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2017年4月

2017/04/30

普通に楽しいベイシー・スウィング

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第二次世界大戦前から戦後も大活躍したジャズ・ビッグ・バンドの二大巨頭は、やっぱりデューク・エリントン楽団とカウント・ベイシー楽団だよね。いままでエリントンの方については頻繁すぎるだろうというほど書いてきている僕なのに、ベイシーの方はプリ・ジャンプ・バンドだとか、ファンク・ミュージックのおじいちゃんだとか、キューバのソンのモントゥーノと同じだとか、そんな話ばっかりだった。だから今日はベイシー楽団の1930年代デッカ録音について、あんまりジャンプ、ジャンプ言いすぎるな、普通のジャズとして楽しいぞということを書きたいのだが、できるだろうか?

 

 

ジョン・ハモンドは『ダウンビート』誌1955年11月号に掲載された記事で、初めてラジオでカウント・ベイシー楽団の演奏を聴いたのは1935年12月のことだったと書いている。35年の12月というとハモンドはちょうどベニー・グッドマン楽団をヒットさせた時期。そしてカウント・ベイシー楽団もコロンビア系レーベル(当時ならブランズウィックかヴォキャリオン)と契約させようと思っていたらしいが、デッカに先を越されてしまったのだ。

 

 

1935年あたりからジャズの新スタイル、スウィングが人気を獲得する一因には、例の1929年に起きた大恐慌の影響で音楽産業も大打撃を受けたのから、ようやくその頃立ち直ってきたというのがある。1932年の全米のレコード総売上枚数は、27年のなんと(たったの!)6%しかなかったという統計データがあるから、いかにあの大恐慌の影響が深刻だったのかが分る。

 

 

それが1935年頃にようやく持ち直すのだ。中村とうようさんは『ポピュラー音楽の世紀』(岩波新書)のなかで、アメリカのこの景気回復のことを指摘し、白人中流層を相手にしたただ甘ったるいだけのダンス音楽に堕したジャズ=スウィングにみんな嫌気がさしはじめ、黒人コミュニティ基盤に根ざしたブルーズ・ベースのジャズ、すなわちジャンプ・バンドが出現しはじめるのがこの時期だったと指摘しているが、これは間違いだ。とうようさん、分っててわざとウソ書いたでしょ?

 

 

だってさ、とうようさんが1935年頃から飽きられはじめる社交ダンスのための音楽=スウィングと書くときの念頭にあったのは、たぶん白人バンド、ベニー・グッドマン楽団あたりに違いないのだが、グッドマン楽団が売れるようになり、全米で初めて大ブレイクしたのが実は35年だったんだもんね。ピークはカーネギー・ホールで大コンサートをやった38年。これ、とうようさんがご存知なかったなんてことはありえないから、故意にウソを書いたのだ。

 

 

白人スウィング・ジャズと黒人ジャンプ・ミュージックを故意に分別しすぎるとうようさんのこの姿勢には、正直言うといまの僕は悪意すら感じることがある。『ポピュラー音楽の世紀』該当箇所では、身体感覚に根ざすブルーズ・ベースの黒人ジャンプ・バンドの走りとして、まずカンザス・シティのカウント・ベイシー楽団の名を出しているが、ベイシー楽団からのピック・アップ・メンバーは1938年ベニー・グッドマン楽団のカーネギー・ホール・コンサートでも大々的にフィーチャーされているよなあ。

 

 

このあたり、とうようさんが分っていながらも理由があって戦略的に敢えてわざと峻別した白人スウィングと黒人ジャンプのあいだには実はほぼ違いがなかったという事実を、とうようさんの愛読者でありかつ、そのあたりのジャズをあまり熱心にお聴きではなく、そうか、あれら二つは別種の音楽(だととうようさんは明言しているが)なんだなと勘違いしているみなさんに、僕は声を大にして言いたい。

 

 

がまあしかし、その後の1940年代後半からのリズム&ブルーズの流行と、それが主たる母胎となって50年代半ばに誕生し全世界を席巻するロックンロールという大きな流れを踏まえると(これがとうようさんの最大の眼目だったとも思う)、確かにアメリカ中西部、特にカンザス・シティでブルーズの伝統がジャズ・バンドのなかにも脈々と流れていて、黒人の身体感覚に根ざした(ジャズ系)音楽がブレイク前からたくさんあったのは、とうようさんの言う通り事実だ。しかしそれはなにも30年代半ばに突然表面化したものではなかったのだが…。

 

 

一つの記事のなかで、1940年代半ば以後のアメリカ大衆音楽へ繋がる流れと、20年代からのブルーズ・ベースのカンザス・シティ・ジャズの伝統を汲むカウント・ベイシー楽団の特徴を同時に説明するのは、僕には不可能なことだ。今日は前者を割愛し、後者、ベイシー楽団の戦前デッカ録音を聴くと、スウィング・ジャズとしてシンプルに楽しいという話だけをしたい。と言ってもジャズとブルーズは切り離さない。そんなことは不可能だからだ。特にカンザス(出身)のバンドでは。

 

 

カウント・ベイシー楽団の戦前デッカ録音は、(カンザスではなく)ニュー・ヨーク進出後の1937年1月21日から39年2月4日まで、全部で63トラックあり、全てが CD 三枚組『ジ・オリジナル・アメリカン・デッカ・レコーディングズ』に録音順に収録されている。これはコンプリート集だ。どうです?エリントン関連でも書いているように、コロンビアとは違ってデッカ(やヴィクター)はちゃんと仕事しているじゃないですか。売れないカタログに誰一人として全面的に見向きもしないなんてわけじゃありません。

 

 

その63トラックのなかには、オール・アメリカン・リズム・セクションと称えられた三人、フレディ・グリーン(ギター)+ウォルター・ペイジ(ベース)+ジョー・ジョーンズ(ドラムス)だけを従えたカルテット編成でベイシーがピアノを弾くものが12トラックある。ブルーズ・ピアニストとしてのベイシーの上手さがよく分るものだが、管楽器奏者は一切参加していないので、これも今日は省略。このあたりの話はピアノ・ブルーズの話題としてリロイ・カーなども交えながら別記事でまとめるつもり。

 

 

今日はあくまでビッグ・バンド+ヴォーカリストでの1930年代デッカ録音だけに絞りたいが、それでもたくさんあるので、やはりそこからもう一回絞らないといけない。単純に聴いて楽しい、スウィンギーで踊れそう(というか実際当時はみんな踊った=単なるダンスの伴奏音楽)というのは全部そうなので選べないのだが、全部聴きかえして断腸の思いでなんとか六曲にしてみた。

 

 

「ブギ・ウギ(アイ・メイ・ビー・ロング」(1937/3/26録音)「ワン・オクロック・ジャンプ」(37/7/7)「トプシー」(37/8/9)「テキサス・シャッフル」「ジャンピン・アット・ザ・ウッドサイド」(38/8/22)「ブレイム・イット・オン・マイ・ラスト・アフェア」(39/2/3)の六曲。これくらいなら、全部音源貼っても全部聴いてもらえるだろうか?

 

 

「ブギ・ウギ(アイ・メイ・ビー・ロング)」https://www.youtube.com/watch?v=9iANkroHZzQ

 

「ワン・オクロック・ジャンプ」https://www.youtube.com/watch?v=0HHE39sXiiQ

 

 

「テキサス・シャッフル」https://www.youtube.com/watch?v=9IMrGR0iwR4

 

「ジャンピン・アット・ザ・ウッドサイド」https://www.youtube.com/watch?v=uEOraFGXJZo

 

「ブレイム・イット・オン・マイ・ラスト・アフェア」https://www.youtube.com/watch?v=uKjiKjnB5nc

 

 

猛烈なスウィング感という意味で最も凄いと僕が思うのが「ジャンピン・アット・ザ・ウッドサイド」だ。出だしからいきなり出てくるフル・バンドのド迫力には圧倒される。リズム・セクション三人の躍動感にはもはや言葉がない。聴こえるクラリネット・ソロはハーシャル・エヴァンス。

 

 

『ジ・オリジナル・アメリカン・デッカ・レコーディングズ』附属英文ブックレットには、全収録曲のソロ・オーダー(誰がなんの楽器を担当しているか)が明記されている。ちゃんとしたジャズ・ビッグ・バンド音源のリイシューものだと LP でも CD でも明記してあるものもあるが、しかしこの1930年代のベイシー楽団の場合は、これがことさら重要。

 

 

というのは、この時期のベイシー楽団には譜面化されたアレンジがほぼ(全面的に?)存在せず、合奏部分はかなりシンプルで短いリフの反復ばかりで、同時期のエリントン楽団みたいな手の込んだ、込みすぎたような複雑なアンサンブルは全くない。代わりにメインの聴き物はメンバー各人のソロ内容なんだよね。だから誰がなんの楽器でどの順番でソロを吹くかが分らないと面白味半減なのだ。

 

 

そんな当時のベイシー楽団の持味・特徴が最も鮮明に表現されているのが、上で音源を貼った「ワン・オクロック・ジャンプ」だろう。これはあまりにも有名な曲で、ベイシー楽団にとってもトレード・マークになったので、ジャズ・ファンならご存知ない方はいらっしゃらないはず。

 

 

しかしいままでご存知なかった方も上で貼った音源をお聴きになれば分るように、「ワン・オクロック・ジャンプ」はまずテーマ合奏からはじまったりなんかしない。そもそもテーマが存在しない。これは12小節3コードのシンプルなブルーズなので、演奏前にはキーとテンポとソロ・オーダーだけ決めておいてやりはじめたものに違いない。最終部のアンサンブルがかなり熟れたものに聴こえるのは、録音の1937年よりもずっと前のカンザス時代からライヴでは定番レパートリーだったからだ。

 

 

そして「ワン・オクロック・ジャンプ」で最も重要なのは跳ねる(ジャンプが曲名にある)ブギ・ウギ・ブルーズであるという点と、やはりベイシーのピアノからはじまる各人のソロ名人芸だ。ベイシーに次いでハーシャル・エヴァンス(テナー)、ジョージ・ハント(トロンボーン)、レスター・ヤング(テナー)、バック・クレイトン(トランペット)。

 

 

なかでもやはりレスター・ヤングのソロが絶品だ。いきなり出だしの音程とフレイジングがオカシイ。突拍子もない出現の仕方で、こういうの、レスターはよくやるんだよね。音色がハーシャル・エヴァンスの剛に対しレスターは柔というのは、この当時の録音ではどうも分りにくいんじゃないかなあ。それよりもフレイジングが斬新でかなりモダンだという点にご注目いただきたい。

 

 

「ワン・オクロック・ジャンプ」各ホーン奏者のバックでも、管楽器による短いスタッカート気味の伴奏リフが入っているが、これもその場の思い付きだったようなシンプルなものだよね。最終盤になってようやくフル・バンド・アンサンブルになるが、書いたようにその部分も譜面なしで演奏できる簡単で短いフレーズの反復だ。

 

 

つまりキー(とテンポとソロ・オーダー)だけ決めておいて演奏をはじめ、シンプルなリフ・パターンのみ反復演奏し、その上で各人がソロを吹き、最終的にもフル・バンドで二つか三つしかないリフ・パターンをリピートする 〜 これは同国内であれば約30年後のファンク・ミュージックとか、他国だけど同時代ならキューバのモントゥーノとか…、おっと、この種の話は今日はしないんだった。

 

 

同じようなブルーズ・ナンバーで、もっとブルージーで猥雑なフィーリングでやっていると思うのが「トプシー」。トロンボーン兼エレキ・ギター奏者のエディ・ダーラムが書いた曲で、ワー・ワー・ミュートを付けてグロウルするバック・クレイトンのトランペットが、まるでホット・リップス・ペイジ(も一時期ベイシー楽団に在籍)みたいで卑猥だ。フル・バンド・アンサンブルも、いつもはクリーンなサウンドのベイシー楽団が、なんだか濁ったようなサウンドを出しているのがブルージー。

 

 

1930年代のベイシー楽団には男女二名のブルーズ歌手が在籍し活躍した。それがジミー・ラッシングとヘレン・ヒュームズ。上で音源を貼った「ブギ・ウギ(アイ・メイ・ビー・ロング)」のヴォーカルがラッシング、「ブレイム・イット・オン・マイ・ラスト・アフェア」の方がヘレン・ヒュームズ。どっちも素晴らしいよなあ。

 

 

ヴォーカリストが歌うこの二曲のブルーズ・ナンバーでは、ジミー・ラッシングの「ブギ・ウギ(アイ・メイ・ビー・ロング)」の方が、曲題通りブギ・ウギ・パターンをはっきり使っているもので昔から人気が高く、この男性ブルーズ・シャウターのファンだけじゃなく、ベイシー楽団愛好家のなかにもファンが多い一曲だ。

 

 

だがヘレン・ヒュームズが歌う1939年の「ブレイム・イット・オン・マイ・ラスト・アフェア」はもっと面白いんじゃないかと僕は思うのだ。上で貼った音源を聴き直してもらいたいのだが、このリズムのノリは相当にディープじゃないか。黒人国歌とまで言われたアースキン・ホーキンンズ楽団の「アフター・アワーズ」のあのノリと同じだよ。ヘレンのヴォーカルはまだちょっと軽いような気がして、そこだけがイマイチなんだけど、彼女だってもっと時代が進むとディープでコクが出てくる。それがこの39年録音で聴けたら最高だった。

 

 

今日は話題にしないと言いながらやっぱり辛抱できず最後に書くけれど、この「ブレイム・イット・オン・マイ・ラスト・アフェア」のディープなフィーリングのノリは、流行の約10年前にリズム&ブルーズを表現している。間違いなくそうだと僕の耳には聴こえる。それが言いすぎならジャンプ・ミュージックであるのは誰も疑わないはず。あのライオネル・ハンプトン楽団だって、こういう R&B 風なノリを出せるようになるのは1940年代半ば以後だもんなあ。

2017/04/29

アイランドさん、サニー・アデの『シンクロ・システム』を再発して!

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キング・サニー・アデの1983年アイランド盤『シンクロ・システム』。『ジュジュ・ミュージック』に続くこの世界デビュー第二作こそ、僕がアフリカのポピュラー・ミュージックにハマった最初で、アフロ・ポップにハマらなかったら、その後、世界のいろんな音楽を聴くようにもならず、いまだにアメリカ音楽、特にジャズとブルーズとファンクとロック(と一部ラテン)だけ聴いていることになっていたかもしれない。

 

 

そしてアメリカ音楽、なかでも僕が一番好きなジャズのことだって、ラテン音楽やその他<アメリカの>音楽だけじゃなく、世界のいろんな音楽を聴かなかったらよく分っていないという状態だったに違いなく、うんまあ、いまだにジャズのことだってあまり分っていないだろうけれど、それでもジャズだけのファンだった時期よりは理解が進んだという、これまた実感があるのだ、僕のなかにはね。

 

 

ってことは、17歳の時に植草甚一さんの手引で買って聴いた MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)の『ジャンゴ』で一度人生が大幅に、というか180度転換し大きく狂ってしまいそのまま戻せず、その後軌道修正するどころか、大学院修士課程二年の時、深夜の FM 番組で流れたキング・サニー・アデの「シンクロ・フィーリングズ ー イラコ」で背筋に激しい電流が走ってしまって、さらにもっと深い泥沼に入り込んでしまうことになった。音楽経験は広がって深くなったものの、経済的・人間的意味合いでは、僕の人生、ほぼ破滅状態に近い。

 

 

これはでも幸せなことなんだと自分では思っているのだが、とにかくまずお金の問題が一番困るんだなあ。そんなことはいいや。自己の音楽ルーツを振り返って昔話を(本当にするのであれば、幼少時のラテン体験や、その後のハジレコである山本リンダ「どうにもとまらない」あたりまで遡らないといけないが、そのあたりは記憶が曖昧なのだ)しようってわけじゃないんだけど、今日はちょっと書いておこう、キング・サニー・アデの『シンクロ・システム』について。こっちこそが入り口だった MJQ の『ジャンゴ』の方は、いま聴くとどこが面白いのやら分らず、どうしてこれでガビ〜ン!世のなかにこんなにも素晴らしい音楽があったのか!と衝撃を受けたのか、自分でもよく分らないので、(たぶん今後も)話はしない。

 

 

キング・サニー・アデの『シンクロ・システム』、というか正確にはアルバム丸ごとではなく、書いたように東京都立大学大学院進学で上京し(いま首都大学東京なんていう名前になってしまっているのは、梁山泊みたいだったここの英文学研究室で学んだことに誇りがある僕は悲しい)、修士二年だから24歳、すなわち1986年の深夜 FM 番組で流れた「シンクロ・フィーリングズ ー イラコ」こそが、僕にとってのある意味、事始だったのだ。

 

 

あの時のラジオ番組『FMトランスミッション・バリケード』(は毎週土曜日深夜二時〜三時) は、これも以前書いたことの繰返しになるけれど、アメリカ音楽のカリブ〜アフリカ・ルーツを辿るかのような構成で、なんてことに気づくのもずっとあとのことだが、憶えているのは番組オープニングの一曲目がハリー・ベラフォンテの「バナナ・ボート」、二曲目はボブ・マーリーの「ナチュラル・ミスティック」、三曲目がブラック・ウフル(ジャマイカのダブ音楽家)のどの曲だったか忘れたもの、そして四曲目がキング・サニー・アデの「シンクロ・フィーリングズ ー イラコ」だったのだ。

 

 

『FMトランスミッション・バリケード』というあの FM東京の番組にはおしゃべりをするラジオ・パーソナリティみたいな存在がおらず、一時間の番組の開始直後と、30分目と、終了直前の三回、「FMトランスミッション・バリケード」ってボソッと言うだけ。あとは番組ラストにその日一時間で流したものの曲名と音楽家名だけが羅列される。本当にそれだけで、あとは一時間マジで文字通りノン・ストップで音楽だけが流れ、しかも編集されていて複数曲が繋がっていた。

 

 

そういうわけだから、書いたようなベラフォンテ 〜 マーリー 〜 ブラック・ウフル 〜 サニー・アデの四曲もノン・ストップで音楽だけが、それも一続きで流れたんだよね。いま振り返ると上手い流れだなあ。誰が考えたんだろう。書いたようにそのあたり、誰の選曲・編集かなんてことも一切しゃべらない番組だったから、ネットでいま調べてみてもやはり分らない。

 

 

ベラフォンテ、マーリー、ブラック・ウフルの三者には、あの時の土曜深夜、あまり強い印象は受けなかった。それなのに四つ目で流れたキング・サニー・アデの「シンクロ・フィーリングズ ー イラコ」は、聴こえはじめた数秒後、派手な打楽器サウンドが入ってきた瞬間に痺れちゃたんだよね。まずサニー・アデのほんのちょっとのア・カペラ・ヴォーカルからはじまり、次いで一瞬のエレキ・ギター、コーラス隊、パーカッション群などが、この順番でなだれ込んでくる。聴いたことのないスタイルで弾くスティール・ギターも魅惑的だった。

 

 

なかでもその時の深夜の僕が、これなんだ?このワケの分らない音は?と思ったのが、いまなら分るトーキング・ドラムのサウンド。それまでまったく聴いたことがなく、したがってどんな楽器であんなヒュンヒュン・ヒョンヒョンという、それもピッチが変化する打音(のようなもの)を出しているのか、当時皆目見当がつくわけもない。

 

 

とにかく魅力的なんていう軽いものじゃなく、当時24歳の僕にとっては激しい衝撃で、17歳の時に MJQ の曲「ジャンゴ」を聴いて、世のなかにこんなにも素晴らしい音楽があって、しかも見過ごされている(と思ったのは当時の僕の勘違いだが)なんてケシカラン!と思ったのをはるかに上廻る大感動で、やはり再びこんな凄い音楽が見過ごされているなんてケシカランと思ったのも、やはりまた僕だけの勘違い。だってキング・サニー・アデは、僕のこの衝撃体験の二年前である1984年に来日公演を行っているもんね。

 

 

その1984年の国立代々木競技場でやったキング・サニー・アデのライヴがかなりものすごかったらしいので、それに到底間に合うわけもなかった僕は、あとで知ってホント〜ッに悔しかったんだぞ。まあ取り戻せない過去の話はやめておこう。とにかく深夜 FM で聴いた「シンクロ・フィーリングズ ー イラコ」が大衝撃だったので、土曜深夜のその番組を聴いて寝て(これが当時の毎土曜の就寝習慣だった)起きた日曜日に速攻でレコードを買いにいったら、わりと簡単にアイランド盤 LP が見つかったので即買い。

 

 

といっても、書いたようにその FM 番組はラストに曲名と音楽家名を言うだけなので、情報はそれだけ。どのアルバムに入っているかなんかは分らないのだが、しかしキング・サニー・アデという名前と「シンクロなんちゃら」という曲名で、どのアルバムなのかは誰だって店頭で容易に分る。そうでなくたってあの1980年代半ばといえばサニー・アデの『シンクロ・システム』以外ありえない。実際レコード・ショップ店内でも目立っていたような記憶がある。無知状態の僕だって見つけるのは容易だった。

 

 

しかし買った『シンクロ・システム』を自宅、じゃなく寮の自室でかけてみても、A 面一曲目の「シンクロ・フィーリングズ ー イラコ」は、あぁ〜、これこれ!これだよ!と再び感動するものの、それ以外の曲には当時の僕はピンと来ず。特にアルバム・タイトルになっているんだから代表作なんだろうと思う B 面一曲目があまり面白くなかった、当時はね。

 

 

いま振り返ると、あの当時の僕ならそんなもんだよなあ。結局アルバム『シンクロ・システム』はオープニングの「シンクロ・フィーリングズ ー イラコ」だけ繰返し聴いて、それ以外の曲はほぼシカトに近いような聴き方だった。片面の途中で針をあげるのが生理的に無理だった(いまは CD でも iTunes ファイルでもどんどん途中でチェンジするけれど)僕は、いちおう全部かけるものの、たぶん耳には入っていなかったなあ。

 

 

だから今日ここで正直に告白するが、キング・サニー・アデのアルバム『シンクロ・システム』の、そのアルバム一枚丸ごと全部をちゃんと聴いて、一曲目の「シンクロ・フィーリングズ ー イラコ」だけじゃなく全体的に面白いと心の底から実感するようになったのは、リイシュー CD で聴いてからなんだよね。それでもその一曲だけがとっかかりで、いろんなアフロ・ポップや、最初に書いたような具合で僕の音楽世界は広がったので、大恩人には違いない。

 

 

リイシュー CD で聴いて、と書いたが、キング・サニー・アデの『シンクロ・システム』CD は、実は問題だらけだ。これが悔しくてたまらないんだけど、まずオリジナル・ジャケット(上掲写真左)では、2017年のいまに至るまでただの一度もリイシューされていない。僕が持っているのはアメリカの Mango 盤 CD で、これが『シンクロ・システム』の初 CD化だった(はず)ので、僕は速攻で飛びついて買ったが、なんだ?このジャケットは?(上掲写真中)

 

 

しかもマンゴ盤 CD は音質もショボい。その後 T ・バードが『シンクロ・システム』と『オーラ』との 2in1でリイシューしたもの(上掲写真右)は、まあジャケット左上に小さくオリジナル・ジャケットが載ってはいるのだが買う気がせず、だから音質もどんなものだか僕は知らない。

 

 

ここからが今日僕が一番言いたいことなんだけど、しかし完璧に同一内容を荻原和也さんがだいぶ前にお書きなので、手っ取り早くそれをコピー&ペーストするようなやり方で借用させていただきたい。萩原さん、毎度スミマセン!謝罪の気持と敬意を込めてというか、僕のこの文章をお読みの方で以下のリンク先(萩原さんの2014年のブログ記事)をまだお読みない方は是非ご一読いただきたい。そうすれば僕のこれ以後の文章は不要です。

 

 

 

ここで萩原さんがお書きであるように、アイランドはキング・サニー・アデの『シンクロ・システム』をどうして廃盤のままにしてあるんだ?これはぜ〜ったいに理解できない。いろんな意味で必聴作なのに。もはや過去の遺物?そんなことはないだろう。単にアフロ・ポップ大流行期の代表作を聴いて「時代を理解する」ということだけじゃない。『シンクロ・システム』自体、いま聴いても楽しい傑作なんだから、時代を超越している。

 

 

しかし萩原さんもお書きのように名作・傑作がそうである最大の理由は、リアルタイムで体験した人間の感慨とか思い出とか固定した評価なんかじゃない。時代が流れても新規にファンを獲得し続けて、後追いで聴いたリスナーが新たな魅力を発見して、それにより評価が更新されて見直され同時代性を獲得するところにある。

 

 

これはもちろんアフロ・ポップの世界だけの話じゃないのは言うまでもない。どんな世界のどんな分野の音楽作品だって同じだ。僕の最大の得意領域であるマイルズ・デイヴィスの話をすれば、彼はもう死んでいる。が<過去の>名作が廃盤にならずカタログに残り続け、ちょっと聴いてみたいなと思った入門者が実に手軽に CD を買えるからこそ、マイルズの評価はいまでも落ちず、新規ファンを獲得し続けている。

 

 

いつでも誰でも買える状態にある 〜 これは傑作が傑作だといまの時代に再認識されるための最低必須要件だ。アイランドはキング・サニー・アデの『シンクロ・システム』で、この最低要件を全く満たしていない。これじゃあねえ、ダメでしょ、絶対に。一日も早くアイランドは『シンクロ・システム』を CD リイシューしてほしい。そして二度と廃盤にしないでほしい。

 

 

来たる(って来るのか?)キング・サニー・アデ『シンクロ・システム』CD リイシューの際は、萩原さんは二枚組デラックス・エディションを提案されているけれど、それが無理なら一枚ものでも結構。ただし二つ条件がある。一つ、音質のリマスター作業を施してほしい。一つ、オリジナル・ジャケットを採用してほしい。この二つをクリアするならば、LP や CD やその両方でも持っているファンだって、みんな買はずだ。アイランドさん!お願い!

2017/04/28

鶏声暁を告げる1954年のマイルズとホレス・シルヴァー

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歌の主旋律を憶えて鼻歌で口ずさむのは全人類共通だけど、 レコードをなんどもなんども繰返し聴くから、ジャズ・メンの演奏するアド・リブ・ソロまでもソラで歌える 〜 これも音楽キチガイの常識で、みなさんそうだろうと思う。僕もむかしはよくやったが、いまではほとんどやらなくなって、代わりに歌詞のある歌を口ずさむようになっている。

 

 

大学生の頃は、ジャズ喫茶で座っていても、お気に入りのレコードがかかるとアド・リブ・ソロに合わせて一緒に、それも小さくない声量でハミングしていたので、周囲の客はさぞや迷惑だっただろう。ジャズ喫茶店内ではそれでもまだ遠慮していたのだ。自宅でなら…。

 

 

僕がそんなアド・リブ・ソロを暗唱していた代表が、マイルズ・デイヴィスにかんしては1954年の『ウォーキン』A 面一曲目のアルバム・タイトルのブルーズ・ナンバーだった。マイルズ、J ・J ・ジョンスン、ラッキー・トンプスン、ホレス・シルヴァー、そしてケニー・クラークのドラムス・ソロですら、自室や、あるいはお風呂の湯船につかりながら大きな声で歌っていた。

 

 

それくらい大好きだったんだよね、あの「ウォーキン」がね。本当にかなりお世話になったのであまり言いたくないけれど(などど言いつつ毎回言ってしまっているが)ある時の中山康樹さんが、マイルズによるこの曲の演奏では、この1954年の初演時点ではまだ大したことはない、凄いことになるのは60年代半ば以後のハービー・ハンコック+ロン・カーター+トニー・ウィリアムズのリズム・セクション時代のライヴだと書いていた。

 

 

中山さんのこの発言を読んだのはわりと最近、亡くなる少し前だからまだ数年前程度のことだったので、完全なるブルーズ熱狂家の僕は、あぁ、中山さんってブルーズ・フィーリングってものを理解できない人なんだなと、ちょっぴりガッカリした憶えがある。これには伏線があって。

 

 

こっちはもっとずっと前に読んだはずの中山さんによる『ザ・ホット・スポット』評。ついでだからこっちも今日この際はっきり書いてしまうが、いちおうマイルズも参加している1990年のこの映画サウンドトラック盤について中山さんは、マイルズはいいが、他の人たちはどうなんだ?特にジョン・リー・フッカーとかいうこの人は、ただ単にギターを鳴らしながらウンウン唸っているだけだから「僕でもできそうだ」と書いてしまった。

 

 

あれを読んだ瞬間、あっ、こりゃアカン!中山さん、この言い方はブルーズ・ミュージックを理解していないのが白日の下に晒されてしまいますよと、当時既にお付き合いがあったのでアドヴァイス…、なんてできるわけもなく、僕の心のなかだけで冷や汗をかいてしまったのだった。こんなことがあったので、数年前に読んだ上記「ウォーキン」についての発言も、やっぱりそうなっちゃうよなあと、その時はやや諦め気分だった僕。

 

 

既にお分りの通り、マイルズによる「ウォーキン」演奏では、ブルーズ好きならおそらく全員が1954年4月29日のプレスティジ・レーベルへの初演を選ぶはず。60年代中期のライヴ録音は急速調になりすぎていて、苛烈な激しさはあるが、ブルージーなフィーリングがほぼ100%失われているじゃないか。

 

 

だいたいブルーズ専門のミュージシャン、すなわちブルーズ・メン(ウィミン)が急速調でやっているブルーズなんて滅多に聴けないよ。この世に存在すらもしないんじゃないかと思うほど(は言いすぎだが)。テンポを上げすぎると、書いたようにブルージーじゃなくなって、ノリやフィーリングのディープさも薄くなってしまうからだ。ブルーズ・メン(ウィミン)のやる急速調ブルーズもあるけれど、それらはブルージーさやディープさを犠牲にするなんらかの理由があってのことで、そんでもって僕なんかはそういうのを聴いてもあまり楽しくない。

 

 

マイルズの場合、ジャッキー・マクリーンのオリジナル・ブルーズ「ドクター・ジャックル」でも同様のことが言える。1955年に作曲者をくわえミルト・ジャクスンらと一緒にプレスティジに録音した初演(『マイルズ・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン』)ではミドル・テンポでいい感じにブルージーだが、「ドクター・ジキル」と曲題を変えて58年にコロンビアに再演したもの(『マイルストーンズ』)はあまりの急速調で、ブルーズともいえないようなフィーリング。

 

 

とにかく1954年初演のマイルズ「ウォーキン」。最初から作曲者としてリチャード・カーペンターなる人物名がクレジットされているが、この人はマイルズの友達で、「ウォーキン」を書いたのは本当はマイルズに他ならない。あまり知られていない事実かも。友人名で版権登録したいなんらかの事情があったんだろう。

 

 

マイルズの初演「ウォーキン」は、まず最初10インチ LP『マイルズ・デイヴィス・オール・スター・セクステット』の B 面に収録されリリースされた。A 面がその後の12インチ LP や現在の CD では二曲目の「ブルー・ン・ブギ」。この二曲は同日録音で、どっちも12小節の定型ブルーズ。三管編成で、ピアノはホレス・シルヴァー。

 

 

ホレス・シルヴァーだけ名前を明記したのには理由がある。この1954年4月29日録音の二曲では、ホレスが非常に重要な役割を果たしているからだ(がこのことを詳細に説明してある文章はいまだに多くない)。二曲とも曲全体のアレンジを書いたのもホレスなら、リズム・アプローチを考えメンバーに伝え実行もさせたということで、 つまりマイルズではなくホレスが実質的音楽監督だったのだ。

 

 

こう言うと不正確というか間違いになってしまう。ホレス・シルヴァーが一人でリーダーシップを発揮したのではなく、マイルズとの共同作業で二曲をどう演奏するかアイデアを練ったに違いない。1954年のマイルズとホレスは実に密接な関係にあった。まず3月6日のブルー・ノート録音六曲で共演。これがこの二名の記録に残っている初共演だ。

 

 

次いでその時と同じワン・ホーン・カルテット編成で同1954年3月15日に三曲をプレスティジに録音。それはある時期以後現在まで、アルバム『ブルー・ヘイズ』に収録されている。そのなかには56年にファースト・レギュラー・クインテトで再録音し名演とされ、60年代もやっている「フォー」がある。

 

 

その後、12インチ LP と CD 『ウォーキン』B 面になっている四曲を同1954年4月3日にプレスティジに録音。えっ?四曲?三曲しかないぞ!?と思われるに違いない。この日に録音された「アイル・リメンバー・エイプリル」だけが、どうしてだか(収録時間の関係かなあ?) 12インチ LP『ウォーキン』には収録されず、したがって現行 CD にもなく、どれにあるかというと『ブルー・ヘイズ』に収録されている。

 

 

CD の収録時間は LP より大幅に伸びたんだから、同日・同編成でやった「アイル・リメンバー・エイプリル」も一緒にしてくれよという気分がちょっとだけ僕にはあって(『ウォーキン』CD はたったの38分しかないもん)、そもそも書いているように10インチ LP が<オリジナル>なんだから、その後の『ウォーキン』12インチ LP も CD も全部<編集盤>だ。オリジナル・フォーマット尊重主義は当たらないぞ。

 

 

まあいいや。1954年におけるマイルズとホレス・シルヴァーとの共演は、その同じ4月の続く29日に、上記の通り三管編成で「ウォーキン」と「ブルー・ン・ブギ」を録音。さらに同年6月29日にソニー・ロリンズらと一緒に4曲5テイクを録音し、それが現行『バグズ・グルーヴ』の B面になっている。

 

 

以上で1954年といわずマイルズとホレス・シルヴァーの公式共演録音は全部だ。お読みになってきて既にお分りの通り、マイルズがヘロイン常習癖から脱却し(麻薬をやめたとは言えない、あくまでヘロインだけ)みなさんおっしゃっているようにボロボロの数年間を経ていわば復活し、ファンキーなハード・バップ・スタイルをやりはじめる 〜 ちょうどその年1954年の文字通り<全ての>公式スタジオ録音にホレス・シルヴァーがかかわっているんだよね。

 

 

1954年にマイルズにホレス・シルヴァーを紹介したのは、もっと前からマイルズとの共演録音歴もあるドラマーのアート・ブレイキーだった。そしてブレイキーとシルヴァー二名の深い関係は、いまさら繰返す必要はない。54年2月にはクリフォード・ブラウンを擁するクインテットでライヴ録音し、誰でも知っているブルー・ノート盤『バードランドの夜』二枚になっている。あれの音楽監督がホレスだ。ところでこのライヴ盤で聴ける興奮は、まさにハード・バップの夜明けを告げる暁の鶏声だね。

 

 

1954年はそんな年で、だからマイルズのアルバム『ウォーキン』でホレス・シルヴァーがかなりな程度まで音楽的リーダーシップをとっていたのは間違いないと言えるはず。実際 A面のブルーズ・ナンバー二曲はかなりアレンジされているじゃないか。B面の三曲でははっきりしたアレンジが聴けないけれど、CD だと最初の二曲「ウォーキン」「ブルー・ン・ブギ」では、例えば三番手で出るラッキー・トンプスンのテナー・サックス・ソロの背後で、トランペット&トロンボーン二管によるリフ伴奏が入る。

 

 

 

「ブルー・ン・ブギ」https://www.youtube.com/watch?v=iYUpNupczws

 

 

ラッキー・トンプスンのテナー・ソロ背後で入る二管のリフ伴奏は、二曲とも譜面なしでもできるシンプルなものだが、あらかじめ用意されたものなのは間違いない。テナー・ソロのここでこのフレーズをこう入れるということを考えてあったのだということに疑いは持てない。「ウォーキン」の方では四番手のホレス・シルヴァーのソロが終ると、再びマイルスが2コーラス、ソロを吹くと、(テーマとは異なる)三管の合奏リフになって、それがケニー・クラークのドラムス・ソロと絡むという具合。ビ・バップにはないこんな緊密なアレンジは、僕の見るところ、間違いなくホレスの考案したものだ。

 

 

「ブルー・ン・ブギ」だってかなり綿密で用意周到な事前アレンジがあるのが曲を聴けば分る。この曲でもソロをとる最初の二人のバックではリズム・セクション三人だけだが、やはり三番手のラッキー・トンプスンのテナー・ソロが来ると、まずその直前でトランペット+トロンボーンが導入リフを演奏し、それをきっかけにテナー・ソロになり、またソロの最中でも二管の伴奏リフがどんどん入る。しかも「ウォーキン」でのそれと違って、その二管伴奏リフはどんどんチェンジするもんね。

 

 

「ブルー・ン・ブギ」でも四番手のピアノ・ソロが終ると、再びマイルズが出てソロを、やはり2コーラス吹き、今度はそのまま冒頭部と同じテーマ・メロディ合奏になだれ込む部分だけが「ウォーキン」と違っているが、他の部分は二曲ともほぼ同じパターンのアレンジだ。これを考案(譜面にはしなかった可能性が高いと思う)したのがホレス・シルヴァーでなくて誰だと言うんだ?後年のホレスのリーダー作品と比較すれば、明々白々の同一スタイル・アレンジじゃないか。

 

 

え〜っと、本当は今日のこの記事はアルバム・タイトル曲「ウォーキン」でのマイルズの吹き方が、1920年代のルイ・アームストロング以来のジャズ・トランペッターによるブルーズ吹奏の伝統に則ったものだということを書く腹づもりで MacBook Pro に向かったのだが、もうそれを書く余裕がない。特に三連符をかなり頻用するところにそれがはっきりと表れているのだが、今日は諦めよう。ご存知ない方のために、参考になりそうな1927年のサッチモの音源だけ貼っておくので、みなさんも考えてみてください。

 

 

「ワイルド・マン・ブルーズ」https://www.youtube.com/watch?v=xO3k-S_pqK4

 

「ポテト・ヘッド・ブルーズ」https://www.youtube.com/watch?v=udWB3OKV9_k

2017/04/27

HK のソロ新作はブルーズ・アルバム

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ここ一ヶ月ほどのあいだに買った海外盤新作で最もよく聴くヘヴィ・ローテイション三つが、パウロ・フローレス(アンゴラ)とレー・クエン(ヴェトナム)と HK(アルジェリア/フランス)。三つとも素晴らしい。特にパウロ・フローレスの『オ・パイス・クェ・ナスシウ・ミウ・パイ』は本当に凄い。あまりにも豊穣で濃密な音世界だ。がしかしパウロ・フローレスとレー・クエン新作については既に書いている方が少しいらっしゃるので後廻しにして、今日はまだ誰も書いていない(はずの)HK 新作の話をしよう。個人的にはお気に入りなのだ。

 

 

HK の新作『ランピール・ドゥ・パピエ』。一回聴いただけで好きになってしまったが、それはどうしてかというと、これはブルーズ・アルバムだからだ。正確にはレゲエ・ブルーズ。正直に言うとブルーズっぽいようなものはさほど多くはなく、その一方でレゲエは、ほぼ全曲あの(ン)ジャ!(ン)ジャ!っていうリズムだし、歌詞内容だっていかにもレゲエ・ミュージシャンが歌いそうな抵抗と反逆とそれに類するものばかりで、だから『ランピール・ドゥ・パピエ』はレゲエ・(ブルーズ・)アルバムなのだと言わないといけない。

 

 

がしかし前々から書くように、レゲエのあのスカしたクールなビート感覚は、僕にはイマイチ馴染みにくいものなんだよなあ。それでもアマジーグ(グナワ・ディフジオン)や HK やその他マグレブ音楽家がみんなたくさん使うので、それで僕もかなり好きになってきているのだが、染み付いた生理的なものがどうもやはり完全には拭い難い。

 

 

ところが一方、こっちも説明不要の繰返しだが、ブルーズやブルージーな感覚は大好物なんてもんじゃない僕で、どんな音学のどんなアルバム・曲でも、ちょっとでもそれっぽいような微かな香りがあれば、「あっ、これはブルーズだよね!」と快哉を叫び喜んでしまうという、そんな人間だ、僕は。

 

 

HK の新作『ランピール・ドゥ・パピエ』には、しかしちょっとどころじゃないブルーズ色が確かにあるんだよね。一聴でそれが誰にでも分るのが二曲ある。アルバム二曲目のアルバム・タイトル・ナンバーと、五曲目の「ギヴ・ミー(アン・オートル・シャン・ドゥ・バタイユ)」 。音源を貼ってご紹介できれば、どなたにもブルーズ・ナンバーであるのを実感していただけるはずだけど…、と思い YouTube その他ネット動画を検索したけれど、やはりアップロードはされていない。本国フランスで今年三月にリリースされたばかりのアルバムだから、僕が上げてもダメだろうなあ。

 

 

しかし「ギヴ・ミー」の方だけは、『ランピール・ドゥ・パピエ』収録のオリジナル・ヴァージョンではなく、今年3月22日、パリでのライヴ・ヴァージョンが見つかって、聴いてみたらスタジオ・オリジナルとさほど大きな違いはなく、ブルーズ要素はしっかり聴けるので、ご紹介しておこう。

 

 

 

どうです、この出だしは?スタジオ・オリジナルでも同じなのだが、このライヴ・ヴァージョンの「ギヴ・ミー」冒頭部で聴こえるのは、疑いなくリゾネイター・ギターをスライドで弾くサウンドだよね。それに英語詞が乗り「Nodody’s blues is deeper than mine」(その他)と歌っている女声ヴォーカルが聴こえるじゃないか。リゾネイター・ギターは誰で、英語詞を歌っているのは誰なのか?

 

 

CD『ランピール・ドゥ・パピエ』附属ブックレットにはそのあたりの記載がないというのがかなり怪しい。だって伴奏者は全員がサルタンバンクの面々で、(サルタンバンクと明記されているラスト13曲目を除き)名義こそ HK のソロ作となっているが、中身は HK ・エ・レ・サルタンバンクの作品に違いなく、パーソネル・担当楽器など逐一全部明記されているにもかかわらず、五曲目「ギブ・ミー」の、あのリゾネイター・ギターと女声ヴォーカルだけは担当者の記載がない。怪しいぞ。

 

 

いちおうマヌエル・パリがギター担当で、しかも「ギヴ・ミー」ではヴォーカルも書いてあって、曲も HK とマヌエルの共作となっているので、リゾネイター・ギターはマヌエルかもしれない。というか現実的にはその可能性が高い。がしかしマヌエルって男性名じゃないか。女性だったらマヌエラになってないといけない。じゃああの冒頭部(やその他中間部)で聴こえる女声(にしか聴こえない)ヴォーカルは誰なんだ?女性がマヌエルを名乗っているのか?

