お経を読むプリンス
こういう言い方はどうかと思わないでもないが、昨年四月に亡くなったプリンス(のその事実はまだしっかりとは受け入れられていないが、僕がそんな気分になっているのはマイルス・デイヴィス以来)の書く曲のメロディが、時々仏式葬儀の読経のように聴こえる時がある。
これは別にまだ亡くなって間もない人間だからという意味ではない。単に音楽的な部分についてだけ言っているつもりで、だから生きている時からそう感じていたのだが、はっきりと言葉にできず、どう言えば他人に伝わるかずっと言葉を探していたものだ。それでようやく見つけたのが「お経」という表現。でもオカシイよね、これ。
いろいろとあるけれど、僕が特に読経だなと思うプリンスの楽曲は「ウェン・ダヴズ・クライ」と「アナ・ステシア」の二つだ。メロディが平坦で起伏がなく、同じ音程をずっと続けているし、それも声を張って歌うようなものではなく、なんだかモゴモゴとつぶやいているみたいだ。
もちろん仏式葬儀でお経を上げる僧侶は、かなり明瞭な声を強く張って朗々と読上げている。しかもその読経は音楽的だよね。各宗派の仏式だけでなく、いろんな宗教葬儀における同じようなものは、全て音楽に聴こるんじゃないかと思うんだが、僕はレコードや CD で聴くだけで仏式葬儀しか現場経験がないので、他のことは自信がない。
宗教儀礼と音楽との関係については、以前一度詳しく書いた。そこでも書いてあるのだが、僕の場合、仏式の通夜や葬儀において僧侶の読経が音楽に聴こえるというのは、三年前に父が亡くなった際に初めて強く実感した。実父の葬儀で、ある意味「楽しい」「面白い」気分になってしまって、これは不謹慎だなと思ったものの、抑えきれない気持だった。
そんなことはともかくプリンスが読むお経、いや音楽(と区別するのすら無意味だろうと最近思うのだが)。全部の楽曲を聴き返すのは相当しんどいことなので無理だが、彼のヴォーカル・ラインが起伏に乏しく平坦で、まるでお経か、あるいは呪文みたいなもんじゃないかと思うのが、上記「ウェン・ダヴス・クライ「アナ・ステシア」の二曲だ。実はもう一つ、パッと思いつくものがあるのだが、その話は最後にする。
まず「ウェン・ダヴズ・クライ」。邦題がどうしてこうなっているのか分らない「ビートに抱かれて」は、1984年の『パープル・レイン』の B 面一曲目。これはプリンス最大のヒット・アルバムで、「ウェン・ダヴズ・クライ」もシングル・カットされかなり売れたが、個人的にはシングル・ヴァージョンの方はちょっとね。
だってシングル・ヴァージョンの「ウェン・ダヴズ・クライ」は、歌本編が終わってギター・ソロがはじまって、さぁいよいよここからだ!という刹那にスッとフェイド・アウトして終わってしまう。まるであっ、イキそう…となった刹那に突然ストップされるセックスみたいなもんで、どうにも不満なのだ。
だからアルバム・ヴァージョンしか聴かない「ウェン・ダヴズ・クライ」だけど、これ、ホント旋律が平坦で起伏がなく、プリンスの歌はまるでお経を読んでいるみたいじゃないだろうか?同じようなピッチの音を反復しているだけで、全然メロディアスじゃないよね。念のために言っておくと、だからつまらないという意味ではない。
だいたいあの「ウェン・ダヴズ・クライ」は相当ヘンな曲だ。まずベースが入っていない。ブラック・ミュージックにおける最も重要な要素である低音、ボトムスを抜いてしまうという。だから踊れないダンス・ミュージックみたい。一説によれば、元々ベースも入っていたのだが、ミックスの際にない方が面白いとの殿下自身のアイデアで、ベース・レスにしたらしい。
アメリカのブラック・ミュージック界においては、完璧に同じものの先例がある。ファンカデリックの1971年『マゴット・ブレイン』のアルバム・タイトル曲だ。みなさんよくご存知の通り、アルペジオを鳴らすギターに乗って主役のエディ・ヘイゼルが弾きまくるギター・インストルメンタルだが、これもベースをミックスの際に抜いてある。
この「マゴット・ブレイン」も演奏・録音の際にはベースはもちろんいろんな楽器が入っていたらしいのだが、ボス、ジョージ・クリントンのアイデアで、ミックスの際にベースばかりかほぼ全ての楽器音を抜いてしまった。要はジャマイカのレゲエなどにおけるダブの手法だよね。ファンカデリックのこれは1971年だもんなあ。
