« クーティ・ウィリアムズ楽団のジャンプ録音 | トップページ | ド田舎の生のブルーズで踊ろうよ »

2017/06/07

サムのナチュラルでナイーヴなヴォーカル表現 〜『コパ』

Sam_cooke_copa

5135wqhyl_ss500








サム・クックのライヴ録音。ソウル・スターラーズ時代に三曲だけあるものの話は、このブログでも以前書いたので、以下をご参照いただきたい。それら三曲はサム在籍時のソウル・スターラーズ完全集 CD 三枚組ボックスの末尾に収録されているものだ。かなり凄いぞ。音源もご紹介してある。
それら三曲を外すと、ゴスペル時代、ポップ(ソウル)時代の別を問わず、サム・クックのライヴ音源は、アルバム二枚分しかない。録音順だと、1963年1月12日公演の『ライヴ・アット・ザ・ハーレム・スクエア・クラブ 1963』。そして64年7月7&8日公演の『サム・クック・アット・ザ・コパ』。たった二枚しかないのかよ…。しかもどっちも40分前後の長さしかないので、iTunes のプレイリストで合体させて(いるよ、僕はね、だって続けて聴きたいもん)みても、合計でたったの1時間11分。たったこれだけかよ…。早死したからしょうがないけれど、サムのライヴ、もっともっとたくさん聴きたかった。僕は大のライヴ・アルバム愛好家だからね。

しかしこれら二枚、リリース順だと逆になる。また『ライヴ・アット・ザ・ハーレム・スクエア・クラブ 1963』の方にはややこしい事情があるみたいだ。先にリリースされたのは『サム・クック・アット・ザ・コパ』の方で、これは録音直後の1964年10月にレコードが出ている。しかし『ライヴ・アット・ザ・ハーレム・スクエア・クラブ 1963』の方は、一年先に録音したにもかかわらずお蔵入り。初リリースは1985年だったのだ。

さらに、ハーレム・スクエア・クラブでのサムのライヴ録音盤は、僕の知る限り三種類ある。演唱本体はもちろん同じだが、少しずつ、いや、かなりミックスが違っているのだ。そのせいで僕は三つとも買う羽目になった。最初のものが1985年初リリースの『ライヴ・アット・ザ・ハーレム・スクエア・クラブ 1963』。二番目が2000年リリースの CD 四枚組ボックスのベスト盤『ザ・マン・フー・インヴェンティッド・ソウル』。これの四枚目にハーレム・スクエア・クラブでのライヴがフル収録されている。三つ目が、いまはこれが標準なのかな、2005年リリースの『ワン・ナイト・スタンド!:サム・クック・ライヴ・アット・ザ・ハーレム・スクエア・クラブ』。

1963年ハーレム・スクエア・クラブでのサム・クックのライヴ公演。演唱自体が同じで、ミックスがどう違っているかなどを克明に記そうとすると面倒くさいことになってしまうので手短かに書くと、一番目の1985年盤は「やかましい」。特にオーディエンスの反応がかなり大きめに聴こえる。二番目の2000年ボックス収録のものはそこを修正して、バンドの演奏とサムの歌を前面に出しそれにフォーカスしているが、今度は反対にライヴならではの臨場感が弱い。いまではたぶん標準視されているだろう2005年盤は、それら二つの「真ん中」あたりでちょうどいい感じのミックスに仕立て上げている。

音楽そのものには特に深い関係がないかもしれないことだったな。とにかくサム・クックのライヴ・アルバム二枚にかんし、いまの僕が一番気に入らないのは世評だ。『ザ・ハーレム・スクエア・クラブ』の評価が異常に高く、それに比べたら『コパ』の方は不当に下に置かれているじゃないか。冗談じゃない。どっちも素晴らしいサムの歌だよ。この世評のギャップはアメリカ黒人音楽の世界にまつわる、ある種の思い込み、はっきり言えば偏見に基づいているように、僕には見える。

録音は先だった『ザ・ハーレム・スクエア・クラブ』はマイアミにある同名の場所でのライヴだが、ここは、アメリカ黒人音楽愛好家には説明不要だが、いわゆる<チトリン・サーキット>の一つなのだ。アメリカ黒人音楽家が、同胞黒人を観客として、そういう人たちが集まって彼ら用に音楽娯楽を提供する場所なんだよね。同じ黒人たちがオーディエンスで、そういう場所だからこそ、サム・クックも<本来の>熱い姿を発揮できた 〜 そう考えられているんじゃないの?