 

 

マヌエルが(リゾネイター・ギターを弾きながら)歌って、ヴォーカルの方だけ女声に聴こえる程度にまでピッチを上げる処理を録音後にやったという可能性はかなりあるだろう。「ギヴ・ミー」でも主に歌うのは HK だが、あの冒頭部や中間部のあれだけは HK の声である可能性がゼロだ。HK が歌っている真っ最中にでもその女声ヴォーカルの英語詞がどんどん挿入される。

 

 

ここで僕の極めてわがまま勝手な、完全に無根拠な憶測を書く。あのアクースティックなリゾネイター・ギターと女声ヴォーカルは、ボニー・レイットじゃないだろうか?ギターの方はブルーズを弾き慣れている人間なら誰にだって弾けそうな演奏だけど、あの声はねえ、隠せないと思うんだけどなあ。ボニーじゃないのぉ〜?ボニーが別個に録音してそれをサンプリングして、冒頭部や中間部になんども挿入してあるんじゃないのぉ〜?

 

 

上で音源を貼ったライヴ・ヴァージョンの「ギヴ・ミー」でも冒頭部で全く同じものが聴こえるが、生演唱であるようには聴こえない。間違いなく録音物を流して、その後 HK (とサルタンバンク)の生演奏になっているんだと思うけどなあ。そのライヴで流れている(録音された)リゾネイター・ギターと女声ヴォーカルは、CD『ランピール・ドゥ・パピエ』で聴けるものと全く同じに聴こえるんだから。

 

 

あれがボニー・レイットだなんてのは、本当に僕が勝手に放言・妄言しているだけで、いちおうネットで僕なりに情報がないか探してはみたが、やはりボニーのボの字も出てこない。声質から判断して、僕の聴き慣れているボニーに近いと思うだけで、100%根拠レスな発言なので真に受けないでほしい。

 

 

ボニー・レイットを起用したのかどうかは、正直言うと重要なことではない。大切なことは『ランピール・ドゥ・パピエ』五曲目の「ギヴ・ミー」がブルーズ・ナンバーだということだ。こっちの事実の方は曲を聴けば、どなたも納得できるはずだ。僕の文章にではなく、曲の音にその説得力、これはブルーズだと納得させる肌触りがあるもんね。

 

 

「ギヴ・ミー」でも曲本編の演唱がはじまると、やはりリズムはレゲエになる。そして全体的に曲調もフランス語の歌詞内容も暗く落ち込むようなもので、憂鬱感、すなわちブルージーなフィーリングが漂っている。曲の副題「un autre chant de bataille」とは、戦いの歌をもう一つ(くれ)という意味だが、強く拳を突き上げるような戦闘の高揚感に酔うようなものではなく、ガックリ落ち込んで考え込んでいるようなフィーリングの曲なんだよね。だからブルーズ。

 

 

あまり五曲目の「ギヴ・ミー」にだけこだわっていると先へ行けないので、最初に書いたアルバム『ランピール・ドゥ・パピエ』中もう一つのブルーズ楽曲、二曲目のアルバム・タイトル・ナンバーのことも書いておこう。曲「ランピール・ドゥ・パピエ」もリズムのかたちはレゲエだ。アルバムの全13曲中最も鮮明なレゲエ色があると言ってもいいくらい。

 

 

ところが曲「ランピール・ドゥ・パピエ」では10穴ハーモニカ、すなわちブルーズ・ハープが入っていて、というか全面的にフィーチャーされているような使い方で、しかもですね、フレイジングがモロそのまんまブルーズ・ハーピストの吹き方なんですよ。音列を聴いて耳で判断するとセカンド・ポジションのものを使っているのは間違いない。アメリカ黒人ブルーズ愛好家には説明不要だが、セカンド・ポジションのキーの10穴ハーモニカを使うのはブルーズ・ミュージックでの常套なのだ。

 

 

曲「ランピール・ドゥ・パピエ」におけるかな〜りブルージーなブルーズ・ハープは、ブックレット記載ではマヌエル・パリの担当となっているぞ。えっ?そうなのか?この曲でのハーモニカ以外は、上述五曲目「ギヴ・ミー」でのヴォーカル以外全部ギターしか弾いていないことになっているこの人物、こんなアメリカ黒人ブルーズ・ハーピストか、あるいは白人ならポール・バタフィールドみたいな10穴ハーモニカが吹けたのか?知らんかった…。

 

 

ってことはですね、上で書いた完全なるブルーズ・ナンバーみたいな五曲目「ギヴ・ミー」の、ボニー・レイットじゃないのか?などと勝手なことを書いたリゾネイター・ギターと女声ヴォーカルは、やはりクレジット通りマヌエル・パリのものなのか?そんな、ギターでもヴォーカルでもハーモニカでも米黒人ブルーズ要素を表現できる人物だったのか?う〜ん…、どうなってんの?

 

 

なおこのギタリスト(が中心の)マヌエル・パリ、いままで書いてきた二曲「ギヴ・ミー」「ランピール・ドゥ・パピエ」でブルージーなギターのオブリガートやソロを弾き、時にはエレキ・スライドを聴かせたりもするが、実は他の曲でもそんなギターの弾き方をしているものがあったりする。そして主役の HK はいつも通りの塩辛い声と歌い口だから、やっぱりある意味、アルバム『ランピール・ドゥ・パピエ」』は全体的にブルージーなんだよね。

 

 

前々から HK の音楽はソロでもサルタンバンクでも、フランス内部にいるマイノリティであるアルジェリア系の人物が、白人支配の帝国の内側からそれに抵抗しよう、内臓のなかから食いちぎってやろうというような音楽であって、その点、地理的には同じアフリカの、トゥアレグ族の、いわゆる砂漠のブルーズとかなり共通性が高い。というかほぼ同質の音楽じゃないかなあ。

 

 

石田昌隆さんみたいに、砂漠のブルーズを「トゥアレグの抵抗を音楽で表現した」(『ラティーナ』最新号でのタミクレスト新作レヴュー)ものだというような表現の仕方をするのが嫌いな人間だけどね、僕はね。石田さんはそもそもこういった考え方・書き方こそが持味・芸風の方だし、またこの『ラティーナ』誌からのこの引用部も決して間違っているなんてことはなく、文字どおり真実だ。

 

 

(サハラ砂漠に限らずアメリカでもどこでも)ブルーズ・ミュージックって、そういう石田さんのおっしゃるようなものではあるんだよね。僕はいつもいつもリズムとサウンドと音の質感と、歌詞ならその「音の響き」が織りなすもの 〜 これらだけに耳を傾けてなんでも判断している人間で、そんな聴き方だけしていても、フランス本国では今年三月上旬に発売されたばかりの HK の新作『ランピール・ドゥ・パピエ』は、ブルーズ・アルバムだと聴こえてくる。

 

 

フランスに住んでいるアルジェリア系の音楽家 HK の新作アルバムを聴いて、そこにブルーズを感じ取る人間も少ないだろうとは思うけれど、書いたようにブルーズ・ミュージック本来のありよう、(世界のどこでも)社会のなかで置かれたポジションから自ずと発生する音楽性を振り返ってみれば、フランスの HK にブルーズがあるのは不思議なことじゃない。

 

 

強調しておくが、そんなブルーズ本来の社会的ありようなんてことまで考えなくたって、HK の最新作『ランピール・ドゥ・パピエ』には、いままでの HK ソロ作やサルタンバンク作にはなかった、純音楽的なブルーズ要素がはっきりある。 これは間違いないと太鼓判を押しておく。…って、僕が押した太鼓判やなんかを誰が信用するんだろう?

2017/04/26

これがプリンスの21世紀ベスト

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プリンスの21世紀最高傑作は2006年の『3121』だ。ファンク要素とラテン要素が濃厚で、しかも最後の曲ではそれが合体していたりする。僕のなかではこれが21世紀のベスト・プリンスだという評価は揺るがない。一曲目「3121」と二曲目「ロリータ」の直球ファンク二連発だけで KO されるのに、続く三曲目が哀愁のラテン・バラード「テ・アモ・コラソン」なんだから失禁ものだ。今日はこのアルバムについて、ファンクとラテンだけに限定し、美しいが穏やかなラヴ・バラードのことは省略する。

 

 

ファンク要素の方から先に話をすると、『3121』一曲目のアルバム・タイトル・ナンバー。この四桁の数字の意味がなにかということは僕にはどうでもいい。それよりもシンプルかつヴァイオレンス満載でひたすら一直線に突き進むリズム・セクションのファンキーなカッコ良さにシビれる。この曲ではなぜだか旧 NPG(ニュー・パワー・ジェネレイション)のベーシスト、ソニー・T とドラマー、マイケル・B を再招集しているので、プリンス自身、やはり生のグルーヴがほしかったんだろう。

 

 

曲「3121」では、さらにメイシオ・パーカー、キャンディ・ダルファー、グレッグ・ボイヤー、レイ・モンテイロ四人編成のホーン・セクションがやはりファンキーなリフを演奏する。これら以外の楽器とヴォーカルはやはりプリンス本人が全部やっている多重録音だ。ってことは曲「3121」のあの生な感じのグルーヴは、プリンス自身を含む三人だけが同時演奏で収録しベーシック・トラックを作成したものかもしれないね。それ以外は全部あとでかぶせたものだろう。

 

 

さらに曲「3121」はかなり暗くヘヴィで不穏な雰囲気が漂っている。そんなファンク・ミュージックというと、やはりスライ&ザ・ファミリー・ストーンの『暴動』か?というと、僕はそれは思い出さず、むしろ録音とリリースは10年以上あとのディアンジェロ(&ザ・ヴァンガード名義)の2014年作『ブラック・メサイア』を連想する。これの前作2000年の『ヴードゥー』の評価があまりにも高いディアンジェロだが、いまのところの最新作『ブラック・メサイア』もかなりいいんだよね。

 

 

プリンスの曲「3121」がディアンジェロの『ブラック・メサイア』だ(というか順序は逆だが)というのは、両方聴けば誰だって分ることだから、そしてプロ・ライターのみなさんはもちろん全員両方聴いているわけだから、この二つの共通性についても、間違いなくどなたかがどこかで書いているはずだ(が僕は全く探していない)。曲「3121」の唯一の不満は尺の短さだ。たったの4分しかない。これを10分は続けてほしかった。それだったら快感が持続してイケたのに、4分じゃ無理だ。

 

 

アルバム『3121』におけるファンク要素というと、二曲目「ロリータ」は若干ジェイムズ・ブラウンっぽい感じも聴き取れる。そりゃメイシオ・パーカーみたいな JB バンドの番頭格を正規メンバーにしたわけだから…、と思うと「ロリータ」にはホーン奏者は一切いない。僕が JB っぽいなと思うのはエレキ・ギターのカッティング(はかなり控え目だが)と、プリンス自身が叩くドラミングのスタイルなんだよね。シンセサイザーの使い方はややレトロな1980年代風。まあ80年代のプリンスは一番良かった時期ですからゆえ。

 

 

1980年代風シンセサイザーの使い方といえば、アルバム『3121』では八曲目の「フューリー」。これはファンク・チューンではなく普通のロックっぽいポップだが、シンセの使い方が…、もうなんというか…、はっきり言ってしまうがダサい。ジャッジャー、ジャージャーとポリフォニックで入るシンセ・リフは、完全にヒロミ・ゴー(がダサいという意味ではない)だ。しかも「フューリー」にはボブ・ディラン+ジミ・ヘンドリクスみたいな部分もある。ちょっと面白いかも。それにしてもこのシンセの使い方はなんとかならんかったのか?ワザとか?凡百の音楽家には21世紀にこんなこと、おそろしくてできない。

 

 

シンセ・ファンクの話題に戻ると、アルバム『3121』四曲目の「ブラック・スウェット」と六曲目の「ラヴ」もまさにそう。だがこの二曲ではエレベが全く入っていない。「ラヴ」の方ではバスドラの音がかなりズッシリ来るのでそれで充分だが、「ブラック・スウェット」の方にはそれもなく、完全に低音無視のファンク。こんなのやらないぜ、そこらへんの黒人音楽家は。完全にボトムスをシカトしたファンクなんて成立しないんだからなあ。ところがそれを気持いい感じに聴こえさせる「ブラック・スウェット」のプリンスは、やはり異常な天才だ。

 

 

あっ、「ラヴ」の方はやっぱりエレキ・ギターのカッティングがジェイムズ・ブラウンっぽい入り方。かなり控え目の小さな音でしか聴こえない「ロリータ」と違って、「ラヴ」ではやや鮮明に聴こえ少し目立っている。しかし JB そのまんま直系かというと違って、例えば同じく JB 的ギター・カッティングだろうと思う「ハウスクエイク」(1987年『サイン・オ・ザ・タイムズ』)などと比べると、やはり21世紀的同時代性を感じる刻み方だ。

 

 

アルバム『3121』にあるファンクの話はこれで全部だから、ここからは特にラテン要素の話をしたい。このアルバムで聴ける最も美しいラテン・ナンバーは、最初に書いたように「テ・アモ・コラソン」だ。このキューバン・ボレーロでありつつ、リズムの感じ(特にスネアのリム・ショット)はボサ・ノーヴァっぽい一曲は、なんど聴いてもウットリとろけてしまうね。なんて美しいんだ。美しすぎるだろう。

 

 

プリンスにも多いラテン・ナンバー、というかそもそもアメリカ音楽にはラテン要素が最初の誕生時から濃いわけで、「北米合衆国音楽はラテン音楽の一種である」と、油井正一さん(の自説ではなく、ドイツのジャズ批評家アーネスト・ボーネマンの引用だけど 〜 『ジャズの歴史物語』p. 317) の猿真似をして言いたくなるほどなんだから、プリンスに多くても当然だけど、「テ・アモ・コラソン」はプリンスの全音楽生涯におけるラテン・ナンバー最高傑作じゃないだろうか?

 

 

アルバム『3121』にはラテンがもう二つあって、九曲目の「ザ・ワード」とラスト12曲目の「ゲット・オン・ザ・ボート」。後者が誰が聴いても分るビートの効いた鮮明なラテン・ファンクであるのに対し、前者のラテン・ソウル要素は薄いというか軽い。僕が「ザ・ワード」がラテンだなと感じるのはアクースティック・ギターの印象的な使い方とリズム(特にパーカッション)と、シンセサイザーで出している若干管楽器風のリフの入れ方だ。

 

 

ところでそれはそうと「ザ・ワード」。曲調、サウンド、リズムは軽いラテン・ソウル風だけど、歌詞の方はメッセージ色が濃く、やや宗教的。はっきり言えば聖書への言及だ。そんなビブリカルなニュアンスを歌いつつ、その雰囲気をそのまま引き継いだようなエレキ・ギター・ソロが入る。『ザ・レインボウ・チルドレン』以後は増えたよね、こんな風な宗教ソングでビブリカルな感じのエレキ・ギター・ソロが聴こえるものがね。だから「ザ・ワード」も和訳すれば「みことば」だ。

 

 

アルバム『3121』ラスト12曲目の「ゲット・オン・ザ・ボート」。これはリズムがメチャメチャ派手で賑やかなラテン・ファンク。この曲にだけシーラ・E(はプリンスとなにか深い関係があったのだろうか?私生活で?)が参加してパーカッションを乱打しているのも嬉しい。特に中盤でドラムス(コーラ・コールマン・ダナム)と二名だけでの打楽器オンリー・アンサンブルになるパートがあって、ティンバレスがカンカン鳴っていいなあ。ちょっぴりサルサ風でもある。楽しいったらありゃしない!

 

 

「ゲット・オン・ザ・ボート」ではサビに行く直前にプリンスが「ブリッジ!」と叫んでいる。これはこの人の場合ちょっと珍しいんじゃないだろうか?この人はサビのことを「ターナラウンド」(turnaround)と言うことが多く、いろんなアルバムのいろんな箇所で聴ける。笑い話なのだが、ある時のライヴ・ステージでプリンスが「サビへ!」という指示として「ターナラウンド!」と叫ぶと、後ろのキャンディ・ダルファーが勘違いして、クルッと身体を回転させてしまったそうだ。

 

 

「ゲット・オン・ザ・ボート」で後半ボスが「メイシオ!」と叫ぶと、そのままやはり彼のサックス・ソロに入る。1960年代から活躍しているサックス奏者なので、2006年というと結構なお歳だったのでは?と思い調べてみると、そうでもないんだなあ。2017年時点でもまだ74歳だ。失礼しました。メイシオのサックス・ソロのあとはラテンなピアノ・ソロ(はプリンス本人)やトランペット・ソロ(はレイ?)もある。その後再びサックス・ソロが聴こえるのはメイシオか?

 

 

「ゲット・オン・ザ・ボート」の最終盤でバンド本体の演奏がフェイド・アウト気味に終ったあと(5:52〜)で、小さい音でシンプルでプリミティヴ(に聴こえる)な打楽器だけの演奏に乗って、誰かがスキャットで軽く口ずさんでいる。それも消えてトラックが完全終了するまでの約20秒間は、プリミティヴ・パーカッション+チャント(といっても叫ばずハミングだけ)みたいな感じで、まるでアフリカ音楽か、あるいはそれがルーツになっているニュー・オーリンズのマルディ・グラ・インディアンの音楽のようじゃないか。

2017/04/25

みんな〜、ルイ・ジョーダンで楽しくやろうよ(Let The Good Times Roll)!

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ルイ・ジョーダンってジャズでもないしロックでもないし、じゃあリズム&ブルーズかというとそうでもないよなあ(僕のなかではちょっと変わっているだけの面白ジャズ・マンだけど)。しかしそれだったら分りにくいのかというと正反対で、親しみやすく聴きやすい。聴けばみんな普通に楽しい。ただひたすらそれだけの音楽家だけど、そういう人こそ実は最も奥が深く、しかも古くならない。実際、いつの時代もルイ・ジョーダンの録音は最新型。ロックの時代にはロック、ラップの時代にはラップ・ミュージックとして再認識されてきた。

 

 

といってもルイ・ジョーダンの場合も、やはり本国アメリカでは完全無視状態だった。米 MCA が1999年に CD二枚組のデッカ録音集『レット・ザ・グッド・タイムズ・ロール:ジ・アンソロジー 1938 - 1953』をリリースしたのが最初のもので、たぶんいまでも唯一。最初に CD リイシューしたのは1992年のドイツ人(ベア・ファミリーのデッカ録音完全集九枚組)、その次が96年の日本人、中村とうようさん(MCA ジェムズ・シリーズの一枚『ルイ・ジョーダン 1939-1954』)。

 

 

このあたりいつもいつもの嘆き&怒り節で、同じことばかりなんども書いているので、またかよ…と思われるだろうからこの部分はどうぞ読み飛ばしていただきたいのだが、今日こそは言いたいことを全部言わせてもらう。1910〜30年代の古い録音に見向きもしないのは言うまでもなく、ルイ・ジョーダンみたいな第二世界大戦直後あたりに大活躍した音楽家のものですらガン無視なのは、なにやってんの?アメリカ人?!

 

 

いまは同じアフリカ系の人たちだってレコード会社で結構いいポジションにいるはずなのに、1910〜50年代のジャズやブルーズやリズム&ブルーズなど、ブラック・ミュージックの偉大な先達の残してくれたものに敬意を払っていないのだとしか思えない。完全無視で全くリイシューする気配すらないのは、そういうことだとしか思えない。国家自体の歴史がヒジョ〜に短いアメリカに生まれ住む人間の文化歴史の認識などしょせんその程度なのか(ひどい悪口だ)。

 

 

以前ある場所で、コロンビアは自社が権利を持つ過去遺産のリイシューにあまりにも冷淡すぎると書いたら、荻原和也さんから「営利企業であって文化事業やってんじゃないんだから、売れないカタログなんかに見向きもしませんよ、コロンビアだけでなく、デッカだってヴィクターだって」と言われてしまった。そういうのは本家ではなくコレクターズ・レーベルの仕事だと。

 

 

荻原和也さんが結局おっしゃりたかったことは「アンタ、偉そうにアメリカ人が自国の音楽遺産に盲目だとか言っているけれども、アンタだって自国日本の立派な音楽遺産をヨーロッパ人が復刻していることを知らんだろう?」という部分にあったような気がする(がそうとは明言はされていないのでなにも言えなかった)。あの場の当座の話題はデューク・エリントン楽団の戦前録音のことだったので、僕は「いや、デッカとヴィクターは一度ちゃんとコンプリート集でリイシューしている、サボっているのはコロンビアだけ」とだけコメントしたのだが。

 

 

たぶんいまではメジャーのレコード会社各社である程度の発言力を持っているはずのアフリカ系のみなさんは、現在進行形の音楽ばかり追いかけていないで、どういうわけでそういう「新しい」ものができあがってきたのか、そもそも誰が最初にそんな音楽をやりはじめたのか、過去にどれほど輝いていて、いま聴いてもかなり面白く美しい「古い」音楽に真摯に耳を傾けて、しっかりとしたリイシュー作業に取り組むべきじゃないだろうか?コロンビアなんか、自社で完全集として CD 復刻しているのはルイ・アームストロングとビリー・ホリデイだけじゃないか!

 

 

確かに荻原和也さんのおっしゃる通り、ヨーロッパのコレクターズ・レーベル(ジャズならフランスのクラシックス、ブルーズならオーストリアのドキュメントなど)がちゃんと仕事をしてくれているので、僕もみなさんもそんな困っているとか、全く聴けないとかいうわけではない。だがしかし以前からよく言うのでお分りだろうが、僕はあくまで本家筋レーベルがやらないとダメだという考えの人間なんだよね。それが自分たちの責任じゃないか。やらないでプロの仕事と言えるのか?!アメリカ人!特に黒人!

 

 

吐き出したいことを吐き出したので、最初に戻ってここからルイ・ジョーダンの音楽の話をしたい。ルイ・ジョーダンの一番良かった時期が1938〜54年のデッカ録音時代であることには全く異論を挟む余地がないので、上記三種類の録音集 CD のうち、ベア・ファミリーの完全集九枚組が一番いいのだというのはその通り。だが正直に言うとなかにはイマイチ面白くないものだって混じっている。サイズも値段も大きいし、よほどのルイ愛好家じゃないと買えないだろう。ルイの音楽はマニアのものなんかじゃない。「みんなのもの」だ。そういう音楽家なんだから、いろんな人に聴いてほしい。

 

 

だからやはり中村とうようさん編纂・解説の MCA ジェムズ盤『ルイ・ジョーダン 1939-1954』か、米 MCA 盤の二枚組『レット・ザ・グッド・タイムズ・ロール:ジ・アンソロジー 1938 - 1953』のどっちかをオススメしておく。この二種類、前者は一枚物で全27曲、後者は二枚組で全46曲だから後者だけでいいかというと、前者にしか収録されていないものがあったりして、どっちか一方だけをと言われるとちょっと困ってしまう。まあでもあくまで一般的には、やはり米 MCA 盤の方がオススメだろうなあ。附属ブックレットの英語解説文も充実しているし、ディスコグラフィカルなデータ記載も詳細で完璧。

 

 

さらにとうようさん編纂盤の最大の弱点は、ルイ・ジョーダン全盛期の録音のなかでも特に重要な「カルドニア」「ラン・ジョー」の二曲が収録されていないことだ。とうようさんが無視しているわけなんかじゃない。MCA ジェムズ・シリーズの慣例で、他のアルバムに収録のものはダブらないようにしてあるからだ。「カルドニア」は『ブラック・ミュージックの伝統〜ジャズ、ジャイヴ&ジャンプ篇』に、「ラン・ジョー」は『ブラック・ビートの火薬庫〜レット・イット・ロール』に収録されている。

 

 

だから以下の話は、それら二曲も含め重要曲が最もたくさん収録されている米 MCA 盤『レット・ザ・グッド・タイムズ・ロール:ジ・アンソロジー 1938 - 1953』に基本的には沿って、そこに中村とうようさん編纂・解説の MCA ジェムズ盤の方も適宜参照しつつ進めたい。ルイ・ジョーダン初のヒット・ナンバーは1944年のレコード「G・I・ジャイヴ」だと言って差し支えないはず。米 MCA 盤だとこれが17曲目で、とうようさんのだと6曲目。ただ、それまでにも面白いものはあって、例えば39年録音のジャズ・スタンダード「ハニーサックル・ローズ」(とうようさん編纂盤には未収録)なんか、「おぉ〜、 はっにぃ〜〜🖤・さっくるぅ〜・ろぉ〜ず」などとスケベったらしく歌ったりするが楽しいのだが、ヒットはしていない。

 

 

 

ルイ・ジョーダンはやっぱりヒット・メイカーだったからこそ、それも1940年代半ばにおけるアメリカ黒人音楽家では一番売れて人気があった最大のスーパー・スター(誇張でも比喩でもなく文字通り!)だからこそ同時代や後世の歌手やミュージシャンにも甚大な影響を与え、またそんなことを言わなくたって、当時のアメリカ一般庶民のお茶の間を賑わせて、文字通りみんなを楽しませてくれたエンターテイナーだったという事実にこそ意味があるわけだから、ヒット・チューンを重視しないとダメだ。

 

 

「G・I・ジャイヴ」がルイ・ジョーダン初の大ヒット曲(レイス・レコードなのにビルボードのポップ・チャートですら二週連続一位)になったのは、歌詞を書いたのがあの有名なジョニー・マーサーだったからからというのが理由の一つにあるかもしれない。だいたいルイ・ジョーダンは大ヒット・メイカーだったと言っても自分で曲を書くことは滅多になかった。ほぼ全て他人のソングライターが書いた曲をやった。それでもチャック・ベリーみたいな自作自演ロッカーの先駆けになったのは間違いないのだが。

 

 

「G・I・ジャイヴ」以後は大ヒットを連発するようになるルイ・ジョーダンで、実際、1945〜46年にはビルボードの R&B チャート首位になんと18曲を送り込むというスーパー・スターぶり。1970年代末〜80年代のマイケル・ジャクスンの40年代版がルイだったと言える。2017年現在でも、ルイやマイケルほど売れまくった黒人音楽家は他にいないんじゃないの?

 

 

そんなルイ・ジョーダンの大ヒット18曲のうち、録音順なら「G・I・ジャイヴ」の次に来るのが1945年の「カルドニア」。これは僕の最も愛するルイのヒット・チューンだ。好きな女性の名前を繰返し叫ぶ、それもとんでもなく素っ頓狂な声で「きゃるど〜にゃっ!」とシャウトする、しかも曲のかたちは完全なるブギ・ウギ・パターンという、面白ジャンプ・ナンバーのラヴ・ソング。イントロでピアノがブギ・ウギ・リフを弾くのが聴こえはじめただけで僕はワクワクする。

 

 

 

ルイ・ジョーダンの生涯で最も売れたレコードは、翌1946年の「チュー・チュー・チ・ブギ」だが、米 MCA 盤『レット・ザ・グッド・タイムズ・ロール:ジ・アンソロジー 1938 - 1953』で辿ると、45年の「カルドニア」と46年の「チュー・チュー・チ・ブギ」とのあいだに、かなり面白い一曲がある。エラ・フィッツジェラルドが客演した45年の「ストーン・コールド・デッド・イン・ザ・マーケット」だ。とうようさん編纂盤には未収録。

 

 

 

これをお聴きになれば分るように、ルイ・ジョーダン得意分野の一つであるラテン調、はっきり言うとカリプソ・ナンバーだ。マラカスとクラベスが聴こえるね。リズムのかたちも鮮明なカリビアン・アクセントを表現している。ルイのこの手のカリプソ・ジャンプみたいなもので最も有名なのは、間違いなく1947年の「ラン・ジョー」だ。この47年には既にルイは大ヒットを飛ばせなくなっていたが、面白い録音はたくさんある。「ラン・ジョー」を貼っておく。トランペットが「南京豆売り」を吹いているよね。

 

 

 

米 MCA 盤『レット・ザ・グッド・タイムズ・ロール:ジ・アンソロジー 1938 - 1953』には収録されていないが、とうようさん編纂の MCA ジェムズ盤『ルイ・ジョーダン 1939-1954』には、同趣向のカリプソ・ジャンプである「プッシュ・カ・ピー・シー・パイ」が収録されている。1949年のレコードだから、ルイ・ジョーダンはかなり見逃されるようになっていたが、この曲は本場トリニダードの感覚に近いし、また曲中「かりぷそ・びばっぷ」と歌っていて、最後のあたりで、実際ビ・バップ風のリフが入るのも面白い。

 

 

 

米 MCA 盤『レット・ザ・グッド・タイムズ・ロール:ジ・アンソロジー 1938 - 1953』には、二枚目の最後のあたりにもう一曲カリプソ R&B みたいな録音があって、それはなんとあの有名な「ジャンコ・パートナー」だ。そう、ニュー・オーリンズ・クラシックスの一つで、ドクター・ジョンも『ガンボ』でやっているあれだ。ルイ・ジョーダンのヴァージョンは1951年録音。クラベスも聴こえる。

 

 

 

さて1945〜46年あたりのビッグ・ ヒット・メイカーだったルイ・ジョーダンに戻って、やはり生涯最大のヒット曲だった46年の「チュー・チュー・チ・ブギ」とか、後年はむしろこっちの方が最も有名なルイ・ナンバーになった同46年の「レット・ザ・グッド・タイムズ・ロール」とかは、聴いたらひたすら楽しくてたまらないだけで、一切のゴタクを並べる気にならない。そういうエンターテイニングな部分こそがルイの本質だった。音源を貼るだけにしておこう。

 

 

 

 

上でも書いたが1940年代末あたりからはレコードがヒットしなくなっていたルイ・ジョーダン。しかし録音した音楽そのものはなかなか興味深いものがある。僕が特にいいなと思うのは、それまでどっちかというとジャズ寄りの音楽をやっていたルイが、51年頃にはかなりヘヴィなフィーリングのリズム&ブルーズに接近していたことだ。そういうのが米 MCA 盤『レット・ザ・グッド・タイムズ・ロール:ジ・アンソロジー 1938 - 1953』に二曲、それとダブらないかたちでとうようさん編纂の MCA ジェムズ盤『ルイ・ジョーダン 1939-1954』に一曲ある。

 

 

それが米 MCA 盤だと二枚目にある1951年の「スロー・ダウン」と「ネヴァー・トラスト・ア・ウーマン」。とうようさん編纂盤24曲目の同51年「ハウ・ブルー・キャン・ユー・ゲット」。三曲ともかなり重たくてディープなフィーリングのリズム&ブルーズで、あんなに賑やかで軽快にはしゃいでいたルイ・ジョーダンだとは思えないフィーリングだ。

 

 

 

「ネヴァー・トラスト・ア・ウーマン」https://www.youtube.com/watch?v=xWEAI01f1PA

 

「ハウ・ブルー・キャン・ユー・ゲット」https://www.youtube.com/watch?v=8FmmG7L_7QQ

 

 

このあたりも B・B・キングがカヴァーしたので、そっちの方でブルーズ・ファンのみなさんはご存知のはず。それにしてもこの時期はもうルイ・ジョーダンはヒット・メイカーではなくなっていて、三曲とも曲調も歌詞も重い内容。失恋や傷心のラヴ・ソングだから、そういった自分はもう売れていないんだという気分を反映していたのかもなあ。でもそうなっていた時期のルイの魅力を再認識させるのに充分な出来の三曲だと僕は思う。

2017/04/24

プリンスのキャッチーなヒット・ポップ・チューンお気に入り三曲

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またプリンスについて書こうと思うのだが、いつもいつも嘆いているようにこの人の音源はネットの音楽共有サイトにほぼ存在できず、ご紹介できない。プリンス本人が生前 YouTube などでの音源共有を許さなかったので、死後もたぶん遺族とレーベルがそれを引き継いでいるんだろう。僕のブログ記事はほぼ全て、文中で言及している曲関連で可能な限り YouTube 音源を紹介しながら書いていく、それを聴いていただいて納得してもらうという、言ってみれば書き手としての責任を放棄した投げ槍スタイルなわけだ。

 

 

そうしなきゃ、音を文章化する能力なんて、僕の場合、極めて大きな疑問符が付いているわけだから、言葉で説明するだけで読み手のみなさんを説得できる自信が全くない。YouTube などにない音源で文中で使いたいものは、したがって全部自分でアップロードする僕。2017年4月19日(にいま書いている)時点で132個ある僕の YouTube チャンネルの音源は、当ブログをはじめて以後、これだけが動機でファイルを作成しアップロードしている。

 

 

そんでもって自分でアップロードした YouTube 音源のリンクを貼りながら自分で書いてブログに上げた自分の文章を読みながら、Mac の前で一人悦に入っているという、なんとも気持悪い人間なんだよね。僕ってまるであれだ、泉の水面に映る自分の姿を眺めてウットリし惚れて離れることができなくなり、死んでしまったという、ギリシア神話のナルキッソスみたいじゃん。気色悪っ!まぁ同時に多くの誤記や事実誤認が見つかって、冷や汗も出ていますけれども。

 

 

とにかくプリンスの音源を YouTube にアップロードできるようにしてもらいたい。(生前の)プリンスは「YouTube 側だけが儲かる仕組になっていて、音楽家本人には一円も行かないから」と言っていた。だから(自分じゃなくいろんな新進若手音楽家の)CD が売れないだろうってことで許さなかったんだろう。でもねえ、これは逆だよ。フリーでどんどん流して聴けた方が CD が売れるのは間違いない。プリンス(側)はここを誤解している。

 

 

「自分のバンドの音楽を YouTube で全部タダでどんどん流してしまうのをどう思うのか?」と聞かれたローリング・ストーンズのミック・ジャガーは、「問題ない。だってさ、聴いてみていい曲かどうか分らなかったら買えないだろう?僕たちは10代の頃、ラジオでいい曲が流れるとカセットテープに録って、それをなんどもなんども聴いてからレコード買いに行ってたぜ」と言っていた。マトモな発想だ。タダで試聴できた方が正規品 CD(や LP や配信) が売れるのだという事実、ミックは分っているが、プリンス(側)は分っていない。

 

 

CDショップ店頭にだって試聴機があって、売りたい話題盤なんかが複数枚それに入っていて聴けるじゃないか(場合によってはブート・ショップでだって)。タダで一枚丸ごと(を聴いた経験は僕はないが)ね。むかしアナログ・レコードでもできた。レコード・ショップ店頭で、もちろん一円もかからず、レコードを試聴できたぜ。いまの YouTube は同じようなもんじゃないか。中身の想像が全くつかないのにどんどん飛び込んでいくなんてのは、変態的熱狂音楽キチガイだけ。それは世の中の音楽好きのごくごく一部でしかない。そしてそんな人はもうたいていみんなプリンスの CD は持っている。大勢の知らない人は買えないよ、プリンス(の関係者)さん!

 

 

文句垂れはここまでにして、今日書きたいプリンスはポップなヒット・チューンについて。以前書いたように、ポップ・スターみたいだったプリンスがディープなファンカーのようになるのが、まず『パレード』から。僕はここからのプリンスこそ一番好きで、それ以前の彼はイマイチだったのだが、最近は『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』(サイケデリック!)までのポップ(なロッカー)なプリンスも本当に大好きになってきた。

 

 

デビュー作1978年の『フォー・ユー』(は案外それ以後のアルバムよりも同時代性があって、ある意味新しいかも)から、メガ・ヒット作84年の『パープル・レイン』を経て、その次作85年の『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』までの七作には、キャッチーで明快なポップ・チューンがたくさんある。なかでもいまの僕が特にこれが大好きでたまらない!というのが三曲。「リトル・レッド・コーヴェット」(『1999』)「テイク・ミー・ウィズ・U」(パープル・レイン』)「ラズベリー・ベレー」(『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』)。

 

 

もちろん他にもいっぱいあって、特にシャカ・カーンがカヴァーした「アイ・フィール・フォー・ユー」(『プリンス』aka『愛のペガサス』)とか、シンディ・ローパーがカヴァーしたオールディーズ・ポップ風の「ウェン・ユー・ワー・マイン」(『ダーティ・マインド』)とかもいいよねえ。でもあれらは彼女たちのヴァージョンの方がよりキュートで、僕は作者本人のものより好き。前者のハーモニカはスティーヴィ・ワンダーだよ。

 

 

 

 

ちょっと周辺事情を付記しておくと、「アイ・フィール・フォー・ユー」が収録されているアルバム『プリンス』がリリースされた1979年には、マイケル・ジャクスンのエピック移籍第一作『オフ・ザ・ウォール』が出ている。あれからマイケルは爆発的ウルトラ・スーパー・スターになって、知らぬ人のいない存在になった。僕はといえば、以前書いたようにその前のモータウン時代の方がずっとキュートでチャーミングだと思うけれどね。しかし二人とももうこの世にいないのか…。

 

 

 

また「ウェン・ユー・ワー・マイン」のカヴァーが入っているシンディ・ローパーの1983年のアルバム『シーズ・ソー・アンユージュアル』は、マイルズ・デイヴィスが晩年最も愛した曲「タイム・アフター・タイム」のオリジナルがあるので個人的に忘れられない一枚だ。しかしそれとは関係なく、全体的にオールディーズ・ポップ風な側面を打ち出した作品だったよね。僕は最初マイルズ関係なく買って、結構好きでよく聴いていた。

 

 

シンディにかんしては、最近、例の2011.3.11の際に来日した時の対応で見直してファンになりなおして、こういう人こそ本当に「大衆の」音楽家だと尊敬するようになった。あの時、避難の意味で帰国する人が多かったのだが、シンディはこういう時こそ私たちが日本のみなさんのために歌わなくちゃいけないのよと言って日本ツアーを続行した。その様子は緊急でネット生中継されて僕も視聴した。シンディ独りがマウンテン・ダルシマー(に見えたが?)で弾き語る「タイム・アフター・タイム」は感動的だったなあ。

 

 

ちょっと横道だった。ファンカーに変貌する前までのプリンスの楽曲のなかで、現在の僕が最も好きなキャッチーなポップ・チューン三曲「リトル・レッド・コーヴェット」「テイク・ミー・ウィズ・U」「ラズベリー・ベレー」。「リトル・レッド・コーヴェット」は、もちろんクルマのことだが、アメリカ大衆音楽におけるクルマ(や馬)は女性のメタファーで、しばしばセクシャルなニュアンスを伴う。

 

 

だがしかしそんな曲「リトル・レッド・コーヴェット」を聴いても、プリンスのいつものお得意分野であるドスケベ・エロエロ路線ではない。その正反対にサラリとキャッチーで、セックスへの「直接的な」言及はなく、松山市在住の熱狂的プリンス・ファンの女性(いつも言及してゴメンね)も、子供と一緒にだって聴けるんじゃないですかね?どうですか?今夜あたり聴いてみては?

 

 

なんたってあの「り〜るれっこ〜ゔぇっ!」っていうリピートされるフックがキャッチーなことこの上ないもんね。あれがあるからポップさが極まっていて、聴いていて楽しい。さらに、まず最初シンセサイザー(薄いドラム・マシンの音もあるが)のサウンドだけに乗ってプリンスが歌いはじめ、一節歌うと本格的にドラムス(は打ち込み)が入ってきてビートが効きはじめ、キメのフックをコーラスしたり、エレキ・ギターを弾いたり 〜 このパターンはプリンス常套の創り方。

 

 

といっても僕の最も好きなプリンス・ポップの他の二曲「テイク・ミー・ウィズ・U」と「ラズベリー・ベレー」はこのお馴染パターンではない。前者ではまずドラマーのスネアとタム連打(とシンセサイザー)から入っている。ストリングス(は生の弦楽器に聴こえるが?)もある。後者も打ち込みドラムス・サウンドがドンドン鳴っている最中にプリンスが「ワン!トゥー!、ワン!トゥー!スリー!」と叫び、ストリングス(はやはりシンセか?)のサウンドも入ってきて、歌いはじめる。

 

 

「リトル・レッド・コーヴェット」「テイク・ミー・ウィズ・U」「ラズベリー・ベレー」三曲とも、僕が一番好きなのは、三曲ともそのまま曲題になっているキメのフック部分を女性サイド・ヴォーカリストとハモったりユニゾンで一緒に歌う部分。それは「リトル・レッド・コーヴェット」ではリサとデズ、「テイク・ミー・ウィズ・U」ではアポロニア、「ラズベリー・ベレー」ではウェンディとリサであってる?

