僕はマンボ(マンボ No. 2)
昨日ああいった文章を書いたら、やっぱり我慢できなくなってベニー・モレー&ペレス・プラード共演集のディスコロヒア盤『素晴らしき出会い』をなんどもなんども聴きまくってしまった。そうせずにおられないという麻薬的中毒性の高い音楽だよなあ、マンボって。それで昨日は、これについて書くのは先になるのだというような匂わせかたをしたけれど、もう今日書いてしまう。こんなこらえ性のない人間でゴメンナサイ。ベニー・モレー&ペレス・プラード、やっぱり最高の一枚だ。
さて、昨日触れようと思っていたのに書き忘れてしまったことを二つ、最初に。一つ、キューバのビッグ・バンド・ミュージックには、北米合衆国におけるジャズ・ビッグ・バンドの影響がかなりありそうだ。一つ、それにもかかわらずマンボはかなりアフリカ的な音楽だ。しかしこの二点は聴けばだれにでも分りそうなものだという気がするので、これ以後詳述しておく必要はないのかもしれない。
ディスコロヒア盤の解説文で田中勝則さんもお書きだが、『素晴らしき出会い』に収録されている、ベニー・モレーとペレス・プラードのメキシコでの共演録音は、すべてベニーが主役の録音セッションで、レコードもベニー名義で発売された。その後ペレス・プラードは北上しアメリカ合衆国に渡り 、あまりにも目覚ましい大活躍をして、同楽団の代表的なマンボ楽曲は、文字どおり世界中に普及した。ペレス・プラードのほうがあまりに超有名になりすぎてしまっているが、共演録音はあくまでベニーのレコードだったのだ。
ところでやっぱり書いておいたほうがいいのかなと思うのだが、ベニー・モレーを知ったのは大人になってからだが、以前から再三再四書いているように、ペレス・プラード楽団のマンボは幼少時から知っていた僕。知っていたなんてもんじゃない、カラダに染み込むように体験していた。父のマンボ好きのせいでね。でも詳しいことはだいぶ忘れてしまった。記憶で鮮明に遡れる僕の私的音楽史の1ページ目は10歳のときの山本リンダ「どうにもとまらない」なのだが、マンボ体験がそれより先だったことだけは絶対に間違いない。上でも書いたが、それくらいペレス・プラードのマンボは世界中にとどろいていたんだよね。
でもあれだよなあ、ほぼ自覚なしだったがそんなマンボ体験のせいで、山本リンダの「どうにもとまらない」みたいなもの、すなわち超ダンサブルなキューバン歌謡曲にノックアウトされてしまったのかもしれない。いや、かもしれないっていうかねぇ、いま振り返って考えると、絶対に間違いなくそうだ。父が、運転するクルマの助手席に小学校低学年の僕を乗せ、8トラ・カセット(もはやだれにも通じないであろう物体)のペレス・プラード楽団ばかりどんどんかけていたおかげで、そんな教育というか躾というか、そんなようなもののおかげで、ラテン好き素地が僕のなかにできあがってしまった。
その結果、山本リンダのアフロ・キューバン・アクション歌謡で音楽に目覚め、その後七年ほど経ってジャズにハマって本格的に極悪道に染まってしまって以後も、ラテン要素にオッ!となってしまうようになったし、そのもっとあとで中南米音楽(的なものも含め)そのものが大好きになったという、そんな人間ができあがる歴史のまず最初の1ページ目が、幼少時に父のクルマのなかで無自覚にとはいえ、どんどん聴きまくったペレス・プラードだ。
つまるところアメリカ合衆国音楽(ジャズ、ブルーズ、リズム&ブルーズ、ロック、ソウル、ファンク)のなかにある中南米要素だとか、中南米音楽のルーツを辿るかのようにしてアフリカ大陸に渡ったり、トルコ音楽やアラブ音楽やギリシア音楽や東南アジア音楽や日本の歌謡曲(含む演歌)を聴いても、やはりラテン・テイストを見出しては喜んだりっていう 〜 こんな人間なわけだよね、僕は。ってことは、すべてが幼少時に父がクルマのなかでかける8トラ・カセットのペレス・プラード体験のせい、というかおかげなんだよね。これはもはや認めないといけない。思い出したぞ、僕はマンボだ。
そんなわけだから、ディスコロヒア盤『素晴らしき出会い』でベニー・モレー&ペレス・プラード共演を聴いても、はっきり言って冷静な気分ではいられない。いくらベニー・モレーのための録音セッションで、ベニー名義のレコードで発売され、そもそもベニーのほうが先輩で先にメキシコに来て活動していて、そこへあとからやってきたペレス・プラードはベニーの歌の伴奏をやっただけだ、素晴らしいのはベニーのヴォーカルだと、こんなことを知ってはいても、僕の耳は、例えば伴奏楽団のブラス群の咆哮やリード群のウネリへと向かってしまい、ベニーの歌をあまり聴いていない。
そんな僕にディスコロヒア盤『素晴らしき出会い』を語る資格などないのだが、なんとか勘弁してもらって、だから耳にイマイチ入ってこないベニー・モレーの歌ではなく、僕にはこの時期のでもすでにぐいぐい迫るペレス・プラード楽団のマンボ・サウンドについてだけ、メキシコにわたった直後に、ビクターのマリアーノ・リベーラ・コンデの商略でベニーと出会い、つまり仕組まれて<政略結婚>し、あくまでビジネスとしてやった結果、たくさんのかけがえのない宝石を二人で産んだ片方であるペレス・プラード楽団のマンボ・サウンドについてだけ、少し書いておきたい。ベニーのヴォーカルそのものや、それがいかにペレス・プラードを成長させたのかを書かないのでは、このディスコロヒア盤についてものを言ったことにはならないが。
