あの頃の僕(My Back Pages)〜 ディランがプロテスト・ソングを捨てたワケ
タモリさんはミュージカルがお嫌いなんだってね。テレビ番組で繰返し発言していた。いまもそうなんだろうか?個人の好みの問題には誰もなにも言えないけれど、でもタモリさんは、基本、ジャズ・ファンである人だから、ひょっとして単なる個人的嗜好だけでなく、音楽とはそういうものだというお考えもあるんじゃないかという気がしないでもない。
舞台上でお芝居している最中で、突然そのまま「あぁ〜、あなたのことがぁ〜♪♫」などと歌い出し、歌い終わるとまたスッとお芝居に戻ったりするのを、タモリさんはなんなんだありゃ?お芝居はお芝居、歌は歌、別個にやってくれ、混ぜるなみたいなことをよく言っていたじゃないか。いまでもそうなの?
これが単なる好みというものを超えて、歌とはそうあるべきものだと、もしタモリさんがそうお考えなのであれば、残念ながらポピュラー・ソングの本質を理解なさっていないという証拠だ。ポピュラー・ソングのそもそもの成立は演劇の生舞台と切り離せないし、また切り離して以後の時代でも歌のなかから演劇性が消えてなくなると、その歌は途端に面白くなくなるのだ。それがポップ・ソングの本質。クラシック音楽の歌曲もそうなのかどうか、分っていない僕は言わないが、ポピュラー・ミュージックの場合、演劇性はあらゆる「歌」というものが持っている重要な側面なんじゃないかなあ。
ポピュラー・ソングが演劇から切り離されたのは、大雑把に言ってレコード商品が流通するようになって一般化して以後と見ていいだろう。これは間違いないと思う。だって SP 盤だと約三分間というどうにもならない物理的制約があったから、歌の前後の文脈(お芝居)なんか入れることなど不可能。ちょうどレコードではティン・パン・アリーのヒット・ソングのヴァース部分を省略するようになったのとピッタリ同質の事情だ。
レコード産業が大幅に拡大・普及して以後は、ポピュラー・ミュージックはレコードで聴くというのが主流の享受法になって、生演唱のステージに足を運ぶよりも、レコードを買うかなにかして自宅かどこかで聴くのが本来のありようみたいになった。生舞台での歌は、やっぱりどうやっても演劇的な側面が消えないものだけれど、レコードではそういう部分が無視されるようになったんだね。
ティン・パン・アリーのヒット・ソングにおけるヴァース部分というのは、要は前置説明であって、歌本編のリフレイン部分がどういう文脈にあるのかを喋るもの。つまりこれも演劇、お芝居だ。これはティン・パン・アリーのヒット・ソングの多くが、タモリさんのお嫌いなミュージカルなど各種のお芝居のなかに挿入するために書かれたものだということなんだよね。タモリさんはジャズ・スタンダード化したものはお好きに違いない。だがそれも元々は…。
アメリカ合衆国におけるポピュラー・ミュージック界初の専業音楽家は19世紀中頃のスティーヴン・フォスターだったんじゃないかと、僕も以前詳しく書いた。フォスターはまず最初、ミンストレル・ショウのためのソングライターとして身を立てた。その後楽譜出版会社と契約して専業作曲家となるが、そうなって以後も、魅力的なコンポジションはミンストレル・ソング的な側面を持ったものが多かった。
アメリカ合衆国のミンストレル・ショウはもちろんお芝居だ。19世紀半ばが全盛期だったから録音・録画技術などまだ存在しないが、20世紀に入ってからは全世界で最も人気があるこの国のポピュラー・ミュージックも、やはり元は舞台上の演劇、それも俗悪で猥雑な大衆娯楽劇、ポップ・エンターテイメント、分類不能な各種のネタを披露するワケの分らない芸能人が跋扈するステージで歌われるものとして誕生した。いまはアメリカでも日本でもシリアスな音楽家とお笑い芸人は<住む世界が別>だと考えられているよね。ボブ・ディランとエディ・マーフィーが同居しないように(でも本人たちはそう思っていないに違いないし、エディ・マーフィーには音楽家の友人も多い)。
キューバにおけるルンバ(といっても北米合衆国に渡って大ヒットした「南京豆売り」などの類をルンバと同国で呼びはじめたそれではない)の成立にも、またテアトロ・ベルナクロというものがあって、これは北米合衆国のミンストレル・ショウ同様に欧州系の白人が顔を黒く塗って、ステレオタイプの黒人を面白おかしく演じた。ミンストレル・ショウもそうだが、そんなものが許されるのかという倫理的視点は、大衆音楽の面白さという視点とは別問題だよね。テアトロ・ベルナクロのお芝居のなかに挿入するために、ハバナなどで多くのポップ・ソングが誕生し、評価も高いアルセニオ・ロドリゲスの初期キャリアにもそんな背景を持つ曲の録音があるし、また誰よりもミゲリート・バルデスがそんな演劇性を備えた歌手だったじゃないか。
