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2017/09/03

音楽は「分る」ようなもんじゃない 〜 ランディ・ニューマンの新作で

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ついこのあいだ出たばかりのランディ・ニューマンの新作『ダーク・マター』。これを題材にして、昨日、荻原和也さんが素晴らしい文章を書いていらしたので、必要はないとは思うけれど、ご紹介しておく。
コメント欄で書いてあるけれど、こりゃ完璧に僕が書いた文章だとしか思えない。「我が意を得たり」という言葉が、55年間の僕の人生でいちばんピッタリ来た瞬間だった。この萩原さんの文章に完全同意するのはいくつももあるが、大きく分けて以下の三点。

1. 音楽を聴くときに歌詞の意味内容に頓着しない。
2. 味わうのはサウンドの快楽。
3. 音楽(その他)は分るものなんかじゃない、感じるものだ。

萩原さんがぜんぶ丁寧に説明してくださっているので、しかも続きを次回も書くとコメントでおっしゃっているので、僕なんかが、それも慌てて今日書かなくてもいいのだが、やはり僕もこれはものすごく強調したい、それもいますぐ言葉にしたいというテーマなので、僕なりの表現で少し綴っておこう。

歌詞の意味にこだわらないと言っても、萩原さんと僕とでは、内実がかなり違う。だって萩原さんはああおっしゃりながらも、世界のいろんな言葉を読んだり書いたり聴いたりできているのだと分っている。僕はといえば日本語だって怪しい上に、ちょっとだけなんとなるかと思う外国語は英語だけ。僕がふだんから「歌詞の意味なんかどうでもいいぞ」と発言するのにはこういう事情も含まれているのだ。萩原さんはぜんぜんそうじゃない。歌詞の音を聴いて意味が分るにもかからわず頓着しないとおっしゃっているんだよね。だいたい、「頓着しない」は分っている人の言葉だしね。

この点では僕なんか完璧に失格なんだけど、ただ類推というか想像力というものがあって。日本語や英語の歌を聴いてもやはり僕は意味を聴いておらず、日本語でも英語でも分らなかった意味が分ったときに、その歌を聴いて得られる感動が深まった経験があるかというと、そんなことなど一度もなく。そういえば以前一度どこかで田中勝則さんが、ブラジルのポルトガル語を勉強して意味が理解できるようになったのち、ブラジル音楽を聴く感動が深まったかというと、ぜんぜんそんなことはなかったと書いてらしたなあ。

そんなことがあるので、僕の場合は聴解できるのは日本語と英語だけだけど、それらでの歌を聴いての、上で述べたような経験から敷衍して、アラビア語やトルコ語やヴェトナム語やアイヌ語や、アフリカの諸言語などなど、一部勉強中ではあるのだが、それらでできた歌詞の意味内容が分る必要などないはずだという、前の段落で書いた類推・想像力とはそういうことで、だから世界の音楽を聴く際に歌詞の意味内容にこだわる必要などない。と僕は信じているんだけどね。

音楽に、分らないといけない「意味」があるのだとすれば、それは歌詞内容ではなく、サウンドやリズムによって表現されているんだろう。エレキ・ギターのギュイ〜ン、ベースのブンブン鳴り、ドラマーが叩くスエアをバンバン、トランペッターが吹く、それもハーマン・ミュートを付けて出すデリケートなニュアンス、ダルブッカの腹を叩く音、ウードを弾くあの独特のサウンド、電気でアンプリファイされた親指ピアノやトンコリのサウンド 、などなど〜〜 こういったものにこそ「意味」を聴きとるべきだと、僕はそう思う。

