キューバン・ジャイヴ歌手ミゲリート 〜 歌のなかの演劇
日本でも著しく評価が高いアルセニオ・ロドリゲス。ひょっとしたらいま、熱心なキューバ音楽愛好家のなかで最も高く評価されているのがアルセニオじゃないかなあ。実際、それほどの価値のある音楽家だ。そのアルセニオの無名時代、キューバで最も早い時期に目をつけた一人が、ミゲリート・バルデースにほかならない。ミゲリートは人気歌手だったから、彼が歌ってくれたおかげでアルセニオの認知度が上がった面もあるんじゃないかあ。
ミゲリートの録音をいま日本盤で買おうとしたら、格好のものが二枚ある。どっちもいつもどおり中村とうようさん編纂のもので、発売順に1998年の MCA ジェムズ盤『アフロ・キューバンの真髄〜マチートとミゲリート』、2003年のライス盤『アフロ・キューバンの魔術師』。前者はタイトルで分るようにマチートにフォーカスしたような面があるので、今日は後者ライス盤のことだけを話題にしたい。MCA ジェムズ盤のこともそのうち書こう。
ミゲリートのライス盤『アフロ・キューバンの魔術師』の二曲目「ブルーカ・マニグァー」であれば、キューバ音楽は例のブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ関連のものだけ聴いているという方々(はけっこう多いと思う)だって耳馴染があるはずだ。同プロジェクトでイブライム・フェレールがこの曲を歌ったからだ。これ、アルセニオ・ロドリゲスの書いた曲なんだよね。
https://www.youtube.com/watch?v=s4MPKz3U8vs
https://www.youtube.com/watch?v=s4MPKz3U8vs
ライス盤『アフロ・キューバンの魔術師』に収録の「ブルーカ・マニグァー」は、オルケスタ・カシーノ・デ・ラ・プラージャ時代のもので、1937年の録音。37年なんて、アルセニオのことをたぶん知っている人のほうが少なかったはず。しかもそんなアルセニオの曲をやろうとしたのは、バンドの意向というより所属歌手だったミゲリートの取り計らいだったようだ。この「ブルーカ・マニグァー」にミゲリートが目をつけたのには、大きな意味があったと思うんだよね。アルセニオ個人を云々というよりも。
っていうのも「ブルーカ・マニグァー」という曲は、アフリカ生まれの黒人の心境を歌ったもので、しかし曲はホンモノのアフロ・キューバンというよりも、ちょっとした偽アフロみたいなもんで、アルセニオは黒人だけど、ミゲリートは混血(ムラート)だったのか白人だったのか、はっきりしない。本人は白人だと語っていたようだが、ムラートだとする研究もあるみたいだ。
そのあたり、ミゲリートが白人か混血か、イマイチはっきりとしないのだが、いずれにしても肝心なのは「ブルーカ・マニグァー」に宿る演劇性なんだよね。ミゲリートが白人だったとするならば、この曲をもっともらしく歌うのは、いわば<ウソ>だ。言い換えればそれが歌における演劇性で、歌手本人の実生活における姿と歌う内容がピッタリとはりつきすぎず、虚構性(=ウソ)を持ち、演じることで、かえって歌に迫真性が出るんだよね。
しかもミゲリートが歌うオルケスタ・カシーノ・デ・ラ・プラージャ1937年の「ブルーカ・マニグァー」は、後半部(最後の約一分間)がモントゥーノになっていて、バンドが同一パターンを反復する上で、ミゲリートがヴォーカル・インプロヴィゼイションを披露している。ソンの伝統スタイルだから、これじたいはいまさら強調するべきものではないはず。
だけど、ミゲリートのばあい、結局その歌手人生をとおし、この二要素(歌の虚構性、モントゥーノ部での即興歌)に最も力を入れて追求したんじゃないかと言えるかもしれないんだよね。ライス盤『アフロ・キューバンの魔術師』だと、ほかにも例えば、やはりアルセニオの書いた4曲目「キャラメル売りが行く」(1938年録音のこれのトレスがアルセニオ自身)、やはりアルセニオの7曲目「ルンバに惚れた」(1941年、ザビア・クガート楽団時代)12曲目「空ビン買い」(1942年、マチート楽団と)、13曲目「血は赤い」(1940年代末?)、15曲目「オー・ミ・タンボー」(40年ごろ?)、16曲目「ババルー」(47年)など、すべて、この二大要素を表現したものなんだよね。
つまり歌の中身は黒人性(アフリカン・ルーツ性)を打ち出したもので、ことによってはミゲリートだとそれはウソだ。歌の中身を表現するのに、それが歌手の心の底から湧き出てくるようなもの、すなわち歌手自身の体験とか生い立ちとか立場からナチュラルに出てくるようなものだからこそ<ホンモノ>になりうるのだとお考えのみなさんにとっては、ミゲリートのこんな歌の数々は腹立たしくさえあるものかもしれない。
芸能(芸術でもいいが)表現における真のリアリズムとは、そんな薄っぺらいものじゃないんだよね。ドラマを演じる、つまり表現者本人とは異なる立場の役割を演じるお芝居、要はフィクショナルな装置によって、音楽でも文学でも作品は生み出されるのであって、ってことはぜんぶウソなんだよね。ウソという言葉が悪いならば虚構なんだ。つくりもの、でっちあげたもの、ニセモノ 〜 であるからこそ本物よりもホンモノらしい表現ができる。
ミゲリートはキューバ人歌手のなかで、歌というものが持っているこの根源的なフィクショナリティを最も素晴らしく体現した人物だった。だから彼が本当のところ白人なのか混血なのかは、そんな追求しても意味は大きくないと思う。大きな意味は、ミゲリートがそういう表現スタイルをとって歌い、聴き手にイリュージョンを体験させたのだという、こっちは間違いない事実だ。
歌のモントゥーノ部でのヴォーカル・インプロヴィゼイションにジャイヴ風味があるのだということにも少し触れておこう。それはまさに北米合衆国のキャブ・キャロウェイに通じるスタイルで、っていうかキャブの楽団だって人気があった1930年代にはキューバ公演をやることがあったはずだから、ミゲリートもそれに触れたはずだし、それがなかったとしてもキャブのレコードは間違いなく聴いていた。疑えないほど似ているばあいがある。
例えばライス盤『アフロ・キューバンの魔術師』の15曲目「オー・ミ・タンボー」。これの後半モントゥーノ部において、スキャットを交えながら即興でミゲリートが歌い囃しているところなどは、どう聴いてもキャブのイミテイションだ。実際、アメリカ時代のミゲリートは、ひとからキャブの歌いかたに似ていると言われることがあったそうだし、この曲だけでなく、ライス盤でも随所でそんなような姿が聴ける。がしかし、この曲だけは意識して故意に真似している。
キャブ・キャロウェイにしろミゲリートにしろ、アメリカン・ジャイヴやアフロ・キューバン・ジャイヴなど、その他すべてのジャイヴ表現は、歌のなかに演劇舞台を設定し、そこで主役歌手(など)がお芝居を演じ、聴き手とのあいだに共有できる空間をつくりだして、フィーリングをシェアするっていう 〜 こういうものなんだよね。音楽(や各種表現)が虚構だというというのは、こんな意味なんだ。
だからキューバ人歌手ミゲリートが似非アフロを歌ってリアルにやって、ジャイヴィなヴォーカル・インプロヴィゼイションを披露するっていう、この二つはピッタリはりついた同じことなんだ。そんなふうにやったからこそミゲリートは、キューバ音楽、ラテン音楽という枠すら超えた、世界の混血音楽文化の最も偉大な実践者の一人だったと言えるかもしれない。
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