ピシンギーニャ以前の、失われたショーロを求めて
というと昨2016年に(一部界隈で)話題をさらった、エヴェルソン・モラエスらによるイリニウ・ジ・アルメイダ曲集があるが、そのイリニウですらまだ新しい部類に入っているような古典ショーロを、それも最新録音で蘇らせてくれたショーロ・アルバムがある。それが2000年のビクター盤『ショーロ 1900』。録音は1999年のようで、プロデュースがこれまた田中勝則さん。したがって当然、というべきか演奏のリーダーはエンリッキ・カゼスだ。
バンド名としてエンリッキ・カゼス&グルーポ・ド・ショーロ 1900という名前が記載されているが、もちろんレギュラー・バンドではなく、『ショーロ 1900』のために整えられたメンバーで、パーソネルも曲によってかなり異なっている。エンリッキが演奏しないものだってあるもんね。
イリニウ・ジ・アルメイダが新しい部類に入っているようなと書いたが、だからイリニウの曲はアルバム『ショーロ 1900』に当然ある。それが全13曲中の12曲目「モルセーゴ」で、この曲は上述のエヴェルソン・モラエスらによるイリニウ曲集にも入っている。そっちでの曲名は「アイ、モルセーゴ!」。もちろんエヴェルソンがオフィクレイドでコントラ・ポント(対旋律)を演奏している。そもそもそのアルバムは<失われた管楽器を求めて>みたいなもんで、すなわちイリニウが吹いた低音管楽器オフィクレイドを復活させるみたいな意味合いも強かった。
いっぽうエンリッキらの『ショーロ 1900』にある「モルセーゴ」には、エヴェルソンらのヴァージョンで主旋律を吹いているコルネット奏者がおらず、それを吹くのはフルートのマイオネージ・ダ・フラウタ。コントラ・ポントは、当然オフィクレイドは失われたままの時代だったので(といってもイリニウ自身はこの曲をボンバルディーノで吹いたらしいのだが)、その代わりにバス・クラリネットが使ってあって、同じラインを演奏している。それはルイ・アルヴィンの演奏。この二管をエンリッキ(カヴァキーニョ)&ベト(パーカッション)のカゼス兄弟と、マルセロ・ゴンサルヴィスの七弦ギターが支えている。
そんなイリニウの曲「モルセーゴ」の現代再演。活き活きとした躍動感ではエヴェルソンらのヴァージョンのほうが上だろうが、エンリッキら『ショーロ 1900』ヴァージョンはしっとりと落ち着いたフィーリングもあって、賑やかな調子のこの曲をクラシカルで典雅なものに仕立て上げている。曲中で入る掛け声も、エヴェルソンらのものに比べかなりおとなしい。どっちがいいかは聴き手の好み次第だ。僕はどっちも大好き。
アルバム『ショーロ 1900』では、このイリニウの「モルセーゴ」に続くアルバム・ラスト13曲目がピシンギーニャの書いた曲で、名曲「バラ」と一緒に1917年に彼が生まれて初めて録音した曲「苦しみは自らが引き起こすもの」(Sofres Porque Queres)。これはピシンギーニャのオリジナルどおりブラス・バンド編成で演奏していて、エンリッキは演奏面ではおやすみ。ピシンギーニャが師匠イリニウから引き継いだコントラ・ポントを、ここでもバス・クラリネットが入れている。
『ショーロ 1900』のぜんぶで13曲のうち、ブラス・バンドによる演奏はこれ一曲のみで、ほかはすべて少人数コンボ編成でやっているのだが、12曲目のイリニウ、13曲目のピシンギーニャは、いわばモダン・ショーロの幕開けをアルバム・ラストに置いて、現代録音での再演によるいにしえのショーロ史アルバムを完結させているかのような趣だ。
僕にとっては、アルバムのそれ以前にある11曲のクラシカル・ショーロのほうが面白く聴こえる部分もあるんだよね。イリニウの「モルセーガ」なんか本当にグッとモダンでいいのだが、もっとこう、違う魅力がいにしえのショーロにはあったのかもしれないなあ、ショーロ成立前の古いブラジル音楽から引き継いでいたような部分がけっこう楽しいんじゃないかなあと聴こえるんだよね。
といってもアルバム附属の解説文で田中勝則さんがお書きのように、アルバム題どおり西暦1900年前後のショーロ楽曲ばかりで、録音なんか残っていない時代だし、そもそもどんなかたちで演奏されていたのか「誰も知らない時代の音楽」(p. 4)をイマジネイションで再構築した「でっち上げ」(同)みたいなものなので、100年後の感覚で<失われたショーロを求めて>旅して、なんとか結果を作品にしたようなものなのかもしれない。
