ファド歌手が再認識させてくれたボサ・ノーヴァの特性
『カルミーニョ・カンタ・トム・ジョビン』。かなりいいじゃないか。しかしこれはボサ・ノーヴァじゃなくてフィーリンのアルバムなんじゃないだろうか?というかまあ、ボサ・ノーヴァはブラジル版フィーリンみたいなものなわけだから、同じことかもしれないけれど。ポルトガルのファド歌手カルミーニョがアントニオ・カルロス・ジョビンのソングブックをやって、ボサ・ノーヴァの持つフィーリン的本質を剥き出しにして見せてくれたということなのか。
ファド歌手がボサ・ノーヴァに挑戦するなんて、どう考えても失敗作に終るとしか思えなかった。これは誰でも想像がつくはず。ポルトガルのファドは強く張りのある声でグリグリと濃厚なコブシ廻しで歌う、まるで情念を思い切りぶつけるようなもの。一方それに対しボサ・ノーヴァはサラリと軽く朴訥に、まるで喋っているかのようなシロウト唱法みたいなもので歌う。
これは例えばアマリア・ロドリゲスとジョアン・ジルベルトの歌い方を比較すれば、誰でも即座に納得できる。ファドとボサ・ノーヴァっていうのは、いわば対極の美学を持った水と油のようなもの。それに元は同じ言葉だとはいえ、ポルトガルの言葉とブラジルの言葉も、いまや発音が少し違ってきている。後者の方はいまやブラジル語と呼びたいくらい。
ブラジル語と書いていま思い出したので、またまたいつものように脱線。1995年にネットをはじめた頃、ある Mac 関係のフォーラム会議室で、ある方が「ブラジル語は…」云々と書いたことがあった。これに大勢から当然のように一斉にツッコミが入った。「ブラジル語ってなんだよ?ポルトガル語だろ!」ってね。ブラジル語と書いた方を擁護したのは僕だけだった。
そんなわけで言葉の発音も(少し)違えば、音楽性なんかもはや完全に真逆であるとしか考えられないポルトガルのファドとブラジルのボサ・ノーヴァ。だからファド歌手がアントニオ・カルロス・ジョビンの曲を歌った企画物アルバムなんてちょっとね…、というのが正直な気持だった。今年年頭に荻原和也さんが『カルミーニョ・カンタ・トム・ジョビン』をブログで書いていらして、僕もコメントしたんだけど、それでもやはり半信半疑だった。
『カルミーニョ・カンタ・トム・ジョビン』を買ったのは、エル・スールさんの Twitter アカウントがこれをツイートしていたからだ。僕の邪推かもしれないが、入荷していてホーム・ページにも掲載済のものをエル・スールさんがツイートする時は、それは売れ行きが芳しくないものなんじゃないかなあ。
だって人気商品で、しかも極少数しか入荷していないものなんか、ホーム・ページに掲載すらされず一瞬で売り切れてしまうみたいじゃないか。元々そんなにたくさん数が確保できないものも多いということと、やっぱりあれだなあ、渋谷にあるエル・スールの路面店に足を運ばないとダメな場合がたくさんあるんだろう。どうもそういう面があると見受けられる。
かといって今の僕に、一部の熱心なエル・スールさんの顧客の(ほぼ)オジサン方みたいに、毎日のように渋谷の路面店に通って入荷商品をチェックするなんて不可能。だから後回しにされているような気がしないでもないのだが、通販客は通販客なりに買えるものだけ買っていくしかないね。
そんなエル・スールさんが、売れ行きが芳しくないということでだったのかは分らないがツイートしていた『カルミーニョ・カンタ・トム・ジョビン』。荻原和也さんのブログで読んで知っていたので、勢いみたいなものでつい Twitter 上で買ってしまっただけなのだ。ほとんど期待はせずに。
届いた『カルミーニョ・カンタ・トム・ジョビン』を一聴して僕が感じたのが、最初に書いたようにこれはフィーリン・アルバムなんじゃないかということ。そう感じた一番直接的な理由は聴こえてくるチェロの音、しかもソロを弾く部分だ。このチェロの音、弾き方はよ〜く知っているぞ、あれだ、カエターノ・ヴェローゾの『粋な男』『粋な男ライヴ』で聴き馴染のあるあれだよね、と思ってブックレットをその時初めて開いたらビンゴだった。ジャキス・モレレンバウムだ。
しかしジャキスのチェロだから、それがカエターノ・ヴェローゾのフィーリン・アルバム『粋な男』で聴けるものだから、それで『カルミーニョ・カンタ・トム・ジョビン』がフィーリン作品だと感じる僕もかなりオカシイといえばオカシイ。なぜならジャキスは元々ジョビン一家と関わりの深い音楽家だからだ。
ジャキスは早い時期にアントニオ・カルロス・ジョビンのアルバムでアレンジャーもやっているし、また1995年にはアントニオの息子パウロ・ジョビン、その息子(つまり孫)であるダニエル・ジョビン、さらにジャキスの妻パウラ・モレレエンバウムもくわえ、自分との計四名でカルテート・ジョビン・モレレンバウムを立ち上げて、しばらく活動していた。
だからジャキスは、カエターノ・ヴェローゾとの仕事でたぶん有名になっているアレンジャー兼チェロ奏者かもしれないが、まずはジョビン一家と関わりの深いボサ・ノーヴァ側の人間だと言うのが正しいのかもしれないんだよね。あるいは『粋な男』の前からジャキスと連携していたカエターノも、ジャキスのそんなボサ・ノーヴァ的資質のなかにフィーリン的な要素を感じ取って、というか元々この二つは似たような音楽だからというので、やはりタッグで『粋な男』を制作したのかもしれないね。
