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2017/02/21

穏健保守化した怒れる若者

Elvis_costello_burt_bacharach_paint










どんなに評価が高く人気があっても、個人的にどうしても好きになれない音楽家っているよね。僕にとってのそういう音楽家の代表がエルヴィス・コステロ。はっきり言って嫌いだ。生理的に無理。どうしてなんだかさっぱり分らないが、いくら聴いてもあの声と歌い方を受け入れることができない。だからある時期以後は買って聴くのをやめてしまった。僕はただのアマチュア音楽好きなんだから、無理することもないだろう。

 

 

ところでどうでもいいがエルヴィス・コステロというこの名前。姓名ともにステージ・ネームだけど、ファースト・ネームの方がプレスリーの方のエルヴィスと同じだから、紛らわしいことこの上ない。わざとやっているんだろう。エルヴィス・プレスリーがコステロのアイドルだったかもしれないからね。

 

 

しかし大のコステロ嫌いで、なおかつ大のプレスリー好きの僕にとっては、「エルヴィス」とだけ言えばプレスリー以外ありえない。普段から僕はエルヴィス、エルヴィスとだけ書くけれど、説明不要だろう。このロッカーをプレスリーと書く人も多いけれど、僕はあまり好きじゃなく、一度ある音楽ライターの方に理由を聞いたことがある。

 

 

するとコステロの方と紛らわしいのでという返答だったが、これは絶対に本音じゃないね。だってコステロの方を「エルヴィス」と表記してあるものなんか僕は今まで一度も見たことがないし、混同する可能性なんてゼロだとしか思えない。だから「プレスリー」表記は、日本である時期以後に定着したものだからというだけなんじゃないかなあ。

 

 

僕の場合世代的に若く、プレスリーという呼び方は吉幾三のヒット曲「俺はぜったい!プレスリー」くらいでしか実感がなかった。その後、音楽について書いてあるいろんな文章を熱心に読むようになって初めて頻繁に見るようになった表現だ。しかもそんななかでも熱心な愛好家や一定以上のリアルタイム世代は、みんなエルヴィスって言うことにも気が付いた。湯川れい子さんもエルヴィス表記だ。僕も思い入れが強いのでエルヴィスと書く。それをコステロみたいなどこが面白いんだかさっぱり分らない音楽家に使ってほしくないんだよね。

 

 

だがしかしそんな(エルヴィス・)コステロでも、一枚だけこれは最高に素晴らしいという愛聴盤がある。バート・バカラックとのコラボでやった1998年の『ペインティッド・フロム・メモリー』だ。これはもんのすごく美しいことこの上ない音楽作品だ。といっても僕はこれをなっかなか買わなかった。

 

 

1998年だとバカラックの方は既に大好きだった僕。だけど書いているようにコステロの方に生理的嫌悪感があるから、買う気にはなれなかったんだよね。それにこのコラボの組合せもすぐには理解できなかった。1998年時点のバカラックに対しては、かなり保守的なイメージを一般の音楽リスナーは抱いていたんじゃないかなあ。コステロはその正反対だしな。

 

 

僕も前々から言うように、音楽が穏健的・保守的であるか、あるいは革新的・反逆的であるかは、音楽の美しさ、楽しさに全くなんの関係もない。バカラックは1960年代には既にアメリカ音楽産業の真っ只中で活躍していたコンポーザーで、作風も時代への反逆みたいなものは1ミリも聴き取れないのだが、彼の書くメロディやアレンジが美しいことに変わりはない。

 

 

そんなバカラックがブリル・ビルディングで活躍していた時期、すなわち1960年代においては、ロックはやはり時代や体制への反逆音楽だというイメージを、聴く側だけでなくやる側も持っていたのは間違いないはず。社会全体がそうだった。日本でもエレキ・ギターを弾くのは不良だとかなんとか言われた時期があったらしいじゃないか。

 

 