プリンスと P ファンクは実に密接な関係があるし、だいたい総帥であるジョージ・クリントンが参加しているプリンスのアルバムだってあるもんね。このへんの、ブラック・ミュージックにおいてベースを抜くという極めて斬新というか、まあありえない発想の根源と効果については、P ファンクとプリンスを結びつけた文章を用意中なので、お待ちいただきたい。
さて「ウェン・ダヴス・クライ」。これが収録された『パープル・レイン』はバンド編成で録音したものや、バンドでなくても複数で録音したものが多いが、「ウェン・ダブズ・クライ」はプリンスの例によっての一人多重録音のみで仕上げている。つまりオール殿下。
また「ウェン・ダヴズ・クライ」がヘンな曲だなと思う要素は、平坦なお経メロディ、ベース・レスの他にも、いわゆる<展開>が全くないということもある。通常の A メロ、B メロ、サビみたいな流れが存在しないのだ。ティン・パン・アリーやブリル・ビルディングの系譜など、アメリカン・ポップ・ミュージックのメインストリームの曲創りからしたらありえない。
プリンスはポップ・ミュージックの人間じゃないだろうと言われるかもしれないが、僕はそんなことないと思うね。っていうかだいたいの大衆音楽はポップ・ミュージックだ。アメリカ産の黒人音楽なら、ジャズもブルーズもソウルもファンクもぜ〜んぶポップ・ミュージック、すなわちエンターテイメントだ。
プリンスだってティン・パン・アリーやブリル・ビルディングの伝統から実に多くを学んでいることは、誰でも曲を聴けば否応なしに痛感できるはず。そんな黄金のアメリカン・ポップスの世界では、書いたような A メロ、B メロ、サビというような、まあ正確にこうじゃないものも多いが、一応の<展開>ってものがある。
それを「ウェン・ダヴズ・クライ」では完全無視して、ひたすら一直線に同じメロディ・ライン、でもないような平坦なお経・呪文ヴォーカルで突き進み、変化・展開はなし。起承転結は全然聴けない。しかも和音構成は基本、A マイナーと G の二つだけの反復。
そんな曲なのに「ウェン・ダヴズ・クライ」は大ヒットしたよなあ。通常のポップ・ソング好きにもアピールできたという証拠だ(じゃないとあんなには売れない)。ちょっと考えられないような気がするけれど、それでもプリンスのベスト盤などには欠かせない重要な一曲となったので、なにか秘密があるんだよなあ。
その秘密を解き明かすのは、僕みたいな素人には不可能だ。ただ面白いと思って聴いて快感をおぼえてイクだけ。そんなお経ヴォーカルをプリンスが歌うもっとひどい典型例が「アナ・ステシア」だ。ご存知気持悪いジャケット・デザインの1988年『ラヴセクシー』収録。
『ラヴセクシー』は全九曲が繋がっていてワン・トラックなので、一曲だけ抜き出して聴くのは難しいのが残念だが、幸運なことにトラックが九つに切れている『ラヴセクシー』をお持ちの方(笑)は、四曲目の「アナ・ステシア」だけでも聴いて確認してほしい。
「アナ・ステシア」といえば、愛媛県松山市に女性プリンス・マニアの方がいらっしゃって、その二児の母はとにかく「アナ・ステシア」が大好きで大好きでたまらないらしい。どこがいいんだ?あんなお経だとしか思えないメロディが?と僕は最初思ったのだが、トラックの切れた『ラヴセクシー』で何度も聴き返すうちに、僕もこれはかなり凄い曲だぞ!と強く実感するようになっている。
メロディの起伏のない平坦さという意味では、「ウェン・ダヴズ・クライ」よりも「アナ・ステシア」の方がはるかにひどい。ピアノの音にはじまり、続いて出てくるプリンスの歌うヴォーカル・ラインは、文字通り一つの音だけをひたすらリピートしている。完璧にワン・ノート・バラード。
じゃあワン・ノートで平坦なお経だから「アナ・ステシア」を聴いて退屈かというと、全くその正反対に美しいメロディだなと感じるので、こりゃ魔法だよなあ。オカシイぞこれ。だって同じワン・ノートでしか構成(「構成」もヘンだが、だって一音程だもん)されていないのに美しく響くって、どういうこと?やっぱりプリンスってマジシャンだね。
