ・アームストロングなんだよね。

 

 

サッチモの1930年10月16日オーケー録音がロス・アンジェルスで行われているが、その時の7曲8テイクにライオネル・ハンプトンも参加している。これがハンプの生涯初録音のはずだ。少なくとも僕はこれ以前を知らない。そしてこの時のセッションで最初に録音されたのが有名曲「メモリーズ・オヴ・ユー」だが、そこでのヴァイブラフォン・ソロがハンプのと言わず、ジャズ史上初のヴァイブラフォン録音だ。

 

 

サッチモのアドヴァイス通りにハンプがやったわけだね。「メモリーズ・オヴ・ユー」は、この五年後に大ブレイクするベニー・グッドマンの得意レパートリーでもあって、1930年代後半のグッドマン・カルテットのレギュラー・メンバーになったハンプも当然演奏していることを考えると、ジャズ史上初のヴァイブラフォン録音がこの曲だったとは、なんだか感慨深い。

 

 

しかし、サッチモのこの1930年10月16日オーケー録音では、ハンプがヴァイブラフォンを担当したのはその「メモリーズ・オヴ・ユー」だけで、それ以外ではまだドラムスを叩いている。特に有名なのが「シャイン」だね。この曲でのハンプのドラムス演奏がかなりいいというのは、油井正一さんも咋2016年9月に復刊文庫化された『生きているジャズ史』のなかで書いている。

 

 

しかしながら、油井さんは全く触れていないが、この時の録音では2テイクある「ユア・ドライヴィン・ミー・クレイジー」の方がもっと面白いような気が僕はしているんだよね。ハンプのドラムスも躍動的で、さらにヴォーカルでもサッチモと絡んでいるからなあ。それは歌ではなく本演奏に入る前の喋りだけど、楽しいものだ。

 

 

さらにこの1930年10月16日のサッチモのオーケー録音では、あの大流行したキューバン・スタンダード「南京豆売り」も録音しているからなあ。当然ハンプはドラムスを叩いているんだが、このパーカッショニストもいるちょっとしたラテン・ナンバーでも、ハンプの演奏はいいんだよね。

 

 

油井さんは「シャイン」にしか言及せず、同日同レーベル録音にあるこういう「ユア・ドライヴィン・ミー・クレイジー」や「南京豆売り」のことに全く触れなかったのはどうしてだろう?たぶん理由はその文章はサッチモのコルネット・スタイルの変遷を分析するのが眼目なので、ということなんだろう。確かにコルネットだけに焦点を当てると全然面白くない。

 

 

ただサッチモの芸能性や、ハンプのドラマーとしての上手さや、あるいは後年ハンプも発揮するようになるブラック・エンターテイメントとしてのジャズの面白さに目を向けたら、それら「ユア・ドライヴィン・ミー・クレイジー」や「南京豆売り」の方が面白いんだよね。

 

 

話がサッチモ関連に逸れてしまったが、ここまで書いたものはレガシーが2012年にリリースした『The Okeh Columbia & RCA Victor Recordings 1925-1933』で全て聴ける。僕もそれで聴き返してここまで書いた。CD10枚組だからやや値が張るが、内容は保証する。是非買ってほしい。買えば一生の宝になるからさ。頼む、買ってくれ!

 

 

とにかくライオネル・ハンプトンの、僕の知る限りでの生涯初録音がそれで、その後、前述の通りベニー・グッドマンのスモール・コンボのレギュラー・メンバーに起用されたことで一躍大スターになる。そしてその活動と並行して1937〜41年にヴィクター・レーベルへ吹き込んだコンボ編成でのオール・スター・セッションは、スウィング期のものとしては最高の名演集として、昔からジャズ・ファンにも大人気で評価も高い。

 

 

その後ベニー・グッドマンのところを卒業して自らの楽団を率いるようになってからのハンプは、1995年に病に倒れるまで第一線で活躍するジャズ・マンとして人気があったので、ジャズ・ファンなら知らない人はいない有名人。そういえば日本人アルト・サックス奏者 MALTA はハンプトン楽団のコンサート・マスターだった時期があるなあ。

 

 

がしか〜し、そんなハンプでも多くのジャズ・ファンが無視してきた時期があるよね。無視というか積極的に忌み嫌われたり、あるいはそもそもそんな音楽をやっていたなんて事実そのものに気が付いていなかったりするみたいだ。それは言うまでもなく1940〜50年までのデッカ録音だ。そしてそれは普通のいわゆるジャズ=芸術ジャズではない。

 

 

それは僕たちブラック・ミュージック・ファンが「ジャンプ」という名前で呼んでいるもので、しかし数年前もこの(ジャズ系の人たちがやる)ジャンプの名前を出したら、あるジャズ・ファンの方に「すみません、ジャンプってなんですか?」と言われてしまったであるよ。

