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2018年9月

2018/09/30

ミンガスの教会ふうブルーズ・ストーリーテリング 〜『オー・ヤー』もデューク的

 

 

チャールズ・ミンガスのアトランティック盤『オー・ヤー』(1961年録音62年発売)。ふだん聴いているのは1999年リイシューのライノ盤だから、三曲のボーナス・トラック入り。それらも含め、アルバム全体が、これ、好きだぁ〜。ホントいいよね。ブルージーで、ゴスペルふうでもあり、ノヴェルティ・ソングっぽいものがあったり、さらにデューク・エリントン的なクラシカルな作風もある。

 

 

しかもそれらぜんぶが、いかにもこれぞアトランティック・ジャズだというお手本のような黒っぽく野太い音楽に融和・昇華している。根本的にはブルーズ・ストーリーテリングをジャズ・アンサンブルの手法で実行したというアルバムが、ミンガスの『オー・ヤー』だと思う。そのまんまなブルーズだってアルバムにいくつもあるし、そうじゃないものも、そのサウンドの湿り気、濁り気は、本質的にブルーズ・ミュージックの持つものだ。

 

 

そんな黒人教会ふうブルーズ・エッセンス(おかしな言いかた?)が、デューク・エリントン的なホーン・アンサンブルとなって具現化しているので、ひるがえってデュークの音楽の本質になにがあるのかまで見えてくるという、そんなアルバムなんだよね。いやあ、すごいなあ、ミンガス。本当にすごいのは、そんなアンサンブル・マナーの直接の師匠格、デュークってことか。

 

 

ところで『オー・ヤー』にはダグ・ワトキンスが参加していて、ミンガスはベースをいっさい弾かない。担当楽器はピアノとヴォーカル。ふだんからかなりよく歌い、というかしゃべったり叫んだりしていて、さらにピアノの腕も知られているけれど、アルバムまるまる一枚でそれらに専念したというのは『オー・ヤー』が初のはず。

 

 

しかもそのミンガスの弾くブルーズ・ピアノがかなりいいよね。曲自体もそうだけど、ピアノ・ソロもしばしばハチロク(6/8拍子)で弾き、シングル・トーンでもブロック・コードでもアーシーで、言いすぎかもしれないがちょっぴりホレス・パーランっぽくも聴こえる。『オー・ヤー』では、弾きながらなにか歌って(しゃべって)いることも多い。

 

 

ミンガス以外で目立つのは、やはり左チャンネルの(サックスなど各種の)ローランド・カークだ。ホーン奏者は、テナー・サックスのブッカー・アーヴィンが右チャンネル。さらに、ミンガス・バンドの常連であるジミー・ネッパー(トロンボーン)、ダニー・リッチモンド(ドラムス)もいる。みんないい演奏をしているが、カークが本当に見事だ。彼のドロドロに黒っぽいのが、『オー・ヤー』で聴けるソロのなかではミンガスの音楽性を端的に表現している。

 

 

事実上、カークしかソロをとっていないと言ってもさしつかえないほど『オー・ヤー』で吹いているのはカークだ。ある意味主役、と言いたいところだけど、それは違う。ジャズ・ミュージックはアド・リブ・ソロで成り立つ音楽だ、という通りいっぺんのジャズ概念をくつがえしているのが、ミンガスであり、師匠のデューク。

 

 

言い換えれば、(デュークもそうだけど)ミンガス・ミュージックのなかでは、すべてが「あらかじめ組み上げられたスポンティニアスさ」のなかに存在している。だから、ソロで組み立てた音楽と言ってもいいのだが、正反対にソロなしの音楽だと言っても同時に正解なのだ。『オー・ヤー』でのカークは自由に演奏しているけれど、同時にミンガスという大きな手のひらのなかで踊っているだけでもある。デュークと楽団員の関係がそうだった。

 

 

そんなことを、1961年の一日のセッション記録である全10曲のアトランティック盤『オー・ヤー』でも、またもやあらためて再確認した。

 

 

2曲目「デヴル・ウーマン」、4曲目「イクルージアスティックス」、5曲目「神よ、原子爆弾を落とさないで」などの、こういった、なんというか、よどんだ水のようなスロー・ブルーズが、ぼくには本当に最高に心地いい。ボーナス・トラックなら、ラストの「インヴィジブル・レイディ」が最高にすばらしい。これはストレートなデューク・オマージュなんだよね。ジミー・ネッパーの吹くラインと、背後のリズム&サウンドのアンサンブル・アレンジが、本当に美しい。

2018/09/29

自作自演のノエール・ローザ 〜『ヴィラの詩人』

 

 

なんでも今年八月、オフィス・サンビーニャ盤のノエール・ローザ二枚がリイシューされたばかりらしい。ぼくはまだ買っていないんだけど(そのうち必ず買う)、中身もかなり刷新したという情報を見る(それは2004年版でのもの?)。せっかく再発されたんだから、ノエールを話題にする格好のタイミングなんじゃないかと思うんだ。ね、いいでしょ。二枚のうち、今日は自作自演集の『ヴィラの詩人』について。もう一枚の『ノエール・ローザの時代』も同じ1999年に最初は発売された。

 

 

2018年再発盤はまだ手にしていないので、以下は1999年盤に沿っての話。申し訳ありません。

 

 

『ヴィラの詩人』解説文の田中勝則さんによれば、ノエール・ローザは300余曲を書き、そのうち自作自演は計42曲とのこと。そのうち、このオフィス・サンビーニャ盤には23曲が収録されている。順番に聴き進み、最初にオッ、これはいいぞ!ってなるのが、ぼくのばあい、7曲目「女の嘘」(Mentiras De Mulher、1932年)、8曲目「ぼくたちの物」(Coisas Nossas、1932年)あたりかな。

 

 

その前、4曲目「愛すべきドモリ」(Gago Apaixonado、1931年)からすでにすこしそうなっているが、7、8曲目あたりからは、基本、ストリート・サンバのノリなのだ。だから好き。リオのカーニヴァルで歌われたかどうか、ぼくにはわからないが(たぶん、レコードだけ?)、聴いた感じ、そうであって不思議じゃないダンサブルなサンバだ。

 

 

特に8曲目「ぼくたちの物」がすばらしくイイ。個人的にはこの一曲が、アルバム『ヴィラの詩人』のなかでの最愛好曲。最大の理由はカーニヴァル・サンバっぽく、街角で歌われ踊れそうなストリート感覚をあわせ持ちながら、同時にメタ・ミュージックでもあるからだ。音楽に限らず、すぐれた作品はメタ・フィクショナルな特性を帯びるというのが、30数年ほど前からのぼくの持論。

 

 

このアルバムではその後、ダンス・ミュージックとしてのものではなく、聴かせるための歌謡サンバも収録されていて、それらもいいんだけど、ぼくの愛好品であるノエールの自作自演によるダンサブルなストリート・サンバは、たとえば12曲目「踊らない人は」(Quem Nao Danca、1933年)から17曲目「実証主義」(Positivismo、1933年)まで続き、たぶんここがノエールのこの『ヴィラの詩人』のクライマックスかな。いやあ、ホ〜ント楽しいね。

 

 

18曲目「居酒屋の会話」(Conversa De Botequim、1935年)から突如ガラリと雰囲気が変貌する。ショーロふうサンバになっているんだよね。あれっ?しかしこの伴奏バンドは、どう聴いてもショーロ・バンドだなあ、さらにこのフルートは?!とか思って、あらためて田中勝則さんの解説文を読みなおすと、どうやらベネジート・ラセルダ楽団に違いないとのこと。

 

 

ベネジート・ラセルダのショーロ・コンボがノエールの伴奏を務める自作自演ナンバーが、その後、22曲目「行きたければ行きなよ」(Voce Vai Se Quiser、1936年)まで連続収録されている。ショーロ好きだから、しかもこういった落ち着いた雰囲気のちょっとした室内楽ふうショーロ・カンソーン(or サンバ)が大好きだから、もちろんこの五曲だって、マジ好き。

 

 

12〜17曲目のややワイルドなダンス・サンバと、18〜22曲目のしっとりしたサンバ・ショーロと、どっちもすばらしく、どっちも同じくらい好きだ。ノエール・ローザはサンバ黄金時代の1930年代最高のソングライターにして最重要人物の一人だったんだけど、(ギターも弾きつつ)こうやって自分で歌っても見事だったとよくわかる。自作自演でノエールの持ち味がクッキリ聴こえてくるね。

2018/09/28

マイルズのアルバム日本盤の附属解説文を刷新してほしい

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マイルズ・デイヴィスに限ったことじゃなくて、ほかにも同じケースがいくつも見受けられるとのことだけど、ぼくが肌身で痛感しているのはマイルズものだけだからそれに限って書く。マイルズの既発旧作をリイシューする際の日本盤附属ライナーノーツは、そろそろ新しいものにしたらどうだろう?いつまで1990年代後半のリイシューの際に書かれたものを再録するつもり?特にソニーさん?

 

 

まあ実は音源だけあればオッケーみたいなことになりつつあって、ネット配信でいいんだというのもそんな考えの反映かもしれず、音だけをフィジカルでもストリーミングでも聴けたら、諸情報や解説はネットで、あるいはなんらかの紙媒体で拾うというのが一般的なやりかたになってきているのかもしれない。だから CD 附属解説文をちゃんとしてほしい…、なんてのはぼくの頭のなかが古くさいのかもしれないが。

 

 

それでも音楽 CD を買った際にはじめからデフォルトで付いてくるライナーノーツがちゃんとしていれば、それがいちばん手っ取り早く、手間いらずで、好適なんじゃないかと思うんだよね。ふつう一般の音楽リスナーが音楽フィジカル作品を聴きながら最もアクセスしやすい情報やレヴューがライナーなんだから。

 

 

アメリカ本国発売のレガシー盤解説は、そこらへん、実はちゃんとなっているんだよね。特に(コンプリートを冠したり冠しなかったりする)ボックス・セットならそうだ。発売時点での最新書き下ろし解説文が附属しているし、ディスコグラフィカルなデータも判明する限りでの最善を尽くしてある。せめてそれを和訳するだけでもいいんだけど、なぜだかいつまでも古いライナーとデータがくっついてくる。これはなんなのだ?

 

 

ボックスものだから新規に充実した解説や分析や判明しているディスコグラフィカルなデータを記載して大部なブックレット様のものを編むことができるのであって、一作一作の個々のアルバムのリイシューでそんなことはできないぞということがあるのかもしれない。さらに音楽のフィジカル作品が売れなくなってきていて産業が不況の真っ只中だから、新たに原稿料が発生するような事態を避けたいという思惑もあるのだろう。

 

 

だけどさ、明らかに間違っていると現2018年時点でわかっているパーソネルや録音年月日などのデータ記載くらいは、せめて修正しようよ。音楽内容にかんしての分析・解説は個人個人の受け止めかたによっても異なってくる内容だからむずかしい面があるかもだけど、この点でも、やはり最新の研究成果を踏まえ、変化なき本質はそのままに、時代に即した文章を読みたいよねえ。

 

 

抽象論みたいなことだけに終始してもあれなんでちょっと具体例を書いておく。たとえば『ビッチズ・ブルー』。多くの曲でフェンダー・ローズの電気ピアノ奏者が三人同時演奏している。どれがだれ?みたいなことはとてもわかりにくい。というか、ぼくみたいな耳の悪い甘チャン愛好家は、ほぼわからない。だがしかし知りたいんだ。この長年続いた苦悶は、1998年のボックス『ザ・コンプリート・ビッチズ・ブルー・セッションズ』附属ブックレットを読み、解消した。

 

 

それにはチック・コリア、ジョー・ザヴィヌル、ラリー・ヤングの音が、左右中のどのチャンネルなのか、しっかりぜんぶ記載されてあるんだよね。それを踏まえて音楽をなんども聴きかえし、この三人のフェンダー・ローズ演奏のスタイルだってある程度は理解する手助けにもなったかもしれない。ぼくのばあいはね。多くのばあい二名同時演奏のジャック・ディジョネットとレニー・ワイト(or 曲によってはドン・アライアス)のマルチ・ドラムスも、どっちのチャンネルがだれ、というのが判明した。

 

 

こういったことは音楽を聴く際の基本情報じゃないだろうか。ボックス・セットに記載があったんだから、その後の単独盤リイシューにフィード・バックさせればいいと思う。ちょうど科学技術の最先端研究が、最終的にぼくたちみんなの一般日常生活で使う電化製品に応用され身近なものとなって便利になるように、音楽、というか今日はマイルズの話だけど、最新の調査結果は、ふだん日常の楽しみで聴く単独盤 CD を買う(マニアじゃない)一般リスナーの便とならなくちゃねえ。

 

 

パーソネルや録音年月日などディスコグラフィカルなデータは、マイルズのばあい特に1970年代以後のものがずっと曖昧なまなだった。いまだによくわかっていない点も多い。それでも21世紀に入り10年以上が経過したあたりからは、これがそこそこ正しいデータなんじゃないかと、わりあい明白になってきている。これこそが最もベーシックで重要な情報だよ。なぜ単独盤リイシューに記載しない?

 

 

音楽的分析や解説だって、書き手によって内容が異なり、読み手によって受け止めかたも違ってくるものだけど、それでもわかりにくかったことがわかってきつつあるんだ。『カインド・オヴ・ブルー』『ソーサラー』『キリマンジャロの娘』『イン・ア・サイレント・ウェイ』『ビッチズ・ブルー』『オン・ザ・コーナー』『ゲット・アップ・ウィズ・イット』などの諸重要作のライナーノーツに書かれていないことが多すぎる。

 

 

それらは、上でも触れたがレガシー盤のボックス・セット・シリーズに附属しているボブ・ベルデンさんやそのほかのかたがたがお書きになった分析文が、フィジカル音源商品に附属するかたちのものとしては、いちばんすぐれている。『ザ・コンプリート・スタジオ・レコーディングズ・オヴ・ザ・マイルズ・デイヴィス・クインテット 1965-68』(1998)や『ザ・コンプリート・イン・ア・サイレント・ウェイ・セッションズ』(2001)に附属するベルデンさんの音楽分析なんか、すっごくおもしろく楽しくためになるんだけどねえ。

 

 

一連の Miles boogaloo だとか、「スタッフ」(『マイルズ・イン・ザ・スカイ』)が boogaloo tango だとか、「フルロン・ブラン」(『キリマンジャロの娘』)がジェイムズ・ブラウンの「コールド・スウェット」のパターンだとか、ジョー・ザヴィヌルの書いた「ディレクションズ」のキーが E でここがこうなっているという関連構造のことだとか、ぼくはそれらボックス附属解説文のボブ・ベルデンさんにかなり教えていただいている。

 

 

マイルズの新リリース商品は必ず日本盤も出るので、それらボックス附属の充実解説文も和訳されて付いてきているものと信じたい。買っておらず見てもいないが、きっとそうに違いない。それはふつうのことだけど、しかしあんな大きなサイズのボックス・セットが、それも10個以上もあるんだから、やっぱマニアじゃないとなかなかふつうは買えないよ。

 

 

だから、ふだん聴きの一枚ものとか二枚組の単独リイシュー盤に、重要な部分だけ抜粋でいいから、附属させてほしいんだよね。『ソーサラー』『ネフェルティティ』にあるラテンなポリリズム・アレンジのもののこと、それが「スタッフ」「フルロン・ブラン」に結びつき、最終的に1969〜75年のマイルズ・ファンクに結実しただとか、『オン・ザ・コーナー』『ゲット・アップ・ウィズ・イット』なんかは、そもそもパーソネルや録音年月日のデータ記載があやふやなまま。

 

 

このままじゃあイカンでしょ、ソニーさん。

2018/09/27

チック&ゲイリーのデュオ、チューリッヒ・ライヴ完全版

 

 

チック・コリアとゲイリー・バートンの『イン・コンサート、チューリッヒ、オクトーバー 28、1979』(ECM、1980)。二枚組 LP で全10曲なのに、1984年に初 CD リイシューされて以後、どんな単独リイシュー CD も、一枚におさめるため8曲にしてある。配信もそう。カットされたのは LP 二枚目 A 面だった「アイム・ユア・パル - ハロー・ボリナス」と「ラヴ・キャスル」。

 

 

この二曲はデュオ演奏ではなく、それぞれゲイリーとチックのソロ・パフォーマンスだからオミット理由になったのだろう。それらも含めこのチューリッヒ・ライヴのフル・コンサートが CD 復刻されたのは、2009年の四枚組『クリスタル・サイレンス:ジ ECM レコーディングズ 1972-79』でのこと。いまでもこれしかない。残念。ECM はどうしてオリジナルの LP 二枚組をそのままちゃんと再発しないのか?納得できない。以前も書いた。

 

 

『クリスタル・サイレンス:ジ ECM レコーディングズ 1972-79』でのチューリッヒ・ライヴ分は、だから当然二枚に分かれているが、それは二枚組だったレコードをそのまま再現したもの。フィジカルにこだわりを持つかたでコンプリート集四枚組はいらないというならばレコードを探していただくしかないが、ネット配信で OK というみなさん向けにぼくがちょちょっとやっておいたのがいちばん上でリンクを貼ったプレイリスト。お時間のあるときによろしかったら、どうぞ。

 

 

このチューリッヒ・ライヴ、オープニングの「セニョール・マウス」があまりにもすばらしすぎる、壮絶美だというのは以前から繰り返しているし、ついこないだも書いたばかり。この一曲はどっちかというと<動>のチック&ゲイリーだけど、アルバム全体ではどっちかというと<静>の音楽だよね。これ以前に二枚あるこのデュオの作品と同傾向。

 

 

正確に言えば、一聴<静>に思える音楽のなかにもダイナミズムがあって、劇的かつ緊密に動くふたりのやりとりがある。さらに、特別スパニッシュ・スケールを使っているわけではない曲の演奏のなかにでも、ことにチックのピアノ・フレーズのなかにスパニッシュ・タッチが散見される。このピアニストのばあいは珍しいことじゃない。

 

 

そんなところ、単独盤 CD や配信にはいまだ収録されないゲイリーの「アイム・ユア・パル - ハロー・ボリナス」とチックの「ラヴ・キャスル」のそれぞれのソロ・パフォーマンスにだって聴きとることができるはず。ソロなのに、まるでだれかと対話しているかのよう。自己との対話ということでもなく、自のなかにある他、異と向き合って音を交わしているかのようじゃないだろうか。特にチックの「ラヴ・キャスル」がさ。

 

 

「ラヴ・キャスル」では、ピアノの発音でもチックは遊んでいる。部分的に、これは弦を直接指ではじいているのか?あるいは打鍵を工夫しているのか?ピアノのことをなにも知らないぼくにはわからないが、ちょっとギターみたいなおもしろい音色を出しているよね。その部分ではフレイジングも楽しい。

 

 

リターン・トゥ・フォーエヴァーでもやった超有名曲「クリスタル・サイレンス」は、このデュオでの初演スタジオ録音ヴァージョンに比べグッと長尺になりカラフルな展開を見せるのが聴きどころ。タイトルどおり、静寂の氷結みたいなのが持ち味の曲想だけど、このチューリッヒ・ライヴでは途中ドラマティックに開いたりするのがいいね。

 

 

ところでところで、チックが「クリスタル・サイレンス」みたいな曲を書き、その曲題に「サイレンス」という言葉を使ったりしたのは、やはりマイルズ・デイヴィス・バンド時代の1969年2月のジョー・ザヴィヌル・ナンバー録音がきっかけだったりしたんだよねえ。うん、初期リターン・トゥ・フォーエヴァーへの強い影響は、むかしから知られている。

 

 

ゲイリー・バートンが参加していることで、そんなお馴染みの常識にも違った表情がにじんで、また一層美しくなっているんじゃないか、しかもそれが一回性のライヴ演奏という高い緊張感のもと繰り広げられたことで、輝度を増しているんじゃないか、と聴こえる。そう、このチューリッヒ・ライヴはくつろげる音楽じゃない。リスナーも気を抜けない、緊密でテンションの高い音楽だ。

 

 

それでも2曲目「バド・パウエル」、4曲目「トゥウィーク」なんかはまだリラクシングな部類に入るんだろう。前者ジャズ・ピアノ・ジャイアントへのオマージュのほうでは、ゲイリーのソロの途中でチックが左手でラニング・ベースを弾くのも楽しい。ところでラテン(傾向のある)・ジャズ・ピアニストの多くがバドのことを言うよね。「ウン・ポコ・ロコ」があるおかげかなあ?

 

 

レコードでの二枚目 A 面がソロ・パフォーマンス二曲で占められていたが、B 面に来るとやはりデュオ演奏での緊密美が表現される。レパートリーはいずれもよく知られたもの。個人的にこのチューリッヒ・ライヴは、「セニョール・マウス」と「クリスタル・サイレンス」があるためか一枚目ばかり繰り返し聴いていた記憶があるんだけど…、と思っても二枚目だってわりかし憶えているから、やっぱちゃんと聴いていたんだなあ。特にソロ演奏二曲の A 面をさ〜。

 

 

だからさぁ、ECM さん、その二曲もマジですごくいいんだし、どうか単独盤でもフル・コンサートを二枚組 CD で再発してくんないかなぁ〜。高度な緊張感がこんなにもすばらしく美結晶化した音楽って、なっかなかないと思うんですよぉ。完全盤で復刻する意味と価値のあるコンサートだ。ぜひお願いします!

