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2017/02/18

音楽とセックスのエロい関係〜アフリカ音楽とカリンダ、ジャズ、プリンスその他

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ビートルズのヒット曲「プリーズ・プリーズ・ミー」。あの「悦ばせてくれ」っていうのは、要はアレしてくれっていうことだよね。歌を聴くと「僕が君を悦ばせているように、君も僕を悦ばせてくれ」となっているじゃないか。いや、今までの経験からするとビートルズの場合、それでもまだ分りたがらない人が残っているはずなので、今日こそははっきり言ってしまうぞ。あれはフェラチオの歌だ。つまりプリンスの「KISS」と同じ。 こんなことは分りっていることだからなのか、誰かが明言しているのを読んだことがない。公開する文章で書いてしまう僕がアホなだけなのか…。

 

 

そういえばプリンスを話題にする時は、毎回必ずといっていいほど言及している松山市在住の熱狂的プリンス・マニアの女性。彼女は二児の母で、しかも二人ともまだ小学校低学年なので、子供の耳に入る時はプリンスは聴きにくいものがありすぎやと笑っていたことがあった。「ドゥー・ミー・ベイビー」とか聴きにくいやん、『カム』とか絶対不可能やんとかね。

 

 

あっ、たったいま思い出したぞ!僕には子供はいないし、セックスへの言及かどうかも知らんけれども、結婚していた時代に自宅で妻にも聴こえるような大音量でフランク・ザッパの『ザッパ・イン・ニュー・ヨーク』を聴いていて、六曲目の「ザ・イリノイ・エネマ・バンディット」になると、妻が「なにこれ?なんでこんなもの聴いてんのよ?!」と半ば怒られ気味に言われたことがあったなあ。妻も英語は聴けば分る同業者だったからね。エネマだ、エネマ。わっはっは。

 

 

そんな話はどうでもいいね。プリンスの音楽にセックスへの言及が多いのは確かだ。これはキャリアの最初からそう。最もひどいのが上でも書いたアルバム『カム』で、これはもうマジ露骨。アルバム・タイトルからしてヤバイし、ラストの「オーガズム」なんてエレキ・ギターの音と女性の喘ぎ声しか入ってないじゃないか。エレキ・ギターのフィード・バック音は、男性器をしごいてイク行為のメタファーだし、女性の喘ぎ声にいたってはメタファーですらなく、そのまんまが収録されている。

 

 

だいたいギターのネックがペニスみたいだしな。ギター全体の形状は、特にアクースティックでナイロン弦ギターの場合は女性の体みたいだけど、ネックだけは男根で、それをグルリと握って低音部から高音部へと素早く繰返し移動する動作は、要は男性がマスターベイションする行為とソックリだ。

 

 

これはギタリストだからとか、あるいはプリンスが特別エロいとかいうことでは全くない。こんなのは大昔から音楽の世界にはたくさんあった。歌詞が付く音楽の場合は言葉で表現するのが最も直接的だけど、そこにエロさは僕はあまり感じない。音楽とセックスの結び付きをもっと強く感じるのはビート、リズム、つまりグルーヴ感、そしてそれと一体になったダンスだ。

 

 

場合によっては管楽器アンサンブルや単独楽器の音色にセックスを感じることもある。それを最も強く感じるアメリカの音楽家がデューク・エリントンなんだけど、しかし熱心なエリントン愛好家もまた、そんなことは言っていない場合が多い。が間違いなくあるのだ。ジョニー・ホッジズのあのアルト・サックスのサウンドを、特にグリッサンドするあたり、セックスを連想せずに聴けという方が無理だろう。だからみんな露骨に言わないだけで感じてはいるんじゃないかな。

 

 

エリントン楽団のエロさについては、プリンス同様メチャメチャ具体例が多いので、ずっと前に予告したように改めて単独記事にすることにして今日は遠慮しておく。どうしても今日言いたいことだけ書いておくと、エリントン本人は1930年代から「私の音楽を”ジャズ”と呼ばないでほしい」と繰返し発言している。表面的には狭い一つのジャンルに閉じ込めるなという意味だろうが、心の底では”jazz”という言葉がセックスを意味するものだというのを忌み嫌ったのかもしれない。

 

 

もしそういう本音がエリントンにあったとしたら、これはガッカリだなあ。しかしそんな本音があった(のかどうか分らないが)にしては、創る音は相当にエロく、セックスへのメタファー的なものがかなりあるのがエリントン。だからガッカリすることもないのかな。音楽家は創り出した「音」そのものでだけ判断すべき存在だからだ。