 

 

今でもその程度の認知度しかない音楽なんだよね、ジャンプ・ミュージックって。僕は前々から何度も何度も繰返しているのだが、ジャンプとはすなわちジャズに他ならない。百歩譲ってもジャズの一変種でしかないものだから、中村とうようさんが「ジャズではないジャンプ」というような言い方をしているのは、本音の部分では僕はちょっぴり気に食わないんだなあ。

 

 

がしかし日本で最も熱心にジャンプ・ミュージックの普及活動につとめていたのがとうようさんだったのも確かなことだ。ジャズではないというような言い方をしたのは、この猥雑で下世話でビート感の強いダンサブルなジャズを、いわゆる「ジャズ」として紹介したのでは、一般のジャズ・ファンに毛嫌いされるばかりか、それ以外の音楽のファンが全く食いつかないと判断しての故意の戦略だったに違いない。

 

 

ライオネル・ハンプトン楽団の1940年代ビッグ・バンド・ジャンプ録音を、CD でマトモなかたちでリイシューしているのも、中村とうようさん編纂の MCA ジェムズ・シリーズの一枚『ライオネル・ハンプトン 1942-1950/1963』(1997年リリース)だけだもん。しかしこれ、どうして最後に一曲だけ1963年録音があるのかだけが、いまだに僕は理解できない。

 

 

ラストにどうしてだか収録されている1963年録音はどうでもいいので、『ライオネル・ハンプトン  1942-1950/1963』ではその前までの24曲こそが楽しいものだ。この一枚を、ハンプはちょっと面白い程度の純ジャズ・マンだしか考えていないジャズ・ファンにも是非聴かせたい、そんな気持でいっぱいなんだよね。

 

 

CD が『ライオネル・ハンプトン 1942-1950/1963』しか存在しないんだから、これに沿って話を進めるしかない。上でちょっと気に食わないなんて言ってゴメンナサイ、とうようさん、亡くなった今でもお世話になります。さてこの一枚において、アメリカのポピュラー音楽史的に最も重要なのは、4曲目、10曲目、12曲目の三つだろう。19〜22曲目も大変楽しい。

 

 

『ライオネル・ハンプトン 1942-1950/1963』の四曲目はあの1942年録音「フライング・ホーム」だ。これがアメリカ大衆音楽録音史上最も重要な曲の一つだというのは、僕たちはもういやというほど認識させられてきているのだが、一般のジャズ・ファンやその他の方々向けには、今でもやはり繰返さなくちゃいけないみたいだね。

 

 

「フライング・ホーム」という曲はハンプトン楽団のオリジナル・ナンバーではない。かつてハンプも在籍した時代のベニー・グッドマン・セクステットによる1939年10月録音が初演のもので、それが同年に SP 盤でリリースされ、また当時はライヴでも演奏していた。

 

 

 

お聴きになって分るように、なんでもない普通のスウィング・ジャズ・ナンバーだ。作者はベニー・グッドマンとライオネル・ハンプトン両名の名前で登録されているが、この当時の因習によってボスが版権登録にいっちょかみしただけなんじゃないかと僕は想像している。だから本当はハンプ一人のアイデアだったかも。

 

 

お分りのようにハンプのヴァイブラフォン・ソロもある。しかし後半部のリフの反復で盛り上げるのが主眼であるようなアレンジだよね。この「フライング・ホーム」を、グッドマン楽団退団後のハンプは、自楽団結成二年後の1942年にこんな感じでやった。

 

 

 

ビッグ・バンド編成なので、それだけでも響きが違っているのだが、肝心なのはそういう部分だけじゃない。重要なのは二点。大きくフィーチャーされているテナー・サックス・ソロと、後半部からエンディングにかけてフル・バンドで怒涛のようになだれ込んでくるド迫力のジャンプ・サウンドだ。

 

 

大きくフィーチャーされているテナー・サックス・ソロを吹くのはイリノイ・ジャケー。ジャケーのこのテナー・ソロで「ブロウ・テナー」という考えが確立し後世に続くこととなり、ひいてはそれがリズム&ブルーズ系のホンク・テナー・スタイルを生み出した。

 

 

ところでどうでもいいことかもしれないが、『ライオネル・ハンプトン 1942-1950/1963』の解説文でのとうようさんは「イリノイ・ジャケット」表記だ。これはちょっとどうなんだろう?Jean-Baptiste Illinois Jacquet はルイジアナ生まれのフランス系(両親がクレオール)。アメリカ人だから英語読みにしたということなんだろうか?もしそうだとすると、今度は Louis Armstrong や Sidney Bechet のとうようさんのカタカナ表記がオカシイということになってしまうけどなあ。僕の知らないなにか確たる理由があるんだろう。