2018/09/26

ディレイニー&ボニーの『モーテル・ショット』

 

 

ディレイニー&ボニー・アンド・フレンズの『モーテル・ショット』(アトコ、1971年初頭)。どう聴いてもゴスペル・アルバムだとしか思えない。たんにゴスペル調とかいうんじゃない。ゴスペルそのものの音楽フィールがあるよね。とりあげられている曲のなかには、ふつう一般の意味でゴスペルや賛美歌じゃないオリジナル曲やカントリーやブルーグラス・ソング、有名ブルーズ、リズム&ブルーズ曲、フォーク・ソングもあるけれど、『モーテル・ショット』ではゴスペル・ミュージックと化している。

 

 

最大の理由はリオン・ラッセルの弾くピアノ・スタイルにあるのかもなあ。ってか、このピアノはリオンだよね?このアルバムも詳細なクレジットがぼくにはわからないので自信がないが、『モーテル・ショット』一枚を貫く芯のように一貫した弾きかたのアクースティック・ピアノが聴けるので、同一人物には違いない。ディレイニー&ボニーのフレンズでこういったゴスペル・タッチを弾く最右翼はリオンだ。

 

 

ほかはアクースティック・ギターと(アルバム中唯一の電気アンプリファイド楽器である)ベース、それからタンバリンを中心とする打楽器。あとはヴォーカル・コーラスだけだ。あ、いや、エレキ・ギター(のスライド・プレイその他)は聴こえるなあ。デュエインなんだっけ?でもデュエインじゃないなと思えるパートもある。デイヴ・メイスンだったりエリック・クラプトンだったりするの?

 

 

まあでも『モーテル・ショット』での中心は楽器じゃない。リオン・ラッセルのピアノは重要な役割をはたしているが、目立つのはそれだけで、あくまでポリフォニックな人声と、それでもってグイグイ進むリズムの推進力こそがこのアルバムの核。それがゴスペル・フィールだなとぼくは思うわけ。こう、なんというか、人間の肉体のあたたかみを感じさせ、きみとぼくとわたしたちはつながっているんだよ、さぁいっしょに歩んでいこうよ、という前向きの人生肯定感がこのアルバムの底流にある。

 

 

ゴスペル・ミュージックとか、その舞台である教会そのほかや、あるいは宗教一般って、つまるところ、人間が人生を前向きに楽しく充実したものにできるように、幸福な歩みをとれるように、そういう手助けをするものとしてこの世に存在するものだと思う。信仰するひとを縛りつけるものじゃない。解き放つものだよね。そんな解放感や肯定感がゴスペル・ミュージックの意味だ。

 

 

この点においても、ディレイニー&ボニーの『モーテル・ショット』はまさしくゴスペル・アルバムだと聴こえる。もちろんそんな意味付けがなくとも、このアルバムのサウンドやリズムに漂う純音楽的要素がアメリカ黒人ゴスペルだし、楽曲レパートリーだってそういった伝承ゴスペルが中核を形成して、アルバムのトータル・カラーを支配している。

 

 

1曲目「ウェア・ザ・ソウル・ネヴァー・ダイズ」の圧倒的恍惚感、ヴォーカル・コーラスの教会録音的な奥行きのある響きとひろがり、伴奏はブロック・コードでぐいぐい叩かれるピアノだけ、それでずんずん進むヴィーエクルは、ボニーが主唱の2曲目「ウィル・ザ・サークル・ビー・アンブロークン」でも変わらず。リオンがリードでボニーがサイドにまわる3曲目「ロック・オヴ・エイジズ」でも同様。カントリーやブルーグラス系の音楽家が多く歌うものだけど、ここではどう聴いても黒人教会でやるようなリリカル・ソングふうのものにしか聴こえない。

 

 

5曲目「フェイディド・ラヴ」。曲じたいはふつうのトーチ・ソングなのかもしれないが、レイ・チャールズ・スタイルで弾くリオンのピアノに引っ張られ、失恋を踏まえてしっかり前へ人生を歩んでいこうという力強さがディレイニーのヴォーカルをも支配しているよね。これは、いい。

 

 

6曲目「トーキング・アバウト・ジーザス」はもちろんストレート・ゴスペル。だけど伝承曲ではなくディレイニーの書いたオリジナルだ。伝承ゴスペルや賛美歌である1曲目、2曲目となんらの差異も聴きとれないことに着目したい。つまりディレイニー&ボニーの音楽とは、そういったレヴェルにあった。自作も他作も伝承曲も、アメリカの古い黒人音楽の持つコクとまろやかさと、そして高揚感を表現することができていた。いやあ、それにしてもこの6曲目はなかなかすごいね。

 

 

その後、ブルーズ・ソングもリズム&ブルーズ・ヒットも、カントリー・ソングふう自作も、ヒルビリー・フォークみたいなレパートリーも、どれも一貫するまろやかさとしなやかさがあって、しかもアメリカにおける黒人/白人音楽のギャップなども微塵も感じさせない融和感で、見事な味わいを聴かせてくれる。

 

 

うんホントいいアルバムだよなあ、ディレイニー&ボニー&フレンズの『モーテル・ショット』。聴くと元気が出てくる。生きる希望が見えてくるかのようだ。

2018/09/25

ザ・ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ Vol. 2

 

 

括弧内は録音年。

 

 

1) I Feel Like Going Home (1948)

 

2) Mannish Boy (1955)

 

3) Sugar Sweet (1955)

 

4) Forty Days And Forty Nights (1956)

 

5) Trouble No More (1955)

 

6) Don't Go No Further (1956)

 

7) You're Gonna Miss Me (1948)

 

8) Rollin' and Tumblin' Part 1 (1950)

 

9) Rollin' and Tumblin' Part 2

 

10) Appealing Blues (a.k.a. Hello Little Girl) (1950)

 

11) She's Alright (1953)

 

12) Baby Please Don't Go (1953)

 

13) Blow Wind Blow (1953)

 

14) She's Nineteen Years Old (1958)

 

15) I Feel So Good (1960)

 

16) Got My Mojo Working, Part 2 (1969)

 

17) Can't Get No Grindin' (What's The Matter With The Meal) (1972)

 

 

1996年の MCA 盤 CD『ザ・ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ Vol. 2』。もちろんそんなアルバムは本国のチェス盤にはない。神をもおそれぬこのアルバム題、小出斉さん編纂の日本独自盤で、言うまでもなく問答無用の史上最強必殺名盤『ザ・ベスト・オヴ・マディ・ウォーターズ』(Chess LP 1427、1958年) のその名前にあやかるというだいそれた真似をした一枚。褒め言葉のつもり。中身が充実しているし、貴重な一枚で、これでしか事実上聴きにくいというものがあったりする。『ザ・ベスト・オヴ・マディ・ウォーターズ』と『同 Vol. 2』と二枚さえあれば、それだけでマディの1950年代の重要録音はすべてわかる。

 

 

さらに『Vol. 2』は、1950年代が終わって以後1970年代までのマディのセレクション的意味合いもちょっぴりある。1940年代末〜50年代のチェス(系)・レーベルのシングル曲から『ザ・ベスト・オヴ・マディ・ウォーターズ』には収録されなかった重要曲を選び、二枚あわせればマディが最も重要な意味を発していた1950年代のヒットはぜんぶ聴ける上、その後の1970年代まで聴けるんだから、文句なしだ。

 

 

シカゴに出てきてチェス(系)・レーベルからレコードを出しはじめたころのマディは、シンプルな編成で、南部感覚横溢のド郷愁路線、つまりはデルタ・スタイル・ブルーズをエレキ・ギターでやっていたようなものだと思うんだけど、その後電化バンド編成でぐいぐいノルものをやるようになってからは、そんなノスタルジーを捨て、オレはこんなに(セクシャルな意味で)スゴイ男なんだぜ!と、まるでイツモツを見せびらかすようなマチスモ・ブルーズ・マンへと変貌した。

 

 

このへんのことはチェス盤『ザ・ベスト・オヴ・マディ・ウォーターズ』でもわかるけれど、小出さんの『Vol. 2』ならもっとクッキリわかるのだ。しかも小出さんの編纂ぶりというか曲の並べかたが、間違いなく意図してわざとやっていると思うんだけど、弾き語りに近い郷愁電化デルタ・ブルーズみたいなのと、オトコ自慢のモダンなバンド編成のシカゴ・ブルーズが唐突に混ざって出てくるので、かなりおもしろい。

 

 

しかし唐突といってもデタラメに並べてあるのではない。チェス・レーベルにおけるマディのブルーズがどんなものだったのか、パッと一瞬でわかりやすいようにしっかり考えられた曲順に思える。いまさらですが、さすがはわれらがブルーズ師匠、小出斉さん!といっても、エレキでやる弾き語りに近い郷愁デルタ・ブルーズみたいなのは、1曲目「アイ・フィール・ライク・ゴーイン・ホーム」、7「ユア・ゴナ・ミス・ミー」の二曲だけなんだけど。

 

 

その7曲目「ユア・ゴナ・ミス・ミー」に続き、8、9とパート1&2が連続収録(これはレアな事例で、だからこの一枚は貴重)されているチェス録音の「ローリン・アンド・タンブリン」があるのはすばらしい。この曲はデルタ(というかミシシッピ)・ブルーズ・スタンダードなんだけど、ご存知のとおり、事実上マディ主導で録音したパークウェイ盤のシングル盤がヒットしていた。

 

 

 

チェスと契約のあるマディの名前を前に出すわけにはいかなかったこのパークウェイ盤がウケたので、それより先に同じものを録音してあったチェスもあわててレコードを発売。しかし当時のマディがナイト・クラブなどに出演していたレギュラー・バンドによるブルーズは、パークウェイ録音のほうが再現している。チェス録音のほうはビッグ・クロウフォードのコントラバス伴奏のみ。

 

 

それでもしかし、同じくデルタ時代のレパートリーを焼き直したものだとはいえ、「アイ・フィール・ライク・ゴーイン・ホーム」「ユア・ゴナ・ミス・ミー」なんかと比較すれば、ノリがグンと違ってきているのがわかるよね。たったのスラップ・ベース一本が伴奏で、パークウェイ・レーベル・ヴァージョンにおよばないとはいえ、それでもバンド編成のシカゴ・ブルーズへ向かう道程が見えている。

 

 

そんなチェス録音の「ローリン・アンド・タンブリン」の2パートを、アルバム『ザ・ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ Vol. 2』のおヘソみたいな位置に置き、その前に1曲目、7曲目とデルタ・スタイルの電化弾き語りブルーズ・ノスタルジーを入れ、そして続く10曲目「アピーリング・ブルーズ」が完全脱皮直前のマディの、初期シカゴ・ブルーズみたいであるという、それら以外は完璧にモダンなノリを持つ完熟期マディの重要シカゴ・ブルーズで攻め、最後に1960年代末から70年代の録音を持ってきているという 〜〜 こんな小出さんの編纂意図や、こう聴いてほしいという気持ちみたいなものがハッキリ伝わってくるようだ。

 

 

いやあ、それにしても『ザ・ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ Vol. 2』の、たとえば3曲目「シュガー・スウィート」なんかは、まさにお手本、モダンなシカゴ・ブルーズの、いや、すべてのバンド・ブルーズの、最良の教科書のようで、マディのヴォーカルの勢いと迫力、バンドの推進力と強いビート感などなど、すばらしいとしか言いようがない。

 

 

またその3曲目の前の2「マニッシュ・ボーイ」から〜6「ドント・ゴー・ノー・ファーザー」の五曲連続の流れは、なんど聴いてもいつ聴いても、ため息がでる完璧さ。どこをどう取っても文句なしに傑作だと言える。こういうのが1950年代のシカゴ・ブルーズのまさに代表作だと、『ベスト・オヴ・マディ・ウォーターズ』のなかの数曲とあわせ胸を張って、ブルーズ・ファンだけでなく音楽好きのみなさんに推薦したい。

 

 

3「シュガー・スウィート」、5「トラブル・ノー・モア」、16「ガット・マイ・モージョー・ワーキング、パート2」あたりのノリのいいグルーヴィなやつなら、特別マディ・ファンだとかブルーズ好きだとかアメリカ黒人音楽愛好家とかじゃない、一般の音楽リスナーにだってアピールできそうな気がするんだけど。

2018/09/24

ストーンズのブルーズ10

 

 

クラシック・ロック愛を掲げる音楽サイト『ラウダー』の、おととい8月28日付の下掲記事。ローリング・ストーンズのブルーズ・ソング10曲を選ぶというもの。

 

 

 

これを真似てぼくもちょっとやってみた。ただしカヴァーは外しストーンズ・オリジナルにこだわって、しかし必ずしも12小節3コード云々のレギュラー・フォーマットには拘泥せず、ブルーズ・フィールのあるもの、曲の本質としてブルーズであるものという大きなくくりで10曲選んでみた。プレイリストにおける10曲の並びはリリース順とは限らず、続けて聴いて楽しいか、という審美性に配慮したつもり。

 

 

5、6以外はオリジナル・ヴァージョン。

 

 

1 Honky Tonk Women

 

2 If You Can't Rock Me

 

3 Get Off Of My Cloud

 

4 No Expectations

 

5 The Spider And The Fly ("Stripped")

 

6 Midnight Rambler ("Get Yer Ya-Ya's Out!")

 

7 I Got the Blues

 

8 Tumbling Dice

 

9 Melody

 

10 Shattered

 

 

「ホンキー・トンク・ウィミン」がブルーズであるのはいいとして、次の「イフ・ユー・キャント・ロック・ミー」「ゲット・オフ・オヴ・マイ・クラウド」あたりがブルーズ・セレクションに出てくるのに違和感があるかたがいらっしゃるかも。

 

 

個人的には「サティスファクション」も入れたかったし、その関連で「ストレイ・キャット・ブルーズ」(『ベガーズ・バンケット』)だって選びたかった。ここはたんに10個という制限を設けたから泣く泣く外しただけ。ロックンロール=ブルーズだということ、たとえそれが変形されて見えにくくなっていても本質にあるんだということだと思っている。

 

 

その点でおもしろいのが4「ノー・エクスペクテイションズ」。『ラウダー』の言いかたを借りれば、まるでロバート・ジョンスンとハンク・ウィリアムズが曲創りセッションでコラボしたかのような(これまたトレイン・ピース)、そんなブルーズ+カントリー・ミュージックの両要素が半々に溶け合った一曲だ。見事。ブライアン・ジョーンズ最期の華となったスライド・プレイも美しい。

 

 

5「蜘蛛とハエ」は、1995年『ストリップト』ヴァージョンのほうが好きだし、出来もいいんじゃないかと思っている。オリジナルにあった米南部ふうカントリー・ブルーズ・テイストを増幅し、イナタいフィーリングを強調。ミックのハーモニカは、しかし戦後のシカゴ・スタイルだ。っていうか、このヴァージョンは全体的にダウン・ホーム感のあるシカゴ・ブルーズなのかな。

 

 

6「ミッドナイト・ランブラー」は『ラウダー』が一位に選んでいるし、ぼくもこれがストーンズのやったオリジナル・ブルーズ最高傑作と思う。ハイド・パーク・コンサートのヴァージョンはたしかにシニスターでデンジャラスだけど、LP や CD で長年入手しやすかった同じ1969年のパフォーマンス『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト!』のものをぼくは選んだ。これに強い親しみがある。

 

 

7「アイ・ガット・ザ・ブルーズ」でちょっぴり泣きのサザン・ソウルふうにもりあげて、8「タンブリング・ダイス」でしっとりまろやかに。「ダイス」のほうは、これまたブルーズじゃないぞと言われそうだけど、まあいいじゃないの。ぼくの勝手な言い分だ…、ってだけじゃないかもよ〜。ストーンズのこういったコクのある味わいは米黒人ブルーズと同質のもので、それよりほかに見つからない。

 

 

9「メロディ」(『ブラック・アンド・ブルー』)が、ちょうど第二次大戦前のジャズ・ブルーズの趣だというのはわかりすいことだけど、10「シャタード」は UK パンク勢への古参ロック・バンドからの回答なんだから…と、これまた言われそう。でもぼくはワン(ツーだけどね)・コード・ブルーズみたいなもんだと思っていつも聴いているよ。サビのような部分でだけコードが開く。最後のシンバル残響音がしめくくりにピッタリ。

2018/09/23

声と身体が乖離する音楽性の楽しみかた 〜 21世紀型腹話術

 

(この朝日新聞デジタルの記事を下敷きにして書きました)

 

 

というようなものが出現しているように思うんだよね。ひょっとしたら確立されつつあるのかもしれない。2010年代か、あるいはもうすこし前からね。だから、これは音楽のありよう、楽しみかたの存立の根本が変容しつつあるということなのかもしれない。ライヴ・コンサートでも、カラオケ伴奏や口パクがあたりまえの前提として受け入れられて、楽しまれているのだろうから。

 

 

口パク(リップ・シンク)は、まずもって大きなタブーだった。ことにライヴ会場でそうなのは絶対に許されないことだった。テレビの音楽番組などではずいぶん前から、これはそうなんじゃないかという憶測というより確信に近いものがあったけれど、それにしたって口パク OK を大前提にして出演していたわけじゃない、バレではいけないものだった。伴奏もバンドの生演奏があたりまえで、コンサートではいまだやはりそうかもしれないが、テレビの歌番組でもむかしは生演奏だったんだよ。

 

 

こういうことは、すなわち「音楽とはなにか」「音楽を受け入れる、楽しむとはなにか」というテーゼは、音楽とは《いまここで》歌われ演奏されているという、ヴァーチャルではないリアリティにこそ存立の根幹があるということを踏まえている。いや、あった、と過去形でいまや言うべきなのかもしれない。コンサートやラジオやテレビ出演などはもちろんそうだった。レコードや CD などの金太郎飴複製商品も、あくまで疑似的現場体験(のようなもの)だったよね。聴きながら、歌手や演奏者がいま目の前でやってくれているというヴァーチャルな快感にひたるというものだったんじゃないかな。

 

 

ぼくは世代も考えかたも古いから、それからもう一点、音(声)と身体が分かちがたく一体化せざるをえない(古いタイプの)ジャズ・ミュージックこそが好きだから、やっぱりいまでも自室で録音音楽を聴く体験とは、やはりこういった(ヴァーチャルでも)リアリティを楽しんでいるんだと思っている部分がかなり大きい。生演唱のライヴ・コンサートも、やはり少なくとも歌だけは生声が聴きたい、たとえ伴奏がカラオケでもいいから、せめてそこだけは…、と思っていることを否定しない

 

 

 

 

ところが、日本だけでなく世界で、アイドルや人気歌手のライヴ・コンサートでは、たぶんだけど、この伴奏と声という二大要素ともヴァーチャルになってきているみたいなんだよね。上掲の朝日新聞デジタルの記事で、Perfume のライヴはステージングとダンスこそが売りもので、歌は口パク、だからおそらく伴奏も録音済みのものを使っているに違いないと知った。会場に足を運ぶ(ドームだと数万人規模にもなるという)ファンのみなさんも委細承知の上で、Perfume のそんなパフォーマンスを楽しんでいらっしゃると。

 

 

ぼくの大好きな岩佐美咲のことを書くけれど、美咲のコンサートにおいて、主役は生声で歌っている。しかしファースト・コンサートはバンドの生演奏だったけれど、ほかはアクースティック・ギター弾き語りコンサート(や、それ以外でもそのパート)を除き、その後すべてカラオケ伴奏だ。パッケージ商品化された作品や、今年二月に恵比寿で生体験した際も、すでに CD 化されている曲はそれと変わらない伴奏だった。

 

 

この件にかんしては、以前の記事で美咲について書いたものにネガティヴなコメントが付いたことがある。そのかたは美咲のファースト・コンサートに足を運ばれ、セカンド・コンサートにも行かれたようだけど、二回目はカラオケだったからガッカリした、もう二度と美咲のライヴには行かないとコメントくださった。その際、「戸嶋さんは耳の肥えていらっしゃる音楽ファンだとお見受けしますが…」(それなのに、なぜ…?)とも付言なさってあったのだ。

 

 

しかしですね、そんなみなさんもほかのいろんな歌手の CD 商品などはお聴きになるわけでしょう。それら、いまどき歌手とバック・バンドの一斉同時演唱で一発録りなんてやっているケースはほぼゼロ%に近い。生演奏命みたいなジャズでだって、わりと古くから同様の手法をとっている。マイルズ・デイヴィスも1972年の「レッド・チャイナ・ブルーズ」からそうなったし、1986年のワーナー移籍後は、すべての録音作品が、バック・トラックだけ先に完成させておいて(カラオケ)、それを聴きながら主役がトランペットを吹き重ねる(歌)というやりかたになった。