 

 

「り〜るれっこ〜ゔぇっ!」のことは書いたけれど、「ていくみ〜うぃじゅっ!」も「ら〜ずべりべれっ!」の女性バック・ヴォーカル陣とのコーラスもすんごくキャッチーでポップ。そして僕がこれら三曲が本当にカワイイなと思うもう一つの理由は、これら三つともティーネイジ・ロマンスを歌った内容だからだ(「リトル・レッド・コーヴェット」はセクシーなニュアンスがあるが)。プリンスって、あんなドエロ路線があったかと思うとこんな純朴な少年っぽい内容もあったりして、振れ幅が大きいね。まあ当たり前にみんなそうだが。

 

 

そしてそれら三曲の大好きなポップ・チューンのなかでも、今年2017年に入った頃からの僕が最も愛好し、最も頻繁に繰返し聴くのが『パープル・レイン』の「一緒に連れてってぇ」なんだよね。なんてキュートなんだろう。歌詞も曲調もアレンジもサウンドもリズムも、全部最高にポップだしノレるし踊れるし、文句なしだなあ。かなり小さい音でチョロッと刻んで入るアクースティック・ギターも効果的だ(プリンスやストーンズはよくやる手)。

 

 

「どこへ行こうとかまわない、なにをしようとかまわないからさ、ただ君と一晩一緒に過ごしたいだけなんだ、だから一緒に連れてってぇ〜」と歌うプリンスとアポロニア。これは、ミック・ジャガーが歌うローリング・ストーンズの「レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー」にかなり似ているね。夜を一緒に過ごそうよは、しかしストーンズもプリンスも、ピュアでイノセントなんかじゃなくて、やっぱり R-18 じゃないか。

 

2017/04/23

歌手は歌の容れ物(その4)〜 ジャズ楽器奏者篇

 

 

 

 

一切誰にも頼まれていないのに、僕が勝手に自分でシリーズ化して自分だけが得意満面のいままで三回は全てヴォーカリストの話だった。今日はジャズ楽器奏者について似たようなことを書いてみたいと思う。しかしこう言うと、<歌の容れ物>みたいになれるのはポップ・シンガーの場合であって、ジャズ楽器奏者は原曲のメロディを崩しまくるどころか、自在なアド・リブを展開するのこそが命の人たちなんだからありえないというのが普通の感覚だろう。

 

 

最近の僕は、というよりも実はわりと早く大学生の頃から、ジャズについてだけ、似たような発想があった。それはジャズ・メンがやりたがるウィズ・ストリングスもののことだ。ああいったものはシリアスなジャズ・ファンや専門家のあいだでは「極めて」評価が低かった。極めて低いなんてもんじゃない、ほとんどとりあげられすらもしないような具合だった。大学生の頃からこりゃオカシイぞと僕は感じてきたんだよね。

 

 

ジャズ・メンがやったウィズ・ストリングスもので最も有名なのは、チャーリー・パーカーのものとクリフォード・ブラウンのものだろう。前者は1947〜52年のヴァーヴ録音、後者は55年のエマーシー録音で、どっちも『〜〜・ウィズ・ストリングス』のアルバム名でリリースされている。僕はどっちも素晴らしいとむかしから思っているのだが、その頃までのほとんどのジャズ専門家はクソミソに貶すだけ。

 

 

それでも一般のジャズ・リスナーまで同じだったかというとそんなこともなく、弦楽器アンサンブルのサウンドが好きで、流麗なその響きに乗ってバードやブラウニーがスタンダード・バラードを美しく吹くそれらのアルバムの愛好家は、僕だけじゃなく、かなりたくさんいたという実感がある。しかしながら、あれらは全て<駄盤>だとする専門家の言説が流布していて影響力を持っていたので、好きだとおおっぴらに言いにくかっただけだ。だから愛好家はみんな地下に潜伏して話をしていた。

 

 

さすがに専門のジャズ・ライターさんで、いまでもそういう故粟村政昭さんみたいなことを言う人は、一部例外を除き残っていないように見えるのだが、厄介なのはそういった過去の文章はいまでも、特に比較的お若い方で、1940〜60年代のジャズを最近聴きはじめた人たちのあいだでこそ読み継がれていて、結構信じられているみたいなんだよね。

 

 

僕たちの世代は以前からそんな文章をたくさん目にしてきて、おおやけには言えないものの内心は、これほど美しい音楽を<駄盤>の一言で切り捨てる(のは実は粟村さんだけだったが)ことのできる神経なんて、これっぽっちも理解できないぞ、本当はあなたの音楽的感受性になにかが決定的に欠けているんじゃないでしょうか?という気分で(が、それを粟村さんに向かって言えないだろう?)ウンザリだったのだが、モダン・ジャズを最近聴きはじめた人たちにそんな気分はないはずだから、そのまま鵜呑みにしちゃうんじゃないかな。

 

 

それにはっきり言うがいまだって、専門のジャズ・ライターさんたちが『チャーリー・パーカー・ウィズ・ストリングス』や『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』を激賞し、どこがどういいのか詳細に書いている文章にはお目にかかれない。極端にひどい悪口も言われなくなったかわりに、なかなか褒められもしないので、やっぱりああいうウィズ・ストリングス・アルバムの真価が(一部を除く)ジャズ・リスナーのあいだに伝わっていないかもしれない。

 

 

そこで今日僕が…、なんて大それたことのできる能力も気持もないが、少し書いておきたいのだ。それらのジャズ・メンがやったウィズ・ストリングス・アルバムがどれほど素晴らしいものなのかということをね。影響力ゼロの僕みたいな素人がいくら賞賛の言葉を重ねようと、ファンが増えるなんてわけないだろうけれど、長年の鬱憤を吐き出してウサ晴らしをしておきたい気持ちもあってさ。

 

 

ウィズ・ストリングスものをやったジャズ・メンは、もちろんバードとブラウニーだけでない。ディジー・ガレスピーのもの(1952年『ディジー・ガレスピー&ヒズ・オペラティック・ストリングス・オーケストラ』その他)や、スタン・ゲッツのもの(61年ヴァーヴ盤『フォーカス』)も有名だし、あるいは比較的最近なら、復帰後1980年のアート・ペッパー『ウィンター・ムーン』や、84年ウィントン・マルサリス『ホット・ハウス・フラワーズ』もあって、全て悪くないと思う僕は、単にストリングス・サウンドが好きなだけってことなんだろう。

 

 

だが『チャーリー・パーカー・ウィズ・ストリングス』と『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』、特に後者ブラウニーのものが一番傑出していると僕が考えている最大の理由は、このトランペッターがまさに<歌の容れ物>になっているという部分にあるんだよね。このアルバムでのブラウニーは全く一切アド・リブ・ソロを吹いていない。収録の12曲全てがスタンダード・バラードだが、その原曲の美しいメロディをそのままストレートに歌い上げる(吹き上げる)だけなのだ。

 

 

一切アド・リブ・ソロを吹かないというこの点も、ストリングス・サウンドは甘ったるく、安易で不必要なコマーシャリズムに堕すものだという勘違いと一緒になって、『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』が駄盤扱いされてきた大きな理由に違いない。そりゃそうだろう、だってソロを吹かないジャズ楽器奏者の作品なんてねえ、評判が悪いに決まっている。

 

 

全人類共通の認識だが、ブラウニーは自由自在で奔放なインプロヴィゼイションを駆使できまくる才能が最高級だったジャズ・トランペッターだ。ジャズ・トランペット全録音史上、彼を上廻っていると判断できるのは、1920年代後半のルイ・アームストロングだけ。それほど20年代後半のサッチモ(がナンバー・ワン)と50年代半ばのブラウニーはものすごかった。そりゃもうなんでも自在に即興演奏できて、しかもその即興メロディが、あたかもあらかじめ作曲されていたかのような完璧な構築美に聴こえるもんなあ。

 

 

そんなジャズ・マンだったブラウニーが一切アド・リブ・ソロを吹かず、美しいストリングスの流れるような響きに乗せて、スタンダード・バラード原曲のメロディをフェイクせず、ただひたすらその原曲の美しさをそのまま表現しているだけだっていう、そんなアルバムを創ったのだっていう、この事実の意味を一度真剣に考えてみてほしい。

 

 

いや、別になんらかの深い意味なんか考えなくたって、『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』を一度でも虚心坦懐に聴いてみれば、<普通の>音楽愛好家であれば、そのサウンドの美しさに降参するはず。こりゃもうたまりませんとなってしまうはずだ。それほどの美しさを、このアルバムのブラウニーのトランペットは表現している。

 

 

もしまだお聴きでない方のために、『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』からちょっとだけ参考音源を貼っておこう。書いているようにアルバムの全12曲がことごとくスタンダード・バラードなんだけど、なかでも特にブラウニーのトランペット・サウンドが絶品の音楽美を表現していると僕が思っている二曲を。

 

 

 

「ポートレイト・オヴ・ジェニー」https://www.youtube.com/watch?v=-_CEARXm9-U

 

 

これら二曲を、予備知識なしで誰か(面倒くさいことを言わない)音楽好きに聴かせれば、全員がノック・アウトされ、なんて美しい吹き方ができるトランペッターなんだと感動するはずだ。実はわりと最近、三週間ほど前かな、ジャズ・メンがストリングスと共演したものがダメだという評価はオカシイとツイートするサム・クック狂(本当にキチガイなのだ ^^)の方と話をしていて、しかしブラウニーのはまだ聴いていないと言うので、上掲二つの音源を貼ってご紹介した。そうしたらその方は涙を流さんばかりに猛感動し(は大袈裟だが)、その日のうちに速攻で『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』を買ってくれた。

 

 

そういうのが普通の音楽愛好家の耳、正常な判断と言動だぞ。僕の方はソウル・ミュージックのことをたくさん教えていただいているそのサム・クック狂の男性音楽ファンの方には言わなかったのだが、『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』がそんなにも美しく仕上がっている最大の理由は、ブラウニーが<歌の容れ物>と化して、原曲メロディの美しさに手を加えずフェイクせずアド・リブ・ソロもやらず、ただひたすらとりあげているスタンダード・バラードが元から持っている魅力をそのまま伝えてくれているからじゃないかと、僕は思うんだよね。

 

 

上で「ローラ」「ポートレイト・オヴ・ジェニー」の二つだけ音源を貼ったけれど、『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』は全編がこんな具合なんだよね。甘美なバラード(含むトーチ・ソング)を、フランク・シナトラとの仕事もある名アレンジャー、ニール・ヘフティのアレンジしたストリングス・サウンドに乗せて、ブラウニーがそのまま、ひたすら美しく吹いているだけ、本当にただそれだけの至福の約41分間。

 

 

最初にリンクを貼った三つのうち二番目の岩佐美咲の記事でも書いたが、原曲の持つその優れたところをフェイクせずそのまま素直に歌って、曲自体の持つ魅力をストレートに聴かせてくれる 〜 そういうのこそが真の意味での「良い歌手」なんじゃないのかなという、この僕だけじゃない大勢のみなさんの捉え方は、普段はフェイクしまくって自由自在に即興ソロを演奏するジャズ楽器奏者にも当てはまることなのかもしれない。そういうやり方が実は一番難しいからね。ましてや変えないとダメだというようなジャズの世界だったら、なおさら一層難しい。

 

 

普通、ジャズ楽器奏者は、そんな<歌の容れ物>的な世界とは正反対の世界で生きている人たちだと思われている。原曲を崩さずそのまま演奏したりしたら、アド・リブ・ソロがなかったりなんかしたら、そうか、できないんだなとたちまち失格の烙印を押される。クリフォード・ブラウンだって普段は奔放なインプロヴィゼイションを展開している。そしてそうする時の、いつものブラウニーは、ジャズ史上一・二を争う最高級の腕前だ。だからこそ、それほど素晴らしい楽器奏者だからこそ、ひるがえってフェイクなし、アド・リブなしのストレート表現、すなわち<歌の容れ物>的表現をした時に、聴き手を激しく感動させられるんじゃないかな。

 

 

そしてそういうことができるジャズ・メンこそ真の実力の持主だと言えるんじゃないかと、最近の僕は考えはじめているのだ。パティ・ペイジ、鄧麗君、岩佐美咲のようなヴォーカリストたち同様にね。ジャズ楽器奏者が、ファンならみんな知っているスタンダード・バラードを、みんな知っているそのままのメロディのまま演奏するなんて、真の実力と、そして相当な勇気がないとできない。クリフォード・ブラウンの素晴らしさは、『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』みたいな作品でこそ、実はものすごくよく分るのだ。

 

 

あぁ、こっちも素晴らしいと思う『チャーリー・パーカー・ウィズ・ストリングス』や、案外悪くないと僕は思っているウィントン・マルサリスのウィズ・ストリングス・アルバム『ホット・ハウス・フラワーズ』(僕の愛する「星に願いを」があるし、サッチモの得意曲だったからやったに違いない「アイム・コンフェッシン」もあるし、また「スターダスト」もあるからブラウニーのウィズ・ストリングス・ヴァージョンと比べると面白いし)の話は、ちっともできなかった。

 

 

とにかくですね、音楽は出来上がりが美しいかどうか?〜 この一点のみで判断していただきたい。

2017/04/22

真の「クールの誕生」はプエルト・リコにあり

Unknown









ジャズしか聴かない音楽リスナーは、<クール・サウンド>と言われたらまず真っ先にマイルズ・デイヴィスの『クールの誕生』だよね。そのしばらくあとにアメリカ合衆国西海岸で流行する白人ジャズもかな。ひょっとしてそれだけだろうか?マイルズのそれの初録音は1949年だが、実は同じものがその10年以上前にあったのだ。録音もいちおうアメリカ合衆国内で行われていて、さらに曲とアンサンブルを書いたのはプエルト・リコ人だ。

 

 

プエルト・リコという島国には特にこれといった産業もなく、しかもスペインの支配下から19世紀後半にアメリカ合衆国が領有権を奪い取って以後、現在までも合衆国の事実上の一部。未編入ながら合衆国の自治連邦区(Commonwealth of Puerto Rico)であって、だからプエルト・リコ生まれの人はみんな合衆国の市民権を持っていて、実際大陸に渡って仕事をする人が多い。

 

 

音楽家もそうで、プエルト・リコで生まれても、ある時期までのラテン音楽の拠点だったニュー・ヨークに渡ったり、そもそも最初からそこで生まれ育って音楽をやるようになったプエルト・リコ系が多い、というかほとんどそうじゃないの?僕は一部を除きプエルト・リコ音楽についてはあまり知らないという状態で、ニュー・ヨーカーであるプエルト・リカンのティト・プエンテだけはそこそこ聴いているつもりだが、ティトの場合アメリカ国内での人気があまりにも高く、ラテン・ロッカーなど、特にサンタナが何曲もカヴァーしているので、もちろん僕も、そして多くの音楽好きも知っている。

 

 

あとは以前書いた、やはりニュー・ヨーク生まれのプエルト・リコ系歌手ビルヒニア・ロペスとその他何名か、さらに1970年代以後のサルサ・ミュージックもいちおうプエルト・リコ系が中心なので少しは聴いているが、まあこの程度だなあ、僕の知るプエルト・リコ(系)音楽は。ブーガルーなんかもニュー・ヨーク+プエルト・リコみたいなダンス音楽だけど、流行時期が極めて短く一過性のものでしかなかった。

 

 

ところがオフィス・サンビーニャが2002年にリリースした CD アンソロジー『歌の国プエルト・リコ〜エルナンデスとフローレスの世界』で、僕はビックリしちゃったのだ。アルバム題通りラファエル・エルナンデスとペドロ・フローレスという二人のソングライターだけに焦点を当てたもので、コンパイラーは中村とうようさん。この二名の曲をちゃんと聴いた最初がこのアルバムだった。

 

 

『歌の国プエルト・リコ〜エルナンデスとフローレスの世界』収録曲のなかには、2002年以前から知っていたものがほんのちょっとあって、なかでもラファエル・エルナンデスの書いた「ボリンケン哀歌」は、1990年代後半にブラジルのカエターノ・ヴェローゾが歌ったので馴染があったし、そうでなくたってエルナンデスは、ラテン音楽愛好家だけではなく広い人気を持つ人なので、他にも知っている曲があった。

 

 

だがしっかりちゃんと聴いたのは、やはり2002年の『歌の国プエルト・リコ〜エルナンデスとフローレスの世界』が最初だった。ラファエル・エルナンデスもペドロ・フローレスもプエルト・リコ生まれだが、最初に書いたようにアメリカ合衆国に渡りニュー・ヨークで仕事をしている。その後プエルト・リコに帰島しているようだが、二名ともやはりニュー・ヨーク時代が最も輝いていたんだろう。

 

 

さて、問題は『歌の国プエルト・リコ〜エルナンデスとフローレスの世界』の三曲目「くちなしの香り」(Perfume De Gardenias)だ。曲も歌詞も書いたのはラファエル・エルナンデスで、演奏はカルテート・ビクトリア。歌はダビリータとラファエル・ロドリゲス。「くちなしの香り」はまままあの有名ナンバーなので、僕だって知っていたし、YouTube で探すと実にいろんなヴァージョンが上がっている。だが、『歌の国プエルト・リコ〜エルナンデスとフローレスの世界』収録の1935年9月20日録音が最高にクールなんだよね。

 

 

 

お聴きになって分るように甘美なボレーロ。男性歌手二名のデュエットは、ハイ・ピッチの張りのある声がダビリータ、太くて渋い声がラファエル・ロドリゲス。さあ、聴きどころはそのヴォーカルの背後、あるいはそれが出る前から演奏しているホーン・アンサンブルだ。(たぶん二本の)トランペットはカップ・ミュートを付けて吹いており、フルート(も二本?)&クラリネットの複数木管がソフトかつ軽快にスタッカート気味でリフを入れている。

 

 

繰返し強調するが、これは1935年の録音だよ。それでここまでソフィスティケイトされたクールな管楽器アンサンブルを書いた人がいたとは、僕の場合、2002年に『歌の国プエルト・リコ〜エルナンデスとフローレスの世界』収録の「くちなしの香り」を聴くまで、ま〜ったく知らなかったね。1930年代のプエルト・リコ人作曲家がどれほど高度に洗練されたアレンジ作法を身につけていたかの証拠だ。

 

 

1935年というと、これを書いたラファエル・エルナンデスが当時活躍していたアメリカ合衆国のジャズの世界でも、こんなにオシャレで洗練されたクールなホーン・アンサンブルは聴けないもんなあ。エルナンデスはこれ一曲だけじゃない。『歌の国プエルト・リコ〜エルナンデスとフローレスの世界』で聴くと、同じようなのが30年代半ば〜40年代初頭にいくつもある。このアルバム四曲目の「キッスはたくさん」(Mucho Besos)も、五曲目の「春」(Primavera)も、六曲目の「恋狂い」(Locura De Amor)も、だいたい全て(たぶん二本の?)トランペットはミュートを付けて吹き、と同時にフルート&クラリネットの木管が柔らかくスムースでスタッカート気味のリフを演奏し、曲全体のイメージが最高にクール!

 

 

そんなエルナンデスの作曲法を、同島の後輩ソングライター、ペドロ・フローレスも受け継いでいて、『歌の国プエルト・リコ〜エルナンデスとフローレスの世界』にもそういうクール・アンサンブルが何曲もある。アルバム収録順に言うと、9曲目の「君はぼくのもの」(Tú Serás Mía)、10曲目の「最後の別れ」(El Ultimo Adiós)、11曲目の「オルガ」(Olga)などは、フローレスの書いた素晴らしいクール・サウンドだ。

 

 

それら1941年録音のフローレスのボレーロ・ソングでも、フルートとクラリネットのユニゾン・リフ、あるいはクロス・ハーモニーに、カップ・ミュート付きトランペットを配するというアンサンブル手法で、35年のラファエル・エルナンデス「くちなしの香り」あたりからはじまるプエルト・リコ独自のオシャレでクールなサウンドが、41年のフローレスで最高潮に達しているような印象。

 

 

プエルト・リコの音楽は、『歌の国プエルト・リコ〜エルナンデスとフローレスの世界』で聴いても、 おそらくはキューバ音楽から影響を強く受けているのは間違いないように思うのだが、ラファエル・エルナンデスが開発したようなクール・アンサンブルは、1930年代のキューバに存在しないはず。複数のヴォーカリストが対位法的にハモったり、今日書いたようにミュート・トランペット+複数木管のソフトで軽いアンサンブルなんて、どこから思いついたんだろうなあ。

 

 

ラファエル・エルナンデスやペドロ・フローレスがこういったアンサンブルを書いて活躍したアメリカ合衆国では、ジャズの分野において、ようやく1940年代半ばになってから、クロード・ソーンヒル楽団のアレンジャーだったギル・エヴァンスがクールでソフトなホーン・アンサンブルを書きはじめ、それを三本程度の管楽器というコンボ編成でやるというのを、1948年にマイルズ・デイヴィス(たち)がやった。

 

 

だが、プエルト・リコ人であるとはいえ、同じアメリカ合衆国内でその10年以上前から同種のアンサンブルがしっかり存在していたんだってことになるんだなあ。それも白人インテリ層向け(である場合が多い、マイルズ・ミュージックは)の実験的室内楽などではなく、一般の貧乏庶民向けの娯楽品である甘いボレーロで実現していたんだよね。

 

 

『歌の国プエルト・リコ〜エルナンデスとフローレスの世界』で聴けるラファエル・エルナンデスやペドロ・フローレスという二名のソングライター(彼らは曲も歌詞も一人で書いたこもあり、作曲家というよりソングライターだ)の持味や特徴は、甘美なボレーロのなかでクールなホーン・アンサンブルを書いたということだけじゃない。それどころかそれはほんの一部の表面的なことで、面白いことが他にもいっぱいあるが、今日はクール・サウンドのことだけを言いたかった。

 

 

というのは、『クールの誕生』で聴けるマイルズや、ギル・エヴァンス(やその他のアレンジャーたち)の目論見は、<クール>というレッテルが貼られ、しかもそれの<誕生>とされたので、アメリカでも日本でもいろんな人がいろんな(否定的な)ことを言うのだが、彼らは緊密なアレンジで柔らかくて軽いタッチのソフト・サウンドをちょっとやってみたかった 〜要するにこれだけだと僕は前から思っていて、あのアルバムはかなり好きだ。しかしじゃあそれは同じ国のなかで10年以上前にプエルト・リコ人ソングライターが同じことをやっていたということになるじゃないか。

 

 

さあ、マイルズ・ファン、ジャズ・リスナーのみなさん、どうします?

2017/04/21

ありえないマイルズ・ライヴが夢に出てくる

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今日もまた音楽内容には触れず、みなさんにとってはどうでもいいような僕の個人的な夢の話をしようと思う。というのは、最近なんだかどうも頻繁に見る夢なので気になって仕方がないのだ。目が覚めても夢の内容をわりと鮮明に憶えていることの多い僕としては、ちょっと書いておかないと気持の整理がつかない。

 

 

それはマイルズ・デイヴィスのライヴ・コンサートに行くという夢で、場合によって会場に到着する前までの道程の風景だったり、またある場合はステージ上で繰広げられるコンサートの模様だったり、あるいはその両方だったりと様々なのだが、全ての夢に共通しているのは、どれも1981年復帰後のマイルズ来日公演だということ。

 

 

な〜んだ、それだけのことか、君はマイルズ・マニアで、1981年復帰後の来日公演にはかなり足繁く通ったみたいじゃないか、だったら夢に出てくるのは当たり前じゃないか、しかもその眼で生のマイルズを観たのはその復帰後だけで、マイルズをリアルタイムで経験した唯一の時期なんだから思い入れがあるはずだし、そんな81年復帰後のマイルズ来日公演が夢に出てくるのは当然だよ…、と思われるだろう。

 

 

ところが、ここ半年か一年近くかな、僕の夢のなかに出てくるマイルズ・ライヴは、全て「行ったことのない」マイルズ・ライヴなのだ。1984年に東京に出てきて以後、85年の来日公演からあとは、東京公演分には「文字通り全て」行って生演奏を経験した僕なので、もちろん東京以外の場所でのものは知らないが、「行ったことのない」マイルズ来日公演が夢に出てくるとは、やはりちょっと妙だという気がする。

 

 

しかもですね、場合によっては亡くなった1991年以後のものだとしか思えない(ってどこで判断してんだ?)マイルズ・ライヴの夢であることすらある。みなさんご存知の通りマイルズは91年9月28日に亡くなっている。それなのにそれ以後の来日公演みたいなものが夢に出ることがあるって、これ、いったいどういうことなんだろう?

 

 

その1991年マイルズ死去後のライヴだろうと思われるものが僕の夢に出てきたのは一度だけ。半年くらい前だったか、もうちょっと前だったかそのあたりで、中身はやはりかなりおかしなものだった。残っている記憶で記すと、マイルズは亡くなった(とされている)が、実は生きていて、いわば<幻の>来日公演が今回実現します!とかなんとか、そんな PR を目にして狂喜乱舞した僕。

 

 

それでいざ会場に足を運ぶと、そこは、僕が松山での大学生時代にたまに行くことがあった場末のポルノ映画館で、しかしながらそこへ行く道すがらは、二度ほど観光旅行で行ったことがあるイタリアはローマの風景に間違いなく、なんだったんだありゃ?現場会場に到着したら立派な外装で、マイルズのライヴが行われることが賑々しく掲げてあったのに、なかに入ると、そこは松山のしょぼくれた場末のポルノ映画館。

 

 

その夢の時は、マイルズが出てくる前にステージに幕が降りていて(そんなコンサートはマイルズで体験したことはない)、開演ブザーが鳴って幕が上がると、しかしやっぱりなんだか半透明か薄い白のヴェールみたいなものが垂れ込めていて、そこにマイルズだと思しき人物がトランペットを構えた姿で映し出されている。まるで3D 技術で、亡くなった人をスクリーンに映して、そこに生演唱をかぶせるという、最近なら時々あるパターンのようにも思えた。

 

 

それを観ながら僕は「あぁ、そりゃそうだ、マイルズはもう死んだんだぞ、こんなやり方しかできないだろうな」と納得しつつ、しかしそれでもやっぱりオカシイ部分もある。正式名称をなんというのか知らないその3D 技術でスクリーンに死んだ人が(生前に撮影した)歌ったりする姿と音と、現場での演唱と合体させるっていう例のやつ 〜 それだとするとヘンなのだ。

 

 

どこがかというと、その技術を用いた場合、亡くなっている音楽家の(歌や)演奏だってフル展開できているはずなのに、僕がその松山の場末のポルノ映画館みたいな会場で体験した夢のマイルズ(死去後)ライヴでは、肝心のボスはほとんどトランペットを吹かない。しかもスクリーンに映し出されているようでもなく、幕の後ろ側に立ってぼんやりとおぼろげな姿を見せているだけ。ほとんどいるのかどうかすらも分らない程度。

 

 

そしてバンドの音が鳴りはじめてしばらくすると、マイルズと思しき影は、ちょろっと一音・二音吹いたかと思うとクルッと回転し客席に背中を向けてしまい、その後はまったくなにもやらない。トランペットを吹かずキーボードも弾かず、ただぼんやりと幻の影のような姿が見えて、しかし格好だけはつけている。

 

 

念のために付記しておくが、実体験したものでも音源だけでも聴いても、1991年に亡くなる直前でもマイルズの現実のライヴではそんなことはなかった。まあはっきり言ってしまうと、トランペットの方は不意に音を外すことも多く、ソロだって満足のいく出来のものは少なくなっていた。88年あたりを最後にどんどんとそんな悪化を続けていて、最後らあたりは聴くに耐えない様子だったが、それでも一生懸命に吹いていたもんね。

 

 

松山の場末のポルノ映画館みたいな会場で体験した(死去後の?)マイルズ・ライヴは、そんな現実の姿とは全く違って、とにかく薄い幕が降りているせいで姿だってよく見えないし、演奏に至ってはほとんどなにもせず立ち姿のポーズだけカッコよく決めているというような具合で、なんだこりゃ?と思いつつ席に座っていると、ほんの15分か20分程度で終演になってしまった。

 

 

こりゃ詐欺じゃないかと腹が立ったのかというとそうでもなく、なんだかワケの分らないモノを観た・聴いたという非常に不思議な感慨だけが残り、目が覚めてその憶えている夢を思い出して、あぁ、そうかマイルズはもうこの世にいないんだよなあ、あんな感じのライヴ・ステージって、それでも、あんなかたちの詐欺みたいなものであっても、やっぱりまだ僕は高額を払っても体験したいという気持があるのかと、半日くらい我ながら呆れてしまった。

 

 

その呆然とした気持はどこにも持っていきようがないものだから、それで忘れられずいまでもそこそこ鮮明に憶えている夢なのだ。ところで、ライヴ・コンサートで主役がほとんどなにもせず、バンドの演奏開始後ちょろっと楽器を触ったかと思うとクルリと回転し客席に背を向け、そのまま一曲終わってしまうというのは、僕の場合現実生活でも、東京国際フォーラムでのヒューバート・サムリンで実体験した。

 

 

だからひょっとして夢に出てきたあのマイルズ・ライヴは、ハウリン・ウルフ(黒人ブルーズ・マン)の右腕として長年活躍したヒューバート・サムリンの来日公演で体験した、そんな姿がマイルズに重なっていたんだろうか?しかもそのマイルズの幻のライヴがほんの15〜20分程度というのは、往時のビートルズのライヴみたいなものか?みなさんご存知のはずだけど、爆発的スーパー・スターになってからのビートルズのライヴは、ステージに出ていってその程度で終ることもあったらしいね(と解散後のジョージ・ハリスンがかつて言っていた)。

 

 

また、マイルズ・ライヴが僕の夢に出てくる場合、会場到着前までで終るものもなんどかあって、記憶では全て特にマイルズ・ファンではない女性音楽リスナー(その時々によって変わる複数人)を誘ってのもので、会場に到着するまでの道すがらで起きるいろんなことや会話を楽しんでいるというようなものが多い。そのなかで一つ、最も鮮明に憶えている約一ヶ月半ほど前の夢があるんだが、なにが起きていたのかを記すのは面倒くさいような風景だった。ちょっとだけ書くと、当時僕が住んでいたマンションから最寄駅である京王線のつつじヶ丘の駅舎まで歩いていく道中での出来事だった。

 

 

その他僕の夢にはマイルズ・ライヴ関連がかなりたくさん出てきているが、しかしそうなったのは、時期的に早くても一年前くらいからのことで、それ以前は全くそんな夢は見なかったのはなぜだ?1991年に亡くなったマイルズで、その前89年の来日公演までは、81年の復帰後実に頻繁すぎるほど通った彼のライヴ・コンサート。それが非常に妙ちくりんなかたちになっているとはいえ、僕の夢のなかに登場するようになるまで20年以上かかっている。そんなものなのかなあ?

 

 

ちなみに映像なしで音だけのマイルズの夢であれば、大学生の頃からよく見ている。大学三年生の時には『ビッチズ・ブルー』のアルバム・タイトル曲にあわせ、僕が(どうしてだか)アクースティック・ギターを弾く音がしていた。この手の音だけの夢ならマイルズに限らずいろいろと、それもかなり前からよく見るんだよね、僕は。

 

2017/04/20

ブルーズ史上最重要人物の一人ビッグ・ビル・ブルーンジーもちょっとだけ

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アメリカ北部の都会(特にシカゴ)において、ジャズ・バンドやピアノの伴奏でやる1920年代の女性ブルーズ歌手たち、おそらくそのルーツであったろう南部のカントリー・ブルーズ、20年代末〜30年代に成立するシティ・ブルーズ、そして、その後電化バンド形式でやるモダン・ブルーズ 〜 これらの端境期、移行期において、というかそれら四つの真ん中あたりで非常に大きな役割を果たした重要人物が、リロイ・カーとタンパ・レッドとビッグ・ビル・ブルーンジーの三人。しかもこれら三者は関係があるようだ。

 

 

リロイ・カーとタンパ・レッドについては以前から書いているし、単独でもそれぞれ一度ずつ少しだけ詳し目に書いたので、今日はビッグ・ビル・ブルーンジーだ。がしかし僕の場合、タンパ・レッドの時に書いたことと完全に同じことがビッグ・ビルについても当てはまる。すなわち重要性に気づくのがあまりにも遅く、したがってオーストリアのドキュメント・レーベルがリリースしている(ホントここばっかりだな!)クロノロジカル全集を持っておらず、申し訳程度の CD 二枚組アンソロジーを一つ持っているだけだ。

 

 

こりゃおかしいね。ブルーズは基本的にギター・ミュージックであるにもかかわらず(アメリカ深南部においてそういうかたちで成立したわけだから)、ピアニストのリロイ・カーだけは早くから重要存在だと知っていて、ドキュメントの完全集もリリースと同時に買ったのに、ギタリストのタンパ・レッドとビッグ・ビル・ブルーンジーはしっかりとは持っていないんだなんて。

 

 

普通みなさん逆だよねえ。一般的にはリロイ・カーなんかよりビッグ・ビル・ブルーンジーの方がはるかに知名度も人気もあって、まあそれは第二次世界大戦後のフォーク・ブルーズ・ブームで脚光を浴びて、ヨーロッパ公演なんかもやってやはり喝采を浴びて、UK (ブルーズ・)ロッカーたちもみんなビッグ・ビルが好きで、そのレパートリー(ことに「キー・トゥ・ザ・ハイウェイ」)をみんなカヴァーしていたせいだけどさ。

 

 

僕もレッド・ツェッペリンが洋楽入門だったんだから、ビッグ・ビル・ブルーンジーに早くから注目していてもよさそうなものだったのに、名前だけ知っていて音源も少しだけ聴いていたものの本格的にはディグせず、なぜだかリロイ・カーに行ってしまった。ツェッペリンに「イン・ジ・イヴニング」という曲がある(『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』)せいなのか?関係ないだろうなあ。

 

 

そんな具合でビッグ・ビル・ブルーンジー名義の単独アルバムで僕が持つのは『ジ・エッセンシャル』という二枚組ベスト盤だけで、全35曲。それにくわえ、戦前ブルーズ・アンソロジー各種、というかはっきり言うと例の『RCAブルースの古典』と Pヴァインの『戦前ブルースのすべて 大全4CD』からビッグ・ビルの録音を拾って、一つのプレイリストにしてある。

 

 

ここからがタンパ・レッドの時と少し違うんだけど、ビッグ・ビル・ブルーンジーの場合、単独名義盤も二枚組で、上記二つのアンソロジーにも少しあるばかりか、他の二つのアルバムに録音が収録されているので、それもビッグ・ビル名義のプレイリストにまとめると、そこそこの数にはなる。その「二つのアルバム」とは、重要度の高い方は後廻しにすると、まず今年頭だったか昨年暮れだったかにリリースされた CD四枚組の『ミシシッピ・ジューク・ジョイント・ブルーズ:クラークスデイル、ミシシッピ、セプテンバー、9th、1941』。これにビッグ・ビルが四曲ある。

 

 

この『ミシシッピ・ジューク・ジョイント・ブルーズ:クラークスデイル、ミシシッピ、セプテンバー、9th、1941』というアルバムがいったいなんなのか言いたくて仕方がないが、別の機会にしないと途方もない長さの文章になってしまう。ちょっとだけ書くと、これは必ずしもブルースばかりではない、というかむしろ圧倒的にジャズだ。1941年9月9日のクラークスデイルの、とあるジューク・ジョイントで流れた音楽をそのまま収録したもの。すなわちいわばプレイリストなのだ。

 

 

もっとはるかに重要なのが、例の『フロム・スピリチュアルズ・トゥ・スウィング』コンサート・イヴェントの録音ボックスだ。なんたって僕の場合ビッグ・ビル・ブルーンジーは、ジョン・ハモンドが企画したこのコンサート・イヴェント収録盤で初めて名前を知ったのだ。あの1938年のカーネギー・ホール・コンサートでのジョン・ハモンド最大の眼目は<伝説の>ブルーズ・マン、ロバート・ジョンスンを出演させることにあったのだが、亡くなっていることが判明し、「代役」として出演したのがビッグ・ビルだった。翌39年の同コンサート・イヴェントにも出演し、それで一躍彼の名が知られることとなった。

 

 

現行の『フロム・スピリチュアルズ・トゥ・スウィング』CD ボックスでは全部で三曲聴けるビッグ・ビル・ブルーンジーだが、全てアルバート・アモンズのピアノとのデュオ。1938年分で一曲、39年分で二曲。(ブギ・ウギ・)ピアニストとのデュオでビッグ・ビルがギターを弾きながら歌うというこのやり方は、ビッグ・ビルの最も得意とするところで、まさしく本領発揮のスタイルだから、そしてそれで彼の名を有名にしたという意味でも、『フロム・スピリチュアルズ・トゥ・スウィング』ボックスにあるビッグ・ビルは重要なんだよね。

 

 

1938年と39年のライヴ・パフォーマンスだけど、この頃にはビッグ・ビル・ブルーンジーは完全に自分の(シティ・)ブルーズ・スタイルを確立している。ミシシッピ生まれのビッグ・ビルがシカゴに出てきたのは20年代のことだったらしいが、彼の場合も最初は一人でのギター弾き語りだったかもしれないブルーズに、やはりすぐに共演者が付くようになったんじゃないかなあ。都会だもんなあ。

 

 

シカゴという大都会で、初録音が1927年だけど自己のブルーズ・スタイルを確立したのが30年代前半あたりで、さらにそれはピアニストとのデュオ形式であった 〜 これらの事実から、ビッグ・ビル・ブルーンジーがリロイ・カー&スクラッパー・ブラックウェルのコンビを真似たのだということは容易に想像が付く。といってもほぼ同時期というに近いので、あるいはリロイ・カーを真似てはじめたのではなく、ビッグ・ビル自身の独創スタイルだった可能性もほんのちょっぴりあるかも。

 

 

リロイ・カーが先かビッグ・ビル・ブルーンジーが先か、本当のところは僕には分らないのだが、完全に同じ二人編成で、ほぼ同時期のシカゴで、ほぼ同じようなスタイルのブルーズをやっていたという、いわば戦前シティ・ブルーズの先駆者二名であることは、誰も異論を挟めないだろう。重要な違いは、ビッグ・ビルの方には南部的なダウン・ホーム感覚があることだ。

 

 

ミシシッピ生まれであることと関係あるのかないのか分らないが、録音物を聴いて判断すると、大都会でピアニストとのデュオでやって、ギターの弾き方もヴォーカルのスタイルも洗練されているにもかかわらず、ビッグ・ビル・ブルーンジーのやるブルーズにはある種の泥臭さがあるんだなあ。ここは重要。戦後のシカゴでモダン・ブルーズが盛んになった頃、まずは南部的なダウン・ホーム感のあるブルーズを電化バンド形式でやることで人気が出たからだ。

 

 

ビッグ・ビル・ブルーンジーは、したがってみなさんおっしゃっているようにモダン・シカゴ・ブルーズの父とも言うべき存在なんだよね。戦後フォーク・リヴァイヴァル運動のさなかで再び人気が出て、自分一人でのアクースティック・ギター弾き語りばかりが持て囃されたのは、はっきり言って空疎というか不幸だったよなあ。

 

 

そのあたりのことが分る実例としてちょっと音源を貼っておこう。『RCAブルースの古典』に収録されている「フレンドレス・ブルーズ」。1934年3月23日のシカゴ録音で、当然ブルーバード・レーベル。伴奏ピアニストは不明となっているが、おそらくブラック・ボブだろう。この二名はリロイ・カー&スクラッパー・ブラックウェル二名のチームにも比すべき実力のブルーズ・タッグだ。洗練されたシティ・ブルーズでありながら、南部感覚があるのを聴き取っていただけるはず。

 

 

 

ビッグ・ビル・ブルーンジーの場合、独りだけでのギター弾き語り録音でもカントリー・スタイルではない。どっちかというとラグタイム・ギターみたいでジャジーでもあり、かなり洗練されている。だからおそらくブラインド・ブレイクあたりからの影響も強い。そんな一例をご紹介する。『ジ・エッセンシャル』にも『戦前ブルースのすべて 大全4CD』にも収録の「ロング・トール・ママ」。1932年3月30日、ニュー・ヨーク録音。

 

 

 

ビッグ・ビル・ブルーンジーには、ジャズ・ブルーズ・ナンバーだろうとしか聴こえない録音だってある。例えば、録音年月日やパーソネルの記載が一切ないので詳細が不明な『ジ・エッセンシャル』収録の「ドント・ティア・マイ・クロース No. 2」。クラリネットのサウンドがいいなあ。ちょっとジミー・ヌーンのようにも聴こえるが、誰だろう?

 

 

 

そのあたりデータを書いておいてくれたらよかったんだけどなあ。『ジ・エッセンシャル』というシリーズは同じアルバム名で何人も戦前の古いブルーズ・ミュージシャンの録音アンソロジーをリリースしているもので、僕は結構持っているのだが、実はこの『ジ・エッセンシャル』という一連のものはドキュメント・レコーズが出している廉価版二枚組シリーズなんだよね。本家で(というのもオカシイが) 全て年代順全集にして出しているものから二枚にピックアップして、データなし、解説文もほぼなしの安価で出しているシリーズなのだ。

 

 

上掲「ドント・ティア・マイ・クロース No. 2」みたいなジャズ録音は、ビッグ・ビル・ブルーンジーの『ジ・エッセンシャル』には他にも少しあるので、それは省略し、やはりこの二枚組アンソロジーにあるホウカム・スタイルのブルーズ録音について、最後にちょっとだけ書いておこう。

 

 

上で書いたように録音年月日やパーソネルが分らないのがもどかしいのだが、例えば「カム・オン・ママ」。『ジ・エッセンシャル』の曲目記載ではホウカム・ボーイズ名義で、ジョージア・トムが参加していて、女性ヴォーカルがハナ・メイだとなっている。YouTube にそれはないが、探したら同じスタイルのものが見つかった。

 

 

 

『ジ・エッセンシャル』には、同じホウカム・ボーイズ名義で他に二曲あって、「ナンシー・ジェイン」(https://www.youtube.com/watch?v=JBhzgK-IrPM) と「ブラック・キャット・ラグ」(https://www.youtube.com/watch?v=G4lxAbSdweY)。ホウカム・バンド・スタイルでやる前者に対し、後者はビッグ・ビル・ブルーンジー一人での弾き語りのようだ。

 

 

こういうホウカム・ブルーズはタンパ・レッドが最も得意とするところで、実際タンパ・レッドの、特に「イッツ・タイト・ライク・ザット」こそが、そういった種類の音楽の最有名曲で最重要曲だろう。ビッグ・ビル・ブルーンジーにタンパ・レッドとの共演録音があるのかどうか、全集を持っていない僕には分らないが、録音がないとしても共演歴くらいはあったんじゃないかなあ。上で書いたようにジョージア・トムとは共演録音があるんだから。

 

 

また『ジ・エッセンシャル』には、ピアニストと一緒に、例の1920年代の都会派女性ブルーズ歌手リル・ジョンスンの伴奏をやっているものだってある(ネットで調べると、ビッグ・ビル・ブルーンジーとの共演録音時期は30年代半ばのよう)。リル・ジョンスンって、あの「キープ・オン・ノッキン」を録音した歌手なんだよね。それはずっとあとになってリトル・リチャードが「キープ・ア・ノッキン」として録音し、ロックンロール・ヒットになったものだ。リチャードは直接的にはルイ・ジョーダンのヴァージョンを参考にしているけれどさ。

2017/04/19

ドリフターズをちょっとだけよ

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僕にとっては「ルビー・ベイビー」の人たちであるドリフターズ。例のアトランティック・ジャズの CD 五枚組ボックス・アンソロジー 『オマージュ・ア・ネスヒ』のラストに、隠しトラックとしてそのオリジナル・ヴァージョンの「ルビー・ベイビー」が収録されているくらいだもんなあ。あくまでアトランティックのジャズ部門責任者だったネスヒ・アーティガンへのオマージュ・アルバムで、ジャズ曲ばかり並んでいるのに、ラストに、それもどこにも全く記載のない隠しトラックとしてドリフターズのそれを収録しているのはどうしてなんだろう?