まず、みなさんにエッ?!と思われそうなことを書く。深沢美樹さんの『パームワイン・ミュージック・オヴ・ガーナ』収録の音源のなかには、ペレス・プラード楽団のマンボみたいなものがある。僕がいちばんハッキリこれを感じるのが、二枚目三曲目 E.K.’s Band の「Hwe Me Yeye」だ。これは1963年らしいので、ペレス・プラード楽団のマンボ完成よりもあとだ。しかしメカニカルに一定のパターンを反復するあたり、よく似ているよなあ。これは偶然みたいなものとは思えないけれど、どうだろう?一方が他方を聴いて影響されたとかいうたぐいのことではない。アフロ(・ルーツ的)音楽の普遍的特性ってことじゃないかなあ。
たまたま昨夜遅くにディスコロヒア盤『素晴らしき出会い』とエル・スール盤『パームワイン・ミュージック・オヴ・ガーナ』を続けて聴いてしまい(どうしてだかそうしたい気分になった)、それでオッ!とこれに気づいただけであって、この件にかんしても僕に深い考察などない。ただなんとなくフィーリングが似ている、っていうか相通ずるものがありそうだ、そうだそうだと、深夜にひとりごちてしまっただけなのだ。
最初にマンボはアフリカ的な音楽だと書いたのには、まあこういうことがあるんじゃないかなと思うのだ。ソンのモントゥーノ部だけを取り出して拡大発展させたのがマンボなわけだし、それは短い一定パターンを延々と反復するものなわけで、アフリカ音楽的なものに違いない。キューバに強制移住させれたアフリカン・ルーツな人たちが活かした音の記憶の蘇り、回帰というかさ。
ディスコロヒア盤『素晴らしき出会い』でベニー・モレーの伴奏をやっているものだって、ペレス・プラード楽団はそういうことをやっているんじゃないかと思う。打楽器群がというだけじゃなく管楽器群が、金管と木管がせめぎあいながら短い同一パッセージを反復している場合が多いよね。言い換えればメカニカルで、なめらかな旋律(=西洋)には流れず、吹きつけるというかまるで叩きつけるかのように、ホーン・セクションが咆哮する。
叩きつけるで思いが及んだので書いておく。ペレス・プラード自身が弾くピアノって、まるでアメリカ合衆国ジャズ界のセロニアス・モンクの弾き方みたいだよね。録音年から判断して、モンクの師匠格デューク・エリントンに似ていると言うべきか。右手のシングル・トーンでなめらかでスムースな直線的ラインを弾くことがほぼなくて、だいたいいつもブロック・コードで、それも不協和なハーモニー(矛盾した表現だ)を、ガンッ!ガンッ!と叩きつけるように、引っかかるように弾く。それがペレス・プラードのピアノ・スタイル。
どこで聴けるかなんて問わないで。そりゃもうディスコロヒア盤『素晴らしき出会い』でだってオープニングからラストまで、ほぼ全曲で聴けるもんね。不協和音を激しくぶつけてくるじゃないか。まるで打楽器を演奏するみたいにガンッ!ゴンッ!と、引っかかりながら叩きつけるようにね。これはもちろんアフリカ的なピアノ奏法だと言えるはず。
ピアノは西洋白人音楽の、それも平均律の、権化みたいな楽器だが、世界のいろんなピアニストがそうじゃない弾き方を独自工夫し、開発して実行している。中北アメリカにおけるデューク・エリントン、ペレス・プラード、セロニアス・モンクなどらは、そんななかの一種類のスタイルとして、つまりアフリカン・ピアノ奏法を実行しているという点で、だれがだれに影響を与えたとかいうことじゃなく、軌を一にしているわけだよ。
あ、そういえばディスコロヒア盤『素晴らしき出会い』でもはっきり聴けるものだが、ペレス・プラード楽団の場合も、まるでデューク・エリントン楽団やアルセニオ・ロドリゲス楽団みたいに、ホーン・アンサンブルのサウンドが<濁って>いるというか<歪んで>いる。そんな響きがするよね。
ペレス・プラード楽団の場合では、特にトランペット合奏にこれを感じる。音の濁り、三味線でいうさわりっていうやつ。エレキ・ギターの電気増幅で音をわざと歪めたりするのは、いったんは西洋的に洗練された楽器のアフリカ回帰だと、いろんな方々が言っている。ホーン・アンサンブルが濁って聴こえるのもまた、アフリカ志向なんじゃないかなあ。
ペレス・プラード楽団のブラス、っていうかトランペット群のばあいは、音量を限界まで上げて目一杯ブロウするから結果的に歪んで聴こえるってことかもしれないが、これってエレキ・ギターの音を歪ませるのと、原理は同じことなんだよね。
いやあ、しかし主役であるはずのベニー・モレーのヴォーカルについて、本当にまったく一言も書いていないよなあ(^_^;;)。こんな文章を公開して許されるのだろうか……。
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