 

 

ましてや(アイドルを含む)ポップス・シーンなどでは、まず間違いなく100%カラオケ・トラックだけ先に完成させている。アイドル歌手ではないポップス界でもそうだろう。こんなことは、上で2006年ごろからのライヴ・ステージでの Perfume の例をあげたけれど、ライヴ・コンサートで伴奏も歌もヴァーチャル、となるずっと前からレコード録音ではあたりまえのやりかたになっていたじゃないか。

 

 

そうだからこそ、せめてコンサート現場では生(演唱)を…、となるのかもしれないし、実際、21世紀に入るごろまではライヴ・パフォーマンスが主流だったかもしれない。それがどうやら最近変わりつつある、ファンの楽しみかたも変容しつつある、となると、音楽とはその場でリアルに発せられる(身体と一体化している)音声にこそ価値や存在意義がある、という根底が崩れつつあるのかもしれないよね。

 

 

もはや、そういったことは音楽の楽しみの中核ではなくなりつつある、音楽体験のなにに価値を見出すかが変容しつつあるということを示唆しているのかもしれない。むしろ、メディアに媒介され変換されたコミュニケーションこそ、リアリティを持つものとなりつつあるのではないか。

 

 

メディアに媒介された声や音は、「声と身体」との自然主義的なつながりを混乱させ、その混乱が逆に快楽を生むというようなことがあるかもしれないよね。混乱させられた眩暈の快感とでもいったようなことがあるのかも。そんなことないのかもしれないし、そうなってきているような気もするし、ぼくはいまだよくわからない。がしかし、音楽産業と受け手の双方でなにかが変わりつつある、と感じている。

2018/09/22

ニジェールの河内音頭か浪曲か 〜 タル・ナシオナル

 

 

このニジェールのバンド、タル・ナシオナルの2018年作『タンタバラ』というアルバム、今年春前に bunboni さんの以下の記事で教えていただいてすぐ CD で買いました。ロックには聴こえませんけれど、いい作品。

 

 

 

最近、盆踊りだとかお祭りビートだとか河内音頭だとか阿波踊りだとか(は言ってないのか)、そんなことばかりいろんな音楽をつかまえては書いているような気がするぼくだけど、でもタル・ナシオナルのこの新作はマジで日本のお囃子だ。河内音頭かな、いちばん近いのは。でも浪曲っぽくもある。

 

 

なんたってすっごい迫力とナマナマしさじゃないか。だから、ばあいによってはかなりヤカマシイというか、ウルサイのだよねえ〜。つまり、気分によってはさ。音楽ってだいたいどんなもんでも興味ないひとにはヤカマシイものだけど、タル・ナシオナルの『タンタバラ』はどう聴いたって河内音頭なんだから、そりゃあウルサイよ(笑)。

 

 

みなさんがタル・ナシオナルのこのアルバムに好意的なのも、まさにこれが河内音頭だからに違いない。まずアルバム1曲目「Tantabara」を聴けば、リズムが出る前にそれを実感できる。だれが歌っているのか、アルバム一曲ごとに違う声が聴こえるが、この1曲目イントロで、語りに続きコブシをまわすヴォーカリストと、その背後での打楽器の使いかたを聴いてほしい。河内音頭だとぼくが言うのはまっとうだとご納得いただけるはず。

 

 

そうはいっても、リズムが出てからはハチロク(6/8拍子)になるので、そこからは河内音頭や浪曲からやや遠ざかる。けれど、2曲目以後も含め、入れ替わり立ち替わりリード・ヴォーカルをとる全員のコブシまわしの流儀、エレキ・ギターの細かいリフ弾きの反復、バンドのつんのめるような迫力と高揚感など、河内のダンス・ミュージックに相通ずる要素は濃いよなあ。

 

 

それから『タンタバラ』で聴けるドラムスの音、特にスネアのそれは、ややイジってあるようだ。ハイ・ファイなサウンドには聴こえない。でも bunboni さんのおっしゃるように故意にロー・ファイを狙った意図的ミキシングでもない。たぶんこれは一発録りのライヴ感を重視したということなんだろうね。一発録音かどうかはわからないというか、違うんだろうけれど、そういった生、ライヴ感のエネルギーを活かそうとしたと、そういうことじゃないだろうか。

 

 

ドラムスだけでなく、エレキ・ギターの音も、歌手の声も、2018年作にしてはハイ・ファイな録音&ミキシングからちょぴり遠い『タンタバラ』だけど、直前で書いたように、ライヴ感、ナマナマしさを、というのはつまり、どうやらタル・ナシオナルは現場で本領を発揮するライヴ・バンドなんだそうだから、そんなサウンドをなんとか CD(や配信や)などの商品に詰めようとした結果なのかもしれない。

 

 

そんなライヴな現場感重視のレコーディング・プロダクションも、河内音頭に似ている。

2018/09/21

マイルズの7インチ

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いつごろからか CD でもネット配信でも聴けるようになったマイルズ・デイヴィスの7インチ・シングル盤音源。といっても1981年復帰後のもののことじゃなくて、1970年代にリリースされたものの話だ。ぜんぶで六枚九曲。どうして12曲じゃないのかというと、六枚のうち二枚の両面は同じもののパート1、パート2だから。

リリース順に整理すると、以下のとおり。

 

 

「マイルズ・ランズ・ザ・ヴードゥー・ダウン/スパニッシュ・キー」1970

 

「グレイト・エクスペクテイションズ/リトル・ブルー・フロッグ」1970(モノラル)

 

「モレスター、パート1/パート2」1972/9/29

 

「ヴォート・フォー・マイルズ、パート1/パート2」1973/3/16

 

「ビッグ・ファン/ホーリー・ウード」1973/11/2

 

「レッド・チャイナ・ブルーズ/マイーシャ」1975/4/1

 

 

これらのうち、「モレスター、パート1/パート2」、「ヴォート・フォー・マイルズ、パート1/パート2」、「レッド・チャイナ・ブルーズ/マイーシャ」は、いまだ公式 CD(配信でも)リイシューがない。しかし「レッド・チャイナ・ブルーズ」だけは、アルバム『ゲット・アップ・ウィズ・イット』収録のものが約四分程度なので、ほぼ変わらない内容だったかもと推測できる。それ以外はとにかく公式リイシューがないので、聴いて判断していただけない。

 

 

「モレスター」というのは聞き慣れない曲名かもしれないが、これはアルバム『オン・ザ・コーナー』A 面ラストの「ブラック・サテン」だ。ブートレグでなら聴けるので、このことを知っている。そのほか、聴いていないものもあるけれど、アルバム収録のものと同題だから、まあだいたいこんな感じかなと内容を推測できるかもしれない。

 

 

上記六枚のうち、公式 CD リイシューが早かったのは「ビッグ・ファン/ホーリー・ウード」で、2007年の『ザ・コンプリート・オン・ザ・コーナー・セッションズ』六枚目の最後に収録されている。この7インチ・シングル一枚の両面二曲こそ、ぼくはマイルズの生涯ベスト・ソングふたつだと信じていて、実際、カッコイイよなあ。ファンクだけど暑苦しくなく、軽やかで爽やかな風がサ〜ッと吹き抜けるかのよう。上のプレイリストで聴いていただけたらと思います。

 

 

「モレスター、パート1/パート2」「ヴォート・フォー・マイルズ、パート1/パート2」「レッド・チャイナ・ブルーズ/マイーシャ」は公式リイシューがないので、今日はそんな詳しく書かないことにする。ブートで聴ける「モレスター」(aka「ブラック・サテン」)はなかなかいい。なぜなら『オン・ザ・コーナー』収録の「ブラック・サテン」は、イントロとアウトロ以外、どこを切り取っても同じっていう反復だけで成り立っている金太郎飴だから、7インチ用の約三分程度に短縮しても魅力があまり減らない。

 

 

裏返せば、ほかのものはアルバム収録の(展開のある)長尺曲をばっさりとカットしてあるわけで、リイシューがあるから聴いて確認できる「マイルズ・ランズ・ザ・ヴードゥー・ダウン/スパニッシュ・キー」「グレイト・エクスペクテイションズ/リトル・ブルー・フロッグ」(これら四つは2015年発売の『ビッチズ・ブルー:40th アニヴァーサリー・デラックス・エディション』四枚組収録)にしたって、アルバム・ヴァージョンと比較したら魅力が落ちてしまう。

 

 

例外が上で書いた傑作「ビッグ・ファン/ホーリー・ウード」で、はっきりしている理由が二つ。一つは7インチ・シングルとして美味しいようにテオ・マセロの編集の手が込んでいて丁寧だ。もう一つはこの2トラックのソース音源もわりと長い(七分以上)のだが、それは当時リアルタイムで発表されなかった。『オン・ザ・コーナー』ボックスが出たときが正真正銘初リリースだったんだよ。

 

 

 

そんなこともあってか、「ビッグ・ファン/ホーリー・ウード」の編集に際しては、テオがかなりちゃんとした仕事をやっていると、お聴きになればわかっていただけるはず。比べて「マイルズ・ランズ・ザ・ヴードゥー・ダウン/スパニッシュ・キー」「グレイト・エクスペクテイションズ/リトル・ブルー・フロッグ」は、たんに頭の部分から約三分だけを持ってきたのみなど、イージーだよね。

 

 

それら安易な編集だとぼくは感じるシングル四曲のオリジナル・アルバム・ヴァージョンは、すべて『ザ・コンプリート・ビッチズ・ブルー・セッションズ』で聴けるので、もしご興味のあるかたはご確認いただきたい。

 

 

 

そんなわけでぼくの見解では、マイルズの1970年代もの7インチでかなり聴けると思うのは、「ビッグ・ファン/ホーリー・ウード」だけ。上で触れた「モレスター、パート1/パート2」はいまだ公式リイシューがないが、これも悪くないので、出せるなら出してほしい。ほかは、まあちょっと…、どうでしょう?

 

 

しかしいずれにしても1970〜75年のマイルズの音楽を、プロデューサーやコロンビアも腐心して、なんとかポップ(ロック)・マーケットに売り込もうと目論んでいたっていうことは証明できる事実だ。45回転の7インチ・シングルとは、基本、ラジオ放送やジューク・ボックスや、購買力の弱い若年層向けのものだからね。それを70年代にはマイルズだってリリースしていたんだ。

 

 

マイルズのばあい、1969年ごろからのスタジオ・セッションで録音されたものはどれも一曲の演奏時間が長すぎて、本人がいくらあんなふうに発言しても、そのままでは一般のロック/ポップ・リスナー層にはアピールしにくかったはず。45回転の7インチにしようという提案は、たぶんコロンビアのクライヴ・デイヴィスから持ちかけたことだったんじゃないかとぼくは見ている。クライヴは、マイルズ・バンドの(東西)フィルモア出演を実現させた人物だ。

2018/09/20

ブルーズがブルージーになったのは大恐慌のせい?〜 ブラインド・ウィリー・マクテル

 

 

(このプレイリストは、以下で話題にする CD アルバムの内容と似たようなもんです)

 

 

SoulJam 盤2017年のブラインド・ウィリー・マクテル『ダーク・ナイト・ブルーズ:1927-1940 レコーディングズ』。CD 二枚組で全51曲。現在ではこのアンソロジーがこの音楽家入門にはいちばんいいかも。入門者だけでなくファンでもふだん聴きにはこれで充分じゃないだろうか。この時期のブラインド・ウィリーは JSP の四枚組ボックス(2003)も持っているが、ソウルジャム盤に付け加える必要はあまりないし、リマスターされて音質も向上している。フィジカルでなら、っていう話だが。

 

 

ところでブラインド・ウィリー・マクテルが、最近のある時期以後リヴァイヴァルした(でしょ?)のは、ボブ・ディランのおかげだよね。1993年の『奇妙な世界に』(World Gone Wrong)とかあのへんから、ディランだけでなくアメリカの多くの音楽家のなかで再評価の動きが高まった。そのずっと前からタージ・マハールや、それを下敷きにしてオールマン・ブラザーズ・バンドが「ステイツボロ・ブルーズ」をやったりしたが、1990年代以後のディランらのとりあげかたは、ちょっと意味合いが違うように思う。

 

 

ディランはそのもっと前からブラインド・ウィリー・マクテルのことを語っていて、関連曲だって1960年代からありはする。オリジナル楽曲での直截の言及だって遅くとも1980年代にはできていたけれど、おおやけになるのは1990年代に入ってから。あのへんから、なんというかこう、アメリカーナ的なもの&その根源や周辺の検証が進んでいくようになっている。ディランなんかはそんなムーヴメントを牽引するひとりかもしれない。

 

 

そのすこしあとのちょうど21世紀に入ったころから、ブルーズに、世間一般で言う典型的ブルーズ臭さが薄くなりかけていると感じているんだけど、同じ時期にブラインド・ウィリー・マクテルのような人物が再評価されているのが偶然だとは思えない。アメリカ(産)大衆音楽史でブルーズが典型的にあんなに<臭く>なったのは、1960年代のリヴァイヴァル以後か、1950年代のシカゴ・ブルーズからか、はたまたあるいは、もっと前の1930年代あたりから以後かもしれない。

 

 

ジョージア・ブルーズ・マン、ブラインド・ウィリー・マクテルのばあいレコーディング・デビューは1927年10月18日だけど、そのすこし前の20年代半ばにはすでにギターとヴォーカルの腕前が完成していたようだ。ソウルジャム盤『ダーク・ナイト・ブルーズ』は、そのデビュー・レコードからはじまっている。しかしこのアルバム題から、似たようなタイトルの、たとえばブラインド・ウィリー・ジョンスンの「ダーク・ワズ・ザ・ナイト、コールド・ワズ・ザ・グラウンド」みたいなドロドロのエグい世界を想像したら大外れ。

 

 

ブラインド・ウィリー・マクテルのブルーズは、暗かったり重かったり苦しみの(直截の)表現だったりなんてことはほぼない。レパートリーだってブルーズもあるが、伝承曲もバラッドもラグタイムもポップ・ソングもヴォードヴィルもヒルビリーも宗教歌もある。そんなところを上のプレイリストでも聴きとっていただけるはず。黒人/白人という区分でぼくたち素人が抱くかもしれない音楽性の差だって、ないんだ。

 

 

それらの多くがカラリと明るく、ライトでポップだ。なかにはモーン調というか、たとえば「ママ、'テイント・ロング・フォ’・デイ」「ロー・ライダー・ブルーズ」とか、あるいはルース・ウィリスといっしょにやった「ペインフル・ブルーズ」とか、ルビー・グレイズとやった「ロンサム・デイ」とかはブルージーと言えるかも。ここまで録音は1932年以前で、CD では一枚目の話。

 

 

CD『ダーク・ナイト・ブルーズ』だと二枚目になる1933年以後録音になると、ブルージーなモーン調が増えているという事実が興味深い。さらに共演者が定期的に入るようになり、それはだいたいセカンド・ギターのカーリー・ウィーヴァー。当時の妻ケイト・マクテルがサイド・ヴォーカルで参加しているものもある。「デス・ルーム・ブルーズ」「ダイイング・ギャンブラー」「イースト・セントルイス・ブルーズ」「コールド・ウィンター・デイ」「クーリング・ボード・ブルーズ」「ダイイング・クラプシューターズ・ブルーズ」など、ブルージーでメランコリックなものがいくつもある。

 

 

ブルージーといっても戦後のシカゴ・ブルーズみたいなものとはすこし違うのだけど、あきらかに1933年録音以後のブラインド・ウィリー・マクテルの音楽は、それ以前に比べたらやや落ち込んでいて暗く沈んで憂鬱そうに嘆いているかのように聴こえる。明るいダンシングなラグライムや陽気なポップさは失っていないものの、やや調子が変化しているよね。

 

 

ブラインド・ウィリー・マクテルのこの変化の原因に、1929年以後の、かの大恐慌があったのは間違いないように考えるのが妥当な判断だと思うんだよね。あそこからアメリカ社会が経済的に本格復帰したのは、第二次世界大戦に参戦してようやくというところだった。ダウ平均株価が1929年10月の水準に戻ったのなんて、1954年のこと。

 

 

そんな1929〜1941年のあいだに、アメリカ音楽のありようが大きく変化したと思うんだよね。ロック台頭につながるリズム&ブルーズの母胎だったジャンプ・ミュージック、の源流たる黒人スウィング・ジャズ・ビッグ・バンドなど、このあいだに誕生している。この問題は大きなテーマなので、ぼくひとりで考えて書ける日が来るとは思えず、今日のところはおいておく。

 

 

ブラインド・ウィリー・マクテルのばあい、CD『ダーク・ナイト・ブルーズ』二枚目になると、キリスト教信仰のことを歌ったものがグッと増えているという事実もある。一枚目には「ロード・ハヴ・マーシー・イフ・ユー・プリーズ」一曲しかなかったのに、二枚目には「ロード・センド・ミー・アン・エンジェル」「エイント・イット・グランド・トゥ・ビー・ア・クリスチャン」「アイ・ガット・レリジョン、ソー・アイム・グラッド」「ガッド・ドント・ライク・イット」「アイ・ガット・トゥ・クロス・ザ・リヴァー・ジョーダン」(ヨルダン)と、こんなにあるもんね。ちょっぴりそんなことが織り込んである曲だったらもっとある。

 

 

べつにブラインド・ウィリー・マクテルに限った話じゃなくて、大恐慌前〜中〜後のアメリカを生きた音楽家に共通して言えることなのかもしれない。こんなようなことは、たとえばかの9.11(2001年)以後のアメリカ音楽はそれ以前と決して同じではなくなったとか、例のハリケーン・カトリーナ(2005年)以後もまたそうだとか、そのあたりはリアルタイムで知っている最近のことだけど、1929年以後の大恐慌がアメリカ音楽にどれだけの激変をもたらしたのかは、時代も音楽の種類も録音も、遠く古いせいか、あんがいふだん意識にないばあいがあるかもしれない、ぼくはね。

 

 

ボブ・ディランがブラインド・ウィリー・マクテルをおおやけに本格的にとりあげ再評価した1990年代以後表面化したことと、アメリカーナの動きと、このふたつを踏まえた上でこの古いブルーズ・マンの音楽について書こうかなという心づもりではじめて途中まで進んだが、論の筋道が変わっちゃったなあ。まあいいや。このまま手直ししないでアップしようっと。

2018/09/19

チック・コリアのスパニッシュ 〜 個人的履歴書

 

 

どうして好きなのか自分でもわからないジャズ・メンのやるスパニッシュ・スケール・ナンバー。イタリア系とスペイン系のあいだに生まれたチック・コリアのばあい、デビュー期にウィリー・ボボやモンゴ・サンタマリアと仕事をしていたのでスパニッシュ・ナンバーがあるのかも。ぼくがはじめて聴いたのは「ラ・フィエスタ」でも「スペイン」でもなく、「セニョール・マウス」だ。それもスタジオ録音オリジナル(『クリスタル・サイレンス』)じゃなくて、1979年のチューリッヒ・ライヴのもの。

 

 

その「セニョール・マウス」は本当にすばらしい。こっちを先に聴いたのは、間違いなくこれがリアルタイムでの最新盤として大評判だったからで、『スイングジャーナル』誌の、え〜っとなんだっけ、金賞?だったか年間大賞?だっけか、そんな名前のトップの名誉を、たしかギル・エヴァンズの『ライヴ・アット・ザ・パブリック・シアター』と分けあった。だから、それら二枚組と一枚は発売年(1980年だったかな)に買って聴いた。

 

 

そのチック・コリア&ゲイリー・バートン『イン・コンサート、チューリッヒ、オクトーバー、28、1979』がすごくよかったんだ(ギルのも最高)。アルバム全体もいいが、ぼくのばあい、オープニングの「セニョール・マウス」でぶっ飛んでしまって、なにこれ!?!こんなすごいピアノとヴァイブラフォンのデュオ演奏があるの!?と、ブッタマゲちゃった。ゲイリー・バートンのことは、たぶんこのときはじめて知った。

 

 

あまりの感動の大きさにひたりきるあまり、このデュオには ECM レーベルに過去作があるのだと知りもせず、そんなことを調べるなどもまったく頭に浮かばず、ただただチューリッヒ・ライヴの「セニョール・マウス」を聴き狂うばかりだった大学生のころ。チックのマイルズ・デイヴィス・バンドでの活躍は聴いていたが、リターン・トゥ・フォーエヴァーとかのことは、意外かもしれないが CD リイシューがあるまで耳にしていない。ジャズ喫茶でもぼくは出会わなかった。

 

 

ってなわけで、マイルズ・バンドじゃない、チックのリーダー(シップ)作品は、わりと長いあいだ、ゲイリー・バートンとのチューリッヒ・ライヴしか知らなかったんだよなあ。あぁ、恥ずかしい。でも正直に告白することにしたのだ。ぼくはこんなもんです。いやあ、でもねえ、あのチューリッヒ・ライヴ冒頭の「セニョール・マウス」は、マジでそれくらいの、もうこのピアニストの音楽なら人生でこれだけでいい!って思えるほどの最高度の充実演奏だよ。ぼくだけ?