もう一つ、僕が音楽の世界に本格的にのめり込むようになったのはジャズによってだった。ジャズは、なんだかんだいって、やっぱりインストルメンタル音楽だろう。歌詞付きの歌が占める重要性は低い世界だ。そんな音楽に完全にズブズブにはまってしまい、楽器の出す一個一個のサウンド、それらが表現するグルーヴを、文字どおり細大漏らさず聴き取ろう、一音たりとも逃すまいと集中し必死で耳を凝らしてきたっていう、それで音楽の聴き方を憶えたんだっていう、こんな個人的経緯も、その後の僕の音楽人生を決定づけることになったはず。

通常の意味のある歌詞付きの音楽を聴くときにでも、僕は意味内容ではなく言葉の織りなす「音の響き」〜 一個一個の音やイントネイション、アクセント、ストレスなどなど(が、まあ通常の言い方での「意味」を生み出すものなんだけど)〜 要するにやはりサウンドやリズムやグルーヴを聴いている。楽器を聴くのとまったく同じアティテュードでヴォーカルも聴いているんだよね。

だから例えばランディ・ニューマンの新作『ダーク・マター』でも、萩原さんがお書きのようにずっと以前からこの音楽家は同じだけれど、あの独特のアクのある声質、歌い廻し(節廻し)、語り口にこそ僕も最も強く惹かれて愛聴している。ランディのことは僕もずっとそうなのだ。今回、歌詞カードも附属していて、萩原さんと違いそれは聴きながら眺める僕だけど、そしてやはり違って、そうすると楽しみが広がるように思うんだけど、でもそうしないとこの音楽家を楽しめないなんてことはぜんぜんないよね。

ランディ・ニューマンの『ダーク・マター』だと、例えば二曲目の「ブラザーズ」にセリア・クルースなんていう言葉が出てくるけれど、その人名やそれを含む英語詞(「キューバ」とかなど)の意味合いよりも、後半部でサウンドとリズムが完璧なキューバン・ミュージックになるあたりとの関係こそ面白いと思うのだ。(英語だから)シリア・クルースと歌われるのも、その部分でなんだよね。う〜ん、楽しい。

三曲目のタイトルが「プーチン」だったり、五曲目が「サニー・ボーイ」だったりするのも大いに気になるところではあるんだけど、そんな言葉の意味内容(だけ)を取り沙汰すのは、音楽を聴く態度としてはやっぱりちょっとオカシイよなあ。後者五曲目ではサニー・ボーイ・ウィリアムスンを名乗る二人ともに言及しているみたいだけど、そう歌いながらの曲調、サウンド、リズムがホンキー・トンクのジェリー・ロール・ミュージックふうであることをこそ、僕は楽しみたい。やっぱりそういうのがブルーズと関係あるからね。

また、ランディ・ニューマンの『ダーク・マター』では、ほかのいろんな曲でもホーン・セクションやストリングスがいつものように活用されていて、楽しく美しく響く。ストリングスは特に美しい。それらの管弦楽アレンジは、たぶん19世紀末〜20世紀初頭あたりの欧米クラシック音楽由来であるんだろう。旧大陸と新大陸の両方で活動したアントニーン・ドヴォルザークとか、あのへんから来ているんじゃないかなあ。

そんなサウンドやリズムや、それらぜんぶひっくるめてのグルーヴなんて「分る」ようなものじゃないだろう。ただ感じることしかできないものだ。分るよりも感じることのほうが、(音楽だけじゃなく人間の)体験としてはより深いものなんじゃないかなあ。考えるな、分ろうとするな、感じるんだ、感じて感動するんだ。感じ方は聴く人によって千差万別になる個人的な体験だけど、それが音楽の楽しみ方。すごくパーソナルなものであるからこそ、ユニヴァーサルな説得力を持つ場合もあるんだってことじゃないのかな。

音楽は教養なんかじゃない。単なる娯楽なんだよね。だから分ろうとしないで。分る/分らないで価値判断しないで。もっと気楽に接すればいい。音楽作品は大衆娯楽品なんだからさ。聴いて感じて面白がっていればいい。それだけでいいじゃないか。それこそ至高の体験じゃないか。

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