 

 

それはいいや。僕はイリノイ・ジャケー表記でいく。ハンプトン楽団1942年「フライング・ホーム」におけるジャケーのテナー・ブロウは、しかしそれ自体は立派なジャズ・ソロだ。リズム&ブルーズのテナー・ソロ第一号と賞賛されることがあるらしいが、僕には普通のジャズに聴こえるね。格別の黒っぽさとか粘っこさとかも感じない。

 

 

またこの「フライング・ホーム」を<最初のロックンロール・レコード>だと位置付ける人たちもいるらしいのだが、それもある種のシンボリックな意味合いでのことであって、ここから発展してリズム&ブルーズが生まれ、それがロック勃興の母胎となったから、その源泉的象徴としての評価なんだろう。

 

 

音楽それ自体はなんでもない、ということはなく、ビート感が強く、そして1942年当時の黒人の日常生活感覚に根ざしたようなフィーリングのダンサブルなものであるとはいえ、僕にとってはまあ普通のジャズなんだよね、あの「フライング・ホーム」は。「ジャズではないジャンプ」とか書くこともあったとうようさんだって『大衆音楽の真実』のなかで、アースキン・ホーキンズ楽団の「アフター・アワーズ」と並べて、どっちも立派なジャズだと書いているもんね。

 

 

つまり立派な(まあ普通の)ジャズであり、なおかつブギ・ウギ・ベースでビート感を強烈にして、黒人の庶民感覚にある生々しいエモーションをぶつけるかのようなダンス・ミュージックであるという、この両面をしっかり把握しないと「アフター・アワーズ」にしろハンプトン楽団ヴァージョンの「フライング・ホーム」にしろ、本質は理解できない。

 

 

それがなんだかジャズ・ファンは敬遠してジャンプ(はほぼイコール、ジャズだが)を聴かず、そもそもそんな分野の存在すら知らず、一方とうようさんの手引で聴くようになったブラック・ミュージック・ファンは、ジャンプは「ジャズではないんだ」という認識だったりするので、僕なんかは歯がゆくてたまらない。この両者ともオカシイ認識なんだぞ。

 

 

さてハンプトン楽団1942年の「フライング・ホーム」後半〜エンディング部でのフル・バンドでジャンプする迫力は、1942年時点では最もハードな部類に入るものだったはず。その後はもっともっと激しくダンサブルなものがどんどん出てくるようになり、ハンプトン楽団でも40年代半ば以後はそんな録音がいくつもある。

 

 

上で『ライオネル・ハンプトン 1942-1950/1963』において最重要であると書いた10曲目は「イーヴル・ギャル・ブルーズ」。ファンの方であれば曲名だけでダイナ・ワシントンが歌っているんだなと分るはず。ダイナはそもそもハンプのためにマネイジャーのジョー・グレイサーが1942年に見つけてきて紹介した歌手だった。

 

 

だからダイナはハンプトン楽団の専属歌手的存在だったのだが、1943年にダイナがハンプトン楽団のピックアップ・メンバーをバックにキーノート・レーベルに録音した四曲を、キーノートは「ライオネル・ハンプトン・セクステット・ウィズ・ダイナ・ワシントン」名で発売してしまった。そのまず最初の一枚の A 面が「イーヴル・ギャル・ブルーズ」。

 

 

しかしこれははなはだ都合の悪いことだったのだ。当時のハンプトン楽団はデッカと専属契約を結んでいたので、他のレーベルのレコードにリーダー名みたいにしてハンプの名前が出ると、これすなわち契約違反だ。したがってたちまち訴訟沙汰になってしまった。ハンプの名前を出したのがキーノートなのか、プロデュースしたレナード・フェザーなのかは、僕は知らない。

 

 

とにかくこんな事情があったので、1943年にはハンプトン楽団のデッカ録音が全くないのはまだいい。他の年に優れたものがたくさんあるからだ。問題はだ、楽団専属歌手だったダイナ・ワシントンと、彼女が在籍した時代のハンプトン楽団が共演するスタジオ録音が、たったの一曲しか残っていないっていうことなんだよね。

 

 

それが1945年にデッカに録音された「ブロウ・トップ・ブルーズ」。内容的にはキーノートの「イーヴル・ギャル・ブルーズ」の続編的なものだけど、僕は「ブロウ・トップ・ブルーズ」の方が優れていると思う。ダイナのヴォーカルも、ハンプトン楽団のピックアップ・メンバーによる演奏も。

 

 

 