一方、約一年後の録音である『コパ』。こっちはニュー・ヨークにあるコパカバーナという場所での公演で、コパカバーナは高級サパー・クラブであって、オーディエンスもお金持ちの白人層。そんなところで歌わなくてはならないサム・クックは黒人なわけだから、なんというか、白人向けに音楽の濃厚さを薄めて、いわば<迎合して>、受け入れられやすいようにマイルドに歌った、 だからアメリカ黒人歌手本来の姿は捉えていない 〜 そう考えられているんじゃないの?

ふ〜ん、アホくさ。冗談じゃないぜ。サム・クックみたいな音楽家については、そんな考え方がいちばん無意味である。それはサムの音楽キャリア全体を見渡せば理解できるはずだ。だいたいどうしてゴスペル界でアイドル的人気だったにもかかわらず、それを<捨てて>まで世俗界の歌手としてスタートすることにしたのか?この一点のみを深く考えてみれば、僕の言いたいことは分っていただけるはずだ。

つまりサム・クックは、黒人といえどアメリカ社会で白人と同じ扱いを受けるべきだ、そうでないと世の中オカシイだろう、みんな同じアメリカ人じゃないか、どうして僕たち黒人はこんな理解不能な冷遇状態にあるんだ?という、たぶん21世紀のいまでもやはり解決していない問題を、音楽と、そして一見それとは無関係そうな言動で鮮明に示した人物であり歌手なんだよね。ここが分ってないと、サムの歌は理解できない。あの「ア・チェインジ・イズ・ゴナ・カム」 という名曲をどうして書いて歌ったのかも分らないだろう。

これを踏まえれば、チトリン・サーキットでの公演であろうと白人向け高級サパー・クラブでの公演であろうとサム・クックは区別せず、<同じ>音楽・歌を披露したのだと分るはずだ。実際、あまり変わらないしね。さらにもう一点、この事実と密接に結びついている歌手としてのサムの資質にも言及しなければならない。

それはサム・クックの場合、人種は関係ないクロス・オーヴァー・ヒットを飛ばせる歌手になりたい、自分はポップ歌手だ、目標はナット・キング・コールだっていう、そんな歌手だったもんね。そして実際、多くの曲がリズム&ブルーズ・チャートだけでなくポップ・チャートをも上昇した。このことはサムの発声法・歌唱法とも深い関係がある。スムースでなめらかで綺麗な声でストレートに歌うのがサム。いかにも黒人歌手だというアクの強さは必ずしも前面に打ち出さない。それがサムのやり方だ。

正直に告白するが、だからアメリカ黒人音楽愛好家の僕は、そんな柔らかいマイルドな感じのサム・クックのヴォーカルが、ゴメンナサイ、(一部例外を除き)あまり好きではなかったのだ。ちょっとこれは黒人歌手にしてはスムースすぎるんじゃないの?歯ごたえがないなあとか、そんな気分が最近まで続いていて、この考えがガラリ180度変化したのは、なんの関係もなさそうだが、鄧麗君(テレサ・テン)と、今年になってちゃんと知った岩佐美咲のおかげなのだ。

鄧麗君と岩佐美咲は、たぶん直接的にはサム・クックと深い関係はないので、詳しいことは割愛する。どういうことなのか、詳しいことを読みたいとお考えの方は、Google 検索で「歌手は歌の容れ物 black beauty 」の文字列で検索していただければ全部出る。とそれだけで済ませるのもちょっと愛想がないので少し書くと、鄧麗君や岩佐美咲(この二名の資質はほぼ同じ)みたいな、全くアクのないスムースで柔らかい発声と歌い廻しで、曲の持味をそのままストレートに表現するナイーヴな表現法に惚れてしまったのだ。それで僕の音楽観が一変してしまった。わさみん、ありがとう、感謝しているよ。

そうすると、いろんな他の歌手や、場合によっては楽器奏者ですらも、鄧麗君や岩佐美咲と同質の人たちこそ真に輝いていると、ポピュラー・ミュージックの真の魅力とはアクの強い<個性>なんかじゃないんだ、いわば無個性みたいな無色透明容器になりえる歌手や音楽家こそが本当に素晴らしいのだと、心の底から信じ込むようになっている。

それでですね、サム・クックのあのスムースで柔らかい声質と歌唱法、あまり露骨にグリグリとはコブシを廻さない(よく「ウォウウォウ」とやっているが、あれはいわゆるコブシとかメリスマとかいうものではないだろう)ようなナチュラルなヴォーカル表現こそが、コブシを廻しに廻しまくって、声を濁らせるだけ濁らせて歌う(という歌手はやっぱりいまでも大好物だけどね)人たちよりも、一層深くて広い世界を表現して、僕たち聴き手に歌の本質を伝えてくれているんじゃないかなあ。

