愛するシボネイ、貴女への想いで僕は死ぬだろう
曲「シボネイ」を聴いていると、この時間が永遠に続けばいいのに…と思ってしまう。それくらい好きだ。といっても「シボネイ」でありさえすれば、誰のものでもいいわけじゃない。僕が普段最もよく聴く最愛好「シボネイ」はラウル・マロが歌ったもの。もちろんロス・スーパー・セヴンの2001年盤『カント』一曲目。
正直に告白するが、2001年にその『カント』を買うまで、キューバのエルネスト・レクオーナが書いたこの名曲をちっとも知らなかった僕。『カント』を買ったのだって、ロス・スーパー・セヴンはあのロス・ロボスの別働隊の一つだったからというだけで、『カント』の前に一枚 、1998年の『ロス・スーパー・セヴン』があって、それもよかったし、だいたいロス・ロボスが大好きで、これまた別働隊の一つであるラテン・プレイボーイズも好きだった。
だから『カント』もリリースを知って、そのまま直後に買っておこうと思っただけだった。ジャケット・デザインもいいしね。ところが買って帰って CD プレイヤーのトレイにディスクを入れて再生ボタンを押したら、しばらくして流れてきたオペラティック・ヴォイスにシビレちゃったのだ。と言うと一面正しく反面間違い。
あの「シボネイ」では歌がはじまる前に、まずドラマーがブラシでアバネーラ(と表記することにしたが、それでも Havana をアバーナと表記する気にはなかなかなれない)のリズムを叩いている。その部分のあのゆったりと跳ねている二拍子のリズム・パターンがいいなあって、まずそれで惚れちゃった。セバスティアン・イラディエールの書いた「ラ・パローマ」のパターンだもんね。
そのブラシ・プレイのドラムスだけに乗ってラウル・マロが歌いはじめた瞬間に、僕はもう完全に骨抜き状態。ラウルのあの朗々とした声もセクシーで絶品だけど、彼が歌っている、僕はその時生まれて初めて聴いた「シボネイ」という曲の旋律も、これまたなんてセクシーなんだろうって。それで僕の「シボネイ」蒐集がはじまったのだ。その熱がいままで続いているので、全てはエルネスト・レクオーナとラウル・マロのせい。
上で貼った音源をお聴きになれば分るように、この「シボネイ」のメロディは基本マイナー調だけど、サビの部分でメイジャー・キーに転調する。その転調の瞬間に、歌詞で歌っているシボネイという名前の愛する町(キューバに実在する)に対する望郷の気持が一瞬パッと晴れたかのような、そんな雰囲気になっているけれど、しかしスペイン語詞では必ずしもそうはなっておらず、望郷の思いにより一層身悶えするような内容 〜「シボネイ、君が来ないなら、僕はこの愛で死にたい」(Siboney, si no viennes, me morriré de amor)。
しかしこれは町の名を使ってはいるものの、やはり男女間の恋情を表現したものだろうと僕は解釈している。エルネスト・レクオーナ自身もキューバを離れていた時代に、町シボネイを思って書いた歌詞みたいだけど、そんなかたちを借りながら、やはりシボネイという名前の女性に対する激しい愛、あなたのことが死ぬほど好きです、シボネイさん、この想いが叶わないならば、僕はいっそのこと…、という内容を書いたように聴こえるなあ。
少なくともラウル・マロの歌うヴァージョンでそんな官能美を、書かれた曲の旋律そのものやヴォーカリストの声に聴きとってしまう僕にとっては、その官能美とはすなわち愛する女性に対する気持が表れたものだとしか思えない。つまり世界中のポピュラー・ソングに実にたくさんある、ありすぎると思うほど多い、愛する女性の名前を繰返し呪文のように唱える、叫ぶ、そんな系統の曲だ、僕にとっての「シボネイ」は。
ロス・スーパー・セヴンの『カント』では、一曲ごとに誰が歌っていて参加ミュージシャンは誰でなんの楽器を担当しているか、全て附属の紙に明記されている。一曲ごとにかなり入れ替わっているのだが、一曲目の「シボネイ」ではドラムスのクガール・エストラーダの他にも、デイヴィッド・イダルゴ、デイヴィッド・イダルゴ・Jr がパーカションを担当していることになっている。他はピアノのアルベルト・サラス、ウッド・ベースのウィル・ドグ・アベルス。
