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2017/06/23

マイルズとゴー・ゴー 〜 リッキー・ウェルマン

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ゴー・ゴーというと僕より上の世代のみなさんは、ふつうゴーゴー喫茶(クラブ?)を連想しそうな気が非常に強くしちゃうけれども、僕はリアルタイムでの体験はない。ディスコの一種みたいなもの?よく知らない。今日、僕が話題にしたいゴー・ゴーとはそれではなく、アメリカの首都ワシントン D.C. で一時期流行したブラック・ミュージックの1スタイルを「ゴー・ゴー」と呼ぶ、それのことなんだよね。

 

 

たぶん1970年代後半〜80年代後半あたりまでじゃないかなあ、ワシントン D.C. でゴー・ゴーと呼ばれるスタイルの音楽が流行していた。ファンクの一種だと見て間違いないと思うんだけど、オールド・スクールなヒップ・ホップも混在していた。といってもサンプリングやコンピューターはほぼ使わず。流通音源の多くは延々とジャムをやっているライヴ演奏をサウンド・ボードからそのまま録音したカセットテープ。彼らはそれを “p.a. tapes” と呼んだ。

 

 

そんな p.a. tapes を1980年代半ばに耳にしたのが、誰あろうマイルズ・デイヴィスだ。正確には、ワシントニアンであるマイルズのロード・クルーの一人が買ってボスのいるところで聴いていたら、ボスがかなり強い興味を持ってしまったらしい。そのロード・クルーが買って聴いていたというのが、ゴー・ゴーの代表格の一つ、チャック・ブラウン&ザ・ソウル・サーチャーズの p.a. tapes。それでドラムスを叩いているのがリッキー・ウェルマンだった。リッキーこそ、今日僕が最も大きく話題にしたい人なんだよね。

 

 

1970年代後半〜80年代後半あたりのワシントン D.C. のゴー・ゴーをご存知ない方のために、ちょっと音源をご紹介しておこう。手っ取り早く話を進めるために、リッキー・ウェルマンがドラムスを叩いているチャック・ブラウン&ザ・ソウル・サーチャーズから二つ。

 

 

「バスティン・ルース」

 

 

「ゴー・ゴー・スウィング」

 

 

 

これをパソコンやスマホの内蔵スピーカーでではなく、ぜひ大きめのスピーカーか、ちゃんとしたヘッドフォン/イヤフォンで聴いてみてほしい。なぜならばゴー・ゴーのドラミング・スタイル最大の特色の一つがバス・ドラの使い方にあるので、低音がズッシリ来ないとそれが分らず、面白くないだろう。あとはスネアとハイ・ハットにもポイントがあるのだが、それは本格的な出力装置でなくても分るはず。

 

 

1987年にマイルズが聴いたという p.a. tapes もたぶんこんな感じだったんだろう。それで「おい!このドラマーは誰なんだ?!」となって、むかしからマイルズはそうであるようにほしいものはなんでも全部手に入れないと気が済まない粘着質人間であるがゆえ、いや、同じ音楽業界人であるがゆえ、わりと早くリッキー・ウェルマンの自宅の電話番号をゲットしてかけたそうだ。そのとき当のリッキーは寝ていた。代わりに出た奥さんは「マイルズ・デイヴィス」を名乗る人物が誰だか分らず適当に返事して、起きてそれを知ったリッキーは顔面蒼白になった…、のではなく、ソウル・サーチャーズのバンド・メンバーの誰かがふざけてジョークでかけてきたんだと思ったそうだ。

 

 

しかしマジでマイルズ本人だったと分り、ニュー・ヨーク・シティでオーディションを受け、リッキーは「私はジャズ・ドラマーじゃありません、大丈夫でしょうか?」とボスに言ったのだが、ボスは一連の p.a. tapes に言及し「あんな風に叩けるんだろ?それでオーケーだ」とリッキーに返事したのでリッキーも理解して、1987年(の正確に何月何日かは不明)からマイルズのツアー・バンド正規メンバーとなり、マイルズが亡くなる91年9月、いや活動は8月25日で終了しているのでそれまで、ライヴではあんな大活躍を聴かせてくれた。