 

 

しかしながら「スペイン」という曲の知名度がかなり高かったがゆえ、そんな曲があるらしいぞという、目で見る知識だけ持っていた。そんなチックの「スペイン」をぼくがはじめて耳にしたのが1991年のマウント・フジ・ジャズ・フェスティヴァルでのゴンサロ・ルバルカバとのピアノ・デュオ演奏↓

 

 

 

これもすごいねえ。冒頭のチックとゴンサロの会話でおわかりのように、これは当夜のこのデュオの余興というかアンコール的なものだった。「"スペイン"?」と言い出したのはゴンサロのほうだよね。自身、キューバのピアニストだからちょっとこれを、というのとチックの超有名代表曲だから、というこのふたつが理由だったのかな?事前に予定していなかったものみたいだよね。

 

 

これの前を含むこのデュオのフル・コンサートも YouTube に上がっているので、もし気が向いたらご覧ください。ゴンサロは最初からドラム・スティックを持ち出してピアノのところまで来て脇に置いている。「スペイン」最終盤でこんなふうにスティックを使うだなんて、あるいは想定していたのかなあ?ともかく、これですばらしい曲だと知ったものの、リターン・トゥ・フォーエヴァーの第二作『ライト・アズ・ア・フェザー』CD を買ってオリジナル・ヴァージョンを聴いたらツマンナイの!ってガッカリしちゃった。

 

 

「セニョール・マウス」にしろ「スペイン」にしろ、ぼくにとっては最初の出会いの感動が大きすぎた。あまりにもすばらしかった。だからふりかえってスタジオ録音のオリジナルも聴こうと、年月が経過することがあってもそうなるのは自然なことだ思うけれど、結果、残念に思えてしまうのもやむをえないことだったのか?

 

 

そんなわけでチックのスパニッシュ・ナンバーのうち「セニョール・マウス」「スペイン」は、(ぼくにとっては)決定的ライヴ・ヴァージョンが最初にできちゃって、その後2018年現在でもこれがまったく変わっていないんだよね。ゲイリー・バートンとのチューリッヒ・ライヴを聴き、ゴンサロ・ルバルカバとやったマウント・フジ・ライヴの、当時(たしか日テレで)テレビ地上波放送されたのを VHS に録画したのを観聴きし、近年は YouTube にあるから音源だけダウンロードして iTunes に取り込んでいる。

 

 

そんなぼくにとって、スタジオ録音(オリジナル)で聴くチックのスパニッシュ・ナンバーは「ラ・フィエスタ」しかないということになってしまうが、それで充分だ。その前に、今日のプレイリスト冒頭にも入れた『ナウ・ヒー・シングズ、ナウ・ヒー・ソブズ』一曲目「ステップスーワット・ワズ」後半部分もあるけれど(これがチック初のスパニッシュ?)、まぁ半分だしね。

 

 

半分といえば、その後のチックが一曲フルのスパニッシュ・ナンバーを書いて演奏するようになってからでも、「ラ・フィエスタ」とか「スペイン」とかは、サビなどでストレート・ジャズ・パートも持っているのだった。そこでは4/4拍子になって、キーもスパニッシュじゃなくなるねえ。「セニョール・マウス」もそうだなあ。う〜ん…。これはチックのスパニッシュ楽曲の特色なの?

 

 

まあいい。「ラ・フィエスタ」のことは、以前、スタン・ゲッツの話をしたときに書いたつもり。録音はリターン・トゥ・フォーエヴァーでやったものがほんの一ヶ月だけ先(ってことはほぼ同時)で、レコード発売も数ヶ月先だけど、どう聴いてもゲッツの『キャプテン・マーヴェル』ヴァージョンのほうがいいよなあ。ぼくにはそう聴こえる。

 

 

 

ただし、アルバム『リターン・トゥ・フォーエヴァー』で聴く「ラ・フィエスタ」は、フローラ・プリムの歌う「サムタイム・アゴー」とメドレー状態になっているのはポイント高し。レコードでは B 面がこのメドレーのワン・トラックだけだったらしいが、CD(かネット配信)でしか聴いていないので。

 

 

で、CD(かネット配信)なら、「サムタイム・アゴー〜ラ・フィエスタ」は、やはりフローラ・プリムの歌う「ワット・ゲーム・シャル・ウィー・プレイ」と連続して流れてくる。ほら〜、レコードもいいけれど、CD やネット配信で聴くメリットだってあるじゃないか。この2トラックでひとつの流れになるもんね。いい感じだ。

 

 

三作目以後のリターン・トゥ・フォーエヴァーはちゃんと聴いているわけじゃないので、なにも言えません。

2018/09/18

原田知世、2007年の音楽と私

 

 

2004年の伊藤ゴローとの出会いによってシンガーとして蘇った原田知世。二名のタッグによるフル・アルバム第一作『music & me』(2007)は、しかしまだそれまでの知世ミュージックからいくつかを引き継いでいるし、曲によってゴローは参加していない。鈴木慶一が手がけているものだって一つある。

 

 

しかし全体的にはやはり伊藤ゴローのカラーというか、それまでテクノ・ポップみたいだったりエスノ・ロックみたいだったりした知世の音楽が、どっちかというとアクースティックな響きが中心のオーガニック・テクスチャーなものへと変貌しているよね。まだ過渡期の印象もあるけれど、間違いない変化を感じとれる。

 

 

たとえば高橋幸宏が手がけている4曲目「Are You There?」。これはバート・バカラック・ナンバー(歌ったのはディオンヌ・ワーウィック)だけど、この知世のヴァージョンではやはりほぼ全面的にコンピューターを使ったデジタル・サウンドが使われていて、アレンジもプログラミングも幸宏がやっている。

 

 

しかしかつてのようなテクノ・ポップ路線から離れつつあるように聴こえるんだよね。もちろん幸宏の手腕がそれだけすぐれているから、デジタル・サウンドに有機的な肉体性を宿らせることに成功しているから、なんだけど、もともとのバカラックのペンの抜きん出た資質とあわせ、知世の成熟したやわらかい声が、それこそが、この「(私じゃない)ほかの女の子といたの?」っていう曲にナマの息吹を吹き込んでいる。フリューゲル・ホーンも効果的だ。

 

 

それなもんだから、「Are You There?」に続けて5曲目にビートルズの「I Will」が来ても、なんらの違和感もないんだ。ポールのこじんまりしたアクースティック・ギター弾き語りだったビートルズのオリジナル(『ザ・ワイト・アルバム』)をなぞるかのように、知世の「I Will」も、伊藤ゴローの弾くギターとパーカッショニストだけという地味で落ち着いた演唱。これはしかしかなりビートルズ・ヴァージョンに近く、ゴロー&知世のタッグならでは、という独創性は薄いかも。

 

 

でも言いたいのはこういうことだ。知世の「I Wil」はまさしくオーガニック・ポップなんだけど(あっ、そういえばビートルズの『ザ・ワイト・アルバム』も1968年のオーガニック・サウンド・アルバムだねえ、いま気がついた)、表面的にはテクノ的なサウンド・メイクをしてある4曲目「Are You There?」と連続して流れがいいってこと。有機質感のサウンドが芯を貫いているなと感じるっていうことだ。

 

 

この視点でいけば、アルバム中唯一鈴木慶一が参加している7曲目「菩提樹の家」は、メロディ・ラインの特色なんかはいかにも慶一節だなと感じるんだけど、音創りは変化してきている。かつて『GARDEN』『Egg Shell』をやったときのような勢いのいいロック・テイストは消え、しっとり落ち着いたやわらかいポップス路線に転向したような雰囲気に仕立ててあるよね。アクースティック・ピアノやフルートも効果的。

 

 

そんな21世紀的なオーガニック・ポップス路線を、知世の『music & me』でいちばん象徴しているなと感じるのが、続く8曲目「シンシア」と、アルバム・ラストの必殺「時をかける少女」新ヴァージョンだ。このふたつは本当にすばらしい。伊藤ゴローの力を借りて、あ、いや、逆か、伊藤ゴローが自らの音世界を具現化するための最好適なベスト・シンガーとして原田知世を選び、二名コンビで新しい高みにあるような音楽を表現できているじゃないか。

 

 

「シンシア」も「時をかける少女」もボサ・ノーヴァにアレンジしてあって、伊藤ゴローの弾くナイロン弦ギターを中心に少人数のアクースティック楽器しか用いられておらず(ベースもコントラバス)、ふわりと暖かい空気のように漂うアンビエントふうな音像に乗って、知世のややハスキーになりつつある、声量の小さい、決して張らないヴォーカルが、やさしみを増している。

 

 

だいたいにおいてブラック・ミュージック(的なもの含む)の愛好家であるぼくで、ファンキーで強靭なガツンと来るリズムとサウンドが好きで、ヴォーカルなんかも、たとえばジェイムズ・ブラウン(アメリカ)や サリフ・ケイタ(マリ)やヌスラット・ファテ・アリ・ハーン(パキスタン)みたいな、あんな声の出しかたが好きなんだけど、いつもいつもそういうものばかりじゃない。

 

 

端的に言えば "TPO” ということだけど、あ、いや、ぼくも歳とったということか、気分や時間帯や季節や年齢などの変化によって聴きたいものの傾向と種類が大きく変貌することもある。最近の個人的メンタルに、こんな<伊藤ゴロー&原田知世>コンビの音楽が真に沁みるなぁ〜って、本心からそう思う。

 

 

どんな音楽を聴きたいか、実際どんなのを聴いているかは、やっぱりそのときさまざまなんだけど、 ま、いま当面は知世ちゃんで。

2018/09/17

原田知世の、なんて楽しくなんて美しい世界

 

 

鈴木慶一がプロデュースした原田知世のアルバムが、いつの間にか Spotify で聴けるようになっているじゃないか。昨晩(2018.9.6)深夜11時半過ぎまでウッカリ気づかずにきたぼくががおろかだった。だから、昨年12月の記事で書くことを諦めた知世マイ・ベスト・セレクションを、そのまま Spotify のプレイリストとして作成することができたのでやっておいたのが上のリンク。昨年12月の記事とはこれ↓

 

 

 

おっと、こっちこそしっかりアルバム音源のリンクを書いておこう。鈴木慶一プロデュースの知世ちゃん二作、『GARDEN』と『Egg Shell』。伊藤ゴローがプロデュースしたものは前からぜんぶある。

 

 

・原田知世と鈴木慶一の世界(1)〜『GARDEN』

 

 

 

・ムーンライダーズな原田知世 〜 原田知世と鈴木慶一の世界(2)

 

 

 

これら二作、それぞれ昨年10月と12月にこのブログで文章を書いたものだけど、そのリンクは恥ずかしいから書きません。CD でお持ちでないかたも、この Spotify にあるやつで<知世+慶一>の音楽を聴いていただければそれで充分幸せです。どうか、よろしくお願いします。

 

 

鈴木慶一プロデュース作も Spotify で聴けるようになったのでシェアできる知世マイ・ベストのプレイリストは以下。もし興味をお持ちになって CD でも買ってみたいとおっしゃるかたでもいらっしゃればと思い、収録アルバム名を付記しておく。

 

 

1) September(恋愛小説2 - 若葉のころ)

 

2) 月が横切る十三夜(Egg Shell)

 

3) さよならを言いに(GARDEN)

 

4) 中庭で(GARDEN)

 

5) 夢迷賦(GARDEN)

 

6) UMA(Egg Shell)

 

7) キャンディ(恋愛小説2 - 若葉のころ)

 

8) 年下の男の子(恋愛小説2 - 若葉のころ)

 

9) SWEET MEMORIES(恋愛小説2 - 若葉のころ)

 

10) ダンデライオン~遅咲きのたんぽぽ(音楽と私)

 

11) うたかたの恋(音楽と私)

 

12) 天国にいちばん近い島(音楽と私)

 

13) くちなしの丘(音楽と私)

 

14) ときめきのアクシデント(音楽と私)

 

15) 時をかける少女(music & me)

 

 

ぼくがこういったプレイリストをつくるばあいのくくりは、多くのばあい CD-R に焼く際一枚におさまるか、ということだ。この知世マイ・ベストも1時間10分だから可能。もちろんその限りではない二時間超のセレクションもあったりするが(たとえば「プリンス 30」)、レコード片面とか CD 一枚という尺は、やはり意味のある時間の長さだったという気がする。

 

 

1「September」の歌詞内容はつらく苦しい失恋だけど、アレンジとプロデュースの伊藤ゴローは楽しく快活なジャンプ・ナンバー、言ってみればファンク・ミュージックっぽいグルーヴァーに仕立ててあるのがとてもいいよね。沁み込みすぎない中庸の、楽しくやわらかい、そしてなにより爽やかな情緒を持たせることに成功している。

 

 

同じグルーヴァーでも、2「月が横切る十三夜」、6「UMA」などと聴き比べれば、伊藤ゴローと鈴木慶一との持ち味の違いが鮮明になってくる。ロック・ファンなら鈴木慶一の手がけた曲のほうに共感度が高いかも。しかしそうでなくとも、「月が横切る十三夜」のこのノリなんかは文句なしに最高じゃないか。知世のヴォーカル資質とも合致していて、も〜う、たまら〜ん!

 

 

2〜6曲目の鈴木慶一&知世作品群には、エスノ・ポップ/ロックという趣を持たせるという意図もぼくにはある。ムーンライダーズ的でもある。3「さよならを言いに」では沖縄音階を使いつつダブ(ジャマイカのレゲエから発展したひとつ)ふうな音処理を施してあるという絶妙な逸品。4「中庭で」は無国籍アンビエント。5「夢迷賦」は中国音階だけど、人声やパーカッション(デジタル・サウンド?)の使いかたはホルガー・シューカイっぽい?

 

 

7曲目以後の伊藤ゴロー・プロデュース楽曲については昨年あれほど書いたので、繰り返さない。7〜9がカヴァー・ソングで、10以後は知世自身の過去レパートリーに新しい衣をまとわせて歌いなおした再演。すべてがとても美しい。ゴローのサウンド・メイクが絶品だけど、知世の声と歌いまわしがやはり大きな落ち着きと豊かな表情を獲得している。ゴローもそんな歌手としての知世を最大限に活かすべくペンをふるっている。あるいはゴローの表現したい世界に知世の声がよく似合っているというべきか。

 

 

なかでも特に9「SWEET MEMORIES」(松田聖子)。ここでもソプラノ・サックスが聴こえるのが伊藤ゴロー・アレンジの目立った特色だと思うんだけど、それ以外にはほぼ弦ハープ一台だけ。それに乗って知世がこの、失った恋を想う哀しく切ない歌を、しっとりと綴るのがたまらない美しさ。歌詞は松本隆。

 

 

10曲目以後のオリジナル楽曲再演篇でもきれいな知世だけど、ことに坪口昌恭のピアノ伴奏だけで歌う12「天国にいちばん近い島」なんか、絶品美。泣きそうになっちゃうよ。坪口はどうしてこんな和音を弾けるんだろう?これは坪口のスタイル?伊藤ゴローの指示?どっちにしても、愛を美しく語るこの知世のヴォーカルでトロトロに蕩けてしまう。

 

 

セレクション・ラストの15「時をかける少女」。2007年のアルバム『music & me』のラストに収録のヴァージョンで、それは昨2017年8月リリースのベスト盤『私の音楽 2007-2016』のトップをも飾っていた。知世最大のヒット曲で知名度があまりにも高いが、昨年に縁あってはじめてちゃんと聴いてみた知世の音楽のうち、まず最初「September」でガンと感動し、このボサ・ノーヴァな「時をかける少女」で完璧に骨抜きにされてしまった。

 

 

あぁ、なんて美しい世界、このまま溶けてしまいたい。

2018/09/16

ドナルド・バードのスロー・ドラーグ

 

 

1967年録音68年発売のドナルド・バードのブルー・ノート作品『スロー・ドラーグ』。もちろん #BlueNoteBoogaloo のひとつで、これまたドラムスがビリー・ヒギンズ。ルー・ドナルドスンの『アリゲイター・ブーガルー』の年でもあって、だからさ、あのへんのみんながさ、この1960年代後半〜末ごろに同じファンキーなラテン・ジャズ路線を歩んでいたと思うんだよね。個人的大好物だから、書き続けている。

 

 

ドナルド・バードのアルバム『スロー・ドラーグ』は、もうなんたってオープナーの「スロー・ドラーグ」で決まりだ。2曲目以後もかなり聴けるものがいくつかあるが、1曲目の牽引力があまりにも大きい。ところで slow drag は音楽用語で、スコット・ジョップリンなんかも使っているもの。ゆっくりしたテンポで重たく引きずるような(ダンス用であることも多い)粘っこい曲調を指すのがスロー・ドラーグ。

 

 

ブルー・ノート(じゃなくても)・ブーガルー・ジャズ全般に言えることだけど、さほど速すぎないテンポでタメを効かせ、じんわりと炎を燃やし徐々に昂まっていくような、そんな作風のジャズ楽曲・演奏が、こういった傾向の作品には多いと思うんだよね。「スロー・ドラーグ」もまた同じ。

 

 

曲「スロー・ドラーグ」では、シダー・ウォルトンの、強烈なゴスペル感を持つ重たいリフからはじまる。ピアニストは、曲全体を通し、ほぼずっとこのヘヴィ・リフを弾き続けている。毎コーラス終わりのコード・チェンジ部分でだけ、その変形みたいなものになるけれど、こういったブーガルー・リフをピアノが弾くのを曲の土台とするのは、ハービー・ハンコック「ウォーターメロン・マン」(1962)、リー・モーガン「ザ・サイドワインダー」(1963)からずっと変わらぬ創りだ。

 

 

曲「スロー・ドラーグ」の目立ったユニークさは、ヴォーカルが聴こえること。メイン・テーマ演奏前のイントロ部ですでにしゃべっているのがビリー・ヒギンズ。それが実にいいフィーリングをかもしだしているよねえ。大好きだ。これ、1967年5月12日録音なんだけど、この当時、こんなファンキー・ヴォーカルが聴けるジャズって、あったっけ、なかったよね。

 

 

ビリー・ヒギンズのヴォーカルは、トランペット、アルト・サックス(ソニー・レッド)と続くソロのあとすぐまた入ってきて、今度は本格的にしゃべっている。そこはいちおうはピアノ・ソロ部なんだけど、これはもはやヴォーカルをフィーチャーしたパートとでも言うべき。独り言というかツイートみたいなもんだけど、リラックスもしていて、「スロー・ドラーグ」という曲想によく似合っているしゃべりだ。

 

 

それが終わるとそのままメイン・テーマ最終演奏になるんだよね。ストレートに音を出さずベンドを多用するドナルド・バードのトランペット・ソロ、ソニー・レッドのアルト・サックス・ソロも、きわだって見事。前者のノート・ベンドはハーフ・ヴァルヴを多用しているのかな(あるいはリップ・スラー?)ブルージーさや重たいファンキーさを出し、後者も(いつでもそうだが)独自の発音でフレジングも強く、フリーキーな感触すらあるトーンがカッコよく、五人一体となって、曲「スロー・ドラーグ」は真っ黒けだ。

 

 

いやあ、1967年録音で、こんなにもカッコいいブーガルー・ジャズがあったんだろうか、なかったよね。曲もドナルド・バードが書いたものだけど、「スロー・ドラーグ」、最高だ。ぼくのばあい、このトランペット奏者にファンキー路線の作品があると承知はしていたつもりだったけれど、まったく不明だったと告白しないといけない。今年五月のレーベル公式プレイリスト #BlueNoteBoogaloo で教えていただいたのだ。「スロー・ドラーグ」には、はっきり言ってひっくり返るほどビックリしましたね、あまりにカッコイイんで。

 

 

 

ドナルド・バードのアルバム『スロー・ドラーグ』。ほかの収録曲もちょっとだけ走り書きしておこう。ラストの6曲目「マイ・アイディール」は、アルバム唯一のポップ・スタンダード。これと2曲目「シークレット・ラヴ」、5曲目「ザ・ローナー」は、新主流派寄りのトーナリティとリズムだけど、まあふつうのメインストリーム・ジャズかなと思う。

 

 

3曲目「ブックズ・ボッサ」、4曲目「ジェリー・ロール」は、ブルー・ノート・ブーガルー的と呼んでいいような要素がちょっぴりあるのかもしれない。前者は曲題どおりボサ・ノーヴァ調で、このアルバムでベースを弾くウォルター・ブッカーの作品。ビリー・ヒギンズのドラミングがやはりうまいのと、シダーのピアノ・リフがいい。異様なソニー・レッドのソロも聴きものかな。

 

 

