« Fun! Fun! Fun! | トップページ | BB『リーガル』にまつわる個人的思い出話 »

2017/04/05

型と即興

Img_4766











パンク(・ロック)やヒップ・ホップなどは、音楽の歴史や伝統に対する NO であり断絶宣言だったという話をここ数日いくつか見かける。それもプロの音楽評論家の方やプロのレコード・ショップ・オーナーの方がそれをおっしゃっているのだが、これはもちろん真実だという一面があると同時に、誤謬でもあるよね。

 

 

彼らのそれはある種の戦略的発言に違いないのだが、しかしその方々、正確には上記二名だけなんだけど、お二人はほぼ同世代であるはずで、その世代を考えるとパンク・ロックから既にリアルタイムでその登場を体験なさっていたはずなので、故意の戦略というだけでなく、やはり本音でもあるんだろうなあ。

 

 

はぁ〜、僕はこういう発想が大嫌いな人間なのだ。このことは普段から僕の文章をお読みになっている方々には全く説明不要だろうが、僕は異常とも言えるほど(音楽だけではなく)歴史や伝統を重んじる傾向が強い。だいたい僕は2009年11月に Twitter をはじめるまでは、全ての私的文章を歴史的仮名遣で書いていた人間なのだ。本当は公的文章もそうしたかったのだが、それで出しても自動的に現代仮名遣いに修正されてしまう。

 

 

1946年(昭和21年)の内閣告示までならみんな使っていた歴史的仮名遣だが、どうしていまの時代にそれで書くのかいうと、これはもうひとえに「合理的」「ロジカル」「システマティック」であるという、この一点に尽きる。歴史的仮名遣が合理的・ロジカルだと発言するとたいてい驚かれるのだが、僕の実感では間違いない。日本語表記の歴史に鑑みた場合、これ以上に理詰めで行ける書き方はない。現代仮名遣いなんてロジカルでなく矛盾だらけだ(歴史的仮名遣もそうだが、相対的にはという話)。といっても歴史的仮名遣も明治時代に確定したもので(遡っても江戸時代中期の契沖)決して古いものではないのだが、その表記原則は歴史的語源主義ということ。だから学習しやすい。学習の際はロジックとシステムで説明できないと納得しにくいわけだから。1946年に現代仮名遣い制定となった際、大勢の日本語学習者の外国人がこの理由で猛反対した。

 

 

仮名遣いの話は音楽とはなんの関係ないのでこれ以上は書かない。それに勘違いする方々が歴史的仮名遣を右翼思想と結びつける場合があって(そんなもん、1946年まではどんな思想の持主もこれで書いてましたから〜)、僕もそういう人間だと受け取られると嫌なので、やめておく。責任は極右思想家が歴史的仮名遣を用いたがるところにある。迷惑千万だ。

 

 

音楽やその他の芸能表現の場合、歴史や伝統を尊重しなくちゃいけないのはどうしてかというと、矛盾しているように読めるだろうが、過去の伝統に NO を突きつけないといけない場合があるからだ。それまでの従来の音楽表現とは全く異なる斬新なものを産み出すためには、従来路線を尊重し学ばないと不可能であるという 〜 これが音楽(だけじゃないだろうが)表現の真実だろう。

 

 

歴史や伝統から学ぶとは、言い換えれば「型を知る」ということに他ならない。日本語で「型破り」という表現があるけれど、これについては亡くなった歌舞伎役者の18代目中村勘三郎(勘九郎)が言っていた 〜 型を知ることは非常に重要だ、型を知ってこそ、とことんそれを身につけてこそ、型から外れる表現が可能になるんだ、型も知らずになにか新しい自由なことをやっていると思い込んでいる奴は、それは型破りなんかじゃない、形無しって言うんだ 〜 と(江戸っ子言葉で)。

 

 

狂言師の野村萬斎も、数年前の日本テレビ夕方のテレビ・ニュースの芸能コーナーで同じことを言っていた。狂言師にとって型を知ることは非常に重要です、型とは先人たちが創り上げてきた歴史的伝統で、それを徹底的に学び、いつでもどこでも無意識的かつ本能的に型を表現できるようになってこそ、初めて自在な即興も可能となるのです 〜 と野村萬斎は強調していた。

 

 

野村萬斎のこの型と即興についての卓見は、そのままそっくり音楽の世界にも当てはまるものだ。例えば自由自在な即興演奏こそが命とされているジャズの世界。アド・リブ表現なんて、たいていの場合先人の演奏をそのまま模倣するところからはじまる。なにも学ばず生まれた時から自在表現ができるジャズ・マンなんかいるわけないだろ。

 

 

一例をあげると、ひょっとしたらジャズ史上最高のインプロヴァイザーだったかもしれないチャーリー・パーカー。歴史無視・軽視派のみなさんは、バードが一夜にしてあんな奔放で自由自在なアルト・サックス演奏ができるようになったなどと、いや、まさかそんなことは考えていないと思うのだが、それにしてはバードがジャズ史の伝統(シドニー・ベシェ、ジョニー・ホッジズ、ベン・ウェブスター、レスター・ヤングなど)から学んだことはあまり強調なさらない。

 

 

同じ楽器でやはりジャズ界に大衝撃を与えた1950年代末のオーネット・コールマン。まだ少し歴史的伝統主義者も確かに存在するチャーリー・パーカーの世界と違って、オーネットの場合はマジで最初からああいったフリー・ブロウイングができたのだ、あれは生得的なのだという言い方しか存在しないかのように僕には見える。そんなわけないじゃん。オーネットはリズム&ブルーズ・バンドの出身だし、さらにもっとアメリカ音楽史を遡って、南部のカントリー・ブルーズやニュー・オーリンズにおける初期ジャズのことを考えれば、オーネットもやはり伝統派なんだよね。