 

 

そのあたりのアトランティックの深謀遠慮というか意味合いは僕には分らないが、ドリフターズといえば「ルビー・ベイビー」だという僕の気持は、なにもその『オマージュ・ア・ネスヒ』で聴いてはじまったものではない。まずこの曲を知ったのは、ロック好きのみなさんなら多い例だと思うのだがドナルド・フェイゲンの『ザ・ナイトフライ』でカヴァーされていたからだ。それが最初のきっかけで、曲を書いたジェリー・リーバー&マイク・ストーラーのソングライター・コンビを追いかけるようになり、最初に歌ったドリフターズのことも知った。

 

 

といっても、日本にもいかりや長介らのあのザ・ドリフターズがあって、同じ名前なので紛らわしい(ので、表記の際はいつもどうするか迷って、僕の場合いかりや長介のグループの方にだけ「ザ」を付けている)のだが、そもそもこの日本の音楽コント集団だって、アメリカのヴォーカル・コーラス・グループからそのまま名前を拝借したんだそうだ。日本語でネット検索する際は困るんだよね。

 

 

それほど一時期は日本でも知名度があって大人気だったってことだよね。そういえば僕の嫌いな越路吹雪まで「ラスト・ダンスは私に」を歌っていたよなあ。大学生の頃深夜の FM ラジオ番組で聴いた。確か二時間程度の特番で、越路のライヴ・コンサートの模様(あるいはレコード?)を録音放送したのだった。いまではひどい歌手だなと確信しているが、あの頃はなかなかいいじゃんと聴えていたのだった。だいたい日本語で歌う日本の女性シャンソン歌手は…(以下略)。

 

 

とにかくそれくらい一時期の、というかある世代の日本人にも(アメリカの)ドリフターズはよく知られていたんだなあ。だから僕はその世代ではないけれど、ラジオ番組などでなんとなく耳にすることがあったかもしれない。がやはり意識するようになったのは、アメリカ黒人音楽を熱心に聴くようになってからで、いろいろと知ると、どうも1950年代後半〜60年代初頭あたりでは最も人気のあった黒人ヴォーカル・グループで、避けて通れない人たちみたいだ。

 

 

それなのに僕の持つドリフターズ名義の単独盤 CD はたったの一枚。ワーナーが2005年にリリースした『ダンス・ウィズ・ミー:ザ・ドリフターズ・コレクション』で1954〜66年までの録音セレクション全20曲。たったこれだけなのかよ、僕の持っているドリフターズは。ダメだなあ。CD で五枚組くらいのボックスがあるようで、それでだいたいの姿が分るみたいなので、そのうち買おうっと。

 

 

ドリフターズの場合、現在でも存続しているらしいのだが、メンバー交代があまりにも激しくて原型を全くとどめていないので、もはや(あの頃の)ドリフターズと(名前だけ)同じものだとは誰一人認識していないはず。このグループ名でヒットを飛ばし、ドゥー・ワップ〜リズム&ブルーズ〜ソウル界のヴォーカル・コーラス・グループとして輝いていたのは、大雑把に言って二つの時期。クライド・マクファター時代とベン・E ・キング時代だ。

 

 

クライド・マクファター時代はさほど商業的に成功しなかったらしい。ベン・E ・キング時代である1958〜60年(とその後数年間)こそが、ドリフターズが最も成功した時期だ。元々ドリフターズはクライド・マクファターのバック・コーラス・グループとして結成されたのが最初で、マクファター時代にも「マニー・ハニー」「サッチ・ア・ナイト」「ハニー・ラヴ」などは売れた。特に「マニー・ハニー」はカヴァーしている人が多く、なかでもエルヴィス・プレスリーが歌ったので、ロック・スタンダードみたいになっている。

 

 

 

 

 

これはいかにも1956年頃のエルヴィスが歌いそうな、歌ったらピッタリ似合いそうな曲だよねえ。クライド・マクファター時代のドリフターズは、僕の持つ『ダンス・ウィズ・ミー:ザ・ドリフターズ・コレクション』に「サッチ・ア・ナイト」一曲だけが収録されている。マクファターってかなりピッチの高いテナー・ヴォイスだから、なに一つ知らなかった僕は、女性歌手が客演しているんだと勘違いしていたくらい。

 

 

さて最初に書いたように僕(だけじゃないはず)の一番好きなドリフターズ・ナンバーである「ルビー・ベイビー」は、『ダンス・ウィズ・ミー:ザ・ドリフターズ・コレクション』にも収録されているが、これは1955年のレコードなので、54年に脱退したクライド・マクファターはおらず、しかも58年にベン・E ・キングが加入する前だ。誰がリード・シンガーなのかというとジョニー・ムーアなんだよね。これも売れた。

 

 

 

同じくジョニー・ムーアがリードをとる「フールズ・フォール・イン・ラヴ」もヒットしたようで、僕の持つ『ダンス・ウィズ・ミー:ザ・ドリフターズ・コレクション』にも収録されている1956年のレコード。この曲と「ルビー・ベイビー」、そして(クライド・マクファター時代の)「マニー・ハニー」と(ベン・E ・キング時代の)「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」については、ライノがリリースした例の『ザ・ドゥー・ワップ・ボックス』でも僕は持っている。

 

 

あの『ザ・ドゥー・ワップ・ボックス』。CD で四枚組が全三巻もあって、合計再生時間が12時間を超えるので、絶対に全部まとめてなんか聴けない。一巻たりとも一度もそんな聴き方をしたことがない。そもそも7インチ・シングルしか存在しない世界で、フランク・ザッパや山下達郎みたいにそれを収集する気などない僕は、CD アンソロジーでは最も充実しているそのボックス三巻を買いはしたものの…。まあちょこちょこと曲単位で取り出して聴いてはいる。

 

 

ベン・E・キング時代のドリフターズ。キングはドリフターズに加入してからこそ初めて名前が知られるようになった歌手だ(けど、いまではたぶん「スタンド・バイ・ミー」のイメージが最も強いはずだ、一般には、ジョン・レノンのおかげで)。キングが加入した際に、ドリフターズのマネイジャー、ジョージ・トレッドウェル(がグループ名の使用権利を保有)がメンバー全員を総取替えしてしまったらしい。キング時代以後もそんなことが続いている。

 

 

ベン・E ・キング時代にドリフターズが大ヒットを連発したのは間違いないことなので、僕の持つアンソロジー『ダンス・ウィズ・ミー:ザ・ドリフターズ・コレクション』でもその時期の曲が一番たくさん収録されている。アルバム名にもなっている「ダンス・ウィズ・ミー」(1959)や、その他「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」(59)「ディス・マジック・モーメント」(59)「ラスト・ダンスは私に」(60)などなど。音源を貼っておこう。

 

 

「ダンス・ウィズ・ミー」https://www.youtube.com/watch?v=iH9idecrBkQ

 

「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」https://www.youtube.com/watch?v=ehFWRG5gHyI

 

「ディス・マジック・モーメント」https://www.youtube.com/watch?v=bacBKKgc4Uo

 

「ラスト・ダンスは私に」https://www.youtube.com/watch?v=n-XQ26KePUQ

 

 

こんな魅力的な歌をチャーミングに歌ったベン・E ・キング(ホント、独立後の「スタンド・バイ・ミー」以外も聴いてください)とドリフターズ。この1958〜60年こそがこの人たちが最も輝いていた時期に間違いない。しかし60年5月にキングが脱退するものの、その後はどうでもいい、聴かなくていいのかというと、そんなことは全くないもんね。なんたってキャロル・キング&ジェリー・ゴフィンのソングライター・コンビが書いてドリフターズが歌った「アップ・オン・ザ・ルーフ」は1962年のアトランティック盤レコードだからなあ。僕は大好きなんだよね、あの曲。僕の持つ『ダンス・ウィズ・ミー:ザ・ドリフターズ・コレクション』にもあるよ。

 

 

 

泣けるなあ、この曲。いろんな意味で(というかはっきり言うと歌詞だが)。彼女自身も歌ったが、そもそもは自分のために書いたのではないキャロル・キングの曲では一番好きだ。実際いろんな音楽家が、フュージョン・バンドのスタッフまでもが「アップ・オン・ザ・ルーフ」をカヴァーしているのは、作者自身のものもさることながら、やっぱりドリフターズ・ヴァージョンの魅力じゃないかなあ。

 

 

さてさてしかし僕の持つワーナー盤アンソロジー『ダンス・ウィズ・ミー:ザ・ドリフターズ・コレクション』は1966年の曲まで収録されているにもかかわらず、どっちもかなりヒットした63年の「オン・ブロードウェイ」と64年の「アンダー・ザ・ボードウォーク」がどうしてだか収録されていない。この二曲さえ収録されていればさほど大きな文句を言わないで済むのだが。う〜ん、まあそもそもたった20曲収録の超簡便な一枚物だけしか持っていない僕が悪いのではある。

 

 

「オン・ブロードウェイ」https://www.youtube.com/watch?v=yPYRtjxYEH8

 

「アンダー・ザ・ボードウォーク」https://www.youtube.com/watch?v=EPEqRMVnZNU

 

 

それはそうと「オン・ブロードウェイ」のリード・シンガーはルディ・ルイスみたいだが、1962年の「アップ・オン・ザ・ルーフ」と64年の「アンダー・ザ・ボードウォーク」のリードを誰が歌っているのか知らない無知な僕に、どなたか教えてください。

2017/04/18

ロリンズのカリブ・ジャイヴ

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誰も明言しないけれど、ソニー・ロリンズのサックスにはノヴェルティな味があるんじゃないだろうか?100%全員がサックス・アーティストだと考えているに違いないが、僕にはそう聴こえる。それは言ってみればジャイヴ風味だ。僕がジャイヴという言葉を音楽関係で使う際は、単にふざけている感じ、すなわちノヴェルティなフィーリングがあるという程度の意味で使う場合がある。

 

 

一般的にジャイヴ・ミュージックとは(ジャズの一分野としての)ヴォーカル表現のフィーリングを指している、ように僕には見えているんだけど、この認識でいいんだろうか?キャブ・キャロウェイを発端に1930年代に流行したああいった面白おかしく歌う感じ、それも実に頻繁にナンセンス・シラブル、すなわちスキャットを織り交ぜて、さらに背後でワヮ〜、ワヮ〜というコーラスが入る 〜 これが普通みなさんの言うジャイヴだろう。

 

 

がしかし僕は以前一度、そんなヴォーカル・フィーリングの開祖は1920年代のルイ・アームストロングだと書いたように、シリアスなジャズ・アーティスト(でもないが、サッチモは)がやる音楽のなかにも、そんなノヴェルティなジャイヴ風味があるように思うんだなあ。

 

 

 

だいたいジャイヴ(jive)という言葉は「ふざける」「からかう」という程度の言葉であって、音楽用語でもなんでもない。キャブ・キャロウェイがこの英単語を自分の音楽その他に使って以後、一定傾向のジャズなどに用いられるようにはなったが、キャブの楽団自身は立派なジャズ・アーティスト集団じゃないか。できあがっている音楽だって普通のジャズも多い。

 

 

ジャイヴなんてなんとなくのフィーリングでしかないんだから、それをあたかも一つの固有ジャンル名であるかのように、そういう特定のものがあったのだみたいに固定してしまうと、ジャイヴ・ミュージックの本質からもどんどん外れていってしまうと僕は思うんだよね。中村とうようさんの読者でそういう固定観念化している方がいらっしゃるように見受けられるのは、とうようさんがそこを戦略的に、いわゆるジャズと切り離して語ったせいもあるんじゃないかなあ。ジャンプ・ミュージック同様に。どっちもジャズだぞ。

 

 

とうようさんの功罪云々は「功」の方がはるかに大きいんだからいいのだが、年数が経った僕たちは、ジャイヴ(やジャンプ)・ミュージック本来のありようをいま一度考え直してみる必要があるんじゃないかと思うのだ。そうしてみると「ジャイヴ = スキャットを織り交ぜてノヴェルティなヴォーカル(・コーラス)表現を披露する1930年代の人たち」という狭い枠ではおさまらないことに気がつくはず。この1930年代だけではないという点が、今日の記事本題では重要。

 

 

だってソニー・ロリンズが活躍しはじめたのは1940年代末からだもんね。ロリンズのテナー・サックスは、頻繁にブホッ、ブワッっていうような馬のイナナキみたいな音を出すよね。あれは直接的には1940年代からはじまったホンク・テナーからの影響なんだろう。がしかし同時にロリンズの少年時代のアイドルはルイ・ジョーダンで、まずあんな感じでやりたいと思ってサックスをはじめたという逸話は、いままでも数回ご紹介している。まあどっちもジャンプだが。

 

 

ルイ・ジョーダンの吹くアルト・サックスにそんなホンク・サウンドはない。どっちかというとスムースで、ルイの大活躍後約10年くらい経ってアメリカ西海岸で盛んになる白人ジャズ・サックス奏者の音色に近いんじゃないかと思うほどソフトで柔らかいサウンド。フレイジングはしばしば愉快な感じになるが、でもやはり全体的には流麗でハミ出さない。

 

 

だからロリンズの少年時代のアイドル兼お手本がルイ・ジョーダンで、そんなロリンズが頻繁にホンク・サウンドを出すといっても、サックス・プレイにおける直接の影響はうかがえないね。ロリンズのあんな吹き方は、上述の通りホンク・テナー、すなわち遡ればレスター・ヤング・スタイルの系譜にある。ロリンズの場合、フレイジングの突拍子もなさだってレスター由来だ。

 

 

ロリンズのテナー・サックス・スタイルがレスター由来だというのは、間違いない事実として粟村政昭はじめ専門家のみなさんが昔から言っているし詳細に分析されているので、僕がこれ以上なにも書く必要はない。僕が言いたいのは、ロリンズのそんなテナー・サウンドが、いわば<ジャイヴ・サックス>に聴こえるという、こっちは誰も言っていない事実(だと思う)だ。

 

 

最も有名で最高級の評価が揺るがない1956年の『サクソフォン・コロッサス』にだって、そんなジャイヴなフィーリングはある。愉快で痛快なおふざけサックス・プレイがね。そういうのが複数曲あるが、 そのなかの一つはしかもカリビアン・テイストと合体しているじゃないか。言うまでもなく一曲目の「セント・トーマス」のことだ。つまりロリンズはカリビアン・ジャイヴ・サックスを吹いている。

 

 

そういうロリンズの愉快なフィーリングは、やはりルイ・ジョーダン由来だったに違いない。上述の通りアルト・サックスの吹き方にジャイヴィーな感じは薄いルイだが、ヴォーカルの方は言うまでもなくノヴェルティ風味全開でやっているし、さらに曲そのものがラテン風になっているものがいくつもあるもんね。この二つをロリンズはルイから吸収して、歌は歌わないがテナー・サックスで受け継いで表現したんじゃないかなあ。

 

 

それが最もよく分るアルバムが1957年のコンテンポラリー盤『ウェイ・アウト・ウェスト』だ。アルバム・タイトルとジャケット・デザインとレーベル名で分るように、イースト・コースターのロリンズが西海岸に赴いて、レイ・ブラウン(ベース)、シェリー・マン(ドラムス)二名のウェスト・コースターを起用し、中身も西部劇音楽風な一枚だ。

 

 

一曲目が「おいらは老カウボーイ」(I'm An Old Cowhand)だもんね。これはミュージカル仕立ての西部劇映画『リズム・オン・ザ・レインジ』 からの一曲で、オリジナルは下に貼るこれだ。歌っているのはビング・クロスビー。お聴きになればすぐ分るように、おふざけ・お遊びしかやっていない完全なるノヴェルティ・ナンバーで、書いたのは有名なジョニー・マーサー。

 

 

 

アルバム『ウェイ・アウト・ウェスト』一曲目のロリンズ・ヴァージョンはこれ。出だしでシェリー・マンがなにを叩いてこんな音を出しているのか分らない(スネアのリムだけじゃないよね?)のだが、そのリズムにはカリビアン・アクセントが聴き取れる。すぐにスネア・ロールが入って、その後はメインストリームの4/4拍子になってしまうが。

 

 

 

しかし冒頭の、若干カリプソ風かな?と聴こえないでもないリズム・アクセントに乗って吹く部分はもちろん、その後の通常のメインストリームな4ビート部分でも、ロリンズの吹くテナー・サックスには面白おかしいようなフィーリングが聴き取れるはず。少なくとも僕はそれを感じる。シェリー・マンのドラムス・ソロのあとの最終テーマ吹奏部分では、冒頭部と同じカリプソ風?リズムに乗って、やはりジャイヴィーにテナーを吹くロリンズ。

 

 

アルバム『ウェイ・アウト・ウェスト』にはもう一曲同じような出自の曲がある。CD だと四曲目の「ワゴン・ウィールズ」がそれ。これはブロードウェイのコメディ・ミュージカル『ジーグルド・フォリーズ』第2シリーズからの曲で、すぐにハリウッドで映画化もされた。しかしいろんなミュージシャンは映画化の前から「ワゴン・ウィールズ」をやっている。例えばこれはポール・ワイトマン楽団の1934年録音。

 

 

 

これをお聴きになれば分るように、これもウェスタン・ナンバーなんだよね。wagon wheels ってのは荷馬車の車輪のことだし。こんなのを少年時代のロリンズも聴いていたはずだ。アルバム『ウェイ・アウト・ウェスト』にある「ワゴン・ウィールズ」はこれ。やはり冒頭部と最終部でシェリー・マンが、やはりなにを叩いているのか分らないがコミカルな音でカリブ風なリズム・アクセントを表現している。しかもなんだかちょっとポリリズミックだ。

 

 

 

これも一曲目の「おいらは老カウボーイ」同様、アド・リブ・ソロ部分のリズムにカリビアン・テイストはなく、なんでもない4/4拍子なのが僕にはちょっと残念だ(が多くのジャズ・ファンは最初と最後のテーマ演奏部分のあんな感じこそ残念だと思っているかも)。しかしロリンズのテナー・ソロにだけは、やはりある程度のノヴェルティ風味を僕は感じるんだよね。これは僕がジャイヴに敏感すぎるだけだろうか?

 

 

こんな風にウェスタン・ナンバーをカリビアン・ジャイヴ仕立てでやっているのは、これら「おいらは老カウボーイ」「ワゴン・ウィールズ」の二曲だけだが、後者はアナログ盤では B 面一曲目だったので、つまり A面・ B面ともにそんなのからはじまるアルバムってことで、印象がかなり強かったんだよね。これら二曲以外は、ロリンズのオリジナルが二曲(はやはり少し西部カウボーイ・ソング風)、スタンダード・バラード(は普通のジャズ)が二曲。

 

 

ピアノ・レスのワン・ホーン・トリオでやるロリンズというと、同じ1957年に『ヴィレッジ・ヴァンガードの夜』というライヴ・アルバムがある。現行 CD では二枚組の完全盤となってリリースされていて、計二時間以上たっぷり楽しめる。このライヴ・アルバムでも、『ウェイ・アウト・ウェスト』には程遠いにせよ、やはり若干のカリビアン・ジャイヴな味があるもんね。ドラマーがエルヴィン・ジョーンズかピート・ラ・ロッカだしなあ。

 

 

こういうのはピアニストがいないことと、ひょっとしてなにか関係があるんだろうか?特にこれといって関係なさそうな気がするけれど、そういえば1930年代の<いわゆる>ジャイヴ・グループはストリング・バンドである場合が多く、ピアニストがいない場合がある。ピアノが奏でる和音の、あのバンド・サウンド全体の色を決めてしまいかねない束縛感からの解放とジャイヴ・フィーリングって、なにか関係あるの?ないの?誰か、教えて!

2017/04/17

あの頃の僕(My Back Pages)〜 ディランがプロテスト・ソングを捨てたワケ

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タモリさんはミュージカルがお嫌いなんだってね。テレビ番組で繰返し発言していた。いまもそうなんだろうか?個人の好みの問題には誰もなにも言えないけれど、でもタモリさんは、基本、ジャズ・ファンである人だから、ひょっとして単なる個人的嗜好だけでなく、音楽とはそういうものだというお考えもあるんじゃないかという気がしないでもない。

 

 

舞台上でお芝居している最中で、突然そのまま「あぁ〜、あなたのことがぁ〜♪♫」などと歌い出し、歌い終わるとまたスッとお芝居に戻ったりするのを、タモリさんはなんなんだありゃ?お芝居はお芝居、歌は歌、別個にやってくれ、混ぜるなみたいなことをよく言っていたじゃないか。いまでもそうなの?

 

 

これが単なる好みというものを超えて、歌とはそうあるべきものだと、もしタモリさんがそうお考えなのであれば、残念ながらポピュラー・ソングの本質を理解なさっていないという証拠だ。ポピュラー・ソングのそもそもの成立は演劇の生舞台と切り離せないし、また切り離して以後の時代でも歌のなかから演劇性が消えてなくなると、その歌は途端に面白くなくなるのだ。それがポップ・ソングの本質。クラシック音楽の歌曲もそうなのかどうか、分っていない僕は言わないが、ポピュラー・ミュージックの場合、演劇性はあらゆる「歌」というものが持っている重要な側面なんじゃないかなあ。

 

 

ポピュラー・ソングが演劇から切り離されたのは、大雑把に言ってレコード商品が流通するようになって一般化して以後と見ていいだろう。これは間違いないと思う。だって SP 盤だと約三分間というどうにもならない物理的制約があったから、歌の前後の文脈(お芝居)なんか入れることなど不可能。ちょうどレコードではティン・パン・アリーのヒット・ソングのヴァース部分を省略するようになったのとピッタリ同質の事情だ。

 

 

レコード産業が大幅に拡大・普及して以後は、ポピュラー・ミュージックはレコードで聴くというのが主流の享受法になって、生演唱のステージに足を運ぶよりも、レコードを買うかなにかして自宅かどこかで聴くのが本来のありようみたいになった。生舞台での歌は、やっぱりどうやっても演劇的な側面が消えないものだけれど、レコードではそういう部分が無視されるようになったんだね。

 

 

ティン・パン・アリーのヒット・ソングにおけるヴァース部分というのは、要は前置説明であって、歌本編のリフレイン部分がどういう文脈にあるのかを喋るもの。つまりこれも演劇、お芝居だ。これはティン・パン・アリーのヒット・ソングの多くが、タモリさんのお嫌いなミュージカルなど各種のお芝居のなかに挿入するために書かれたものだということなんだよね。タモリさんはジャズ・スタンダード化したものはお好きに違いない。だがそれも元々は…。

 

 

アメリカ合衆国におけるポピュラー・ミュージック界初の専業音楽家は19世紀中頃のスティーヴン・フォスターだったんじゃないかと、僕も以前詳しく書いた。フォスターはまず最初、ミンストレル・ショウのためのソングライターとして身を立てた。その後楽譜出版会社と契約して専業作曲家となるが、そうなって以後も、魅力的なコンポジションはミンストレル・ソング的な側面を持ったものが多かった。

 

 

 

アメリカ合衆国のミンストレル・ショウはもちろんお芝居だ。19世紀半ばが全盛期だったから録音・録画技術などまだ存在しないが、20世紀に入ってからは全世界で最も人気があるこの国のポピュラー・ミュージックも、やはり元は舞台上の演劇、それも俗悪で猥雑な大衆娯楽劇、ポップ・エンターテイメント、分類不能な各種のネタを披露するワケの分らない芸能人が跋扈するステージで歌われるものとして誕生した。いまはアメリカでも日本でもシリアスな音楽家とお笑い芸人は<住む世界が別>だと考えられているよね。ボブ・ディランとエディ・マーフィーが同居しないように(でも本人たちはそう思っていないに違いないし、エディ・マーフィーには音楽家の友人も多い)。

 

 

キューバにおけるルンバ(といっても北米合衆国に渡って大ヒットした「南京豆売り」などの類をルンバと同国で呼びはじめたそれではない)の成立にも、またテアトロ・ベルナクロというものがあって、これは北米合衆国のミンストレル・ショウ同様に欧州系の白人が顔を黒く塗って、ステレオタイプの黒人を面白おかしく演じた。ミンストレル・ショウもそうだが、そんなものが許されるのかという倫理的視点は、大衆音楽の面白さという視点とは別問題だよね。テアトロ・ベルナクロのお芝居のなかに挿入するために、ハバナなどで多くのポップ・ソングが誕生し、評価も高いアルセニオ・ロドリゲスの初期キャリアにもそんな背景を持つ曲の録音があるし、また誰よりもミゲリート・バルデスがそんな演劇性を備えた歌手だったじゃないか。

 

 

ミゲリートは見た目の肌の色は黒っぽかったが、本人の言うところでは父親は欧州系白人、母親はメキシコ系先住民の子孫だったそう。そんなミゲリートが「ババルー」みたいな、あたかも自分はアフリカ系だみたいな曲をリアルに歌う。これは要するにまことしやかな<ウソ>ってことなんだよね。ウソとは、言い方を換えれば演劇性。あるいは虚構の持つリアリティ。北米合衆国のミンストレル・ショウで白人が黒塗りにして<黒ん坊>を演じ歌い、ヒット曲が誕生するのと同じ構造だ。

 

 

詳しく書かないが、インドネシアのクロンチョンもブラジルのショーロも大衆演劇をバックグラウンドにして成立している。カリブ中南米、北米合衆国、アジア地域 〜 これら全てのポピュラー・ソングが、大衆娯楽演劇のなかでの不可分な一要素として育まれ誕生し、それが結果的にはレコード産業成立後に演劇から切り離されて、あたかも音楽だけ独立した一分野であるかのように流通するようになったのは、偶然なんかじゃない。

 

 

僕はこのブログで以前からなんども繰返す日本の大衆歌謡界にある男歌・女歌。ゲイではない男性歌手が女言葉で女の気持をそのまま歌ったり、レズビアンではない女性歌手が男言葉でそのまま男の気持を歌い、それを僕たち聴衆も違和感なく受け入れる。これは演劇の舞台と”直接的には”関係ないかもしれないが、男/女の<役割>を歌のなかで演じているわけだから、これも音楽に潜む演劇性が顕在化したものの一例と言えるはず。

 

 

「女のみち」を歌う宮史郎は本当は女なんだろうとか、「ふたり酒」を歌う川中美幸や「なごり雪」を歌うイルカやどっちも歌う岩佐美咲は本当は男じゃないんだろうかとか、あるいは「木綿のハンカチーフ」の太田裕美はじゃあ両刀使いかなんて、誰一人想像すらもしないはず。岩佐美咲の記事で一昨日も書いたが、殺人鬼や麻薬中毒者を演じる俳優が、実生活では犯罪歴のない良識人であるのと同じことで、当たり前すぎて書くのもバカらしい。

 

 

また日本の演歌歌手はよく「だれそれ座長公演」と銘打って、例えば新宿コマ劇場(はもうないが)などでよく興行を打つじゃないか。お芝居と歌の合体じゃないのあれ?僕は観たことがないんだけど、基本、一部が歌で二部がお芝居らしい。そう分れてはいるが、観客は両方同じように楽しむ。大御所演歌歌手はみんなそういうのをやっている。大御所でなくたって、AKB48や関連のガール・グループの生舞台も、同じように演劇性を兼ね備えた歌を披露するようなものみたいだ(生体験はないのだが、指原莉乃などが「座長公演」の看板を掲げたりするみたい)。

 

 

ミンストレル・ソング、テアトロ・ベルナクロのルンバ、インドネシアのクロンチョン、ブラジルのショーロ、日本の演歌(のなかにある男歌・女歌、座長公演など)〜〜 これら全て、いわば<ウソ>なんだよね。フィクションなんだ。虚構性、言い換えれば演劇性を本質的に内在している歌や音楽は世界中にたくさんあって、本当に面白いホンモノの音楽・歌はたいていこういうウソなんだよね。ウソを徹底するからこそホンモノになれるっていう。ウソがないとホントもない。ウソから出たマコト。

 

 

これは内容と演者がいい距離感を保っているかどうか、密着しすぎていないかどうか、すなわち想像力が発揮されているかどうかということでもある。歌の中身とそれを歌う歌手の立場がピッタリ張り付いていない方が音楽は面白く、また妙な言い方だが健全でもあって、そして最も重要なことは、そうじゃないと歌がリアルに響かない、リアリティを持って聴き手の胸を打たないってことだ。

 

 

さてさて、第二次世界大戦後の北米合衆国で一時期大流行したプロテスト・ソングって、ちょうどこういった歌の持つ本質的演劇性(虚構性)や、ウソを徹底した挙句マコトになるみたいな部分、歌と歌手とのいい距離感があるみたいな部分は全く持っていない、正反対のものだったんじゃないかなあ。インテリ白人が戦争や社会問題を訴える、黒人に成り代わって差別を断固告発する 〜 ここに距離感が全く存在しない。歌の中身と歌手の立場がピッタリ密着している。密着しすぎていているからこそ、あれらプロテスト・(フォーク)ソングは「音声としては聞こえても歌として聞こえてこないのである」(富岡多恵子『詩よ歌よ、さようなら』)。

 

 

富岡多恵子はまた「表現のための虚構をくぐりぬけていないので」とも言っている。富岡の一番言いたいことは、小説の場合、それはいわずもがな全て虚構であってつくりものだけど、つくりもののウソを徹底することで現実をやっつけさせる真実を出現させようともくろむ行為であると書いている部分にある。このフィクション(虚構=小説)についての指摘は、そのまま音楽の世界にも完全に当てはまるものだろう。

 

 

フォーク・ソングとかプロテスト・ソングとかいった種類のものは、まさに社会を変えようと、富岡多恵子の表現で言えば現実をやっつけさせようとしてみんな創り歌っていたものに違いないはず。しかしその結果それが実現しなかったのは、単に音楽はそんなパワーなんか持っていないんだということだけじゃない。あれらの種類の歌がホンモノとして一般市民のみんなの心を打たなかったからに違いない。

 

 

それは富岡多恵子の言葉を借りれば、表現のための虚構をくぐりぬけていなかったから、歌としてはホンモノじゃないのだ。いくら声を張り上げて力強く社会問題を歌ってみたところで、迫真の表現力は存在しない。フィクショナルなリアリティが歌にこもっていないからなんだよね。(社会の)現実と(表現の)真実は違う。ここが分らず、社会問題をただそのまま歌詞に移し替えてメロディを付けて歌ってもダメなんだよね。

 

 

問題はボブ・ディランだ。彼は表現者、音楽家、歌手としては本物だった。だからわりと早い時期にこの事実に、自分たちの歌うプロテスト・ソングが歌としてはホンモノじゃないんだということに気が付いちゃったんだろう。ディランのプロテスト・ソング歌手時代は、したがって実は非常に短い。アルバムでいえば、デビュー二作目1963年の『ザ・フリーウィーリン』と三作目64年の『時代は変わる』しかないもんね。

 

 

だがこの二つのアルバム(の収録曲)であまりに強い印象を世界中に与えてしまったがために、あたかもボブ・ディラン=フォーク・ソングのシンガー・ソングライター、プロテスト・ソングの旗手であるかのようなイメージが固定してしまって、ひょっとしたらいまだに一部の人たちは同じように考えているかもしれない。

 

 

しかもですね、それら二作『ザ・フリーウィーリン』『時代は変わる』でも、アルバム中全てがプロテスト・ソングなんかじゃないばかりか、よく聴き直すとアルバムのほんの一部でしかない。前者の「風に吹かれて」「戦争の親玉」「はげしい雨が降る」「第3次世界大戦を語るブルース」、後者の「時代は変わる」「しがない歩兵」「ハッティ・キャロルの寂しい死」。これだけ。ディランの全音楽生涯でたった七曲だけだぞ。

 

 

さらにプロテスト・ソングに分類できるだろうと思う上記のもののですら、典型的なかたちはしていないのだ。最も有名なのが『ザ・フリーウィーリン』収録の「風に吹かれて」(Blowin' In The Wind) だろうが、これは単に「How many?」「How many?」と疑問形を並べているだけ(「How long?」「How long?」とリピートするリロイ・カーのブルーズに似ている?似ていない?)の歌で、全く告発したり訴えかけたりする調子じゃないもんね。

 

 

そしてこれら二枚のアルバム『ザ・フリーウィーリン』『時代は変わる』でも、上記の七曲以外は別に社会問題を歌ったものではないトラディショナルな民謡に基づいているか、あるいはそうでなければわりとシンプルなラヴ・ソングだ。ラヴ・ソングの数はプロテスト・ソングの数とほぼ同じなのだ。どうです?大手マスコミなんかが押し付ける(「フォークの神様」的な)ステレオタイプ・イメージからいまだに脱却できていない方々(がたくさんいることが、昨年のノーベル文学賞受賞騒ぎの際に明らかになった)には意外な事実かもしれない。

 

 

典型的プロテスト・ソング・シンガーではない、というかむしろプロテスト・ソング・シンガーとはかなり呼びにくいようなボブ・ディランなのに、典型的な人たちよりも典型とみなされて有名になってしまったのは、裏返せばディランの歌が、プロテスト・ソング、フォーク・ソングの類を歌う場合ですら、そういう実はニセモノを歌うですら、彼の声だけはホンモノに聴こえていた、みんなの心に訴えかけることができていたのだという証拠でもある。

 

 

しかしディランは自分の音楽のなかにあるこの矛盾に当然気が付いていたはずだ。だからだんだんと、いや、すぐに、我慢できなくなったに違いない。自分はホンモノの歌を歌いたいし創る力も歌える力もある、それなのに歌そのものはフォーク・ソング、プロテスト・ソングといったニセモノの世界にある 〜 これはディランだったらもう絶対に我慢できないね。

 

 

ディランが(彼のなかには数も多くなく典型的でもない)プロテスト・ソングをやらなくなったのは、社会のリアルな現実に密着しようとすればするほど、かえって歌がウソっぽくなってしまうことに、早々に気がつかざるをえなかったからだろう。ディランが音楽の本質を見きわめる本物の眼を持っている証拠でもある。

 

 

だからディランのデビュー四作目のアルバム『アナザー・サイド・オヴ・ボブ・ディラン』には、まだアクースティック・ギター(かピアノ)弾き語り路線ではあるけれど、「マイ・バック・ペイジズ」みたいな曲があるんじゃないかな。「マイ・バック・ペイジズ」は、ハッキリと、プロテスト・ソングを歌っていた<あの頃の僕>への反省と悔恨を表現している歌だもんね。

2017/04/16

エリントン楽団で歌うアイヴィ・アンダスン

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女性だろうと男性だろうと、デューク・エリントンが専属的に雇った歌手のなかで最も魅力的な存在だったのがアイヴィ・アンダスン。アイヴィは1931年2月にエリントン楽団に正式加入し、その後42年8月まで在籍。スタジオ録音はもちろん、ライヴ・ツアーにも同行し歌った。この31〜42年という時期のエリントン楽団の録音のメインはコロンビア系レーベル(ブランズウィクなど)で、前からしつこすぎるほど頻繁に繰返しているが、本家コロンビアが完全集として CD リイシューしなかったので、Mosaic がリリースした11枚組で辿る以外ないのだ。

 

 

モザイクはかなりしっかりとしたリイシュー・レーベルなのでそれで充分なのだが、まあ11枚組はサイズもデカイし、限定生産・発売だったしで、それもあってひょっとしていまでは入手が簡単ではないのかな?でも心配することはない。これまたいまや廃盤で中古しかないみたいなんだけど、コロンビア系レーベルへのエリントン楽団の録音でアイヴィ・アンダスンがヴォーカルをとった曲だけを抜き出した CD 二枚組アンソロジーがある。

 

 

それが『デューク・エリントン・プリゼンツ・アイヴィ・アンダスン』で、これはもともと1973年に LP 二枚組で米コロンビアが発売したものだった。日本盤 LP があったかどうかは記憶がないのだが、CD リイシューなら日本盤も出ている。SME が2000年に出した『デューク・エリントン・プレゼンツ・アイヴィー・アンダーソン』。これを僕は即買いして、現在まで愛聴している。

 

 

エリントン楽団で歌うアイヴィのヴォーカルそのものは、むかしからファンのあいだでは愛聴されてきた。アナログ・レコードでも1930年代のエリントン楽団コロンビア系録音セレクションがあって、最も有名な「スウィングしなけりゃ意味ないね」なんかも入っていた。またヴィクター系録音のエリントン楽団ならむかしからレコードでも完全集があって(コロンビアとのなんたる違い!)、それには1940年代初頭の同楽団でアイヴィが歌う「ソー・ファー、ソー・グッド」「ミー・アンド・ユー」「アイ・ガット・イット・バッド」など、当然全てあった。

 

 

いま「アイ・ガット・イット・バッド」の名前を出したけれど、この1941年6月26日録音の色っぽいバラードこそが、エリントン楽団でのものといわずアイヴィ・アンダスンの全録音で最も魅力的なものだと僕は思うのだ。あたかもコロンビア系録音アンソロジー『デューク・エリントン・プリゼンツ・アイヴィ・アンダスン』の話をするかのような格好をしながら、まずはこのヴィクター録音の一曲について書いておこう。

 

 

1941年6月26日に、エリントンが曲を、ポール・フランシス・ウェブスターが歌詞を書き、エリントンとビリー・ストレイホーンが共同アレンジした「アイ・ガット・イット・バッド(アンド・ザット・エイント・ノー・グッド)」を、楽団は2テイク録音しどちらも現存。ヴィクター系全集24枚組でなら両方聴ける。がしかしじっくり聴き比べても二つのテイクの違いは非常に小さいので、1941年に SP レコードで発売されたマスター・テイク(=テイク2)だけでいいだろう。

 

 

 

これであれば、別にコンプリート集なんかじゃなくたって、普通の戦前のヴィクター系エリントン楽団の簡便なアンソロジーにも入っている。確認はしていないが、「アイ・ガット・イット・バッド」が収録されない同楽団のヴィクター録音アンソロジーなんて考えられないので間違いないはず。上の音源をお聴きになって分るように、なんともセクシーじゃないか、アイヴィのヴォーカルもジョニー・ホッジズのアルト・サックスも、そして楽団のアンサンブルそのものも艶っぽいことこの上ない。おかしな気分になっちゃうな。

 

 

こういった官能ソングはエリントンの得意としたところで、その多くでジョニー・ホッジズやベン・ウェブスターらがエロエロとサックスを吹いている。そういうのが僕は大好きなんだなあ。「アイ・ガット・イット・バッド」も、ヴォーカリストなしでエリントン楽団が再演する場合は、いつもホッジズのアルトをフィーチャーするショウ・ケースになっていた。

 

 

がしかし上掲の1941年初演ヴァージョンの「アイ・ガット・イット・バッド」で最もセクシーなのは、やはりアイヴィ・アンダスンのヴォーカルなんだよね。こんな声とこんな歌い方でこんな内容を目の前で歌われた日にゃあ、オジサン、そりゃもうたまりません。40年代のアメリカにタイム・トリップしたいぞ。しかもその歌のあとで、さらにその雰囲気をソックリ引き継いでジョニー・ホッジズがエロく煽る。

 

 

あまりこの曲にばかりこだわっていてもあれなので、やはりコロンビア系録音集の『デューク・エリントン・プリゼンツ・アイヴィ・アンダスン』の話をしなくちゃね。この二枚組のオープニングが「スウィングしなけりゃ意味ないね」(It Don't Mean A Thing (If It Ain't Got That Swing))なのだが、この曲は、アイヴィが歌った1932年2月2日のブランズウィック録音が初演なのだ。

 

 

 

このリズムを聴いてほしい。まずウェルマン・ブロウドの野太いベース音に導かれ、そのベース伴奏だけでアイヴィがスキャットで入るあたりから既に背筋がゾクゾクするようなスリルを僕は感じる。クーティ・ウィリアムズのワー・ワー・ミュート・トランペットとホーン・アンサンブルに続き、普通の歌詞のある部分をアイヴィが歌いはじめると、やはりその抜群のリズム感に感心しちゃう。だいたいこの32年録音の「スウィングしなけりゃ意味ないね」のビートは尋常じゃないからね。

 

 

ジャズのメインストリーム・ビートとも呼びにくいような、まるで1970年代のファンク・ミュージックを何十年も先取りしたかのようなリズムだよなあ。ファンクというのが言い過ぎならリズム&ブルーズだ。R&B なら間違いなくこの32年録音にある。粘り気といい跳ね方といいそんな感じだよね。僕はこの32年版「スウィングしなけりゃ意味ないね」を、なにかをしながら、例えばリズミカルにキーボードをタイピングしながら聴くことができないんだよね。こっちの体内生理リズムを撹乱されてしまうからだ。

 

 

そんなに、聴き手の体内リズムを掻き乱すほどに、強靭で粘っこいビート感を持つ「スウィングしなけりゃ意味ないね」で、アイヴィ・アンダスンはエリントン楽団の奏でるアンサンブルに一歩も引けを取らず、自分の喉一本で堂々と渡り合っているばかりか、迫力とスウィング感を増す役目を果たし、曲の魅力を拡大している。すごいことだよなあ。

 

 

『デューク・エリントン・プリゼンツ・アイヴィ・アンダスン』はこれが一曲目であるせいで、聴く人はみんなこれを聴いただけでノックアウトされてしまうはずなのだが、その後、そんな濃厚なサウンドとリズムの曲でアイヴィがチャーミングに歌うものばかりが並んでいるもんだから、どれの話をしたらいいのか僕も困っているのだ。

 

 

しかしやはりアイヴィがエリントン楽団のコロンビア系録音で歌ったもので重要なのは、『デューク・エリントン・プリゼンツ・アイヴィ・アンダスン』の二枚目六曲目の「ローズ・オヴ・ザ・リオ・グランデ」、同14〜16曲目の「ソリチュード」「ストーミー・ウェザー」「ムード・インディゴ」だろう。

 

 

「ローズ・オヴ・ザ・リオ・グランデ」は1938年6月7日録音で、やはり2テイクあるが、そのうちファースト・テイクはスウィングというレーベルで発売されたもので、ブランズウィックはセカンド・テイクの方をレコード発売。どっちもモザイクの11枚組完全集で聴けるが、『デューク・エリントン・プリゼンツ・アイヴィ・アンダスン』にも収録されている、ブランズウィックから発売されたテイク2の方が出来がいい。