そんなソニー・レッドをフィーチャーしたのが、4曲目「ジェリー・ロール」。ピアノ・リフや、ソロ背後で入るホーン・リフを聴いてほしい。笑っちゃうほど「ザ・サイドワインダー」でのバリー・ハリスのパターンにウリ二つじゃないか。曲題ほどは猥雑感と粘っこさのないあっさりジャズ・ロックだけど、これはひょっとしてリー・モーガンの『ザ・サイドワインダー』に参加していたビリー・ヒギンズが主導権を握っていたかもしれないね。ドラミングといい、曲全体のリズム・パターンを主導している印象がある。

2018/09/15

ローザ・エスケナージ

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わりと好きな女性レンベーティコ歌手、ローザ・エスケナージ。

持っているのはぜんぶで20曲。ローザの歌にかんしては、トルコのカラン・レーベルがリリースした『レンベーティカ』(Rembetika Aşk Gurbet Hapis ve Tekke Şarkıları、2007)と、イギリスの JSP(なぜここが?) リリースの『レンベーティカ』(2006)、『レンベーティカ 2』(2008)、『レンベーティカ 8』(2012)収録のものを持っているだけ。JSP は同シリーズをもっとたくさんリリースしていてぜんぶ買ったけれど、ローザが入っているのはこれだけじゃないかな。

 

 

それらからローザ・エスケナージの歌だけを選び出して、iTunes でひとつのプレイリストにまとめてあるのだった。CD-R にも焼いているし、iPhone にだって入っているのでどこででも聴ける。ローザのことは、たぶんぼくが聴いた範囲のレンベーティコ歌手のなかではいちばん好き。性別・年代問わず、大好き。

 

 

上記 CD アルバム収録曲は、レコード(録音?発売?)年の記載がないものもあるので、たんに収録アルバムごとにずらっと並べたぼくのローザ・エスケナージ・プレイリスト全20曲が以下のとおり。年の記載があるものは右に書いておいた。Rozika 名になっているのも同じひと。注意しないといけないのは iTunes に取り込む際、演者名欄が "Various" になってしまうものが数曲あった。

 

 

1. I Dzerkeza (The Circassian Girl)

 

2. Gazeli Sabach, Sti Mavri Yi Chrosto Kormi (I Owe My Body To The Black Earth)

 

3. Mas Kynigoun Ton Argile

 

4. Ime Prezakias

 

5. Merakli Rast Manes (1932)

 

6. Binda Yiala (1932)

 

7. Voliotissa (1934)

 

8. Mes' Tou Zambikou Ton Teke (1932)

 

9. Aravi Sabach, Dounia Pos Me Katindeses (1933)

 

10. Yiannoula (1934)

 

11. Yiannousena (1934)

 

12. Pali Mou Kanis to Vari (1936)

 

13. Hijaz Gazel, Polles Fores Ki I Kardhia (c. 1950s)

 

14. Gazel Nihavent (1936)

 

15. Hariklaki (1932)

 

16. Arapi Gazel Uşak (1934)

 

17. To Kanarini / Kanarya (1934)

 

18. Kadifes /Kadife (1930)

 

19. Çakıcis / Çakıcı (1954, Intanbul)

 

20. Min Orkizese Vre Pseftra / Yemin Etme Yalancı Kadın (1936)

 

 

1〜4 from "Rembetika" (JSP)

 

5〜7 from "Rembetika 2" (JSP)

 

8〜13 from "Rembetika 8" (JSP)

 

14〜20 from "Rembetika Aşk Gurbet Hapis ve Tekke Şarkıları" (Kalan)

 

 

ローザ・エスケナージは1883〜90年ごろのコンスタンティノープル(イスタンブル)生まれ。ユダヤ人の、いわゆるセファルディの娘で、第一言語はトルコ語だけど、多言語話者。かなり若いころにギリシア(テッサロニキ、その後アテネ)に移住。1929年ごろからレコード録音を開始したらしく、その後1970年代まで活動したとのこと(レコーディングは1960年代末あたりまで?)。亡くなったのは1980年12月2日。ってことは、上のセレクションはほぼ第二次世界大戦前の古いものばかりってことか。そういったアルバムしか持っていないんだから当然だ。

 

 

ローザ・エスケナージはスミルナ派レンベーティカの大きな存在らしく、しかしスミルナ派とピレウス派の味わいはたしかに違っているな、やっぱりスミルナ(イズミル)派のほうがいっそう魅力的だなとは聴けばわかることだけど、ローザがレンベーティカ史においてどんな存在なのかは、不勉強なのでよくわからない。

 

 

ただただローザ・エスケナージの歌が(同時に楽器をやっているばあいもある)、というか声が、魅惑的だなあと、そこにとても強い引力を感じ、ほかのレンベーティコ歌手ではやっていない単独プレイリストを数年前から作成して楽しんでいるっていうわけ。どのへんにそんなに強く惹かれるのか、自分でもロジカルにはちゃんと説明できない。

 

 

ローザ・エスケナージの声に漂っている強いメランコリー、ってことなのかなあ。なにか大切なものを喪失した、あるいはもとから一度も得られたことのない、そんな人間の持つ感情、自分は永遠にだれにも理解などされない、満たされることなどないのだという、そんなフィーリングを心情の根底に持つ人間だけが表現できる、ある種の憂い 〜〜 みたいなことなのかどうなのか、わからないが、ローザの声のトーンにはそんなものがあるような気がするような。

 

 

ローザの歌にぼくが強い共感をおぼえるのはこういったことなんだろうか?

 

 

上で書いたセレクション・プレイリストで聴けるローザの歌はどれもすばらしく美しいが、個人的な実感としては特に、たとえば2「Gazeli Sabach, Sti Mavri Yi Chrosto Kormi」(記載がないが、これもたぶん1930年代ごろだろう?)、16「Arapi Gazel Uşak」、20「Min Orkizese Vre Pseftra / Yemin Etme Yalancı Kadın」などは絶品中の絶品だ。

 

 

 

 

 

端的に言えば、これぞスミルナ派レンベーティカの真髄だと言えるチャームなんだけど、少人数編成の伝統的な伴奏をともなって、ローザが強い色気を薫らせながら強い声でフレーズをまわし、クラシカル・ヴォイスで典雅な気品をも香らせ、精神的に定まらない放浪の哀しさ、さびしさ、あこがれを美しく表現している。伴奏陣との掛け合いのタイミングも絶妙だ。

 

 

決してどこにも所属しない、なんの仲間にも入れてもらえようがない、入るつもりもない、どこともだれともつながりがない、帰るところがないが行く宛もない 〜〜 簡単に言ってだれも愛さずだれにも愛されない "exile" の悲嘆を、ローザ・エスケナージの声質に聴きとることができるように思う。

 

 

そんなローザのことが大好きなんだ。

2018/09/14

オールド・ワイン、ニュー・ボトル、になりかけ? 〜『マイルズ・イン・ベルリン』

 

 

マイルズ・デイヴィスの『マイルズ・イン・ベルリン』。このジャケットをご覧いただきたい。右上に「ステレオ」って堂々と書いてあるよね。ものによってはこれがない(日本盤はむかしもいまもない。ドイツ盤も?)。そりゃそうだよ、ウソだもん。中身はリアル・ステレオじゃない。「ステレオ」と銘打ったものは擬似ステレオっていうやつ。現場ラジオ局のスタッフが録音したオリジナル・テープは、モノラルのものしかない。

 

 

『マイルズ・イン・ベルリン』は1964年9月25日の西ベルリンでのライヴ収録で、まずドイツ CBS から1965年2月1日に発売されたレコードが初版。それをもとに日本でも1968年にレコード発売された。母国アメリカで発売されたのがいつのことか、調べてもわからなかった。データを自力で発見できなかったけれど、どなたかご存知のかたがいらっしゃると思いますので、教えてください。さらにどの段階で疑似ステレオで発売され(アメリカでだけ?最初から?)、いつごろのリイシュー CD からちゃんとモノラルに修正されたか(ドイツと日本ではずっとモノ盤だけのような?)も、きちんとしたデータを見つけられなかった。どうかお願いします。

 

 

ぼくの記憶が間違っていなければ、35年以上前の大学生のころに買ったレコードは疑似ステレオだったように思う。21世紀に入りしばらくしてからのぼくがふだん聴く日本ソニー発売の CD はリアル・モノラル。しかも一曲、レコードにはなかったボーナス・トラックがあって、旧 B 面の「ソー・ワット」と「ウォーキン」のあいだに「ステラ・バイ・スターライト」が入っている。これで当夜のフル・コンサートをそのままの曲順で再現だと、データ的な資料でわかっている。

 

 

ここまでは瑣末な周辺情報だった。みなさんご存知のとおり『マイルズ・イン・ベルリン』は、ウェイン・ショーターがバンドのレギュラー・メンバーとなってはじめての演奏記録だ。公式でもブートレグでもそう。ベルリンの前が、サム・リヴァーズ参加の『マイルズ・イン・トーキョー』で、このあいだには非公式音源も存在しない。

 

 

ウェインが参加してバンド・サウンドにどういった変化があるか?がやはり最大の着目点になると思うんだけど、実際、変わりはじめているよね。特にリズム面。ボスのマイルズの演奏スタイルに大きな違いは聴きとれないが、サックス・ソロ、ハービー・ハンコックのピアノ・ソロ、それら二者の背後でのリズム・セクションの動きに、柔軟性、躍動感、そして崩壊一歩寸前に達さんとする抽象化の動きまで読みとれる。しかもそれがリリシズムと一体化しているケースだってある(「枯葉」)。

 

 

マイルズの音楽はずっと生涯にわたりそうだったけれど、リズム面での革新に大きな意味を持たせているばあいが多い。『マイルズ・イン・ベルリン』で聴けるウェイン効果もやはり同じくリズム面での刷新が大きいと思う。(現行)アルバムの全五曲中、それが最もわかりやすいのが「枯葉」と「ウォーキン」じゃないかな。実際、この二曲がこのライヴ盤のハイライトだ。

 

 

「枯葉」では、絶妙きわまりないリリカルさを発揮するマイルズのソロがやはりいちばんいいんだけど、みんな、その次、二番手のウェインのソロをあまりにも軽視しすぎだ(特に某ナカヤマさん)。テナー・サックスで吹くフレイジングの表情にリズミカルな変化をつけ(発音の質、音量も多彩だが)、細かくクネクネとうねったり、大きな同一フレーズをシンプルにリピートしたりなどしながら、リズムの三人を刺激している。実際、ピアニスト、ベーシスト、ドラマーは、マイルズのバックでの淡々とした伴奏では聴けない変幻するカラフルな表情を見せているよね。

 

 

三番手ハービー・のピアノ・ソロ(四番手ロン・カーターのベース・ソロはなんでもない)だって、ウェインがつけたリズムの陰影をそのまま引き継いでいるじゃないか。かなり刺激されているとわかる。テナー・サックス・ソロの最終盤でウェインが同一フレーズを反復し、その背後でリズム三人がブロック・リフを合奏して、四人でグイグイ盛り上がるところは最高なんだけど(某ナカヤマさん、聞いてますか?)、そのままサックス・ソロが終わるので、次のハービーのソロへの大きなお膳立てにもなっているんだよね。

 

 

こういったことがさらに顕著になっていてわかりやすいのが「ウォーキン」。この演奏で、新クインテットの新化学反応を最も強く感じることができる。やはり三番手ウェイン、四番手ハービーのソロが聴きもの。ウェインはかなりな程度まで抽象化を推し進めているよね。ことにテンポの扱いが柔軟というか、種々の変化をつけて、あわせてフレイジングも変えている。ってか、こんなフレーズを吹きたいからこんなふうに自在にテンポ・チェンジするってことか。もはやソロ全体の均衡や統一性を欠く一歩手前まで来ている。

 

 

背後の三人、特にハービーがあまりにも強くそんなウェインのソロ内でのテンポ・チェンジに影響を受けたバッキングをしているでしょ。ウェインがソロの最後で、曲「マイルストーンズ」のテーマ・リフを引用して終わると、次の四番手ハービーのソロは、途中からガクンとテンポ・ダウンし、スロー・ブルーズになってしまう。しまう、というのは悪い意味じゃなく、とても美味しい。エイヴリー・パリッシュの「アフター・アワーズ」みたいで、とてもいいよね。

 

 

そこだけじゃなく、一個のピアノ・ソロのなかでこんなにどんどんテンポを多彩にチェンジさせながら弾くハービーは、この「ウォーキン」でしか聴けないんじゃないかと思う。ベーシストとドラマーもすべての局面で即応しているしね。ピアノ・ソロの最後にはもとどおりの急速調になって、テーマ合奏に戻る。

 

 

『マイルズ・イン・ベルリン』の全六曲は、他作スタンダードもマイルズ自作も、すべて古いもの。『E.S.P.』を録音するまでは新レパートリーがないんだから当然だけど、それにしても古酒だ。しかし1963年以来マイルズが繰り返してきたライヴ・ツアーのその記録されているもののなかでも、ベルリン・ライヴは新めの容器に入っている、やりかたが斬新だという感があって、やはりな、さすがはウェイン、そしてそれを見抜き招いたマイルズだけあるな、と感心する。

2018/09/13

ジェリー・ロール・モートンの晩年録音が枯れてて渋くて、実にいい

 

 

(Spotify にあるこれは今日話題にするアルバムではありませんが、本文で触れる曲がすべて収録されています)

 

 

1941年7月10日に50歳で亡くなったジェリー・ロール・モートン。晩年にはなにもなくなってだれもおらず、異常とも言いたいほどハイ・レヴェルなジャズ音楽家としての実力に反比例するがごとく(自分の性格のせいとはいえ)実人生は幸せじゃなかったみたいだ。っていうかまぁプロ音楽家の「実人生」とは音楽サイドにだけあるのかもしれないから、その点ではモートンの生涯も最高に充実していて、幸せだったということになるのかな。そうだったと、せめて信じたい。

 

 

そんなモートン晩年のジェネラル原盤集『ラスト・セッションズ:ザ・コンプリート・ジェネラル・レコーディングズ』。全25曲のうち13曲目までがソロ・ピアノ(と曲によっては自身の歌も)。その後がバンド編成での録音(で、やはりだいたい歌う)。どれもニュー・ヨーク・シティでのセッションで、1939年と40年。これに収録のもので、モートンの録音音楽家としての生涯は終わった。

 

 

モートンの『ラスト・セッションズ』は、ジャケットをごらんになっておわかりのようにコモドア盤のデザインだ。この CD アルバムに収録されれている SP 音源のうちの一部がコモドア・レーベルから12インチ LP となって発売されたことがあるからだろう。CD は1997年の GRP 盤で、そのほかもコモドア・ヴォールトはここがリイシューしている。

 

 

アルバム前半部のソロ・ピアノと後半部のバンド演奏とではかなり印象が違っている。バンド演奏ものでも、モートン自身がヴォーカルをたくさんの曲でとっていて、その渋くてしんみりした味はとてもいいのだけれど、演奏じたいはにぎやかだったりするものがある。孤独感、寂寥感がちょっぴり薄れているっていうか、少なくともセッション時の演奏仲間はいるわけだから。

 

 

だから、今日はモートンのアルバム『ラスト・セッションズ』14曲目以後のバンド編成録音については触れないつもり。すこしだけ書いておくと、編成が六人か七人で、バンドの名義もホット・シックスとかホット・セヴンとか、演奏内容からしても、たぶんルイ・アームストロングの1920年代後半オーケー録音を意識したのかなと思えるフシがある。ピアノの弾きかただって、モートンのほうが先輩だけど、アール・ハインズ・スタイルが聴ける。

 

 

そんなアール・ハインズ化したモートンのピアノがイントロを弾く17曲目「ビッグ・リップ・ブルーズ」は、ひょっとしたら「ベイズン・ストリート・ブルーズ」を下敷きにしたかもしれない。そんなふうにぼくには聴こえる。22曲目「ダーティ、ダーティ、ダーティ」はモートンお得意の Spanish tinge、すなわちアバネーラ調で、なおかつ曲題はあの言葉遊びに言及したのかもなあ。24曲目「ママズ・ガット・ア・ベイビー」も、モートン主導でダーティ・ダズンふうなヴォーカル掛け合いが聴ける。

 

 

アルバム前半のソロ・ピアノ(での弾き語り含む)13曲。1〜8が1939年12月14日録音、9〜12が1939/12/16、13が1939/12/28。6曲目がおなじみ「キング・ポーター・ストンプ」で、この曲のことが本当に大好きなぼくは、同じモートンの同じソロ・ピアノ演奏ヴァージョンなら、1923年のジュネット録音に比しシャープさが薄れややだらしなくなっているこの1939年ヴァージョンだって、好きだ。このメロディがね、本当に楽しい。23年ヴァージョンにはないブギ・ウギなニュアンスだってあるしね。

 

 

 

 

これの前の3曲目「ザ・クレイヴ」もラテンでいい。これも Spanish tinge。アバネーラふうに左手が跳ねるやつ。1920年代のソロ・ピアノ録音からたくさんあるとみなさんご存知のとおり。ニュー・オーリンズの、ジャズだけでない音楽家には抜きがたいラテン〜カリビアン・テイストで、それがアメリカ大衆音楽の根幹にあるのだとぼくも認識している。モートンのばあい、ラテン・タッチはエレガントで泥臭くなく野趣はない。

 

 

 

しかしこの1939年のモートンのソロ・ピアノ録音群で本当にいいなあと沁みるのは、7曲目以後のヴォーカル入りナンバーだ。それら7〜13の全七曲では、10曲目の「ザ・ネイキッド・ダンス」以外すべてでモートンが歌っている。その声がね、実にいいよ。21世紀の医療と平均寿命からしたらまだかなり若いと言える年齢だけど、見事に枯れきっている。渋くて、味わい深い。本職じゃないはずなのに、ヴォーカルのほうがいいよ。ピアノよりも。

 

 

7曲目「ワイニン・ボーイ・ブルーズ」も沁みるけれど、なかでもかなりな有名曲になった9「バディ・ボールデン・ブルーズ(アイ・ソート・アイ・ハード・バディ・ボールデン・セイ)」が、も〜う最高だ。えもいわれぬよい香り。枯れていて、まさしく老境。ひとりでピアノで弾き語りながら、実際ひとりぼっちになっていたモートンが、若いころの故郷ニュー・オーリンズでのジャズ・メンのことをしんみりとふりかえっている。こんなノスタルジーがいつもそばにあればいい。

 

2018/09/12

プリンスの『ケイオス・アンド・ディスオーダー』がマジでいいぞ

 

 

どこからどう聴いても楽しいプリンスの『ケイオス・アンド・ディスオーダー』(1996)。しかし、このワーナー最終作、あまりにも評価が低い。不当に低すぎるだろう。最大の理由はリリース事情と次作の充実度にあると思う。ワーナーとの契約消化のためにだけ制作・発売されたアルバムで、ワーナーとしてもプリンス本人としても気持ちがなく捨て鉢で、双方ともプロモーションらしきものをほぼやらなかった。両者の関係はすでに終わっていた。次作『イマンシペイション』はくびきを解かれた音楽家の幸福感に満ちている三枚組で、たしかに大充実のメガ傑作だ。

 

 

そんなわけで『ケイオス・アンド・ディスオーダー』は、プリンス好きですらあまり聴かない。ましてや一般の音楽リスナーだったら見向きもしない一枚じゃないかな。小出斉さんのような専門家でも(「プリンス唯一の汚点」と)おおやけに低評価の烙印を押していらっしゃるほどで、う〜ん、まあたしかにそうかもしれませんが〜、ぼくは大好きなんだよね、このイタチの最後っ屁みたいな、たった39分ほどのアルバムを、イタチの最後っ屁的リリース事情(そんなもん、いまや関係ないんだから)は無視して、純に音だけ聴けばさ。みんな〜、そうしてる?

