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2017/12/02

ウー・ティン・トリオの演唱が本当に素晴らしい

Utin2017








以前、ビルマに現存する最高のギター名手、ウー・ティンについて書いた。「謎の変態ビルマ・ギター」だとして。
コメント欄をご覧になれば分るように bunboni さんがおっしゃるには、同じシリーズの第二弾がリリース予定だとなっていた。それがついこないだ(でもないか?ちょっと前(^_^;))、発売されたのだった。最初そのときは、ギター独奏だった前作や、またそれより先に発売されていたアウン・ナイン・ソーのやはりギター独奏アルバムと同様にインディ販売みたいなかたちでしか出回っていなかったウー・ティンの二作目だが、いまやその素晴らしさを地下販売みたいにしたままではあまりにもったいないということか、一般流通品となっているらしいのが、すごく喜ばしい。

一作目がほぼ全曲ギター独奏だった(最後の曲でだけ歌ってもいる)ウー・ティンだけど、こないだリリースされた二作目『Music OF Burma Virtuoso OF Burmese Guitar, Man Ya Pyi U Tin And His Bama Guitar』(長すぎっ)は、歌手と竹琴(パッタラー)奏者も参加のトリオ編成。だからヴォーカリスト、ラミンがあくまでメインで、ギターのウー・ティンとパッタラーのマウン・タンエーはほぼ伴奏役だ。

だからギタリストやギター専門家やギター・マニアみたいなかたがたには、ひょっとしたら一作目のほうが面白く聴こえるのだろうか?だがしかしビルマの大衆音楽の世界では、こんなふうなギターとパッタラーが歌手の伴奏をやるほうがふだんの姿なんだそうだ。それに、いままでまったくの摩訶不思議変態世界だとしか聴こえていなかったビルマ・ギターへの入門としても、むしろこっちのトリオ編成録音のほうが理解しやすいかも?

いやいや、理解だなんて、もちろん僕などには到底おぼつかない。ただただ面白い、楽しいと思って耳を傾けているだけで、CD 附属解説文の荻原和也さんが末尾で「聴き手のミャンマー音楽理解度が試される、コワいアルバムだ」などとお書きなもんだから、おそろしくて、ぜんぜん理解などしていないと自覚している僕なんか、あの文言を読んでしまったので、今日のこの文章だって、いちおう書きはするものの、公開できるかどうかおそろしくて。公開しない可能性だってある。『ミュージック・マガジン』最新号でのレヴュワーさんもビクビクしているのが行間に漂っていた。萩原さん、あんなこと、書かないほうがいいと思います〜+-。(^_^ *) 。

まあともかく、その萩原さんの解説分が素晴らしくて、しかもスリリングで刺激的。だからウー・ティンの新作に、今日の僕のこの文章で、ひょっとしてあるいは興味を持って買ってくださるかたでも出現したならば、音楽を聴いて、萩原さんの音楽的解説文(は世界のギター・ミュージック愛好家必読だ)と、ウー・ティンのお弟子さんである日本人、柳田泰さんのウー・ティンへの敬愛にあふれている紹介文をお読みになれば、僕のことなど忘れていただきたい。

音楽のことを書こう。ウー・ティン(ギター)、マウン・タンエー(パッタラー)、ラミン(ヴォーカル)の三人が繰り広げる全10曲は、4曲目が古典なだけで、ほかはぜんぶビルマ大衆歌謡みたいだ。リーフレットにそう記載があるのでそうかと思うだけの僕で、実際に聴いてみても、その古典ということになっている4曲目「Pale Myeit Son」と、ほかの9曲のあいだに違いが聴きとれない。これは僕の耳がヘボだってだけのことなんだろうな、きっと。

だからぜんぶいっしょくたにして書く。ギターやパッタラーはソロを演奏することもあるけれど、だいたいいつも歌の伴奏役だ。そしてギターもパッタラーも歌の旋律にピッタリと寄り添って離れない。パッタラーのほうは竹製なので、打楽器だという面もあって、実際、そんな響きがあって、パーカッシヴに聴こえたりもする。ポコポコパカパカって、僕の好きなサイン・ワインの音色にもちょっと似ている。

あっ、それを言ったらウー・ティンのスライド・ギターだってかなりパーカッシヴだよなあ。というと不正確だが、弾き出しのあの強烈なアタック音と、その後の音色と、フレイジングの組み立てが、なんというか硬質で、リリシズムや甘い情緒が入り込んで流麗になるような部分がなく、ハードでシャープで厳しい。そんなサウンドだよね、このスライド・ギターは。僕の耳にはそう聴こえる。

