アイルランド人が音楽でひもとく米墨戦争の悲劇
1998年のアメリカ映画に『ワン・マンズ・ヒーロー』というものがあった。1846〜48年のいわゆる米墨戦争(アメリカ対メキシコ戦争)を扱ったもので、おそらくいまでもこの戦争をとりあげた唯一のアメリカ映画だろう。そのなかでも出てきたものに聖パトリック大隊(サン・パトリシオズ)というものがある。聖パトリック大隊、またの名をアイルランド人殉教者たちという。殉教者というとなんだかカッコよさそうなイメージかもしれないが、要は裏切り者の脱走兵たちだ。
米墨戦争の際のこの聖パトリック大隊にかんする歴史については、メキシコ人とアイルランド人はいまだ忘れずしっかり憶えているらしいのだが、いわゆるアメリカ人、正確には北米合衆国人は、上で書いた映画『ワン・マンズ・ヒーロー』だけを唯一の例外とし、それ以外ではほとんど誰も憶えてすらもおらず、語り継がれていないんだそう。
米墨戦争の時期は、アイルランドにおけるジャガイモ飢饉の時期とほぼ重なる。だからあの当時のアメリカ合衆国には大量のアイルランド移民が流入していたわけだけど、ちょうど米墨戦争が勃発し(発端はアメリカ合衆国側がテキサスを自国領土と主張して武力行使したため)兵力増強が急務となり、ちょうど流入したばかりの新移民であるアイルランド系の多くが自発的に(=ヴォランティアで)アメリカ軍に加入した。
しかしアメリカ軍に加入したアイルランド移民は、人種差別を受けたからか、あるいは宗教的な理由からか(アイルランドもメキシコもカトリック系キリスト教徒が最も多い)、別の理由があったのか、主にプロテスタント系で構成されるアメリカ軍を脱走しメキシコ軍に加入して一緒にアメリカ合衆国側と戦うことになってしまう。アメリカ合衆国、アメリカ軍、アメリカ人側からすれば単なる裏切り者集団だ。そんなアイルランド人脱走兵たちが全体の約四割以上を占めていたのが聖パトリック大隊で、アイルランド系以外にはスコットランド系、ドイツ系、スイス系などがいたようだ。だがやはりこの聖パトリック大隊のことは、あくまでアイルランド人脱走兵たちの歴史として認識されている。
ご存知の通り米墨戦争はアメリカ合衆国側の勝利に終り、聖パトリック大隊も、主にチュルブスコの戦いで破れアメリカ軍の捕虜となり、脱走は重大な戦争犯罪にあたるので、メキシコ・シティ陥落時に彼らはやはり一斉処刑されてしまう。ここまでお読みになってお分りの通り、米墨戦争の際の聖パトリック大隊の歴史とは、すなわち悲劇に他ならない。
そんな聖パトリック大隊のことを忘れてしまったアメリカ合衆国人と違い、アイルランド人は忘れていないので、アイルランドの音楽家であるチーフタンズが2010年に『サン・パトリシオ』という一枚の音楽アルバムをリリースした。名義はチーフタンズ・フィーチャリング・ライ・クーダーということになっている(といってもアルバム一枚丸ごと全部で弾いているわけではない)。ライがメキシコ音楽や文化やその他諸事情に精通していることを、いまさら繰返す必要はないだろう。
なんだか大上段に構えたような書き出しになってしまったが(でも大上段に構えたアルバムなんだからしょうがないじゃない)、僕が言いたいことはただ一つ、チーフタンズの『サン・パトリシオ』で聴ける(主にスペイン語の)歌がきわめて美しく感動的に響くということだけだ。と言ってもアルバムの全19曲中5曲はヴォーカルなしのインストルメンタル・ナンバー。もう一曲インスト曲があるけれど、それは大々的にヴォーカル・コーラスがフィーチャーされる次の曲への前奏なので、外しておこう。
『サン・パトリシオ』CD には大判の紙が附属していて、まずパディ・モロニーによる米墨戦争と聖パトリック大隊の歴史についての解説文が英語とスペイン語で掲載されている。その下に一曲ごとの参加歌手・演奏家名・担当楽器名などが詳しく書かれてあるのだが、それを見るとこのアルバム収録曲のうち11曲がトラディショナルとなっている。アイリッシュ・トラッドの意味なのか、ラテン・トラッドの意味なのか?それら伝承曲は、曲名も全てスペイン語、歌詞もスペイン語で、しかも音の出来上がりもほぼラテン・アメリカ音楽と言って差し支えないようなものだけど。
