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2018/01/15

黄昏どきに聴くニック・ケイヴの「レット・イット・ビー」がいい

 

 

以前、ウアクチのビートルズ曲集の話をしたときに、2001年の映画『アイ・アム・サム』のサウンドトラック盤もビートルズ・カヴァー集として僕は好きだと書いて、文章の最後にほんのちょっとだけ、ニック・ケイヴのやる「レット・イット・ビー」に触れた。

 

 

 

すると、あるかたがすかさず “ニック・ケイヴ” に反応してくださって、コメントしてくださったのだ。記事は2016年7月のものだから、ずいぶんとお待たせしたことになる。といっても申しわけないが、僕はそのリクエストにお応えしようとこの文章を書くのではない。最近の僕にとって、『アイ・アム・サム』サントラのラストでニック・ケイヴがやる「レット・イット・ビー」がどんどんと沁みすぎるほど沁みるようになってきているからというのが大きな理由なんだよね。

 

 

アルバム・ラストで、と書いたけれど、調べてみたらそれはオリジナルのアメリカ盤だけのことで、韓国盤、欧州盤、日本盤など、すべて内容の異なるボーナス・トラックが附属するみたいだ。これはちょっとどうなんだろう?いろんな歌手がやるいろんなビートルズ・カヴァーを聴いたあと、最後の最後にニック・ケイヴのあのシンミリした、ゴスペルふうな荘厳さのまったくない、実に淡々と冷ややかに心情を綴るような「レット・イット・ビー」が流れてきて、それがアルバムのクローザーになるからこそ、素晴らしい時間を過ごしたということになるのに。

 

 

ニック・ケイヴの「レット・イット・ビー」の話をする前に、映画とアメリカ盤サントラ全体のことについてもちょっとだけ触れておこう。

 

 

映画『アイ・アム・サム』は、ショーン・ペンが知的障害のある父を演じるジェシー・ネルスン監督作品。どんな映画だったのかを詳しく書くとネタバレみたいになってしまうので、 Hulu とかアマゾン・プライムで観ることができるし、DVD だってきっとあるはずだから、興味をお持ちのかたはご覧あれ。

 

 

映画そのものが泣かせるものだったこととは別に、『アイ・アム・サム』は、映画好きでなくともロック・ファンなら知っているだろう人が多いと思う。全編でビートルズの楽曲が使われているからだ。といってもぜんぶ最近の音楽家によるカヴァー・ヴァージョンだけどね。きっかけは、映画製作にあたり取材した障害者施設にいる多くの人がビートルズ好きだったことにあるんだそうだ。

 

 

そこで監督ジェシー・ネルスンは、オリジナルのビートルズ・ヴァージョンを映画で使いたかったそうなんだけど、そりゃ、僕たちだって難しいとわかる。大きな金額と手間がかかってしまうはずだ。なのでそれは諦めて、ビートルズのソング・ブックをいろんな人にカヴァーさせたものを映画で使うことにしたみたい。映画のなかでどうだったのかは観なおさないと忘れたが、サウンドトラック盤は、映画で使われたものとそこからインスパイアされてサントラ盤 CD 用にはじめて演奏、録音されたものとが混じっているみたい。

 

 

僕の持つアメリカ盤『アイ・アム・サム』はぜんぶで17曲。エイミー・マンとマイケル・ペンのやる「トゥー・オヴ・アス」(『レット・イット・ビー』)、ウォールフラワーズのやる「アイム・ルッキング・スルー・ユー」(『ラバー・ソウル』)だけがちょっぴり地味で知名度が低めかも?と思うだけで、それ以外はぜんぶビートルズ・ファンでなくたってよくご存知のものばかり。えっ?そうじゃなくって、ビートルズの曲はすべてが超有名ですって?スミマセン。

 

 

サウンドが派手だったり、ファズの効いたエレキ・ギターがギュンギュン鳴ったり、ヴォーカリストが激しくシャウトしたりするのは、この『アイ・アム・サム』にはあまり似合わないと僕は思う。あの映画を思い出すのにもちょっぴり邪魔だ。だから11曲目ブラック・クロウズ「ルーシー」、12曲目チョコレート・ジーニアス「ジュリア」、13曲目ヘザー・ノーヴァ「ウィ・キャン・ワーク・イット・アウト」、16曲目グランダディ「リヴォルーション」あたりは、それだけ取り出して聴くのならいいんだけど。