これも実質的にハンプトン楽団のレコードでデッカ原盤であるのに、どうしてとうようさんが『ライオネル・ハンプトン  1942-1950/1963』に収録していないかというと、同じ MCA ジェムズ・シリーズの一枚『ブラック・ミュージックの伝統〜ジャズ、ジャイヴ&ジャンプ篇』に収録されているから、重複を避けるため。やっぱり全部買わなくちゃね。

 

 

重複を避けるといえば、その『ブラック・ミュージックの伝統〜ジャズ、ジャイヴ&ジャンプ篇』には、ハンプトン楽団1942年の「フライング・ホーム」が収録されていない。1996年にこれがリリースされた際、こんなに重要な曲をどうして収録しないのか?「アフター・アワーズ」は入っているじゃないか!と不思議だった。

 

 

翌1997年に『ライオネル・ハンプトン 1942-1950/1963』がリリースされ、それに「フライング・ホーム」は収録されたのだ。こっちに収録したい、これが入らないハンプトン楽団のビッグ・バンド・ジャンプ録音集などありえないということで、とうようさんも『ブラック・ミュージックの伝統〜ジャズ、ジャイヴ&ジャンプ篇』に収録するのは見送ったんだろうなあ。

 

 

ともあれダイナ・ワシントンとライオネル・ハンプトン楽団との正式共演録音が極めて少ないというのは、はっきり言ってアメリカ大衆音楽史上における痛恨事、悲劇だ。ダイナのようなジャズ/ブルーズ/リズム&ブルーズの三つの真ん中あたりで歌う歌手にとっては、1940年代のハンプトン楽団以上に似合うバック・バンドはいなかったのに。

 

 

さて『ライオネル・ハンプトン 1942-1950/1963』で最重要と書いたもう一つである12曲目は、1945年12月録音の「ヘイ・バ・バ・リ・バップ」。ブギ・ウギを土台とするベースに、ピアノとドラムスだけという伴奏でハンプとバンド・メンバーがコール&リスポンスで歌い、やがて激しくダンサブルにジャンプするフル・バンドのアンサンブルが出てくると、それに乗ってハンプが歌うという一曲。

 

 

 

こんなのはこの1945年12月までのハンプトン楽団にもなかったパターンで、お聴きになって分るように既にリズム&ブルーズにかなり接近しているというかほぼ同じ。この当時、楽団リーダーのハンプ自身、黒人音楽のニュー・ムーヴメントを感じ取っていて、それを実際の音で表現したものだ。45年12月というと第二次大戦が終ってまだ数ヶ月だけど、戦後の新しい音楽の方向性を敏感に感じ取っていたハンプの先見性を示しているよね。

 

 

また「ヘイ・バ・バ・リ・バップ」という曲名でも分るし、曲中で歌われているのでも分るように、これはビ・バップのスキャット・ヴォーカルだ。1945年あたりから純ジャズ界でもこんなのがどんどん出てきているが、ハンプはリズム&ブルーズに最接近すると同時に、ジャズの新潮流をも意識していたことになる。

 

 

ってことは、1945年12月録音で翌46年にレコード発売されたこの「ヘイ・バ・バ・リ・バップ」によって、ライオネル・ハンプトンは、ジャズにおけるビ・バップ革命と、黒人庶民音楽としてのリズム&ブルーズ革命と、その両者の接点に立っていたってことだなあ。油井正一さんは『ジャズの歴史物語』のなかで「ビバップと R&B には共通項がある」と書いているじゃないか。

 

 

『ライオネル・ハンプトン 1942-1950/1963』の19曲目「ベンスン・ブギ」から22曲目「アイ・ウィッシュ・アイ・ニュー」あたりの1949〜50年録音となると、これはもう完全なるリズム&ブルーズと呼んだ方がいい。主にブルーズ・シャウター、サニー・パーカーが歌っていて、21曲目の「ハウ・ユー・サウンド」もスローなリズム&ブルーズの名唱じゃないかなあ。

 

 

 

なお、ライオネル・ハンプトン楽団の1940年代ジャンプ録音は、とうようさん編纂の MCA ジェムズ・シリーズでは『ライオネル・ハンプトン  1942-1950/1963』以外にも複数枚にわたっていろいろと収録されている。上記『ブラック・ミュージックの伝統〜ジャズ、ジャイヴ&ジャンプ篇』に一つ、『ブラック・ミュージックの火薬庫〜レット・イット・ロール』に二つ、『ロックへの道』に一つ、『伝説のブギ・ウギ・ピアノ』に一つと、これだけある。

 

 

僕はそれら全てを iTunes でピックアップして一つのプレイリストにまとめ、年代順に並べて楽しんでいる。CD-R 一枚には入らない長さになっているので焼いては聴けないけれど、マトモな CD リイシューがない以上、今のところはこれが最善策なんだよね。