 

 

直前で触れたように、マイルズ・バンドでのリッキーが聴けるのはだいたい全部ライヴ音源だ。1987年というと、マイルズはワーナーに録音していた時代だが、ワーナー時代のマイルズのスタジオ作品四枚はレギュラー・バンドを起用せず、白鳥の声になった『ドゥー・バップ』がイージー・モー・ビーとタッグを組んだものであるのを例外とし、他の三枚は全てマーカス・ミラーとの全面コラボでやっている。それでも89年の『アマンドラ』には、マーカス以外の楽器奏者が多めに参加していて、録音当時のレギュラー・バンドからも少し入っているが、リッキーが叩くのは二曲だけなんだよね。その他、未発表のままになっているものはどうしようもないので外して、マイルズのスタジオ作品でリッキーのドラミングが聴けるのは、その二曲「ビッグ・タイム」「ジリ」だけ。

 

 

 

 

しかしライヴはレギュラー・バンドでやっていたマイルズだから、二つある例外的企画物セッション・ライヴを除き、全部ドラマーはリッキー。1987〜91年のマイルズ・ライヴ音源は膨大な数があるんだよね。全部リッキーが叩いている。いつものように公式盤に限定すると、これまた二つだけ。1996年リリースの一枚もの『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』と2002年リリースの20枚組『ザ・コンプリート・マイルズ・デイヴィス・アット・モントルー 1973 - 1991』。いっぱい聴けるのはもちろん後者だが、もしかりにご興味を持った方にも買ったり聴いたりしていただきやすいように、一枚ものである前者『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』の方を推薦しておく。

 

 

マイルズの『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』は1988〜91年の、アルバム・タイトル通り世界各地でやったライヴ公演を収録したものからチョイスして CD 一枚にまとめてあるものだ。中山康樹さんはボロカスに言っていたけれど、僕はかなりいい内容のライヴ・コンピレイションだと信じている。中山さんの言うのは、収録の各ライヴ音源は当然フル・セットでテープがあるはずなのに、そこから一曲だけとか抜き出していろいろ並べているなんて…、どうして全部ドバ〜ッとリリースしないのか?という意味だっただけだ。この点に限れば、マイルズ者には理解できることだが。

 

 

『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』のソース音源を全部そのままフル・セットでリリースしたりなんかしたら、え〜っと CD で何枚組になるんだ?このアルバムは全部で11曲だけど、1曲目と2曲目、7曲目と8曲目が同日録音であるだけで、他は全部違う場所、違う録音年月日だから、しかも1988年頃からのマイルズ・バンドは、ワン・ステージが二時間以上だから、え〜っと、やっぱり最低でも20枚は越えちゃうよなあ。そんなもん、中山さんや僕なんかは買うけれど、ほとんどの音楽愛好家にとってはちょっとねえ。

 

 

『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』は膨大な量のライヴ・テープから厳選してあるだけあって、一曲一曲の演奏内容も(あの1988〜91年当時のマイルズ・ミュージックとしては)相当いい。それに曲順がよく考えられてあって、あの頃のマイルズ・ライヴのセット・リストを再現してあるに近い並びで、生体験していない人にもよく伝わるようにかなり工夫されれている。僕にとっては追体験、足を運んだことのない方にとっては「そうか、こういうものだったのか」とよく分るものなんだよね。

 

 

そんなこんなで(中山さんの言葉とは正反対に)かなりのオススメ品だと僕は思うマイルズの『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』。これを通して聴くと、マイルズ・バンドのレギュラー・ドラマー前任者だったヴィンス・ウィルバーン、その前のアル・フォスターとの比較で、リッキー・ウェルマンの特長がよく分るのだ。端的に言えば、ヘヴィでポリリズミックだが、スウィートでポップ。なんだか矛盾したことを言っているぞと読めるかもしれないが、僕の間違いない実感だ。

