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2017/03/13

ツェッペリンも一曲単位で聴いたらどうでしょうか

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レッド・ツェッペリンはアルバム本位のバンドだから、アルバムとしてのコンセプトが希薄な『コーダ』はやはり寄せ集めだとしか思えず、だからましてやそれの三枚組デラックス・エディションなんて到底買う気がしないとブルーズ・ライターの陶守正寛さんが言っていた。よく分る。僕もかつてはそういう考えだったんだよね。今でも陶守さんのように思っているツェッペリン・リスナーが多いんじゃないかという気がする。

ツェッペリンにかんしては1990年リリースの四枚組リマスター・ボックスを聴いて、僕の場合、そういう考えがガラリと変った。これはオリジナル・アルバム収録曲をバラして、未発表曲も加え、音源自体を大きくリマスターして CD 四枚に再編集したものだった。編集(曲の並び替え)とリマスター作業をやったのはジミー・ペイジ本人。
この四枚組は、一枚一枚ジミー・ペイジならではのこだわりで、テーマというかコンセプトのようなものを強く感じたんだけど、しかしオリジナル・アルバムはバラバラに解体されていたもんね。曲順や流れが完全に変ってしまって、最初は大丈夫かこれ?と思い、また聴いた感じでも戸惑ったのは確かだけど、新鮮にも感じたんだなあ。

一応はベスト盤のような意味合いのものだった四枚組だったけれど、ツェッペリンの全音源の八割方以上は入っていた。漏れたものも、数年後に同じくリマスターされて、二枚組 CDとして発売された。とにかくそれまでのツェッペリンのCDとは曲順も音質も全く異なっていたので、目から鱗だったのを憶えている。

ジミー・ペイジも当時のインタヴューで、CD リイシューされたツェッペリンのアルバムは、ジャケットの色合いもひどいし音質なんか全くダメだったから、自分で作り直すことにしたのだと語っていた気がする。実際、当時の僕のチャチなオーディオ・セットで聴いても、それまでの CD とは完全に違った音に聴こえて激しく感動した。

その数年後(確か1993年)に、そのリマスター盤と同じ音質で全オリジナル・アルバムもリイシューされて、それも買って聴いたけれど、なにしろ90年のリマスター四枚組が、その音質と、全く違う新鮮な編集で、かなり大きな驚きを感じたものだったから、オリジナル・アルバムのリマスターにはなんの驚きもなく、繰返しは聴かなかった。

1990年の四枚組ボックス。未発表曲のなかで面白かったのは、一枚目の最後に入っていたジミー・ペイジのギター独奏(途中でドラムスも入る)による「ホワイト・サマー〜ブラック・マウンテン・サイド」で、そのことは前々からなんどか書いている通り。ヤードバーズ時代の曲だとばかり思っていた。大好きな「カシミール」への道程が見えた気がした。

あの四枚組リマスター・ボックスで僕が一番繰返し聴いたのは三枚目と四枚目で、「天国への階段」が入っている二枚目はあまり聴かなかった。あまり面白い曲順だとも思えなかったしね。ああいう形になっても、やはり僕は後期ツェッペリンの熱心なファンであることは変らないのだった。特に三枚目はいきなり「カシミール」ではじまって「死にかけて」で終るというニクい編集。

四枚目も「イン・ジ・イヴニング」ではじまって「オール・マイ・ラヴ」で終り、そのなかには元々『コーダ』に収録されていた「オゾン・ベイビー」や「ウェアリング・アンド・ティアリング」もあって、それでこの二曲を随分と見直したのだった。単なる未発表のボツ曲だと思っていたのが、素晴しい曲に聴こえたもんね。

特に「ウェアリング・アンド・ティアリング」はかなりの名曲じゃないかなあ。『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』のセッションからのアウト・テイクで、1978年録音。当時の UK パンク勢に対する古参バンドからの回答みたいに聴こえる、ラフなタッチのナンバー。初出である1982年の『コーダ』発表当時から高く評価する人もいたようだ。

そんな具合で、いろんな意味でツェッペリンの「新しい」体験になった1990年の四枚組リマスター・ボックス。今でもよく聴くんだなあ。ひょっとしたらオリジナル・アルバムの曲順より面白いのかもしれないとすら思ったりもする。オリジナル・アルバムの方は、また新しいリマスター盤が出ているけどね。