しかし「シボネイ」を聴いてもヴォーカルとドラムスとベースとピアノの四人しか聴こえず、パーカッションらしき音は存在しないように思うのだが、あるいは聴こえるあのシャカシャカという音はクガール・エストラーダのブラシ・プレイだけじゃなく、イダルゴ父子がなにか叩いているのだろうか?う〜ん、謎だ。まあでもそんな重要なことじゃないね。
重要なのは、ロス・スーパー・セヴン『カント』ヴァージョンの「シボネイ」での、(主に)ドラマーが表現するリズム・パターンが、完全に19世紀半ば以後のキューバに存在したアバネーラのそれであるということ。二拍子で跳ねながら、その非常にゆったりとした、ある種のセクシーさも感じるリズムにアレンジされているので、エルネスト・レクオーナの書いたメロディの魅力が一層際立っているということだ。
そしてもう一つ、それを歌うラウル・マロの堂々したオペラティックなヴォーカルが、やはりセクシーだっていうことも非常に重要。『カント』CD附属の紙に、一曲ごとに違っている歌手による(英語の)メモのようなものが書いてあるのだが、「シボネイ」部分でのラウル・マロは、祖父がやはりこんなオペラティック・ヴォイスの持主で、自分の幼少時に「シボネイ」もよく歌って聴かせてくれていたんだそうだ。だからラウル・マロにとっての「シボネイ」は、子供時分の祖父の思い出をも愛でるような情も含まれているんだろうね。
いやあ、もちろんエルネスト・レクオーナの書いた「シボネイ」というこの名前は、もちろんキューバに実在する町の名だ。あくまで直接的にはね。でもこの曲をレクオーナが書いた時はまずメロディだけ先にあって、しばらくは歌詞のないインストルメンタル曲だったそうだ。スペイン語詞はあとからキューバ不在時に書き足したものなんだそうだ。だからあの「シボネイ」の旋律が官能的に美しいというのは自律したものなんだよね。歌詞とは無関係にセクシーだ。
そんでもって音楽の歌詞の意味をどう解釈するかなんてのは、こりゃまた多様なものであって、しかもこっちは歌詞だけ自律して意味を持つようなものなんかじゃない。文学作品じゃないんだからね。旋律やリズムと歌詞はあくまで不可分一体で、メロディとリズムの流れのなかで言葉がどう聴きとれるかってのが重要だろう。だから他のほぼ全てのポピュラー・ソング同様、「シボネイ」だって、あの官能美に満ちた旋律(と『カント』ヴァージョンの場合はアバネーラ・リズムも)と一緒くたになってこそ初めて、歌詞の言うあの amor がなんなのかを受け止めることができるのだ。
そうすると、ロス・スーパー・セヴン『カント』ヴァージョンの「シボネイ」は、(あくまで僕の個人的な聴き方だが)自分が想いを寄せる女性に対する激しい愛の渇望、あぁ、シボネイ、貴女のことが貴女のことが、これほどまでも僕は好きでたまらない、シボネイ、貴女に対する僕のこの想いが届かないのなら、僕はいっそ死にたい、どうか、どうか… 〜 まあこんな歌をラウル・マロは歌っているように、歌詞の言葉の意味内容だけがというんじゃなく、あのメロディとアバネーラ・リズムが表現しているようにしか聴こえない。
と同時にこの「シボネイ」は音楽愛を表現したものでもあるだろう。最終盤部で「シボネイ、僕のこのクリスタルな歌の響きを聴いてくれ」(Siboney, oye el eco de mi canto de cristal)とか「このサウンドを聴き逃さないでくれ」(No se pierda por entre el ruido)などとある。つまりメタ・フィクションならぬメタ・ミュージックなんだよね。
言うまでもなく直接的には、愛するシボネイに僕のこの歌が届きますようにと歌っているだけだ。だけれども、女性愛と音楽愛がピッタリ張り付いて、というか女性に対する愛とはすなわち音楽に対する愛と完璧に同じものなんじゃないかなあ。音楽の美しさ、楽しさ、激しさが、恋愛のそれと同じ、はっきり言えばセックスの快感 、美、熱情と同じものだとおう、僕は前々から書いていることを、今日もまたラウル・マロの歌う「シボネイ」を聴きながら再確認した。
なお、そんな「シボネイ」が入ったロス・スーパー・セブンの『カント』というアルバム。その一曲目以外のことは本当に一言も触れていないが、いろいろと面白い一枚だし、だいたいペルーの女性歌手スサーナ・バカはこのアルバムで初めて知ったんだったし、また機会を見て「シボネイ」以外のことも書いてみようと思っている。
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