 

 

『ケイオス・アンド・ディスオーダー』は、特にストレート・ロックが、それもクラシカルな、つまり古いロックがお好きな音楽好きのみなさんだったら好物に違いない、聴きやすいものだと思うんだよね。ブルーズ・ベースで、ラフでルーズで、ノリは軽快で爽やかな雰囲気すらある。ちょうど目覚めのときに聴くモーニング・ロックとでもいうような雰囲気のサウンドじゃないかなあ。歌詞がエクスプリシットだったりするものもあるけれど、この程度だったら清涼。

 

 

そう、プリンスの『ケイオス・アンド・ディスオーダー』は、1970年代初期っぽい香りのするアメリカン・ロック・アルバムなんですな。&ギター・ロック。ラガマフィンみたいなものが聴こえたりもするが、そんな時間でもその土台になっているサウンドはクラシカル・ロックだ。エレキ・ギターの音色選択と使い分け、フレイジングだって、プリンスはそこをかなり意識してそうだよ。ぼくにはそう聴こえる。

 

 

そしてちょっぴりシティ・ポップっぽい(曲もある)よね。10「ディグ・ユー・ベター・デッド」だけがちょっぴりデジタル・ビートっぽいかもなと思うだけで、それを除けば、ヤな言いかたすれば古き良き時代のロック・サウンドを蘇らせている。それだからプリンス・ファンや若い音楽リスナーや、音楽の新しさに価値を見いだす専門家のみなさんに評判が悪いのかもしれない。そんな気がする。でも1990年代はそんなクラシカル・ロックの復古ブームみたいでもあったと記憶しているんだけどねえ。

 

 

ぼくみたいに50台半ばより上の世代で、ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンや、あれっ?どっちも英国勢だぞ、じゃあアメリカン・ロックならたとえばオールマン・ブラザーズ・バンドとか、あそこらへんにシンパシーと思い入れが強いような音楽好き、ロック・ミュージック・リスナーにとって、プリンスの全カタログ中最も近づきやすいのがこの『ケイオス・アンド・ディスオーダー』なんじゃないだろうか。

 

 

つまりまあ、そのあたりの音楽をプリンスに求めないひとのほうが多いってことなんだろうね。虚心坦懐に音だけを聴けば、『ケイオス・アンド・ディスオーダー』は親しみやすく、わかりやすく、ノリよく軽快なギター・ロックで、しかもなんだかアマチュア・ロック・バンドっぽさがある…、というと怒られるに違いないこの演奏力の高さなんだけど、プリンスのバンドだからね。いつも丁寧緻密に創り込むスタジオ作業で有名なんだから、そこからしたら相当ラフで、いい意味でテキトーだ。

 

 

ロック・ミュージックのばあい、これも嫌いな言葉だがファイト一発みたいな勢いまかせのユースネス、荒っぽさ、乱雑さ、パパッとテキトーにバンドで音出ししてみました、みたいな部分が大きな魅力につながるばあいだってあるじゃない。プリンスの『ケイオス・アンド・ディスオーダー』のチャームとは、そんなロックの持つ原初音楽衝動みたいなものを、それも高い演奏力でこなした上で、リビドーをそのまま実現したというところにある。

 

 

このアルバムを聴いていてのぼくの感じるこの爽快な気持ちよさは、たぶんそういったものだと思うんだよね。ルーツ・ロック的な側面がむき出しになっているのもぼく好み。つまり、ブルーズやリズム&ブルーズ、ゴスペル要素がくっきりとわかりやすく、それもそのままストレートに表出されているのがイイ。

 

 

1曲目「ケイオス・アンド・ディスオーダー」のラフな疾走感、同様に気持ちいい2曲目「アイ・ライク・イット・ゼア」(大好き!)と5曲目「ライト・オア・ロング」、3曲目は「ディナー・ウィズ・ドロレス」との題だけどまるで朝食の雰囲気だし、ブルーズ・ロックな6曲目「ザナリー」、アメリカン・ロックンロールから、中盤ブルーズに転化し、ゴスペル・ジャンプで終わる4曲目「ザ・セイム・ディセンバー」も快感だ。

 

 

7曲目「我ロックす故に我あり」というアンセムみたいな一曲は、しかしラガマフィンなのもおもしろい。8「イントゥ・ザ・ライト」と9「アイ・ウィル」はメドレー状態になっているが、泣きのロッカバラード。前者ではテナー・サックス・ソロが間奏をとり、その後ミューティッド・トランペットとギターのユニゾン・リフが入る。ありきたりでクサイかもしれないが、それはアルバム『ケイオス・アンド・ディスオーダー』一枚全体に言えること。

 

 

そんなクサさを、陳腐でツマラナイから唾棄すべきものだとか、凡庸だからとプリンスみたいな類稀な天才音楽家のカタログから消し去りたいとか、そんな考えを抱くのは自由ですけれど、言わせていただきますが、一般庶民の日頃のふつうの音楽の楽しみをご存知ないんだなと思います。

2018/09/11

スパニッシュ・ゴスペルなキース・ジャレット、とてもいいね

 

 

ソロ・ピアノ活動のぜんぶや、1980年代からのスタンダーズ・トリオのかなり多くやなんかは、ぼくからしたらとりえのない音楽に聴こえるキース・ジャレットだけど、それでもソロ・リーダー作品のなかに傑作と呼べるものがある。

 

 

もっとも、極私的な見解において、キース・ジャレットのいちばんいい演奏は、1970年初夏ごろ〜1971年いっぱいのマイルス・デイヴィス・バンド在籍時代にある。フェンダー・ローズやオルガンを気がフレたように弾きまくるサウンドには惚れぼれするよ。マイルズ・バンド時代の前のチャールズ・ロイド・カルテット時代が二番目かな、ぼく的にはね。ふつうは逆だろうけれども。

 

 

チャールズ・ロイド・カルテット〜マイルズ・バンド時代のキース・ジャレットの鍵盤演奏の特色は、ゴスペル・アーシーな部分があったということで、これがぼくにとってのジャレットのいちばん美味しいところ。その後独立してソロ活動をはじめてからはほぼ消えてしまったが、しかし今日書くアルバムのように、そのほかでも、ひょっこりと顔を出すことがあって、そういうものは実にいいんだよね。

 

 

つまりそんなひとつ、1974年録音75年発売のインパルス盤『生と死の幻想』。原題は『Death and the Flower』で、ふだんは邦題をあまり使わないぼくでも、これはそのまま使いたい。キース・ジャレット&チャーリー・ヘイデン&ポール・モチアンのトリオに、サックスのデューイ・レッドマンをくわえたレギュラー・カルテット、+さらにパーカッション(ギレルミ・フランコ)が参加している。このアルバムがキース・ジャレットの生涯最高傑作だろうとぼくは考えている。

 

 

といってもアルバム全体で見れば、A 面のアルバム・タイトル・ナンバーがメッチャいいぞと思っているだけで、というかこれはもはや奇跡としか言いようがないすばらしさなんだけど、B 面の二曲はイマイチ。それでも(全体の)3曲目「グレイト・バード」は、ややラテン・タッチなリズムに乗せてコレクティヴ・インプロヴィゼイションが進行するというもので、さほど悪くもないが、その前の「祈り」はどこがいいのやら。

 

 

「グレイト・バード」が悪くないというのは、おもしろくない「祈り」がある同じ B 面のなかで比較すれば、という話であって、A 面の「生と死の幻想」とは比較できない。それほど、曲「生と死の幻想」は、たとえようもなく美しい。高揚感があって、その盛り上がりかたは黒人ゴスペル・ミュージックの持つそれと同質で、さらに旋律展開がややスパニッシュ・タッチじゃないか。

 

 

こう書けば、もう十分言い尽くしたような気がするけれども。曲「生と死の幻想」でゴスペル的に高揚するのは、おしりの約三分間。チャーリー・ヘイデンのベース・ソロのあと、17:23 から最終テーマをデューイ・レッドマンが吹いて(ジャレットの書いたこのテーマ・メロディがこりゃまた格別にはかない美しさで、しかもスパニッシュ・ニュアンスがある)、それが終わりかけのタイミングで(19:18 あたりから)ジャレットがかなりリズミカルなブロック・コード・リフを連打するようになると、打楽器奏者二名も連動し、バンドが跳ねはじめる。

 

 

そこからデューイをフロントに出しつつ五人全員で一体となって、ゴスペル・アーシーな盛り上がりを見せているじゃないか。演奏終了まで続くこの約三分間はマジ最高だ。特にジャレットのピアノ伴奏やソロや、その背後でのギレルミ・フランコの出す打楽器サウンドなど、も〜う文句なしにすんばらしい。

 

 

こんなキース・ジャレットはほかでは聴けない…、と思うなかれ。チャールズ・ロイドやマイルズ・デイヴィスのバンドでならたくさん聴ける。曲「生と死の幻想」はそのテーマ・メロディの動きが絶妙に切なく美しく高揚するものなんだけど、まず演奏開始後はなかなかそれが出てこない。ジャレットやそのほかほぼ全員が参加している打楽器アンサンブル・パートに続き、チャーリー・ヘイデンのソロになり、次いでボスのピアノが出てくる。

 

 

ピアノの音が聴こえはじめると突然、といった感じで雰囲気が変化する。そこまでは乾いた硬質なサウンドだったのが、突如湿ってリリカルになる。もちろんキース・ジャレットはリリカルさ、というか情緒過剰なところが(悪くもある)持ち味なんだけど、この部分だけでなくこの曲全体を通しては、ちょうどいい具合にスパニッシュ・ゴスペルみたいな曲想を盛り上げているじゃないか。ピッタリだ。

 

 

そしてデューイ・レッドマンが吹くメイン・テーマが、7:58 でようやく出現。そこからは、おしり三分間のゴスペル高揚も含め、ぼくにとっては気持ちいい時間が過ぎていくんだよね。だから正直に言うと、この曲「生と死の幻想」は、メイン・テーマが出てくるまでの約八分間が不要。ぼく的にはね。

 

 

キース・ジャレットのこんな持ち味と表現は、なんども言うが極私的には、それこそがこの人のいちばん美味しい、気持ちいいところなんだよね。チャールズ・ロイド・カルテット時代のそんなジャレットはみなさんよくご存知だと思うので、マイルズ・バンド時代の典型例と、ぼくは評価しないスタンダーズ・トリオでも稀に出現した典型例をご紹介しておく。

 

 

 

 

スタンダーズ「ガッド・ブレス・ザ・チャイルド」https://open.spotify.com/track/5Y6FKf0AXa77tYxIGNYOvR?si=7dkHSrokRSyI9DzqnuoRyg

2018/09/10

ビートルズも示すソウルとカントリーの近さ

 

 

いあや、1曲目「ドライヴ・マイ・カー」がカッコイイったらありゃしない。なんだこれ、なんでこんなにカッコイイんだ?ビートルズでも『ラバー・ソウル』みたいなアルバムになると、ぼくがなにか新鮮なことを言えるなんて可能性はないから、いま聴いての個人的好みと感想だけ記しておこう。どの曲をだれが書き、メイン・ヴォーカルはだれ、楽器ソロをとるのはだれ、みたいな各種情報を記しておく必要はまったくない音楽家だ。

 

 

まあそんで、幕開けの「ドライヴ・マイ・カー」一発のカッコよさで決まりっていうのがぼくにとっての『ラバー・ソウル』なんだけど、この曲はちょっと黒っぽいフィーリングというかアメリカ黒人音楽に相通ずるノリがあるように思うよね。この「ドライヴ・マイ・カー」だけじゃなく、『ラバー・ソウル』のなかにはいくつもある。

 

 

たとえば、5曲目「シンク・フォー・ユアセルフ」、6「ザ・ワード」、12「ウェイト」などには、わりと典型的なブラック・フィールがあるように聴こえるよね。米リズム&ブルーズ/ソウル・ミュージックみたいに響くんじゃないかと思うんだ。3「ユー・ウォント・シー・ミー」もここに入れていい?ちょっと違う?

 

 

ところでさ、「シンク・フォー・ユアセルフ」では、一曲全編をクラヴィネット・サウンドがおおっている。なんてことはもちろんなくて(まだこの楽器は誕生していない)エレキ・ギターなんだけど、かなり深めにエフェクトを効かせ、やっぱりまるでスティーヴィ・ワンダーを聴いているかのような気分になるよ、ぼくは。この粘っこい音色とノリがさ。大好き。

 

 

だからビートルズ『ラバー・ソウル』5曲目「シンク・フォー・ユアセルフ」で、実質的なクラヴィネット・サウンド誕生と言いたい。もっとあとになると、彼ら四人はビリー・プレストンと正式共演することになるね。そんなことの先取りが、ここにすでにあった、んだとぼくは最近考えている。6「ザ・ワード」で聴こえるオルガンも黒っぽくファンキーだ。

 

 

かつてデビュー前後あたりの時期のビートルズには、アメリカ産黒人ブルーズやリズム&ブルーズ・ソングのカヴァーがたくさんあった。あのころはストレート・カヴァーだったけれど、『ラバー・ソウル』のころになるとみずからの音楽のなかに完全に渾然と融和しているのは、こういった数曲を聴けばわかることだよね。理解と表現が深くなっている。オリジナル・ソングのなかに(そうとわからないほどにまで)溶け込んでいる。

 

 

この点で興味深いのが、『ラバー・ソウル』には米カントリー・ミュージック・テイストな曲も数個あることだ。具体的には8曲目「ワット・ゴーズ・オン」、10曲目「アイム・ルッキング・スルー・ユー」、14曲目「ラン・フォー・ユア・ライフ」あたりかがそうかな。一見、ソウル・ミュージック風味とは無関係そうに思えるかもしれないけれど。

 

 

実際のところ、アメリカ(の南部)におけるヒルビリー・ミュージックは、以前からぼくも書いているが白人版ブルーズとして誕生し、実際そのころには曲のレパートリーだって黒人白人で共有していたし、そういうのが後のカントリー・ミュージックへと発展した。1950年代末ごろからのソウル勃興(は、べつにリズム&ブルーズの呼び名のままでも中身はいっしょだが)は、黒人ブルーズもさることながら、カントリー・ミュージックからの流れも大きい。実際、南部のスタジオで録音されたサザン・ソウルの伴奏者は白人が多かったし、曲のレパートリーだって、ね。

 

 

ビートルズの『ラバー・ソウル』だと、黒っぽいリズム&ブルーズ曲と白っぽいカントリー曲が、まだそこまで一体化はしてなくて、それぞれ別個に並んでいるだけかもしれないが、だからこそ「生の」音楽のありようを垣間見るようで、なかなかおもしろいんじゃないかと思う。曲によっては、二者が溶けかけてポップに昇華されつつあると判断してもいいかも?と思える瞬間もある。「ノーウィジアン・ウッド」「ノーウェア・マン」「イフ・アイ・ニーディッド・サムワン」とかさ。

 

 

個人的には「ミシェル」「ガール」「イン・マイ・ライフ」といった、センチメンタルで切な系バラードがかなりの好物なんだけど、このへんにかんして言えることはなんにもないはず。一般的な人気では「イン・マイ・ライフ」だけど(離婚した妻が大好きだった、だからよく弾き語った)、ぼく的には「ミシェル」だなあ、特に。だれもいない部屋でこれをいちばんよく弾いた。

2018/09/09

岩佐美咲ベスト・セレクション by としま updated 2018.9

 

 

上のこの岩佐美咲マイ・ベストが2017年の8月作成か。その時点までに発売されている美咲の CD 収録曲を使ってつくったのだが、その後またどんどんシングルが発売されているので、使用可能な曲が増えた。なかにはかなりすごいものがあるんだよね。いや、どれもいつも、美咲はぜんぶいいんだけど、傑出しているときはハンパじゃないすばらしさを聴かせる歌手なんだよね。

 

 

だから美咲マイ・ベストも一年に一回程度、ヴァージョン・アップしないといけない。そんなわけで今日書いてみることにした。自分の iTunes 内には、こないだ八月八日発売のシングル「佐渡の鬼太鼓」特別盤三枚を聴いてすぐにつくってあった。なんども楽しんで、これで OK と自分なりゴー・サインを出したのだ。えっ?こないだヴァーチャルなセカンド・アルバムっていうのを書いたばかりじゃないかって?そ〜なんです、ぼくは美咲にゾッコンなんです、こんなもんです。だからいやなかたは無視してください。

 

 

以下、その岩佐美咲ベスト・セレクション ver.2 (2018.8)の曲目一覧。どのアルバムやシングルに収録されているか、というのは、今日は省略する。

 

 

1. 無人駅

 

2. もしも私が空に住んでいたら

 

3. 鞆の浦慕情

 

4. 初酒

 

5. ごめんね東京

 

6. 鯖街道

 

7. 佐渡の鬼太鼓

 

8. 北の螢

 

9. なみだの桟橋

 

10. 石狩挽歌

 

11. 風の盆恋歌

 

12. 旅愁

 

13. つぐない

 

14. 空港

 

15. 手紙

 

16. ブルーライト・ヨコハマ

 

17. 20歳のめぐり逢い

 

18. 涙そうそう(アコースティック・バージョン)

 

19. なごり雪(アコースティック・バージョン)

 

20. 糸(ライヴ)

 

 

やはりオリジナル楽曲は最初にぜんぶ並べておかないと。その後8曲目から下のカヴァー・ソング・コーナーを、セレクション ver.1とはかなり変えた(つもり)。8「北の螢」〜11「風の盆恋歌」は、ど演歌パートみたいなものとして選曲した。最新曲「佐渡の鬼太鼓」の路線にあわせたつもり。特に「風の盆恋歌」が、いままでなんどもなんども書いてきているが、ヤバすぎる。こんなドロドロした情念演歌を、こんな可愛いキュートな声質でサラッと、しかし同時に濃いめの情緒も、しかしあっさりと漂わせながら、歌いこなすなんて…。

 

 

13「つぐない」、14「空港」とテレサ・テン・パート以後からラストまでがライト・ポップス路線で、そのブリッジ役として12に「旅愁」(西崎みどり)を置いた。8月11日付の記事では「手紙」と「風の盆恋歌」にフォーカスしたので触れなかったが、「旅愁」も見事なできばえなのだ。まぁ曲そのものとアレンジがいいってことなんだけど、それを最大限に表現できるのが美咲の資質だ。

 

 

「旅愁」という曲は、ちょうど濃厚演歌とライト・ポップスの中間的な色合いのものだと思うんだよね。テレサ・テンのレパートリーもそんなフィーリングだけど、まあだから今日のセレクション12〜14でちょうどいい感じに聴こえるんじゃない?続く由紀さおりとかいしだあゆみとか、フォーク・ミュージック的なものなどへの橋渡しとしても。そしてもちろん、それらはそれらじたいがすばらしい。

 

 

「旅愁」「空港」「手紙」の美咲ヴァージョンは今年になって発売されたものだけど、それに混ぜて「つぐない」「ブルーライト・ヨコハマ」(『リクエスト・カバーズ』、2013)を置いてもそんなに遜色ないんだということも発見した。うんまあ正直に言っちゃえば、やっぱり美咲はかなり成長して大人になってきているんだけど、資質の芯の部分は変化していないんだと思う。それが深化しているってこと。

 

 

セレクション17「20歳のめぐり逢い」〜19「なごり雪(アコースティック・バージョン)」までは、なにがあっても外せない。なにかがヴァージョン・アップしても本質の根っこのところは消えないでしょ。「20歳のめぐり逢い」は、美咲のカヴァー楽曲を聴いていて、2017年2月に最初にオオッ!となったものだし、「涙そうそう(アコースティック・バージョン)」は、これで部屋のなかでボロ泣きしてしまったものだ。それで美咲のことを忘れられなくなっちゃったんだからさ。それら、大感動だった。ぼくにとっては美咲の本質みたいなもの。

 

 

それらの本質は、セレクションがヴァージョン・アップしても入ると同時に、今回の新ヴァージョンでのアップデイトの目玉が、ラストの「糸(ライヴ)」だ。どんなヴァージョン・アップにも売りがあるでしょ。今回の美咲新セレクションでは、「風の盆恋歌」「空港」「手紙」などとあわせ、この「糸」(中島みゆき)のライヴ・ヴァージョンをこそ、聴いてほしい。岩佐美咲史上最高屈指のワン・トラックとして、前回のセレクション以後に発売されたもののなかでの最高の宝石だ。

2018/09/08

ストリーミングで聴く『ベスト・オヴ・ヒバ・タワジ』

 

 

Spotify で(ほぼ)同じものをつくっておいた↓

 

 

 

ストリーミングで音楽を聴くときのぼくのメインは圧倒的に Spotify。その次が Apple Music で、三番目が Amazon Music Unlimited かな。それに Anghami と AWA をあわせて、これらでぼくの使っているぜんぶ。deezer も覗いてみたことはあるが、いまのところお金は払っていない。そして、アラブ圏の音楽は、やはり Anghami が強いのだ。

 

 

だからヒマなときに Anghami も徘徊しているのだが、ついこないだヒバ・タワジのベスト・セレクションみたいな謹製プレイリストを見つけて、悪くないなと思ってときどき流している。そう、こういうのはジックリ対面するように聴き込むとしんどいが、BGM 的に流しておけば快適なのだ。それに、ヒバでしょ、粘って重たい部分もある歌いかたのひとだから、ヒバ好きなぼくでもいつも正対しているわけじゃない。

 

 

ネット配信(CD があるものはぜんぶストリーミングで聴けるが、CD が入手困難な?存在しない?ものがネットにある)で聴けるヒバのアルバム・フォーマット作品は、リリース年記載順に以下の五つでぜんぶのようだ。五つとも Anghami と Spotify の双方にある。ぼくは三つまでしかフィジカルで持っていない(ってか、それ以外は CD あるの?)。持っているものは * 印。

 

 

『Oussama Rahbani with Hiba Tawaji & Wadih Abi Raad (Live)』(2011)

 

『Ya Habibi』(2014)*

 

『La Bidayi W La Nihayi』(2015)

 

『Live In Byblos』(2016)*

 

『Hiba Tawaji 30』(2017)*

 

 

Anghami 公式『ベスト・オヴ・ヒバ・タワジ』は、基本、ビブロス・ライヴを除く四作品からのチョイスみたいだ。Spotify でほぼ同じものを作成できたが、一つだけ Spotify になかった曲が「Wehyat Elli Rahou」。Anghami のでは2013と記されている。それはどうやらスタジオ録音のようだけど、Spotify にはない。代わりにというか、ビブロス・ライヴで同じ曲をやっているのでそれを入れておいた。