サム・クックがここまで考えて、ああいった声の出し方や歌い方を確立したのか?それでポップ・ヒットを飛ばしていたのか?それで金持ち白人向け高級サパー・クラブにまで出演したのかどうか?とお疑いになる方が、あるいはひょっとしたらいらっしゃるかもしれないけれども、言っておくがサムは相当に強い<自覚的な>音楽家なのだ(詳しく説明する気はない)。だから自分がどういう声とどういう歌い方でどう歌ったときに、リスナーやオーディエンスにどういう反応が出て、結果的にどうなるかなどなどは明確に把握していたはず。

さて、普段の僕にしてはありえないことだが、ここまで音楽自体というか、アルバムや曲の中身についての具体的な記述が全くない。サム・クックの『サム・クック・アット・ザ・コパ』と『ライヴ・アット・ザ・ハーレム・スクエア・クラブ 1963』について詳細に説明する余裕がもはやあまりない。僕の実感を一つ書いておくと、先に録音された『ハーレム・スクエア・クラブ』で聴けるサムは確かに熱い。観客もいかにもチトリン・サーキットだと思える熱狂を示している。しかし、今日書いてきたような真実を踏まえれば、これ「だけ」がサムの真の姿で、『コパ』なんか借りてきた猫だとみなすのが、いちばん無意味なのだ、サムの場合はね。

そんな意義みたいなものばかりじゃない。『コパ』で聴けるサム・クックの歌は、実際、素晴らしいじゃないか。弘法筆を択ばず。超一流はなにを使ってどこでどうやろうと立派な結果を出せる。サムもそんな一人だ。どっちかというと『コパ』の方が好きになってきている理由の一つは、先ほど書いたように鄧麗君や岩佐美咲などにも通底するナチュラルでスムースなヴォーカル表現が聴けるからというのが最大のものだけど、もう一つ、やっぱり僕はジャズ・ファンなんだよね。

『コパ』でのサム・クックは、適切な表現かどうか分らないが、まるでジャズ・シンガーみたいじゃないか。そもそもサムはそういうあたりが目標だったんだし、 『コパ』では歌い方がそうであるだけでなく、演目もジャジーだ。どの曲がジャズ(やそれと密接な関係があった時代のブルーズやポップなど)と関係あるのかなんて書いておく必要はないはず。僕がいちばん嬉しいのは八曲目の「ウェン・アイ・フォール・イン・ラヴ」だ。いまの、ちょっと前からの、僕の気分にまさにピッタリだというのもある(「僕が恋に落ちるなら、それは永遠にだよ、そうじゃなければ決して誰とも恋をしない」云々)。がしかしそれ以上にこの曲はマイルズ・デイヴィスもやっているし、いろんなジャズ演奏家・ジャズ歌手が無数にとりあげているスタンダードだからだ。

『コパ』でサムが歌う「ウェン・アイ・フォール・イン・ラヴ」は、ジャズ歌手でも滅多にやらないヴァース部分から歌いはじめているのも僕好み。リフレインに入ってホーン・アンサンブルも聴こえはじめ、お馴染のメロディで「僕が恋に落ちるなら、それは永遠に…」などと歌いだしたら、もういまの僕は泣きそうになってしまう。泣きそうになってしまうのは、サムの声と歌い方がストレートでナチュラルでナイーヴだからだよ。聴き手の心にそのままスッと染み入るような、感情移入しやすい表現をしているからだよね。大衆音楽界では、そういう歌手こそホンモノなんじゃないの?

今日は『ライヴ・アット・ザ・ハーレム・スクエア・クラブ 1963』のことは本当に一行も書けなかった。がこれにかんしては、本当に評価が高いのでいろんな人がたくさん褒めまくっている。人気も高い。僕も書きたいことがいくつもあったのだが、まあ今日のところは書かなくても OK だろう。これに比べて不当に過小評価されている『サム・クック・アット・ザ・コパ』の方を、みなさんもっと聴いてください!

« クーティ・ウィリアムズ楽団のジャンプ録音 | トップページ | ド田舎の生のブルーズで踊ろうよ »

音楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: サムのナチュラルでナイーヴなヴォーカル表現 〜『コパ』:

« クーティ・ウィリアムズ楽団のジャンプ録音 | トップページ | ド田舎の生のブルーズで踊ろうよ »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