あぁ、ベシー、大好きだ
僕の愛機 MacBook Pro は無事修理が完了して手許に戻ってきて、データも全て戻し終え、完璧に環境は復旧いたしました。と言いたいが、実はインポートしたはずの CD 音源が iTunes で見ると少し失われていて、それらをもう一回入れ直さないといけないのは面倒くさい。一度に全部は無理なので、少しずつやるしかない。
2007年型 MacBook を使っていた数日間、その OS X 10.6.8にも iTunes はあって、しかし一度全部クリアにしたので、入っていた音源はゼロ。どうしても聴きたいと思って入れたのがベシー・スミスの完全集八枚と、ルイ・アームストロングの1925〜33年オーケー(その他)録音10枚組。本当にそれら二つしか入れなかった。つまりそれらを僕は本当に大事に思っていて、いついかなる時でも聴きたいわけなんだよね。
CD で聴けば問題ないじゃないかという感じではあるんだけど、八枚とか十枚とかあるのをとっかえひっかえするのが面倒くさいのだ。iTunes で一つのプレイリストにすれば、部屋のなかでずっと流しっぱなしにできちゃうもんね。そういうメリットも(その他いろいろと)ある。CD で複数枚のそういうものがいっぱいあったけれど、今回はとりあえずベシーとサッチモだけ入れて流していた。特に深夜にピッタリ。
というわけで、昨日までの記事もそうですが、今日も以下は2007年型 MacBook を使っていた時期に書いた内容(に少しだけ今日手を加えた)です。明日以後は MacBook Pro のトラックパッド故障前の平常運転に戻れます。のはずです。
ベシーとサッチモは僕のなかでは深く深く結びついている。ベシーはジャズ歌手、サッチモはブルーズ・マンとかさ、まあそんな風に思っているんだよね。いや、そんな区別も無意味だ。不可分一体になっている。もちろんサッチモがベシーの伴奏をやったものが結構あるのも大きな理由だけど、それは本質的なことじゃない。
ベシー、サッチモ関係なく、あの1920年代当時のブルーズとジャズのありようがそうだったというだけの話だよね。ただ今はベシーの八枚組全集しかブルーズ歌手の音源が iTunes に入っていないので、それだけ聴いて感じることを少し書いておこう。しかもやっぱりサッチモとの共演全九曲+ワン(がなにかはあとで書く)について。
っていうのはさ、ベシーの全集は、一つのプレイリストにしてある iTunes で見ると154曲もあって、計八時間を超える。それを全部集中して聴き直すなんてことは、僕には不可能だ。夜中に部屋の照明を少し落として、ただ単に流しているだけであれば、何時間でもそれが気持良いベシーだけど、なにか書くとなれば絞らざるをえない。
それでやはりベシーの絶頂期だったように僕が考えている、ベシー全集の二巻目の二枚(にサッチモとの共演+1は全てある)にあたる1924年8月〜1925年11月録音のものだけを真剣に集中して聴き直してみたけれど、やっぱり素晴らしすぎてため息しか出ない。
あ、ベシー全集全八枚は、今は一つにまとまっているのかな?僕が持っている最初に CD でリイシューされたものは、二枚組×4というかたちでリリースされていた。つまり四つバラ売り。どうして八枚組セットのボックスにしなかったんだろう?1991年から二年間ほどで順次全部発売された。
ベシーとサッチモとの初共演は1925年1月14日録音の五曲。この日最初にレコーディングされたのが「ザ・セント・ルイス・ブルーズ」。W・C ・ハンディが版権登録したブルーズ・ソングでは、やはりサッチモとの共演で25年5月26日に「ケアレス・ラヴ」も録音している。もう一つ、非常に重要な曲の録音があるが、それにはサッチモ不参加。それの話はあとで。
ベシーとサッチモとの共演全九曲では、しかしベシーの絶品ヴォーカルだけに集中できないのが、なんとも痛し痒し。というのはお聴きの方であればお分かりの通り、サッチモの存在感が抜群すぎるだからだ。伴奏者、つまりあくまで脇役であるはずのこのコルネット奏者が、主役の女性歌手を食ってしまう。