コステロは1970年デビューだから、まだそんな時代の空気が残っていた時代のロッカーなんだろうし、またどうも自分自身でそんな格好というか振る舞いというか、反逆児的なポーズをとっていたんじゃないかという気がする。ある時期まではね。これも僕がコステロを好きになれない理由の一つかもしれない。

 

 

つまりバカラックとコステロの二人は真逆のイメージを持った音楽家で、それでもコステロはわりと早くからバカラック・ソングをとりあげて歌っているけれど、それは素材としてということだったから、そうじゃなく全面的にタッグを組んで曲創りからはじめるなんてありえないよなあ、どんな風に仕上がっているのか想像できないとか、まあそんな気分だった。

 

 

いやあ愚かだったよね、僕は。だからなかなか買わない『ペインティド・フロム・メモリー』を、買えと僕に言ってくれたのは、やはり当時のネット上で親密だった音楽仲間、特にるーべん(佐野ひろし)さんだ。もう一人熱心に薦める方がいた。それで重い腰をあげて僕も21世紀に入ってからようやく『ペインティッド・フロム・メモリー』 CD を買ってみた。

 

 

アマゾンのサイトに残っている購入履歴を見ると、僕が『ペインティド・フロム・メモリー』を買ったのは2004年と出てくる。なんて遅いんだ。しかも僕が買ったのは最初にリリースされた一枚物 CD で、それを買ったとるーべんさんに言うと、な〜んだ、ライヴ録音を収録した二枚組との両方を持っているから、言ってくれれば一枚物の方はあげたのにと言われちゃって、それでようやくその二枚組なるものの存在も知ったというような具合。

 

 

2017年現在の僕の手許には二枚組の方しか残っていないバカラック&コステロの『ペインティド・フロム・メモリー』。それを見ると1999年のリリースとなっている。前年98年リリースの一枚物の方は昨2016年に友人にあげた。不要だという理由と、やっぱりこんな美しいポップ・ミュージックは一人でも多くの人に聴いてほしい、そんな気持で。

 

 

とはいえ二枚目のライヴ音源の方はたった五曲で、しかもどうってことないような内容に聴こえるね。全部ピアノ一台の伴奏だけでコステロが歌っているが、ピアニストが誰なのか明記がない。がやはりバカラックが弾いているんだろう。そうじゃないとわざわざそれを収録したボーナス・ディスクを付けて二枚組で出し直す意味がないからだ。

 

 

意義はあるのかもしれないが、音楽内容的にはどうでもいいような二枚目は放っておいて、一枚目の『ペインティド・フロム・メモリー』本編が素晴らしいのだ。特に一曲目の「イン・ザ・ダーケスト・プレイス」。これの官能的な美しさは筆舌に尽くしがたい極上さ。もうこれ一発でコステロっていい歌手だなと完全に見直した。

 

 

 

どうこれ?バカラックの書いた(メロディだけでなく)アレンジも百点満点でどこにも欠点がない美しさ。まずフルートの音が入ってくるだけで僕は降参。ジム・ケルトナーがクローズド・ハイハットを叩き、コステロが歌いはじめるとスネアのリム・ショットも入ってくる。その時点まで来ると僕はもう完全に溶けている。

 

 

バカラックとコステロのどっちがメロディでどっちが歌詞を書いたかはどこにも記載がないし、ネットでどう調べても情報は出てこないが、この官能的旋律はどこからどう聴いてもバカラックのペンによるものだとしか考えられないね。1960年代から「ザ・ルック・オヴ・ラヴ」みたいな曲を書いていたソングライターなんだから、間違いない。

 

 

「イン・ザ・ダーケスト・プレイス」。歌詞はコステロが書いたものかもしれないが、それはなんでもないような失恋歌で、君が去ったあとの僕はまるで真っ暗闇でさまよっているみたいだよというもの。だから真剣に聴いても聴かなくてもいいいような歌詞内容で、そんなものよりメロディのセクシーな美しさ、それを際立たせるためのアレンジの絶妙さこそが重要なのだ。