ってことは、以前僕も同じチーフタンズの『サンティアーゴ』について詳しく書いた際(https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-6a1d.html)にも強調したし、その他折に触れて指摘しているケルト音楽とラテン音楽の相性の良さを、またまた『サン・パトリシオ』で実感することになっている。いや、あるいは僕はそれらの世界には疎いので、大判の紙に書いてある Trad.というのはひょっとしてラテン・アメリカン・トラッド楽曲に違いないという可能性は十分にある。そのあたりはあまりよく分らないので、どなたか詳しい方にちゃんとしたことを教えていただきたいです。
『サン・パトリシオ』のオープニング「ラ・イグアーナ」は、やはりこれもパディ・モロニー(とヴォーカルのリーラ・ドーンズ)がアレンジしたトラッドとなっている。リーラ・ドーンズは僕より六歳年下のメキシコ系アメリカ人、すなわちチカーナ(男性形がチカーノ)だ。リズム・スタイルが6/8拍子のアイリッシュ・ジグそのまんまなので、やっぱりアイリッシュ・トラッドなのか?それにしてはリーラがスペイン語で歌っているせいだけじゃなく、全体的に演奏の調子もラテン音楽みたいに聴こえるから、ラテン・アメリカン・トラッドか?複数台のハープが伴奏の中心になっていて、ギター、打楽器、パディ・モロニーのイーリアン・パイプなども入る。
『サン・パトリシオ』二曲目の「ラ・ゴロンドリーナ」もアイリッシュ・ジグ風の6/8拍子だが、これはほぼインストルメンタル演奏で、ロス・フォルクロリスタスがゲスト参加。ロス・フォルクロリスタスとはラテン・アメリカン・トラッドを調査・発掘・実践するメキシコ人音楽集団らしい。この曲もトラッドとの記載だから、う〜ん、じゃあやっぱりアイリッシュじゃなくてラテン・アメリカン・トラッド楽曲なのかなあ?そのあたり、ほぼ知らない無知な僕だけど、聴いて楽しいには違いない。ケルト&ラテン合体トラッドということでどうだろう?
『サン・パトリシオ』三曲目の「ア・ラ・オリーオ・デ・ウン・パルマー」(Orilla だが「オリーオ」と歌われているので)で、ようやくライ・クーダーが登場しギターを弾く。アクースティック・サウンドだが、通常の六弦でもなさそうな響きで、だからメキシコ系のギター族のなにか弦楽器を弾いているかもしれない。しかもこの曲ではリンダ・ロンシュタットがスペイン語で歌っている。これも(リンダがアレンジした)トラッドとなっているが?やっぱりラテン・アメリカン・トラッドかもしれない…、というかそっちの可能性の方がかなり高いように思えてきた。パディ・モロニー以下チーフタンズの面々は、やり慣れたアイリッシュ・トラッドみたいに楽々とこなしているが。
『サン・パトリシオ』五曲目の「エル・チーヴォ」 では、やはりメキシコのバンド、ロス・ チェンソントレスをくわえ、かなり賑やかにやっている。これはもうどこからどう聴いてもラテン音楽が純度100%だよなあと思っていると、特にパディ・モロニーがイーリアン・パイプを吹くパート以後、リズムが二拍子と三拍子の混交ポリリズムになって、表面的には6/8拍子みたいに聴こえはじめる。この(表面的には)ハチロクのリズムはもともとアフリカ音楽に多いもので、アメリカ合衆国のポピュラー・ミュージックだと1950年代あたりからの黒人音楽で増えるようになる。チーフタンズ『サン・パトリシオ』ヴァージョンの「エル・チーヴォ」が YouTube で見つからないが、ロス・ チェンソントレス単体によるこういうのが見つかったのでご紹介しておく。こういうのがあるってことは、『サン・パトリシオ』でトラッドとクレジットされているこれも、やっぱりメキシカン〜ラテン・アメリカン・トラッドに違いないと、もはや確信する以外ない。
『サン・パトリシオ』六曲目の「サン・カンピーオ」で、チーフタンズの作品ではお馴染、スペインはガリシア地方出身のカルロス・ヌニェスが登場しガイータ(ガリシアのパイプの一種)を吹く。これはトラッドではなくパディ・モロニーのオリジナル曲。カルロス・ヌニェスは、アルバム中ほかでは八曲目の「セイリング・トゥ・メキシコ」、ラスト19曲目の「フィナーレ」でも演奏している。「セイリング・トゥ・メキシコ」の方はやはりパディ・モロニーの書いた曲でインストルメンタル演奏。
