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2018/08/08

転調

 

 

というみなさんおなじみのものがあるよね。曲の途中で、特に後半(終盤)部で、パッと別のキーに変わる(たいていは上がる)ことで、聴き手をハッとさせ劇的な効果を生み出し盛り上げる、あれだ。かなりの快感。だからやみつきになるけれど、同一パターンを繰り返しすぎた快感はやがてつまらなくなるように、音楽も最後まで一調とかワン・コードのものがいいなと思ったりすることもあったりするんだなあ。

 

 

転調はもちろん世界の音楽にある。といってもぼくは世界の音楽をあまり知らないが、民俗音楽や、それを土台にした大衆音楽では、いわゆる転調は少ないのかもしれない。そもそも転調はコーダル・ミュージックの世界での出来事だしね。そうじゃない音楽だって多い。さらに転調は、たぶん西洋のクラシック音楽で用いられるようになったのがはじまりなんじゃないかと思う。

 

 

西洋クラシック音楽の影響は世界のいたるところにおよんでいるので、古典楽曲での効果的な転調に感激してポピュラー・ミュージック界でも用いられるようになったんじゃないかと推測している。日本の大衆歌謡(は流行歌でも演歌でも歌謡曲でも J-POP でもどれもだいたい同じ)での転調は、多くのばあい、キーを一個(半音)か二個(全音)上げるというかたちになっている。

 

 

特に曲終盤部でこれをやって、一個か二個キーを上げて転調し、激情的な演歌やパッショネイトなフィーリングを表現したJ-POP(いま同じことを二回言った)で、それをいっそう強調し、聴き手の感情を揺り動かすのを狙っている。その結果、レコードや CD や配信など商品がより多く売れたらいいなという、作曲者や制作側の意図だよね。

 

 

 

しかし直前のリンクはジェフ・ベック&ロッド・スチュワートの「ピーピル・ゲット・レディ」(1985)。もちろんカーティス・メイフィールドの書いたインプレッションズ時代の曲で、彼らによる1965年ヴァージョンがオリジナル。それからしてすでに転調がある。しかしそれがなくとも、ジェフ・ベックらは転調を入れた可能性があるだろう。

 

 

 

もちろんこんな例は世界のポピュラー・ミュージックのありとあらゆるところで聴けるもので、いちいち具体例なんかあげていられないから、みなさんちょっと脳内検索して思い出すなり聴きかえすなりなどしていただきたい。そしてそういった大衆音楽界での転調は、やはり西洋クラシック音楽でそれが行われているのを範としたんだとぼくは思っている。

 

 

西洋クラシック音楽界において、曲終盤部での大胆な転調が著しい効果を生み出しているのが、いちばん上で Spotify のリンクを貼ったモーリス・ラヴェルの「ボレロ」(作曲、初演とも1928年)なんじゃないかと思う。画像はそのアルバムじゃなく、ぼくの持っているレナード・バーンスタイン指揮のものを出しておいただけ。この「ボレロ」には、転調がそれまでも一般的だった西洋クラシック音楽の歴史のなかでも特異に聴こえる点がいくつかある。

 

 

さほど重要でない、というか一般的な事項から書いておくと、ロマン派の時代にすでに大胆で複雑怪奇な転調は多くなっていた。古典形式における転調は、メイン・キーと関係を持つ近親調へ行くのが一般的だったのが、ロマン派以後はそれも弱くなって、だから「ボレロ」でラヴェルが C メイジャー(ハ長調)→ E メイジャー(ホ長調)と転じているのも、1928年なら奇異じゃない。かなり遠く関係も薄いキーだけどね。

 

 

もっと重要なこと。それはラヴェルの「ボレロ」終盤部におけるあの C→ E への転調があんなにも効果的なのは、曲全体がワン・パターンだからだ。まず、リズムは本当に一個の定常ビートが最初から最後まで維持されて、ぜんぜん変化なし。単調とも言いたいほど平坦なオスティナート・リズムがずっと続いている。

 

 

その上に乗る旋律だって二つのラインしかない。それを仮に A、B とすると、最後の二小節でだけ変化するものの、ラヴェルの「ボレロ」は AとB の2パターンの旋律をただひたすら延々とリピートしているだけなのだ。これも単調というか平坦というか、約16分間、リズムはずっと同じ、メロディはたった二つをひたすら反復するだけっていう、全体的には大きな一つのクレッシェンドでできているが、よく発表できたな、こんな変化なしの曲。

 

 

「ボレロ」はもとはバレエ楽曲なので、踊るためにはリズムもメロディもワン・パターンの反復形式になっていたほうがやりやすいという面はあったはず。しかしラヴェルはたぶんそんな理由だけでこんな淡々とした曲を書いて発表したんじゃない。ワン・グルーヴ反復継続の快感とその最後の最後でトンじゃうことのメタファーとして、あの大胆な転調を入れたんだというのがぼくの見方。

 

 

西洋クラシック音楽では、書いたようにロマン派以後、大胆で複雑な転調が一般的となり、しかも一曲のなかで頻繁に繰り返すようになって、じょじょにもとのキー(主調)がなんだったのか、どのキーに転じたのか、それらを把握しにくくなって、現代音楽で調性概念が崩壊することに結びついた。

 

 

ポピュラー・ミュージックの世界には無調の楽曲や演奏はあまりない。あくまで商品としてなるべくたくさんの一般大衆に売れないと(=ポピュラーにならないと)意味がない世界だから、調のない音楽はやっぱり人気が出にくいだろう。だから作者や演奏者も避ける。一部のジャズでも聴けるアトーナルな演奏は、やっぱり一過性のものでしかなかった。

 

 

しかしラヴェルが「ボレロ」で示したような暗喩としてのワン・グルーヴ維持と転調フィニッシュの快感は、似たようなものが、特にブラック・ミュージック界になかなかあるようにぼくには思えている。特にアメリカのブルーズやファンク・ミュージック、またアフリカン・ミュージックの一部でよく聴けるように思う。

 

 

基本のビートはずっと同じものを維持し、そのワン・グルーヴ(ペダル・フィギュア、またはベース・ヴァンプ)の上で<平坦な>ラインを楽器奏者も歌手も演唱。ワン・パターンの運動継続が快感を生み、オーラスの大波=フィニッシュ=転調に結実する、これはまさにファンク・ミュージックなどのやりかただ。ファンクでは必ずしもフィニッシュで転調はしない。しないばあいがほとんどだ。そのままいつまでも続けていることが多く、レコード商品ならフェイド・アウト処理、ライヴ・ステージでなら突然パッとぶった切って終わる。

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