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2018/02/16

マイルズとコロンビアの謎契約

 

 

ジョン・コルトレインやレッド・ガーランドらを擁したマイルズ・デイヴィスのオリジナル・クインテット。この五人のレギュラー・バンドでやったアルバムというと、プレスティジには何枚もあるけれど、コロンビアにはたったの一枚しかない。1957年発売の『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』だけ。

 

 

しかし肝心なことは、このマイルズのファースト・クインテットは、そもそもコロンビアに録音するために結成されたバンドだったんだよ。プレスティジ向けのものじゃなかったんだよね。結成日時の正確なことはわかるわけもないが、各種情報を突き合わせると1955年の秋ごろだったんだろう。少なくとも10月18日のライヴ出演の記録が残っている。これが記録上の最初だ。

 

 

後述するが、コロンビアは1955年のマイルズとの秘密契約にあたり、レギュラー・バンドを持つようにとアドヴァイス。マイルズはそれにしたがってクインテットを結成しようとした。それであのリズム・セクションの三人にくわえ、サックスは、最初、ソニー・ロリンズに声をかけたが断られ、それでジョン・コルトレインになったわけなんだよね。

 

 

したがってその後このマイルズ・クインテットは、まず最初、コロンビアに録音したんだよね。それが1955年10月26日の5曲9テイク。そのうち、いまだにリリースされていない「ビリー・ボーイ」は、1958年の再演(『マイルストーンズ』収録)から察するに、やはり同様にレッド・ガーランドをフィーチャーするトリオ録音だったかもしれない。これ以外なら、いまではすべてが公式リリースされている。

 

 

その次がプレスティジ録音になって、同1955年11月16日の六曲。アルバム『マイルズ』となって、レーベルに関係なくリアルタイムで発売されたマイルズ・クインテットの初商品となった。その後、マイルズ・クインテットはプレスティジ、コロンビアの双方に同時進行的に録音を継続。この事実は、あんがい指摘する人が少ないので、いま一度再確認しておきたい。1957年のコロンビア公式移籍前から、マイルズはどんどんこのメジャー・レーベルに録音していたんだよね。

 

 

プレスティジには内緒だったんだとマイルズ自身も語ってはいるが、どうだかね。弱小インディペンデント会社のプレスティジとしても、まったく気付きすらもしていなかったとは考えにくいんだけどね。会社の規模がぜんぜん違うんだから、当然マイルズと録音メンバーに支払う報酬の額だってケタ違い。抵抗するだけムダだと諦めていただけなんじゃないかなあ、プレスティジは。

 

 

だから契約は契約としてマイルズに履行してもらって録音を得て、その間(秘密裡に?)コロンビアに録音していても、まるで伴侶の不倫を知りながら見て見ぬふりをして日常を送るカップルのごとく、プレスティジはジッと黙っていただけなんじゃないかな。契約(婚姻)関係が終わったら、その後のマイルズのことはコロンビアに任せ、その大資本でどんどん宣伝されて上昇する知名度を利用させてもらって、録りだめた曲群をアルバム化してリリースすれば売れる、こっちもそれでオーケーだってことだったんじゃないかな。

 

 

そんなわけで、上で触れたマイルズ初のコロンビア盤レコード『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』の中身全六曲は、マイルズがプレスティジと契約していた時期に録音された。いちばん有名なアルバム・タイトル・ナンバーは、1956年9月10日録音。同年10月にマイルズはいけしゃーしゃーと同じ曲をまったく同一アレンジでプレスティジに録音。さすがのプレスティジもそれは1959年までリリースしなかった(『アンド・ザ・モダン・ジャズ・ジャイアンツ』)。

 

 

そりゃそうだろう、コロンビアにマイルズ・クインテットが録音し、1957年にアルバム『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』の一曲目となって発売されたそのヴァージョンは当時から評価が高く、特に出だしからハーマン・ミュートを付けて吹くマイルズのデリケイトな表現が話題になって、この人のイメージを決定づけて、マイルズ・デイヴィスとはどんなジャズ・トランペッターなのかというのを象徴する代名詞となったものだから。

 

 

プレスティジにだって同様の繊細でフェミニンなハーマン・ミュート表現(ことにバラード)で立派なものをたくさん残しているマイルズだけど、コロンビアの「ラウンド・ミッドナイト」こそが代名詞になったのはあたりまえだ。もちろん資本力が違うから世間への普及度が違うという面もあるんだけど、それ以上に、プレスティジにマイルズが録音したそれらは、コロンビア移籍後に発売されたわけだから。

 

 

そんなわけでマイルズといえばハーマン・ミュートできわめて繊細なプレイを聴かせるトランペッターというステレオタイプ・イメージは、コロンビア盤『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』の一曲目でこそ決定づけられたものにほかならない。そのヴァージョンの音楽性について、いまさら僕が重ねる言葉はほぼないだろう。

 

 

問題は、その〜、その「ラウンド・ミッドナイト」は、1955年7月17日のニュー・ポート・ジャズ・フェスティヴァルでマイルズが吹いたこの曲の演奏を現場で聴いたコロンビアのジョージ・アヴァキャンがそれに感銘を受けて(?)専属契約をマイルズにオファーしたと世間で言われているこの話の、どこまでが本当で、どこまでが、良く言えば伝説、悪く言えばウソ話なのかということだ。

