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2017/05/10

ゴスペル・ブルーズ

Unknown









前々から繰返すように聖なるゴスペルと俗なるブルーズのあいだに境界線を引くことなど不可能だ、かりに引いてみたところで、そうするとアメリカ黒人音楽の実態から遠ざかっていくだけだというこの事実を今日もまた、くどいようだが書いておきたい。というのも少し前にまた Twitter で、ある熱狂的なリズム&ブルーズ〜ソウル・リスナーでありかつゴスペル敵視派の方に出会い激しく絡まれてしまったので、やはりまだまだいるんだなと実感したばかりなのだ。

 

 

その方となにがあったのかを詳しく書くのはよしておこう。僕は大の議論好き、というか喧嘩っぱやい人間で、言論的殴り合いもその場限りで楽しんだらすぐに忘れてしまうのだが、あちらの方はなんだかいまでも根に持っているようで、いまでも Twitter の僕のメンションに思い出したようときどき出現し注文をつけてくる。いわく「こんなすごく楽しい面白い音楽を教会内で歌うことなどできるのか?」などと、様々な YouTube 音源を貼りながら。

 

 

具体的なことはホント書く気はないので、そうじゃなく今日は、昨2016年末だったか今2017年頭だったかにリリースされたばかりの『ザ・ラフ・ガイド・トゥ・ゴスペル・ブルーズ』について話をしたいのだ。ま〜たこのシリーズの話かよ、またかよ…、って思われるに違いないよね。でもこれでまだ三回目だぜ。このラフ・ガイド・シリーズが全部で何枚あるのかを考えたら(っ多すぎて把握することなど不可能だが)、氷山の一角なんてもんじゃないほど小さい。

 

 

1926〜40年の録音集である『ザ・ラフ・ガイド・トゥ・ゴスペル・ブルーズ』。収録されているのは、世間一般にはゴスペル界とブルーズ界に分けて認識されている歌手たちの両方。こういった第二次大戦前の古いアメリカ黒人音楽が大好きな僕だから、単に好きだからちょっと買っておこうと思っただけ。それが購入動機だが、届いた CD パッケージを見ると、ゴスペル・メン、ブルーズ・メン(ウィミン二名)がゴッタ煮状態で並んでいるのがいい。

 

 

こんな編纂方針の CD はないもんね。一人のゴスペル歌手がどっちも歌っていたり一人のブルーズ歌手がどっちも歌っていたりする作品集というのばかりで、それら両者いろんな人をゴチャゴチャに混ぜて並べてあるアンソロジーって、いままであったっけ?僕が知らないだけなんだろうが。このラフ・ガイド・シリーズなんて、音楽マニアはおそらく誰一人相手にしていない初心者用入門シリーズだけど、案外侮れない。いままで二回とりあげた際にもこれは書いた。

 

 

『ザ・ラフ・ガイド・トゥ・ゴスペル・ブルーズ』は全25曲。有名・無名取り揃え、しかしブルーズ・サイドに分類されている歌手たちの方が多い。一番有名のはたぶんベシー・スミス、ブラインド・レモン・ジェファースン、チャーリー・パットン、ブッカ・ホワイトあたりかなあ。ゴスペル・サイドで認識されている歌手のなかではブラインド・ウィリー・ジョンスンが一番の有名人に違いない。でもピュアなゴスペル・サイドの人間では、ほかにゲイリー・デイヴィス師とエドワード・W ・クレイボーン師しか収録されておらず、やはりあくまで(世間一般の認識では)ブルーズ歌手たちばかり。

 

 

ゴスペル・サイドで認識されている上記三名だって、例えばブラインド・ウィリー・ジョンスンなんかはブルーズ愛好家もみんな好きでファンが多くよく聴かれている。この人の場合、ホント福音音楽ばっかりでありながら、(歌詞内容を抜けば)音楽の質としては1920年代末のブルーズ・ミュージックとなんら違いがないということもみんな知っている。だから『ザ・ラフ・ガイド・トゥ・ゴスペル・ブルーズ』二曲目収録の「アイ・ノウ・ヒズ・ブラッド・キャン・メイク・ミー・ホール」だって、なんの驚きもないはず。いまさらこのギター・エヴァンジェリストについて、クロス・オーヴァー・ジャンルの人だなんていう意識を持つ人すらいないだろう。あくまで福音音楽ですけれどね。

 

 

 

これを聴くと、『ザ・ラフ・ガイド・トゥ・ゴスペル・ブルーズ』ではいきなり23曲目のチャーリー・パットン「ジーザス・イズ・ア・ダイイング・ベッド・メイカー」にジャンプしたくなる…、とこう書けば、もうみなさん、僕の言いたいことは分ってしまうはずだ。でもそう言わず、いちおうパットンのそのブルーズ(?ゴスペル?)を聴いてみて。

 

 

 

みなさんに説明する必要もないけれど、やはりいちおう書いておこう。このパットンの曲は、ブラインド・ウィリー・ジョンスンもやった有名伝承ゴスペル・ソングに基づいているもの。ロック・リスナーのみなさんにとってはボブ・ディラン(一作目『ボブ・ディラン』)とレッド・ツェッペリン(『フィジカル・グラフィティ』)のヴァージョンでお馴染のものだ。ブラインド・ウィリーのだけご紹介しておく。

 

 

 