ミゲリートは見た目の肌の色は黒っぽかったが、本人の言うところでは父親は欧州系白人、母親はメキシコ系先住民の子孫だったそう。そんなミゲリートが「ババルー」みたいな、あたかも自分はアフリカ系だみたいな曲をリアルに歌う。これは要するにまことしやかな<ウソ>ってことなんだよね。ウソとは、言い方を換えれば演劇性。あるいは虚構の持つリアリティ。北米合衆国のミンストレル・ショウで白人が黒塗りにして<黒ん坊>を演じ歌い、ヒット曲が誕生するのと同じ構造だ。
詳しく書かないが、インドネシアのクロンチョンもブラジルのショーロも大衆演劇をバックグラウンドにして成立している。カリブ中南米、北米合衆国、アジア地域 〜 これら全てのポピュラー・ソングが、大衆娯楽演劇のなかでの不可分な一要素として育まれ誕生し、それが結果的にはレコード産業成立後に演劇から切り離されて、あたかも音楽だけ独立した一分野であるかのように流通するようになったのは、偶然なんかじゃない。
僕はこのブログで以前からなんども繰返す日本の大衆歌謡界にある男歌・女歌。ゲイではない男性歌手が女言葉で女の気持をそのまま歌ったり、レズビアンではない女性歌手が男言葉でそのまま男の気持を歌い、それを僕たち聴衆も違和感なく受け入れる。これは演劇の舞台と”直接的には”関係ないかもしれないが、男/女の<役割>を歌のなかで演じているわけだから、これも音楽に潜む演劇性が顕在化したものの一例と言えるはず。
「女のみち」を歌う宮史郎は本当は女なんだろうとか、「ふたり酒」を歌う川中美幸や「なごり雪」を歌うイルカやどっちも歌う岩佐美咲は本当は男じゃないんだろうかとか、あるいは「木綿のハンカチーフ」の太田裕美はじゃあ両刀使いかなんて、誰一人想像すらもしないはず。岩佐美咲の記事で一昨日も書いたが、殺人鬼や麻薬中毒者を演じる俳優が、実生活では犯罪歴のない良識人であるのと同じことで、当たり前すぎて書くのもバカらしい。
また日本の演歌歌手はよく「だれそれ座長公演」と銘打って、例えば新宿コマ劇場(はもうないが)などでよく興行を打つじゃないか。お芝居と歌の合体じゃないのあれ?僕は観たことがないんだけど、基本、一部が歌で二部がお芝居らしい。そう分れてはいるが、観客は両方同じように楽しむ。大御所演歌歌手はみんなそういうのをやっている。大御所でなくたって、AKB48や関連のガール・グループの生舞台も、同じように演劇性を兼ね備えた歌を披露するようなものみたいだ(生体験はないのだが、指原莉乃などが「座長公演」の看板を掲げたりするみたい)。
ミンストレル・ソング、テアトロ・ベルナクロのルンバ、インドネシアのクロンチョン、ブラジルのショーロ、日本の演歌(のなかにある男歌・女歌、座長公演など)〜〜 これら全て、いわば<ウソ>なんだよね。フィクションなんだ。虚構性、言い換えれば演劇性を本質的に内在している歌や音楽は世界中にたくさんあって、本当に面白いホンモノの音楽・歌はたいていこういうウソなんだよね。ウソを徹底するからこそホンモノになれるっていう。ウソがないとホントもない。ウソから出たマコト。
これは内容と演者がいい距離感を保っているかどうか、密着しすぎていないかどうか、すなわち想像力が発揮されているかどうかということでもある。歌の中身とそれを歌う歌手の立場がピッタリ張り付いていない方が音楽は面白く、また妙な言い方だが健全でもあって、そして最も重要なことは、そうじゃないと歌がリアルに響かない、リアリティを持って聴き手の胸を打たないってことだ。
さてさて、第二次世界大戦後の北米合衆国で一時期大流行したプロテスト・ソングって、ちょうどこういった歌の持つ本質的演劇性(虚構性)や、ウソを徹底した挙句マコトになるみたいな部分、歌と歌手とのいい距離感があるみたいな部分は全く持っていない、正反対のものだったんじゃないかなあ。インテリ白人が戦争や社会問題を訴える、黒人に成り代わって差別を断固告発する 〜 ここに距離感が全く存在しない。歌の中身と歌手の立場がピッタリ密着している。密着しすぎていているからこそ、あれらプロテスト・(フォーク)ソングは「音声としては聞こえても歌として聞こえてこないのである」(富岡多恵子『詩よ歌よ、さようなら』)。
富岡多恵子はまた「表現のための虚構をくぐりぬけていないので」とも言っている。富岡の一番言いたいことは、小説の場合、それはいわずもがな全て虚構であってつくりものだけど、つくりもののウソを徹底することで現実をやっつけさせる真実を出現させようともくろむ行為であると書いている部分にある。このフィクション(虚構=小説)についての指摘は、そのまま音楽の世界にも完全に当てはまるものだろう。