ボサ・ノーヴァがブラジルにおけるフィーリン・ムーヴメントみたいなものだというのは、いまさら僕が説明しなくてもいいはずだ。ボサ・ノーヴァ勃興前のサンバ・カンソーンから引き継いで、それをフワッと軽くて柔らかい調子の力まない歌い方でやってみたのがボサ・ノーヴァ。だからボサ・ノーヴァは、ジャンル名というよりも、ある種のスタイルでしかない。
その意味ではボサ・ノーヴァは、北米合衆国のジャズと少し似ている。ジャズもまた特定の曲の様式を指すものやジャンル名ではなく、どんな曲でもとりあげてやってみせる演奏の「方法論」でしかないのだ。だからこそあんなにコロコロとスタイルが変遷してきたわけで、全ては「どうやるか」という一点にのみ力点がある。ルイ・アームストロングもチャーリー・パーカーもマイルズ・デイヴィスもその他も、みんな特定のジャズ楽曲ではなく、ちまたの流行歌、すなわちポップ・ソングをやって、その結果ジャズになった。なんでも演奏できる、全てはジャズ流儀でやる、それがジャズの強みであり弱みでもある。
ジャズはどうでもいい。ボサ・ノーヴァもこの名称通り新しいやり方ということでしかない。サンバ・カンソーンや、その前のサンバなどと本質的には違いがないような「新感覚」というだけだ。その新しい感性は、ボサ・ノーヴァよりほんのちょっと前からキューバで流行していたフィーリンと同じものだと僕は思うんだよね。僕は、というかたぶん全員そう思っているんじゃないかなあ。
キューバのフィーリンも軽くてフワッとした新しい感覚での歌い方、感じ方のことであって、とりあげる曲に特定のしばりはない。キューバやラテン・アメリカ諸国の歌曲であればなんでも歌って、それをソフトで甘い感じでやって、それが結果的にフィーリンとして流行して、この名前で認知されるようになった。
ただボサ・ノーヴァとフィーリンのあいだには違いもある。僕の感じるところ、最大の違いは甘美さ、いや、もっと言えば官能美だ。それがフィーリンにはあるけれど、ボサ・ノーヴァには薄い。ボサ・ノーヴァは露骨にセクシャルな感じは強調しない。むしろそんなものをサラリとうまくかわすというか流してしまう。
一方フィーリンには、やはりキューバの、というかラテン歌曲らしい甘い官能美がある。例えば、またカエターノ・ヴェローゾの『粋な男』に言及するけれど、あのアルバムには二曲のタンゴ歌曲がある。タンゴなんてのは官能の極地みたいな音楽美であって、男女間のそういう行為をはっきり音(とダンス)で表現する。
カエターノ・ヴェローゾも『粋な男』でやっている二曲のタンゴ・ナンバーでは、思い切りセクシーさを振りまいているじゃないか。そんな歌い方だよね。そしてそれら二曲ともジャキス・モレレンバウムが、これまたセクシーなことこの上ないチェロ・ソロを弾く。そんな要素がフィーリンにはある。そしてボサ・ノーヴァにはほぼない。
ここまでお読みになってくれば 、『カルミーニョ・カンタ・トム・ジョビン』を聴いて僕がなにを感じたのか、もはや言葉を重ねる必要もないだろう。一曲目の「ア・フェリシダージ」ではもっぱら歌伴のオブリガートのみだけど、次の二曲目でジャキスの官能チェロがソロを弾くんだよね。その後も同じようなチェロ・ソロが頻繁に顔を出す。
カルミーニョの歌い方も、アントニオ・カルロス・ジョビンの曲をボサ・ノーヴァとして歌っていると考えようとすると、やはりファド歌手っぽい力み、粘っこいコブシ廻しがあってあれだし、しかしファドとして聴くにはタメもダイナミクスもなく深みを欠いている。ボサ・ノーヴァでもないファドでもないし、なんじゃこりゃ?となってしまうだろう。
ところがしかし、ジャキス・モレレンバウムのやや官能色のあるチェロ・ソロ(まあチェロの音は誰が弾いてもいつもそうじゃないかと突っ込まれそうだが)に導かれ、カエターノ・ヴェローゾの『粋な男』みたいじゃないかと連想した次の瞬間から、僕はこれはいいアルバムだ、聴ける、それもフィーリン作として、となったんだよね。
ファド歌手としては深みが足りないカルミーニョだけど(萩原さんは「ペケを付けてた」と明言)、そこは一応ファドの分野でプロとしてやっているというだけの色気はある。深みが足りないその足りなさ加減が、ジョビンを歌ってフィーリンとして聴かせるにはちょうどいい感じの適度な色っぽさなんだよね。ボサ・ノーヴァだと思うとやや粘っこすぎるんだけど。
なお『カルミーニョ・カンタ・トム・ジョビン』の伴奏バンドは、ジャキス以外、上述のギターのパウロ・ジョビン、ピアノのダニエル・ジョビンと、ドラムスがパウロ・ブラーガ。つまりこれはアントニオ・カルロス・ジョビン晩年のバンドであるバンダ・ノーヴァ(とブックレットに明記されている)なんだよね。またマリーザ・モンチなどゲスト・シンガーが計三名参加して、 一曲ずつカルミーニョとからんでいる。マリーザ・モンチとやっている三曲目は、ニーナ・ベケールもドローレス・ドゥラン集でカヴァーしていた。
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