モーリタニアの女性グリオに、砂漠のブルーズと、ロックはあるか?
「ムーア音楽の旋法体系を、大づかみながら理解できた」とおっしゃる荻原和也さんが、そのきっかけたる来日時のヌーラ・ミント・セイマリに都内でインタヴューなさった内容が掲載されている『ミュージック・マガジン』11月号(10/20発売済み)。僕みたいな半端者が読んだって到底理解できるはずがないと思いつつかなりジックリと熟読し、やはりほぼなんのことだか分らなかった(ブハールという旋法のところ)。これは萩原さんのせいではなく、僕がムーア音楽と、それを語るヌーラのことについてあまりにも知らなさすぎるせいだ。
まあそれははじめから覚悟していたことだけど、それでも丁寧なヌーラの言葉と、それを日本語にしてやはり丁寧な記事にしてくださった萩原さんのおかげで、実にたくさんの情報に、理解できないなりに、接することができて、僕なりに大収穫を得た記事だった。モーリタリアのこの女性グリオの音楽が好きだ、興味があるというみなさんは必読の『ミュージック・マガジン』11月号 pp. 94〜97であります。
さてその記事本文のなかで僕がいちばんビックリしたのは「ヌーラの音楽は、一般に ”砂漠のブルース” として受け止められている。」というワン・フレーズ。はっきり言って衝撃ですらあった。はじめて読んだ。僕はいままでヌーラの(ワールド向けの)二枚のアルバムを、砂漠のブルーズだと思って聴いたことがまったく一度もない。この二つはかなり違うんじゃないの〜?
ヨヨヨ〜っていう女声の例のお囃子が入るという共通点もあるが、エレキ・ギターのスタイルも、リズム・フィールも、ヌーラと、例えばティナリウェンなどではだいぶ違う。さらに最も大きな違いがメイン・ヴォーカルだ。砂漠のブルーズに分類されているバンドのメイン・ヴォーカリストは、だいたいいつもボソボソと下を向いて言葉を落とすかのように、まるで口ごもりながら、つぶやいているような歌いかた。
ヌーラはグリオですがゆえ〜、そんな歌いかたなど絶対にありえない。西アフリカ地域などのグリオたちや、またグリオではないが、パキスタンのヌスラット・ファテ・アリ・ハーンや、あるいはアメリカのリズム&ブルーズやソウル界の歌手たちのように、かなり堂々と大きく声を張って、かなりよく通る声で、大きくシャウトしている。ヌーラは実に立派な朗々たる声で歌い、コブシ廻しも激しくグリグリとやっている。口ごもって言葉をボソボソ下に落とすかのようなつぶやきヴォーカルとはまったく接点がない。
まったくないってことはないか。フレイジングにアラブ音楽歌手の歌いかたの影響がかなりあるという点においては、ヌーラと砂漠のブルーズ・バンドのヴォーカリストたちは、同じものを持っている。あと、エレキ・ギターのサイケデリック風味は共通点だ。フレイジングも似ている。でもなあ、聴いた際の第一印象が真反対だもんなあ(僕だけ?)。う〜ん、ヌーラも二枚のアルバムでその音楽を愛好するだけで、何語でも文字情報をほぼ読んでこなかった僕だけの印象なんだろうか?と思ってちょっと日本語でネット検索してみると、出てきますね、たくさん(^_^;)、ヌーラのアルバムについて、ティナリウェンとか砂漠のブルースとかいう文字列が。う〜〜ん…、似てないでしょう?