 

 

オーネットが伝統派などと言うと、フリー・ジャズ信奉者、あるいはそうでなくともジャズ・ファンのみなさん、あるいは専門家の方々だって、エェ〜ッ?コイツ頭がおかしいぞ!と思うかもしれないね。伝統主義かどうかは、表現者自身の自覚とは必ずしも関係ない。いや逆に、むしろ本人が無自覚なまま染み付いていて、全く意識しないのに表現のなかに自ずと出現するところが、歴史的伝統の真のパワー、怖ろしさ、素晴らしさなのだ。それくらい強力なものなんだよね。

 

 

別にジャズともプロ音楽家とも限らない。ブルーズだってロックだってソウルだってファンクだって、世界中のいろんな音楽だって、ちょっとやってみた経験のある人間であれば、最初は既存音源のコピーばっかり繰返すのだということはみんな知っている。アド・リブなんて「絶対に」できないからね。ただ自分の憧れの存在のレコードを聴いて、こんな風に演奏したいと思って、レコードに合わせて一緒に音を出してなぞるだけ、本当にそれしかやらない、というかできない。こうなりたいと思うばかりにという意味ではない。技術的に不可能なのだ。

 

 

同じフレーズや定型パターンやスケール練習を、毎日毎日、これでもか、もういやだというほど寝食忘れて延々とリピートする。これが「型を知る」ということに他ならない。これでしばらくが経過(どれくらいかかるかは個人差がかなりある)したのちに初めて、意識しなくても指や身体が自由に動くようになるんだよね。そうならないと即興演奏なんかできっこないのだ。

 

 

つまり自在で奔放で型破りな即興表現とは、もうイヤ!というほど型を反復練習しないと可能にならないんだよね。音楽ジャンルも文化ジャンルも問わないはず。全ての表現分野で同じだ。ここまでお読みになってきて、お前、あれだろ、お前の言っているのは表現者の場合だろう、こっちはただの受け手だぞ、音楽なんかただ聴くだけなんだぞ、だから歴史や伝統なんか関係ないぞと言いたげなそこのあなた、大間違いですぞ。

 

 

ただ聴いているだけの音楽ファンというなら僕も同じだ。だが僕はアメリカ黒人音楽ばっかり聴いていてそのことしか分らないからそれに限定するが、アメリカのブラック・ミュージックも歴史的伝統や古典作品をしっかり聴いておかないと新しいものなんか理解できっこない。古典や過去を聴いていないのに、どうしてこの作品が「いままでにない新しい」ものだと判断できるのだろうか?

 

 

最近そんな具体例を目にすることが以前より増えた。これはここが新しい、いままでになかったものだという発言を読むのだが、僕がそれを読むと、そんなのずっと前にありましたよと申し上げたい場合がある。むろんそれらは音の「表面上」は新しい。だが表現の「本質」においては同じものがずっと前からある。これに気づかず発言する方が、それも専門家のなかにすら出てきているということが、近年ますます伝統や古典を軽視・無視する傾向が強まっているということを意味しているんじゃないかなあ。残念だ。本来であれば専門家は、そういう部分を知らない素人リスナー相手に啓蒙しなくちゃいけない立場にあるはずなのに。

 

 

歴史的伝統、古典、型。これらは日本料理の世界で言えば、基本の出汁とか包丁の扱い方とかそういう類のことで、それができない料理人などいるわけがない。できなかったらその先へ一歩も進めない。味噌汁でもすまし汁でもどんな料理でも、基本の出汁があって、その上にどんな味を足すかは料理人個人個人の創意工夫で独自のもの(音楽における自在即興)ができるだろうが、出汁をとらなかったらゼロだ。ハナからなにもできあがらない。

 

 

僕たちはただ出される料理を食べて味わうだけ(=聴くだけの音楽リスナー)の立場だけど、その料理がマトモな味かどうか、美味しいかどうかは食べれば分る。もし基本の出汁(=音楽伝統)がなってなかったら、一口食べただけで僕たち素人にだってバレてしまう。音楽作品であれば、楽しく美しいものになっているかどうかは、音を聴けばどんな素人にだって分るもの。しかしどうしてそうなっているか、その根本原因が、料理の出汁と同じく音楽伝統の力なのだ。

 

 

伝統や古典が活かされていない音楽(なんてあるのか?)とは、すなわち出汁をとっていない味噌汁だから、当然聴けた=飲めたもんじゃない。だから意識しなくても、誰だって全員その存在は味わっているんだよね。音楽の伝統・古典なんかどうでもいい、聴かないよというリスナーだって、自覚なしにそれをたっぷり味わっているわけだ。だって出汁だもん、できているかどうかは分っちゃう。

 

 

だから、そこにあるんだから、意識して聴かなくてもいいんだよと考えてしまうんだろうが、意識して聴いて知っていた方が、音楽でもなんでもより深く楽しめるのは間違いないことなんだよね。より深く楽しむとは、言い換えればより強い快感を味わうということ。音楽でもなんでも、伝統や古典、すなわち型を知ってこそ、より深く強い真の快感が楽しめる。誰だって快感は強い方がいいでしょう?

« Fun! Fun! Fun! | トップページ | BB『リーガル』にまつわる個人的思い出話 »

音楽(その他)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 型と即興:

« Fun! Fun! Fun! | トップページ | BB『リーガル』にまつわる個人的思い出話 »

フォト
2023年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