 

 

しかし派手めの16曲目「リヴォルーション」は、次にくる17曲目ニック・ケイヴ「レット・イット・ビー」への格好の前振りにはなっているなあ。だから、アルバム『アイ・アム・サム』の前半がずっとアクースティック中心のサウンドで落ち着いて静かなたたずまいを見せているのに、11曲目からちょっと派手めのエレキ・サウンドが続くのは、ニック・ケイヴの「レット・イット・ビー」をラストに置いて際立たせるためのアレンジだったと、僕はそう思うことにしている。だからこれがアルバム・ラストじゃないと、やっぱり。

 

 

それほど、17曲目でニック・ケイヴのやる「レット・イット・ビー」の、まずピアノが聴こえてきた瞬間に、ここのところの僕は激しく感動してしまう。そのピアノ・フレーズもそうだし、続いて出るニックのヴォーカルも、素晴らしいさりげなさだ。ポール・マッカートニーの書いた歌詞の持つ、なんというか人生の諦観とほんの小さな希望みたいなものを、ここまで淡々とさりげなく、つまり感情なんか込めていないかのごとく冷ややかに歌えるニック・ケイヴは本当に素晴らしい。

 

 

サウンドだって落ち着いている。アクースティック・ピアノ、オルガン、アクースティック・ギター、かなり小さい控えめの音量で演奏するドラムス、これも音量が小さい女声バック・コーラスと、たったこれだけ。ベースは聴こえない。入ってないかも?クレジットを読めれば確認できるはずなんだけど、このブックレットはなんですか?この文字の小ささは?老眼鏡かけても無理だから諦めるしかない。

 

 

弾ける人だとは知ってはいるが、たぶんニック・ケイヴがピアノを弾きながら歌っているのではなく、おそらくはほかのピアニストが参加して弾いていると思う(ブックレットが読めませんから〜、根拠なしの憶測です)。そのピアノをメインに据えたサウンドもいいんだけど、ニック・ケイヴの、この、まるでしゃべっているような、僕はいまこんな心境だと、目の前で個人的に語りかけてくれているかのような歌いかたが、文句なしに沁みすぎる。

 

 

僕は以前、曲「レット・イット・ビー」のことをとりげて、これはゴスペル・ソングだと指摘して、アリーサ・フランクリンのやる、まさしく教会で歌うゴスペル・ソングへと変貌しているヴァージョンの荘厳さを絶賛し、もともとポールもアリーサのために書いたというのがこの曲の発祥らしいと記事にした。

 

 

 

ポールの歌うビートルズ・ヴァージョンの「レット・イット・ビー」も盛り上がりのあるアレンジだし、アリーサのなんか、輝かしすぎるくらいの気高さ、迫力で、もちろんそんな部分こそがこのアメリカ黒人女性歌手の美点なんだけど、それらに比べるとニック・ケイヴの「レット・イット・ビー」は投げやりなというか、もはや人生を放り出しているかのような退廃すら感じるような歌いかたじゃないか。

 

 

しかしニック・ケイヴの歌う「レット・イット・ビー」は、決して人生を諦めきって100%投げ出したりなどはしていない。こういった、あたかもそう聴こえるかのような淡々とした心情、人生も半ばをすぎて終末のことをそろそろ考えはじめなくちゃいけないんだろうか?という気分になりつつある人間の持つ諦観と、その裏に張り付いたほんのかすかな希望みたいなものを、僕はニック・ケイヴの歌うこの「レット・イット・ビー」に感じている。

 

 

もはや人生は暮れかけていて、風景は暗くなりはじめている。そこに助けがあって一筋の、細いものかもしれないが、光が差し込むことだって、たまにはあるのかもしれない。いろいろ諦めなくちゃいけないんだろうが、それでも静かに落ち着いて淡々と前を向いて歩んでいこう。そんなメンタリティにこのニック・ケイヴの「レット・イット・ビー」以上にふさわしい音楽はないと思う。

 

 

 

音楽は、ときとして、こうやって人生に寄り添ってくれる。

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