 

 

 

この「ローズ・オヴ・ザ・リオ・グランデ」のポップでスウィンギーな味もいいが、もっといいのは、エリントン楽団のコロンビア系録音で戦前の最後あたりに録音された「ソリチュード」「ストーミー・ウェザー」「ムード・インディゴ」のバラード三曲だ。三つとも同じ日、1940年1月14日のコロンビア(「系」ではない)録音。

 

 

「ストーミー・ウェザー」だけはエリントン云々関係なく有名曲だよね。ハロルド・アーレンが1933年に書いたこの曲を最初に歌ったのはエセル・ウォーターズで、その後ビリー・ホリデイもフランク・シナトラもダイナ・ワシントンも歌っているが、なんといってもこの曲はリナ・ホーンの代表曲だ。1943年の映画『ストーミー・ウェザー』に自ら出演し歌い人気になった。この映画は、やはりこの曲を歌ったアデレイド・ホールの伝記作品で、リナ・ホーンはその女性歌手役。

 

 

 

アデレイド・ホールはエリントン楽団でも歌ったものがあり、それは猥褻な、もとい、セクシーな1928年2月3日ヴィクター録音の「クリオール・ラヴ・コール」。アデレイドはフリーランスの歌手で、どこかの楽団に所属はしていなかった。エリントンもアイヴィ・アンダスンをレギュラー歌手として雇うまでは、そんなフリーランス歌手をそのつど起用していたのだった。この木管アンサンブルは女性のよがり声にしか聴こえないぞ。ラヴ・コールだもんなあ。

 

 

 

ちょっと脱線してしまったがいつものことだ。「ストーミー・ウェザー」を有名にしたのは、書いたようにリナ・ホーンに間違いないのだが、録音はエリントン楽団でアイヴィ・アンダスンが歌った1940年の方がちょっとだけ早い。しかも歌の出来を言うなら、アイヴィの方が上だろうなあ。

 

 

 

お聴きになって分るように、まずクーティ・ウィリアムズがワー・ワー・ミュートでエゲツなく猥雑にグロウルするのも最高だが、続いて出るアイヴィのヴォーカルも素晴らしく、それにオブリガートをつけるベン・ウェブスターのたゆたうようなテナー・サックスもいいじゃないか。

 

 

他の二曲「ソリチュード」「ムード・インディゴ」の話もしておこう。言うまでもなくアイヴィが歌う1940年録音は、エリントン楽団でも初演ではない。前者は1934年1月10日のヴィクター録音、後者は1930年12月10日のやはりヴィクター録音がオリジナルだ(ただし「ムード・インディゴ」は、同楽団でもこの約一ヶ月前にヴィクターに録音しているようだが発売されず、僕の持つヴィクター系録音完全集にも収録がない)。

 

 

「ムード・インディゴ」は、また自楽団名義ではなく、エリントン参加のピック・アップ・メンバーによるものであればこれより早く1930年10月14日にオーケーに録音済(だが僕はそれを持っていない、どれに入っているんだ?)。また同10月17日に、やはり七人編成でブランズウィックに「ムード・インディゴ」を録音。30年当時のブランズウィック・レーベルはデッカ系なので、僕もデッカ系録音のエリントン完全集三枚組(に附属のディスコグラフィ記載のこの「ムード・インディゴ」の録音日付は間違っている)で聴いている。

 

 

それら「ソリチュード」や各種「ムード・インディゴ」は、言うまでもなくエリントン楽団のインストルメンタル演奏だ。1940年のコロンビア録音ヴァージョンで聴けるアイヴィ・アンダスンが歌う歌詞を書いたのは、例によって当時の楽団マネイジャーだった アーヴィング・ミルズ。歌詞の中身はたいしたことないが、アイヴィの歌い方と、各人のソロと、その背後で聴こえるサウンドがチャーミングなんだよね。

 

 

 

「ムード・インディゴ」https://www.youtube.com/watch?v=p-xC9DEqGMY

 

 

二曲ともエリントン楽団のトレード・マーク的な印象派風アンサンブル。どっちも初演はまだビリー・ストレイホーン加入前の録音だから、エリントン自身こういった音楽的志向がもともとあったいうことではあるなあ。だがしかし上掲の1940年録音ではビリー・ストレイホーンが共同でアレンジし直しているので、一層そんな楽想が濃くなっているのがお分りいただけるはず。

 

 

ポップでブルージーな歌手アイヴィ・アンダスンが参加して歌っているせいで、エリントン楽団ファンのなかに多い西洋クラシック音楽愛好家のみなさんは、やはりこういうのはあまりお好きじゃないんだろうと思う。しかしですね、ヴォーカルを抜けば西洋印象派風なイメージは一層強くなっていると思うのだが、まあでもこのチャーミングなアイヴィのヴォーカルを無視して聴いたら面白味半減ではあるなあ。はぁ〜、むずかしい…。

 

 

この(マトリックス・ナンバー順に)「ソリチュード」「ストーミー・ウェザー」「ムード・インディゴ」をコロンビアに録音した1940年1月14日には、続いてもう一曲「ソフィスティケイティッド・レイディ」も録音している。もちろんモザイクの11枚組完全集で聴けるのだが、どうしてだかこの曲ではアイヴィが歌っていない。これまた印象派風のバラードで、しかもセクシーなニュアンスのある曲だろうと僕は思うので、アイヴィのブルージーなヴォーカルが聴けたらもっとよかったんだけどなあ。エリントンさん、どうしてアイヴィに歌わせてあげなかったんでしょうか?インストルメンタル・ヴァージョンならもっと前からあるじゃないですか。

 

 

さてさて、エリントン楽団の戦前コロンビア系録音は、この1940年1月14日がラスト・デイトになり、同40年3月6日からは、34年5月9日以来約六年ぶりにヴィクター録音を再開する。その一曲目である「ユー、ユー・ダーリン」で歌うのは男性歌手ハーブ・ジュフリーズだが、他の曲ではアイヴィ・アンダスンもたくさん楽しくポップに歌っているのだ。その最高傑作が、最初にご紹介したセクシーな「アイ・ガット・イット・バッド」だと僕は思っている。ありゃもうセクシーというか、聴いている僕はスケベ気分になってしまうから困っちゃう。

 

 

またスウィング感ということであれば、1940年3月15日録音の「ミー・アンド・ユー」が絶品だ。アイヴィ・アンダスンの歌だけでなく、クーティ・ウィリアムズ、ジョニー・ホッジズ、ローレンス・ブラウン、バーニー・ビガードの楽器ソロも文句なしにスウィンギー。ソニー・グリーアのドラミングも躍動的だ。

 

 

 

ジャングル・サウンドの猥雑さやド迫力という意味では、1941年6月26日録音の「チョコレイト・シェイク」がものすごい。エリントン楽団のこのサウンドとリズムの強靭さの前には脱帽するしかないが、アイヴィ・アンダスンのヴォーカルも、これ、いったいどうしたんだ?この鬼のような切迫感は?

 

2017/04/15

岩佐美咲にくびったけ 〜 オリジナル楽曲篇

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AKB48や関連のガール・グループ所属中か所属経験のある芸能人で、僕が女として一番好き(とかまたヘンなこと言ってるぞ^^;;)なのは篠田麻里子なんだけど、歌手としてであれば、1ミリの疑いも躊躇もなくそれは岩佐美咲だと即答・断言する。というか AKB48云々関係なく、いまの世の中で僕のモスト・フェイヴァリット・シンガーが岩佐美咲なんだよね。日本人であろうとなかろうと、いまの僕にとっては岩佐美咲がナンバー・ワン。

 

 

そんな岩佐美咲のオリジナル楽曲の一つ「もしも私が空に住んでいたら」のなかに、「もしも私が空に住んでいたら、ふしあわせな人に、そっと 陽を射すわ」と歌う部分がある。これはまさに岩佐がいまの僕にしてくれていることなんだよね。いや、もちろん僕は不幸せな人間などではない。岩佐美咲を知る前から楽しくて幸せな毎日を送っているし、それに僕はだいたいなんだって深刻に考え込まず落ち込まず、「まぁなんとかなるさ」と思う楽天家なんだよね。

 

 

でも岩佐美咲ファンになって以後、彼女の歌を聴いていると、「もしも私が空に住んでいたら」の歌詞通り、本当に岩佐が僕の心に「陽を射」してくれているような気分になる。岩佐はいまの僕にとっては太陽なんだよね。いままでこのブログで僕は三つ、岩佐美咲についての記事を書いて三日連続でアップしたけれど、九割以上がカヴァー・ソングについての話だった。

 

 

 

・歌手は歌の容れ物(その2)〜岩佐美咲の魅力 https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/2-cc7a.html

 

・既にいち演歌歌手の枠を飛び越えている岩佐美咲 https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-206d.html

 

 

この三つ目の記事のなかで、岩佐美咲のオリジナル楽曲については、実にアッサリと触れているだけだ。これでは、岩佐をご存知ない方はこの歌手はカヴァー・ソング・シンガーなのかとか、あるいはご存知の方なら、僕は岩佐のオリジナル楽曲六つがあまり好きじゃないのかとか、ひょっとしてそう勘違いされてしまうかもしれないよね。それは本意ではない。

 

 

岩佐美咲は、来たる五月に新作 DVD をリリース予定で、当然のように僕はそれを買うので、またたっぷり楽しんだら(そうなるのは間違いないと思うんだよね)、またなにか書くことがあるだろうし、さらにこれはたぶん僕は行けないだろうけれど、五月七日に新宿明治安田生命ホールで、アクースティック・ギター弾き語りのソロ・ライヴ・コンサートをやるんだそうだ。う〜ん、全編岩佐のギター弾き語りなのか…。行きたい…。

 

 

がしかし上でリンクを貼った一つ目の記事でも書いてあるように、岩佐美咲のギター弾き語りは僕にとっては相当にヤバいもので、CD を聴くだけであんなことになってしまうので、生での演唱を体験したりしたら、しかもコンサート全編がそれであったりなんかしたら、僕は歓喜のあまり発狂死すること間違いない。楽しく美しい音楽で知らないものが地球上にたくさんあるから、僕はまだ死にたくない。やっぱり行かない方がいいのか…。悩むなあ。

 

 

五月といえば、ビートルズの高名盤『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の50周年記念 CD 六枚組とかいうものもリリースされるんだそうだ。それにも強い興味がある僕だけど、慌ててすぐに買わないといけないものじゃない。後廻しでいい。それよりもなによりも、いまの僕にとっては岩佐美咲が最優先事項なのだ。

 

 

そんなことで五月は話題満載の岩佐美咲なので、そして上で書いたように勘違いされたくないという理由もあって、四月半ばのいまの時期に岩佐のオリジナル楽曲六つについて、ちょっとだけ書いておくことにしよう。ただし、わいるどさんもおっしゃっているように、岩佐の魅力を(冷静かつ)論理的に伝えるのはヒジョ〜に難しい作業だ。

 

 

 

僕が書いた上でリンクを貼った三つの記事も、単に熱に浮かれて「わさみん大好き〜!」という思いに任せて、本当にそれだけの勢いで書きなぐったもの(激情的に書くと自然にあんな文章ができあがる人間なのだ)。テキスト・エディタで書いて完成したものをブログにアップする前に読み返すと、こりゃどうにも力が入りすぎだろうと思えてならなかった。そうなると岩佐美咲の魅力から遠ざかってしまう。

 

 

岩佐美咲の歌い方は、彼女自身がどういう気持で歌っているのかまでは分らない僕だけど、少なくとも CD や DVD になっている出来上がりを聴いて判断する限りでは、本当に自然体で力みがない。それをお聴きでない方に分りやすく伝えよう伝えようとすればするほど熱を帯び文章が力んでしまって、書いたものの出来上がりは岩佐の持つ自然体とは真逆のことになってしまう。

 

 

つまり書き手が熱烈な岩佐美咲リスナーであればあるほど、自分の持つそんな熱を伝えよう、どれほど素晴らしい歌手なのか分ってもらおうとすればするほど、その文章自体はどんどん岩佐の姿から遠ざかっていって、彼女の魅力が伝わらないんじゃないかと悩んでしまうというディレンマが生じるっていう 〜 こんな難しい歌手もなかなかいないんだよね。

 

 

いやホント僕の文章にロジカルな説得力なんかないのではあるが、普段からそうだからしょうがない。そんな書き方しかできない。ともかく、岩佐美咲のために書かれたオリジナル楽曲は、2017年4月時点で、リリース順に「無人駅」「もしも私が空に住んでいたら」「鞆の浦慕情」「初酒」「ごめんね東京」、そして「鯖街道」。

 

 

それらのなかで、今年一月リリースの最新曲「鯖街道」はシングル盤(二種類)だけでリリースされている。その前までの五曲は、もちろんオリジナル・リリースはシングル盤だけど、いまでは昨2016年11月に発売されたセカンド・アルバム『美咲めぐり 〜第1章〜』(通常盤でも限定盤でも) に全て再録されている。これを入手して以後、シングル CD の方は(カップリング曲を除き)聴き直していないんだが、同じものなんだろう?

 

 

だからアルバム『美咲めぐり 〜第1章〜 』に収録の五曲と、あとは「鯖街道」の CD シングルがあれば、それもどっちも通常盤で、岩佐美咲のいままでのところのオリジナル楽曲は全部揃う。それら六曲を iTunes で一つのプレイリストにしてみると、再生時間が全部で約24分。う〜ん、短い。もっとほしいぞ。だからこればっかり自動リピート設定にして繰返し聴く僕。

 

 

それとあとは、ファースト DVD『岩佐美咲ファーストコンサート〜無人駅から新たなる出発の刻』にも「ごめんね東京」までの五曲は全部あるので、それも聴き直すと面白い。岩佐美咲の歌い方が変化していて、グングン上達しているのを実感できるからね。

 

 

岩佐美咲のオリジナル楽曲六つのうち、いまの僕が一番好きなのはリリースが2015年4月だった「初酒」だ。しかしこれを好きになったのは DVD『岩佐美咲ファーストコンサート〜無人駅から新たなる出発の刻』で聴いてからだ。それまではイマイチ好きじゃなかった。どうしてかというと、あのリズムなんだよね。

 

 

はっきり言ってしまうと岩佐美咲の「初酒」のリズムは、美空ひばりの「柔」と同じパターンなのだ。ひばりのことは大好きな僕だけど、それは軽快でポップでスウィンギーだった10代の頃のひばりであって、その後演歌路線に転じてからは全く好きじゃない。モッタリと重くなって、あれはひばり本来の持味じゃない(でも大人気だよね)。僕は演歌が嫌いだなどと勘違いなさる方はよもやいらっしゃらないはず。

 

 

そのあたりのことは以前書いたので、同じ悪口ばかり100%をまた繰返すのは僕の趣味じゃない。興味のある方は以下のリンク先をご一読いだたきたい。ひばりの歌では、ドリス・デイのカヴァーだけど「上海」とか、オリジナル曲なら「河童ブギウギ」とか「お祭マンボ」(最高傑作)とか、甘く見ても「港町十三番地」まで。要するに1957年までの歌なら、ブラジルの大歌手カルメン・ミランダに比すことだってできる魅力があるんじゃないかなあ。

 

 

 

「柔」(作曲は古賀政男)は軽快じゃなく重たくベッタリしたリズムで、その上で歌うひばりの歌い方も同じ。しかもあれが大ヒットしたせいで、その後同種の歌謡曲(演歌でもなんでもいいが)が乱発されるようになった。ひばりだけじゃなく他の歌手にも多いんだよね、すごく。

 

 

岩佐美咲の「初酒」はそんな系譜に連なる曲であるように、特にリズム・パターンがそうであるように聴こえていたので、イマイチ好きじゃなかったんだよね。僕のこの気分がガラリと変化したのは、上で書いたようにファースト DVD『岩佐美咲ファーストコンサート〜無人駅から新たなる出発の刻』のオープニングで聴いてからだ。

 

 

あの DVD、本編幕開けの前に BGM が流れているのだが、それが終わってまだ幕が閉まったままの状態で、「初酒」のあのドンドコドンというイントロが流れはじめて、と同時に幕が上がり、するとそこに着物姿の岩佐美咲が、半泣き状態で(笑)立っている。あの幕開けで流れるドンドコというあのリズムに乗った「初酒」の歌がいいなあと、僕は感動しちゃったんだなあ。

 

 

そう感じて聴き直すと、それまでに五つある岩佐美咲のオリジナル楽曲のうち、コンサートの一曲目に持ってくるのに「初酒」以上にピッタリ来るものはないんだよね。これこそが幕開けに最も相応しい曲なんだと納得できた。まぁあのコンサート幕開けでの「初酒」は、岩佐自身緊張していて若干声が上ずっているし、ピッチもちょっぴり不安定。泣いてもいるし、でもそれは人生初ソロ・コンサートの一曲目なんだから、しょうがないじゃないの。

 

 

それが分って、DVD じゃない CD ヴァージョンのオリジナル「初酒」を聴くと、元々かなり良いもののように聴こえてくるから不思議だなあ。それまでイマイチだとか思っていたのにねえ。あのズンドコズンドコっていうリズム・パターンは、僕はやっぱり大好きだと思えるものじゃないけれど、岩佐美咲の歌い方はかなりチャーミングだ。声質もキュートでカワイイ。「柔」のひばりとは大違い。

 

 

ところで「初酒」は曲題通りお酒がテーマで、岩佐美咲自身成人してお酒が飲める年齢になってからの初シングルなので、こういう曲を提供されたのは分りやすい。しかしこれ、10代の頃に歌ったとしても、僕は違和感を感じなかっただろう。「初酒」だけじゃない、その他のオリジナル曲も、またカヴァー曲も、歌詞内容がなかなか凄いものが多く、あれらを10代後半〜20代前半のまだ若い<女の子>が実感をともなって歌えるのか?などとお考えの方がひょっとしていらっしゃるとすれば、それは歌の世界をご存知ないのだと言わざるをえない。

 

 

歌手だけじゃなく表現者には想像力というものがあるじゃないか。実体験がないと迫真の表現ができないなどと考えるならば、じゃあ殺人や覚醒剤使用などの犯罪で刑務所服役中の囚人をリアルに演じる役者は、あれは全員それを実際に体験しているからだとでもおっしゃるのだろうか?体験したからこそホンモノの演技ができるのだとでも?

 

 

歌手の世界も同じだ。それは歌にまつわる<ウソとマコト>ということなんだけど、この音楽の虚構性が持つリアリティということについては、やや大きめのテーマなので、じっくり改めて考えて別の記事にしてみようと思っている。特にボブ・ディランがどうしてプロテスト・ソングをやめたのか、そのあたりにも一因があるような気がするので(たぶん明後日月曜に出せるはず、そのなかには岩佐美咲の名前出てくるはず)。

 

 

とにかく歌手自身の立場や実体験と歌の中身がピッタリ張り付いて合致していないと、歌にリアリティを持たせられないなんてものじゃないんだということは、僕たち日本人はよく分っているはずだ。同性愛者ではない男性歌手が女言葉で女の気持を、同様に女性歌手が男言葉で男の気持を、これ以上なくリアルに歌う世界だもんね、日本の大衆歌謡はね。これは男が女も演じる歌舞伎や、女が男も演じる宝塚がある日本に住む人間なら理解しやすい(はずだが…)。

 

 

音楽や歌の虚構性。フィクションだからこそ逆にリアリティを持って表現できて聴き手に訴えかけてくるという、そんな世界に岩佐美咲もやはり立っている。オリジナル楽曲でいえば、例えば2014年1月発売の「鞆の浦慕情」や、2017年1月発売の「鯖街道」はいわゆるご当地ソングだ。前者は広島県福山市、後者は福井県小浜市が舞台。

 

 

岩佐美咲自身はこれらを歌うにあたり、たぶん現地で取材したり、そのほか勉強などしたりしたかもしれない。それは当然なのかもしれないが、しかし岩佐自身は広島や福井と特に関係の深くない千葉県出身であることに、なんの問題もないだろう。現地に行かなくたって全く構わない。演歌の世界にはご当地ソングが実に多く、そういうものを歌う歌手も当地でイヴェントをやるのが通例になっているが、そういう類のことと歌にリアリティを持たせられるどうかとは、別のことなんだよね。

 

 

岩佐美咲もまた、そんな具合に歌にリアリティを持たせられる音楽的想像力、あるいはフィクショナルな、いやフィクションだからこそより一層リアリティを出せる歌唱表現力を 間違いなくしっかり持っている。これが分って聴き直すと、岩佐の実力がグングン向上していることには間違いないけれど、2012年2月発売のデビュー曲「無人駅」から、既にそんな歌い方をしているじゃないか。鈍感な僕もようやく分ってきたのだった。いま沖縄にいるはずのわさみん、遅くてゴメンね〜。

2017/04/14

案外ビ・バッパーな面もあった(かもしれない?)マイルズ

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昔からマイルズ・デイヴィス名義でしか発売されていないが、本当のリーダーはタッド・ダメロンである1949年のパリ・ライヴ盤『パリ・フェスティヴァル・インターナショナル』(正式には『イン・パリ・フェスティヴァル・インターナショナル・ドゥ・ジャズ、メイ、1949』という)。マイルズ初の公式ライヴ録音だけど、発売されたのは1977年のこと。

 

 

1977年なら、一時隠遁中だったとはいえマイルズは大スターだったので、だからマイルズ名義でレコード発売したんだろうね。最初にリリースしたのは CBS フランスのジャズ部門で、その後この時のバンド・メンバー五人の母国アメリカをはじめ世界中で流通した。だがこのマイルズ初渡仏の際のクインテットのボスは、あくまでタッド・ダメロンなのだ。

 

 

タッド・ダメロンはかなりいい曲を書くジャズ・コンポーザーだから、昔から僕は好き。ただし好きなのは彼の書くチャーミングなメロディ・ラインと、あとはバンド・リーダーとしての才能であって、いちピアニストとして見れば、はっきり言ってどうでもいい存在なんだよね、僕には。大したことないだろう。そんなジャズ・ピアニスト兼コンポーザーって、他にも何名かいるじゃないか。

 

 

そんなタッド・ダメロンが1949年、フランスのパリ・ジャズ・フェスティヴァル(le festival du jazz de Paris)に招待されて組んだクインテットのトランペッターに起用したのが、当時チャーリー・パーカーのバンドを辞めたばかりのマイルズ・デイヴィスだったのだ。他のチョイスはジェイムズ・ムーディー(テナー・サックス)、バーニー・シュピーラー(ベース)、ケニー・クラーク(ドラムス)。

 

 

ニュー・ヨークはブルックリン生まれのベーシスト、バーニー・シュピーラーも、熱心なジャズ・ファンなら知っているが、一般的な知名度はかなり低いはず。でも彼以外はダメロンとマイルズは言うまでもなく、サックス奏者もドラマーもかなりの有名人だよね。パリでのライヴだということを考えると、自然とケニー・クラークに注目したくなるが、ケニーがフランスに永住するのは1956年のこと。49年ならまだニュー・ヨークのトップ・ドラマーだった。

 

 

実際、マイルズ名義の『パリ・フェスティヴァル・インターナショナル』で一番目立つのがケニー・クラークのビ・バップ・ドラミングの上手さだ。ボスのタッド・ダメロンは演奏のあいだはあくまで脇役に徹していて、曲はタッドのオリジナル・ナンバーも多いが、ピアノ・ソロの時間は短く、マイルズとジェイムズ・ムーディー、特にマイルズのソロ時間が長い。

 

 

だから聴感上やっぱりマイルズのトランペットに耳が行くのは自然な成り行きだ。あとはドラムス・ソロを叩く曲も一つだけあるが、他はあくまで伴奏であるはずのあいだのケニー・クラークの音も妙に目立ち、しかもかなり上手い。完璧に完成されたビ・バップ・ドラミングなので、それも聴いてしまうね。ただし全体的に録音状態は必ずしも良くない。

 

 

録音状態といえば、この『パリ・フェスティヴァル・インターナショナル』は音が悪い音が悪いとみんな言うけれど、そこまでひどく悪くもないじゃん。1949年の、それもライヴだということを踏まえれば、むしろ音質は良い方だ。もっとひどいのがいっぱいあるし、これで音が悪いなんて言ってたら、録音年がもっと古いライヴ盤なんかどうすんのさ?スタジオ録音だって…。

 

 

あ、いま思い出した。僕が大学生の頃、松山にモッキンバードというジャズ喫茶があった。僕が頻繁に通っていたジャズ喫茶は、いつも名前を出すケリー(戦前ジャズしかかけない)とジャズメッセンジャー(JBL パラゴンを設置)の二軒だけど、当時の松山には他にも二軒あって、ブルーノート(タンノイのスピーカー)、そしてモッキンバードだ。

 

 

ケリーとジャズメッセンジャー以外の店にもまあまあ行った僕。まあ暇だけはたっぷりあって、入り浸ってジャズのレコードを聴きタバコ吸いながら(コーヒーは一杯しか注文しないから)本を読んでいたのだ。ある時モッキンバードで座っていると、マイルズ名義の『パリ・フェスティヴァル・インターナショナル』がかかったのだ。しかし!その店のママは「あまりに音が悪い」とボソッと言って、途中で針を上げてしまったのだ。

 

 

 

 

その時モッキンバード店内の客は僕だけだったので、特になにもなかったのだが、その僕はといえば内心「なんちゅうことをするんや?!音質が悪いとかただそれだけの理由で!それにそんなにひどい音じゃないぞ!」と頭に来たんだよね。この店の当時のママはどうやら二代目だったらしく、店にあるレコードの大部分は初代がそのまま残してくれたものだったようだ。

 

 

そのレコードの再生途中で針を上げたママはかなり若くて、たぶん僕より10歳も上ではなかったと思う。だから当時20代後半あたりかなあ。しかもセクシー美女だった。その容貌のみに目が眩んで下心満々の僕は、上京後も葉書のやりとりを続けていて、その女性は結局松山でのジャズ喫茶はたたんで上京し、弱小劇団の女優になった。僕はその舞台を観に行ったこともある。やっぱり綺麗だったなあ。レコードの再生を途中でぶった切ったことだけが、いまとなっては最も忘れられない思い出だ。

 

 

またどうでもいい話だった。『パリ・フェスティヴァル・インターナショナル』で聴く、レコード発売上の名義的リーダーであるマイルズのトランペットは、案外悪くない。みなさん言っているように結構熱いビ・バッパー的な吹き方で、ハイ・ノートをヒットすることもあるし、いったいどうなってんの?普段はいつも中音域でおとなしく静かに吹くくせに、とちょっと不思議なんだよね。

 

 

『パリ・フェスティヴァル・インターナショナル』になった1949年5月8/9日というと、マイルズは既に例の九重奏団でのロイヤル・ルースト出演を前年48年9月に終えていて、その同じ九重奏団でのキャピトル・レーベルへの録音も、49年分は既に終了していた。それは1月21日と4月22日。その後50年3月9日にも録音して、それらが当時は SP 盤で発売され、12インチ LP にまとめられる際に『クールの誕生』のアルバム名が付いた。

 

 

キャピトルがマイルズ本人の意向とは無関係に付けたあの「クール」のレッテルは、ややミスリーディングな部分もあるんじゃないかなあ。もちろん僕も前々から繰返し、今日も上で一度書いたが、マイルズは決してホットな、というか苛烈な吹き方をするジャズ・トランぺッターなんかじゃない。中音域をメインに静的でおとなしいスタイルが売りの人だ。しかもサウンドにヴィブラートを全くかけないので、その点でもストレート、というかまあクールだと言われるのは納得できる部分もある。

 

 

だけど1955年にジョン・コルトレーンたちと一緒に結成したファースト・クインテットによる一番出来のいい録音である56年5月と10月のプレスティジ・レーベルでのマラソン・セッション全26曲のなかには、「フォー」「ソルト・ピーナツ」「ウェル・ユー・ニードゥント」「ハーフ・ネルスン」「エアジン」など、かなりハードな演奏もあるもんなあ。ドラマーのフィリー・ジョー・ジョーンズの猛プッシュで、フロントのマイルズも結構熱く吹いているじゃないか。キャピトルが『クールの誕生』と名前をつけたのは、あくまで西海岸の白人ジャズ・メン、特にジャック・シェルドンあたりが手本にしたからなんだよね。

 

 

『パリ・フェスティヴァル・インターナショナル』でも、1949年当時は最高のジャズ・ドラマーだったケニー・クラークの極上のプッシュにやはり後押しされて、マイルズも熱く吹いているもんなあ。結果的に『クールの誕生』になった録音集でも、タイトルとは裏腹にホットに聴こえる時間もあるじゃないか。マックス・ローチが叩く「ムーヴ」とかさ。

 

 

だから『パリ・フェスティヴァル・インターナショナル』については、みなさん、マイルズがホットでびっくりしますよと言っているのだが、案外普段通りという面だってあるんだよね。ライヴ録音後、ラジオ放送用に仕上げる際にかぶせたフランス語のアナウンス(演奏途中でもどんどんかぶさるのでオーヴァー・ダビングなのは間違いない)でも、「最も新しいジャズのかたち、ビ・バップ・スタイル!」(la forme la plus moderne du jazz, le style bebop)と、まるでスポーツ実況並みの熱狂ぶりで喋っているもんね。

 

 

そんな熱を帯びたアナウンサー(誰だろう?)の叫びを裏切らない、というか演奏後に聴きながらかぶせたアナウンスだから間違いなくそう思ってアナウンサーは喋っている、新しいジャズの潮流ビ・バップの「典型」とは言いにくいかもしれないが、本場の姿にまだあまり接していなかったかもしれないフランス人がそう判断しても当然だと言える、ある種の<熱>を、『パリ・フェスティヴァル・インターナショナル』でのマイルズとケニー・クラークには感じる。

 

 

またこのアルバムにある三曲のバラードのうち、「ドント・ブレイム・ミー」「エンブレイサブル・ユー」では、1955年あたりからマイルズの得意分野になるリリカルな吹奏の姿が、未完成ながら萌芽としてしっかり聴けるのだ。僕は特に「ドント・ブレイム・ミー」にそれを感じる(「次は”ドント・ブレイム・ミー”」と喋っているのはマイルズ本人)。

 

 

 

また「エンブレイサブル・ユー」の方では、原曲のメロディをほとんど吹かず、それをタッド・ダメロンがピアノで暗示しながら弾く上で、もっぱらアド・リブ・ラインを吹くマイルズは、間違いなくかつてのボス、チャーリー・パーカーの1947年10月28日ダイアル録音の同曲における吹奏スタイルを真似ている。それにはマイルズも参加しているもんね。1949年パリ・ライヴでの「エンブレイサブル・ユー」はこれ。

 

 

2017/04/13

オレのモージョーが効いてるぜ

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ブルーズ・ファンのみなさんにはお馴染のモージョー・ハンド。この言葉を最初にレコード吹込みしたのは、僕の知る限りでは女性ブルーズ歌手アイダ・コックスだ。「モージョー・ハンド・ブルーズ」というもので、1927年7月シカゴにおけるパラマウント録音。

 

 

 

アイダ・コックスはもちろん例のジャズ・バンドやピアノの伴奏でやる1920年代の都会派女性ブルーズ歌手の一人。この「モージョー・ハンド・ブルーズ」もピアノ一台の伴奏で歌っている。アイダは当時は人気も評価も高く、「ブルーズの無冠の女王」とまで呼ばれたにもかかわらず、いまではマトモな CD 全集がないという体たらく。ああいった女性ブルーズ歌手を本家筋がコンプリート・リイシューしているのって、ベシー・スミスだけだもんなあ。

 

 

僕が聴いている範囲では、この次にモージョー・ハンドを歌ったのが、以前エディ・ラング関連で書いたブルーズ歌手テキサス・アレクサンダーで、1928年11月20日録音。伴奏がコルネットのキング・オリヴァーとギターのエディ・ラングで…、と以前の時と同じ音源を貼ろうとしたら、YouTube のそれはいまや再生不可じゃないか。残念だ。

 

 

しかしながら、このモージョー・ハンドという言葉を有名にしたのが、やはり戦後シカゴで大活躍したマディ・ウォーターズであることに間違いはないんだろう。マディはまず1950年10月23日録音の「ルイジアナ・ブルーズ」でこの言葉を歌詞のなかに歌い込んでいる。自身のギターとリトル・ウォルターのハーモニカ、ビッグ・クロウフォードのウッド・ベース、エルガ・エドモンズのドラムスという編成。

 

 

 

この録音の次にマディがこの言葉を使ったのが、あまりにも有名な「アイム・ユア・フーチー・クーチー・マン」。1954年1月7日録音で、オーティス・スパンのピアノ、ジミー・ロジャーズのギター、エルガ・エドモンズのドラムス編成。この頃になると、マディの電化バンド・ブルーズは完璧なかたちをしている。この曲の場合「モージョー」だけで「ハンド」という言葉はない。その代わりジョン・ザ・カンカルーなどその他いろいろ出てくる。

 

 

 

マディによるこの次が、数年後からライヴでの定番になる「ガット・マイ・モージョー・ワーキング」で、1957年1月録音。やはりリトル・ウォルター(といっても当時のバンドのレギュラー・ハーピストはジェイムズ・コットンだったのだが、なぜかこの日だけウォルター)、オーティス・スパンのピアノ、パット・ヘアとヒューバート・サムリンのギター、ウィリー・ディクスンのベース、フランシス・クレイ(じゃないというデータもある)ドラムス。強烈にモダンなフィーリングで、いいなあこれ。

 

 

 

マディの言う「ガット・マイ・モージョー・ワーキング」とは、オレのモージョーが効いてるぜ、すなわち(性的な意味で)女を虜にしているぜ、というくらいの意味なんだろう。マディにはこういったセクシャルなマチスモ、というかオトコ自慢みたいな歌詞や曲題が実に多いよなあ。端的に言えば卑猥だが、「音楽なんてエロくないワケがない(ので「マカーム・エモーション」という自ら考案したセミナー名がエロいものだと受け取られても仕方ないのか?)」と、つい数日前にアラブ・ヴァイオリニストの及川景子さんもおっしゃっていた。

 

 

そしてこの「ガット・マイ・モージョー・ワーキング」が有名になるのは、マディがこの曲をライヴ・ステージの締めくくり定番にしてからに違いない。録音が残っているなかで一番早いのが1960年7月3日、ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルでのもの。『マディ・ウォーターズ・アット・ニューポート 1960』に収録されている。

 

 

どうしてなんだか僕は知らないが、このニューポートのライヴ盤での「ガット・マイ・モージョー・ワーキング」は、パート1とパート2の二回演奏。たぶんこれに倣ったのであろう、1969年の『ファーザーズ・アンド・サンズ』収録のライヴ音源でも同じだよねえ。ホントどうして分けたんだろう?

 

 

マディのライヴ音源で「ガット・マイ・モージョー・ワーキング」が聴けるものは、上記二つが有名だろう。やはり音源を貼ってご紹介しておこう。まず1960年のニューポート・ライヴから。パート1とパート2の連続動画でアップされている。動くのが残っているなんて、僕、いままで知りませんでした。マディの動き、テンション高いなあ。

 

 

 

この1960年ニューポート・ライヴの際のマディ・バンドは、ジェイムズ・コットン(ハープ)、オーティス・スパン(ピアノ)、パット・ヘア(ギター)、アンドリュー・スティーヴンスン(ベース)、フランシス・クレイ(ドラムス)という編成。

 

 

そして『ファーザーズ・アンド・サンズ』収録の1969年4月24日録音「ガット・マイ・モージョー・ワーキング」はこちら。

 

 

 

みなさんご存知の通り、『ファーザーズ・アンド・サンズ』は白人ブルーズ・ロック勢との共演盤で、いま貼った音源も、ピアノのオーティス・スパンとドラムスのサム・レイ以外は全員白人。ポール・バタフィールド(ハープ)、マイケル・ブルームフィールド(ギター)、ポール・アシュベル(ギター)、ドナルド・ダック・ダン(ベース)という編成で、アルバム収録のスタジオ録音とライヴ録音の両方をやっている。

 

 

といっても、上で貼った『ファーザーズ・アンド・サンズ』収録の「ガット・マイ・モージョー・ワーキング」では、パート2の方で、ドラマーだけがバディ・マイルズに交代している。叩き方が、まあバディもいちおうサム・レイのスタイルを真似ているものの、やはり微妙に異なっているのを聴き取っていただけるはずだ。まだジミ・ヘンドリクスのバンドに参加する前だ。

 

 

マディがライヴでの締めくくりにこの「ガット・マイ・モージョー・ワーキング」を使うのはいつものことだったので、探せばたくさん見つかりそうだが、上記二つ以外で僕が持っているのは一つだけ。それは2009年にリリースされた1966年11月4〜6日のライヴ音源で、『オーソライズド・ブートレグ〜マディ・ウォーターズ・ライヴ/フィルモア・オーディトリアム - サン・フランシスコ、CA』という一枚。

 

 

この『オーソライズド・ブートレグ』というのは、同名でシリーズみたいにしていろんな音楽家のライヴが出ているけれど、どれも中身のいい蔵出し音源だ。タイトルからして以前からブートレグで流通していたものを公式化したものなんだろうか?マイルズ・デイヴィス関係のブート盤以外ほぼ買ったことのない僕には分らないが、マディのこの1966年ライヴ、かなりいいぞ。

 

 

『オーソライズド・ブートレグ』収録の「ガット・マイ・モージョー・ワーキング」は11月5日録音。やはりラスト・ナンバーだったようで、終演後にバンド・メンバーをマディ自身が一人一人紹介している。ジョージ・スミス(ハーモニカ)、ルーサー・ジョンスン&サミー・ロウホーン(ギター)、マック・アーノルド(ベース)、フランシス・クレイ(ドラムス)。マディはやはりヴォーカルに専念。

 

 

この1966年フィルモアでの「ガット・マイ・モージョー・ワーキング」は2パートに分れていない約四分間。しかも録音だっていいんだなあ。僕が持っている三種類のマディのライヴ・ヴァージョンでは、疑いなく一番いい。バンドの疾走するグルーヴ感と迫力も素晴らしい。ジョージ・スミスのアンプリファイド・ハープなんか絶品だ。ただしテンポの速さと演奏スタイルのせいで、ノリのディープさは少し薄くなっている。

 

 

マディがやって有名定番ブルーズ・スタンダードになった「ガット・マイ・モージョー・ワーキング」は、本当にスタンダード化したのでカヴァーしている音楽家が多く、到底とりあげてなどいられないのでやめておこう。ほんのちょっと名前だけを出すと、ブルーズ・メンではジェイムズ・コットン、ロバート・Jr ・ロックウッドなど大勢、ロッカーではポール・バタフィールド・ブルーズ・バンド、エルヴィス・プレスリーなどこれまた大勢。

 

 

最後にちょっとした変わり種をご紹介しておこう。それはニュー・オーリンズ音楽の巨人プロフェッサー・ロングヘアがやる「ガット・マイ・モージョー・ワーキンング」だ。フェスはライヴでよくこの曲をやっていたらしいのだが、公式盤収録は、僕の知る限り、遺作になった二枚組ライヴ盤『ザ・ラスト・マルディ・グラ』だけ。1978年2月、地元ニュー・オーリンズにあった自らの拠点ティピティーナ・クラブでのライヴ収録。

 

 

 

フリーキーなテナー・サックス・ソロもなかなかいいフェスのこの「ガット・マイ・モージョー・ハンド」。しかし「ルイジアナへ行ってモージョー・ハンドを手に入れるぞ」などと言ったって、フェスはニュー・オーリンズの人間で、しかも現地でのライヴでそう歌うのもなんかちょっと妙だよなあ。(マッキンリー・)モーガンフィールドの名前を作者としてクレジットしているが、しかし歌詞もメロディもさほどの強い関係はないようだ。だってそれらどっちも、おそらくはニュー・オーリンズを含むアメリカ南部に古くから存在する伝承ものじゃいかと思うからだ。

 

2017/04/12

僕の可愛いキャンディ

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「スタンド・バイ・ユア・マン」という曲は、僕の場合、間違いなくこれで初めて聴いた。

 

 

 

僕だけじゃなく、そんな人多いんじゃないかな。この『ブルース・ブラザース』は1980年のアメリカ映画で、ブルーズ、リズム&ブルーズ、ソウル・ミュージックへのトリビュート&オマージュ作品のようなものだった。実際、現実に大活躍中だった黒人音楽家が大挙出演し、なかにはレイ・チャールズ、ジェイムズ・ブラウン、アリーサ・フランクリンみたいな、当時なら超の付く大御所もいた。

 

 

キャブ・キャロウェイがこの『ブルース・ブラザーズ』出演をきっかけに、晩年に再ブレイクしたことも忘れられない。また、つい最近亡くなったキャリー・フィシャーも、僕は『スター・ウォーズ』におけるレイア姫で先に馴染んでいたので、清楚で気高い役柄のイメージだったのに、『ブルース・ブラザース』では機関銃をぶっ放すイカれた謎の女を演じていて、印象が180度変わってしまった。

 

 

とにかくアメリカ黒人音楽賛美映画だったので、そこにどうして上掲動画のようなシーンがあるのかは説明が面倒くさいので、ご存知ない方は調べるなり、あるいはご覧になっていない黒人音楽ファンの方には、是非とも DVD を買っていただけるよう、強く強くオススメしておく。黒人音楽と切り離せない各種ダンスの名称と実際の動きも分るし、なんたってあんな超大物黒人音楽家たちの動く姿は、日本に住んでいる僕たちが目にするのは難しいわけだよ。

 

 

映画『ブルース・ブラザース』の一場面を切り取った上掲 YouTube 動画でお分りのように、「スタンド・バイ・ユア・マン」というのはカントリー・ソングだ。しかし僕たちブラック・ミュージック愛好家は、間違いなくキャンディ・ステイトンの歌で知っている。上のようなカントリー・ソングを、キャンディが歌うとこうなる。

 

 

 

これはキャンディによる初演で、1970年録音の翌71年レコード発売。ビルボードの R&B チャート四位にまで上昇するというかなりのヒットになって、キャンディ最大の代表曲となった。だから当時からライヴ・ステージでは繰返し歌っていたはずだし、最近も歌っているのが YouTube に上がっている。例えばこれは2006年のアムステルダム公演。