「アナ・ステシア」の場合、平坦なのはプリンスの歌うメインの旋律だけでなない。冒頭から鳴っているピアノのサウンドも同じフレーズを最後まで続けているし、次いでお経ヴォーカルに続いて入るギターとドラムスも、そして途中から入るバック・コーラスも、同じパターンを反復。そこに効果音的にシンセサイザーの音が入っているだけ。
一応ギター・ソロが出るが、演奏時間もかなり短いし、入り方もフィーチャーされるソロという雰囲気ではなく、曲全体のなかではやはりサウンド・エフェクトみたいな使われ方だから、ほぼ無視しても差し支えないかもしれない。となると『ラヴセクシー』の「アナ・ステシア」は、なにもかも平坦なお経音楽じゃあるまいか。
それがどうしてあんなにも美しく妖しく、そしてドラマティックで感動的に聴こえるのか、僕みたいな人間にはサッパリ理解できないんだよね。音楽の魔法ってそういうものだろうけどさ。「アナ・ステシア」は、2002年の三枚組ライヴ盤『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』でもメイン・アクト二枚のラスト・ナンバーとして、非常に劇的に演唱されている。
『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』での「アナ・ステシア」では、スタジオ・オリジナルと全く同じピアノのフレーズに乗せ、歌いはじめる前にプリンスが「歌詞を知っているなら一緒に歌ってくれ、そうじゃないなら誰かに聞いて」と喋っているが 、あんな平坦なお経メロディ、一緒に歌いにくいし、合わせて歌ったところでちっとも楽しくないだろう(笑)。
一緒に歌えるパートがある、という意味で、上の方で書いたもう一曲ある話を最後にすると言ったものになるが、それが「パープル・レイン」。プリンス・ファンじゃなくたってみんな知っているというほどの超有名曲で、これこそがプリンスのシグネチャー・ソングだという代表曲。
「パープル・レイン」で一緒に歌えて盛り上がるのは、例の「ぱ〜ぷぅれいん、ぱ〜ぷぅれいん」という、お馴染のリフレイン部分であって、そこはメロディアスだしもちろん異様に熱を帯びるものだけど、メインの旋律でも他の部分はかなり平坦で起伏に乏しく、これもちょっとお経っぽく僕には聴こえるなあ。
特にボブ・ディラン風な歌い方になる部分があるよね。2:34 からの「ハニー、アイ・ノウ、アイ・ノウ、タイムズ・アー・チェインジン」ではじまる3コーラス目だ。「You say you want a leader / But you can't seem to make up your mind / I think you better close it」(のあと「And let me guide you to the purple rain」と続く)部分 が、完全なるボブ・ディラン風のヴォーカル・スタイルだ。
プリンスの場合、直接にはディランよりもジミ・ヘンドリクス由来なんだろうけれど、そもそもジミヘンのあれがディランにルーツがあるもんね。つまりディランが体現している戦前から続くトーキング・スタイル・ブルーズの伝統。もっと言えば、それは英国バラッド由来のものだ。
ってことはだ、プリンスの「パープル・レイン」のあれとか、あるいは今日書いてきたような「ウェン・ダヴズ・クライ」とか「アナ・ステシア」みたいな、あるいは探せばもっといろいろたくさん見つかるであろう、平坦で起伏がないお経ヴォーカルは、実は古くから英国などに存在する音楽=文学の伝統、お話、バラッドの流れに連なっているのかもしれないよなあ。
あくまでブラック・ミュージックの音楽家であるプリンス。だけれどもそんな彼のなかにも白人バラッドの伝統は活きている。そして普段から僕も書くように、そもそもアメリカ黒人ブルーズとは、誕生期からバラッド(物語を喋る)の影響が色濃くあって、マディ・ウォーターズのような戦後のモダン・ブルーズ・マンにだってそれはあるし、プリンスもそんな伝統をタダシク引き継いで、彼独自のやり方でそれを表現したんだよね。
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