しかもそれでいて、ディープなフィーリングをギター・スライドでしっかり確実に出している。そのディープさは、ビルマの(古典&大衆)歌謡がもとから持っているものなんだと思う。ウー・ティンにしろほかのだれにしろ、それを楽器に移し替えてそのまま表現しているってことじゃないかなあ。だから歌の世界が時代とともに変化すれば、たとえばビルマ・スライド・ギターの演奏も、具体的にはフレイジングのニュアンスなど、特に弾きはじめと弾きおわりの部分で変化するということなんだろう。それだから、ウー・ティンとアウン・ナイン・ソーの、あのフィーリングの違いがあるのかもしれない。

パッタラーのことはおいといて、ウー・ティンのギターの話に専念するが、ビルマ歌謡のヴォーカリストと共演した新作で、そのギター・フレーズの創りかたが、一作目のギター独奏アルバムよりも一層はっきりした。これは間違いなくヴォーカル・フレーズを移植したギター表現だ。世界のどんな音楽でもヴォーカルのばあいは、(西洋音楽でいう)半音以下の細かな音の移動や表現や、また声を切ったり伸ばしたりも歌手の力量次第で自在にできる。

ところが、たとえばギターだと、ふつうのやりかたでは、音量も小さい楽器だし、ふつうは半音単位のフレットで区切られているから、指で押弦するばあいはそれ以下の細かい音は出しにくい(ぜんぜん出せないことはない)し、サステインも効かず音は伸びない。ハワイから流入したギターに最初から反響板が付いていたかどうか、僕には分らない。ハワイ音楽の世界的ブームとギターの拡散は1920年代だから、ビルマにもそのころ入ってきたと思うので、スライド奏法は同時に輸入されただろうが、そのときにリゾネイター・ギターも輸入されたかどうか?

そのあたりは萩原さんの解説文でも明言がないし、僕なんかに推測できるわけもない。ただウー・ティンもリゾネイター・ギターとふつうのアクースティック・ギターの両方を弾くので、う〜ん、どうなんだろう?まあとにかく電化アンプリファイはしない世界らしいので、音量の大きさとサステインを得るには、反響板のついたリゾネイター・ギターが最適だ。

それをスライドで弾けば、音量と音の伸びとともに、半音以下の細かなフレイジングも容易となる。ビルマ歌謡のヴォーカリストも微妙に音程が、西洋音楽的にいえば「外れている」。正確にはちょっとずつフラット気味になっている部分があって、もとから七音音階を使うので、それとあいまってまるでフラフラと船酔いするかのごとき眩暈を感じ、気持悪くなってしまう人もいるんだそうだ。ウゲェ〜と吐きそうになってしまうリスナーがたくさんいると聞いた。

だがしかしこれがビルマ音楽の独自の魔力だ。僕のばあい、ソーサーダトンがこの国の音楽初体験だったのだが、そんな気持悪さをまったく覚えなかったのはどうしてだったんだろう?彼女の声のチャーミングさで、あの摩訶不思議な旋律の違和感も消し飛んだのか?あるいは以前も書いたサイン・ワインのパカパカッっていうあの音色の虜となってしまったせいか?けっこうたくさんのアメリカ(発祥の)産音楽を聴いているつもりの、つまり西洋音楽の和声体系や、ブルーズを表現するペンタトニック・スケールにかなり馴染があるつもりの僕だったけれど、ビルマ音楽初体験のソーサーダトンにぜんぜん違和感がなく、アァ〜こんな音楽大好きだぁ〜って、そう感じたのが不思議だ。

そんなことも振り返って、今回やはり女性ヴォーカリストとの共演作アルバムを創った、ビルマ・ギター・ヴァーチュオーゾ、ウー・ティンの演奏を考えると、まったくの謎、変態、不思議世界に聴こえていたのが(それはなまじギターを使った音楽だったからだろう)、女性歌手ラミンの歌う旋律を、まるでなぞるように弾いているウー・ティンを聴き、ばあいによってはユニゾンで同時演唱したりしているので、あぁ、こういうことかと僕なりに得心がいったのだった。

もちろん謎はぜんぜん解けていない。理解もしていない。僕はね。ただウー・ティンとビルマ・スライド・ギター世界の面白さが拡大しただけだ。これでギター独奏アルバムだったウー・ティンの一作目や、あるいはほかのいろんなビルマ音楽 CD の聴こえかたも変化してくるはずで、これからの楽しみが増えた。

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