だからベシーはサッチモの伴奏をあまり好まなかったらしい。そりゃそうだろうなあ、共演全九曲を聴けば、僕みたいな素人にだってその気持はよく理解できる。背後であんな雄弁にパッパラパッパラやられたら、フロントで歌う人間はそりゃたまらん。あくまで自分の歌をレコード吹込みして発売したいのにねえ。
なかにはサッチモのコルネット・サウンドが、まるで1970年代マイルスの電気トランペットそっくりに聴こえたりする曲もある。例えば「レックレス・ブルーズ」「コールド・イン・ハンド・ブルーズ」「ユーヴ・ビーン・ア・グッド・オール・ワゴン」が典型的にそうだ。お前は電化マイルスの聴きすぎのせいで耳が腐ってるんだよとおっしゃる向きは、だまされたつもりで是非一度 YouTube で検索して聴いてみてほしい。
それらでのサッチモはおそらくワーワー・ミュートを使っているので、あんなサウンドになっているんだろうね。でもサッチモのワーワー・ミュート・プレイって他では全く聴けないんだけど、どうなんだろうかなあ。あるいはワーワー・ミュートではなく、1925年当時の録音技術のせいかとも一瞬思ったが、それは違うな。だって同じ日の録音である他の曲では普通のコルネット・サウンドに聴こえるからだ。
あまりサッチモ関連に深入りすると、ベシーの歌からどんどん離れていって、しかもいくらでも長文が、それも複数書けてしまうので、このあたりまでにしておこう。ベシーとサッチモとの共演九曲で、ベシーのヴォーカルはどれも輝いているが、なかでもいいのがやはり W・C ・ハンディが版権登録したブルーズ・ソング二曲。
すなわち上でも書いた「ザ・セント・ルイス・ブルーズ」と「ケアレス・ラヴ」の二つだ。声の張り方が実に堂々としていて、朗々たるビッグ・ヴォイスで聴き惚れる。しかもそうでありながら実に細やかなフレイジングの隅々にまで気配りが行き届いている。
ベシーの発声と歌い方はかなり古風というか、いかにもヴォードヴィル・ブルーズ・シンガーだというようなもので、同じような時代と種類の女性歌手でも、アルバータ・ハンターにあるようなポップなスウィートさはベシーには微塵もない。ちょっと近寄りがたい雰囲気すらあって、ずっと時代が下ってのアトランティック移籍後のアリーサ・フランクリンの持つオーラと同種のものを僕は感じる。
そんなベシーのヴォーカルの、凄みと迫力と繊細さが共存している最高傑作が、これにはどうしてだかサッチモが参加していない「ザ・イエロー・ドッグ・ブルーズ」だ。1925年5月6日録音で、伴奏は当時のフレッチャー・ヘンダスン楽団からのピック・アップ・メンバー六人。
是非に!是非に!YouTube で(あるのは分っている)「The Yellow Dog Blues Bessie Smith」で検索して聴いてほしい。この一曲こそベシーの頂点だ。「ザ・イエロー・ドッグ・ブルーズ」に関しては、油井正一さんが詳しく解説している。それは昨年九月に復刊文庫化された『生きているジャズ史』のなかの一章なので、せっかく復刊されたんだし、それを引用しながら話を進めたい。
文庫版『生きているジャズ史』では98ページから125ページにわたる「ジャズ・ヴォーカルの変遷と鑑賞」。このなかで油井さんはベシーなどの歌手を聴く際の重要ポイントを三つあげている。ちょっと引用する。
「ひるがえって、このりっぱなベッシー・スミスのヴォーカルが、なぜ日本のジャズ・ファンに理解しにくいかという点を考えてみましょう。(1)歌詞の意味がわからないこと。(2)電気吹き込み以前のものが多いため、録音がひどいこと。(3)これは、たいへん重要なことですが、ジャズ・ヴォーカルは、ルイ・アームストロングの出現を転機として、正統的な歌唱法のみに準拠することなく、ヴォイスを楽器のひとつとしても取り扱い得るという独自の分野を開拓したこと。」(p.100)
