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2018/03/18

悲哀と沈痛の音色 〜 ブッカー・リトル

 

 

ブッカー・リトルのベスレヘム盤『ブッカー・リトル・アンド・フレンド』。大学生のころに好きで聴いていたレコードはこういうジャケット・デザインとアルバム・タイトルじゃなかったような気がするけれど、ネットで調べても判然としないのでしょうがない。でも当時からの記憶がいまでもハッキリとしているのは、アルバム・オープナーが哀切感に満ちた「イフ・アイ・シュド・ルーズ・ユー」…、だったはずなんだけど…。

 

 

ところがどのリイシュー CD でも Spotify にあるのでも『ブッカー・リトル・アンド・フレンド』の一曲目は「ヴィクトリー・アンド・ソロー」で、「イフ・アイ・シュド・ルーズ・ユー」は四曲目。おっかしいなァ〜と思って調べてみると、このバラード(ふうの曲)は B 面の一曲目だったようだ。ってことは僕はこのレコード、B 面ばっかり聴いていたのかなあ?

 

 

僕の持つ『ブッカー・リトル・アンド・フレンド』CD は日本コロムビアが1993年にリイシューしたもので、これを買う当時、僕はあの切々たる「イフ・アイ・シュド・ルーズ・ユー」をもう一回聴きたいと思うものの、上記のようにアルバム名とジャケット・デザインを忘れていて、どこかの CD ショップ店頭でうろついて、あっ、このアルバムにその曲が入っているからたぶんこれじゃないかな、と思ってレジに持っていったのだ。

 

 

以前から書いているが、僕がアルバム全体を一続きのものとして連続再生するようになったのは CD時代になってからのことで、それ以前はレコードを片面再生し終わったら別のアルバムをかけていた(というジャズ喫茶の習慣がなかなか抜けなかった)。いまでも CD 複数枚でできているアルバムを連続再生することはあまりないんだ。iTunes と Spotify で聴くときだけが例外かもしれない。

 

 

そんなことで、ネット情報を漁っても『ブッカー・リトル・アンド・フレンド』のアナログ・レコードはどれもぜんぶ「イフ・アイ・シュド・ルーズ・ユー」が B 面一曲目だったようなので、きっと僕はこのアルバムの B 面しか聴いておらず、その印象がかなり強かったってことなんだろう。あるいは A 面と書いてあるところに B 面相当分が収録されているなんていうミスもむかしはあったことだけど。

 

 

とにかく『ブッカー・リトル・アンド・フレンド』は、CD や Spotify にあるものでの四曲目になるスタンダード・チューン「イフ・アイ・シュド・ルーズ・ユー」(If I Should Lose You) が最高なんだ。この曲題だけで、どんな歌なのかご存知ないかたも想像できることと思う。それを、ブッカー・リトルはまるで歌詞をそのまま歌っているかのようなフィーリングで吹いている。も〜う、大学生のころから僕はそれの虜なんだよね。

 

 

特に音色だよなあ。ブッカー・リトルしか持っていなかった(ちょっぴりチェット・ベイカーも?)この独特の暗く湿った哀切感あふれるくぐもったような翳ったサウンド。どうやればトランペットでこんな音色が出せるのか、吹いたことのない僕にはサッパリわからないが、同じような音色を持つ存在がほかにほぼひとりもいないことだけはわかっている。

 

 

しかもこの「イフ・アイ・シュド・ルーズ・ユー」ではブッカー・リトルだけが吹いていて、編成はピアノ・トリオが伴奏するだけ。ブッカー以外はピアニストもだれもソロをとらず、ブッカーひとりが哀感に満ちた暗い音色で、このバラード(?)を切々と吹いている。フレイジングも同じ。この曲の歌詞を考えれば、これ以上ピッタリくるフィーリングでこのスタンダード曲を演奏したり歌ったりしたミュージシャンはいないはずだ。

 

 

レコードでの B 面相当分ではほかの三曲でも、あ、いや、リイシュー CD で初めて自覚的に耳に入れた A 面相当分でも、ブッカー・リトルのトランペット・サウンドには暗い哀切感がある。そんな音色でもって、「イフ・アイ・シュド・ルーズ・ユー」以外はぜんぶブッカーのオリジナルである、決して明るくなく躍動的でもないような、暗い部屋でよどんでいるような曲を、淡々と吹くんだよね。

 

 

アルバム・ラストの「マティルド」(はマチルダの変形名だろう)では、ほかの曲同様トロンボーン奏者とテナー・サックス奏者が参加しているがアンサンブル部分だけでのことで、ソロはブッカー・リトルしかとっていない。この「マティルド」も悲しそうというか沈痛な雰囲気だ。トランペット・ソロもそうだし、ブッカー自身による三管とリズムのアレンジもそうじゃないか。

 

 

アルバム『ブッカー・リトル・アンド・フレンド』では、これら「イフ・アイ・シュド・ルーズ・ユー」と「マティルド」が異様に(鈍く暗く)輝いていて、いったいこの1961年夏(としか判明していない)このベスレヘムへのレコーディング・セッション近辺でなにがあったのか?ブッカーはどうしたんだ?この数ヶ月後に尿毒症にて若くして亡くなってしまうのを、死が間近であるのを、自覚していたのか?と思ってしまう。

 

 

アルバムのほかの曲でも、たとえば一曲目「ヴィクトリー・アンド・ソロー」のテーマ演奏部のサビではアフロ・キューバンなラテン・リズムを使っているのだが、陽気さとか快活さとはおよそほど遠いものだ。ただ三管アンサンブルといいリズムといい、作編曲者としてのブッカー・リトルの腕前は、この1961年夏に成熟していたということが間違いなく言える。テンポの自在な変化、リズムの使い分け、それに応じたホーン・アンサンブルの出入り、緩急のつけかたなども見事だ。

 

 

そうだけれど、僕としてはブッカー・リトルのあの独特の哀切感あふれる沈痛な音色に魅力を感じ聴き入ってしまうので、そこにこそ、このジャズ・トランペッター最大の美点があると信じているので、クリフォード・ブラウンの継承者的位置付けと期待されていたとか、ハード・バップ語法の爛熟期にデビューし、その限界を知り、新たなる表現に取り組んだ(結果、エリック・ドルフィーに出会った)とかっていうことは、眼中にないんだよね。まあでも一つの時代の終わり(と自身の死?)にあって、その暮れていくフィーリングをも、そのトランペット・サウンドでよく表現できているなという見方もできる。

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