マイルズと公民権運動 〜『’フォー’&モア』の真実
1964年2月12日のニュー・ヨークはリンカーン・センターにあるフィルハーモニック・ホールのステージに立ったマイルズ・デイヴィス・クインテット。2セットで計13曲14トラック(クロージング・テーマが二回)やったなかから、当時、二枚のレコードが発売された。発売順に1965年5月の『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』、翌66年1月の『’フォー’&モア』。
この二枚に分けた目論見は当時からみんな知っていることなので書くことはない。スロー・バラード中心の『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』のほうではあまり聴けないと思うんだけど、ファスト・ナンバー中心の『’フォー’&モア』にはかなり猛々しいようなフィーリングがあるよね。これもみなさんご存知のとおり。
『’フォー’&モア』のあの猛々しさやパワー、英単語の fierce っていうのがピッタリ来るあの感じを、たんに純音楽的なものだと考えてはいけないのかもしれない。あれには社会時代背景があるんだ。1964年2月のパフォーマンスであることを踏まえれば、もうだいたいのかたが想像できるはず。そう、公民権運動の真っ只中、ちょうどその熱がピークに達していたあたりでのライヴ・コンサートだったんだよね。
マイルズがふだん政治や社会やいわゆる black lives matter にさほど深い関心がないかのように音楽にのめり込んでいたのは、表面的にそう装っていただけで、もちろん黒人差別を我が身で体験している。1959年夏のバードランド殴打事件なんかが最有名かな。休憩に出たクラブのすぐ外で、白人警官に、なんの理由もなく警棒で頭を殴られて激しく出血、病院行きとなり、裁判で最終的に勝利するまで二年かかっている。
こんなのは氷山のほんの一角で、あの世代のアメリカ黒人ならみんな体験していたことだ。ある時期以後は音楽内容そのものや、曲題、アルバム題などでも<直截的に>人権意識高揚や差別問題告発などをやるようになったマイルズだけど、1960年代末ごろにソウルやファンク・ミュージックに接近するまでは、あんなに音楽的に直截ってことはあまりなかったのだ。一部例外を除き。
その例外が『’フォー’&モア』(と『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』も入れるべきか?)なんだよね。この1964年2月12日の2セットのコンサートは、忘れられつつあるが、マイルズによるベネフィット・コンサートだったんだよね。もちろん公民権運動を支持し、それを推し進める団体とその活動に資金供与するための慈善活動として行われたコンサートだったんだよ。
正確には主催者側がマイルズに話を持ちかけて、この黒人音楽家が了承したベネフィット・コンサートだった。だいたい(当時の名称)フィルハーモニック・ホールはリンカーン・センター内にあるよね。これはマンハッタンのリンカーン・スクエアに建設されたのが直接の命名由来だけど、そもそもそのリンカーン・スクエアが、あのエイブラハム・リンカーンにちなんで付けられた名前だ。
1964年2月12日のマイルズ・バンドによるフィルハーモニック・ホール公演は、NAACP(National Association for the Advancement of Colored People 黒人地位向上協会)、CORE(Congress of Racial Equality 人権平等会議)、SNCC(Student Nonviolent Coordinating Committee 学生非暴力調整委員会)の三団体が共同でやっていた、ルイジアナとミシシッピの黒人有権者登録を推し進めるための基金活動への資金供与が目的だったんだよね。
あの日のフィルハーモニック・ホール公演、場所も場所だけにチケットも高額で、一枚(当時の金額で)50ドルもしたらしい。だから本来だったらマイルズと四人のバンド・メンに支払われる報酬も悪くなかったんだろうと思うんだけど、企画に賛同したマイルズはその報酬全額(つまり、1964年だから、かなりの額)を上記基金へ寄付すると決め、なんと四人のサイド・メンにも同じことを要求した。
要求というか、そもそもボスがその権利を握っていわけだから、四人はなにも言えなかったはずだ。しかもですよ、マイルズ本人は寄付することをあらかじめ了承した上でコンサート出演をオーケーしたのだが、ほかの四人は、当日会場に到着してはじめて報酬が与えられないと告げられた。
これで、ステージに上がる前にマイルズと四人のサイド・メンのあいだで一悶着、どころか大喧嘩があったそうだ。そりゃあそうだよね。ボスはすでに大物だから問題なかったかもしれないが、ジョージ・コールマン、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムズは、まだデビューして年月の経っていない新人の部類だったから、仕事の量も報酬もそんなに大きなものじゃなかったはず。
だからフィルハーモニック・ホールみたいな超大舞台でやれるとなったら、お金もたくさんもらえるんじゃないかと期待した可能性が高いと思う。それなのに、マイルズは部下には一言も告げず了解も得ずに、五人全員の寄付行為を決めてしまったんだよね。このことを当日の会場に到着してからサイド・メンに告げて、さらに、この条件を飲まないと自分のバンドにはいられないぞと迫った。
全員がもう会場に到着していて開演が間近なんだから、拒否したらコンサート開催じたいが危ぶまれることになってしまう。ボスの顔を潰さないためにも(あるいは公民権運動をサポートしたい考えに共鳴もして?)四人はおそらく泣く泣く了解し、フィルハーモニック・ホールのステージに上がったんじゃないかなあ。内心、怒ってんだぜ、マイルズ、コノヤロー!金くれー!と思っていたかもしれないよ。
想像するに、アルバム『’フォー’&モア』で聴ける急速テンポの曲にあるあの獰猛感、スリル、強い緊張感、丁々発止のやりとり、そういったものの大きな部分が、このマイルズの報酬寄付行為と、開演直前になってそれを強要されたバンド・メンのあいだに飛び交った(かもしれない)fierce なメンタリティに起因するんじゃないのかと思う。
1964年2月12日の2セットから急速ナンバーばかりをピック・アップして並べたアルバム『’フォー’&モア』の、あの荒れ狂ったようなハードな演奏には、そういった演奏者たちの内心から湧き出た、それでもやっぱり音楽そのものの持つパワフルさがあるじゃないか。公民権運動の真っ只中で、黒人たちが拳を突き上げて「われわれは立ち上がる!」と強く叫んでいる、あのフィーリングが、「ソー・ワット」にも「ウォーキン」にも「フォー」にもある。
特に「フォー」だよなあ。レコードだと B 面トップだったこの曲、プレスティジ時代に二度スタジオ録音していて、二回目のほうはファースト・レギュラー・クインテットによるもの(『ワーキン』収録)だが、この日のライヴ・ヴァージョンは、もっとずっと強く激しい高揚感に満ちている。ある意味、マイルズのアルバム『’フォー’&モア』における公民権運動サポートのシグネチャーに聴こえるよなあ。
だから、レコード発売時にプロデューサーのテオ・マセロや会社コロンビアも、「フォー」をアルバム題に出して、『’フォー’とその他』というタイトルにしたんじゃないかと、僕は2018年になっていまごろようやく気づいたんだけど、こんなに鈍感なのって僕だけなんだよね、きっと(^_^;)。
ちなみに、マイルズ・クインテット、1964年2月12日のフィルハーモニック・ホール・コンサートをフル・セットでプレイリストにしておいたので、興味のあるかたはご参照あれ。これは CD だと2004年リリースの七枚組ボックスでしか聴けない。
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