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2018/05/18

激しい雨が降る、京都、1964 〜 内のマイルズと外へ行くサム・リヴァーズとつなぐトニー

JAL のファースト・クラスで来日した1964年7月のマイルズ・デイヴィス。各都市のホテルからコンサート会場までのすべての移動も空調の効いたリムジンで。この事実だけでもいかに特別待遇だったかがわかろうというもの。このときはマイルズ・バンドの単独公演ではなかったのだが、日航のファースト・クラスに乗ったのはマイルズだけ。マイルズ・クインテットのサイド・メンだって席は別だった。いっしょに来日した妻のフランシスは、情報が見つからないが、たぶんマイルズの隣だったんだろうけれど。

1964年7月のそれがなんだったのか、なにかのフェスティヴァルみたいなもんなのか、ずいぶん以前(大学生のころ??)に読んだ気がするけれど、いざ今日記しておこうと思って調べても情報が出てこないのが悔しい。どなたかご存知のかたがいらっしゃると思いますので、どうか教えてください。

いまの僕にわかっていることは、アメリカ人ジャズ・ミュージシャンたちによるその1964年日本ツアーは、マイルズ・バンド以外に、伝統派のクラリネット奏者エドモンド・ホール、歌手カーメン・マクレエ、それからなんとウィントン・ケリー・トリオ with ポール・チェインバーズ&ジミー・コブ(!!)がいっしょだったということ。彼ら以外にいたかもしれないが、やはりわからない。

ともかく今日の話題はマイルズ・バンド。この初来日時にはサックス奏者だけ交代していて、サム・リヴァーズがテナーを吹いている。前任のジョージ・コールマンがやめたのは1964年の3月か4月。例のニュー・ヨークはフィルハーモニック・ホール公演が2月だったので、すぐあとというに近いタイミング。

ジョン・コルトレインの推薦だったジョージ・コールマンは、このひとの力量を考慮すればマイルズ・バンドでの吹奏は大健闘だと思うんだけど、当時のバンド・メン、特にトニー・ウィリアムズは好きじゃなかったらしい。このニュー・バンドは、結成後しばらくして、まだ10代だったこのドラマーを中心にまわるようになったので、彼が気に入っているかいないかは大きな問題だった。

スタジオ録音盤『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』やその後の一連のライヴ・アルバム・シリーズでおわかりのようにコールマンは守旧派で、コードやスケールのなかから一歩も外へ出ない。そこが、たぶんトニーは好きじゃなかったのかも。ボスのトランペットだってだいたいそうなんだけど、さすがに雇い主のスタイルには好き嫌いを言えなかったということか?サウンドはマイルズだって鋭いし。

トニーのそんな嗜好は、彼自身がブルー・ノートに残したリーダー作品を聴けばよくわかる。そしてたとえば『ライフ・タイム』にも『スプリング』にもサム・リヴァーズが参加している。録音はどっちもマイルズ・バンド1964年7月の初来日よりもあとだけど、だいたいああいったのがこのころのトニーの好む音楽だった。すなわち、無機質でアヴァンギャルド。

保守的で情緒的なコールマンを、トニーが直接イビったりはしなかったと思うけれど、コールマンのほうが自主的に、つまり忖度して、バンドのボスのトニー愛も考慮した上で、自ら辞表を提出することとなった。このことは後年コールマン自身も明言していて、クビじゃなくて自分から出たんだという、嫌われていたからという、この言葉はそのとおりだったと僕は思っている。

そんなわけで次のサックス奏者は当然のようにトニーの推薦を聞くということになって、同郷マサチューセッツはボストン出身ということもあり、サム・リヴァーズになった。また、このころエリック・ドルフィーをマイルズが起用したがっているという噂が流れたのをこのトランペッター本人がかなり嫌がって、それを打ち消す意味もあって、ちょっぴり前衛的なサム・リヴァーズを選択。

サム・リヴァーズがマイルズ・バンドの一員になったのは1964年の4月。コールマンが辞めてもクラブ・ギグなんかは立て込んでいたので、あいだを置かずにそうなったけれど、リヴァーズが参加しているマイルズ・バンドの録音は、公式でもブートレグでも、1964年7月の来日公演のものしかない。それを終えて8月に帰国すると即、というタイミングでウェイン・ショーターに交代した。

エリック・ドルフィーにかんしては上で名前を出したけれど、実際マイルズはそのプレイ・スタイルが好きではなく、しかしトニーがエリックのことを気に入っているということはボスも知っていたし、またエリックはなんたってコルトレイン(のことをマイルズは終生忘れなかった)がライヴ共演するほどのお気に入りだったともわかっていた。トニーはオーネット・コールマンのファンでもあった。

ジョージ・コールマンが辞めたとき、トニーはマイルズに向けて本当にエリック・ドルフィーの名前を出したとのこと。だが、ボスはまったく一顧だにせず。マイルズもトニーもいちばんのチョイスは前からウェイン・ショーターだったけれど、ちょうどアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズで音楽監督役だったので、まだ引き抜きはむずかしかった。