これをお聴きになれば、上でご紹介したチャーリー・パットンの1929年録音は、その二年前に録音されレコード発売されているブラインド・ウィリー・ジョンスンのヴァージョンに非常に強い影響を受けていることがかなり鮮明に理解できる。ギターで刻むビート感やスライド・プレイのパターンがよく似ているだけでなく、ヴォーカルのフィーリング、声の出し方まで真似ているように聴こえるもんなあ。

 

 

この「ヴォーカルの」という部分をみなさんもっと強調しないといけない(といつも僕は言っているし、B・B・キング『ライヴ・アット・ザ・リーガル』についての際も書いた)。ブルーズは基本的にはギター・ミュージックで、ギターは身近な楽器だし真似やすいし、さらにギター・メインでやる米英ブルーズ・ロッカーたちの影響力が大きいせいもあってか、みんなギターの話ばっかりするけれど、歌のある音楽はヴォーカルの方が大事なんだぞ。

 

 

ゴスペル・ミュージックのことを考えて、それと切り離せない世俗のブルーズのことを考える際には、やはり歌手の声の出し方、声質、声の張り方、歌い廻しのフレイジング、コブシ廻し、ヴィブラート(のない場合も含め)などなど、歌唱法がどう相互影響しているかについても、みんなもっとたくさん書かないといけない。あまり書かれないのは、たぶんライターさん自身がギタリストである場合があって、ヴォーカリスト兼ライターという人は、ジャズ界には何名かいらっしゃるが(そういう方々はやはり歌唱法のことを書く)、ブルーズやロックの世界には少ないせいなんじゃないかなあ。

 

 

『ザ・ラフ・ガイド・トゥ・ゴスペル・ブルーズ』に収録されている、ブラインド・ウィリー・ジョンスン以外の二名のゴスペル音楽家についても、やはり同様のことが言える。二名とも Rev.(は Reverend の略でキリスト教聖職者のこと、普通は牧師)と敬称が付いているので分るように、収録されている音源も、いちおうギターを鳴らしているが、本質的には説教師、すなわちギター・エヴァンジェリストだ。声=ヴォーカルで周囲を説き伏せるのこそが本領で、ギターはあくまで補助具にすぎない。

 

 

ブラインド・ウィリー・ジョンスンにしたってそうだ。みんなギターのことばっかり言ってさぁ。そりゃまあこの人が一般に広い人気を獲得できているのは、ロック・ギタリストのライ・クーダーがカヴァーしたからで、しかもそれはインストルメンタル・ナンバーだから、それでみんなギターの方にばかり目が(耳が?)行くのは当然かもしれないが、あのド迫力のドロドロに濁っただみごえヴォーカルこそ、僕にとってはブラインド・ウィリー最大の魅力なんだけどなあ。あんな声で「地獄へ落ちるぞ」などと言われるからこそ、背筋が凍る。

 

 

当時、辻説法でああいったギター・エヴァンジェリストたちがその場に集まった人たちを説得していたのだって、ああいった迫力ヴォイスでもってそうしていたのであって、『ザ・ラフ・ガイド・トゥ・ゴスペル・ブルーズ』なら、ゲイリー・デイヴィス師もエドワード・W ・クレイボーン師も同じ部分にこそ魅力がある。世俗のブルーズ・ミュージシャンたちにだって、あんな迫力のある歌い方が一番大きな影響源だったはずだ。

 

 

『ザ・ラフ・ガイド・トゥ・ゴスペル・ブルーズ』には収録されていないが、ミシシッピ・デルタ・ブルーズ代表格の一人、サン・ハウスだって、あの声、あのものすごくよく響く朗々とした声、あれはゴスペル由来ですよ。『ザ・ラフ・ガイド・トゥ・ゴスペル・ブルーズ』に収録されていないのにはレッキとした理由が見て取れて、それはどこにも明記がないが、このコンピレイションに収録されているブルーズ・メン(ウィミン)がやっているのは、全て完璧な宗教的レパートリーだけだからだ。

 

 

つまりブルーズ側の人間が、古くからの伝承黒人スピリチュアルズ(黒人霊歌)や、伝承的あるいは現代的ゴスペル・ソングや、あるいはその他なんらかの意味でのキリスト教色のある他作・自作の曲をとりあげて、それをブルーズ・ミュージック的な解釈でやっているものばかりが『ザ・ラフ・ガイド・トゥ・ゴスペル・ブルーズ』には収録されているわけなのだ。アルバム名の Gospel Blues とはこの意味。

 

 

これは、一面ではブルーズといわずジャズといわずソウルといわず、アメリカ黒人音楽ならなんでもほぼ全て、キリスト教を抜きにして語ることなど不可能である、それほど宗教的レパートリーや、宗教色が濃いものばかりだという事実を示すものでもある。裏返せばゴスペル音楽の世界のなかにだって世俗音楽色はかなり濃い、なんてもんじゃなく楽器編成やサウンドやリズムなんかは完全にそのまんまじゃないか。

 

 

最初に言及したゴスペル敵視派の方は、サム・クックの例をあげて「転向は許されたでしょう、がしかし同時に両方の世界で歌い共存することなど可能なのでしょうか?」と僕に問うてきたけれども、もちろん可能だ。可能なんてもんじゃなく、そもそも区別すること自体がオカシイのだ。『ザ・ラフ・ガイド・トゥ・ゴスペル・ブルーズ』を聴いていただければ、ブルーズ・メン(ウィミン)が、ゴスペル界にだって存在しうる音楽をやっていて、またゴスペル歌手(というか説教師だが)も、教会内と同時に世俗世界にも存在しえたという、この間違いない厳然たる事実を納得していただけるはずだ。

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