2017/01/02

歌のないカントリー・ロック

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エリア・コード 615とは、米ナッシュヴィルの電話市外局番 615 から取ったバンド名。だから当然ナッシュヴィルのミュージシャンたちによって結成(と言っていいのか?)されたものだ。僕の場合、エリア・コード 615のメンバーは、ボブ・ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』『ジョン・ウェズリー・ハーディング』『ナッシュヴィル・スカイライン』、この三作で知った人たち。

 

 

といってもいつ頃だったかそれら三つ、LP では計四枚になるレコードを買って聴いていた当時、エリア・コード 615 という名前なんか知るわけもない。だいたいそれら三作品が録音された時、まだエリア・コード 615 なんていうバンド名では結成というか存在していなかった。

 

 

ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』は1966年、『ジョン・ウェズリー・ハーディング』は67年、『ナッシュヴィル・スカイライン』は69年の作品だが、エリア・コード 615の一枚目のアルバム『エリア・コード 615』がやはり69年の作品なのだ。録音はだから同年か、あるいは前年68年だったのかもしれないが、そのへんの正確な情報は調べても分らない。

 

 

エリア・コード 615 は、だからご存知ない方でもここまで読んでお察しの通り、ディランやその他大勢のロック〜ポップ〜カントリー〜リズム&ブルーズなどの音楽家のアルバム制作の裏方、すなわちサポート・ミュージシャンとして演奏した、ナッシュヴィルのセッション・ミュージシャンたちの集団。

 

 

のちにエリア・コード 615 を名乗るようになる人たちの中心はドラムスのケニー・バットリー、ベースのノーバート・パットナム、ギターのウェイン・モスの三人。特にケニー・バットリーは二枚しかないこのバンドのアルバムの両方で、エリオット・メイザーと共同でプロデュースまでしているので、間違いなくこのドラマーが中心人物だね。

 

 

実際、1968年か69年にエンジニア/レコーディング・プロデューサーのエリオット・メイザーが(のちにエリア・コード 615 と名乗る)このレコーディング・プロジェクトのアイデアを思い付いた時、最初に声をかけたのはケニー・バットリーだった。とメイザー自身がリイシュー CD の英文解説で書いている。

 

 

英文解説のメイザーによれば、それはカントリー・フォークの夫婦デュオ、イアン&シルヴィアのナッシュヴィルでのレコーディング・セッションをこなしていた時のことだったそうだ。イアン&シルヴィアなんて、ひょっとしたら今では憶えてもらえてないかもしれないよなあ。

 

 

でもさぁ、イアン&シルヴィアの1968年ヴァンガード盤『ナッシュヴィル』には、あのボブ・ディラン&ザ・バンドでやった『ベースメント・テープス』セッションからの曲が三つもあるし、それにこのアルバムはカントリー・ロック第一号的金字塔とされるバーズの『ロデオの恋人』がリリースされる一ヶ月前に出ているんだよね。

 

 

そんなイアン&シルヴィアの1968年『ナッシュヴィル』は、タイトル通りナッシュヴィルでの録音で、プロデューサーはイアン・タイスンだけど、前述の通りエリオット・メイザーの肝入でケニー・バットリーがドラムス、ノーバート・パットナムがベースを担当している。

 

 

エリオット・メイザーはその他、前述のボブ・ディランやザ・バンドだけでなく、リンダ・ロンシュタットやニール・ヤングやジャニス・ジョップリンなどのアルバムにもかかわっている有名な音楽プロデューサー。そのメイザーの1960年代後半のナッシュヴィルにおけるファースト・コールが、のちのエリア・コード 615 になる面々だったのだ。

 

 

 

エリア・コード 615 のアルバムは二枚しかない。1969年の『エリア・コード 615』、70年の『トリップ・イン・ザ・カントリー』で、どっちもポリドール盤だけど、僕はアナログ時代には全く知らなかったのが残念。知ったのはこの二枚を 2in1にして CD リイシューされたものが KOCH Records から2000年にリリースされた時だ。

 

 

それは上掲画像の通り、二枚のオリジナル・アルバムのジャケットをそのまま並べた表ジャケット・デザインなのだが、調べてみたら2001年に日本盤で、しかも紙ジャケで CD リイシューされているんだなあ。それの表ジャケットは『トリップ・イン・ザ・カントリー』のジャケットを全面的に使っている。

 

 

ってことはその二作目『トリップ・イン・ザ・カントリー』の方が評価が高い、代表作だということなんだろうか?と思ってネットで日本語記事を漁ってみたら、確かにそんな意見が書いてあるものがいくつか出てくるなあ。う〜ん、まあ 2in1のリイシュー CD でしか聴いていない僕が言うのもあれなんだけど、僕は一枚目の『エリア・コード 615』の方が好きだし、内容もいいと思う。