 

 

マイルス・デイヴィスの「俺の音楽をジャズと呼ぶな」というあの一連の発言も、表面的には自分の音楽はジャズなんていう狭い枠に収まるような音楽じゃないんだぞということと、もう一つには商売上の理由があって、レコード屋やビルボードなどのチャートでジャズに分類されると売れないんだ、やっている音楽はロックみたいなもんなんだから、白人ロッカーのレコードと並べて売れ、そうすれば俺の懐にはもっと金が入ってくるはずだというものだ。

 

 

だが、ある時、確か1981年復帰後のなにかのインタヴューでマイルスは、「”ジャズ”という言葉を聞いてなにを連想する?ニュー・オーリンズの売春宿だろう?だから俺はこの言葉で自分の音楽が呼ばれるのが嫌なんだ」と明言していた。その時のインタヴューワーはアメリカ人女性で、すかさず「私は違います、”ジャズ”で連想するのはサックスの音とハドスン川の夕焼けですね」と返していた。

 

 

するとマイルスは「君はなにか楽器やってないのか?やっていれば雇うぞ、いや、君そのものがほしいんだ」とスケベ心丸出しの返事をして、ニュー・オーリンズの売春宿を連想する、すなわちセックスへの言及だから嫌なんだと言った舌の根も乾かぬうちにこんな調子なもんだから、その女性インタヴューワーには完全に呆れられていたなあ。

 

 

誕生期のジャズとニュー・オーリンズの売春宿といえば、昨年九月に復刊文庫された油井正一さんの『生きているジャズ史』のなかでも言及がある。油井さんはこの関係を肯定的に捉えるのではなく、むしろこの結び付きを否定して、売春宿での行為の際の BGM にジャズは向かない、実際はもっとムーディーなもの、例えばクラシックの弦楽四重奏など室内楽だったんじゃないかと書いているよね。

 

 

この油井さんの意見に今の僕は完全に反対したい。ジャズは確かに元々はブラス・バンドでやるマーチなどの音楽がルーツになっているので、賑やかで勇猛果敢なものが多い。その点でだけなら確かに油井さんの書く通り。だがその一方でセックスの BGM にこれ以上ないほどピッタリはまるムード満点なバラード風なものだって、ジャズには誕生期からたくさんあるじゃないか。油井さんがこの事実をご存知なかったはずがないので、だから上で引用した『生きているジャズ史』での記述は、やはりエリントンやマイルスみたいな気分での否定の仕方だったんじゃないかな。

 

 

話がジャズ方向へ行ってしまったが、音楽とセックスの結び付きが最も明白に表現されるリズムとダンス。それはすなわちアフリカ音楽由来だ。音楽のグルーヴ感がセックス行為の持続感と非常によく似ていて、アメリカ黒人ブルーズやリズム&ブルーズやファンク・ミュージックなどの継続グルーヴで踊るっていうのは、つまりセックスのグルーヴを感じているのと同じだ。

 

 

こういった跳ねていながら、しかし均質なワン・グルーヴが持続するという、セックスと音楽の共通性が北米合衆国音楽、特に同国の黒人音楽で非常に強く表現されているのは、人種のルーツと同じく元々はアフリカ的だと言えるはずだが、直接的にはカリブ音楽由来だと言えるかもしれない。

 

 

 

19世紀後半には姿かたちを整えていたカリブ地域のポピュラー・ミュージックの祖先にカリンダ(カレンダ)というものがある。カリンダは19世紀前半までの、まだカリブ地域のどこがどこの(ヨーロッパの)国の支配だという線引が明確ではなかった時代に、一帯に存在した均一なダンス・ミュージック。それはアフリカから労働力として強制移住させられた黒人たちが創り出したものだ。二小節ごとにトンと跳ねる二拍子だったと考えられている。

 

 

カリンダで踊る姿を記録した文献によれば、そのダンスはかなり露骨にセックスを表現していたらしい。興奮状態の男女が向き合って激しく腰を揺すり、徐々に接近して太腿が触れ合った瞬間にひるがえって離れていくというものだった。これはその当時のカリンダだけではない。今でもキューバやブラジルや、その他ラテン・アメリカ諸国には強く残っている。なんたってアルゼンチンのタンゴがもろそのまんまじゃないか。

 

 