さて、僕はこの油井さんの視点には、今では異議を唱えたい気持がある。油井さんは上記引用部分だけでなくこの一章では頻繁に、ベシーを聴く際には歌詞の意味の理解が非常に重要で、歌詞内容をどう表現するかという点が、意味をどう伝えるかという点こそが、ベシーのあの発声と歌唱法と不可分一体化しているのだと繰返し強調している。
それがサッチモの大活躍によって、スキャット唱法に代表されるように、意味などではなく音のシラブルを楽器的に歌うやり方が一般化し、その後のジャズ歌手(しか油井さんは書いていないが、間違いなく他の分野の歌手も)はそういう歌い方になったので、ベシーみたいな歌い方の歌手は理解されにくいのだと。
以前から繰返しているように、僕は歌詞の意味内容の伝達などは重視しない人間で、場合によっては全く無視して聴いている。どういう場合かというと、ありきたりの単純明快なラヴ・ソングの場合だ。男(or 女)に惚れた、好きだ、愛している、また逆に逃げられた、捨てられた、悲しい、苦しい、孤独だ、などなど。
それですね、非常に重要なことを言いますが、ベシーの歌うものの歌詞内容は、100%完全に、そんなようなありきたりのどうでもいいような失恋歌なんですよ。僕はそんなもの、ま〜ったく重視しないというか完全無視してベシーを聴いている。大学生の頃から同様で、それでベシーが大好きでたまらなくなり、CD で完全集が出ると、喜び勇んで買ったのだ。
『生きているジャズ史』のなかでの油井さんは、「ザ・イエロー・ドッグ・ブルーズ」については、英語原詞と、大橋巨泉による日本語訳までつけて掲載しているほどで、それをベシーがどう表現しているのかを詳細に分析している。しかしこの W・C ・ハンディが版権登録したブルーズ・ソングは、ただ単に私の彼氏(イージー・ライダー)に逃げられた、あの男はどこへ行ったの?朝夕泣きはらしているのよ、というだけのものでしかない。
イエロー・ドッグとはヤズー・デルタ鉄道のことで、つまり鉄道頻出の定型ブルーズ・リリックでしかないし、こんなものなぁ。油井さんは「二グロの悲しみを」云々(でんでんとは読まない、1/25注)と書いているものの、僕にとっては別に人種関係なく、全人類共通の普遍的な、言い換えればそこいらへんにいくらでも転がっていそうなものだと思える。
だから油井さんの言うベシーが理解されにくく、熱心に聴いているファンがほとんどいない(と当時から書いているし、2017年現在でもその状況は変化なし)のは、歌詞の表現方法などでなないはずだ。少なくとも僕は歌詞の中身を全く意識せずにベシーに惚れた。
ってことは僕がベシーのヴォーカルが大好きでたまらない理由や、逆に多くのブルーズ・ファン、ジャズ・ファンがベシー(などああいう種類の女性歌手たち)が苦手だと言って敬遠している理由は、歌詞の表現方法などではないんじゃないかなあ。ないかなあというか、間違いないように思う。
じゃあなんなんだろうなあ?とここまで書いてきて行き詰まってしまった。どうして僕はベシーのヴォーカルがこんなに大好きなんだろう?どうしてみなさんベシーが苦手なんだろう?どこに原因があるんだろう?どこをどう言えば僕のベシー愛を説明できて、その結果ここがこうだからベシーの歌のこのあたりを聴いてくれ、ここがいいんだから苦手だという方もと説明することが、結局今日はできなかった。
やっぱり油井さんの言う通りなのか?そうじゃないだろうという強い実感が僕のなかにはあるんだけど。すみません、出直します。「ザ・イエロー・ドッグ・ブルーズ」のなかの「All day the phone rings. But it’s not for me」の部分を、phone と rings のあいだで息継ぎして一拍空白を入れるのが、宇多田ヒカルのデビュー曲「automatic」における「七回目のベルで受話器を取った君」の出だしで、な、なかいめのと空白を入れるのと同じだとか、また別の機会に話します。
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