 

 

 

このライヴ・ヴァージョンでは歌に入る前にキャンディが喋っていて、「スタンド・バイ・ユア・マン」がどんな意味の歌なのか分かりやすい。キャンディはこういった、特にソウル畑のものではない曲をソウル仕立てで歌っているものが僕の知る限りもう一つあって、1972年の「イン・ザ・ゲトー」。

 

 

 

もちろんみなさんご存知エルヴィス・プレスリーのレパートリーだ。この曲にかんしては、僕は実を言うとエルヴィス・ヴァージョンの方が好きなんだよね。1968年カム・バック後のエルヴィスでは、これとその他数曲をレコーディングしたメンフィス・セッションが、スタジオ録音ではいちばん好きな僕。「サスピシャス・マインド」も(大好きな)「ケンタッキー・レイン」もその時に録音した曲なんだよ。「イン・ザ・ゲトー」だけ貼っておこう。

 

 

 

これらキャンディ・ステイトンのカヴァーによる「スタンド・バイ・ユア・マン」も「イン・ザ・ゲトー」もフェイム録音。前々から書くようにフェイムという言葉には感じやすい体質の僕で、Fame という文字が見えるだけで、中身の想像が全く付かなくても買ってきている。原因は、これまた以前から書いているように、スペンサー・ウィギンズのフェイム盤シングル曲「アイド・ラザー・ゴー・ブラインド」を聴いて、あの歌い出しで背筋に電流が走ってしまったためだ。

 

 

キャンディもスペンサー・ウィギンズも、これらのフェイム録音は、ちょうどこのスタジオが転換期を経てからのもの。リック・ホールがアラバーマにフローレンス・アラバーマ・ミュージック・エンタープライズ(Fame とはこの略)を設立したのは1950年代末頃だったらしいが、正確なことは分っていないみたいだ。

 

 

フェイムが有名になるのは、1965年にパーシー・スレッジがこのスタジオで「男が女を愛する時」を録音したのが大ヒットになってから。そしてアトランティックのジェリー・ウェクスラーが同65年にウィルスン・ピケットをマスル・ショールズへ向かわせてフェイム・スタジオで「ダンス天国」を録音したのと、 67年にアリーサ・フランクリンをやはり同地へ赴かせ「貴方だけを愛して」を歌わせたのと 〜 この三つでフェイム・スタジオはソウル・ミュージック愛好家には忘れられない名前になった。

 

 

だがフェイムのスタジオ・ミュージシャンたちは、1969年にリック・ホールと袂を分かちマスル・ショールズ・サウンド・スタジオを立ち上げる。70年代にはロッド・スチュワートもここで録音したし、その他多くの歌手たちがここで歌ったので有名になったが、フェイムのリック・ホールは彼ら有能な白人セッション・メン(そう、ここまでは全員白人だったのだ)を失って、新たに黒白混交編成でミュージシャンを起用して再出発した。それが俗にいうフェイム・ギャング。

 

 

キャンディ・ステイトン(やスペンサー・ウィギンズ)は、こうしたフェイム・スタジオの新旧交代後にマスル・ショールズにやってきて録音した歌手で、だからアリーサたちなどとは少し経緯が異なっているんだよね。とはいえキャンディの場合、ゴスペルを歌っていた時期にアリーサの「ドゥー・ライト・ウーマン、ドゥー・ライト・マン」を聴いたのがきっかけで世俗のソウル歌手としても歌うようになったらしいけれども。

 

 

ともあれそんなことで、世代交代したフェイム・スタジオで録音した1969〜72年のキャンディ・ステイトンの歌は本当に素晴らしい。これまた英 KENT レーベルが2011年に CD二枚組の『エヴィデンス:ザ・コンプリート・フェイム・レコーディングズ・マスターズ』をリリースしてくれたので、この頃のキャンディの全貌が分るようになって嬉しい。

 

 

キャンディの場合、アリーサの歌を聴いたのがソウル歌手として出発するきっかけだったとか、(世代と中身が異なるが)アリーサがブレイクするきっかけになったのと同じフェイム・スタジオで録音しただとか言っても、ヴォーカルの魅力はアリーサとはかなり違うよね。アリーサのあのパワフルさ、大声量、崇高さすら感じる堂々たるヴォーカル態度やド迫力は、キャンディにはない。

 

 

キャンディにあるのは、それらに代わって、まるで変声期前の少年の歌を聴いているかのようなチャーミングさ、可愛らしさ、そして一種の危うさじゃないかなあ。力強さと歌唱力は圧倒的ながら、アリーサのような気高い崇高さは薄いというかほぼない。時に近寄りがたさすら感じさせるアリーサと違って、キャンディはフレンドリーで近づきやすいのだ。そこがこの女性サザン・ソウル歌手最大のチャーム・ポイントなんじゃないかと僕は思う。

 

 

例えば KENT 盤『エヴィデンス』の一枚目一曲目の「サムワン・ユー・ユーズ」(1969)や、三曲目「ユー・ドント・ラヴ・ミー・ノー・モア」(69)や、五曲目「スウィート・フィーリング」(69)や、そしてやっぱりなんたって14曲目の「スタンド・バイ・ユア・マン」(70)などで、そういった可愛らしいキャンディの歌の魅力が分りやすいと思う。

 

 

「サムワン・ユー・ユーズ」 https://www.youtube.com/watch?v=diyu25feYjA

 

「ユー・ドント・ラヴ・ミー・ノー・モア」https://www.youtube.com/watch?v=VHskeILyXpU

 

「スウィート・フィーリング」https://www.youtube.com/watch?v=U0X7JuXuuWw

 

 

やはりキャンディもまた歌っているサザン・ソウル・スタンダードの「ザッツ・ハウ・ストロング・マイ・ラヴ・イズ」。KENT 盤『エヴィデンス』では一枚目七曲目の1969年録音。しかし初演である O・ V・ライトのヴァージョンや、有名すぎるオーティス・レディング・ヴァージョンなどで聴けるような、ちょっと力入りすぎだろうとも思える声の張りとコブシはやや弱く、キャンディは優しく若干穏やかなフィーリングで歌っているんだよね。

 

 

 

これをお聴きになれば分るように、典型的なサザン・ソウル・バラードのスタイルで、キャンディも基本的には力を入れて歌っているけれども、しつこく粘っこすぎないようなフィーリングじゃないかな。アッサリ味とは言えないが、チャーミングで親しみやすい歌い方だ。僕はそう感じる。そこが僕にとってはキャンディの魅力なんだよね。

 

 

これまた三連のサザン・ソウル・バラードである KENT 盤『エヴィデンス』一枚目15曲目の「ハウ・キャン・アイ・プット・アウト・ザ・フレイム」なんかも、この曲題は正式にはこのあと括弧内に「ウェン・ユー・キープ・ザ・ファイア・バーニング」と続くので分るように、恋の炎を消せないわ、どうしたら忘れられるの?という歌で、がしかし未練がましく男にしつこく迫るような歌い廻しではなく、やっぱり可愛らしい感じだよなあ。

 

 

 

また KENT 盤『エヴィデンス』一枚目八曲目の「アイム・ジャスト・ア・プリズナー(オヴ・ユア・グッド・ラヴィン)」は、ミドル〜アップ・テンポのスウィンガーで、ファンキーさも出しながらキャンディは余裕綽々で歌いこなしているのも楽しい。ところでこの曲、冒頭でドラムスから入るパターンは、フィル・スペクターを意識したのだろうか?

 

 

 

KENT 盤一枚目20曲目「トゥ・ヒア・ユー・セイ・ユア・マイン」とか、続く21曲目「ワット・ウッド・ビカム・オヴ・ミー」とかは、いちおうバック・バンドの演奏はサザン・ソウル・バラードの典型的パターンだけど、キャンディの歌い方は、やはりしつこさが強すぎず、適度な粘り気があってチャーミングだから、聴いていて本当に楽しいし心地良くリラックスできるんだよね。

 

 

2017/04/11

ウェザー・リポートの4ビート

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速くて細かく入り組んだ4ビートを演奏するウェザー・リポート。このことについてまとまった文章を見かけない。専門家のどなたも書いてくださらないので、仕方なく素人の僕が書くことにした。全く自信がないんだが、誰も書かないんだから、自分が読みたいものは自分で書くしかない(僕の動機はだいたいいつもこれ)。はぁ〜、ホント自信はありません。

 

 

きっと事実の指摘を列挙するだけで批評性のない文章が仕上がるだろうな。普段からいつもそうだから気にしないで読んでほしい。意外に思われるかそうでもないのか分らないが、ウェザー・リポートは結成当初から4ビート・ナンバーをやっている。8ビートと電気(電子)楽器を使ったジャズ・ロック・フュージョンのバンドだと普通はみなされているに違いないのだが。

 

 

リアルタイム・リリースでそれが表面化したのは1978年の『ミスター・ゴーン』からだ。間違いなく全員が失敗作、たとえ熱心なウェザー・リポート・ファンでも過渡期的アルバムだと考えている一枚で、僕もやっぱりそうだよなと思ってはいるのだが、このアルバムの全収録曲八つのうち、三曲4/4拍子のものがある。同じく三曲あるのが1980年の『ナイト・パッセージ』。この二作が4ビート・ジャズという視点から見た時、最も面白いウェザー・リポートだ。

 

 

ただ、リアルタイム・リリースでも1977年の『ヘヴィ・ウェザー』B 面ラストに「ハヴォナ」があるじゃないか。これ、4/4拍子だよね。作曲者はジャコ・パストリアスで、演奏もジャコのエレベが主導権を握って展開している。それはそうとこの「ハヴォナ」は、このバンドにおけるジャコのベース演奏最高作じゃないだろうか?「ティーン・タウン」より凄いぞ。

 

 

 

この「ハヴォナ」でドラムスを担当しているのがアレックス・アクーニャ。やや複雑で細かい叩き方をしているよね。従来からの4ビート・ジャズの定型ドラミングに基本的には則っているものの、特にスネアの使い方はそこから逸脱し入り組んでいる。バスドラのペダルを踏むタイミングも従来的ではない。ジョー・ザヴィヌルはもちろん電子楽器であるシンセサイザーを大胆に使っている。曲全体のアレンジもたぶんザヴィヌルだろう。

 

 

ザヴィヌルのアレンジって相当細かい部分まであらかじめ譜面化してあって、全ての楽器のほぼ全ての音を一つ一つ決めてあったみたいだ。ウェイン・ショーターの吹くサックスやジャコらの弾くベース・ラインが完全に譜面通りであるのはもちろん、ドラマーにもシンバル、スネア、ハイハット、バスドラなどを入れるタイミングまで全部キッチリ譜面で指定していたようで、ザヴィヌル以外のメンバーはかなり窮屈だったかもしれないなあ。

 

 

しかしその結果できあがった作品を聴くとスポンティニアスな演奏に聴こえるので、やはりコンポーザーとしてのザヴィヌルの能力は高かった。クラシック界の作曲家や、ジャズ界で探せばデューク・エリントンが、ザヴィヌルのとっていた手法と結果をもっと早くから実現していたけれどね。だからウェザー・リポートの、上で音源を貼った「ハヴォナ」みたいな4ビート演奏も、ザヴィヌルの意図をそのまま実行したものに違いない。

 

 

ただ録音当時未発表だったものなら、もっと早く、最初に書いたように結成当初から、ウェザー・リポートには4ビート・ナンバーが一つだけある。それがザヴィヌルの書いた曲では最も有名なものの一つ「ディレクションズ」だ。マイルズ・デイヴィスのために1968年に書いて提供し、同年暮れに一緒にスタジオ録音し、またマイルズはその後1969年から71年まで全てのライヴ・ステージのオープニング・ナンバーにしていたので、かなり知られている。

 

 

ウェザー・リポートの「ディレクションズ」というと、間違いなく全員が1972年の『ライヴ・イン・トーキョー』を言うだろう。この72年1月13日は渋谷でのライヴ演奏から編集されて、A 面がスタジオ録音であるアルバム『アイ・シング・ザ・ボディ・エレクトリック』の B 面になっている。『ライヴ・イン・トーキョー』では一枚目 B 面いっぱいを占めるメドレーのラストだが、『アイ・シング・ザ・ボディ・エレクトリック』では、「ディレクションズ」は B 面ラストの単独曲になっている。

 

 

だいたいこの時に限らず、ウェザー・リポートは随分長いあいだ「ディレクションズ」をライヴでの定番ラスト・ナンバーにしていたので、公式ライヴ盤での収録も、上記以外に二種類ある。しかしこの曲、このバンドではライヴ・ヴァージョンしか存在しないんだろうと僕は長年思っていた。それが2009年リリースの CD 三枚+DVD 一枚のベスト盤『フォーキャスト:トゥモロウ』に、未発表だったスタジオ録音が収録されたのだ。

 

 

『フォーキャスト:トゥモロウ』は、ウェザー・リポートの既発曲のベスト盤というだけでなく、そんな未発表曲もあるし、そもそもオープニングの二曲がマイルズ・ヴァージョンの「イン・ア・サイレント・ウェイ」とウェイン・ショーターの「スーパー・ノーヴァ」だしで、ちょっと侮れないんだよね。これに収録のスタジオ版「ディレクションズ」は1971年11月10日録音。

 

 

 

ここでは4ビートのラニング・ベースをミロスラフ・ヴィトウスが弾き、ドラマーのエリック・グラヴァットは4/4拍子の全拍で均等なハイハットを踏み、と同時にそれ以外のスネアやバスドラやシンバルで忙しなくオカズを入れまくるという、まるでトニー・ウィリアムズみたいなスタイルのドラミング。だからまだまだそんなに斬新な4ビート演奏ではない。

 

 

これが変化するようになってくるのが、上述1977年「ハヴォナ」を経ての78年『ミスター・ゴーン』から。この一般には失敗作・過渡期的作品とされているアルバムにある4ビート・ナンバーは、全部 B 面の「ミスター・ゴーン」「パンク・ジャズ」「ピノキオ」の三つ。最後のものには曲名だけでオッ!となるジャズ・ファンが多いはず。それもそのはず、マイルズ・デイヴィスの1968年作『ネフェルティティ』の B 面ラストだったウェイン・ショーター・ナンバーだ。

 

 

ちょっとその二つの「ピノキオ」をご紹介しよう。録音時期の早いマイルズ・ヴァージョンから。

 

 

ウェザー・リポート→ https://www.youtube.com/watch?v=_2OFKzlZDJo

 

 

マイルズのはごく普通のポスト・バップ的な4ビート・ジャズで、各人のソロも普通に出てくる。ところがウェザー・リポートのヴァージョンにはソロといえるソロがない。冒頭でフェイド・インしながらザヴィヌルがピアノでソロを弾いているがそれだけで、テーマ演奏になってからはそれをリピートするだけ。その背後でピーター・アースキンが、かなり細かく入り組んだドラミングを聴かせるっていう、つまりマイルズの、この「ピノキオ」が収録されたアルバム『ネフェルティティ』タイトル・チューンのやり方なんだよね。

 

 

「ミスター・ゴーン」も、ミドル・テンポではあるが変態的4ビート。ジャコが書き自身のベースが躍動する「パンク・ジャズ」も4/4拍子だがかなりヘンだ。しかもこれら二曲でのドラムスはトニー・ウィリアムズなんだよね。アルバム『ミスター・ゴーン』はドラマーの交代期に録音されたので、曲によってトニーだったりアースキンだったりスティーヴ・ガッドだったりする。

 

 

「ミスター・ゴーン」https://www.youtube.com/watch?v=-u_KCmDpfMk

 

 

 

トニーのドラミングが、元々1963年にマイルズのバンドの正式メンバーになった頃からそうだけど、やはりかなり細かく入り組んで複雑な、いい意味での変態的4ビートを叩き出している。ってことはトニーを『ミスター・ゴーン』でザヴィヌルが起用して、マイルズ・バンド時代の曲「ピノキオ」(のドラムスはアースキンだが)もやって、全て4/4拍子のリズム・アレンジにしたのには、やはりこの音楽的独裁者の確たる意図があったよなあ。

 

 

上で貼った「ミスター・ゴーン」のような、この時のそれ自体はまださほど面白くないかもしれない4ビート演奏が、1979年のライヴ盤『8:30』二枚目 B 面のスタジオ録音サイドにある「サイトシーイング」を経て、80年『ナイト・パッセージ』A 面トップのアルバム・タイトル曲となって結実する。そっちは最高に素晴らしいと、昔から評価が高い(かった?)ものだ。

 

 

 

これ、しかしアースキンのドラム・セット各パートの音がヘンだよねえ。どうしてこんな音色なんだろう?録音時のことなのか録音後の処理なのか分らないけれど、とにかく生音のハイ・ファイ・サウンドではない。かなり加工してあって、シンバルもスネアもクシャーンっていう妙な音だ。これもザヴィヌルの考えなんだろうなあ。

 

 

アルバム『ナイト・パッセージ』では B 面一曲目に「ロッキン・イン・リズム」がある。言わずと知れたデューク・エリントン・ナンバー。自分とバンド・メンバーの書いた曲以外をやることは滅多になかったザヴィヌルのウェザー・リポートだけど、これはやはり偉大すぎる先達への敬意なのか?挑戦なのか?

 

 

 

お聴きになって分るように、これは4/4拍子ではない。エリントンがなんどもやったそのままの8ビート・シャッフルにザヴィヌルもアレンジしている。しかしジャコは一小節に四つの均等な音を弾くというラニング・ベース・スタイルだ。つまり8ビートと4ビート・スタイルの混在。こういった8と4の混淆リズムは、1930年代からエリントンが得意とするところではあった。

 

 

上掲ウェザー・リポートの「ロッキン・イン・リズム」中盤部では、ザヴィヌルがデジタル・アクースティク・ピアノでエリントン・スタイルのパスティーシュをやるあたりもちょっと面白いが、まあしかしその部分も含め、演奏全体それ自体はどうってことないものだ。少なくともエリントン楽団のやる、例えばこんな「ロッキン・イン・リズム」とは比較にもならないだろう。

 

 

 

ウェザー・リポートのアルバム『ナイト・パッセージ』でもっと面白い4ビート・ナンバーは、「ロッキン・イン・リズム」に続く B 面二曲目の「ファスト・シティ」だろう。曲題通りの超急速調で、これ、難曲だよなあ。特にテーマ部分と中間部の合奏部分でタイミングを合わせるのが難しそうだ。

 

 

 

ピーター・アースキンが、やはり細かくて複雑な、21世紀のいま聴いても同時代感がある(?)ような入り組んだ4ビート・ドラミングを展開している。この「ファスト・シティ」が、ウェザー・リポート時代のアースキンのベスト演奏にして、このバンドの4ビート・ナンバーでは一番面白く、2017年でも訴求力が、ひょっとしたらあるかも?

 

 

その後もウェザー・リポートは4ビート・ナンバーをいくつもやっている。『ナイト・パッセージ』の次作『ウェザー・リポート(1982)』の A 面ラストには、三部構成の大曲「N.Y.C.」があって、この2パート目からはアースキンはブラシで繊細な4ビートを演奏するが、はっきり言って曲自体が面白くないから、音源だけ貼って話はしない。

 

 

 

その後リズム・セクションがヴィクター・ベイリーとオマー・ハキムに交代してのちは、特に1984年の『ドミノ・セオリー』、85年の『スポーティン・ライフ』のそれぞれアルバム・ラストで、かなりテンポの速い複雑な4ビートを、それもあらかじめプログラミングしてあるドラム・マシン演奏と、生身のドラマーであるオマー・ハキムを競わせてやらせるという過酷な仕打ちをザヴィヌルは強いている。ザヴィヌルは、たぶんテクノ・ミュージックから思い付いたんじゃないだろうか。

 

 

「ドミノ・セオリー」https://www.youtube.com/watch?v=A-2jZfcmPBU

 

「アイス・ピック・ウィリー」https://www.youtube.com/watch?v=htrXTKAgKDE

2017/04/10

ジェシ・エドはヴォーカルだっていいんだぞ

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タルサ・サウンド 〜 LA スワンプ系の愛好家であれば間違いなく全員好きであろうジェシ・エド・デイヴィス。上掲画像の二枚以外にもう一枚あるけれど、僕はそれを聴いていないので、『ジェシ・デイヴィスの世界』と『ウルル』の話しかできない。ところでこの人の名前 Jesse Davis というのは、アメリカ大衆音楽界において、ジャズ・サックス奏者に同姓同名の人がいる。しかもちょっとだけ活躍しているので、その人と区別するために僕は”エド”のミドル・ネームを必ず付けることにしている。ロック・ファンのみなさんは、ニュー・オーリンズにあるエリス・マルサリス(ウィントンの父)のジャズ・スクールで学んだジェシ・デイヴィスなんて眼中にないだろうが。

 

 

ジェシ・エド・デイヴィスの場合、ギターの方の腕前は、いまさら僕がなにか言う必要もないほどみんな褒めているので書かなくてもいいんだろう。上記二枚の自身のリーダー・アルバムを創る前からセッション・マンとして活躍していて、いろんな有名人の有名アルバムで弾いているから、例えばエリック・クラプトンや、あるいはポール・マッカートニーを除く三人のビートルのソロ・アルバムなどのファンのあいだでも名が知られているはず。

 

 

しかしジェシ・エドがまず知名度をあげたのは、タジ・マハールに起用されたことでだった。その前から既にロス・アンジェルスに住んで同地で活動していたジェシ・エドは、タジの最初の三枚に起用されてギター(とピアノ)を弾いている。タジ自身がギター名人なわけで、そんな人が起用するわけだからジェシ・エドのギター、特にスライド・プレイは魅力的だったってことだよね。

 

 

しかしジェシ・エド、ヴォーカルの方は評判が高くない。上手いというか下手というか味があるというか 〜 みたいな書き方をされていることが多いので、おそらく本音ではみなさんジェシ・エドの歌は下手くそだと思っているということだよね。そうに違いない。黒人ブルーズ〜リズム&ブルーズ〜ソウル系の旨味とコクのある喉を聴き慣れていると、確かにジェシ・エドの歌は褒めようがないだろう。

 

 

あるいはアラブ歌謡とかトルコ古典歌謡とかの張りのある強い声で朗々とコブシを廻すヴォーカリストや、アフリカン・ポップスでも良かった頃のサリフ・ケイタやユッスー・ンドゥールみたいな、鋼の声で突き刺すような鋭さと強靭さを兼ね備えているような人や、あるいはそれらなにもかも全て持っていた理想形のようなパキスタンのヌスラット・フェテ・アリ・ハーンや、さらにまた現役ならヌスラットの系譜に連なっているように思えるアゼルバイジャンのゴチャグ・アスカロフ(おそらく現役男性歌手世界最高峰)などなど、そんな歌手たちを聴き慣れていると、ジェシ・エドのあの歌はちょっとねぇ…、となるはず。

 

 

しかし北米合衆国にもそれ以外の世界にも、そういう歌い方ではない、まるでブツブツ喋っているような、それも小さい声でうつむいてつぶやくようにボソッと歌う、声を張らずコブシも廻さず、こりゃ下手くそだろうとしか思えないのに大人気の歌手はいっぱいいるじゃないか。

 

 

そんな人たちのなかで日本でも最も人気なのは、おそらくチェット・ベイカーとジョアン・ジルベルトだね。この二人は本当に大人気で、しかも評価だって高いじゃないのさ。決して上手くなんかない歌い方だよね、通常の、というか上記のような歌手たちの歌い方が上手いという判断基準だとね。チェットとジョアンは評価も高いということは、あんな歌い方だって「上手い」んだという考えはしっかりあるということだ。カエターノ・ヴェローゾもちょっとそんな感じかな。

 

 

いわゆる通称砂漠のブルーズに分類されるバンドのヴォーカリストたちだって、やはり小さな声でボソボソとつぶやくような歌い方で、決して朗々たる発声なんかじゃない。下を向いて独り言を落としているかのような歌い方だよね。肝心なのは、チェット・ベイカーでもジョアン・ジルベルトでもティナリウェンでもタミクレストでも、あの歌い方が表現したい音楽性のなかで必然の一部分になっているってことだね。

 

 

彼らの場合みんな、あの歌い方じゃないとあんなノリは出せない。全員男性だから男性歌手で例をあげると、ヌスラットや往時のサリフ・ケイタのような歌い方では、チェットのようなソフトなジャズや、ジョアンのボサ・ノーヴァや、砂漠のブルーズは表現できないもんね。声を張り上げた朗々たる歌い方でやるボサ・ノーヴァや砂漠のブルーズなんてオカシイぞ。

 

 

ジェシ・エド・デイヴィスのあの歌い方の場合も、やはりそんな彼の音楽のなかでの必然要素になって活かされているように僕には聴こえる。『ジェシ・デイヴィスの世界』と『ウルル』で聴けるジェシ・エドのヴォーカルで僕がまず一番最初に連想するのは、ニュー・オーリンズの音楽家ドクター・ジョンの歌い方だ。よく似ているんじゃない?

 

 

例えば『ジェシ・デイヴィスの世界』一曲目の「リーノー・ストリートの出来事」。これなんか歌い方がドクター・ジョンにそっくりだ。特に一回目に出てくる「り〜の〜すとり〜と」の部分のフレイジングというか、ヴォーカル・メロディの抑揚と、そして中間部のモノローグがドクター・ジョンそっくり。

 

 

 

ドクター・ジョンのどの曲に似ているかは数が多いので、例証をあげるのが面倒くさい。『ガンボ』でもちょっと聴き直してみてほしい。このアルバムは一枚丸ごと YouTube に上がっているので、お持ちでない方は、またお持ちの方でも CD 棚から出すのが面倒くさい、あるいはいま自室ではないところにいるというそこのあなた、是非。

 

 

 

ジェシ・エドの場合、僕が聴いている二枚のソロ・アルバム自体の創りも、同時期1970年代初頭頃のドクター・ジョンの作品とよく似ている。探していないが、きっとそういうことを書いている文章が、紙でもネットでもいくつも見つかるんじゃないかという気がする。というのはあの頃のドクター・ジョンもロス・アンジェルスに住んでいて、そこを拠点に活動していたもんね。

 

 

ニュー・オーリンズ(出身)の音楽家だから、どうもこのあたりのドクター・ジョンの活動と音楽性がイマイチ理解されていないかもしれないよね。彼がニュー・オーリンズ音楽の継承者という側面を強く打ち出すようになったのは1972年の『ガンボ』以後であって、その録音だってロス・アンジェルスで行われているし、それで評価を打ち立てるまでは、ロスのセッション・マンとして活躍したファースト・コールだった。

 

 

こういうニュー・オーリンズと LA スワンプとの関係について書きはじめると長くなってしまうのでやめておいて、ジェシ・エド・デイヴィスで僕が聴いている二枚のソロ・アルバムだって、LA スワンプ名盤でありながら、というかそうだからこそ必然的に、ニュー・オーリンズ的南部感覚がはっきりと聴き取れる。

 

 

実際、二枚目の『ウルル』にはマック・レベナックが参加してピアノとオルガンを弾いているみたいだよ。といっても CD パッケージやブックレットのどこにも、ドクター・ジョンに限らず全員の参加ミュージシャンのクレジットがない。二枚ともそうだ。これはちょっと残念だなあ。ネットで調べてもどうも判然としない。

 

 

例えば一枚目の『ジェシ・デイヴィスの世界』にはエリック・クラプトンが参加してギターを弾いているらしいんだが、どの曲のどこで弾いているのか分らない。クラプトンのギター・スタイルくらい超有名人なんだから聴き分けられるだろう?と言われそうだが、ただでさえ僕はヘボ耳の持主である上、ジェシ・エドだってギターすごく上手いんだからなあ。

 

 

このギターは、ピアノはいいなあと思っても、そのへんのことが『ジェシ・デイヴィスの世界』と『ウルル』では分らないんだ。残念。がまあ、例えば二枚とも聴こえるピアノはニュー・オーリンズ・スタイルの、コロコロ転がりながら跳ねるものである場合が多い。それは『ウルル』ではドクター・ジョンかもしれない(がそれ以外のピアニストもいるようだ、例えばリオン・ラッセルも)が、『ジェシ・デイヴィスの世界』では誰なんだろうなあ?そっちにもリオンが参加はしているようだが?

 

 

ただ、これだけはリオン・ラッセルのピアノだろうと確信できるのが『ウルル』A 面五曲目の「マイ・キャプテン」。これは間違いなくリオンのスタイルだし、それにそもそもこの曲題と歌詞のなかに出てくる「僕のキャプテン」とはリオンのことだろうから。

 

 

 

『ウルル』でちょっと面白いのは、B 面二曲目の「オー!スザナ」だね。もちろんスティーヴン・フォスターが書いたあの超有名スタンダード曲だ。これが完璧なる LAスワンプ・ロック仕立てになっていていいんだよね。さながらスワンプ風ミンストレル・ソング。このストンと落ちてハマるドラミングはジム・ケルトナーのスタイルだろう。

 

 

 

ところでこの「オー!スザナ」。ネット情報にはジェシ・エドのオリジナルとなっているものがあったりするし、また僕の持つ『ウルル』日本盤 CD の曲目一覧では Trad. となっているんだなあ。こりゃひどいね。スティーヴン・フォスターの書いた曲だってば!フォスターについては僕も以前一度詳しく書いた。

 

 

 

まあおそらくフォスターの書いた有名曲はそこまでスタンダード化していて、トラディショナルだとか書かれるほどアメリカでも日本でも人口に膾炙しているということなんだと、僕もなんとなく納得するしかないんだろうと、ひとりごつことにしようっと。

 

 

ジェシ・エドのギターのことはほぼなにも書かなかったが、それにかんしては上でも指摘したようにみなさんが言っているので、僕がいまさら書くことなんてない。旨味を出せる名人、この一言で充分だろう。

2017/04/09

パーカーが死んでハード・バップができあがる

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トランペット+サックス+ピアノ・トリオみたいな編成の、ごくごく普通のモダン・ジャズ・アルバムって、いまの僕はもうあまり持っていないんだという事実にごく最近気が付いて、やや愕然としている。「いまの僕は」というのは CD で買い直していないという意味で、かつてアナログ・レコードでは実にたくさん持っていた(はずだ)。

 

 

相対的にはという意味であって、絶対数そのものなら、ありきたりのハード・バップ・アルバムの CD だってたくさん持っているが、他のものがもっとどんどん増えているので、それと比較すればかなり少ないということになってしまう。また聴くか聴かないかという点で言えば、普通のハード・バップのコンボものはもはやあまり聴かない。(一部を除き)ピアノ・トリオやなんか、楽しむためになら、ひょっとしたらもう一生聴かないかもしれない。

 

 

以前も一度言ったが、モダン・ジャズのピアノ・トリオ編成ってつまらないものしかできあがらないフォーマットなんじゃないかといまでは思う。ピアノ+ベース+ドラムスの三人でやるスタイルを確立したのはバド・パウエルだが、バドはそれでも面白いといまでも感じる。だがその後のいろんなモダン・ジャズ・ピアニストは…。

 

 

ジャズのピアノ・トリオは、バド・パウエル以前なら、ピアノ+ベース+ギターの三人というのが一般的だった。ピアノ・トリオという言い方もそれがルーツ。ナット・キング・コールにもアート・テイタムにもそんな録音がたくさんある。このフォーマットなら、いまの僕でもかなり楽しいと感じるのに、どうしてギターがドラムスになっただけで面白くないんだろう?自分でも分らない。

 

 

モダン・ジャズのピアノ・トリオは、僕のなかではもうほぼどうでもいいものになってしまったので、話をする気はない。それプラス、トランペット+サックスみたいなクインテット編成のモダン・ジャズ・コンボ。あまり持っておらず聴きもしないとは言ったが、それでもたまにはありきたりのなんでもないハード・バップ・コンボを無性に聴きたくなることがあるんだよね。そういう気分の時にどの CD を聴けばいいのか、ちょっと困ってしまうのだ。

 

 

クインテット編成のマイルズ・デイヴィスのアルバムなら全部 CD で持っている。がしかしマイルズのトランペットもバンド全体のサウンドも「普通」じゃないように聴こえるもんなあ。アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズあたり(で三管じゃないもの)が典型かつ無難か?実は CD ではほとんど買い直していないのだ。クインテット編成のハード・バップ・アルバムで、いまの僕が一番好きなのは、ハービー・ハンコックの1962年作『テイキン・オフ』でこれはよく聴くが、ほとんどのジャズ・ファンはこれより、65年の『処女航海』の方がお好きなようだ。

 

 

ハービー・ハンコックのメインストリーム・ジャズの話は、また別の機会に改めたい。どうしてみんな『処女航海』が好きなのに、僕は『テイキン・オフ』なのか?ハービーはどうしてピアノ・トリオ作品をやらないのか?(1970年代に一枚だけあるが、それは日本側の企画というか要請だった)〜 そのあたりからなにか面白いことが見えてきそうな気がするからだ。

 

 

さて、典型的なハード・バップ・コンボを聴きたい気分の時になにを聴けばいいのか、いまの僕は困ってしまうと書いたが、今日がそういう気分だったんだよね。それで部屋の CD 棚を漁って二枚取り出したのが、ホレス・シルヴァーの1956年『6・ピーシズ・オヴ・シルヴァー』とソニー・クラークの58年『クール・ストラティン』。この二枚を聴いていて感じるのは、これ、どこが<ハード>なんだろう?という疑問。

 

 

ハード・バップというくらいなんだから、元々はもちろんビ・バップの延長線上にあるものとしてこういう名称になっている。しかしビ・バップとハード・バップを比較して、どっちが激しい・難しい・熱情的・苛烈か?すなわちハードか?というと、絶対にビ・バップの方だよね。ハード・バップはビ・バップの持つそういう部分を、むしろ薄めてマイルドにして聴きやすくしたようなものじゃないか。

 

 

じゃあどうしてああいった1950年代半ば過ぎからのモダン・ジャズをハード・バップと呼ぶんだろう?この hard bop という用語はいつ頃から使われはじめたのか?といろいろと振り返って考えてみると、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ1957年リリースのコロンビア盤が『ハード・バップ』というアルバム・タイトルで、どうもこのあたりからだったんじゃないかなあ?

 

 

これ以前にハード・バップという言葉が使われていなかったのかというと、もちろん使われていただろう。それにああいったジャズのスタイルそのものは、言うまでもなく1957年以前にハッキリと確立されていた。音楽スタイルとしてのハード・バップがどのあたりからできてきたかも、しかしその時期を見極めるのはやはり難しいだろうなあ。50年代前半〜中頃に徐々に固まっていったんだろうね。

 

 

以前中村とうようさんがなにかの文章のなかで、黒人モダン・ジャズの隆盛期は1956年だ、すなわちソニー・ロリンズの『サクソフォン・コロッサス』、マイルズ・デイヴィス『クッキン』、セロニアス・モンク『ブリリント・コーナーズ』、チャールズ・ミンガス『直立猿人』が全てこの年の録音だと書いていたなあ。どこで書いていたんだっけ?

 

 

1956年というこのとうよう説が当たっているとしても、例証としてあげられている上記四枚は、やはりハード・バップを典型的に代表するものだとは言いにくいんじゃないかと僕は思う。このあたり、なにかの現象の本質は、典型ではなく例外の方に出現するという、音楽だけでなくいろんな分野で真実であることが当てはまるだろう。しかしジャズ・ファンではない音楽リスナーでとうようさんファンの方があれを読んで、そうか、じゃあそれらでモダン・ジャズとはどういうものか知ろうと思って CD を買ったら、アテが外れるんじゃないかなあ?

 

 

とうようさんの真意もそんなところにはなかったはず。確かその文章では(僕の記憶が間違っていたらゴメンナサイだけど)、上記のように書く直前で、チャーリー・パーカーが死んだのが1955年で、さらに当該文章のあとで、上記アルバム群が録音された56年には、エルヴィス・プレスリーの RCA 移籍第一弾シングル「ハートブレイク・ホテル」とハリー・ベラフォンテのアルバム『カリプソ』があったと書いていた。

 

 

パーカーの死とエルヴィスとベラフォンテ、これらを一つの線で結びつけるなかで黒人モダン・ジャズの盛り上がりの時期がそこ1956年だととうようさんは指摘したのであって、つまりジャズの枠のなかだけではおさまらない汎アメリカン・ミュージック的な視点からハード・バップを考えた文章だった(が、確かその部分では、エルヴィスとベラフォンテについては後述するとあって、一言しか触れていなかった)。

 

 

だからあのとうようさんの文章(ホントどの本だっけ?本じゃなかった?)は、ジャズ(とその関連周辺)しか聴いていないような狭量なライターさんには絶対に書けないもので、ジャズだけ聴いていたのではジャズの流れも理解できないということではあるんだなあ。いまでも示唆深く、この視点で1950年代のアメリカ音楽を聴いて考えるのは、僕なんかにはいまだにかなり難しい。そのうちなにか書いてみようという気はあるが、ずっとずっと先の話だ。

 

 

まあそれでも、書いたようにモダン・ジャズ、特にハード・バップの典型とは呼びにくいアルバムの名前があがっているのも確かだ。あれら、特にセロニアス・モンクの『ブリリアント・コーナーズ』とチャールズ・ミンガスの『直立猿人』はかなり異質だよね。緊縛感が強すぎるんじゃないかな、演奏した側にとってもリスナー側にとっても。

 

 

ハード・バップの最大の特質の一つは、僕に言わせればビ・バップの<寄らば斬るぞ>というような雰囲気をプンプン醸し出している、あの極度の緊張感を和らげて、もっと聴きやすくとっつきやすいものにして、少なくともリスナー側は聴いてリラックスできる、くつろいで楽しめる音楽に仕立て上げたというところにある。

 

 

このことは、上で今日僕がこれはハード・バップ・コンボの典型だろうと思って取り出して聴いたホレス・シルヴァー『6・ピーシズ・オヴ・シルヴァー』とソニー・クラーク『クール・ストラティン』にも当てはまることだ。どっちも聴いていていい雰囲気で、親しみやすい。ラテン曲集やストリングスものがあるヴァーヴ時代ならそんなことはないが、サヴォイやダイアルのチャーリー・パーカーらの真剣勝負を、僕まで真剣に聴くとしんどいと思うことが時々あるから、そういう気分の時は、こんなリラクシングなハード・バップ・クインテットがいいんだよね。

 

 

ビ・バップの方がハード(苛烈)で、ハード・バップの方はむしろマイルド、というのが最も典型的に表れているのがリズムだなあ。全盛期1940年代半ば〜後半のビ・バップ録音では、リズムのかたちがいびつで、よく跳ねて、スムースには流れない。頻繁に突っかかったりヨレたりしているじゃないか。

 

 

ところがハード・バップにはそれがない。リズムが極めて分りやすくスムースに流れていく。それを途中で堰き止めたり別の方向へ流れを変えたり逆流させたりなど、そんなハード・バップ録音はほとんどない。ステディなビートをキープしながら常に二拍目と四拍目にアクセントがあって、そこで聴いている僕も足を踏んだり指を動かしたりすれば、なんの問題もなく軽々とノレる。それがハード・バップのリズムだ。

 

 

リズム面以外でのビ・バップとハード・バップのもう一つの大きな違いは、アレンジされているかどうかだ。ビ・バップでは、テーマ合奏部以外、ソロ廻しの順番とコーラス数しか決めていない場合が多い。すなわち事前にはほとんどアレンジされていない。アド・リブの一発勝負を聴かせたい音楽なんだから、アレンジ部分なんて少なければ少ないほどいいはずだ。

 

 

これがハード・バップになると演奏前にアレンジされていることが増えている。譜面化されているかどうかは問題ではない。譜面化されていなくても、アレンジャーやアレンジ担当のバンド・マンが口頭で伝え、事前に綿密なリハーサルを繰返し完成度を高めた上で、いざ本番の演奏開始となっている(場合が多いように僕には聴こえる)。

 

 

繰返し書いている今日僕が聴いたホレス・シルヴァーもソニー・クラークも、そんなジャズ・メンなんだよね。いちジャズ・ピアニストとしてだけ考えたら、どうってことないかのように聴こえる彼ら二名だが、作・編曲能力とバンド統率能力はピカイチ。それこそが彼らの最大の特長なのだ。それを活かしてあんな傑作・良作群を創ったんだよね。

 

 

ビ・バップの場合は、突出した個人の天才に拠っている部分が大きい。というかほぼそれだけでできている音楽だから、裏返せば応用は効かない。天才ジャズ・メンの個人能力で成立する音楽だから、そういう人物が消えて出てこなくなれば、ジャンル自体も消滅する以外ない。それがチャーリー・パーカーが1955年に死んだことの意味だと思うのだ。突出した個人的才能でなくてもそこそこ悪くない内容のものができあがる 〜  それがハード・バップの良さ。実際、ホレス・シルヴァーもソニー・クラークも、そういった一流半〜二流どころをいいアレンジで上手く使って、優れたアルバムを創ったじゃないか。

 

 

上で中村とうようさんがパーカーが死んだ1955年の翌56年に黒人モダン・ジャズの傑作がたくさん出現したと書いたのをご紹介したのも、そんな意味だったんだよね。パーカーというジャズ史上空前絶後の超天才が死んで、その翌年に、個人的才能だけに頼るものではない、フレーム・ワークがしっかりしたハード・バップが隆盛となった 〜 とうようさんもこれを言いたかったんじゃないかなあ。そういう言い方はしていなかったと記憶しているけれどね。

 

 

そんな具合に、パーカーの死がハード・バップの隆盛をもたらしたという、ここまでの関係は分る僕だけど、それをエルヴィス登場やハリー・ベラフォンテの活躍と一つの線で結んで考えてみるのは、いまの僕にはまだまだ無理なので、というかそもそもそれができるようになるのかどうかすら分らない。

2017/04/08

チュニジアとモロッコのユダヤ人歌手たち

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先週に引き続きマグレブ地域のアラブ・アンダルース音楽におけるユダヤ人歌手たちについて。二週目の今日はチュニジア篇とモロッコ篇だ。CD で言えば『テュニジア〜ユダヤ人歌手たちの遺産』(Chanteurs juifs de Tunisie - Patrimoine Musical)と『モロッコ〜ユダヤ人歌手たちの遺産』(Chanteurs juifs du Maroc - Patrimoine Musical)二枚の話をしたい。