 

 

違いはこの一個だけ。だからもし聴いてもいいよと思ってくださるかたは Anghami、Spotify、どっちのプレイリストでもいいんじゃないかと思う。Anghami のがサーヴィス公式のプレイリストなのに対し、Spotify のはそれを見ながらぼくが勝手に真似て自己作成したものだっていう点だけ。

 

 

どの曲がどのアルバムに…、なんてことは書く必要がない、というかそんなことを意識しないで楽しむのがいいんだよね、こういうのは。それに長い。二時間以上あるし、だからなんとなく部屋のなかで流して雰囲気をつくって、なにかお料理でもお掃除でも、読書でも仕事でもなんでも、やっていればそれでオーケー。ヒバのような濃いめな持ち味の歌手でも、そうやればあっさりと楽しめる。ヴォリュームはすこし下げて。

 

 

個人的に『ヒバ・タワジ 30』に思い入れが強いもんだから、それの収録曲は流れてきた瞬間にアッ!と思うんだよね。でも事実上のデビュー作『ヤ・ハビビ』収録ナンバーでもさほどの大きな違いはなかったと、この混ぜこぜプレイリストを流していて気がついた。それは主にウサマ・ラハバーニの手がけるオーケストレイション・サウンドが一貫しているおかげだ。うんまあやっぱりヒバのヴォーカルは変化して深みを増しているね。

 

 

そんなことで、『ヤ・ハビビ』のこともあらためて見直したのだった。いい作品だった。あのころ、2014年か、あまりそんなに強い印象は受けず、なかなかいいポップ良作だよねといった程度の感想だったのだけど(あと、ぼくの大好きなマライア・キャリーのフォロワーだなというのは強く響いた)、いっしょくたに流れてくると、『ヒバ・タワジ 30』で結実する芽をたしかに感じる。間違いない。

 

 

この点では、CD があるのかないのかわからないが2011年の『Oussama Rahbani with Hiba Tawaji & Wadih Abi Raad (Live)』収録曲は、まだまだイマイチ。イマニ、イマサンだったりするかも。なかでもアストール・ピアソーラの「リベルタンゴ」をやっているが、出来はどうもちょっと…。ピアソーラ云々ではなく、意気込みが先行してヴォーカル表現がついていっていない。ウサマの選曲だったんだろうけれど。

 

 

これもフィジカルをぼくは見つけられない『La Bidayi W La Nihayi』のものとなると、リリースが『ヤ・ハビビ』の翌年との記載だし、だいぶよくなっているよね。このアルバムの CD があるならぜひほしいんだけど、ないのかなあ?ジャケットもいい雰囲気だしと思うんだけど。いいものだから CD でほしいという発想が、もはや時代遅れだろうけれどさ。

 

 

『ベスト・オヴ・ヒバ・タワジ』プレイリスト全体では、アラブ古典もいいけれど、印象が強くて耳に残るのは、個人的嗜好品だからということなんだろう、ジャジーな曲や、ラテン・タッチなもの(アフロ・キューバンだったりアバネーラだったりボサ・ノーヴァだったり)だ。アラブ歌謡のなかにジャズやラテン・ミュージック要素が溶け込んでいるのは常識だが、ヒバ&ウサマのタッグは、フェイルーズ&ラハバーニ兄弟のそんな表現よりも、ぼくはいっそう好き。

 

 

ヒバのヴォーカル・スタイルの目立った特色も印象に残る。一言にして「重く、濃い(すぎる?)」。だけど、ちょうどこう、そうだなあ、日本の演歌歌手の一部によくあるものじゃないか。似通った歌唱法だよね。ヒバは声の出しかたも強いし、またフレーズ終わりフレーズ終わりで母音をグリグリグリ〜ッと重ねこねくるようにしながら伸ばす。アァアァアァ〜とかイィイィイィイィ〜とかさ。

 

 

また良くも悪しくも、ヒバはドラマティックだ。盛り上がりかたが激しい。盛り上がらなくても、声と表現が強い。それらが過ぎるように感じるばあいも、リスナーによってはあるんだろうと納得できる。アラブ古典歌謡の典型の一つだろうとは思うんだけどね。アメリカのジャズ・シンガーのなかにもいるかな。日本の演歌界には、書いたように、たくさんいる。

 

 

ヒバの活動のトータル・プロデューサーとなっているウサマ・ラハバーニのアレンジも、そういったヒバの持ち味を生かすべく書かれているし、というか、これはウサマの薫陶よろしきを得てヒバがこうなったということなのか、相互作用で両者ともにこういうふうに歩んできているのか、よくわからないが、21世紀に出現した類稀なる音楽コンビ、傑出した女性ポップ歌手であるには違いない。

2018/09/07

マイルズ『ツツ』の声

 

 

1981年復帰後のマイルズ・デイヴィス最高傑作は1986年のワーナー移籍第一作『ツツ』(TUTU) だとずっと思っていて、最近はこれがくつがえって『アマンドラ』になりつつある。それでも長年愛聴してきた『ツツ』だから、いまだに思い入れは強い。リリース時に宇田川町時代の渋谷タワーレコードでアナログ US 盤を買って、そりゃあもう聴いたなあ。当時、なにかのラジオ番組でピーター・バラカンさんも同じように高く評価するという意味のことをおっしゃっていたのがうれしかった。

 

 

なんたってまずこのジャケットがいいよね。当時発売のアナログ盤(といっても日本盤のことは知らない)では、裏ジャケもレコードを入れる内袋のデザインも、これの発展形だった。CD でも、ある時期の紙ジャケット盤(は日本盤)ですべて再現されている。それらのアート・ワークは石岡瑛子の手がけたもの。中身の音楽も好きだったが、このジャケットと内袋にやられちゃっていた。評価も高くて、石岡はなにかの賞をもらったんじゃなかったっけ。

 

 

左は裏ジャケット、右は内袋(の裏は各種クレジット記載)。

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アルバム『ツツ』収録曲のなかで、その後のマイルズ・ミュージック史上いちばん出世したのが「パーフェクト・ウェイ」。おなじみスクリッティ・ポリッティの曲だけど、ぼくのばあいはこのマイルズ・ヴァージョンで、このバンドの存在じたいはじめて知った。B 面2曲目と位置も微妙だし、出来も、まあこんなもんかなと思っていた感想が、いま聴きかえしても変わらない。

 

 

しかしその後のマイルズ・バンドによるライヴ・ツアーで「パーフェクト・ウェイ」は定番レパートリーになり、重要性も意味もポジションも上昇し、1990年からはコンサートのオープニング・ナンバーとして使われるようになった。スクリッティ・ポリッティをマイルズに提案したのは、プロデューサーのトミー・ラプーマ。レコードをもらったなかからマイルズ自身がこの曲を選んだ。

 

 

「パーフェクト・ウェイ」は、いっときワーナー移籍第一作のアルバム・タイトルにしたいとマイルズ本人はアイデアを持っていたくらいで、たぶん歌詞とか曲題とかに強く共感したところがあったんじゃないかと思う。『ツツ』収録ヴァージョンはイマイチでも、その後の各種ライヴ・ヴァージョンでは、スピーディになって疾走感も増し、バンドの演奏もグッとよくなっている。

 

 

そう、いま書いた二点、プロデューサーがワーナーのトミー・ラプーマだったことと、バンドの演奏も…、云々というこの二つのことは、『ツツ』制作を考える際には、逆の意味で強く作用する。ご存知のとおり、この作品は、当時のツアー・バンドをほぼ起用していない。と同時に、プロデュースしたのは実質的にマーカス・ミラー。繰り返す必要もないが、マーカスほぼひとりがオーヴァー・ダブを繰り返しまくってカラオケ・トラックを作成した。

 

 

ワーナーに移籍して以後のマイルズ・ミュージックは、スタジオ作品とライヴ・ワークのバランスというか、スタジオでセッション・メンを起用して完成させた曲を、レギュラー・バンドでのライヴでどうやるか、が一つの課題になっていたように思う。そして、1988年ごろからかな?ライヴでも<スター&その伴奏バンド=カラオケ生演奏>という構図が鮮明になっていた。

 

 

このテーマはちょっと別個に独立させて考えてみたいので、今日のところは掘り下げない。マイルズもジャズ界出身の音楽家であったとはいえ、1986年のワーナー移籍のころから一般的なポップ・ミュージック制作の手法を、スタジオでもライヴでもとりはじめるようになったということなんだろうね。ジャズ界では異例でも、ポップス界では当時すでに常識的だった。

 

 

アルバム『ツツ』。大学院生のときに買って聴いていたときいちばん好きだったのが1曲目「ツツ」、3曲目「ポーシア」、5曲目「バックヤード・リチュアル」、そしてなんたってアルバム・ラスト8曲目の「フル・ネルソン」だった。こないだから聴きかえしていても、やはりほぼ同じ気持ちになる。

 

 

それはそうと、関係あるのかないのかわからないが、その「Full Nelson」。マイルズは1947年に同題の曲を書きチャーリー・パーカー・コンボでレコード録音している。自分のバンドでも1956年に再演したのが『ワーキン』に収録されているよね。そっちはぼくは「フル・ネルスン」と表記することにしている。

 

 

『ツツ』の「Full Nelson」は、アルバム題が南アフリカのアパルトヘイト政策に抗議する意味を持っているものなのに呼応して、この8曲目もネルソン・マンデラへの言及題なんだよね。この1986年当時、アメリカの音楽界でもそんな動きが盛り上がりを見せていたよね。マイルズだって『サン・シティ』へのゲスト参加を果たしている。

 

 

『ツツ』の「フル・ネルソン」は、まあでもそんなテーマとは関係なく、ファンク・ミュージックとしてぼくは大好き。最初はボスのミューティッド・トランペットとマーカスのソプラノ・サックスとの親密な会話にはじまって、サンプリングされたマイルズの声が入るのがキューとなり、リズムが出る。その軽くて乾いた音色のエレキ・ギター・カッティングも好きだ。

 

 

テーマ(?)演奏部もトランペットとソプラノ・サックスの会話で進む。ドラム・マシンを使ったデジタル・ビートも、ここではあんがいイイよね。無機的なようでいて、この曲の持つ軽くて薄い曲想やノリ、フィーリングをうまく表現できていると思う。ボスのトランペット演奏も、この「フル・ネルソン」でのものが、アルバム『ツツ』ぜんぶを通していちばん出来がいい。なんたって元気だ。

 

 

終盤部でフィーチャーされフェイド・アウトしていくマイルズのソロがなかなかいいんだけど、そこへ入る瞬間にも、やはりあのしわがれ声のサンプルがキュー的に入る。ソロが出てからもワン・フレーズやったときに入るし、それ以外でもこの「フル・ネルソン」ではマイルズの声が、わりと頻繁に聴こえるよね。そんなところもぼくがこのアルバムを大好きな理由かも。

 

 

話がそれるようだけど、マイルズの録音作品って、わりとたくさん彼の声が聴けるように思う。ジャズと言わずなにと言わず、ここまで声(主にスタジオ・セッション中の会話や、曲演奏開始前、終了後などで発する声だけど)がたくさんレコードに収録されている音楽家って、ほかにいないのでは?ヴォーカル作品で歌が聴けるのとは意味が違うよね。

 

 

主にテオ・マセロ・プロデュース時代のことだったっけ?とふりかえってみると、そうでもない。プレスティジのアルバムでもマイルズの声は頻繁に聴ける。『ツツ』だと会話とかじゃなくて、なにかの声をサンプリングして使ってあるんだよなあ。遺作となった『ドゥー・バップ』でもイージー・モー・ビーがやはり同様に使っているし。

 

 

どうしてこんなに声が聴こえるんだろう、マイルズのレコードは?だってさ、マイルズ自身は、まぁある時期以後、悪く言えば恥も外聞もなくなってライヴ・ステージでもどんどんしゃべるようになりはしたけれど、ずっと長いあいだ、人前ではしゃべりたがらないひとで、シャイな性格というのと、声量も小さいのと、やはり若い時分に喉をつぶしてしまってあんなガラガラな声質になっちゃったのが心の負い目で、バンド・メンでもなに言ってるか聞きとりづらいというほどだったんだからなあ。

 

 

それが晩年ではなく、青壮年期からのレコードであんなにどんどん声が聴けるのは、そうか、そんなマイルズだったからこそ逆にというかあえてというか、主に演奏前後に入れられるようになっていたということなんだろうか?マイルズも、気を許した相手にはよくしゃべりよく笑う人だった。でも、『ツツ』でのマーカスや『ドゥー・バップ』でのイージー・モー・ビーは、ある種のリスペクト行為&音楽要素として声を挿入してあるんだよね。

 

 

あれっ〜?声の話がメインになっちゃったぞ。音楽の中身の話が少なくなってしまった。一時期いろんな音楽で頻用されていた、あのオーケストラル・ヒットっていうやつ、例のジャン!っていうの、あれをぼくがはじめて体験したのが『ツツ』1曲目のタイトル曲だ。当時はカッコイイなぁ〜って思っていたよ。

 

 

スパニッシュ・スケールを使った3曲目「ポーシア」はむかしもいまも好きだけど、その前の2曲目「トマース」(Tomaas)もちょっとそんなスパニッシュ・ニュアンスがあるような気がかすかにしている。5曲目「バックヤード・リチュアル」だけはマーカス主導ではなく、ジョージ・デュークがリーダーシップをとって完成したもの。かなり好きなんだけど、ジョージ・デュークという名前の意味するところ、フランク・ザッパとの関係なんかは、1986年当時のぼくは全然知らず。

2018/09/06

プリンスが(ほぼ)ぜんぶ Spotify で聴けるようになったので(其の二)

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ずっと前からプリンスについて書いてきているが、特に今年二月から三月にかけて集中的にたくさん書いた。それらのなかには、自分でこれという選曲をしていい感じに聴こえるように並べた一覧を書いたもの、書かなかったもの、両方含め、いままでネットではさほどたくさんのプリンス音源が自由にならなかったので、ポチッとすればそのまま聴けて、読みながら楽しんでいただけるということを諦めたものがある。

 

 

昨日書いたように、つい最近 Spotify でプリンスのほぼすべてが聴けるようになったので、あらためてそれらについてプレイリストを作成し、ぼくの文章をお読みになる必要などないけれど、せめてなんとか音源にだけにでも耳を傾けていただけたらと思い、今日、以下に記しておく次第。このブログでの記事登場順に。

 

 

(1)プリンスの一番ディープなファンク・アルバム

 

 

 

これはぼくのセレクションではない。三枚組のライヴ・ボックス・セット『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』の三枚目『アフターショウ』について書いたもの。いやあ、これはなかなかすごいことになっていると思うよ。二年以上前に書いた内容にさほど手をくわえる必要を感じな…、あ、いや、うんまあやることあるんだけど、今日はこのまま直さないでおく。

 

 

 

(2)Nothing Compares 2 U, Prince!

 

 

 

『アフターショウ』を除く、『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』本編二枚について書いたもの。記事本文内で特にセレクションは書いていないが、ぜんぶ通して聴くとやや長いし、個人的にはイマイチかな?と感じる部分もあるので(特に終盤のピアノ弾き語りパートに)、やはりピック・アップして並べたものを作成した。オリジナル・アルバムでの登場順にはなっていない。「テイク・ミー・ウィズ U」〜「ラズベリー・ベレー」〜「エヴァーラスティング・ナウ」の三連発で昇天だ。

 

 

 

(3)立ち去りがたく 〜 プリンス『クリスタル・ボール』

 

 

 

本来的には附属品であったアクースティック・サイドの『ザ・トゥルース』を外しても、『クリスタル・ボール』は三枚組。量も多いが質もかなり多彩だ。このアルバム収録曲群を録音した(判然としないが)1980年代後半〜90年代前半は、プリンスの創造意欲と能力が、ふだんからいつも高いのにそれに比しても異常にハイ・レヴェルにあった時期。ロッカーというよりファンカーだったし。宝石も多い。

 

 

 

(4)プリンスのギターがカッコイイやつ

 

 

 

この記事本文でも書いてあるが、今年二月、三月のプリンス集中特集の動機は、彼がギターをカッコよく弾きまくっているのを一堂に集めて浴びるように聴きたいということだった。それでほぼすべてのアルバムを聴きかえしてはピック・アップしていた。だから、これこそが本望だ。

 

 

しかし、二曲が Spotify にない。『ザ・ブラック・アルバム』がないので「ロックハード・イン・ア・ファンキー・プレイス」が使えない。ジミ・ヘンドリクス ・トリビュートの企画盤『パワー・オヴ・ソウル』がないので「パープル・ハウス」も使えない。

 

 

がまあそれでも、この記事をアップした三月時点と比較したらグンと飛躍的に聴ける曲が増えた。プリンスのギター狂っぷり、すなわちひいては<音楽こそすべて>的アンセム「ギター」も聴けるし、『クリスタル・ボール』もいける。そしてなんといっても、プリンスがカルロス・サンタナになりきって弾きたおす「エヴァーラスティング・ナウ」(『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』)をシェアできるのが、この上ない喜びだ。サイコーなんだぜ。

 

 

 

楽しんでいただけたら、幸せです。

2018/09/05

プリンス 30

 

 

プリンスの作品が(ほぼ)ぜんぶ Spotify で聴けるようになりました。

 

 

日本時間の昨日2018年8月18日 02:13 に Spofity 公式 Twitter アカウントから発表があった、プリンス作品の大幅追加。それまで Spotify で聴けなかったものが一気に可能となった。これで、ぼくが見た限り、Spotify で聴けないプリンスは『ザ・ブラック・アルバム』『ヒット・ン・ラン・フェイズ・ワン』『ヒット・ン・ラン・フェイズ・トゥー』の三枚だけ。あと、なにかの企画盤に一曲だけ参加とか、そういったものはまだなかったりするが、もうそれだけだ。

 

 

ライヴ盤『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』の本編と『アフターショウ』もあるし、音源だけでは流通していなかった、音楽 CD はあのバカでかい写真集の附属品だった『インディゴ・ナイツ』もある。12インチ・ヴァージョンしかなかったようなシングル(たとえば「KISS」の長いやつ)だって聴けるし、そればかりか、NPG ミュージック・クラブ(だっけ?)会員向け限定ネット配信だった作品だって Spotify で聴けるんだもんね〜!うれしい〜。

 

 

だから、これでほぼぜんぶ聴けるようになったぞ。これが快哉を叫ばずにいられますかって〜の!最近、こんなにうれしかったことはない。

 

 

(ほぼ)ぜんぶのプリンス音源を使えるようになったので、これまでも自分用に iTunes で作成して楽しんでいたプリンスのマイ・ベスト・セレクションを、そのまま Sptofy のプレイリストとして作成することができたのでやっておいたのが、いちばん上のリンク。いやあ、楽しいったらありゃしない。みなさん向けにっていうより、自分用として、いつでもどこででも、iPhone 一台あれば不自由なくぜんぶ聴けるのがあまりにも楽しすぎる。

 

 

Spotify のプレイリストとしてプリンスのマイ・ベストを作成するにあたり30曲というくくりを設けて、それでやってみた。それまで自分自身が楽しんでいた iTunes プレイリストは実はもうすこし短かかったのだ。曲の並びは、聴いて楽しい、流れがいい、という審美要素に、ぼくなりに最大限配慮して、自分が本当に大好きなものだけ30、選んでおいた。

 

 

必要ないとは思うけれど、以下、曲目と収録アルバム一覧。

 

 

1. Jam Of The Year (Emancipation)

 

2. Little Red Corvette (1999)

 

3. Take Me With U (Purple Rain)

 

4. Raspberry Beret (Around The World In A Day)

 

5. Te Amo Corazón (3121)

 

6. Sign O The Times (Sign O' The Times)

 

7. Play In The Sunshine (Sign O' The Times)

 

8. Housequake (Sign O' The Times)

 

9. Dorothy Parker (One Nite Alone...Live! - The Aftershow)

 

10. Guitar (Planet Earth)

 

11. I Like It There (Chaos And Disorder)

 

12. Crucial (Crystal Ball)

 

13. Sexy M.F. ([Love Symbol])

 

14. Betcha By Golly Wow! (Emancipation)

 

15. La-La (Means I Love U) (Emancipation)

 

16. I Can't Make U Love Me (Emancipation)

 

17. Alphabet Street (One Nite Alone...Live! - The Aftershow)

 

18. 7 ([Love Symbol])

 

19. Sweet Baby ([Love Symbol])

 

20. Mountains (Parade)

 

21. Kiss (Parade)

 

22. Peach (xtended Jam) (One Nite Alone...Live! - The Aftershow)

 

23. The Work Pt.1 (The Rainbow Children)

 

24. Nothing Compares 2 U (The Hits/The B-Sides)

 

25. Peach (The Hits/The B-Sides)

 

26. The Ride (Crystal Ball)

 