 

 

それを歌うコステロのヴォーカルも、いつもはなんだこいつ?みたいな感想しか出てこない僕だけど、「イン・ザ・ダーケスト・プレイス」でだけは素晴らしい歌手に聴こえる(なんて言うと、世のコステロ・ファンから猛攻撃されそうだが…)。コステロのあの声質と歌い方が、バカラックの書いた官能旋律美の魅力を一層強くしているのは間違いない。

 

 

正直に言うと、アルバム『ペインティド・フロム・メモリー』では、一曲目の「イン・ザ・ダーケスト・プレイス」しか聴いていないんじゃないかと思うほどの僕。残りの11曲は、上質だけどなんでもないような普通のポップ・ソングじゃないだろうか。バカラックが書いたに違いないスタイルのメロディとアレンジが聴けて楽しいけれど、一曲目が美しすぎるのだ。だからオマケにしか聴こえない。

 

 

ラスト12曲目の「ガッド・ギヴ・ミー・ストレングス」は、そもそもこの二名の全面コラボ・アルバムが実現するきっかけになったものらしく、これだけ録音が他の曲よりも数年早い。それは映画『グレイス・オヴ・マイ・ハート』のためのもので、この映画は米ニュー・ヨークのブリル・ビルディングが舞台で、女性主人公はキャロル・キングをモデルにしているから、つまりそれでゆかりの深いバカラックに依頼して、一曲だけコステロとタッグでやってくれとなったのかもしれない。

 

 

その「ガッド・ギヴ・ミー・ストレンングス」や、アルバム二曲目の「トレド」などでは、ヴォーカルの背後で、例によってのブラス(金管)群が柔らかい音色でスタッカート気味のリフを吹き入れるという、バカラックのお馴染定番アレンジが聴ける。だから目新しさなんかは全くどこにもない完全コンサヴァティヴ・サウンド。そんなアレンジであのコステロが歌っているわけだ。コンサヴァ・イメージとは正反対だったコステロがね。

 

 

日本にも多いコステロ・ファンは『ペインティド・フロム・メモリー』や、その一曲目の「イン・ザ・ダーケスト・プレイス」をどう聴いているんだろうなあ?そのあたりはよく知らない。でもるーべんさんともうお一方は昔からの熱心なコステロ・リスナーで、かつての<怒れる若者>的イメージだった時代のコステロからお好きなようだから、そんな方々が『ペインティド・フロム・メモリー』がいいぞ、としま、お前、喰わず嫌いしてないで買って聴けと言ってくれたってことは、やっぱりこのアルバムは従来からのコステロ・ファンも高く評価しているんだろうね。

 

 

コステロ&バカラックの『ペインティド・フロム・メモリー』。どこにも過激さや時代の革新性みたいなものはなく、その正反対の音楽だけど、音楽美ってそういう部分とは無関係だからさ。確かにこのアルバムは時代を形作ってなどいない。むしろ時代を遡ったようなレトロ・ミュージックだ。けれども音楽をそんな「時代を形作る」というような視点でしか捉えれらないと、最も重要な部分を聴き逃してしまうと思うけどね。なんだか今の日本にはそんな人たちがいっぱいいるんじゃない?僕の一番好きなマイルズ・デイヴィスもそんな聴き方しかされないんだけど、不幸だよな。

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コメント

加山雄三が「エレキの若大将」あたりでひと息ついた頃、時代は大きく変わり昭和30年代を時代の代弁者にしてしまったけど…エルビスさはプレスリーに変わりはない。で、コステロとバカラックはいい。とんちんの気持ちやファクトは、ここに書かれた通り…。
むかしは、雨に濡れてもとかよく吹いたもんだよw

「雨に濡れても」とか、その他バカラックの有名曲はスタンダード化していて、ジャズ・メンがやることもあるから、ひでぷ〜がやっても不思議ではないなあ。

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