 

 

まずはチュニジア。マグレブ地域のなかではおそらく最も古くから、紀元前のそれも早い時期から、ユダヤ人がかなりたくさん住み、当地を統治する権力者によって保護されてきたがため、マグレブ地域のなかでは最も盛んにユダヤ文化が花開き洗練されていたチュニジア。もちろんチュニジアという国になったのは最近のことであって、古代にはカルタゴ王国、それがローマ人によって滅ぼされて以後はローマの属領の一つとしてのアフリカ属州(には現在のリビアも含まれる)となった。

 

 

余談。そのローマ人がラテン語でアフリカ属州(Africa Proconsularis)とその地を呼んだのが、大陸の地理的名称としての「アフリカ」という言葉の”直接の”起源だ。古代ローマはイタリア外で支配する各地に属州と呼ぶものを置いていて、そのなかにはユダヤ属州もある。そこは現在のパレスティナとイスラエルにあたる土地なんだよね。

 

 

さてマグレブ地域のアラブ・アンダルース音楽は元々イベリア半島で誕生したものだという常識は先週も書いたのだが、そこでその成立の主役だったユダヤ人たちがイベリア半島を追い出されて北アフリカ地域へと移住せざるをえなくなったのは、もちろんかのレコンキスタのせい。キリスト教徒によるムスリム排撃運動レコンキスタは1492年に完遂したというのが定説なので、その時期にはイベリア半島に住んでいたイスラム教徒やユダヤ教徒の多くが北アフリカ地域に移住したのだろう。

 

 

イベリア半島から持ち帰ったアラブ・アンダルース音楽の、マグレブ地域における主たる担い手は、歴史的に見るとアラブ人だというより実はユダヤ人音楽家たちだった。そしてチュニジアでは、書いたようにユダヤ人たちが時の権力によって庇護されてきたので、この地域(国)においてアラブ・アンダルース音楽は最も洗練されていたようだ。

 

 

そんな姿が CD『テュニジア〜ユダヤ人歌手たちの遺産』(Chanteurs juifs de Tunisie - Patrimoine Musical)でも聴ける。先週書いたアルジェリアのように、シャアビだとかオラン歌謡だとかライのようなよく知られる特有の音楽ジャンルは生み出していないチュニジアだから、僕はこの地の音楽にかなり疎いのだが、このアルバムを聴くと、この国のユダヤ人歌手たちがやるアラブ・アンダルース音楽の高度な洗練がよく分る。

 

 

例えばアルバム一曲目のラウル・ジュルノ「セルムト・アナ・フィク・ヤ・ブラディ」 。ヴァイオリンとウード(だと思う)によるイントロに導かれ歌いはじめるこの歌手のこの歌声の朗々とした響きの素晴らしさ、コクのあるアラブ古典風コブシ廻し、どこをとっても文句なしに絶品だ。こんなによく響く声で歌うアラブ・アンダルースの歌手は、そういう人が多い世界であるとはいえ、それでも少ないんじゃないかなあ。

 

 

 

この1955年録音に、なにか固有の音楽ジャンル名のようなものを付けることなど無意味だ。アラブ・アンダルース古典からポピュラー・ミュージックに変化しつつあった時期のマグレブ地域で聴ける最高の歌だよね。古典風味がやや強く、現代風なポップさは薄いかもなと思わないでもないが(あ、いや、かなりポップでもあるね)、この堂々たる歌を聴いて感動しないアラブ音楽好きなどいないだろう。

 

 

このラウル・ジュルノを含め、『テュニジア〜ユダヤ人歌手たちの遺産』(Chanteurs juifs de Tunisie - Patrimoine Musical)に収録されている全14曲を歌うユダヤ人シンガーたちは、全員当時のチュニジアではかなり人気のあったポピュラー・シンガーなんだそうだけど、ということはみんな有名人なんだよねえ。僕は一人も知らなかった。複数曲収録されているのがラウル・ジュルノのほか、シェイク・エル・アフリテ、 ルイーザ・トゥンジア、 ヒビバ・ムシカ。

 

 

三曲目にあるルイーザ・トゥンジアの1945年録音「アラ・バブ・ダレク」では、お腹にズンズン響く低音を出す太鼓が奏でるディープなリズムに乗って、ルイーズがチャーミングな声でコブシを廻す。ヨ〜ヨ〜ヨ〜というお馴染の女声の(ヨーデル風な)歌い方も聴かせてくれる。男声バック・コーラスとのコール&リスポンス的なやりとりにもなっているよね。

 

 

 

アルバム中最も録音が古い13曲目フリトゥナ・ダルモンの「アッダーラ・ヤ・アッダーラ」(1926)や、その次に古い10曲目ヒビバ・ムシカの「アラー・スティール・エンウム」(1928)などは、やはりほぼ完璧にアラブ・アンダルース古典だなと僕の耳には聴こえるのだが、それでも聴きやすくポップなフィーリングもある。

 

 

だから最も録音が新しい1970年の二曲なんか、かなり派手で賑やかで、しかも相当にダンサブルだ。例えば七曲目のアイダ・ナッシームが歌う「ジャリ・ヤ・ハッムーダ」 ではパーカッションが大活躍し、このままディスコへ持っていって流しても問題なさそうなほどの出来。アイダの歌も素晴らしいが、伴奏の打楽器群があまりに賑やかなので、歌は埋もれてしまいそうだ。

 

 

 

モロッコ篇。CD『モロッコ〜ユダヤ人歌手たちの遺産』(Chanteurs juifs du Maroc - Patrimoine Musical)のことも少し書いておかなくちゃね。いきなり一曲目のピンハッス・コーヘンの1985年「ジネ・リ・アタク・アッラー」がかなりポップで、しかもダンサブルで、さらに旋律美も素晴らしく最高で、耳を奪われる。声質にも哀感があっていい。

 

 

 

これは1985年録音だから、完全なるモダン・ポップ・ミュージックだね。15世紀にイベリア半島から脱出して北アフリカ地域でアラブ・アンダルース音楽の担い手となったユダヤ人歌手たちの、その伝統が現代のモロッコでポップに活かされた最高の一例なんだろう。

 

 

アルバム二曲目の「オムリ・マニンサク・ヤ・ママ」を歌うサミ・エルマグリビは有名人らしいが、やはり僕は知らなかった。モロッカン・シャアビみたいな趣の一曲で、1960年録音。

 

 

 

サミ・エルマグリビはこのアルバムにもう一曲収録されていて、六曲目のやはり1960年「マル・ハビービ・マル」。これもモロッカン・シャアビのような歌と伴奏のスタイルで、歌手の声の張りとコブシ廻しのコクが絶品だ。ホント、知らなかったのは単に僕が無知なだけであって、聴いて分るこの実力からすればかなりの有名人、名歌手に違いない。というか実際そのようだ。

 

 

 

アルバム七曲目の1970年録音エステール・エルファシ「ロミマ」(https://www.youtube.com/watch?v=gmeDMFcu1fo)が相当にダンサブルでポップで楽しいとか、三曲目のシェイク・ムウィジョ1965年「グザリ・ホウワ・スバビ」(これは YouTube にない)が、なんだかハリージ(現代湾岸ポップス)風にヨレて突っかかるような複雑なポリリズムで面白いとか、四曲目のライモンデ1958年「ラー・ハラーニ・ムイムティ」(https://www.youtube.com/watch?v=cQjWVzGtMKg)も同じようなリズム・パターンだから、これら二人の女性歌手たちは、あるいは同種の音楽家(ユダヤ人がやるベルベル系ダンス歌謡??)なのか?とか、もうキリがないので、今日はこのへんで勘弁しといたろ〜。

 

 

いや、やっぱり最後に、先週の記事末尾でも書いたことをやはり念押ししておく。先週書いたものも今日書いたものも、これ全て、北アフリカのマグレブ地域におけるユダヤ人歌手たちによる音楽なんだよね。たぶんアラブ人のものだとされている地域のアラブ人たちがやっていると思われているかもしれない音楽のかなりの部分をユダヤ人たちが担っていた。というか主役ですらあった。この歴史的事実を、不寛容と排外の時代である2017年に、いま一度再認識していただきたい。

2017/04/07

スライ『暴動』の影〜マイルズの『ゲット・アップ・ウィズ・イット』(3)

Getupwithit

 

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三週続けてマイルズ・デイヴィスの『ゲット・アップ・ウィズ・イット』の話題で恐縮だけれど、レコーディング・データ面で分らない(なかった)ことが多いし、一曲目のレクイエム「ヒー・ラヴド・ヒム・マッドリー」が異様だしで、結局こうなってしまった。もういいよ、充分だよと思われる方々は、どうぞ無視して読み飛ばしてほしい。マイルズとこのアルバムが大好きな方にだけ読んでもらったので結構。

 

 

『ゲット・アップ・ウィズ・イット』一枚目二曲目のラテン・ファンク・バラード「マイーシャ」。当時のマイルズの恋人名を付けたこの曲は本当にチャーミングで大好きなんだけど、ギターでクレジットされているピート・コージーは参加しているとしても、ギターではなくパーカッションだ。聴こえるギターはコード・カッティングとシングル・トーン弾きの二本。前者がレジー・ルーカスなのは言うまでもないが、後者はどう聴いてもドミニク・ゴーモンのスタイル。それ以外のギターの音は全く聴こえない。

 

 

 

「マイーシャ」ではエムトゥーメももちろんパーカッションだけど、コンガが聴こえるので、それが彼の担当なんだろう。それ以外にクラベス(キューバのソンで使われる拍子木みたいなもの)が冒頭から聴こえ、それはコンガと同時に鳴っているので、それを刻んでいるのがピート・コージーなんじゃないかなあ。あと、マイルズのトランペット・ソロが(多重録音で)出る直前の 2:53 で、なんだか分らない金属音が入る。それもコージーだろう。

 

 

マイルズの全録音中、クラベスが聴こえるのはこの「マイーシャ」だけ。しかし典型的なクラーベのパターンは刻んでいない。いや、いちおう3・2クラーベのパターンを土台にしてはいるが、そこから音を抜いて休符にしたり、あるいは音を足したりして、独自のパターンをクラベスで刻んでいる。これが聴こえるせいと、そうでなくともスウィートなラテン風なので、多くのキューバ〜ラテン音楽愛好家のみなさんにも「マイーシャ」は親しみやすいはずだ。

 

 

『マイルスを聴け!』のなかで中山康樹さんは、このクラベス(中山さんは拍子木としか書いていないが)はピート・コージーだろうと推測しているまではさすがだが、すぐそのあとに「のん気に拍子木を叩いているが、これがいいアクセントになっている」と書いている。のん気?そうかなあ?中山さんって、ジャズや一部ロックのことはよくご存知だが、その他の音楽のことはちょっとねぇ…。ブルーズやラテン・ミュージックのことを知らないと、ジャズやロックだって理解できないと思うんだけどさ。故人だし、僕も散々お世話になりまくったので、あまり言わないでおこう。

 

 

「マイーシャ」で一番いいなと僕が思うのは、「ク〜、泣ける」と中山さんの言うマイルズのトランペット・ソロでは全くない。それは面白くないだろうという僕の見解は中山さんとは正反対。ボスの演奏ならオルガンと、レジー・ルーカスのメジャー・セヴンスを使ったコード・カッティングが美しく楽しいということと、そしてソニー・フォーチュンのフルートがいい。

 

 

特にソニー・フォーチュンのフルートが素晴らしいなあ。この人、1975年の来日公演盤『アガルタ』『パンゲア』でも、アルト・サックスの方はダサくて聴きようがないけれど、どっちも二枚目で聴けるフルートはかなりいいもんなあ。かつての僕の友人で、マイルズ・ファンクのサックス奏者は全員ダサいがデイヴ・リーブマンだけはいいという、僕と同意見だった方が、「マイーシャ」のあのフルートはリーブマンだからいいんだと勘違いしていたくらい。その勘違いを(ネット上で)僕が指摘すると、間違えましたがやはり素晴らしいですと認めてくださった。

 

 

「マイーシャ」では 9:43 でバンド全体の雰囲気がガラリと変化する。そこまで陽気で楽しい感じだったのが、突如ちょっと影が差したような暗めの曲調にチェンジして、マイルズの弾くオルガンもレジー・ルーカスの弾くギターも和音構成が変わり、ドミニク・ゴーモンが例のビヨ〜ンというやはり少し不安げな、ヨロヨロ揺れるようなソロを弾く。このギタリストはいつもそんな揺れるようなサウンドの持主ではあるけれども。

 

 

一曲のなかでのそんな感じの変化は、『ゲット・アップ・ウィズ・イット』二枚目一曲目の「カリプソ・フレリモ」でも聴ける。この曲もカリブ風なラテン・ファンクで、やはり陽気で賑やかな感じではじまって、マイルズの弾くオルガン(トランペットの方はどうもあんまり…)のフレーズもそうだし、リズム・セクションも派手に躍動しているが、10:05 で突然ストップする。

 

 

 

その後数秒間の空白があったのち、10:10 からはマイルズがかなり不穏な雰囲気のダークなオルガンを弾くのだ。リズムも静かになってテンポもかなり落ちてスローになる。そのスロでダークなパートで聴こえるシングル・トーンのエレキ・ギターは間違いなくピート・コージー。スタイルからそう判断できるし、録音時期からしても1973年9月なのでドミニク・ゴーモンではない。

 

 

「カリプソ・フレリモ」にある中盤のダークでスローなパートでソロをとるのはデイヴ・リーブマンのフルートとボスの電気トランペットだが、やはり陽気な雰囲気はほぼ全く聴き取れず、なんだか不安げにゆらめきふらついているような演奏内容だ。32分以上もあるという長尺曲全体のなかではいいアクセントになっているが、あのパートだけ聴くのならちょっとつらいと感じてしまうほど、聴いている僕まで不安に苛まれる気分。

 

 

スローにテンポ・ダウンしてやや暗いまま終る「マイーシャ」と違い、「カリプソ・フレリモ」ではその後 21:40 からピート・コージーだと思われるシングル・トーンの陽気そうなリフに導かれ、再び楽しげなラテン・ファンクが戻ってきて、その賑やかな雰囲気で曲が終るのだが、僕のなかでは中盤のあの暗くて不安なパートが尾を引くんだよね。

 

 

というのは、『ゲット・アップ・ウィズ・イット』という二枚組全体を通してもそうだし、リアルタイム・リリースではこの1974年11月リリース作品の次作にあたる日本公演盤『アガルタ』『パンゲア』でも同じことを感じるのだが、一聴派手で賑やかなファンク・ミュージックをやっているそのあいだでも、あの頃のマイルズがよくやっていたストップ&ゴー、あのパッとバンド全体の演奏が止まって空白になった刹那、そこに病的な不安が漂っているじゃないか。

 

 

あの暗い不安の幕はいったいなんなんだろう?『アガルタ』『パンゲア』でそうだという話は今日は置いておいて、『ゲット・アップ・ウィズ・イット』に限定するけれど、似たようにダークでダウナーなファンク・ミュージックを探すと、僕の知る限りではスライ&ザ・ファミリー・ストーンの1971年作『暴動』に行き着くのだ。

 

 

だいたいマイルズが影響を受けたスライは1970年のシングル盤「サンキュー」までの、すなわち賑やかに騒ぐアッパーなファンクをやっていた時代のスライであって、そういう痕跡は随所に聴き取れるので誰でも分りやすい。だがあの落ち込むように沈鬱な『暴動』から影響を受けたと思しきマイルズ・ファンクがあるのかというと、それはなかなか分りにくいんだよね。71年11月発表のアルバムなので、当然マイルズも即、聴いている。

 

 

前から繰返すように1971年のマイルズは全くスタジオ入りせずライヴ活動に明け暮れていた。翌72年の3月になってようやくスタジオ・セッションを再開する。ってことはその頃既にスライの『暴動』は聴いていたはずだ。そのままマイルズのスタジオ録音作品に影響があったようには聴こえないのだが、やはり徐々に、しかし確実に染み込んでいったんだろう。マイルズの音楽的体内を蝕んでいったと言い換えるべきか。

 

 

リアルタイム・リリースだけで追うとそのあたりの変化がかなり分りにくい。そりゃそうだろう、リアルタイムでの1970年代マイルズのスタジオ録音作品は、リリース順に『ジャック・ジョンスン』『オン・ザ・コーナー』『ビッグ・ファン』『ゲット・アップ・ウィズ・イット』だけになってしまうからね。

 

 

だがしかし1970年代マイルズのスタジオ・セッションでは、当時お蔵入りしたままだった音源がかなりたくさんある。前述の通り1972年にスタジオ入りを再開して75年に一時隠遁するまでのものは、2007年リリースの『ザ・コンプリート・オン・ザ・コーナー・セッションズ』で(完成品なら)だいたい全部聴ける。既発品も未発品も全部録音順に収録したこの六枚組で辿ると、マイルズの気分の変化がちょっとだけ分ってくる。72年末頃からダークでヘヴィーなファンク・チューンが姿を現すようになり、73年後半から74年あたりになるとそういうものが増えているんだよね。それらはほとんど2007年まで公式には未発表だった。

 

 

『ア・トリビュート・トゥ・ジャック・ジョンスン』とか『ゲット・アップ・ウィズ・イット』なんていうアルバム・タイトルは、アメリカ国内におけるブラック・パワー、黒人の人権意識高揚を反映したもので、それをさらに盛り立てようという意味だろう。前者は、直接的にはあくまで黒人ボクサー、ジャック・ジョンスンの伝記映画のサウンドトラック盤であるという意味だけど、後者の二枚組はアルバムのなかにそんな曲名のものもないし、だからマイルズかテオ・マセロかあるいはコロンビアの誰かが、かなり意識して考えて付けたアルバム・タイトルだ。

 

 

がしかしそんな「(黒人たちよ)立ち上がれ」みたいな意味のアルバム名にしているにもかかわらず、『ゲット・アップ・ウィズ・イット』の音楽的中身は必ずしも高揚感では満たされていないし、黒人同胞への励ましとか応援みたいなものにもなっていない。むしろその反対に人権活動の気分を挫くような、あるいはそんなものムダだとでも言いたげな気分の音楽じゃないかな。僕にはそう聴こえる部分があるんだけど、僕だけかな?

 

 

そんなマイルズの音楽的な気分のルーツは、どう考えてもやはりスライの『暴動』だったなあ。1969年まではあんなに楽しげにハシャギ廻っていたようなスライの音楽が、どうしてあんなにダークでヘヴィーでダウナーなものになってしまったのかは説明不要だろう。アメリカ黒人その他マイノリティや、彼らにまつわる文化に関係するあのあたりの時代状況の変化はみなさんご存知のはず。

 

 

『暴動』をリリースして以後のスライ&ザ・ファミリー・ストーンはどんどん崩壊していって、スライ自身がソロ活動に入るものの、ファミリー・ストーンというバンドは1975年に完全に解散してしまう。ソロ活動の方もほぼ沈黙したままで、生物的に生きてはいるものの、音楽家としてのスライはもはや存在しないも同然。

 

 

奇しくもマイルズが沈黙したのも1975年(の夏)だった。この人の場合、スライと違って数年後に復帰して活躍し話題を振りまいたものの、やはり75年までの輝きはなかった。僕みたいな人間ですらそう思うのだ。となると一時隠遁前のスタジオ・アルバムでは最終作の『ゲット・アップ・ウィズ・イット』に、かなり濃く暗い影が差しているのも当然なんだろうか?

2017/04/06

BB『リーガル』にまつわる個人的思い出話

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生まれて初めて買ったブルーズのレコードはB・B・キングの『ライヴ・アット・ザ・リーガル』。これは間違いないという確かな記憶がある。しかしその大学生の頃はジャズのレコードばかり漁っていたのに、どうして BB を買ったんだろうなあ。まあジェイムズ・ブラウンのアポロ・ライヴ二枚なんかも買って愛聴していたので、マジで100%ジャズだけというわけじゃなかったのではあるが。

 

 

数ある BB のアルバムのなかからどうして『ライヴ・アット・ザ・リーガル』だったのか、こっちは全く記憶がない。ジャケ買いだったかも。だって『ザ・ジャングル』みたいなのは、いま見ればなんでもないが、あの当時の僕はブルー・ノート盤のレコード・ジャケットみたいなのが好きだったわけだから、ジャズでもアトランッティックのジャケットとかはイマイチ(中身は好きだった)。だから『ライヴ・アット・ザ・リーガル』のジャケット・デザインはオシャレだとでも思ったのかもしれない。

 

 

といっても当時アナログ盤で買って持っていたのは、白地に文字だけというやつ(上掲左)で、いま CD で持っているのも同じジャケットの MCA 盤だ。だから僕は長年、ついこのあいだまで、これがこのアルバムのオリジナル・ジャケットなんだと信じていて、いつ頃からだったか見るようになったカラー・ジャケット(上掲右)は、なんだこれ?どうしてジャケットを変えるんだ?と疑問符が頭のなかに浮かんでいたもんね。

 

 

ところがよく調べてみると、そのカラー・ジャケットの方がオリジナルで、1965年に ABC からリリースされた際のデザインだったと、本当についこの前知ったばかり。う〜ん、こりゃまあブルーズのレコードや CD をたくさん買うようになってからは、こういうもんだと分ってきたけれど、大学生の頃に見たのがカラー・ジャケットの方だったら、買うのをためらったかもしれないぞ。難しい問題だなあ。白地のジャケは1971年に ABC がリイシューした際のニュー・ジャケットらしい。

 

 

ジャケット・デザインはともかく、買って帰って聴いてみたら楽しいので、『ライヴ・アット・ザ・リーガル』一発で BB にはまってしまったのだ。トータルで35分程度しかないライヴ・アルバムだけど、これを買わなかったら、現在まで続くブルーズ熱にうなされるようなことにはならなかったかもしれないので、大恩人というか悪の張本人というか。

 

 

BB の『ライヴ・アット・ザ・リーガル』。RPM/ケント時代の録音を聴くようになると、ギターの音が細く薄くペラペラというか、物足りないような気もするけれど、当時の僕にはこれで正解だっただろう。おそらくいまでもブルーズ愛好家ではない一般の音楽リスナーには同じであるはず。とっつきやすいんだよね。特にロック・ギターを聴き慣れている耳にはね。

 

 

ヴォーカルの方は全く線が細くなんかないし、この『ライヴ・アット・ザ・リーガル』を録音した1964年録音当時でも BB の歌は迫力満点で素晴らしい。多くのブルーズ・ファン、BB ファンはここをもっと強調しないといけないのだ。みんなギターのことばっかり言ってさぁ。BB のヴォーカルの上手さのことを言う人は少ないもんなあ。

 

 

『ライヴ・アット・ザ・リーガル』で、大学生当時から僕が大好きなのが A 面二曲目〜四曲目のバラード・メドレー。もちろん全部このレコードで初めて知った曲。一つ目の「スウィート・リトル・エンジェル」は BB も得意レパートリーだ(ということはずっとあとになって知った)し、ギターもヴォーカルもいい。ギターの音は線が細くてペラペラだと書いたけれど、実はいまでもかなり好きだ。最初 BB がコードでジャジャっと二音弾いた瞬間にバック・バンドがそれに即応するあたりも、大学生の頃からプロってすごいんだなと、当たり前すぎてかえって失礼になるだろうといまなら分るような感慨を抱いていた。

 

 

 

「スウィート・リトル・エンジェル」では、歌本編に入る前に BB が少し喋っている 〜 ちょっと昔を振り返って思い出にひたってみよう、本当に古いブルーズだよ、みんなもし憶えていたら歓声をあげてくれ、憶えていそうな曲を持ってきたからさ、まず最初はこれだ、本当に古い古い懐かしいもので、こんな感じだ 〜〜 「and it sounds something like this」と言った次の瞬間に、シングル・トーンでパッとギター・ソロを弾きはじめる。

 

 

すると、その瞬間までバック・バンドの演奏していたリズムが、BB の弾いたギター・フレーズにやはり瞬時に即応してチェンジする。特にドラマーの入れるスネアがタイミングばっちりで、しかしこんなのはごくごく当たり前の所作であって、たくさんいろんな音楽を聴くようになると、プロの演奏家にとっては空気吸っているだけみたいな当たり前の日常なのだと知った。

 

 

「スウィート・リトル・エンジェル」はもちろん自分のガールフレンドを自慢する歌だが、このブルーズ・スタンダードはタンパ・レッドがやったのが初録音だと以前僕は書いた。だがしかしそうじゃなかった。1920年代の都会派女性ブルーズ歌手ルシール・ボーガンが1930年に録音しているじゃないのさぁ。それもまあまあ有名みたいだ。タンパ・レッドのは34年だもんね。ウソ書いてごめんなさい。謝罪して訂正します。

 

 

それにしてもこのあたりのブルーズ・スタンダードって、録音開始が最も早かった人たちなんだから当たり前の話ではあるが、どれもこれも1920年代にジャズ・バンドやピアノの伴奏でやる都会派女性ブルーズ歌手が初録音しているものが多いなあ。多いというかそんなことばっかりじゃん。ただ、タンパ・レッドなんかはシティ・ブルーズ・マンだったから当然そういうレコードを聴いただろうが、それらのブルーズ・ソングそのものはアメリカ北部の都会で誕生したとは限らないだろうね。

 

 

BB の『ライヴ・アット・ザ・リーガル』A 面三曲のメドレー。一つ目と違って二つ目は失恋の歌である「イッツ・マイ・オウン・フォールト」。これも歌いはじめる前に BB が喋っている 〜 自分の恋人を歌う男の歌だから「スウィート・リトル・エンジェル」だったんだけど、ガールフレンドを失った男のことを考えてみよう、そういうことあるんだぜ、いやホントなんだよ 〜 と言うと客席から「そうだ!」と声があがるので、BB がクスッと笑っている。

 

 

こういうやりとりが大学生の頃から僕は大好きだった。バック・バンドが演奏し続けているなかで BB がお話をして、その中身も楽しいが、次の瞬間にパラっとギターを弾くとバンドもそれに即応する 〜 そういうのが楽しくて、繰返し聴いていた。それはそうと「イッツ・マイ・オウン・フォールト」はジョン・リー・フッカーがオリジナルだけど、なんだかシンミリしちゃう曲だなあ。

 

 

 

大学生の頃に『ライヴ・アット・ザ・リーガル』の BB ヴァージョンで「イッツ・マイ・オウン・フォールト」を聴いていた頃は別になんでもなかったのだが、まさしくこの通り100%自分のせいで妻を失ったいまの僕は、平常心では聴けないような部分がちょっとある。結婚していた頃も、自宅での僕は大音量で音楽を聴きながら本を読むとか、本当にそんなことばっかりで、それ以外のことはほぼ眼中になかったもんなあ。BB も歌っている 〜 「君が僕のことを愛してくれているあいだも、いつもずっと僕は君のことはどうでもよかった」。

 

 

そんなヤツ結婚なんかすんなという話だよなあ。そしてここで恥ずかしいことを言いますが、離婚した妻のことを僕はいまでも好きで、二人で楽しくしていた頃の思い出がそのままが夢に出てくること頻繁で、寝ているあいだに見た夢を憶えていることの多い僕は、目が覚めても半日ほどなんだか哀しく切ない気分になっていることがある。そんなことをいま BB の『ライヴ・アット・ザ・リーガル』の「イッツ・マイ・オウン・フォールト」を聴き返しながら思い出して書いているのです。どうでもいい話だったな。

 

 

『ライヴ・アット・ザ・リーガル』では、「イッツ・マイ・オウン・フォールト」が終るとメドレー最後の三曲目「ハウ・ブルー・キャン・ユー・ゲット」(aka「ダウンハーティッド」)になるが、しかしこれまた傷心のブルーズ・ソングかよ〜、つらいなあ。前の曲「イッツ・マイ・オウン・フォールト」最終盤のギター・ソロでパッと転調するのを三回繰返し、次の「ハウ・ブルー・キャン・ユー・ゲット」に入る。その三回転調の展開も大学生の頃から大好き。

 

 

なんだか A 面三曲のブルーズ・バラード・メドレーの話しかしていないが、そこが僕は最初に聴いた頃からアルバム『ライヴ・アット・ザ・リーガル』では一番好きで、そこばっかりリピートしていた。違う部分のこともちょっとだけ思い出話を書いておこう。オープニングの「エヴリデイ・アイ・ハヴ・ザ・ブルーズ」に出てくる「Nobody loves me, nobody seems to care」部分をそのまま、上京後の研究室助手時代に書庫で鼻歌で口ずさんでいたら、たまたま居合わせた助教授にクスッと、いや、思い切り笑われてしまった。本当にそう思って歌っていたわけじゃありませんから〜。

 

 

B 面一曲目の「ユー・アップセット・ミー・ベイビー」はジャンプ・ナンバーで、テナー・サックス・ソロもあり、いま聴くと楽しいが、昔はフ〜ンと思っていただけ。これよりも二曲目の「ウォーリー、ウォーリー」が大好きだった僕。サステインの効いたサウンドで弾く BB のギターがいいね。エリック・クラプトンにしろ誰にしろ、ロック・ギタリストはこういうのが好きなんじゃない?しかしこの曲でも歌いはじめてからの BB のヴォーカルの方がもっと凄いぞ。クラプトンさん、そのあたりは真似しなかったんですね。

 

 

 

歌い出しの「オオ〜、ウォーリー、ウォリ、ウォーリー」のど迫力シャウトには腰を抜かすじゃないか。言葉とは正反対に、全くどこも心配なんかしていないだろうという自信に満ち溢れた、よく通る強く張った伸びのある歌声だ。まるでゴスペル歌手みたい。BB もゴスペル界と関係あるの?関係がないとしても、間違いなくゴスペル歌手の影響は受けている。

 

 

続く B 面三曲目「ウォウク・アップ・ディス・モーニン」と、アルバム・ラストである B 面五曲目の「ヘルプ・ザ・プア」はラテン・リズムを使ってある。といっても前者ではイントロと歌のワン・コーラス目までで、その後は普通の8ビート・シャッフルになってしまうので、いまではイマイチ。

 

 

 

アルバム・ラストの「ヘルプ・ザ・プア」の方は一曲を通し全面的にラテンなリズム・アレンジだ。しかしこれら二曲を最初に聴いた大学生の頃の僕は、幼少時に培われた(のであろう)僕のなかにあるラテン好き資質はまだ伏流水のように地下に潜ったままの状態で、だから聴いてもなんだかヘンなの、どうして普通にやらないの?とか思っていたもんね。いまだからこそ楽しく聴けるのだ。

 

 

ところでそのラテン・ブルーズ「ヘルプ・ザ・プア」は、チャールズ・シングルトンというソングライターが書いた曲で、この人はフランク・シナトラに提供した「ストレンジャーズ・イン・ザ・ナイト」で非常に有名だよね。ラテン・リズムを使ってあるのは1960年代のアメリカだから納得できるけれど、「貧者を救え」というのは、黒人貧困問題に目を向けろという、あの時代にはよくあった例のやつなんだろうか?

 

 

2017/04/05

型と即興

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パンク(・ロック)やヒップ・ホップなどは、音楽の歴史や伝統に対する NO であり断絶宣言だったという話をここ数日いくつか見かける。それもプロの音楽評論家の方やプロのレコード・ショップ・オーナーの方がそれをおっしゃっているのだが、これはもちろん真実だという一面があると同時に、誤謬でもあるよね。

 

 

彼らのそれはある種の戦略的発言に違いないのだが、しかしその方々、正確には上記二名だけなんだけど、お二人はほぼ同世代であるはずで、その世代を考えるとパンク・ロックから既にリアルタイムでその登場を体験なさっていたはずなので、故意の戦略というだけでなく、やはり本音でもあるんだろうなあ。

 

 

はぁ〜、僕はこういう発想が大嫌いな人間なのだ。このことは普段から僕の文章をお読みになっている方々には全く説明不要だろうが、僕は異常とも言えるほど(音楽だけではなく)歴史や伝統を重んじる傾向が強い。だいたい僕は2009年11月に Twitter をはじめるまでは、全ての私的文章を歴史的仮名遣で書いていた人間なのだ。本当は公的文章もそうしたかったのだが、それで出しても自動的に現代仮名遣いに修正されてしまう。

 

 

1946年(昭和21年)の内閣告示までならみんな使っていた歴史的仮名遣だが、どうしていまの時代にそれで書くのかいうと、これはもうひとえに「合理的」「ロジカル」「システマティック」であるという、この一点に尽きる。歴史的仮名遣が合理的・ロジカルだと発言するとたいてい驚かれるのだが、僕の実感では間違いない。日本語表記の歴史に鑑みた場合、これ以上に理詰めで行ける書き方はない。現代仮名遣いなんてロジカルでなく矛盾だらけだ(歴史的仮名遣もそうだが、相対的にはという話)。といっても歴史的仮名遣も明治時代に確定したもので(遡っても江戸時代中期の契沖)決して古いものではないのだが、その表記原則は歴史的語源主義ということ。だから学習しやすい。学習の際はロジックとシステムで説明できないと納得しにくいわけだから。1946年に現代仮名遣い制定となった際、大勢の日本語学習者の外国人がこの理由で猛反対した。

 

 

仮名遣いの話は音楽とはなんの関係ないのでこれ以上は書かない。それに勘違いする方々が歴史的仮名遣を右翼思想と結びつける場合があって(そんなもん、1946年まではどんな思想の持主もこれで書いてましたから〜)、僕もそういう人間だと受け取られると嫌なので、やめておく。責任は極右思想家が歴史的仮名遣を用いたがるところにある。迷惑千万だ。

 

 

音楽やその他の芸能表現の場合、歴史や伝統を尊重しなくちゃいけないのはどうしてかというと、矛盾しているように読めるだろうが、過去の伝統に NO を突きつけないといけない場合があるからだ。それまでの従来の音楽表現とは全く異なる斬新なものを産み出すためには、従来路線を尊重し学ばないと不可能であるという 〜 これが音楽(だけじゃないだろうが)表現の真実だろう。

 

 

歴史や伝統から学ぶとは、言い換えれば「型を知る」ということに他ならない。日本語で「型破り」という表現があるけれど、これについては亡くなった歌舞伎役者の18代目中村勘三郎(勘九郎)が言っていた 〜 型を知ることは非常に重要だ、型を知ってこそ、とことんそれを身につけてこそ、型から外れる表現が可能になるんだ、型も知らずになにか新しい自由なことをやっていると思い込んでいる奴は、それは型破りなんかじゃない、形無しって言うんだ 〜 と(江戸っ子言葉で)。

 

 

狂言師の野村萬斎も、数年前の日本テレビ夕方のテレビ・ニュースの芸能コーナーで同じことを言っていた。狂言師にとって型を知ることは非常に重要です、型とは先人たちが創り上げてきた歴史的伝統で、それを徹底的に学び、いつでもどこでも無意識的かつ本能的に型を表現できるようになってこそ、初めて自在な即興も可能となるのです 〜 と野村萬斎は強調していた。

 

 

野村萬斎のこの型と即興についての卓見は、そのままそっくり音楽の世界にも当てはまるものだ。例えば自由自在な即興演奏こそが命とされているジャズの世界。アド・リブ表現なんて、たいていの場合先人の演奏をそのまま模倣するところからはじまる。なにも学ばず生まれた時から自在表現ができるジャズ・マンなんかいるわけないだろ。

 

 

一例をあげると、ひょっとしたらジャズ史上最高のインプロヴァイザーだったかもしれないチャーリー・パーカー。歴史無視・軽視派のみなさんは、バードが一夜にしてあんな奔放で自由自在なアルト・サックス演奏ができるようになったなどと、いや、まさかそんなことは考えていないと思うのだが、それにしてはバードがジャズ史の伝統(シドニー・ベシェ、ジョニー・ホッジズ、ベン・ウェブスター、レスター・ヤングなど)から学んだことはあまり強調なさらない。

 

 

同じ楽器でやはりジャズ界に大衝撃を与えた1950年代末のオーネット・コールマン。まだ少し歴史的伝統主義者も確かに存在するチャーリー・パーカーの世界と違って、オーネットの場合はマジで最初からああいったフリー・ブロウイングができたのだ、あれは生得的なのだという言い方しか存在しないかのように僕には見える。そんなわけないじゃん。オーネットはリズム&ブルーズ・バンドの出身だし、さらにもっとアメリカ音楽史を遡って、南部のカントリー・ブルーズやニュー・オーリンズにおける初期ジャズのことを考えれば、オーネットもやはり伝統派なんだよね。

 

 

オーネットが伝統派などと言うと、フリー・ジャズ信奉者、あるいはそうでなくともジャズ・ファンのみなさん、あるいは専門家の方々だって、エェ〜ッ?コイツ頭がおかしいぞ!と思うかもしれないね。伝統主義かどうかは、表現者自身の自覚とは必ずしも関係ない。いや逆に、むしろ本人が無自覚なまま染み付いていて、全く意識しないのに表現のなかに自ずと出現するところが、歴史的伝統の真のパワー、怖ろしさ、素晴らしさなのだ。それくらい強力なものなんだよね。

 

 

別にジャズともプロ音楽家とも限らない。ブルーズだってロックだってソウルだってファンクだって、世界中のいろんな音楽だって、ちょっとやってみた経験のある人間であれば、最初は既存音源のコピーばっかり繰返すのだということはみんな知っている。アド・リブなんて「絶対に」できないからね。ただ自分の憧れの存在のレコードを聴いて、こんな風に演奏したいと思って、レコードに合わせて一緒に音を出してなぞるだけ、本当にそれしかやらない、というかできない。こうなりたいと思うばかりにという意味ではない。技術的に不可能なのだ。

 

 

同じフレーズや定型パターンやスケール練習を、毎日毎日、これでもか、もういやだというほど寝食忘れて延々とリピートする。これが「型を知る」ということに他ならない。これでしばらくが経過(どれくらいかかるかは個人差がかなりある)したのちに初めて、意識しなくても指や身体が自由に動くようになるんだよね。そうならないと即興演奏なんかできっこないのだ。

 

 

つまり自在で奔放で型破りな即興表現とは、もうイヤ!というほど型を反復練習しないと可能にならないんだよね。音楽ジャンルも文化ジャンルも問わないはず。全ての表現分野で同じだ。ここまでお読みになってきて、お前、あれだろ、お前の言っているのは表現者の場合だろう、こっちはただの受け手だぞ、音楽なんかただ聴くだけなんだぞ、だから歴史や伝統なんか関係ないぞと言いたげなそこのあなた、大間違いですぞ。

 

 

ただ聴いているだけの音楽ファンというなら僕も同じだ。だが僕はアメリカ黒人音楽ばっかり聴いていてそのことしか分らないからそれに限定するが、アメリカのブラック・ミュージックも歴史的伝統や古典作品をしっかり聴いておかないと新しいものなんか理解できっこない。古典や過去を聴いていないのに、どうしてこの作品が「いままでにない新しい」ものだと判断できるのだろうか?

 

 

最近そんな具体例を目にすることが以前より増えた。これはここが新しい、いままでになかったものだという発言を読むのだが、僕がそれを読むと、そんなのずっと前にありましたよと申し上げたい場合がある。むろんそれらは音の「表面上」は新しい。だが表現の「本質」においては同じものがずっと前からある。これに気づかず発言する方が、それも専門家のなかにすら出てきているということが、近年ますます伝統や古典を軽視・無視する傾向が強まっているということを意味しているんじゃないかなあ。残念だ。本来であれば専門家は、そういう部分を知らない素人リスナー相手に啓蒙しなくちゃいけない立場にあるはずなのに。

 

 

歴史的伝統、古典、型。これらは日本料理の世界で言えば、基本の出汁とか包丁の扱い方とかそういう類のことで、それができない料理人などいるわけがない。できなかったらその先へ一歩も進めない。味噌汁でもすまし汁でもどんな料理でも、基本の出汁があって、その上にどんな味を足すかは料理人個人個人の創意工夫で独自のもの(音楽における自在即興)ができるだろうが、出汁をとらなかったらゼロだ。ハナからなにもできあがらない。

 

 

僕たちはただ出される料理を食べて味わうだけ(=聴くだけの音楽リスナー)の立場だけど、その料理がマトモな味かどうか、美味しいかどうかは食べれば分る。もし基本の出汁(=音楽伝統)がなってなかったら、一口食べただけで僕たち素人にだってバレてしまう。音楽作品であれば、楽しく美しいものになっているかどうかは、音を聴けばどんな素人にだって分るもの。しかしどうしてそうなっているか、その根本原因が、料理の出汁と同じく音楽伝統の力なのだ。

 

 

伝統や古典が活かされていない音楽(なんてあるのか?)とは、すなわち出汁をとっていない味噌汁だから、当然聴けた=飲めたもんじゃない。だから意識しなくても、誰だって全員その存在は味わっているんだよね。音楽の伝統・古典なんかどうでもいい、聴かないよというリスナーだって、自覚なしにそれをたっぷり味わっているわけだ。だって出汁だもん、できているかどうかは分っちゃう。

 

 

だから、そこにあるんだから、意識して聴かなくてもいいんだよと考えてしまうんだろうが、意識して聴いて知っていた方が、音楽でもなんでもより深く楽しめるのは間違いないことなんだよね。より深く楽しむとは、言い換えればより強い快感を味わうということ。音楽でもなんでも、伝統や古典、すなわち型を知ってこそ、より深く強い真の快感が楽しめる。誰だって快感は強い方がいいでしょう?

2017/04/04

Fun! Fun! Fun!