 

 

そのへんがよく分るのが『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』二曲目の「イントゥルーダー」(88/12/17 ニュー・ヨーク)、七曲目の「リンクル」(90/7/20 モントルー)、八曲目の「TUTU」(同)、九曲目の「フル・ネルスン」(88/8/7 大阪)、ラスト11曲目の「ハンニバル」(91/8/25 ロス・アンジェルス)あたりかなあ。

 

 

ちなみに、『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』のクレジットでは、11曲目「ハニバル」は “from Miles Davis’ Last Performance” としか記載がない。だがバンド・メンバーの名前は書いてあるし(このアルバムでは一曲ごとにメンツも録音場所も録音年月日も全部しっかりした記載がある)、生涯ラストとは1991年8月25日、ロス・アンジェルスのハリウッド・ボウルであると分っている。

 

 

『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』での上記五曲などで聴くと、いかに1987年からのマイルズがリッキーに大きな信頼を寄せていたかがクッキリと伝わってくる。かつてのフィリー・ジョー・ジョーンズ、トニー・ウィリアムズ、アル・フォスターと同等の信頼関係があった。そしてリッキーがゴー・ゴー・ビートを叩くおかげで、スタジオ・オリジナル(は全部リッキーではない)では聴けない複雑でヘヴィな、しかしポップな、いや、ポップはちょっと違うのか、なんと言えばいいのか、軽みを感じる。

 

 

ヘヴィと言ったそばから軽みってなんだよ?と思われそうだが、かなり重要なことだと思うんだよね。1985年のインタヴューでマイルズは、84年まで重用していたアル・フォスターをどうして辞めさせたのかと問われ、「オレがいまやりたい音楽にはアルのビートじゃあもう重すぎるんだ、オレは自分の音楽に軽さがほしい、ポップさが」と発言している。ポップな軽さ。しかし同時にしっかりしたグルーヴはほしかったはず。とりあえず雇った甥のヴィンス・ウィルバーンに満足していないことは、当時からファンはみんな知っていた。その二年後にリッキー・ウェルマンに出会うことになったのだ。

 

 

どうもやはり『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』から音源をちょっとご紹介しておいた方がいいのかな。

 

 

「イントゥルーダー」https://www.youtube.com/watch?v=p8zuCIjFj6w

 

「リンクル」(1:01:18から)https://www.youtube.com/watch?v=ET11uCBi6-0

 

 

 

 

どれもドラミングを聴いてほしい。バス・ドラの踏み方が複雑で(しかしリッキーはワン・ペダル)、ヘヴィにズンズン来るビートでありながら、ハイ・ハットやスネアの使い方は軽快に跳ねるようなポップなフィーリング。晩年の、音楽全体が軽くポップになっていたマイルズで、しかしグルーヴはズシリとしてなくちゃダメ、しかもポリリズミックなものはやはりほしいっていう、そんな願望を見事に叶えてくれているんじゃないだろうか?このリッキーのドラミングは?

 

 

リッキー・ウェルマンが正確にいつ頃マイルズ・バンドのツアー・メンバーになったのかは判明していない。僕の持っている時期的に最も早いものは、FM 東京の放送音源だけど1987年7月25日の来日公演(YouTube にアップロード済)。中山康樹さんの『マイルズを聴け!』で見ると、同87年3月25日のミネアポリス公演がリッキー参加の最も早い音源らしい。それはギターがボビー・ブルームになっている。同じくボビーが弾く同87年2月27日公演ではまだヴィンス・ウィルバーンだ。しかもこの2月27日はワシントン D.C. 公演じゃないか。う〜ん、リッキーが表現するゴー・ゴーはワシントン D.C. ミュージックなんだけど。まあ別に関係ないんだろうな。

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