 

 

しかしながらこの世間的な評価には納得できる部分もある。どうしてかというと、一枚目の『エリア・コード 615』に比べて二枚目の『トリップ・イン・ザ・カントリー』は、ちょっとハードなロックっぽい、そしてリズム&ブルーズ由来の黒いフィーリングが一枚目よりも強く出ているからだ。

 

 

普通はそういうものの方が好きな場合が多いんじゃない?普段から黒いもの、黒いもの、ファンキーさ、ファンキーさと馬鹿の一つ覚えみたいに繰返している僕だけど、エリア・コード 615 の場合は、もっとこう穏やかでのんびりとのどかなフォーク・カントリー(・ロック)風な音楽の方が似合うような気がするんだなあ。

 

 

実際一枚目の『エリア・コード 615』は、なんと全11曲で歌は一切入らない。ヴォーカル抜きのインストルメンタル演奏ばかりで、今で言えばカラオケなんだよね。カラオケっていうのはそこそこ的を射ているんじゃないかなあ。だってこのエリア・コード 615 は、基本、歌手のサポート・バンドだからさ。

 

 

アルバム『エリア・コード 615』では、ハードな調子の演奏も一つもなく、全曲かなり穏やかな印象のカントリー・ロック・サウンドなのだ。楽器編成もアクースティック中心で、電気楽器はエレベとエレキ・ギターだけ。そのエレキ・ギターも派手な音で弾きまくったりはせず、控え目な味付け程度。エレベはもちろん完全なる脇役だ。

 

 

ナッシュヴィル・サウンドだから、当然ペダル・スティール・ギターもたくさん聴こえる。一応電気楽器ではあるけれど、そんなイメージから遠いものだからなあ。ペダル・スティールもフロントでメロディを弾くが、ソロというかメロディを奏でる中心はフィドル、ハーモニカ、バンジョーの三つ。

 

 

『エリア・コード 615』には有名曲のカヴァーが多い。最も有名なのは間違いなく三曲目「ヘイ・ジュード」、五曲目「レディ・マドンナ」、七曲目でメドレーの一部になっている「ゲット・バック」、この三つのビートルズ・ナンバーだね。それもなんだか全然ロックではなく、純カントリーみたいな仕上がりだ。

 

 

例えば「ヘイ・ジュード」。フィドルの音に続きバンジョーがツンタカ刻みはじめ、それに乗りフィドルがあの有名なメロディを弾いたかと思うと、ドラムスが入ってきて、今度はハーモニカで続いてそれを演奏する。その後はエレキ・ギターになるけれど、またすぐにペダル・スティールのソロ、ハーモニカのソロ、バンジョーのソロ。ビートルズ・オリジナル後半部のリフレインは、フィドルとハーモニカ中心でやっている。

 

 

 

「レディ・マドンナ」はペダル・スティールが鳴りはじめたかと思うとリズム・セクションが入ってきて、やはりフィドルがソロを弾く。そしてバンジョーがツンタカ(それは完全なるカントリー・スタイル)、ハーモニカのソロ。14:37 から。

 

 

 

「ゲット・バック」の話は省略するとして、『エリア・コード 615』にあるもののうち、それら三曲のビートルズ・ソング以外でよく知られた有名カヴァー・ソングは、おそらく二曲目のオーティス・レディング「アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー・トゥー・ロング」 と、ラスト11曲目のボブ・ディラン「ジャスト・ライク・ア・ウーマン」だろう。

 

 

オーティス・レディングのオリジナル・ヴァージョン「アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー・トゥー・ロング」(『オーティス・ブルー』)はこれ。エレキ・ギターが三連を弾き続ける、いかにもサザン・ソウル・バラードといった趣で、僕もかなり好きだ。

 

 

 

これをエリア・コード 615 はこんな感じにしている。三連のパターンは同じだが、まずフィドルでメロディを弾いたあと、ハーモニカがソロをとる。どの曲も全部そうだけど、バックのエレベ(ノーバート・パットナム)とドラムス(ケニー・バットリー)がやはり肝だ。そしてこの曲だけはまあまあ黒い感じがするね。3:44 から。

 

 

 

黒い感じがするといえば、『エリア・コード 615』四曲目の「ナッシュヴィル 9-N.Y 1」は典型的な12小節3コードのブルーズで、リズムの感じ、特にエレベが弾くラインは完全なるモダン・シカゴ・ブルーズのスタイルじゃないか。バディ・ガイとかあのへん。まずハーモニカのソロ(はアンプリファイされた音)が出て結構ブルージーだし、続くエレキ・ギターのソロ(マック・ゲイデン)もファンキーだ。カッコイイなあ、これ。10:49 から。

