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2017/10/05

いま再び聴かれるべきセネガル人音楽家のユニヴァーサルなボディ・ミュージック

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あまりにもセンス抜群すぎるこのジャケット・デザインを見ただけで、まだご存知ない方もちょっと聴いてみたくなるんじゃないだろうか?セネガル人ファーダ・フレディのソロ・デビュー作『ゴスペル・ジャーニー』。少なくとも僕はジャケをネットで見ただけで一目惚れだったよぉ〜。そういう人、けっこう多いんじゃないかなぁ。

 

 

ローカル色が薄く全世界で通用する普遍性を持った音楽作品。いろいろとあるけれど、リシャール・ボナ(カメルーン)の諸作、ヒバ・タワジ(レバノン)の二作とか、レー・クエン(ヴェトナム)の2014年作『Vùng Tóc Nhớ』とかもそうだよねえ。セネガル人ヴォーカリストファーダ・フレディの2015年作『ゴスペル・ジャーニー』もそんなアルバムだ。

 

 

いまごろこのアルバムについて書こうと思い立ったのは、このアルバムからラストの「Borom Bi」があまりにも美しいと思って、ご存知ない方もいらっしゃると思い、2015年にこの曲だけ僕が自分で YouTube にアップしちゃったのだ。それがまあまあ好評で、再生回数も多く、主にフランス語と英語で絶賛のコメントも付く。つい二、三日前に「メキシコにいるんだが、この音楽はまったく未知のものだ、こちらではだれも知らないよ」とおっしゃる方がいて、それで自分で上げたこの曲のことを思い出し、じゃあちょっと書いておこうかなって思ったんだ、日本語でね(笑)。

 

 

セネガルのヒップ・ホップ・グループ、ダーラ・J(ウォロフ語で「人生の学校」くらいの意味らしい) のシンガー、ファーダ・フレディ、ってことは、僕のばあい、彼の『ゴスペル・ジャーニー』を聴いたあとに知ったことなので、まったく分っていなかった。ダーラ・J ではウォロフ語で歌っていたんだそうだが、『ゴスペル・ジャーニー』ではごく一部を除き全編英語ヴォーカルだ。アルバム・タイトルも英語だし、ワールド・マーケットを意識したんじゃないかなあ。

 

 

実際、中身の音楽のありようも『ゴスペル・ジャーニー』はユニヴァーサルなサウンドで、いくら聴いてもそこにセネガル色を感じることは、僕には不可能。2015年にジャケットだけで一目惚れして買って、聴いたらますます惚れて聴き続けること二年以上が経過するけれど、やはりこれはいわゆるアフリカ音楽じゃないよね。言葉本来の意味での世界音楽だ。でもアフリカからこんな才能と作品が出現したという事実には着目しないといけないんだろう。

 

 

ファーダ・フレディの『ゴスペル・ジャーニー』の根幹にあるのは、アフリカではなくアメリカ黒人音楽だ。リズム&ブルーズ、ドゥー・ワップ、ソウル、ゴスペルが中心。そこにレゲエとラテン風味をちょっとだけ足したようなものがベースになっている。そしてなんといっても19世紀末のバーバーショップ・コーラス以来のヴォーカル・ハーモニー・グループの伝統に連なっている。ファーダ・フレディ自身、アメリカのポップな黒人コーラス・ミュージックを、以前から相当聴いてきているなというのを実感できる。それをそのまま反映したような内容のアルバムで、そこにセネガル色や、あるいはなんらかのアフリカ色は聴きとれない。

 

 

2015年リリース作品だという時代を反映してのことかどうか、とびきりフレッシュなポップ・ミュージックであることは間違いないが、ややダウナーな感じの曲が多いように僕は感じる『ゴスペル・ジャーニー』。だけど決して暗い音楽というわけでもない。陰と陽の二面性をまるで双子のように兼ね備えたものだということは、ジャケット・デザインでも表現されている。

 

 

ファーダ・フレディの『ゴスペル・ジャーニー』は根本的にヴォイス&ボディ・ミュージックだ。うんまあヴォイスもボディの一部だから、全面的にボディ・サウンド・ミュージックだと言って差し支えない。CD 附属ブックレットでは二ヶ所に「声と身体だけ、楽器なし」(ONLY VOICES AND BODIES  NO  INSTRUMENTS)と明記されている。このことこそがこの音楽家がこのアルバムで異様にこだわった部分で、その結果、音楽としても異彩を放つものになっている最大の要因だ。

 

 

『ゴスペル・ジャーニー』は声と、身体の各所を叩いたりはじいたりなどする音、口笛などだけでアルバムのすべての音が組み立てられている(らしいが?)。ファーダ・フレディのヴォーカルをリードとするものの、彼以外にも声を出して重ねているメンバーは多い。特にコーラスがいくえにも折り重なって聴こえるが、これは多重録音しているのかどうかまでは僕には分らない。

 

 

ときどき、これはいわゆる楽器の音じゃないのか?と思う瞬間もありはする『ゴスペル・ジャーニー』。ビート・ボックスみたいなものはひょっとして使ってあるんじゃないかなあ?そう考えないと理解しにくいサウンドがそこかしこにあるんだけど、どうなんだろう?またズンズン床が振動するような低音も部分的に入っているが、それはなんだろうなあ?それも “vocal bass” なのかなあ?ベース・ドラムの低音であるかのように聴こえるものだけど、これもなんらかのボディ・サウンドなのかなあ?

 

 

『ゴスペル・ジャーニー』では、僕の感触だと四曲目の「ジェネレイション・ロスト」あたりからグングン盛り上がる。個人的クライマックスは、5曲目の「ウィ・シング・イン・タイム」、7曲目の「レット・イット・ゴー」、そして上のほうでも触れたように、あまりにも美しいラスト11曲目の「Borom Bi」。5曲目と7曲目は強く激しいビートに乗って歌うものだが、11曲目は、まず静謐で敬虔ななキリスト教会賛美歌ふうにはじまる。

 

 

 

終盤でも同じように教会内でエコーが効いているかのようなコーラスになるんだけど、それらにサンドイッチされて、ミディアム・テンポのヘヴィな感じだとはいえ、やはりビートの効いた中間部がある。その中間部では英語が主に使われているみたいだけど、イントロ、エンディング含め、英語だけでもないみたいだよね。その重たいミディアム・テンポの中間部が、これまたあまりにも美しすぎると僕は思うんだよね。いろんな意味で。

 

 

2017年のいま、日本を含め世界がこんなふうになっているけれど、そうだからこそファーダ・フレディの2015年作『ゴスペル・ジャーニー』は、またもう一度じっくりと耳を傾けてみる意味と輝きを、再び強く持つようになりはじめているような気が、僕はする。

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