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ニオ・スウィングか、ジャイヴと混じったジャンプ・ミュージックか、初期のリズム&ブルーズか、とにかくそんな1940年代後半〜50年代初頭のジャズ(だと思うんだけど)系音楽ってホント楽しいよね。いろんなアンソロジーがあるけれど、僕がよく聴くものの一つが『ジャンピン・ライク・マッド:クール・キャッツ&ヒップ・チックス・ナン・ストップ・ダンシン』という二枚組。1996年のキャピトル盤だ。

 

 

上掲ジャケット画像でお分りのように、キャピトルが1990年代後半にたくさんリリースしていた例のシリーズの一つ。これにシリーズ名のようなものはないみたいだけど、ジャケットやブックレット内のイラストが全部同じスタイルなので一目瞭然だ。いくつ出ていたのか、全部は買わなかったので僕は分らないのだが、全部買っておくべきだったといまでは後悔している。

 

 

『ジャンピン・ライク・マッド:クール・キャッツ&ヒップ・チックス・ナン・ストップ・ダンシン』の編纂者は、やはりこれまたビリー・ヴェラ。だけどこんなアルバム・タイトルにしているにもかかわらず、曲「ジャンピン・ライク・マッド」は収録されていない。それはスキーツ・トルバート&ヒズ・ジェントルメン・オヴ・スウィングによる1940年10月2月録音。リラクシングでなかなかいいんだよね。そこからもらったアルバム名じゃないかと思うんだけどなあ。デッカ原盤だから収録できないのではあるが。

 

 

 

スキーツ・トルバートのバンドなんて、いまでは誰も憶えていないのかもしれない。楽団といってもクラリネット&サックスのリード楽器を二・三本という中人数編成でやっていた人。ナット・キング・コールの「ヒット・ザット・ジャイヴ」のオリジナルがスキーツ・トルバートだし、ルイ・ジョーダンにも曲を提供したものがあるしで、ジャイヴっぽいジャンプ・ミュージックをやっていた人だけど、知る人ぞ知るという存在でしかない。

 

 

ルイ・ジョーダンの名前を出したが、今日の本題であるアンソロジー『ジャンピン・ライク・マッド:クール・キャッツ&ヒップ・チックス・ナン・ストップ・ダンシン』に収録されている51曲(複数曲が収録されている音楽家が結構いるので、人数だとたぶん40人くらいかな)は、要するに<ルイ・ジョーダンの子供たち>だと言える。英単語一つで表現すれば ”fun” 。これに尽きる。CD 二枚組で計二時間以上、楽しくない時間が一瞬たりともないというのが、この種の音楽の唯一にして最高の存在理由だ。

 

 

『ジャンピン・ライク・マッド:クール・キャッツ&ヒップ・チックス・ナン・ストップ・ダンシン』の収録曲は1942〜56年の録音で、当時は言うまでもなく SP 盤で発売され、それがジューク・ボックスに入り、というかそもそもジューク・ボックス用の録音で、客もそれが置いてある場所でただジッと座って聴くのではなく、合わせて踊っていたんだろう。実際、収録曲は全てかなりダンサブルだ。

 

 

このアンソロジーで僕が初めてこの曲とそれをやっている音楽家の存在を知り、いまでもこの曲が『ジャンピン・ライク・マッド:クール・キャッツ&ヒップ・チックス・ナン・ストップ・ダンシン』のなかで一番好きだというのが、一枚目二曲目の「サフロニア・B」。やっているのはカルヴィン・ボウズで、1950年のアラジン録音。

 

 

 

どうしてこんなに楽しいんだろう!?カルヴィン・ボウズはいちおうはジャズ・トランぺッターだけど、この「サフロニア・B」では、お聴きの通りまずヴォーカルで出て、間奏のソロでテナー・サックスの次にあるトランペットがカルヴィンなんじゃないかと思う。しかしトランペットの腕前云々よりも、曲の楽しさだよなあ。メロディも歌詞もコードの変わり方も面白い。僕が特に好きなのが「Eyes a muggin' shoot the liquor to me John boy」と歌う部分での旋律の動きだ。愉快だよね。

 

 

しかもお分りのように、この「サフロニア・B」はルイ・ジョーダン直系だ。まさにルイの息子、というには年齢が近すぎるので弟か、とにかくルイのジャイブ・ジャンプ・ナンバーに似ているというかそのまんまじゃん。特にいろんな意味で「カルドニア」に似ている。ルイの「カルドニア」は1945年のレコードだから、カルヴィンの1950年録音はもちろん下敷きにしている。

 

 

ルイ・ジョーダンに似ているなんて言い出したら、アンソロジー『ジャンピン・ライク・マッド:クール・キャッツ&ヒップ・チックス・ナン・ストップ・ダンシン』はだいたいどれもそうだからキリがない話ではある。ルイの影響下にないものだろうと思えるのは、一枚目四曲目のレスター・ヤング「ジャンピン・ウィズ・シンフォニー・シッド」だけじゃないかなあ(でも曲自体は…)。あとはルイ本人も1954年のアラジン録音が二曲収録されている。

 

 

このアンソロジーで、なかでも最高に笑えるのがラロ・ゲレーロの二曲。そのうちの一つ、一枚目18曲目の曲題はなんと「マリファナ・ブギ」だ。わっはっは。ラロもスペイン語で歌い、しかもなんだか僕には理解できないスラングみたいなものを使っているという話なんだけど、聴いてスペイン語のスラングを理解する能力はゼロの僕なので。曲が楽しいというだけで充分。

 

 

 

『ジャンピン・ライク・マッド:クール・キャッツ&ヒップ・チックス・ナン・ストップ・ダンシン』では、このラロ・ゲレーロに続く19曲目アイク・カーペンター楽団の「パチューコ・ホップ」が、大編成バンドでやる最高のジャンパーでダンサー。迫力満点。1953年録音で、しかもホンク・テナーのブロウがあるので、ライオネル・ハンプトン楽団「フライング・ホーム」の系列なんだね。

 

 

 

最高じゃないかこういうの。どうしてジャズ・ファンはこういうの聴かないんだ?不思議だね。ホンク・テナーといえば、『ジャンピン・ライク・マッド:クール・キャッツ&ヒップ・チックス・ナン・ストップ・ダンシン』にはビッグ・ジェイ・マクニーリーとジーン・アモンズが二曲ずつ収録されている、そのうち一つは超有名(だと思っているのはジャンプ〜 R&B 好きだけ?) な「インセクト・ボール」だ。

 

 

 

ビッグ・ジョー・ターナーみたいなブルーズ・シャウターや、T ・ボーン・ウォーカーのような(ピュアな?)ブルーズ・マンも収録されている。T ・ボーンの方は1948年キャピトル録音の「ハイピン・ウィミン・ブルーズ」というブギ・ウギ・ベースのジャンプ・ブルーズ。後半のギター・ソロは既にお馴染の弾き方だが、洗練度がまださほどでもなく、ワイルドな雰囲気もある。

 

 

 

ジャイヴィーなジャンプ・ブルーズ(系ジャズ)はビ・バップへの予兆でもあったという、以前も一度書いた意見は、『ジャンピン・ライク・マッド:クール・キャッツ&ヒップ・チックス・ナン・ストップ・ダンシン』に一曲収録されているものでも証明できる。 一枚目八曲目の「ウー・パ・パ・ダ」を歌うバブズ・ゴンサレスがそれ。バブズ・スリー・ビップス・アンド・ア・バップ名義になっている1947年録音。これはジャズ・ファンのあいだでも有名なもののはず。バップ・ヴォーカルの代表曲で、ディジー・ガレスピーもやったからだ。

 

 

 

アンソロジー『ジャンピン・ライク・マッド:クール・キャッツ&ヒップ・チックス・ナン・ストップ・ダンシン』に収録されている音楽家で、僕が最も愛好し、しかもアメリカ音楽史的に最も重要だと思うのが、クーティー・ウィリアムズ楽団。全部で四曲あって、全てもはやリズム&ブルーズと呼ぶべきテイストを醸し出している。クーティーの楽団の1940年代後期録音は全部そうだけどね。

 

 

例えば一枚目七曲目にある「スティンギー・ブルーズ」。1948年キャピトル録音で、歌うのはボブ・メリル。この深いノリ。このノリこそアメリカ黒人音楽がジャズからリズム&ブルーズへと変化していった端境期にたくさんあったジャンプ・ミュージックのものなんだよね。

 

 

 

一枚目20曲目にある「ジュース・ヘッド・ボーイ」もいいなあ。ヴォーカルはエディ・クリーンヘッド・ヴィンスンの1946年録音。ヴォーカルに絡むボスのワー・ワー・ミュート・トランペットも、ブラス群の迫力満点のアンサンブルも猥雑で聴き物だ。

 

 

 

二枚目19曲目の1948年録音「アイ・メイ・ビー・イージー、バット・アイム・ノー・フール」では、リズムの感じはやや正統派スウィング・ジャズっぽいかなと感じないでもないが、でもやはりノリというかリズムのタメが深い。これまた歌うボブ・メリルのそれは、もはや R&B ヴォーカルと呼んで差し支えないだろう。

 

 

 

『ジャンピン・ライク・マッド:クール・キャッツ&ヒップ・チックス・ナン・ストップ・ダンシン』の二枚目25曲目のルイ・プリマ「5・マンス、2・ウィークス、2・デイズ」は1956年録音。これまた当然のようにルイ・ジョーダンの蒔いた種が花開いたものだが、アルバム・ラストのこれを聴くと、(ニオ・)スウィング〜ジャンプ〜リズム&ブルーズの区別なんか無意味だということを痛感する。

 

 

 

クーティー・ウィリアムズ楽団の1940年代後半ジャンプ録音と、ルイ・プリマのやはりジャンプ系録音のことは、それぞれ別個の記事でまとめて書いてみるつもり。僕も大好きだし、このあたりのアメリカ黒人音楽愛好家はみんなこういうの好きなんだよね。だからさ。

2017/04/03

マナサスとフォーリナーは別に関係ないのだが…

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現役活動中のアルバムが二つしかないスティーヴン・スティルスのバンド、マナサス。セルフ・タイトルの1972年ファースト二枚組(CDでは一枚)と73年セカンドの『ダウン・ザ・ロード』一枚と、それだけで十分じゃないかと思えるほどあれらは充実している。だけどやっぱりなあ、もうちょっと聴きたかったと思っているファンは多いだろう。

 

 

2009年にライノがそんなマナサスの新作、ではないが未発表録音集を発売したのだ。だから僕は嬉しくて即買い。タイトルは『ピーシズ』。このアルバム・タイトル通りの小品集、というかはっきり言ってボツ曲、既発曲の別テイク、未完成品、そんなのばっかりで、収録の全15曲、どれもこれも二分程度。長いのでも五分とかそのくらいのが二つあるだけ。

 

 

熱心なマナサス・ファン、スティーヴン・スティルス愛好家以外には全く面白くないであろう未発表集『ピーシズ』で、一部ネット上の記事で「マナサス3枚目のアルバムとして十分に聞ける」とあったりするのは褒めすぎというか、愛好家ならではの贔屓目なんじゃないかと僕でも思う。実際、大したものじゃないよなあ。

 

 

そんな『ピーシズ』だけど、ファンなら聴けば聴いたで結構楽しめるのも事実。ライノ・リリースのアメリカ盤には、どの曲が何年何月頃の録音で、誰が参加してなんの楽器を担当しているなど、一切記載がない。これはひょっとしたらスティーヴン・スティルス自身、記録を残していなかったということかもしれない。そうなんじゃないかと思えるフシが、アルバムを聴くとある。

 

 

そこだけが残念なんだけど、でも結構面白い部分もあるよ、マナサスの『ピーシズ』。ごく普通のスティーヴン・スティルス・ファンやロック・ファンには、たぶん一曲目の「ウィッチング・アワー」、二曲目の「シュガー・ベイブ」、六曲目の「ワード・ゲーム」が一番興味を惹くものだろう。みなさんお馴染の曲だからだ。最初のものはクリス・ヒルマンのファースト・ソロ・アルバム『スリッピン・アウェイ』に、他の二つはスティルスのセカンド・ソロ・アルバム『スティーヴン・スティルス 2』に収録されていて、昔から知られている。

 

 

クリス・ヒルマンの『スリッピン・アウェイ』は、マナサス解散後1976年のアルバムだけど、『スティーヴン・スティルス 2』はマナサス結成前の71年の作品。だから「ウィッチング・アワー」はマナサスでちょっとやってみたけれど完成できなかったので、クリス・ヒルマンが自分のソロ・アルバムにと持ってきたということなんだろう。それにしては『ピーシズ』収録のマナサス・ヴァージョンも出来がいいけれど。

 

 

 

クリス・ヒルマン『スリッピン・アウェイ』ヴァージョンはこれ。

 

 

 

ほとんど違いがないというか、ひょっとしたらマナサス・ヴァージョンの方がいいかもしれないなあ。スティーヴン・スティルスなのか他の誰かなのか、『ピーシズ』の曲順を考えたのが誰なのか分らないけれど、この「ウィッチング・アワー」をトップに持ってきたのは大正解。このアルバム収録曲では一番出来がいいもん。

 

 

「シュガー・ベイブ」「ワード・ゲーム」は、マナサス以前にスティーヴン・スティルスが完成させてアルバムに収録していた既発曲なので、マナサス・ヴァージョン(はホントいつ頃の録音だろう?)を当時リリースしなかったのは理解できる。といってもこの二曲、ライヴではマササスも演奏していて YouTube で探すといくつか上がっている。『ピーシズ』ヴァージョンの「シュガー・ベイブ」もかなりいいんだが、それは見つからない。

 

 

これら三つが普通はみんな面白いって思うものなんじゃないかなあ。僕がグッと来たのはは実はそれらじゃない。マナサスの未発表集『ピーシズ』で僕が一番好きなのは、三曲目の「ライズ」、七曲目の「タン・ソラ・イ・トリステ」、十曲目の「ハイ・アンド・ドライ」だ。これは完全に僕の個人的趣味嗜好による判断なので、みなさんは参考になさらない方がいい。

 

 

三曲目の「ライズ」がいいというのはどうしてかというと、エレキ・ギターの弾き方がまるでフォーリナーそっくりだからだ。フォーリナーなんてどうでもいいだろ?って感じかもしれないが、僕は案外好きなのだ。といってもいまでは一枚も CD を持っておらず、というか LP も CD も自分では一枚も買ったことはなく、これまたいつものようにロック好きの下の弟がレコードを買って聴いていたので、僕も拝借していたのだ。

 

 

でもたぶん『ダブル・ヴィジョン』だけだなあ、弟が買ってきて僕も借りて聴いていたフォーリナーのレコードは。ヴォーカルが誰でギターが誰かも忘れてしまったが、あの印象的なエレキ・ギター・リフだけはクッキリ鮮明に憶えている。でも自分で CD を買う気がしないのは、まあどうでもいいんだろうな、やっぱり。

 

 

『ピーシズ』収録の「ライズ」は、マナサスの二作目『ダウン・ザ・ロード』に収録されたのと同じ曲だけど、演奏スタイルが全然違う。特にテンポが前者は後者の倍速。CD附属の紙に書かれてある曲解説を読むと、前者の方がオリジナル演奏なんだそうで、マイアミ録音。ってことは『ダウン・ザ・ロード』ヴァージョンは、やり直してディープなノリのミドル・テンポにしたんだなあ。そっちはみなさんご存知だと思うので、『ピーシズ』ヴァージョンを貼っておく。
https://www.youtube.com/watch?v=lKSIhK8CI4s

 

 

聴こえるギター・スライドはジョー・ウォルシュに違いない。全く記載がないんだが、これは自信がある。『ダウン・ザ・ロード』には参加しているしね。そんでもって僕にとってこのヴァージョンの「ライズ」がフォーリナーみたいだというのは、例えばこういうの。

 

 

 

この「ハット・ブラッディッド」はフォーリナーの二作目でヒット・アルバムになった『ダブル・ヴィジョン』の A 面一曲目だった。いま調べてみたら、このエレキ・ギターはミック・ジョーンズかイアン・マクドナルドかのどっちかなんだなあ。どっちだろう?こういうエレキ・ギター・リフが当時のフォーリナーのアイデンティティだったんだよね。調子に乗って B 面一曲目だったアルバム・タイトル曲も貼っておこうっと。

 

 

 

こういうロック、僕、わりと好きだよ。まあレッド・ツェッペリンで洋楽に目覚めたようなもんだから当然ではあるけれど。フォーリナーといえば、とっくに興味もなくしていた(というか自分では一枚も買ったことないから)僕の上京後に、ある時ラジオから「アイ・ウォント・トゥ・ノウ・ワット・ラヴ・イズ」 という、まるでどこかのジャズ・スタンダードみたいな曲名のバラードが流れてきて、あぁいいなあこれとは思ったものの、自分ではレコード(CD?知らん)を買わなかった。ハード・エッジなギター・バンドの印象だったからなあ。

 

 

 

そんなことはどうでもいいとして、マナサスの『ピーシズ』七曲目の「タン・ソラ・イ・トリステ」。スペイン語の曲名なのでお察しがつくように、マナサスお得意の、というかスティーヴン・スティルスお得意のサルサ・ナンバー。しかもインストルメンタル。がしかしこれを聴くと『ダウン・ザ・ロード』の「ペンザミエント」そっくり。まるでカラオケなんだよね。

 

 

 

『ダウン・ザ・ロード』ヴァージョンの「ペンザミエント」はこれ。

 

 

 

どう聴いても前者は後者のカラオケだよねえ。そう思って曲解説を読むと、やはりそう書いてある。正確には、結果的に「ペンザミエント」になった歌詞のないインストルメンタル・ジャム、だそうだ。ってことはあのカッコいいサルサ・ナンバーは、最初、歌詞なしで遊びみたいにしてやっていたものだったのか。

 

 

『ピーシズ』十曲目の「ハイ・アンド・ドライ」。これはかなりレイジーなブルーズ・ジャム。聴くとあれにそっくりなんだよね、ドク・ポーマスの「ロンリー・アヴェニュー」。いろんな人がやっている有名曲だ。オリジナルは1957年のレイ・チャールズのアトランティック録音。レイのそれをちょっとご紹介しよう。

 

 

 

このレイのレコードが発売されたあとからは、本当にいろんな音楽家がカヴァーしているので、知らない人などいないだろうというくらいの(リズム&)ブルーズ・スタンダードになっている。マナサスの『ピーシズ』収録の「ハイ・アンド・ドライ」は、こういう曲名だけど、レイの「ロンリー・アヴェニュー」であることは明白だろう。

 

 

 

かなりレイジーな雰囲気での演奏。途中から急にテンポ・アップして楽器演奏中心のジャムになる。その部分からはオーディエンスの存在が聴こえるのだが、おそらくはオーヴァー・ダビングで演奏後にくわえた擬似ライヴで、マナサスは当時ライヴ公演ではよくやっていた曲らしいのだが、そんな時の収録じゃないんだろう。そんな気がする。

 

 

アルバム『ピーシズ』では、この一番演奏時間も長い「ハイ・アンド・ドライ」をクライマックスにして、その後はカントリー・ロック路線が続く。カントリー・ロックというよりも、ほぼ完全にピュアなカントリーやブルーグラス・サウンドだ。ビル・モンローの「アンクル・ペン」だってやっている。この路線でアルバムの最後まで行くので、マナサスはやはりカントリー・ロック色が一番の本領ではあったんだろうね。

2017/04/02

ジャズ・ファンは内ゲバも外ゲバもやめろ

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昔っからジャズ・ファンは自分たちジャズ・ファンだけでつるみたがるのが悪い癖で、考え方が閉鎖的だよね。音楽的な仲間意識が強すぎる。以前も一度書いたけれど、僕は仲間意識だけでの言動をやりたがらない、というかそれが苦痛であると感じる人間なので、ジャズ・ファンのこういう傾向が長年嫌で嫌で仕方がなかった。

 

 

このジャズ・マンは、このアルバムはいいぞ、ダメだぞ、このアルバムの聴きどころはここだとか、仲間内だけで話が盛り上がって、余所者を入れようとしない。これはジャズだけ聴いている人が、他の音楽が好きな人を寄せ付けようとしない、邪魔者扱いして排除しようとする、他ジャンルが好きな人がジャズに入っていこうとする際にフレンドリーじゃない、分りやすい言葉で丁寧にガイドしようとしない 〜 こういうことだけではない。

 

 

閉鎖的ジャズ・ファンが他の音楽を聴こうとせず、ジャズだけ(それもたいていみんなビ・バップ以後のモダン・ジャズだけ)聴いて、ジャズの内側だけで閉鎖して、いっぱいある他のいろんな音楽へ近づこうともしない、つまり外に向かって開放的ではないという意味でも、ジャズ・ファンはみんな閉じている。

 

 

じゃあジャズならなんでも聴いているのかというと全くそんなことないもんね。上の括弧内で書いたように1940年代半ばに成立したビ・バップ以後のモダン・ジャズしか聴かないジャズ・ファンが、僕の実感だと全体の約八割以上だ。そういう人は1930年代末期までのアーリー・ジャズなんか、まるでこの世に存在すらしていないかのような扱いじゃないか。

 

 

ではではモダン・ジャズ以後のものであればなんでも聴いているのかというと、これまた聴かないものがたくさんあって、聴かない典型が1960年代後半からのソウル・ジャズ〜ジャズ・ファンク。これらにはやはり目もくれない。最近の2010年代の例の JTNC 系のものだって無視している。いわく「あんなものはジャズではない、ジャズではないものを”ジャズ”の進化形だと主張して延命を図っている」と。

 

 

そんなことがあるもんだから、柳樂光隆くんや彼が起用するライターさんたちも、そんな頭の固いジャズ・ファンを「王道ジャズ・ファン」と皮肉を込めて呼ぶようなことになっている。ああいった JTNC 系のものは、実際聴いたら面白いものが少ない、ジャズに(あるいはそもそも音楽に)「進化」なるものが果たしてあるのか?と僕も思うけれど、ああいう種類の音楽と、それを褒めちぎる方々の存在や活動そのものを全否定することはないだろう。

 

 

しかしながら、ああいった JTNC 系のライターさんたちはそうでもないと思うんだけど、彼らの文章を熱烈に支持している一般のジャズ・ファンのみなさんは「古いものがお好きな頭の固い年寄りジャズ・ファン(王道ジャズ・ファン)はこれだからダメだ」と言うのだが、しかしよく読むとそんな発言の念頭にあるのは、1940〜60年代のモダン・ジャズが好きなファンだけ。「古いものが好きな王道ジャズ・ファン」っていうのは、僕の認識だと1910〜30年代のジャズが好きな人間のことになるんだけどな。アーリー・ジャズ、古典を聴いてから言えよ。

 

 

そんな具合だから、ジャズ・ファンの考え方が閉鎖的で、仲間内だけで閉じこもって盛り上がり、排外的である傾向は、かなり古くからあって連綿と続き、そんな旧態依然としたジャズ・ファンの体質を批判する最近の JTNC 系のものがお好きな新しいジャズ・ファンですら、やはり本質的には同じなんだよね。2017年現在の JTNC 系でも、僕がジャズ・ファンになった1970年代末と、ファンはなにも変わっていない。あの頃はフュージョンなんかジャズじゃないとみんなバカにしていた。

 

 

ことジャズだけという、1917年の史上初録音から2017年現在まで本質はあまり変化していない狭くて小さい一つのジャンル内ですら、ジャズ・ファンはこんな排外的内ゲバを繰返してきたような人間たちなので、ジャズじゃない他のジャンルの音楽なんて聴くわけがない。ジャズ・ファンが聴く他ジャンルというと、ほぼ100%近くブラジルのボサ・ノーヴァと、それに関連した MPB だけ。本当にそれだけだ。ショーロもサンバも聴かないじゃん。ブラジル音楽が好きなジャズ・ファンが熱心にショーロの話をしているのなんかに遭遇したこともない。

 

 

ショーロなんてジャズとかなり似たような部分もある(基本は)インストルメンタル・ミュージックなんだけどなあ。ショーロのあのフィーリングと演奏スタイルを知らないと、排外的ジャズ・ファンのみなさんがお好きなボサ・ノーヴァの感覚だって本当は理解できないんじゃないの?その流れを汲む MPB だってなんだってさ。

 

 

ボサ・ノーヴァはあんなに熱心に聴くくせに、ひるがえってジャズともっと強くて深い関係があるアメリカ音楽は、やっぱりジャズ・ファンは聴かない。いま僕が言った「アメリカ音楽」とは広い意味でのもの。北米合衆国音楽だけでなく、カリブ海中南米を含む<総体>としてのアメリカ音楽のことだ。総体としてそう掴まえないと、ジャズの意図だって理解できない部分がかなりあるからだ。

 

 

閉鎖的・排外的ジャズ・ファンは、そういうジャズの誕生と発展に実に密接に関わっている「アメリカの」音楽を聴いていないんだから、ピュア・ジャズのことだって本当は理解しているはずがない。僕に言わせればこれはジャズが好きではないという意味になるぞ。音楽だってなんだって、本当に好きになればトコトン追求して、ちょっとでも関係していると知れば熱心に追いかける 〜 それが「好き」ってことじゃないの?

 

 

広い意味での「アメリカ音楽」の話をしたけれど、狭い意味、すなわち北米合衆国内の音楽だけに限定しても、今日僕がダメだと言っている類のジャズ・ファンは聴いていないね。なにしろ一番肝心要のブルーズ・ミュージックを聴いていない(1960年代以後のジャズに関連するならソウルとかファンクとかヒップ・ホップとかも)。それなもんだから「ルイ・アームストロングはジャズという枠のなかに100%収まる」というびっくり仰天の発言が出てくることになってしまう。

 

 

ってことはサッチモが伴奏をやったべシー・スミスその他のああいった1920年代の都会派女性歌手たちは、やはり「ジャズ歌手」だという位置付けなのか?というと、実際そうなのだ。「ベッシーの CD はいまではブルースの棚に入れられているけれど、本当はジャズ歌手だからジャズの棚に戻しておいてほしい」というツイートをついこないだも見かけたもんね。

 

 

これはあの時代のジャズとブルーズを無理やり区別しようという、本当に無意味なメンタリティに基づいている発言だ。もちろん区別なんて不可能な1920年代のこの二者を区別したい、ジャズの棚に「戻せ」というのは、だからジャズ以外のものを排撃しよう、ジャズのなかだけで全部済ませてしまたい、他の音楽なんかどっか行けよという、内向きの閉鎖思考なんだよね。ジャズ・ファンのなかだけで内ゲバをやるくらいなんだから、他ジャンルの音楽なんか…、っていう考え方なんだ。

 

 

そんなジャズ・ファンはもはや過去の遺物で絶滅したのだと数年前まで僕は思っていたのだが、どうやら結構たくさん残っているみたいなんだよね。2009年11月に Twitter をはじめて以後、このことを痛感している。でもそういう方々は、こと純ジャズにかんしてだけは「情報」を持っている場合があるので、仲間内だけでじゃれ合うのを見るのは嫌だけれど、情報源だと思えば安易にアンフォローはしにくいという困った事態が発生しているんだよね。

 

 

世の中にいろんな音楽ファンがいるけれど、こんなのはジャズ・ファンだけだろう。ゴスペル好き、ブルーズ好き、リズム&ブルーズやソウル好き、ファンク好き、あるいはそれら全部ひっくるめてのアメリカ黒人音楽好きのみなさんは、いま「全部ひっくるめて」と書いたように、それらを(黒人ジャズ含め)汎ブラック・ミュージック的視点で全部いっしょくたにして聴いている。この事実も強い実感がある。ビリー・ホリデイの戦前コロンビア系録音全集10枚組をつい数日前に買って、堪能しているソウル・ファンの方がいた。

 

 

ロック・ファンだってワールド・ミュージック・ファンだって(演歌を含む)歌謡曲ファンだって、みなさん初心者には親切で丁寧だ。敷居を低くしよう低くしようと腐心して、なるべく一人でも多くのリスナーが入ってこられるように、好きな人がちょっとでも増えれば嬉しいという考えのもと、分りやすく発言したり行動している。そういう態度を見習いたいと僕は思う。ジャズ・ファンはその逆をやっているから。

 

 

これはあれか?西洋クラシック音楽の、特に和声システムと記譜法が世界中に広く拡散・浸透しているのと同様、演奏の方法論としてのジャズが、これまた世界のいろんな音楽に入り込んで普及してしまっているがためにジャズ愛好家が抱く優越感なのだろうか?(そういえばクラシック・ファンもジャズ・ファンに少しだけ似ている部分があって、自分たちが一番偉いんだみたいな心性があるんじゃないかなあ。)

 

 

しかしこれはひょっとしたらジャズ・ファンでも日本人だけの持つ傾向なんじゃないかという気がする。といっても僕は他国のジャズ・ファンとそんなにたくさん話をしていないんだが、かろうじて(主に)英語でやりとりするマイルズ・デイヴィズ関連のメーリング・リストでは、世界各国のいろんなマイルズ・マニアと、15年以上前からやり取りがある。SNS が出現する前まではメーリング・リストが主流のコミュニケーション手段だったからさ。

 

 

するとそのマイルズ関連の ML は、いちおうマイルズ・リストと名乗ってはいるものの、音楽に関しても話題が実に広範囲にわたっているのだ。日本人の方がどれくらい参加しているのか、それらしきお名前の方がいままで僕以外出現したことがないので分らない(読んでいるだけという可能性は高い)が、世界のマイルズ・ファンやその関連のジャズ・ファンは、ジャズ以外の音楽やその愛好家を見下して排外的態度をとるかのような姿勢は、少なくとも表面的には微塵もうかがえない。

 

 

日本は島国で、他国人との交流には積極的じゃない国民性だからっていうのが遠因なのだろうか?だからジャズ・ファンも、他・異ジャンルの音楽や愛好家と熱心に交流せず、むしろ排他的・閉鎖的な態度をとるのだろうか?でもさあ、歴史的に見れば、日本は中国大陸や朝鮮半島やヴェトナムや、その他アジア各国と深く交わり続けていた国なんだけどね。

 

 

しかも他・異を見下して自分たちが一番偉いんだというような考えは「中華思想」っていうくらいなんだけどね(フランス人にもこの種のものが少しあるみたい)。中国はずいぶん長いあいだアジアの覇者であり続けた国というか場所だから、あるいは漢民族だけかもしれないが、そんな思想傾向が誕生しても、ちょっとは理解できる。だが、日本人ジャズ・ファンがどうして音楽的中華思想にハマるのか?

 

 

日本人ジャズ・ファンのみなさん、もちろん全部じゃないのは分っているけれどさ、もっと外に開いてほしい。考え方をもっとオープンにして、他ジャンルの音楽や愛好家を無視したり軽視したりせず、どんどん積極的に聴いてほしい。いろんなものに真剣に耳を傾ければ傾けるほど、ジャズだけが特別な音楽じゃないんだと分ってくるはず。そしてそうなってこそ初めて、ジャズがやっぱりちょっと特別な音楽であるということも、本当の意味で見えてくるはずなんだよね。

2017/04/01

アルジェリアのユダヤ人歌手たち

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第二次世界大戦後に建国されたイスラエルは周辺のアラブ諸国と激しく対立しているから、文化的にもそうなのか?とお考えになる方がひょっとしたらいらっしゃるかもしれないけれど、そんなことは全くない。その正反対で、ユダヤ人とアラブ人は実に密接な関係にある。音楽の世界においてもそうなのだ。

 

 

これはちょうど僕たちの住む日本と、隣国である韓国や北朝鮮、そして中国が、あたかも仲の悪い間柄、犬猿の仲であるかのように言う人が大勢いながらも、実は日本のなかには中国大陸や朝鮮半島から、人と一緒に流入してきた文化がたくさんあって、ああいう方々のおっしゃる「日本人らしさ」「日本人としてのアイデンティティ」なるものが、中国・朝鮮由来のものと切り離せなくなっているのと似たことかもしれない。

 

 

もし仮にああいった嫌中・嫌韓のみなさんのおっしゃるように断交したり一切全てを否定したりすれば、自分たち日本人の、そして日本という国家の存立自体が危ういものになってしまう、そもそも存在すらしなかったであろうという、この歴史的真実に早くああいった日本のみなさんは気がつくべきだ。それでもなおそういう主張を繰り広げたいのであれば、そのなかで漢字・カタカナ・ひらがなは一切使っちゃいけません。

 

 

まあ隣国同士は仲が悪くなりやすいというのは世界の歴史を見れば事実ではあるけれども。ギリシアとトルコもそのようだし、現代ならフランスとドイツもそうだよなあ。いやまあそんなことを言いたいわけではない。アラブ音楽におけるユダヤ人の果たした役割について今日は書きたいのだった。

 

 

アラブ音楽と言っても今日僕が話題にするのは北アフリカのマグレブ音楽、それもアラブ・アンダルース音楽だけ。こう書くと、ご存知の方はみなさんはは〜んそうだよねとお分りのはず。アラブ・アンダルース音楽は、現在のスペインとポルトガルにあたるイベリア半島をイスラム帝国が支配していた時代に、同地でイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒の三者が平和的に共存し、その文化的交流のもとで誕生した音楽だもんね。これは常識だ。

 

 

日本語で、それも音楽とともに読めるものであれば、田中勝則さん入魂の CD 二枚組アンソロジー『マグレブ音楽紀行 第1集〜アラブ・アンダルース音楽歴史物語』が最も好適かもしれない。あれに附属の解説文は、本当にあれこそ入魂という言葉がよく似合う充実度で、もはやライナーノーツなんかじゃないね、あらゆる意味で。

 

 

ライナーノーツという言葉に、ネガティヴなニュアンス、あるいは少しの侮蔑的な意味合いを込めて僕が使ってしまう場合がたまにあるのは、かつて大学生時代に山ほど買って嫌というほど読んだジャズの日本盤レコード附属のそれのなかに、あまりにどうしようもなくくだらないものが、それもかなりな数あったというだけの、完全なる個人的な体験に基づいている。どうでもいいことだった。

 

 

ライス盤『マグレブ音楽紀行 第1集〜アラブ・アンダルース音楽歴史物語』は、アラブ音楽好きは絶対に買って聴いて読んだおかないといけないものだろう。その解説文のなかでも、田中さんはイベリア半島における上記のような人種混淆文化として誕生したアラブ・アンダルース音楽の歴史を説き起し、さらに(具体名を出して)アラブ音楽のアンソロジーに、もし仮にユダヤ人音楽家のものが含まれないものがあるとすれば、それは政治的判断だとしか思えないと明記している。

 

 

つまりそれほどアラブ音楽、というかアラブ・アンダルース音楽においてユダヤ人が果たした役割は大きい。CD アンソロジーでもこの事実に焦点を当てたものがたくさんあって、しかもそれらのかなりの部分をライスが日本盤でリリースしているようだ。「ようだ」というのは、僕はだいたい全て本国盤=フランス盤で持っているからで、この記事を書くにあたり調べてみて、日本盤があることに初めて気がついた。

 

 

最も充実しているのは、日本盤のタイトルなら『ユダヤ・アラブ音楽の至宝』(Trésors de la Chanson Judéo-Arabe)シリーズ だ。これは確か第七集までリリースされている。あるいは『いにしえのユダヤ・アラブ音楽』とか『ユダヤ・アラブ音楽の精粋』とか、いっぱいあるんだよね。全部一枚物 CD なので、興味のある方はどこからでもどうぞ。

 

 

それらは書いたようにオリジナルはフランス盤。フランスでマグレブ音楽をたくさんリリースしている MLP が、また最近同趣旨のアンソロジーを三枚リリースした。2012〜13年にわたり出したアルジェリア篇、チュニジア篇、モロッコ篇の三つ。『Chanteurs juifs d'Algérie - Patrimoine Musica』『Chanteurs juifs de Tunisie - Patrimoine Musical』『Chanteurs juifs du Maroc - Patrimoine Musical』。これら、僕は日本入荷とともにエル・スールでフランス盤を買ったのだが、その後やはりライスが日本盤を出しているみたい。

 

 

アマゾンで検索したら、それぞれ『アルジェリア〜ユダヤ人歌手たちの遺産』『テュニジア〜ユダヤ人歌手たちの遺産』『モロッコ〜ユダヤ人歌手たちの遺産』というタイトルになっている。上記第七集まである『ユダヤ・アラブ音楽の至宝』シリーズがいまや廃盤で中古しかないので、マグレブ音楽におけるユダヤ人歌手について今から興味をお持ちになった方は、速攻でこれら三枚をポチってほしい。僕が持っているのはあくまで MLP のフランス盤だ。

 

 

僕の書き方だと一度にそれら三枚を全部話題にするのは難しそうなので(だって簡潔にまとめるという真の意味での文才がないから)、今日はこのあとアルジェリア篇についてだけ少し書いて、来週、チュニジア篇とモロッコ篇について書いてみようと思う。これら三つの国、大衆音楽においてユダヤ人が果たした役割も微妙に異なっているようでもあるしね。

 

 

さて『アルジェリア〜ユダヤ人歌手たちの遺産』(Chanteurs juifs d'Algérie - Patrimoine Musica)。当然ながらアルジェリアで活躍した、あるいはアルジェリア出身ながらも同地からの移民が多いフランスで活躍したユダヤ系歌手たちの歴史的録音集。一番古い録音が1910年で、最も新しいものが1965年の全16曲。

 

 

それら16曲を聴いて、あるいはアルファベット文字で記されている歌手名の綴りを見て、それだけでこれがユダヤ人歌手のものだと判断することは不可能だ。アラブ人や、そうじゃないアルジェリアで活躍するイスラム教徒や、その他の人たちの歌との違いは全くない。しかもだいたい全部ポップで耳に残る曲ばかり。本格的アラブ古典、アラブ・アンダルースの古典歌謡、オラン歌謡、シャアビなどどれも楽しく、流し聴きにしていても部屋のなかがいい雰囲気になる。がしかしあまりの大音量で流すと、ご近所さんには「戸嶋さん、なにかおかしな宗教にハマっているのかしら?」と思われるかもしれない。今日は暖かいので窓を開けているし。そんなものばかり毎日大きな音で聴いていますけれど。

 

 

『アルジェリア〜ユダヤ人歌手たちの遺産』(Chanteurs juifs d'Algérie - Patrimoine Musica)収録曲は、やはり MLP 編纂盤らしく、それまで僕が聴いて知っていたものとのダブりは少ない(と思えるのは単に僕のアルジェリア音楽経験不足だろう)。がしかしこれはお馴染だぞと思えるものが二曲ある。

 

 

それは六曲目でレネット・ロラネーズが歌う「マザル・ハイ・マザル」と、12曲目サリム・ハラリの「ドール・ビハ・シシバーニ」。 後者の方はこの曲名だけでオルケルトル・ナシオナル・ドゥ・バルベス(ONB) 愛好家の僕は、アッ、あれじゃないのか?とピンと来ちゃったもんね。そう、ONB のデビュー・ライヴ・アルバム『アン・コンセール』ラストの「ドール・ビハ」と同じものだ。

 

 

それが分って ONB の『アン・コンセール』を見直すと、確かに Trad とのクレジットになっている。アレンジが ONB とユセフ・ブーケラ。確かにあのアルバム、現代ライなどと並びトラディショナル・ナンバーも多く、それを大胆に現代楽器などもたくさん使ってモダンでポップに再解釈してあるものだよね。

 

 

『アルジェリア〜ユダヤ人歌手たちの遺産』(Chanteurs juifs d'Algérie - Patrimoine Musica)で僕が知っていたもう一曲、レネット・ロラネーズの「マザル・ハイ・マザル」。この歌手名はオランのレネットという意味だろうが、しかし曲はシャアビ風だ。少しオラン歌謡という趣もある1959年録音。

 

 

 

これをお聴きになれば、グナーワ・ディフィジオン愛好家のみなさんであれば、あれだ!とお分りのはず。あのバンドの二作目1999年の『バブ・エル・ウェド・キングストン』七曲目の「シャラ・アッラー」が同じメロディと歌詞なのだ(と言っても歌詞の意味は僕には分らず、音が同じだと思うだけ)。

 

 

 

グナワ・ディフュジオンの『バブ・エル・ウェド・キングストン』の方も見直してみたら、七曲目の「シャラ・アッラー」は、やはり Traditionnel とクレジットされている。このアルバムでのトラディショナル・ナンバーはこれだけで、他はアマジーグやメンバーのオリジナル楽曲だ。

 

 

レネット・ロラネーズのこの「マザル・ハイ・マザル」。YouTube で探すと何種類も上がっているので、 ヴァージョン違いをなんどか録音したのかと思い全部聴くと全部同じものだ。もちろん彼女のオリジナルではなく、リリ・ラバッシの書いた曲。そのリリ・ラバッシも『アルジェリア〜ユダヤ人歌手たちの遺産』(Chanteurs juifs d'Algérie - Patrimoine Musica)に一曲収録されている。

 

 

それが三曲目の1937年録音「ムラ・エル・メシアッサ」。 しかしホントこれ、聴いてアラブとかユダヤとか無意味だよなあ。少なくとも僕にはなんの意味もなく、曲や歌い廻しでそれを区別することは全く不可能だ。37年だから、まだアルジェリアはフランスの属国だった時期。

 

 

 

上で書いたように1965年録音まで収録されている『アルジェリア〜ユダヤ人歌手たちの遺産』(Chanteurs juifs d'Algérie - Patrimoine Musica)。アルジェリアは1962年にフランスから独立する。実はその後、同国内におけるアラブ人ではないユダヤ人(やベルベル人など)は、居心地が悪くなったというか迫害を受けるようになったらしい。

 

 

ユダヤ人の場合、アルジェリア独立ということとは別に、ユダヤ人国家があんな場所にできてしまったので、北アフリカ地域に住んでいたユダヤ人たちも、そこイスラエルに向かったのかもしれない。それ以前から多いフランスに渡ったユダヤ人もたくさんいたはず。アルジェリア独立後、ユダヤ人が迫害されるようになったのは、あるいはイスラエル建国とその後の中東戦争のせい?関係ないの?

 

 

国家や地域の政情と音楽を含む文化事情ってこんな風にねじれている場合があって、なんとも複雑な気分だよなあ。以前も書いたが、キューバ革命が完遂して真の意味での独立を勝ち取った1959年よりも前の、北米合衆国属国時代のキューバ音楽の方が魅力的だとか、そのアメリカのカンザス・シティでも、トム・ペンダーガストの腐敗政治がはびこっていた1939年までは、ジャズとブルーズが庇護されていて賑わっていただとか、その他たくさんあるじゃないか。

 

 

アルジェリアに限らずアラブ諸国で、イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒のいわく因縁のある三者が、本当は平和的に交流して、楽しく美しい音楽をまた創り出してほしいとか(『エル・グスト』という映画があったよね)、日本国内にもたくさんいる朝鮮半島出身者がいわれのない攻撃を受けることなく平和裡に暮らせるようになってほしいとか、こんなことを書く僕は単なる呑気な夢想家だってことなんだろうか?

 

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