カリンダはカリブ地域全般や北米合衆国のルイジアナにまで伝わっていたようだ。ラフカディオ・ハーンの書いたものにも、ニュー・オーリンズで「カレインダ」という舞踏を見たという記述が出てくる。それにカリンダから発展してキューバのハバネーラが誕生し、それをもとにスペイン人作曲家が「ラ・パローマ」を書いたり、アルゼンチンに渡ってタンゴになったり、その他各種中南米音楽のルーツになり、また北米合衆国南部でジャズを産む一因にもなったんだからかなり重要だ。

 

 

跳ねる二拍子系のダンス・ミュージックに合わせてのセックス・ダンス。しかしこれを「卑猥」なものだと見るかどうかは視点次第だろう。卑猥だからタブーだ、隠すべきだと考えるならば、その人は西洋白人的なものの見方にしか立てていないという証拠になる。ある時期以後の西洋白人文化では、露骨な性的描写は表面化しないようになった。

 

 

カリブ地域のカリンダと、それで踊る現地の人間の様子を記録した文献も、全てそこを支配した欧州諸国からやってきた白人の記したものなので、やはり卑猥だという表現になっている場合が多く、ある種の驚きだとされている。しかしアフリカ的視点、あるいはさらに言えば日本を含むアジア的な視点に立てば、全く驚きではないし卑猥でもない。

 

 

農耕民族が豊穣を祈って行事をやるのは世界中どこでも同じだが、その行事の際の音楽や踊りにはかなりハッキリした性器や性行為のメタファーがあって、いやメタファーではなくそのまんま模倣されている場合もある。これはやはり農耕民族だった日本人であれば納得しやすいはず。各地に今でも残っているので目にするのは容易だ。

 

 

農作物の豊作祈願を、音楽的にも踊り的にも、あるいはその他いろんな意味でも性的リアリズムで表現するというのは、アフリカやアジア各地の民族的伝統だ。それを他者(西洋)の視点だけで見て卑猥だとして排除・排撃せんとするのは非常にバカげている。身体行為と精神を不可分なものとして捉えている僕たち日本人(や世界各地の人たち)の考え方や実践行為を、そんなものは二項対立的なもので相容れないものだとするのが日本人のなかにすら多いのは、すなわち近代西洋の偏見に毒されているにすぎない(が西洋でも近代以前であれば…)。

 

 

西洋のクラシック音楽は近代に成立したものなので、こういった性的言及、セックス表現をなるべく避ける方向で進んできた。それで高度にシステム化されて機能的・合理的なものになったので世界中に普及して、特に音楽教育分野では絶大なる影響力をいまだに持ち続けているはずだ。

 

 

しかし20世紀に大きく花開いた世界のポピュラー・ミュージックは、多くの場合根底的にはそういうものとは違う種類のものじゃないかなあ。クラシック音楽のなかに露骨なセックス描写がほぼ聴けないのに、世界のポピュラー音楽(とそれを伴奏とするダンス)のなかにはこれだけ多いという事実一点のみとってみても、これははっきりしているだろう。

 

 

そんな猥雑な、西洋白人的視点からは卑猥だと言われるセックス・メタファーを表現するポピュラー・ミュージックのビート、グルーヴ感、サウンドなどは、その元々の起源を辿れば、やはりアフリカの音楽(を含む諸々の)文化のなかにある。2010年代あたりからどうもまた変わりはじめているのかなという気がしないでもないがが、少なくとも20世紀世界の大衆音楽は、性的リアリズムを隠さないアフロ・アメリカンなものだった。

 

 

体の奥から揺さぶってくれるような激しくセクシーなビート、精神と肉体が合一したような高次元で解放してくれる強いリズムとサウンドと旋律(ブルー・ノート・スケール)。そんなものを求めたら、アフリカ由来のダンス・ミュージックに行き着くしかない。それがアメリカで展開して世界中に拡散して、これだけ大人気になった。

 

 

ジャズでもロックでもなんでも、こんな人気音楽になったということは、別に人種的にアフリカ系でなくたって、西洋白人だって日本人だって誰だって世界中みんなが、そんなセックスと強く結び付いた肉体派音楽を欲していたっていうことだろう。だから音楽家もみんなそれを表現したんじゃないのかな。

 

 

プリンスがあんなにエロいのは、別に彼が特異で突出した一例だとかいうわけではない。彼は単に20世紀ポピュラー音楽の根本的魅力を端的に示しただけのことにすぎない。確かに小学校低学年の子供と一緒には聴きにくいものが多いけれど、<音楽の快感=セックスの快感>という当たり前の事実を、ちょっとはっきり言ってみただけなんなんだ、プリンスはね。

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