それでサム・リヴァーズになったというわけだね。上述のとおり、1964年の日本公演分しか録音がないリヴァーズ在籍時代のマイルズ・バンドだけど、現在聴けるのは以下の三日分。

7月12日 日比谷野外音楽堂
7月14日 新宿厚生年金会館
7月15日 京都円山公園野外音楽堂

コンサートはこれら以外の都市でも開催された可能性が高い。といっても客観的な資料はなく、マイルズ当人やカーメン・マクレエなどの記憶、そのほかから推測してのことだけど、7月13日に大阪でコンサートがあったのは間違いないんだろう。Nagoya という文字が見えることがあるので、名古屋でも一夜があった可能性があり。そうだとして、おそらくこれら五回でぜんぶだったんだろうと推測できる。

聴ける三夜分の音源は、7/14の新宿公演がコロンビア盤『マイルズ・イン・トーキョー』となって1969年に公式発売された。残る二日分は、現在 CD 二枚組『ジ・アインイシュード・ジャパニーズ・コンサーツ』という Domino Records 盤になっているのが最も入手がたやすい。ブートレグだけど、アマゾンでふつうに売っている。
これら三日間はすべて日本のラジオ局が録音したもの。コロンビアの公式盤もブート盤もラジオ放送(のための)音源がソースだ。『マイルズ・イン・トーキョー』はニッポン放送の実況録音で、ブート分は不明。いまだ商品化されていない大阪分や名古屋分も、ひょっとしたら録音テープがあって倉庫に眠ったままの状態なのかもしれない。なんだかそんな気がするんだよね。

周辺情報だった。

さて、サム・リヴァーズがマイルズの雇った全サックス奏者中図抜けて前衛的で、バンドとは、特にボスとは、水と油みたいだったというのが定説みたいになっているが、はっきり言って間違っている面もある。トニーが前衛ジャズ好きだったと書いたが、ウェイン・ショーターに交代後のライヴ録音を聴けば、かなりとんでもないことになっていることも多いからだ。

その証拠を二つだけ示しておこう。1965年12月のシカゴはプラグド・ニッケルでのライヴ(これはアンソロジーのほうにしておいた)と、1967年10、11月の欧州公演(はボックスしかない)。マイルズはいつもとさほど違わない演奏だけど、ウェインとトニーが暴発している。

1965年プラグド・ニッケル
1967年欧州公演
こういったものに比べたら、1964年のサム・リヴァーズ(とトニー)はまだおとなしいほうに聴こえるよなあ。そして1965年のシカゴでも67年のヨーロッパでも、暴発しているのがサックスとドラムスなのでもおわかりのように、1964年日本公演で激しい雨が降ったとするならば、それもやはりサム・リヴァーズとトニーによる共闘だったんだよね。

なんどもしつこいようだけどマイルズは構築型の音楽コンセプトの持ち主で、スタジオ録音ではいつもこれを徹底し丁寧に創り込み、ライヴ・コンサートでは必ずしもこの限りではないこともあるけれど、それでもあまりに強く崩壊型に向かいすぎるのはやはり避けていた。

そんなところ、1964年7月12、14、15日分と日付順に聴き進むと、なかなかおもしろいこともわかってくる。14日の新宿公演分は公式発売されているので Spotify にあるのをいちばん上でご紹介しておいた。それ以外の二夜は、12日の日比谷公演が見つからないものの、15日の京都公演がネットにあったので貼っておく。
12日の日比谷ではサム・リヴァーズもまだおとなしい。生演奏機会はこれがマイルズ・バンドで初のものじゃなかったはずだけど、みんなにすこし遠慮しているように聴こえる。ボスのトランペットはいつもどおりのマイ・ペースで変化なし、っていうか、だいたい1964年のどのコンサートにおけるマイルズのソロも様式化されていて、悪く言えば変わり映えしないのだ。

ぜんぶの曲で二番手でサム・リヴァーズのテナー・サックス・ソロ、三番手でハービー・ハンコックのピアノ・ソロとなっているが、笑っちゃうのはハービーのソロだ。リヴァーズはおとなしいといってもああいったスタイルのサックス奏者だから、しばしばスケール・アウトし、フリーキー・トーン(こそマイルズの嫌ったもの、エリック・ドルフィー関連で)も出す。背後でそれをトニーがあおる。だから続くハービーも刺激されていることがあるんだよね。

12日の日比谷でも「ソー・ワット」「ウォーキン」といったハード・ブロウ・ナンバーでそれが顕著だ。いっぽうバラード「ステラ・バイ・スターライト」はあくまでリリカルにやりたいマイルズなので、本人は、あのフィルハーモニック・ホールのヴァージョン(『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』)と同じようにきれいに吹いている。伴奏のハービーもそう。

