ジャズ進化幻想
音楽が「進化」「進歩」すると思っている人は、早く夢から覚めてほしい。音楽にそんなものはない。変化はしても進化などしない。したことなど人類史上一度もない。ただスタイルの変遷があるだけだ。音楽だけじゃなく、あらゆる文化産物はそうじゃないかなあ。
人類が進化するのはテクノロジーだけかもしれない。科学技術、なかでも医療技術はどんどん進歩してきて、そのおかげで昔は不可能だったことが可能になった。昔なら苦しむばかりだったり助からなかったりした人が、苦しみを軽減できたり延命できたりしているからね。
またコンピューターとインターネット技術の大幅な進化のおかげで、以前は繋がりにくかったものや人が繋がりやすいし、膨大な情報にも簡単にアクセスできて、分らないこと、調べるのに手間取ったことが、実に簡便に検索できて分るようになっている。コミュニケーションも容易になって、楽しくて面白い。
ただしそんな科学技術でも、進化・発展の末に核兵器や生物兵器や、あるいは生命の誕生を操作する技術なども産まれたので、果たしてそれは「進化」したと言えるのだろうか?という強い疑問が僕にはある。じゃあ原始時代に戻りたいのかというとそれも嫌だという、なんというワガママ人間なんだ、僕は。
音楽に関してもテクノロジーの進化とともに歩んできたのは確かだ。特にポピュラー・ミュージックの歴史は録音技術の歴史と言い換えてもいいくらい、誕生期から両者が一体化していて、スタジオでもライヴでも録音テクノロジーの進化によって、従来は不可能で歯ぎしりしていたことが実現できるようになった。
録音技術の進化で音楽も変化したのは言うまでもない。まずなんたってレコード(CD)における一曲の長さが大幅に伸びたので、それだけでも表現スタイルは変化した。その他逐一具体例をあげるのは不可能なほど面倒臭いし、みなさんよくご存知のはずなので省略する。
しかしそれは音楽スタイルの「変化」であって「進化」ではないだろう。進化などと呼ぶのであれば、それはより良い方向へ、良いというような倫理的価値判断用語はふさわしくないかもしれないので「より面白い」方向へとチェンジするのでなければ「進化」とは言えないはず。じゃあ時代を経て、音楽はどんどんと面白くなる一方なのか?
これははなはだ疑問だよね。より面白くなっているかどうかでいえば、むしろ逆だ。時代を経て、よりつまらない方向へと変化してしまっているかのように僕には思えるので、それは進化じゃなくて退化だ。まあ僕は古い録音音楽こそが大好きな人間だから、単なる個人的趣味嗜好だけでの判断かもしれないが、そればかりとも言い切れないんじゃないの?
この進化幻想が最もひどいジャンルがジャズだ。というか、僕の見るところ、ここまで進化・進歩ということに、音楽家も聴き手もこだわっているのは、ほぼジャズだけじゃないかなあ。現在の日本でこの傾向が最も著しい方向へ突出しているのが、例の JTNC に分類されるみなさん、特に主導者だ。
柳樂光隆くんはジャズの「進歩」「斬新さ」「更新」ということにもんのすご〜くこだわっているようで、たとえば昨年暮れの『ミュージック・マガジン』恒例の年間ベストテンにおける個人選出欄でも、「音楽シーンの充実と進化を感じてワクワクしっぱなし」と書いていた。これはほんの一例で、この種の発言は枚挙に暇がないほどメチャクチャに多い。
しかしこういうジャズ進化幻想は21世紀に入って昨日・今日はじまったものなんかじゃない。ずっと昔から完璧に同じ発想を、聴き手も音楽家も持っていた。ジャズの歴史とは進化(幻想)の歴史だから、そもそも初期からこれはあった。ジャズ・メンも新しいものを創らなくちゃ、聴き手も新しいジャズにワクワクしなくちゃという気持で、20世紀初頭以来ずっと歩んできているんだよね。
こんなの、ジャズだけだろう。なんという面倒臭い音楽なんだ。ジャズの場合、新しいスタイルがどんどん誕生して、ジャズ史の変遷とは、イコール、スタイル刷新の歴史なもんだからこうなってしまう。特に1940年代半ばにビ・バップ革命があって、50年代末にフリー・ジャズ革命があり、60年代末からは他ジャンルとのクロス・オーヴァー革命があった。