 

 

 

アルバム『エリア・コード 615』のラスト11曲目のボブ・ディラン・ナンバー「ジャスト・ライク・ア・ウーマン」では、ペダル・スティールではなくアクースティック・ギターをスライドで弾く音でメロディを奏ではじめる。クレジットによればウェイン・モスがドブロを弾いているようだ。

 

 

そのドブロをスライドで弾く「ジャスト・ライク・ア・ウーマン」のメロディが実にいいフィーリングのサウンドだ。続いてフィドル、オルガンに続き、やはりペダル・スティールが出る。そのあたりからなんだかバックのサウンドがゴージャスになってくるなあと思ったら、弦楽六重奏団がいるんだね。30:38 から。

 

 

 

セカンド・アルバム『トリップ・イン・ザ・カントリー』の話を全くしていないが、まあいいじゃないか。僕も決して嫌いだとか評価していないだなんてことはないよ。

2017/01/01

サラの『枯葉』でいいのは「枯葉」ではない

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サラ・ヴォーンの『クレイジー・アンド・ミクスト・アップ』の話をしよう。これが1982年にリリースされた時は驚いたというか腹を立てた日本のファンも多かったはず。なぜならばこのアルバムの邦題は『枯葉』であるにもかかわらず、曲「枯葉」が出てこないのだ。A面三曲目がそうだとなってはいるけれども。

 

 

しかしそのA面三曲目の「枯葉」と書かれてあるそれを聴くと、お馴染のあの有名なメロディが一秒たりとも出てこない。サラもサイド・メンも全くそれをやらない。全編アド・リブで構成されていて、サラも英語詞は全く歌わず、完全なる器楽的なスキャット・オンリーで通している。だからこれは分らない人は全くなにをやっているんだか分らないはず。

 

 

実際、この『枯葉』(というアルバム題はあまり好きじゃないが)を買ったジャズ・ファンが、「枯葉」が入っていないじゃないかとレコード屋に文句を言って返金を要求したという噂話まで残っているくらいだ。このエピソードはまあ取ってつけたようなウソだとは思うけれど、それくらいの内容であるのは確かだ。

 

 

聴いてコード進行を把握できるリスナーであれば、サラのあの「枯葉」は疑いなくジョセフ・コスマの書いたあの有名シャンソンで、1950年代からジャズ・メンもよくやるスタンダード曲だということは分る。ジャズでは常套である II 度→V 度の進行、いわゆるツー・ファイヴが頻出するのでお馴染だ。

 

 

 

ちょっと音源を貼っておいたけど、どうですこれ?これじゃあコード進行などを意識しない一般の多くのジャズ・ファンは、あの「枯葉」だということを認識できないよねえ。超有名曲なので、サラもちょっとこんな感じでやってみようと思っただけだったのかなあ。

 

 

ただし僕はサラのスキャットが爆進するこの「枯葉」は実はあまり好きじゃない。はっきりと言うとアルバム『クレイジー・アンド・ミクスト・アップ』のなかで最も耳を傾けないのがこれだ。この「枯葉」なら、あえて言えば僕はジョー・パスのギター・ソロが上手いなということと、リズム・セクションの動きを聴いている。

 

 

サラのアルバム『クレイジー・アンド・ミクスト・アップ』にはもっとずっと好きな曲がいくつもある。A面なら二曲目の「ザッツ・オール」がスウィンギーでいいなあ。サラが歌いはじめる部分は2/4拍子だが、ローランド・ハナのピアノ・ソロ部分から4/4拍子に移行して、俄然スウィングしはじめる。

 

 

 

そのローランド・ハナのピアノ・ソロは実に見事な弾きっぷりだ。パーソネルなど事前に知らなくたって、ピアノ・ソロになったら、お、これは誰だ?となるはず。ピアノ・ソロのあとに出るサラのヴォーカル部分も4/4拍子のままでスウィングする。

 

 

ローランド・ハナは、このサラの『クレイジー・アンド・ミクスト・アップ』の伴奏バンド四人のリーダー格だった。ハナのピアノ、ジョー・パスのギター、アンディ・シンプキンスのベース、ハロルド・ジョーンズのドラムス。だが僕はベースとドラムスの二人についてはよく知らないし、有名でもないはず。

 

 

サラの『クレイジー・アンド・ミクスト・アップ』で僕が一番好きなのはイヴァン・リンスの書いた二曲だ。A面ラストの「ラヴ・ダンス」、B面トップの「ジ・アイランド」。もちろんイヴァンはブラジル人音楽家だけど、サラは1970年代からブラジル音楽に接近した良いアルバムを創っているもんね。

