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2017/02/19

僕の原体験は全て植草甚一さん

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今まで断片的になんどか書いているけれど、今日はちょっとまとめてみよう。僕が高校三年の時にジャズを聴いてみようと思ったきっかけは、植草甚一さんのジャズ・エッセイだった。ジャズ・ファンになる前から、ミステリ小説と映画が好きだった僕は、その関係で植草さんのエッセイをよく読んでいた。

 

 

ミステリ(推理小説)は中学生の頃から好きで読んでいたし、映画は高校一年の時に『スター・ウォーズ』の一作目が公開されてすっかりドハマりし映画好きになっていた。植草さんは元々東宝社員だったし、退社後も『キネマ旬報』の同人をやったりしていて、最初は映画評論家だったんだよね。

 

 

そして映画評論のかたわらミステリ関係のエッセイも書きはじめるようになり、そっち方面の仕事も随分と増えたようだ。もちろんそういう経歴を僕が知ったのは随分後になってからだけど。僕が英語の原書で(ミステリ)小説を読むようになったのは完全に植草さんの影響だ。最初は僕の英語力がついていかなかったわけだけどね。

 

 

高校二年の終り頃からは、お弁当を食べたあと、昼休みに学校を抜出して映画館へ行き、観終ってから喫茶店でコーヒーを飲みながら映画やミステリ関係の植草さんのエッセイを読むのが楽しみだった。午後からの授業はサボるものが増えたせいで職員室に呼出されたり、授業に出ていると「お、今日は戸嶋がいるじゃないか」と珍しがられたり。

 

 

その後、僕は英語の小説を読んで研究しては、その結果を講義したり論文にしたりする仕事に就いたわけだけど、その最初のきっかけを作ってくれたのが他ならぬ植草さんだったわけだ。そしてそういう仕事に就いてからでも、ジョゼフ・コンラッドやウィリアム・フォークナーなどミステリ仕立の作品が多い英語小説家が好きだったのも、そういう原体験のせいだったのかもしれない。

 

 

そういう植草さんのエッセイのファンだった僕が、晶文社からたくさん出ていた彼のエッセイ本にジャズ関係のものがかなり多いことに気付き(というか知っていたけれど無視していたわけだ)、ちょっと読んでみたら面白くて、大好きな植草さんがそんなに推薦するならと聴いてみたというのが、ジャズにかんするまず最初のとっかかりだったんだよね。

 

 

植草さんが推薦するジャズ入門三曲が MJQ の「ジャンゴ」、チャールズ・ミンガスの「ハイチ人の戦闘の歌」、マイルス・デイヴィスの「ラウンド・ミッドナイト」だった。それをメモしてレコード屋に行ったけれど、ミンガス(『道化師』)とマイルス(『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』)はジャケットが怖ろしくて買わなかった。

 

 

それでジャケットが大いに気に入った MJQ の『ジャンゴ』と、一枚だけじゃちょっとなあと思っていろいろ棚を漁って、ほぼ完全に同じデザイン・ポリシーのジャケットだったトミー・フラナガンの『オーヴァーシーズ』を買った。後者が超名盤だなんてちっとも知らずに、ジャケットだけで(でも「SJ誌認定なんちゃらかんちゃら」とかいう文句がオビにあったような気もする)。

 

 

 

 

植草さんがいつ頃からジャズ・エッセイを書はじめたのかは知らないけれど、一般に知られるようになったのは1960年代後半かららしい。当時、植草さんは同時代のいわゆるニュー・ロック、アート・ロックにも関心を示していてフランク・ザッパ関係のエッセイなどもあったけれど、中心はモダン・ジャズだった。

 

 

一時期はたくさんジャズ・エッセイを書き、『スイングジャーナル』誌を中心にレコード名盤の選定などにも当っていた植草さんだけど、いつ頃からか全く書かなくなってしまい、しかしそうなってからでも映画とミステリのエッセイは書続けていたから、ジャズは一時期だけの気の迷いみたいなものだったのかもしれないね。

 

 

そんな植草さんの洗礼を受けてジャズを聴はじめた僕は、それにすっかりはまって、人生が180度変化して狂ってしまい、大学生の頃にはジャズ喫茶に入浸ってレコードを聴きまくり、自分でもジャズのレコードばかり買うようになった。植草さんがジャズに興味を失ってからも、僕は決してジャズへの興味を失うことなく、現在まで続いている。

 

 

だから、ジャズを聴きはじめた一番最初の頃の僕にとってのガイドは油井正一さんでも粟村政昭さんでもなく、植草甚一さんだったのだ。以前一回だけ触れた鍵谷幸信が、ジャズ関係では植草さんの弟子を自認していたのが信じられないほどジャズ評論は(も?)衒学的だったけど、植草さんの文章は軽妙洒脱だった。

 

 

そして高校三年〜大学生の頃にジャズにはまって聴きまくったことが、その後の僕の音楽中心、というかそればっかり人生の礎となり2017年現在にまで至るわけで、ジャズにドハマりしなかったら、今みたいにいろんな音楽を聴きまくっていることだってありえないことだったはず。なにもかも全ては植草さんのおかげなのだ。というか植草さんがあらゆる意味で泥沼にはめてくれてしまったのだ。

 

 

でも植草甚一さんは1979年に亡くなっているから、今日ここまで書いたいろんなことは全部植草さんが亡くなってから知ったこと。1979年に僕は17歳で、ちょうどジャズを聴はじめたばかり。映画やミステリ関係はともかく、ジャズ・エッセイについては、植草さんが亡くなってから読みはじめたんだよね。

 

 

いま振り返って考えてみれば、食べていくための本職の英語小説と熱中している趣味の音楽、その両方の世界とも最初のきっかけを作ったのが植草甚一さんのエッセイだったわけだ。いわば大恩人なわけだけど、植草さんの本は全部実家に置いたままで手許には現在一冊もない。ごくたまに読返したいと思うこともあるけど、いまのところはこのままでいいかなぁ。

 

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コメント

ぼくが育った町は、植草さんが晩年に暮らしていた町で、植草ブーム時代に中高生だったぼくは、よくご本人をお見かけしたものです。植草さんのなじみだった書店と古書店はぼくも毎日通う場所だったので、植草さんとは何度もお話をさせてもらったこともあります。ご本人は写真で見るお姿そのままの洒脱な方ではありましたけれど、植草ブームでマスコミが持ちあげていた(神格化していた)植草像とはかけ離れた印象が残っていて、いまだに世間で語られる植草像が自分の中でうまく結べずにいます。

bunboniさん、僕はもちろん植草さんご本人にお目にかかったことはなく、全ては書いたもので判断していますので、文章から受けるあの軽妙洒脱な感じそのままのイメージしか持てません。まあ確かにかかわっていた方々からいろんな話は聞く(読む)んですけれど、僕のなかでの植草さんのそのイメージはそのままでいいかなと思っています。

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