ジャズはいったい何回革命を起こしたら気が済むんだ?新革命のたびに、それまでの従来のスタイルでやるジャズはもはや古臭いもので、 廃れるべきもので、そして事実、退潮の一途を辿ってきた。聴き手の側もそんな変化についていかないといけないという気持をもってジャズに接してきたはずだ。
そりゃ油井正一さんだってそんな発想があったもんね。日本のジャズ・リスナーのあいだでは油井正一史観みたいものが支配している時期が長いけれど、その油井史観なるものは、すなわちジャズ進化論のことなんだよね。ジャズはどんどん新しくなって、ジャズ音楽家はそうじゃなくちゃ存在価値がないというようなもの。
ってことはだ、油井史観みたいなものの「更新」を掲げて、それを堂々と公言しながら執筆その他大活躍中の柳樂光隆くんがジャズの進化・進化とこだわって仕事し続けているのは、要するに油井史観の枠内から一歩も抜け出せていない古色蒼然たる人間にすぎないということなんだなあ。
どうも柳樂光隆くん自身は、自分は新世代の人間で、新しい感性と批評言語を持っていて、2010年代の新しいジャズをどこがどう新しいのか説明して普及する活動につとめている人間なのだと心の底から信じ込んでいるようなんだけど、こう見てくると、ジャズの進化ということにあそこまでこだわっている姿勢一つとってみても、全くの精神的旧世代だね。
ジャズの場合、この進化幻想の体現者だった音楽家が他ならぬマイルス・デイヴィスだ。マイルスは音楽は新しくなくちゃいけない、少なくともオレの場合はどんどん進化する、それができなくなったらオレは死にたいとまで発言し、そして実際の音楽的成果でもそれを実践し表現していた。
ビ・バップ時代にデビューしたマイルスが、その後1950年代末にモーダルな演奏法を完成させたり、60年代後半から和声的にほぼフリーになると同時に、ファンクやロックなどとクロス・オーヴァーして、それまでに存在しなかった新しいジャズを創り出して進化し続けた。僕は(みんなも)そんなマイルスの一面が大好きだった。
そんなマイルスのジャズ進化幻想の体現史は、ほぼモダン・ジャズの歴史と重なっていて、それが一時隠遁の1975年まで続いたので、聴き手の側もジャズは進化するんだな、そうじゃないと意味がない音楽なんだなと信じ込んできたはずだ。マイルスの歩みを必ずしも十全に把握していたとは今の僕は考えていない油井正一さんも同じだったよね。
僕もマイルスが死んだ1991年までは完璧に同じジャズ進化幻想の持主だったんだよね。どうやらこれはオカシイぞ、ひょっとして音楽が進化するというのは幻想に過ぎないのかもしれないぞと気付くようになったのはわりと最近の話で、たぶんマイルスの死後しばらく経った21世紀に入ったあたりからだ。
これはかなり遅かったなあ。僕のジャズ・リスナー歴を考えても妙なことだった。マイルスの、特に1970年代以後のニュー・ムーヴメントが大好きである一方で、僕は1930年代末頃までの古い戦前ジャズも大好きで、たまらなく心地良い魅力を感じて聴きまくっていたのにね。
僕は古い時代の SP 録音音楽、特にジャズとブルーズとワールド・ミュージックが今でも大好きで、それは単に聴いていて気持良いからだけなんだけど、これはひょっとしたら「古い」んじゃなく「新しい」のかもしれない、少なくとも永久不滅の音楽美があるじゃないか、それに古いも新しいもないじゃないかと、心の底からそう実感するようになったのはかなり最近だ。
音楽は進化なんかしないものだ、スタイルはどんどん移り変わっても、ただ美しいものがいつまでもその美しい姿を変えずそのままありつづけるだけだという考えこそが、ある意味、2010年代的に最も新しい(笑)。ジャズだって同じだぞ。若いリスナーがなにかをきっかけに戦前ジャズの楽しさ、真の革新性に気が付いてハマってしまう現象が散見されるけれど、それも一つの証拠だ。
さらに進化・進化と言いすぎる人は、過去の音楽伝統をしばしば無視したり蔑視する。無視・蔑視とまでいかない場合でも、少なくとも新時代の要請にはこたえらえなくなって意味は失ったのだと考えて軽んじる。そういう場合、実は、新しく録音される音楽の、どのへんが真に新しいのか、革新性はどこにあるのかを見逃してしまう場合が多い。新しさを本当に理解するのは、伝統や古典を重視する人間なんだよね。