がしかし、そのできあがった結果の音楽は大変に魅力的で素晴らしいものなんだよね。イマジネイションが発揮された失われたものの再構築という意味で僕がいちばん面白く感じたのが、アルバム五曲目の「クバニータ」(Cubanita)。シキーニャ・ゴンザーガ(1847-1935)という女性ピアニスト兼作曲家の作品。「クバニータ」はシキーニャのエキゾティックな要素が出た作品のようで、曲名がキューバ娘というスペイン語であるのにも表れているが、カリビアンなアバネーラを取り入れたもの。
といってもシキーニャのばあい、キューバから直接輸入したわけではなく、アバネーラがヨーロッパで流行していたのを耳にして使ったようだ。ヨーロッパでのアバネーラ大流行の直接の第一原因はジョルジュ・ビゼーのオペラ『カルメン』だが、それだって元を辿るとスペイン人コンポーザー、セバスティアン・イラディエールの「ラ・パローマ」に行き着く。
それで、たぶんプロデューサーだった田中勝則さんにのアイデアだと思うんだけど(あるいはエンリッキの着想かもしれないが)、アルバム『ショーロ 1900』でのシキーニャ・ナンバー「クバニータ」では、後半部から「ラ・パローマ」に移行するんだよね。この二曲のメドレー形式になっている。こ〜りゃ最高に面白いね。エキゾティックなアフロ・カリビアン・ショーロみたいなものは、もっとずっとあとになってピシンギーニャがやったりもしたが、現代的解釈による大胆な再演とはいえ、シキーニャのショーロがこんなふうになるなんて。
そんな「クバニータ」でもパーカッションが実にいい感じでピリリと効くスパイスになっているのだが、ベト・カゼスがアルバム『ショーロ 1900』で果たしている役割は、音楽監督エンリッキよりも、実際の演奏面では上回っているような気がする。控えめだがかなりチャーミングで、しかもたまにオッ!と耳をそばだてるようなものもあったりして、しかもユーモラスというかコケティッシュでもある。
例えばアルバム一曲目のジョアキン・アントニオ・ダ・シルヴァ・カラードの「愛しの花」(Flor Amorosa)。前半はカラード時代のスタイルそのままでやって、楽器編成もフルート+ギター+カヴァキーニョのトリオでクラシカルだが、後半やおらリズムが活発になって、ちょっぴりサンバふうなスタイルに変化する。そうなって以後ベトが入ってくるのだが、クラベスでカン、カンと高くて硬い音を叩いているんだよね。クラーベのパターンではないが、やはりこれもちょっぴりカリブ風味があると僕は思う。
また、アルバム二曲目の「漁師」(O Pescador)。これを書いたシスト・バイーアはカラードよりも前の時代の人で、ショーロではなくモジーニャの音楽家。しかし「漁師」はモジーニャではなくルンドゥーだ。むかしのショーロ演奏家はモジニェイロの伴奏もやることがあったということで、アルバムでとりあげることにしたのかもしれない。フルートが主役の演奏で、伴奏は主に七弦ギターとカヴァキーニョだが、ここでもベト・カゼスがユニークだ。トライアングルを主にやっているみたいだけど、その他のパーカッションも含め田舎っぽい、というと怒られるかもしれないから言い直すと、バイーアっぽいフィーリングをうまく出している。マルセロ・ゴンサルヴィスが弾くギターのリズム感もそうだ。
アルバム四曲目「永遠の想い」(Saudade Eterna)は、ショーロ時代初期のヴァルサ(ワルツ)で、サントス・コエーリョの曲。ここではバンドリン独奏という近い演奏で、いちおうマルセロ・ゴンサルヴィスの七弦ギターが軽く、しかし効果的な伴奏をつけているが、ほぼマルシリオ・ロペスのバンドリン一台がサウダージで泣く(ショラール chorar)。サウダージもサウダージ、本当に哀しく切ないヴァルサ楽曲だ。ヴァルサにして、これもまたショーロ(choro)。
アルバム七曲目「そんな目で見ないで」(Não Me Olhes Assim)と八曲目「リシア」(Ligia)というアナクレット・ジ・メディロスの曲もいい。アナクレットも、イリニウやピシンギーニャ以前のいにしえのショーロ界では最重要人物の一人だ。ここでは二曲とも、かなりユニークな編成とアレンジの管楽器アンサンブルで聴かせてくれている。これはどうやらエンリッキのアイデアだったんそうだ。エンリッキはブラス・バンドの世界にも通じていて、そんなアルバムも一枚あるんだもんね。
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