アルバムを聴くだけって言うのは、僕の持つヌーラのワールド・マーケット向けの二枚『ティザンニ』『アルビナ』は、どっちもオリジナルの独 Glitterbeat 盤なんだよね。英語で説明文が、それもバンドのアメリカ人ドラマーにしてプロデューサーでもあるマシュー・ティナリの書いたものが(『アルビナ』のほうには署名がないがたぶんマシューだろう)掲載されている。だが、それも読んでいなかった。
『ティザンニ』『アルビナ』二枚とも日本盤があるそうだ。またヌーラはオフィシャル Web ページを持っていて、そこがこの音楽家について最もたくさんの情報がある場所だと思う。詳しめの英語の文章もあるし、写真や動画も豊富で、アルバム収録曲の視聴もできる。その文章はこれから読もうっと。
モーリタニアの女性グリオであるヌーラだから、書いたようにヴォーカルにかなりの強靭さがあって、僕なんかにとってはそれこそがこの人の音楽で最もチャーミングに聴こえるところ。強くて、突き刺すように鋭くて、しかも反面、繊細に節廻しをやる…、ってつまりふつう一般の最もすぐれた歌手たちが、全世界共通で持っているばあいが多い馴染の資質だ。それにしてもヌーラの声には迫力があるよなあ。
ヌーラがアルディンという伝統弦楽器(ハープみたいなもので、ちょっと見がコラに似ている)を弾きながら歌うのは、ムーア音楽の伝統そのままだ。夫であるバンドの中核ジェイシュ・ウルド・シガリは主にエレキ・ギターだが、一作目の『ティザンニ』では、やはりムーア音楽の伝統楽器ティディニート(ほぼンゴニ)も少しだけ弾いていた。それにエレベとドラムスが加わるあたりは、ヌーラ独自の現代的解釈で、モーリタニアの伝統ムーア音楽を刷新しよう、新しい時代、21世紀にも訴求力のあるものにしようという試みなんだろう。
その試みは冒険とか実験などという域をとっくに超えて、立派な完成品になっている。2014年のワールド・デビュー作『ティザンニ』の前にローカル・リリースの EP などがあるみたいだから、それらではどうだったのか、僕には分らない。2014年のこの四人編成バンドの根幹はヌーラ+ジェイシュ+マシューの三人編成なんだろうが、それを結成してツアーしたりフル・アルバムを録音(は二作とも米ニュー・ヨークで行われているのは、アメリカ人マシューがプロデューサーであるからだろう)したりした時点では、伝統ムーア音楽を素晴らしくモダン化した完成品になっている。
2014年の『ティザンニ』と2016年の『アルビナ』では、僕は新しいほうである後者のほうが、サウンドがよりタイトになって、一層完成度が高いように聴こえていて好みだし、実際出来も上だと確信しているが、音楽性の根本はなにも変わっていない。ワールド・デビューしたので、ヌーラ自身のバンドでの活動の場が世界で急増して、それで音楽に磨きがかかったということかもしれない。
ヌーラのヴォーカルとアルディンじたいはモーリタニアの女性グリオの伝統にのっとったものだと思うし、また、夫ジェイシュの弾くエレキ・ギターとマシューのドラミングも、確かに「ロック的な要素を取り入れたのは、むしろ伝統音楽を強化するためだった」に違いないものだろう。だけれども、できあがったアルバム二枚を聴いて、そこに「ロック」を感じないリスナーは、ふつうは少ないんじゃないかと僕は思う。マシューのドラミングについても「ロック・ドラムというより、もっと現代的なジャズのリズム・アプローチを感じる」っていうのは、さすがにロック嫌いな萩原さんらしい言葉ではあるけれど、こ〜りゃどう聴いたってロック・ドラミングだよなあ。このシャープなタイトさは。
ジェイシュのギターがクォーター・トーンを出しやすいようにフレットなどをカスタマイズしてあって、ジェイシュ自身もインタヴューで、ティディニートの奏法をエレキ・ギターに置き換えただけで、ロック・ギターの影響はないと語ってはいるが、二枚のアルバムでのできあがりを聴く限り、こ〜りゃどう聴いたって1960年代後半〜70年代初頭あたりのサイケデリック・ロックでのギターにそっくりだ。本質的に違うものだとしても、できあがりは似ている、というかほぼ同じ。
バンドのリズムもヌーラの歌いかたも強烈にトランシーだけど、ジェイシュの弾くエレキ・ギターも幻惑的で、サイケデリック・ロックのそれと同質のもののように、僕には聴こえるなあ。フランジャーかけまくって飛びまくって、ヌーラのヴォーカルにからみ、本人がどう否定しようとも、ある種のロックっぽさは隠しようがないと、アルバムを聴いて判断する限りでは、そう思いますけれどね。
『ミュージック・マガジン』11月号掲載の荻原和也さんの記事末尾では、「次のアルバムは、モーリタニアでのライヴ録音を考えている」との、プロデューサー、マシューの言葉があるのは、とても楽しみ。ヌーラ・ミント・セイマリのこういった音楽は、ライヴになると一層迫力を増すに違いなく、どんなライヴ・アルバムができあがるのかワクワク。来年あたりかなあ?
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