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2017/08/28

マディの『ファーザーズ・アンド・サンズ』で考えるブルーズの分りやすさ

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僕の場合、アナログ LP 時代を知らないマディ・ウォーターズの1969年盤『ファーザーズ・アンド・サンズ』。二枚組だったらしいが、CD だと一枚だ。レコード二枚ってのはきっとスタジオ録音サイドとライヴ録音サイドに分けてあったんだろうなあ。それが CD だとそのまま続けて流れてくるが、これは確かにディスクが分かれていた方が聴きやすいように思う。

 

 

ところで最初に疑問を書いておくが、このアルバム題、"Fathers"と複数になっている。息子が複数なのは当たり前だが、「父」とはこの場合マディのことだけじゃないの?そうじゃないから複数形になっているわけだが、どういう意味があるんだろう?オーティス・スパン(ピアノ)やサム・レイ(ドラムス) も「父」だってこと?あるいはなにかもっと違う意味がある?分らない僕にどなたか教えてください。

 

 

複数形になってはいるが、もちろん『ファーザーズ・アンド・サンズ』の主役は「父」マディ一人だ。参加ミュージシャンのうち、上で書いたオーティス・スパンとサム・レイも黒人。また一曲目の「オール・アボード」その他に、やはり黒人のフィル・アップチャーチ(ベース)など、その他若干名いるが、ほかは全員マディの「息子」である白人ブルーズ・ロッカーたち。ベースのドナルド・ダック・ダンだけはピュア・ブルーズというよりリズム&ブルーズ〜ソウル寄りの人材だが、まあ似たようなもんだ。

 

 

マディの『ファーザーズ・アンド・サンズ』が不思議なのは、僕にはブルーズ・アルバムなのか(ブルーズ・)ロック・アルバムなのか分らないところだ。例えばこのアルバムでソロやオブリガートなどいちばんたくさん楽器で活躍しているのはハーモニカのポール・バタフィールドなんだけど、ポールのバンドで弾いていたマイケル・ブルームフィールドも参加している。サム・レイだってバンドの一員だった。ってことはあのころのポール・バタフィールド・ブルーズ・バンドのサウンドか?と思うと、さほど強くは似ていないように僕は感じる。

 

 

でもこれはマディが好きすぎる僕だけの感想かもしれない。ネット上でいろんな文章を読むと「ブルーズ・ロックとして聴きやすい一枚」「ロック好きが黒人ブルーズの世界に入っていく際にいちばん最初に聴いたらいい格好の入門盤」「黒人ブルーズのエグ味に慣れていない方々でも気軽に聴ける」とか、この手の表現がたくさん見つかる。そのなかに一つ、日本人ブルーズ・ハーピストの第一人者、妹尾隆一郎さん(つまり、みえさんはブルーズと結婚したみたいなもん)のインタビヴュー発言みたいなのが見つかった。

 

 

なんでも妹尾隆一郎さんがまず最初に買った黒人ブルーズ・マンのレコードが、マディの『ファーザーズ・アンド・サンズ』だったんだそうだ。それまではロック少年だったと語っている。聴いてみたらギターはソロを弾かず、もっぱらハーモニカがソロを吹いているのが意外な印象で感銘を受けたんだとか。それで自ら和製ポール・バタフィールドになろうと思ったのかどうかまでは記載がなかった。ただ妹尾さんも「聴きやすいブルーズ・アルバムや思います」(妹尾さんは関西人)とは発言していた。

 

 

このあたり、ちょっと聴いてみてとっつきやすく、ブルーズ初心者でもスッと入っていける気軽さ、易しさがあるマディの『ファーザーズ・アンド・サンズ』だけど、この聴きやすさはブルーズの奥深さ、ディープさと引き換えに手に入れているようなものなんかじゃないんだということは、今日、僕は強調しておきたい。妹尾隆一郎さんの発言はぜんぜんそうじゃなかったが、ネット上の文章のなかには、なんだかちょっとこの分りやすさを小馬鹿にしたようなブルーズ愛好家の方々の文章も散見する。

