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2018/09/23

声と身体が乖離する音楽性の楽しみかた 〜 21世紀型腹話術

 

(この朝日新聞デジタルの記事を下敷きにして書きました)

 

 

というようなものが出現しているように思うんだよね。ひょっとしたら確立されつつあるのかもしれない。2010年代か、あるいはもうすこし前からね。だから、これは音楽のありよう、楽しみかたの存立の根本が変容しつつあるということなのかもしれない。ライヴ・コンサートでも、カラオケ伴奏や口パクがあたりまえの前提として受け入れられて、楽しまれているのだろうから。

 

 

口パク(リップ・シンク)は、まずもって大きなタブーだった。ことにライヴ会場でそうなのは絶対に許されないことだった。テレビの音楽番組などではずいぶん前から、これはそうなんじゃないかという憶測というより確信に近いものがあったけれど、それにしたって口パク OK を大前提にして出演していたわけじゃない、バレではいけないものだった。伴奏もバンドの生演奏があたりまえで、コンサートではいまだやはりそうかもしれないが、テレビの歌番組でもむかしは生演奏だったんだよ。

 

 

こういうことは、すなわち「音楽とはなにか」「音楽を受け入れる、楽しむとはなにか」というテーゼは、音楽とは《いまここで》歌われ演奏されているという、ヴァーチャルではないリアリティにこそ存立の根幹があるということを踏まえている。いや、あった、と過去形でいまや言うべきなのかもしれない。コンサートやラジオやテレビ出演などはもちろんそうだった。レコードや CD などの金太郎飴複製商品も、あくまで疑似的現場体験(のようなもの)だったよね。聴きながら、歌手や演奏者がいま目の前でやってくれているというヴァーチャルな快感にひたるというものだったんじゃないかな。

 

 

ぼくは世代も考えかたも古いから、それからもう一点、音(声)と身体が分かちがたく一体化せざるをえない(古いタイプの)ジャズ・ミュージックこそが好きだから、やっぱりいまでも自室で録音音楽を聴く体験とは、やはりこういった(ヴァーチャルでも)リアリティを楽しんでいるんだと思っている部分がかなり大きい。生演唱のライヴ・コンサートも、やはり少なくとも歌だけは生声が聴きたい、たとえ伴奏がカラオケでもいいから、せめてそこだけは…、と思っていることを否定しない

 

 

 

 

ところが、日本だけでなく世界で、アイドルや人気歌手のライヴ・コンサートでは、たぶんだけど、この伴奏と声という二大要素ともヴァーチャルになってきているみたいなんだよね。上掲の朝日新聞デジタルの記事で、Perfume のライヴはステージングとダンスこそが売りもので、歌は口パク、だからおそらく伴奏も録音済みのものを使っているに違いないと知った。会場に足を運ぶ(ドームだと数万人規模にもなるという)ファンのみなさんも委細承知の上で、Perfume のそんなパフォーマンスを楽しんでいらっしゃると。

 

 

ぼくの大好きな岩佐美咲のことを書くけれど、美咲のコンサートにおいて、主役は生声で歌っている。しかしファースト・コンサートはバンドの生演奏だったけれど、ほかはアクースティック・ギター弾き語りコンサート(や、それ以外でもそのパート)を除き、その後すべてカラオケ伴奏だ。パッケージ商品化された作品や、今年二月に恵比寿で生体験した際も、すでに CD 化されている曲はそれと変わらない伴奏だった。

 

 

この件にかんしては、以前の記事で美咲について書いたものにネガティヴなコメントが付いたことがある。そのかたは美咲のファースト・コンサートに足を運ばれ、セカンド・コンサートにも行かれたようだけど、二回目はカラオケだったからガッカリした、もう二度と美咲のライヴには行かないとコメントくださった。その際、「戸嶋さんは耳の肥えていらっしゃる音楽ファンだとお見受けしますが…」(それなのに、なぜ…?)とも付言なさってあったのだ。

 

 

しかしですね、そんなみなさんもほかのいろんな歌手の CD 商品などはお聴きになるわけでしょう。それら、いまどき歌手とバック・バンドの一斉同時演唱で一発録りなんてやっているケースはほぼゼロ%に近い。生演奏命みたいなジャズでだって、わりと古くから同様の手法をとっている。マイルズ・デイヴィスも1972年の「レッド・チャイナ・ブルーズ」からそうなったし、1986年のワーナー移籍後は、すべての録音作品が、バック・トラックだけ先に完成させておいて(カラオケ)、それを聴きながら主役がトランペットを吹き重ねる(歌)というやりかたになった。

 

 

ましてや(アイドルを含む)ポップス・シーンなどでは、まず間違いなく100%カラオケ・トラックだけ先に完成させている。アイドル歌手ではないポップス界でもそうだろう。こんなことは、上で2006年ごろからのライヴ・ステージでの Perfume の例をあげたけれど、ライヴ・コンサートで伴奏も歌もヴァーチャル、となるずっと前からレコード録音ではあたりまえのやりかたになっていたじゃないか。

 

 

そうだからこそ、せめてコンサート現場では生(演唱)を…、となるのかもしれないし、実際、21世紀に入るごろまではライヴ・パフォーマンスが主流だったかもしれない。それがどうやら最近変わりつつある、ファンの楽しみかたも変容しつつある、となると、音楽とはその場でリアルに発せられる(身体と一体化している)音声にこそ価値や存在意義がある、という根底が崩れつつあるのかもしれないよね。

 

 

もはや、そういったことは音楽の楽しみの中核ではなくなりつつある、音楽体験のなにに価値を見出すかが変容しつつあるということを示唆しているのかもしれない。むしろ、メディアに媒介され変換されたコミュニケーションこそ、リアリティを持つものとなりつつあるのではないか。

 

 

メディアに媒介された声や音は、「声と身体」との自然主義的なつながりを混乱させ、その混乱が逆に快楽を生むというようなことがあるかもしれないよね。混乱させられた眩暈の快感とでもいったようなことがあるのかも。そんなことないのかもしれないし、そうなってきているような気もするし、ぼくはいまだよくわからない。がしかし、音楽産業と受け手の双方でなにかが変わりつつある、と感じている。

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