僕が大学院生の頃に知った20世紀初頭のドイツ人フィロロジスト(文献学者とか和訳されるけれど、それではどうも掴みにくい言葉だ)。その人はギリシア、ラテンの古典作品の研究が専門なんだけど、そうでありかつ、同時代のマルセル・プルースト、ジェイムズ・ジョイスの革新性を真に見抜いた人物だった。フリードリヒ・ニーチェも古典文献学者にして新時代の哲学者だった。
こういう事例は実に多い。話を戻すと油井正一さんは柳樂光隆くんとは違って、ジャズの伝統・古典を非常に尊重する批評家だった。非常にというか極度に尊重しすぎと言ってもいいくらいだった。中村とうようさんも同じ姿勢だったね。そして油井さんもとうようさんも、そうであるからこそ音楽の真の楽しさ・美しさが奈辺にあるのかを鋭敏に見抜く感性を磨いていて、新しい音楽も評価したのだ。奇しくも柳樂くんは油井さん、とうようさん両名ともに対し、やぶにらみしているじゃないか。
さて、ポピュラー・ミュージックにおいて、アメリカ(産・発)の音楽が世界中に拡散して影響力を発揮した20世紀は、かなり雑で大雑把に言えば、ブルーズ、もっと正確にはブルー・ノート(・スケール)が支配した世紀だったと言えるかもしれない。そしてそれはひょっとしたら20世紀だけの特有現象だった可能性がある。
というのは、どうもここ最近、特に2010年代以後、このブルー・ノートの退潮みたいなものがあるんじゃないか、そうなりつつあるんじゃないかと感じることがある。表現する音楽家の側としては、このまま無自覚にブルー・ノートに頼りっぱなしでいたら、あるいは先がないということになるかもしれない。
それは今すぐのことではなく、たぶんあと30年とか50年くらい先の話なんだろうと思うけれど、どうもそんな方向へ向かっているように見える(聴こえる)。この先ポピュラー・ミュージックからブルー・ノートは消えるかもしれないね。そしてそれは20世紀だけの特異現象として語り継がれることになるかもしれない。
そうなったらそうなったでいい。僕はもう生きていないだろうし、生きていても音楽家ではなくプロの批評家でもないんだから、時代の先端を意識してついていかなくちゃみたいな気持なんか毛頭ない。好きなものだけチョイスして聴いて、無自覚にその美しさに身を任せ快感に溺れるだけ。
その場合、聴くものから新作品が消えてしまう可能性があるんだけどなんの問題もない。趣味で愛好しているだけの素人リスナーにとってはそれはなんでもないことであって、新しかろうが古かろうが関係ないんだよね。それをまるで素人リスナーにまで新しい(と彼らが勝手に思い込んでいるもの)ものについていってくれみたいに押し付けないでくれるかな。
そして新しい/古いは、音楽美や音楽の値打ちにも全く無関係だ。なんだか新しくないと価値がない、意味がないみたいに考えて実践するのは、プロの音楽家の姿勢としてはそれが当然かもしれないが、批評家やリスナーは、もっとこう音楽のなかにある本質的美しさに目を向けて、それをもっと大勢に伝えるようにした方がいいんじゃないの?
保利透さんや毛利眞人らのぐらもくらぶが活動したり、ジャネット・クラインやデヴィナ&ザ・ヴァガボンズらが人気があったり、100年以上も前の「古い」ショーロや、さらにもっと「古い」トルコ古典歌謡などなど、そのままのスタイルで2010年代に再演したものが、今でもピチピチ新鮮で最高に美しく感動的に響くという厳然たる真実を前に、彼らはなんと言うのだろうか?
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コメント
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別に油井正一氏が悪いのではなくて、いわゆる「音楽史」が知識偏重の受験テクニック(覚えやすさ・採点しやすさ)とともに形成されてきたってことだと思います。
投稿: lzfelt | 2017/06/10 23:18
lzfeltさん、あの〜、すみません、僕、油井さんのことはちっとも悪く言っていないつもりです。それどころか大信奉者であります、油井さんの。たぶん僕以上に油井さんを尊敬し、愛読している人間は日本にいないかもしれません。
投稿: としま | 2017/06/10 23:40