以前の繰返しになるけれど、思い出したので書こう。高校生の頃から僕はオリジナル・アルバムの曲順を崩したマイ・ベスト的なコンピレイションをカセットテープに編集して楽しんでいたから、わりと早くからオリジナル・アルバム単位でしか聴かないという姿勢から少し離れていたと言えるかもしれない。そんなカセットを、高校生の頃から遠方に住む女性にプレゼントしたりもしていた。

告白するがそもそも僕の部屋にはレコードを聴けるオーディオ装置がなかった。それは自宅のリヴィングにしか置いてなかったもんね。だから自分の部屋でも聴きたいと思ったものは、カセットにダビングするしかなかったというのも大きな理由。その際、オリジナルのレコードをそのままダビングするだけでなく、いろいろと個人的な楽しみでマイ・ベストみたいな編集カセットを作っていたのだった。そういうことをした人は昔から多いだろうと思う。

最近は iTunes などのパソコン上のオーディオ・アプリで、拍子抜けするほど実に簡単にマイ・ベスト的なプレイリストを作って、必要があれば CD-R に焼いたりもできるので、そんな個人的な楽しみがまた復活してきている気がするなあ。カセットでやっていた頃の、あのちょっとした苦労はなんだったんだ?と思うほど簡単であっけないんだよね。

クラシック音楽の場合は、一つの作品を楽章ごとにバラして編集する人がいるのかどうか分らないけれど(単一の楽章だけ取りだして、演奏会などでやることはあるようだ)、ポピュラー音楽の場合は、いくらアルバム指向の強いミュージシャンのアルバムでも、やっぱり曲単位で存在するものなんだよなあ。それが本質だという気がする。

一曲単位というポピュラー音楽の本質が、CD 時代が終りかけている、いまの配信やストリーミング中心の時代になって、ますますはっきりしてきている気がするんだよね。YouTube なんかに上がっているものは、場合によってはアルバム丸ごとというものもあるけど、やっぱり多くが一曲単位だしね。それでいいんだろうろ思うんだ、僕は。

そもそも録音技術が発明されてから約50年間は基本的に SP 盤しかなくて、一曲単位でしか録音・再生できなかったわけだ。その50年の間に、多くのポピュラー音楽が成熟してピークを迎えてしまったというのが真実。ロックやソウルみたいに LP メディアが主流になってから誕生したようなジャンルでも、やはり一曲単位のシングル盤が中心じゃないか。

78分くらいで「一曲」という楽曲も一続きで収録・再生可能な CD 時代になっても、ポピュラー音楽の場合は、やはり3〜5分程度が一曲の長さの目安になっている場合が多いしね。それがこの種類の音楽の本質なんだろうとしか思えない。主にジャズを聴いていた頃の僕は違った考えだったんだけど、最近はそう考えるようになっている。

これはポピュラー音楽でも、録音音楽での場合であって、ライヴ現場での場合になるとまた事情は違ってくるはず。そもそも「一曲」という概念も録音と実演では異なるだろう。(プログレなどではない)ポップなロックなどの場合は実演でも3〜5分で一曲という場合が多いみたいだけど、なかにはそれがズルズルと繋がっている人もいるよね。

ソウルやファンクの音楽家もそう。ジェイムズ・ブラウンやスライ&ザ・ファミリー・ストーンなども、レコードでは3分程度のシングル盤中心だったけど、ライヴの場ではそれが全部繋がっていた。またこれもロックじゃないがマイルズ・デイヴィスも、1967年頃のライヴから、ワン・ステージで「一つ」というような演奏を展開していた。

それでもやっぱりポピュラー・ミュージックは録音・複製されて大きく拡散するところに本質があるんだろうからさ。録音される場合にはやっぱり今日書いてきたみたいな具合になっていると思うんだよね。それがこの種類の音楽の特質だと思うんだよね。たとえどんなにアルバム指向が強くてもさ。だから陶守さん、ツェッペリンの『コーダ』のことを、いま一度、ちょっと見直していただいてもいいんじゃないでしょうか? 

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