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2018/03/03

フェイルーズとジアードのアラブ&ジャズ・フュージョン(4)

フェイルーズの1987年発表作『愛しきベイルート』(Maarifti Feek)。僕が持つのはオルター・ポップ盤(というか輸入盤の日本仕様ってやつで、本体はギリシア EMI 盤だけど)なので、ジャケットはこれになる。ライスからリリースされたものはジャケットも曲順も違い、上の Spotify にあるものと同じみたいだ。そっちがオリジナル?そのへん僕は知らないので、どなたか教えてください。

オルター・ポップ配給の『愛しきベイルート』は全16曲だが、12曲目以後、録音状態も音楽的にもあらかさまに変化する。どう聴いても11曲目までとは違うよなあと思って日本語解説文を読むと、その12〜16曲目はオリジナルの『Maarifti Feek』にあったものではなく、88年リリースの『Chat Iskandaria』収録のもので、どうやら1960年代にラハバーニ兄弟と組んでやっていたころの録音だとのこと。

それら五曲も気軽に楽しめばいいとは思うんだけど、11曲目までの『愛しきベイルート』オリジナル分には、はっきりしたプロデュース意図があって、歌手フェイルーズもこういったことを歌いたいという鮮明な気持ち、いわばコンセプトを僕だって聴くと感じる。だから、いわばボーナス・トラックみたいな五曲のことは今日は外して話をしたい。

すると全11曲、というか11トラックでトータル再生時間たったの39分間。短いようだがかなり濃密なので、お腹いっぱいになってしまう。『愛しきベイルート』のプロデューサーも息子ジアード・ラハバーニだけど、録音は1983年ごろに終了していたらしい。まだ元夫のアッシ・ラハバーニは生きている時期だけど、離婚を機に音楽面でもコラボレイションは解消されたようだ。

音楽内容的には『愛しきベイルート』がフェイルーズの真の輝きのラストだったと見ていいのかなあ。まだそんなに高齢でもなかったけれど、どうもその後は歩みの速度が急激に落ちた。ライヴ・コンサートなどはヨーロッパでも盛んにやって大きな会場を満員にして聴衆を魅了するものの、新作アルバムにそんな魅力が薄くなっている。

『愛しきベイルート』がフェイルーズ最後の傑作だったとして、その後の音楽創造意欲が急落下したとするならば、このアルバムで聴ける内容にその答えがあるように思う。それは故国レバノンとベイルートを取り巻く状況の著しい悪化だ。内戦の銃砲がやまず、一般民衆は苦しむばかりというのを目にして、レバノンとアラブ音楽世界を代表する存在であるフェイルーズは強く悩み心を痛め、それを音楽に込めて『愛しきベイルート』で歌い込み、それでその後は沈黙に近い状態になってしまったのだと、そう考えることもできる。

5、6トラック目と連続で出てくるアルバム・タイトル・ナンバー「Maarifti Feek」。6トラック目はリプリーズでインストルメンタルだし、まるで違う曲みたいなものがたったの一分程度であっという間に終わってしまうので、5トラック目だけに絞ると、ちょっとトーチ・ソング(失愛歌)みたいに僕には聴こえる。歌詞のアラビア語聴解能力がゼロの僕だから怪しいもんだけど。

それは男女関係を歌ったものかもしれないが、ダブル・ミーニングで歌手とレバノン、ベイルートとの関係をも織り込んでいるのかもしれないよなあ。しかもその五曲目「Maarifti Feek」はかなりジャジーだ。そもそもアラブ歌謡だという趣はほぼなくて、ふつうのユニヴァーサルなポップ・ソング、あえて言えばシャンソンとかジャズ・ソングとか、そういったものに近いメロディやコードやリズムの動きかただ。

ゆったりとフワフワ漂うようなテンポで、リズムはまったく快活じゃなく、しかしジアードのペンになるオーケストラとリズム・セクションはゴージャスな雰囲気で演奏する。たった三分もないけれど、そこにドラマ性を感じることができる。途中で一ヶ所、1:31〜1:39 でフェイルーズと伴奏のピアノ(はたぶんジアードが弾いているんだろう)がわざと音を外しているかのように不協和な響きになるところがある。ジャズでいうスケール・アウトしているような動き。それは二回リピートされ、三回目は外れていないので、なんらかの意図があって故意にやっているんだよなあ。小さく弱く四回目もある。

音を故意に外すことによって、歌手と伴奏者の不安感が強調されていると僕は思うんだよね。音楽家側の不安な気持ちを表現すると同時に、聴き手の側もちょっと心が揺れるんだ。あれっ、これ、どうしたんだろう?って。だからフェイルーズとジアードは、愛するもの(人、国、都市)を失いつつあるその状況、メンタリティ、不安感を、そんな外れた音、スケール・アウトがもたらす不協和に込めたってことかもしれないなあ。

七曲目のタイトルがそのまま「Li Beirut」だけど、このメロディはスペインのホアキン・ロドリーゴの書いた「アランフエス協奏曲」第二楽章アダージョをそのまま使っている。旋律の動きだけで十分孤独感や寂寥感が伝わってくるものだけど、だからジアードもフェイルーズもこれを選んだのかもしれない。アラビア語の歌詞はジアードが書いたのだろうか?聴いても意味はわからないが、ベイルートの戦禍を嘆き平和があらんことをという内容なのだろうか?どなたか、アラビア語がおわかりのかた、教えてください。

しかしこれら「Maarifti Feek」「Li Beirut」以外の曲には、快活さと言えないが激しさもある。打楽器(ドラム・セット&パーカッション類)が強くビートを刻み、ときにそれはインストルメンタル・ナンバーだったりもするけれど、フェイルーズも強い調子で、決してフワフワせずにしっかりと歌いこんでいるよね。

その強いヴォーカル表現には、嘆き、悲しみと裏腹の怒りみたいなものが感じられるよね。それでも声の美しいなめらかさが失われていないのも素晴らしい。シルク・スムースななめらかさを保ったまま、そこに以前よりも強い激情、怒りを込めて炎をゆらめかせ、歌で表現している。

そんなヴォーカル表現の輝きは、やはりこのあと1990年代以後は弱くなっているかもしれないので、この『愛しきベイルート』がフェイルーズの最後の傑作だったということになるのだろうか?

アルバムの特に十曲目「Oudak Rannan」ではエレベのスラップ音まではっきりと聴こえるというかフィーチャーされているような使われかたで、しかしながら曲じたいは古典的なアラブ歌謡ふうのもの。アラブの楽器もたくさん使われているし、フェイルーズの声もこの曲での表現が最も素晴らしい。全体的には欧米音楽にかなり寄っている『愛しきベイルート』のなかではやや異色だが、この一曲がアルバムでいちばん素晴らしいと僕は思う。

その十曲目「Oudak Rannan」の最終盤では、打楽器の強い乱打に混じっているのでわかりにくいが、機関銃を乱射する音が挿入されている。そこまで特にそんな予兆はないし、「Oudak」とあるのでたぶんこれは弦楽器ウードのことを歌っているものなんだろう。実際、その音は目立っているしね。だから最終盤での機関銃乱射の音は脈絡なく唐突に入っているようなものだ。

しかしこんな、曲じたい強く激しいグルーヴを持つアラブ歌謡の「Oudak Rannan」の最終盤でそんな音を挿入するのだけでも、フェイルーズとジアードの込めた(裏の)意味、意図が鮮明に読みとれるじゃないか。パーカッションの乱打音と混合させているのは、もちろん故意にやっているんだろう。

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