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2018/05/24

時流に乗らずでいこう

Unknown

「新しさは必ずなにかを与えてくれる」みたいなのがマイルズ・デイヴィスの口癖だった。制作販売側としては、そりゃあいままでと同じような商品じゃダメと考えるのは当然だ。変わり映えしなかったら買ってもらえないんだから、新しさは生存のための必須要件。そんな理由でプロの音楽ライターのみなさんも同様の発想をお持ちのよう。

だけれども、僕らのようにたんなる趣味で、個人的な楽しみのためにだけ、つまり pastime のためだけのものとして音楽を聴くという素人リスナーにとって、新しさとははたしてどれだけ意味を持つものなのか?マイルズが最愛好人物である音楽ファンの発言としては妙だなと受け取られるかもしれないが、長年にわたりマイルズを聴き続けてきたからこそ、最近、心からそう思う。新しい "だけ" の音楽に、値打ちなんか、ない。

スタイルやコンセプトが古くさくても、楽しく美しい音楽がそのままに聴こえ続けているならば、それを聴けばいいじゃないか。これが真っ当な考えかただ。無理して(無理していないひとはべつにいいけれど)新しい音楽を耳に入れることなんて、新しさを追求することなんて、ないじゃんね。そして、真に美しく楽しいものは、そう簡単にはそれが減ったり終わったりしないもんだし。

人間の生み出すものは新しくなっていくものだ、進化していくものだという、たぶんこういった一種の進化論みたいなものが、音楽文化に限らず20世紀世界を支配していたと思うんだよね。19世紀後半や末からその直後あたりのチャールズ・ダーウィンとジークムント・フロイトが、たぶん前世紀思想のかなり大きな部分をかたちづくったんだと僕は考えている。そんなことが、いわゆるポスト・モダンの時代にぜんぶご破算になったという考えかたの信奉者なんだよね、僕は。「進化する」というのは一種の巨大な幻想だという考えを持っている。

好きで聴きたい音楽の要件が「新しいこと」という趣味嗜好のかたがたは、それでいいんだと思う。それにケチをつける気持ちなど毛頭ない。僕は(そしてひょっとして多くのみなさんも)そうとは考えていない、音楽の価値は新しさにはないという個人的意見表明なだけだ。だから、言う。音楽の古い/新しいなんてことはマジでど〜でもいい。

そもそも、古い/新しいの価値判断は、いったい音楽のどこを聴いてのものなのか?時代が如実に反映される録音状態以外に、音楽のどこに「新しさ」を見い出すことができるのか?こんなことが、最近、どんどんわからなくなってきている。言いかたの問題でもあるので、古い/新しいは、美しくない/美しい、楽しくない/楽しいと言い換えるべきかもしれないが。

つまり、進化論を支持なさっているみなさんは、古い(スタイルやコンセプトなど)ものは美しくない、楽しくない、ツマラナイ、つまり端的に言って値打ちがないということの表現として「古い」という言葉をお使いなのだろう。そのばあい(マイルズもそうであったように)「新しい」という言葉は、イコール、素晴らしいとか価値が高いとか、そういう意味なんでしょ。

だからさ、そういうことを言いたいがために古いとか新しいとか、進化するとかしないとか、そういった言葉を使わないほうがいいと思うんだよね。古い/新しいは、(もとは)時代に言及しているだけの表現なんだから。音楽のばあいは、まず第一に制作年代だ。作曲作詞年、録音年、販売年のこと。

年代をさかのぼって「古く」なると、音楽の中身まで古くなるかのような見かた、聴きかたはおかしいと思うなあ。これは理屈じゃない。1910〜30年代の(ジャズやブルーズだけでなく)音楽作品が大好きで、ずっといつも聴いてきている人間の皮膚感覚なんだよね。いい音楽は古くなんか、ならない。

年代が新しいというだけで、またスタイルやコンセプトも現代的なものでも、中身の音楽がちっともおもしろくないものだってたくさんあるじゃないか。そこには「新しさ」(と一般に呼ばれるもの)だけしかなく、それ以外にはなにもない。音楽としての楽しさも美しさもない。

その逆に、1920年代のルイ・アームストロングやビックス・バイダーベックやジェリー・ロール・モートンやフレッチャー・ヘンダスン楽団や、同年代のべシー・スミスらの都会派女性ブルーズ歌手たちや、そのちょっとあとに録音したカントリー・ブルーズ・メンや、またアジア(『ロンギング・フォー・ザ・パスト』)やアフリカ(『オピカ・ペンデ』)の SP 音源集など、ああいったものの不朽の美、当時もいまでも、いつ聴いても、楽しく、心に響くものが僕の心にもたらしてくれるもの、それを考えてみたら、音楽の価値がどこにあるか、はっきりしているんじゃない?

すなわち、年代だけじゃなくスタイルとかやりかたが古くさく時代遅れになっても、そのことじたいは音楽の価値を左右しない。レコーディッド・ミュージックが伝えてくれる美しさや楽しさは、真にそういうものがそこにあるならば、それは古くならず、時代を超える。あたりまえの話ではあるんだけど、新しいものを聴かなくちゃとヤッキになって血眼で追いかけているような音楽リスナーも一部には存在するように見えているので、ちょっと書いておきたかった。

世間一般で言う「古い」音楽が色褪せて聴こえず、それを心から楽しめるならば、ムリして新しい音楽を追求することなどない。美しく聴こえ楽しめる古い音楽をずっと聴いていれば、それでいい。それは懐古趣味じゃあない。いわゆる昔は良かったね的なことでもない。音楽は、根本的に、進化・進歩しないというだけだ。

今日いちばん上で書いたけれど、しかしそれでも変わり映えしなかったら、消費者にソッポを向かれてしまうというのが実態だ。音楽家もレコード会社も営利事業だから、一部些少の愛好家がいるからといって、売れないものをいつまでもカタログに残したり創り続けることはできない。商売の姿勢としてはごくあたりまえだよね。

でも、もう古くなったから、時代遅れだからといって見向きもしなくなる音楽リスナーや専門家とはなんなのか?もっとこう、変わらない価値に重きをおいて判断し、本当に僕らの心を芯からゆさぶったり癒してくれる音楽の素晴らしさについて、声を大にして言わないといけないんじゃないの?進化・進歩しているということだけ強調して、そこになにがあるのだろう?

とにかく、新しいものを聴かなくちゃ!という発想は、ずっと前から僕にはない。いつまでも「古い」音楽を、いや、言い換えれば、心から「好きな」音楽だけを聴いていきたい。それが僕のやりかただ。クビキを捨てて、自由に生きたい。

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