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2018/08/06

グナーワ・ディフュジオンにぼくが感じていたものとはなにか

 

 

(こないだ、フランス在住のカビール音楽家アムジークのことを書いた際にぼんやり浮かんだことの続きです)

 

 

20世紀末に、新宿丸井地下ヴァージン・メガストアのワールド・ミュージック・コーナーで発見して買ったグナーワ・ディフュジオンの『バブ・エル・ウェド・キングストン』(1999)。あの当時、どうしてあんなにハマって聴きまくったのか、そのすこし前から狂い聴きしていた ONB(オルケストル・ナシオナル・ドゥ・バルベス)のデビュー・ライヴ・アルバムとともに、ぼくにとってのマグレブ音楽入門、ひいてはアラブ音楽入門だったわけだけど、いったいなんだったのか?ああいったミクスチャー・バンドはその後しぼんだように見えるのだが、それも本当なのだろうか?

 

 

マグレブ系ミクスチャー・バンドが尻すぼみになったかどうか、時流に疎いぼくにはなんとも判断できない。たしかにそうなんじゃないかと見えているんだけど、それでも HK などはかなり現役トップ・ランナー感が強く、2013年には『脱走兵たち』の大傑作もリリースしているし、だからやっぱりわかんないや。でも、ONB とグナーワ・ディフュジオンの二つのバンドは、たしかに不活発になっている。

 

 

この二つのバンドこそ、ぼくにとってのワールド・ミュージック新世紀を切り拓いてくれた存在で(それ以前は中南米とサハラ以南のアフリカばかりだった)、いまでも大きな感謝の気持ちを忘れていないつもり。そしてこの二つのバンドにはかなり大きな違いが二つある。一点は、ONB が大規模な寄り合い所帯で、だれがリーダーとも言えず(いちおうユセフ・ブーケラが主導権を握っていたが)いわば大部屋で大勢がゴッタ煮になって騒いでいるようなバンド、というかプロジェクトなのに対し、グナーワ・ディフュジオンのほうはアマジーグ・カテブのカリスマ的リーダーシップがすべてのワン・マン・バンドだ。

 

 

二点目。こっちのほうがいまのぼくには重要だ。この2バンドとのそれぞれ初邂逅だった二作『アン・コンセール』と『バブ・エル・ウェド・キングストン』で比較してもはっきりしているが、前者 ONB のほうはにぎやかな祝祭感が強く、なんというかこう、ディスコで騒いでいるような高揚があるのに対し、後者グナーワ・ディフュジオンは暗く、沈み込むようにダウナーだ。

 

 

現在2018年7月末時点でのぼくにとっては、グナーワ・ディフュジオンのほうがしっくり来るし、聴いていて、たとえば20世紀の作品である『バブ・エル・ウェド・キングストン』でも、いまの時代の空気感にピッタリ来るというか、そのなかにいるぼくが強い共感をおぼえるようなものだ。これは、いったいなんなのか?

 

 

ここで正直に言ってしまわないといけないのだが、ぼくにとってのグナーワ・ディフュジオンとは、これすなわち1999年の『バブ・エル・ウェド・キングストン』のことであって、この一枚こそが「すべて」。その後の作品に対する共感度は低いんだ。初体験で惚れちゃったということはもちろんある。しかしそれだけじゃないような気もするんだよね。

 

 

グナーワ・ディフュジオンは、というかアマジーグは、この作品後ますます政治的戦闘姿勢を強め、ポリティカルな反米姿勢を鮮明すぎるほどに打ち出すようになって、反骨精神を最大のバネにして、たとえば2003年の『スーク・システム』のような傑作も生み出した。これを大手ワーナーから発売できたというのが信じられないくらいだ。

 

 

しかし同時に、『バブ・エル・ウェド・キングストン』にあった大きなもの、ぼくにとっては大切だったものが、失われたわけではないが薄くなっていったように感じないでもない。ちゃんと聴けばそれはまったく失われてなんかおらず、悲しみや苦しみが根底にあってこそアグレッシヴな姿勢をとることができている。鬱が攻撃性となって現出するというようなもんかな。

 

 

『バブ・エル・ウェド・キングストン』あたりだと、特にシャアビ(ふう)・ナンバーに色濃く出ていると思うんだけど、深く沈み込んだ暗く苦い気持ちがめくるめく美しい旋律に乗せて、宝石のキラメキとなって直截的に表現されている。と、ぼくは、いま2018年になってようやくそう感じるようになった。美しい。本当に、美しい。

 

 

これを踏まえると、たとえばレゲエやラガマフィンなどを基調とする曲の数々でも、『バブ・エル・ウェド・キングストン』では、そんな重く暗い沈む悲哀と一体化している官能美を表すシャアビ要素がそこかしこに溶け込んでいるんだなとわかる。純音楽的には、というか、音の高さ、強さ、並びかただけを聴いて、1999年当時から気づいてはいたかもしれないが、たんにミクスチャーなのだとしか思っていなかった。

 

 

グナーワ・ディフュジオンの『バブ・エル・ウェド・キングストン』で各種音楽要素が渾然一体化しているのは、マグレブ伝統音楽要素とアメリカ合衆国やカリブなどの大衆音楽要素のフュージョンとか、ふつうの意味でのいわゆるミクスチャーとかじゃないのだった。うんまあ、真の意味でのミクスチャーとは、今日ぼくが言いたいような意味で一体化しているもののことを言うのだろう。たんについ2018年までぼくがわかっていなかっただけだ。

 

 

でもいいじゃないか。ようやく気づけたんだから。2018年、56歳になって。あの20世紀末というか1999年に、グナーワ・ディフュジオンの『バブ・エル・ウェド・キングストン』に、新宿丸井地下で偶然出会って、あの音楽が当時からいまでも、ぼくにどう聴こえているか、ぼくになにをもたらしてくれているか、どんなものとして、いま2018年7月のぼくに作用し、ぼくの心にどう触れてくるか、なんとなく書けたのかなあ。

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