そしてサム・リヴァーズもあくまでそんなボスのリリカル志向にあわせるかのように、落ち着いたフィーリングで美しくサックスを吹いているんだよね。この12日の「ステラ・バイ・スターライト」でのリヴァーズは、それでもたまにアウトしかけているけれどすぐに戻り、音色も外さず、フレイジングに情緒感は薄い抽象的なものだけど、それでもそこそこマイルズ好みの演奏だったかもと思う。

「ステラ・バイ・スターライト」は15日の京都でも演奏されているので聴き比べたいのだが、12日ヴァージョンと大きな違いはない。特にボスのトランペットは、上でも書いたがいつも同じになるような様式化されたもので、だからそんな二つ聴かなくてもいいのかも。つまらんといえばたしかにつまらん。でも京都ヴァージョンのほうが、トランペットの音がより強く、フレジンングにもやや力が入っているのかなと聴こえる。

続く二番手サム・リヴァーズの演奏は、しかし12日の日比谷ヴァージョンと大きく異なっているのだ。スケールの外側へどんどんハミ出して、音色も通常のものからアウトして、これはなんだろう?フリーキー・トーンというのでもない、ちょっとこうグチャっていうヘンな?(これはいい意味で)サウンドだよなあ。

サム・リヴァーズがこうなるっていうのは、もちろん12日の日比谷公演からそんな傾向が若干うかがえる。しかし12、14日と二回の東京公演ではまだ抑制していたんだよね。さすがにボスに遠慮して気を遣い、あまり外しすぎないようにしたってことかなあ。でもそれじゃあ肝心のトニーはイマイチおもしろくなかったんじゃ?

ハード・ブロウ・ナンバーは、14日の新宿でもたとえば「ソー・ワット」「ウォーキン」がある。15日の京都には「ソー・ワット」がなく(残念)「ウォーキン」があって、さらに14日にもやった「イフ・アイ・ワー・ア・ベル」や、また京都でだけ演奏の「オレオ」なんかもハードな調子。

それらのアップ・テンポな曲での最大の聴きどころは、やはりサム・リヴァーズとトニーのコラボレイション。一番手マイルズのソロ背後からしてすでに激しいトニーだけど、リヴァーズのサックス・ソロになると、またすこし違ったリズムの実験をやっている。それにはロン・カーターとハービー・ハンコックも参加して、進んだり止まったり一箇所で回ったりなど、マイルズのソロ・パートでは聴けないリズムの複雑化を見せている。

続くハービーのピアノ・ソロ部ではまたメインストリームなスタイルに戻ったかのようだけど、ハービーがリヴァーズに刺激されながらも自分のペースに立ち返っているから、トニーもそれにあわせてステディな4/4ビートを刻んでいるんだよね。このドラマーは1963〜67年までライヴではいつもそうだけど、ハービーのピアノ・ソロ部でいちばんおとなしく保守的。その前までで存分に暴れたからってことかなあ。

12小節定型のブルーズ・ナンバー「ウォーキン」。この曲をこのバンドがやる際には、マイルズに続き二番手でトニーのドラムス・ソロが入るのが日常で、ほかのメンバーのソロ部でもハードに叩きまくっている。14日の新宿だと、三番手のサム・リヴァーズが、ブルーズだからアヴァンギャルドにやりやすいということか、この日、かなりアウトサイドへ踏み込んでいるのがわかるよね。特に音色というか音の出しかた。フレイジングもそうだ。

「ウォーキン」は15日の京都でも演奏されている。それを聴くと、14日の新宿がまだまだコンサヴァティヴだったのかと思えるほど。だいたい二回の東京公演では、マイルズとサム・リヴァーズが互いに歩みよっているかのようにも聴きとれるもんね。内側にとどまりたいマイルズががんばって外へ行き、外に出たいリヴァーズも遠慮して内にいようとして、それでなんとかバンド五人のバランスを保とうとしている。

15日の京都公演では、そんな一体化を目指す方向性ももはや弱くなっているよね。マイルズもサム・リヴァーズもリズムの三人もやりたいようにやり放題で、クインテットの音楽総合性では整合美を欠くけれど、だからこそ実はいちばんおもしろいのが京都公演なのかもしれない。マイルズも京都ではなんだかハードだけど、サム・リヴァーズがどんどん外側へ出て行って帰ってこない。そのせいなのか、リズム三人もポリリズミックな方向へ傾きつつある。

1964年7月15日の京都は円山公園野外音楽堂。この夜の天候は雨。ここは野外といっても完全なる屋根なしではなくカヴァード・エリアもあった。この日、マイルズ・バンドの演奏中に雨がポツポツ降りはじめ、それがどんどん激しくなって、観客のなかで避難できる人は屋根のある場所へ移動したり、傘の花が咲いたりしたそうだけど、それでもオーディエンスの大半はそのままその場でずぶ濡れになりながら聴いたのだった。

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コメント

マイルス・デイビス初来日(1964年)と「第 1 回世界ジャズフェスティバル」
http://kjfc.modalbeats.com/groovy/groovy_52.pdf#page=16

ありがとうございます。ずいぶん助かりました!

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