 

 

『クレイジー・アンド・ミクスト・アップ』にあるイヴァン・リンスの二曲では、A面ラストの「ラヴ・ダンス」(英語詞はポール・ウィリアムズ)はゆったりとしたジャズ・バラード。ジョー・パスのギターはかなり小さい音で、ピアノ・トリオ中心での伴奏。

 

 

 

しかし僕はB面トップの「ジ・アイランド」の方がもっとずっと好きだ。これはややボサ・ノーヴァ風のリズム・アレンジになっている。冒頭テンポ・ルパートでサラが歌いはじめるが、すぐにリズム・セクションがボサ・ノーヴァを演奏しはじめるのがいいよねえ。

 

 

 

そのボサ・ノーヴァ・リズムにテンポ・インしてからのバンドの演奏とサラの歌い方が僕は大好きなんだなあ。英語詞(誰が書いたんだろう?)はちょっとセクシーかもしれない。はっきり言うとセックス行為のメタファーであるように僕には聴こえるんだなあ。これは単に僕がスケベオヤジなだけなのか?

 

 

サラのヴォーカルの歌詞内容と歌い方が盛上がっていくにつれ、バンドの伴奏も徐々に熱を帯び、最終的にクライマックスに到達し、「ジ・アイランド」は終了する。つまヴォーカリストも楽器奏者たちも、全員が一緒になって行っているように僕には聴こえるんだけどなあ。僕の頭がオカシイのか?

 

 

そんな B 面一曲目の「ジ・アイランド」こそが、僕にとってはサラの『クレイジー・アンド・ミクスト・アップ』におけるクライマックス、白眉の一曲に間違いないんだけど、誰もそんなことは言わないよねえ。みんな壮絶なスキャットを聴かせる「枯葉」の話ばかりで、ジャズ喫茶でも A 面しか流れなかった。

 

 

まあ「枯葉」のスキャットが凄いっていうのは間違いないし、アルバム『クレイジー・アンド・ミクスト・アップ』の最大の聴きものであるのは僕も疑わない。こんな解釈はそれまでただの一つもなかったわけだしね。器楽奏者ではない歌手でも、「枯葉」じゃなければ似たようなことをやる人は、ずっと前からいた。

 

 

だからみんな『クレイジー・アンド・ミクスト・アップ』では「枯葉」の話をするわけだけど、イヴァン・リンスの書いた二曲、特に「ジ・アイランド」のセクシーな盛上りを聴かせる歌い方と伴奏の話もちょっとしてほしいんだよね。「枯葉」とどっちがチャーミングかというと、僕には断然「ジ・アイランド」だ。

 

 

サラの『クレイジー・アンド・ミクスト・アップ』には、他にもA面一曲目のスタンダード「アイ・ドント・ノウ・ワット・タイム・タイム・イット・ワズ」もある。この曲はアート・テイタム、チャーリー・パーカー、ソニー・クラーク、歌手ならビリー・ホリデイやエラ・フィッツジェラルドもやっている。

 

 

またアルバム・ラストの「ユー・アー・トゥー・ビューティフル」。これもロジャース&ハートの有名ソングライター・コンビが書いた有名曲。アル・ジョルスンが歌ったのが初演だけど、コロンビア時代のフランク・シナトラの歌でも知られているものだ。

 

 

フランク・シナトラの「ユー・アー・トゥー・ビューティフル」は1945年8月22日録音。しかし当然ながらまず最初は SP盤でリリースされたこの曲は、なかなかLPには収録されず、というかそもそもLP化されなかったんじゃないかなあ。僕は1993年リリースのコロンビア録音完全集でしか聴いたことがない。

 

 

シナトラの『ザ・コロンビア・イヤーズ 1943-1952:ザ・コンプリート・レコーディングズ』CD12枚組。これにしかシナトラの歌う「ユー・アー・トゥー・ビューティフル」は収録されていないだろうと思うんだけどね。なかなかいい歌なんだ。

 

 

 

この YouTube 音源の記述では「1946」という文字が見えるが、これはリリース年じゃないかなあ。録音年ということなら間違っている。僕の持っているシナトラのコロンビア時代録音全集附属のディスコグラフィーでは、前述の通り1945年録音と記載されているもんね。瀟洒なストリングスもいい感じ。

 

 

サラの『クレイジー・アンド・ミクスト・アップ』ラストの「ユー・アー・トゥー・ビューティフル」は、ローランド・ハナのピアノ伴奏一台のみでしっとりと歌う。歌詞の意味をかみしめるように歌い込むのが素晴らしく、ラストを締め括るに相応わしい。

 

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