 

 

たくさん(でもないんだが)の白人ブルーズ・メン(ロッカーたち?)と共演したマディの『ファーザーズ・アンド・サンズ』は、白人たち、それもややロック寄りにいる音楽家たちと共演しているから分りやすさを獲得しているのではなく、いやまあ確かにそういう部分があるけれど、それだけじゃないというか、それは本質的なことじゃない。大事なのはブルーズ・ミュージックって「本来的に分りやすい」ものなんじゃないかということ。これを僕は言いたいんだよね。

 

 

ブルーズが分りやすい、演りやすいという面も強いのは、もちろんかたちのおかげでもある。定型だと12小節で3コード(に即し若干展開はするが)と決まっているし、そうじゃないものだって基本これの発展形だ。誕生期のブルーズがどんなのだったか、録音がないので文献資料などから推測するしかないが、ある時期までの僕は、ワン・コードで小節数もないようなものほうが先に存在し、そこから徐々にかたちが整っていき12小節3コードの定型パターンができあがったに違いないと見ていた。

 

 

だが最近の研究や専門家の発言などを読むと、どうやらこれは間違っているらしい。まだ「ブルーズ」とも呼べないような段階の音楽のことはいざ知らず、いまの時点から見てもブルーズに違いないと判断できるようになったころには、まず最初に三行詩を12小節で展開する3コードのものが成立したんだそうだ(でも実証できないんじゃないの?)。1コードものや8小節ブルーズなんかは、12小節三段階ブルーズ誕生の「あと」に成立している(8小節ブルーズは都会のジャジーなものだから、こっちは納得しやすい)という話だが、どうなんだろう?

 

 

この最近の研究成果が当たっているとすれば、かたちとしてブルーズは非常にやりやすく、聴いて理解もしやすいものとして、そもそもの最初からそういうものとして誕生した。ブルーズが分りやすいと僕が思う、もう三つの理由が、(ブルーズ・)フィーリングと、ダンス感覚と、歌詞内容の日常的卑近さだ。

 

 

ブルーズ・フィーリングは聴けば感じるもので、納得しやすいものだけど、でも言葉で説明するのはかなり難しい。少なくとも憂鬱感とかブルーな気分とか落ち込んで沈んだような感じとか、そんなもの(だけ)ではない。これは上で述べた三つの理由の二番目であるダンサブル・フィーリングとも密接に結びついているのだが、賑やかに踊り騒いで(まあ楽しい)、それは根底にはそうやって憂さを晴らしたいという気持があるからかもしれないが、音楽のフィーリングとしては強靭なビートに支えられて快活陽気な感じなっている場合のほうが多い。ノリやタメの深いブルーズになっても、くつろいでリラックスできる感覚がある。

 

 

三番目に書いた歌詞内容の日常的卑近さとも関係あるのだが、人間、誰だって心のなかに抱えていそうな闇を音楽で表現するのに、ブルーズほどピッタリな表現様式もないんじゃないかと僕は思うのだ。心の闇の表現といっても、憂歌だみたいなステレオタイプなことを言いたいわけじゃなくて、「快楽」にかたちを変えるようなもの。例えば今日話題にしたマディの『ファーザーズ・アンド・サンズ』のラストに2ヴァージョン収録されているライヴの「ガット・マイ・モージョー・ワーキング」みたいなダンス・ブルーズにこそ、ブルーズが表現する最もディープな闇があるんじゃないかと僕は思うんだよね。

 

 

そんなような感覚って、人間なら誰だって持っているから、共感しやすいよねえ。僕がブルーズ・ミュージックは分りやすいんだ、分りやすいからこそ最も深く、ある意味、まあ難しかったりもすることがあるっていうのは、こういうことなんだよね。マディの『ファーザーズ・アンド・サンズ』を聴いて、こんなことを考えた。う〜ん、伝わっているかなあ?

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