フォーク・ソングとかプロテスト・ソングとかいった種類のものは、まさに社会を変えようと、富岡多恵子の表現で言えば現実をやっつけさせようとしてみんな創り歌っていたものに違いないはず。しかしその結果それが実現しなかったのは、単に音楽はそんなパワーなんか持っていないんだということだけじゃない。あれらの種類の歌がホンモノとして一般市民のみんなの心を打たなかったからに違いない。
それは富岡多恵子の言葉を借りれば、表現のための虚構をくぐりぬけていなかったから、歌としてはホンモノじゃないのだ。いくら声を張り上げて力強く社会問題を歌ってみたところで、迫真の表現力は存在しない。フィクショナルなリアリティが歌にこもっていないからなんだよね。(社会の)現実と(表現の)真実は違う。ここが分らず、社会問題をただそのまま歌詞に移し替えてメロディを付けて歌ってもダメなんだよね。
問題はボブ・ディランだ。彼は表現者、音楽家、歌手としては本物だった。だからわりと早い時期にこの事実に、自分たちの歌うプロテスト・ソングが歌としてはホンモノじゃないんだということに気が付いちゃったんだろう。ディランのプロテスト・ソング歌手時代は、したがって実は非常に短い。アルバムでいえば、デビュー二作目1963年の『ザ・フリーウィーリン』と三作目64年の『時代は変わる』しかないもんね。
だがこの二つのアルバム(の収録曲)であまりに強い印象を世界中に与えてしまったがために、あたかもボブ・ディラン=フォーク・ソングのシンガー・ソングライター、プロテスト・ソングの旗手であるかのようなイメージが固定してしまって、ひょっとしたらいまだに一部の人たちは同じように考えているかもしれない。
しかもですね、それら二作『ザ・フリーウィーリン』『時代は変わる』でも、アルバム中全てがプロテスト・ソングなんかじゃないばかりか、よく聴き直すとアルバムのほんの一部でしかない。前者の「風に吹かれて」「戦争の親玉」「はげしい雨が降る」「第3次世界大戦を語るブルース」、後者の「時代は変わる」「しがない歩兵」「ハッティ・キャロルの寂しい死」。これだけ。ディランの全音楽生涯でたった七曲だけだぞ。
さらにプロテスト・ソングに分類できるだろうと思う上記のもののですら、典型的なかたちはしていないのだ。最も有名なのが『ザ・フリーウィーリン』収録の「風に吹かれて」(Blowin' In The Wind) だろうが、これは単に「How many?」「How many?」と疑問形を並べているだけ(「How long?」「How long?」とリピートするリロイ・カーのブルーズに似ている?似ていない?)の歌で、全く告発したり訴えかけたりする調子じゃないもんね。
そしてこれら二枚のアルバム『ザ・フリーウィーリン』『時代は変わる』でも、上記の七曲以外は別に社会問題を歌ったものではないトラディショナルな民謡に基づいているか、あるいはそうでなければわりとシンプルなラヴ・ソングだ。ラヴ・ソングの数はプロテスト・ソングの数とほぼ同じなのだ。どうです?大手マスコミなんかが押し付ける(「フォークの神様」的な)ステレオタイプ・イメージからいまだに脱却できていない方々(がたくさんいることが、昨年のノーベル文学賞受賞騒ぎの際に明らかになった)には意外な事実かもしれない。
典型的プロテスト・ソング・シンガーではない、というかむしろプロテスト・ソング・シンガーとはかなり呼びにくいようなボブ・ディランなのに、典型的な人たちよりも典型とみなされて有名になってしまったのは、裏返せばディランの歌が、プロテスト・ソング、フォーク・ソングの類を歌う場合ですら、そういう実はニセモノを歌うですら、彼の声だけはホンモノに聴こえていた、みんなの心に訴えかけることができていたのだという証拠でもある。
しかしディランは自分の音楽のなかにあるこの矛盾に当然気が付いていたはずだ。だからだんだんと、いや、すぐに、我慢できなくなったに違いない。自分はホンモノの歌を歌いたいし創る力も歌える力もある、それなのに歌そのものはフォーク・ソング、プロテスト・ソングといったニセモノの世界にある 〜 これはディランだったらもう絶対に我慢できないね。
ディランが(彼のなかには数も多くなく典型的でもない)プロテスト・ソングをやらなくなったのは、社会のリアルな現実に密着しようとすればするほど、かえって歌がウソっぽくなってしまうことに、早々に気がつかざるをえなかったからだろう。ディランが音楽の本質を見きわめる本物の眼を持っている証拠でもある。
だからディランのデビュー四作目のアルバム『アナザー・サイド・オヴ・ボブ・ディラン』には、まだアクースティック・ギター(かピアノ)弾き語り路線ではあるけれど、「マイ・バック・ペイジズ」みたいな曲があるんじゃないかな。「マイ・バック・ペイジズ」は、ハッキリと、プロテスト・ソングを歌っていた<あの頃の僕>への反省と悔恨を表現している歌だもんね。
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