 

 

上で Spotify のリンクを貼ったので、1955年7月17日、ニュー・ポートでのマイルズによる「ラウンド・ミッドナイト」をまだご存知ないかたはお聴きいただきたい。このアルバムには、当日三曲やったなかからそれ一曲しか収録されていないし、また同じライヴの「ラウンド・ミッドナイト」は、いろんなほかのアルバムにも収録はされているのだが、スタジオ・ヴァージョンと比較するなら、この『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』のレガシー・エディション(2005)がいちばん容易だと判断した。

 

 

1955年7月17日、ニュー・ポートでのマイルズは、まずハーマン・ミュートをぜんぜん使っていない。伴奏のピアノは作曲者セロニアス・モンク自身で、ベースがパーシー・ヒース、ドラムスがコニー・ケイ。この日の三曲のうち、ほかの二曲ではズート・シムズのテナー・サックス、ジェリー・マリガンのバリトン・サックスも入るけれど、「ラウンド・ミッドナイト」はワン・ホーン・カルテットで演奏している。

 

 

しかもなんだかダラダラと締まりのない演奏ぶりで、スタジオ録音ヴァージョンに強く漂っている緊張感が、ない。こんな程度の演奏をコロンビアのジョージ・アヴァキャンが聴いて、それで専属契約を申し出るとは到底思えないから、やはりかの伝説は、やはりかなりな程度まで作り話だったに違いない。そう踏んで間違いないと僕は思う。

 

 

そして話を作ったのがコロンビアのジョージ・アヴァキャンだったというのは言うまでもないことだ。どうしてそんな話を作って伝説化したのか?も、わりと理解がたやすいように思う。マイルズ初のコロンビア盤レコードの一曲目に「ラウンド・ミッドナイト」を置き、アルバム題も『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』にして、それで行くと決めたわけだから、売り出し文句にくっつく経緯というか、まあ伝説みたいなものが必要だったのかもしれないよね。マイルズの同社でのファースト・アルバムだったんだから。

 

 

ジョージ・アヴァキャンが考えたマイルズ売り出し文句(キャッチ・コピー)が「卵の殻の上を歩く男」というもので、まさにあの「ラウンド・ミッドナイト」におけるマイルズのハーマン・ミューティッド・ソロをうまく形容している。つまり、アヴァキャン(コロンビア)としては、「ラウンド・ミッドナイト」をこそアピールしたかった。

 

 

だから、さしづめコロンビアはこう言いたかったんだろう 〜〜

 

 

我が社がこのニュー・スターを見初めたのは1955年のニュー・ポート・ジャズ・フェスにおいてでございます。そのときマイルズはモンクの「ラウンド・ミッドナイト」をこんなふうにハーマン・ミュートを付けて吹きまして(そう、そう喧伝されていて、いまだにそれがこびりついているのだが、ぜんぜんミューティッドじゃない!)、こんなような繊細なバラード演奏を聴かせたのでございます。我が社発売のマイルズのレコード『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』の一曲目がまさにそんな演奏なのであります。

 

 

〜〜 というような感じで宣伝したんじゃないかなあ。実際には1955年7月17日に三曲やったニュー・ポートでのマイルズはどの曲でもハーマン・ミュートは使っていないし、そうでなくたってまったく違った様子のだらしない演奏なもんだから、 VOA(ヴォイス・オヴ・アメリカ)が録音した当日のテープを、コロンビアはなっかなか発売しなかったんだぞ。

 

 

ブートレグでなら聴けたんだけど、それも CD 時代になってからだ。コロンビアが公式に1955年7月17日のマイルズ「ラウンド・ミッドナイト」を発売したのは、なんと2004年のことだったんだよね。一度リリースして話がウソだったと白日のもとにさらされて伝説が崩壊したら、あとは堤防が決壊したかのごとくコロンビア(レガシー)は何種類ものアルバムに収録し発売している。

 

 

マイルズは1991年に亡くなったけれど、しかしそれでもコロンビアがそれを公式発売できたのは2004年だったんだよね。1955年のニュー・ポートでの「ラウンド・ミッドナイト」といえば、マイルズとコロンビアのそもそもの馴れ初めだから、時間が必要だったんだろうね。しかもさらに、この<馴れ初め>だったというのも、たぶんウソ。

 

 

だってさ、聴いたでしょ、あのだらしない「ラウンド・ミッドナイト」を。あれを聴いてコロンビアみたいなメジャー・レーベルが専属契約しようと判断できるとは思えないんだけどね。いったいコロンビアのジョージ・アヴァキャンはマイルズのどこに可能性を感じたのだろう?チャーリー・パーカーのバンド・レギュラーだったあたり?1948年の例の九重奏団によるロイヤル・ルースト出演とその後のSP盤?

 

 

この点にかんしては僕はいまだによくわからない。1955年以前のプレスティジ盤レコードにもチャーミングな演奏をするマイルズが複数あるから、そのあたりからジョージ・アヴァキャンは、こいつは将来大きく羽ばたくぞ = コロンビアにお金をもたらすぞと判断したのかなあ?あるいは55年7月17日のニュー・ポートでのあんな「ラウンド・ミッドナイト」にも、プロの目利きは才能を感じるものなんだろうか?

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