『サン・パトリシオ』七曲目「ザ・サンズ・オヴ・メキシコ」はライ・クーダーのオリジナル曲で、ライがギターを弾きながら自ら英語で歌う。歌詞はやはり米墨戦争とアイルランド人脱走兵たちのことを歌っているみたいだ。ってことはライがパディ・モロニーからこのアルバム制作を持ちかけられて初めて書いたものなんだろうなあ。後半部ではチーフタンズその他の面々がかなり賑やかに入っての演奏になるが、最終盤は再びほぼライ一人でのシットリとしたものになる。最終局面でほんのかすかにストリングスが聴こえる。効果絶大だ。
アルバム『サン・パトリシオ』では、この七曲目ライ・クーダーの「ザ・サンズ・オヴ・メキシコ」が終って、八曲目以後がいよいよ本題に入っているような感じの演唱が続いている。僕の見るところ、クライマックスは三回。一回目が10曲目の「マーチ・トゥ・バトル(アクロス・ザ・リオ・グランド)」。二回目が14/15曲目の「カンシオン・ミクステカ(イントロ)」「カンシオン・ミクステカ」。三回目がアルバム・ラスト19曲目の「フィナーレ」。
それら以外でも面白いものがあるのでちょっとだけ書いておく。いくつかあるが、一番耳をひくのは12曲目の「ルス・デ・ルナ」だ。これはなんとあのコスタ・リカ生まれのメキシコ人女性歌手チャヴェーラ・ヴァルガースが歌っているものだ。しかしチャヴェーラは2012年に93歳で亡くなっているから、『サン・パトリシオ』収録のこれは最晩年のものだろうなあ。紙にはフィールド・レコーディングと書いてあるのだが、何年頃の録音だろう?完全なるおばあちゃん声に聴こえるから、やはり『サン・パトリシオ』リリースの2010年のちょっと前あたりかなあ?ニール・マーティンのチェロも感動的で、とてもフィールド・レコーディングとは思えない音質だ。エコーもスタジオ録音みたいにかかっている。
これ以外でも面白いものが、上で書いた三回の絶頂ではないもののなかにもあるのだがキリがないのでやめておいて、エクスタシー三回の話をしなくちゃね。まず一回目である10曲目の「マーチ・トゥ・バトル(アクロス・ザ・リオ・グランド)」。リオ・グランデ川が、米墨戦争の際に非常に重要な意味を持っていたことは、調べればすぐ分るので省略。この曲は基本、マーチ調のインストルメンタルだが、そこにリアム・ニースンによる英語のナレイションが入る。その部分では「われら、聖パトリック大隊」という台詞も聴こえ、また演奏にはチーフタンズ以外に、大規模なパイプ集団が参加している。
絶頂二回目の14/15曲目「カンシオン・ミクステカ(イントロ)」「カンシオン・ミクステカ」。いちおうトラックが切ってあるのだが、演奏はどうやら一続きのものだったに違いないと聴こえる。14曲目のイントロ部分ではライ・クーダーの美しいアクースティック・ギター(は普通の六弦のもの)と、ヴァン・ダイク・パークスのアコーディオンとピアノのデュオ演奏インストルメンタル。非常に美しいが、これで泣いてしまっては次の曲へ入ってとんでもないことになる。
一続きになっている15曲目の本編「カンシオン・ミクステカ」。冒頭でスペイン語の数字でカウントを取るのはライの声だろうか?演奏に参加して大々的にフィーチャーされているロス・ティグレス・デル・ノルチ(北の虎たち)は、四人のエルナンデスたち(兄弟や従兄弟など)を中心に構成されている、アメリカ合衆国は北カリフォルニアの街サン・ホセの音楽集団。率いるホルヘ・エルナンデスのリード・ヴォーカルとアコーディオン演奏が見事だ。14曲目のイントロ部分に続けてこれが流れるので、著しく、激しく、感動的だ。
アルバム『サン・パトリシオ』ラスト19曲目の「フィナーレ」。これがアルバム中最も長い約六分間。ここまでアルバムにゲスト参加していたいろんな音楽集団が勢揃いして、入れ替わり立ち替わり演奏。そのたびに曲調もキーもリズムも変化する。ちょっとヴォーカルも出るが、あくまでインストルメンタル演奏がメインになっている。パディ・モロニーの解説文によれば、聖パトリック大隊はアイルランド人たちだったんだから、アイルランド人であるということは、そこに音楽があったことは疑いえない、メキシコの地においてメキシコ人たちと合流して音楽的にも合体して演奏し歌っていたに違いないはずだ、と書かれてある。そんな姿を21世紀に実際の音で聴かせてくれているじゃないか。
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