27. Extraordinary (The Vault: Old Friends 4 Sale)

 

28. Get On The Boat (3121)

 

29. How Come U Don't Call Me Anymore (The Hits/The B-Sides)

 

30. Goodbye (Crystal Ball)

 

 

オープナーとクローザーはその雰囲気にふさわしいものを、と考慮して置いた。幕開け以後はまずキャッチーなポップ・ヒット・チューン三曲を並べ、次に今回ようやく使えるようになった美メロの哀愁ラテン・バラード「テ・アモ・コラソン」を。

 

 

『サイン・オ・ザ・タイムズ』一枚目 A 面は完璧なのでそのまま使い…、と思ったが、「ザ・バラッド・オヴ・ドロシー・パーカー」はライヴ・ヴァージョンに差し替えた。これ、なかなかヤバいよね。『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!:ジ・アフターショウ』からは、「アルファベット・ストリート」も、プレイリスト17曲目に入れた。

 

 

10「ギター」〜12「クルーシャル」は、プリンスのギター弾きまくりショウケースみたいな並び。もっといろいろあるけれど、それは明日に乞うご期待。明日にという理由で、本当はこれがプリンスの全音源のなかで、ひょっとしたら一番好きかも?と自分では思う「エヴァーラスティング・ナウ」のサルサ・ファンク・ヴァージョン(『『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!』)は、今日、見送ることにした。

 

 

シンガー・ソングライターだったプリンスだから、とは思うものの、『イマンシペイション』からのカヴァー・ソング三曲は入れたい。「ベチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」(スタイリスティックス)、「ラ・ラ(ミーンズ・アイ・ラヴ U)」(デルフォニクス)、「アイ・キャント・メイク U ラヴ・ミー」(ボニー・レイット)。楽しく、きれいで、そして切ないもんね。

 

 

『ワン・ナイト・アローン...ライヴ!:ジ・アフターショウ』からとった22「ピーチ(エクステンディッド・ジャム)」は、たしかに25「ピーチ」の発展形には違いないとは思うけれど、原曲の痕跡はほぼなし。前者ライヴ・ヴァージョンのサビ(ボスが「ターナラウンド!」と合図する)で、解体された原曲メロが出るだけじゃないかな。オリジナルは12小節の定型ブルーズなんだけど、それもなくなってワン・コード・ファンクになっている。ノリがディープでいいよねえ。

 

 

泣きの絶品トーチ・ソング「ナシング・コンペアーズ 2 U」を経て、25「ピーチ」、26「ザ・ライド」と、ストレート・ブルーズ二発を通過。愛する対象を無条件にひたすら称える美メロ・バラード「エクストローディナリー」、ラテンなファンク「ゲット・オン・ザ・ボート」で、終盤ノリよく。

 

 

最後に、美しく、切なく哀しい歌をふたつ並べておいた。特に(『クリスタル・ボール』収録曲なせいか)あまり話題になることのない、プレイリスト・オーラスの「グッバイ」。こんなにもきれいでこんなにも切ない歌がこの世にあるのだろうか?と思っちゃうほど、きれいだね。メロディ・ラインがね、本当に泣けるよね。

2018/09/04

「チュニジアの夜」決定版はこれ

 

 

アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ。1958年にラインナップを一新、リー・モーガン、ベニー・ゴルスン、ボビー・ティモンズ、ジミー・メリットの編成になった。その後、サックスがハンク・モブリーを経てウェイン・ショーターに交代。そのウェインが1964年に辞めるまでの計五年間が、このバンドの最も充実していた時期だった。その間、カーティス・フラーをくわえての三管時代もあった。

 

 

そのなか、ウェイン・ショーター時代では、特に1960年録音61年発売の『ア・ナイト・イン・チュニジア』がかなりいい。その時期のジャズ・メッセンジャーズ最高傑作かもしれない。あまりにも有名すぎるジャズ・スタンダード(ディジー・ガレスピー作)を、ブレイキー自身それまでも無数に演奏してきていたにもかかわらずいま一度正式スタジオ録音しアルバム題にまでしているわけだから、自信のほどがうかがえようというもの。

 

 

1989年のリイシュー CD 以来、このアルバム『ア・ナイト・イン・チュニジア』には二曲のボーナス・トラックが入るようになり、Spotify などネット配信でも同じ。しかしそれらもあわせると、このアルバムの意図がわかりにくくなってしまう。なぜなら追加二曲のうちひとつはポップ・スタンダード(「ウェン・ユア・ラヴァー・ハズ・ゴーン」)だから。

 

 

アルバム『ア・ナイト・イン・チュニジア』とは、一曲の超有名アフロ・キューバン・ジャズ・スタンダードの、大上段に構えた(やや大げさで?)真っ向勝負な再演を軸に、それ以外は当時のフレッシュなバンド・メンに書かせたオリジナル小品を並べて、全体的に、リーダーであるドラマーのバンド統率能力(ドラミング、リズム・アンサンブルなどとあわせ、曲創りなどでもサイド・メンをうまく活用できること)を示すという、そういったプロダクションなんだよね。

 

 

オリジナル小品のなかでは、ウェインの書いた2曲目「シンシアリー・ダイアナ」(レコード A 面はここまで) とリー・モーガンの5「コゾーズ・ワルツ」はどうってことないかなと思う。個人的には、ボビー・ティモンズ作の3「ソー・タイアド」、モーガン作の4「ヤマ」がおもしろい。ところでこの3、4の曲名は逆でもよかったんじゃないの〜?

 

 

だってさ、「ソー・タイアド」はこんな曲題だけど気だるいいところのない快活陽気でラテン・タッチな曲。いっぽう「ヤマ」はタイアドなというかレイド・バックの極地みたいなリラクシン・スローなんだよね。大学生のころ、「ヤマ」のこんなくつろぎすぎているような雰囲気が大好きだった。ちょっとしたフランス映画なんかにも似合いそうで、実際、当時のハード・バッパーはフィルム・ノワールの音楽をよくやった。

 

 

でもいま聴きかえすと、「ソー・タイアド」のラテン・タッチのほうがおもしろいかも。アフロ・キューバン・リズムは、このアルバムのやはりメイン・テーマなんだよね。ボス、ブレイキーの、あるいはプロデューサーの、そんな意図と指示で、そういった曲がほしいんだとあえてオーダーしてティモンズに書かせた可能性だって考えられる。サビ部では4/4拍子だけどね。さらにドラマーだけでなく、ベーシストもピアニストもラテン・リフを一丸となって演奏しているのがイイ。

 

 

そんなわけでアルバム1曲目の「チュニジアの夜」。ここで聴ける1960年8月14日録音ヴァージョンはスペシャルだ。11分以上もあるこの演奏は、テーマ演奏部を除くと、大まかに言って打楽器乱れ打ちパートと、トランペット、サックスそれぞれによるカデンツァ・パートに分けられる。もちろん本編部にも管楽器ソロはあるのだが、ソロ内容という意味ではカデンツァ部をこそが聴きもので、本編中のソロは、その背後でのリズム三人の動きにこそ着目したい。

 

 

ボスのブレイキーも、そんな本編アレンジにしたかったから、別個、ショウケースとしてのカデンツァ部を設けたんじゃないかとさえ思う。もちろんこの当時のジャズ・メッセンジャーズの音楽監督はウェイン・ショーターなので、ウェインが曲のそんなアレンジを手がけた可能性はある。しかしそれだってウェインがそうやるだろうという信頼、つまりはボスのリーダーシップ下で、ということになるじゃないか。

 

 

このヴァージョンの「チュニジアの夜」では、イントロ部で、もう打楽器火山大爆発。打楽器以外はジミー・メリットのベースだけ。ほかのサイド・メンはみんなパーカッション類を手に、叩き刻んでいる。なかでもだれだかわからないがクラベスで3・2クラーベのパターンをやっているのが目立つ。マラカスも聴こえる。メイン・テーマ演奏を導くものとしてピアノ・リフが出てくると、サイド・メンのパーカッション乱打はいったんおやすみ(ってことは管楽器の二名だけがやっているのか?)。

 

 

ホーン二名のソロが終わるとベース・ソロ部。そこはセロニアス・モンクの「エヴィデンス」みたいなアレンジだ。しかしモンクのそれと違っているのは、合奏部リフの入りかたがクラーベ・パターンを援用したものであるところ。それも終わると、パーカッション・オリエンティッドなリズム・オージー・パーティに突入。ここでもベーシスト以外はたぶん全員が打楽器を打ち鳴らしている。いやあ、楽しいですねえ。

 

 

演奏終盤の、トランペット、テナー・サックスの順で演奏されるカデンツァ・パートでは、二番手ウェイン・ショーターのそれが、どんちゃん騒ぎの狂熱を冷ますかのようなひんやり爽やか触感のフレイジングで、余熱を残しつつ見事にクール・ダウンしてくれるのもナイス。

2018/09/03

オーガニック・アフロ・ポップの走り?(2)〜 ユッスー篇

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こっちも2002年リリースのユッスー・ンドゥール『ナッシングズ・イン・ヴェイン』。英語のアルバム題は、たぶん『アイズ・オープン』(1992)以来なんだっけ?そっちと同様にこのオーガニック・テクスチャーな2002年盤のほうもワールド・マーケットを意識したということかな。リリースに際しての契約関係のことをぜんぜん知らないが、音楽内容として『アイズ・オープン』に相通ずる部分と、そうでない部分とがある。

 

 

簡単に結論から言ってしまうと、ぼくは高く評価している『アイズ・オープン』の音楽の、外へ向いた開放性というか、アフリカに根ざしつつ、というかそれがあるからこそ世界にアピールしているという強いメッセージ性、前向きなサウンドの肯定感は、『ナッシングズ・イン・ヴェイン』の全体をも貫いている。ここは、たぶん、ユッスーという音楽家の一貫して変わらぬ信念なのだろう。

 

 

でも、サウンドの質感はもちろんかなり異なっている。『セット』『アイズ・オープン』を代表作とするような、電気・電子楽器をにぎやかで派手に使って声を張る躍動感に満ちたハイ・テンションぶりは、『ナッシングズ・イン・ヴェイン』では影を潜め、代わって落ち着いて耳あたりやわらかめなアクースティック・サウンドが中心になっているよね。

 

 

ユッスーの『ナッシングズ・イン・ヴェイン』で目立つ楽器の音は、主にコラだ。それとリティやアクースティック・ギター、くわえてパーカッション群などが中心になってアルバムのサウンドを織っている。バラフォンもけっこう聴こえる。それらとバック・コーラスと主役男性ヴォーカリストの声が自然と混ざり合っている。

 

 

でもサリフの『Moffou』で感じる一種の哀感というか、ちょっとこう、諦観?みたいなものなのか?そこまでのものじゃなくても、ちょっぴりロー・ダウンなフィーリングが、ユッスーの『ナッシングズ・イン・ヴェイン』にはない。もっと明るく、やはり跳ねている。これは音楽家としてのキャリアの違いか、スタンスとかアティテュードの違いか、ぼくにはわからない。

 

 

サリフの『Moffou』ではいっさい使われていないいわゆるドラム・セットもユッスーの『ナッシングズ・イン・ヴェイン』ではどんどん使われている。さらに二つの曲でコンピューター・プログラミングもクレジットされているし、鍵盤シンセサイザーの音みたいなものだってかなりたくさん聴こえる。

 

 

それらもぜんぶひっくるめた上で、それでもなお、ユッスーの『ナッシングズ・イン・ヴェイン』のサウンドはオーガニックだと聴こえるんだよね。石油から精製したような製品ではない、有機的な「ナマの」感触がある。なんだかんだ言ってやっぱりアクースティク楽器演奏が中心になっているし、電気・電子楽器などの音も、人間の息吹を感じるような生命感、肉体感を持っているよね。

 

 

アルバム・ラストの曲「アフリカ、ドリーム・アゲン」は、まあいつものユッスー節だなという曲題と内容で、しかもデジタル・サウンド・メイクが中心になっているようだけど、『アイズ・オープン』で聴けた、たとえば「ニュー・アフリカ」「ザ・セイム」などと同主題でありながら、伴奏サウンドもユッスーのヴォーカルも落ち着きと静けさを増し、音楽(家)の成熟を感じる内容だ。心地良い有機質感で聴き手の心にやさしく触れるから、いっそう深い感動を得ることができる。

2018/09/02

オーガニック・アフロ・ポップの走り?(1)〜 サリフ篇

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ソナ・ジョバーテの記事でオーガニック・アフリカン・ポップスと言い、サリフ・ケイタの『Moffou』とユッスー・ンドゥールの『ナッシングズ・イン・ヴェイン』に言及したら、やはり案の定聴きなおしたくなってそうした。ホ〜ントいいよねえ、この二枚。調べたらどっちも2002年のリリース作で、サリフのが三月、ユッスーのが十月に出ている。サリフのほうはこの次の『M'Bemba』のほうがもっといいのかもしれないと、これも聴きなおしてそう感じたが、今日は『Moffou』の話をする。

 

 

どっちも2002年に発表されたサリフの『Moffou』とユッスーの『ナッシングズ・イン・ヴェイン』が、はたして21世紀型オーガニック・アフロ・ポップ路線を切り拓いたさきがけだったのかどうかは、ぼくにはわからない。とにかく聴いていて疲れない、緊張感を強いられない、リラックスできて、じっくりゆっくりとその音の世界にひたって快適にときを過ごすことができるということだけは、間違いない実感だ。

 

 

サリフの『Moffou』の前作が『Folon: The Past』。ソロ・デビューの『Soro』以来そこまで、ドラム・セットや電気・電子楽器も派手に使ったにぎやかなサウンドで、サリフのヴォーカルの突き刺すような鋭さ・強靭さを際立たせるいうようなプロデュースになっていたよね。そういうのが2002年の『Moffou』できれいに消えた。

 

 

一番耳をひくのが、サリフたったひとりでのアクースティック・ギター弾き語りトラックが三つ(2「Iniagige」、5「Souvent」。8「Ana Na Ming」) もあるということだ。このアルバムを手にする二年前にブルーノート東京でサリフのライヴに接していたが、一夜の2セットとも一曲だけサリフひとりでの弾き語りがあって、あのときすこし驚いて、あぁでもこういうのもそりゃあやれるひとだよな、当然か、でもバンドのハード・グルーヴに乗った歌のほうがもっと好きだなと、その日の青山ではそう感じていた。

 

 

『Moffou』が出てみると、同様のものが三曲もあるわけで、2000年ブルーノート東京公演のときに新作準備が…云々とかいうことではなくて、サリフも若い時分からアクスースティック・ギター一本抱えてさまよっていたひとなんだそうだし、アンバサデュール時代にバンドのヴォーカリストとして名を成したものの、ふだんからギターを弾いて歌うなんてのはあたりまえの日常なんだろうと、いまでは思う。

 

 

素顔とほんのすこしのナチュラル・メイクで、天然コットン100%の薄衣をまとって、ふわりとそこに自然体で座っている 〜 こういった飾りすぎない普段着姿ってことがサリフの『Moffou』の音楽ってことかなあ。それでもやはりハードなグルーヴ・ナンバーで、女声バック・コーラスがにぎやかで、サリフがかつてのようなメタリックな声で咆哮する曲もある。3曲目「Madan」、4「Katolon」がそうだね。

 

 

落ち着いているからハードとはいえなくとも、やや派手めのビートが効いたバンド合奏による、6曲目「Moussolou」、7「Baba」、9「Koukou」だって、似たような傾向のグルーヴ・ナンバーと言えるかも。しかしそれら、3、4、6、7、9、そして10曲目でも、さらに1曲目の「Yamore」でも、有機的でアクースティックなサウンド・テクスチャーをこそ聴いてほしい。

 

 

響きの中心に複数台のンゴニとアクースティック・ギターがあるんだけど、そういった、良くも悪しくも「人工的」でないサウンド創りが、20世紀と21世紀の変わり目あたりにサリフが強く意識したことだったのかも。そういうのがアフリカ音楽の<本来の>ありようだと言えるのかどうかはぼくにはわからない。というか、たぶん違うんだよね。エレキ・ギターや電気・電子鍵盤楽器やコンピューターの使用は全世界でごく自然なことだ。オーガニック・サウンドがアフリカ的だと言うのは、ヨーロッパ人がアフリカに対し身勝手に抱くイメージにもとづくものかもしれない。

 

 

さらに、サリフ(やユッスーや、その後に続いている音楽家たち)のやるオーガニック・サウンドは、単純なルーツ回帰ということでもないような気がする。前からぼくも繰り返しているが、ある時期にエレクトロニクスで表現するしかなかったスタイルの音楽を、21世紀に入ってからは生楽器演奏でやるひとたちが増えてきているじゃないか。新時代の音楽表現だ。

 

 

彼らのやるオーガニック・ミュージックは、だからいったん最先端のサウンド・メイク手法を吸収しているからこそ可能となっているものなのだ。サリフやユッスーは1980年代後半から90年代にかけて世界で活躍した時期がピークだったから事情がすこし違うのかもしれないが、『Moffou』なんかを聴いていると、一種の<予見>めいた音楽ではあったのかなあ?とも思う。セザリア・エヴォーラ(カーボ・ヴェルデ)のゲスト参加(1曲目)は、なんでもないことかも。

2018/09/01

こ〜れはいい!爽やかでカァ〜ッコイイぞ、ソナ・ジョバーテ!

 

 

とにかくカッコイイ!この一言で終えてしまいたいほどカッコいいソナ・ジョバーテの2011年作『Fasiya』。今2018年になってようやく買えたが、いまのところ、これがソナの唯一のアルバムとのこと。ロンドン生まれのロンドナーだけど、ガンビア系らしい。グルーヴィでタイトなリズムを持つ音楽アルバムだ。自然と身体がスウィングする心地良いリズム。いやあ、これはすばらしいなあ!

 

 

ヴォーカルはもちろんソナ・ジョバーテだが、コラを中心に弦楽器の多くもソナひとりで多重録音。パーカッション類など、ほかにも担当していたりする。全11曲のソングライティングと、全曲とアルバム全体のプロデュースだってソナ自身。アルバム全体でいちばん目立つ楽器はコラの音で、ソナはガンビアのグリオ家系の末裔らしい。このアルバム CD 附属ブックレットの最初のページに祖父、最後に祖母の写真が掲載されている。そして、ソナはコラを弾く西アフリカ系の女性なのだ。

 

 

 

 

イギリス人がイギリスのレーベルから出した作品ということで、ブックレット記載はすべて英語。そこは助かるけれど、掲載されてある歌詞も英語だ。しかし歌っているのは英語じゃない。それも何語(四種類)から訳したと記載があるが、ぼくは聴いても理解できないので、英訳を眺めボンヤリと大意みたいなものを想像しているだけ。まあでもサウンドとリズムだな、このソナ・ジョバーテの『Fasiya』は。オーガニックなテクスチャーも聴きどころで、そこは、いかにも2010年代のブラック・ミュージックといった趣だ。

 

 

しかしこういったオーガニック・アフリカン・ポップは、ずっと前にサリフ・ケイタ(『モフー』、2002)とかユッスー・ンドゥール(『ナッシングズ・イン・ヴェイン』、2002)が先鞭をつけいてたかもなあって思わないでもないんだけど、それでも21世紀型の、なにか違うフィーリングがあるようなないような…、よくわからないんだけど、心地いいことはたしかだ。

 

 

ソナの『Fasiya』は、上で書いたように彼女自身がコラで弾き語るのを曲創りの中心に据えている。各種ギターやベースなども弾いているが、あくまで(グリオの末裔らしく?)コラでやるっていうのがソナのありようなんだろう。曲を書くまず最初もコラを弾きながら考えているかもしれないが、あるいはそこはいまの時代の若手らしく、コンピューターなど使っている可能性があるかも?

 

 

2010年代型オーガニック・サウンドとは、そういうデジタルなメディアを用いての新発想を手づくりの人力演奏アクースティック楽器で表現するという、そういったダブル・プロセスを経ているところにも特色があると思うんだけど。オーガニックとの言葉でくくられるみんなのことを考えてみて。表層的な音のああいう質感の土台には、デジタル・プログラミング的な音の重ねかたがあるような。

 

 

ソナ・ジョバーテの『Fasiya』だって、どこにもコンピューター演奏によるデジタル・サウンドはないけれど、一音一音丁寧に、細部まで厳密・緻密に組み立てられたサウンド・テクスチャーには、かつて20世紀にはあんなデジタル方式な創りかたをしていた音楽を、生演奏する新時代形を読みとることができるかと思う。結果、演奏時にはコラの生演奏を軸にコットン100%みたいなサウンドができあがっている。

 

 

個人的に特にすごくお気に入りなのが、ドラマー(ウェズリー・ジョゼフ)の叩きかたも素晴らしいアップ・ビートなハード・グルーヴ・ナンバー。1曲目「Jarabi」、4「Musow」、5「Fatafina」、7「Bannaya」(これはかなりすごい)あたりかな。いやあ、これらは掛け値なしで正真正銘カッコイイ!!ときおり入る間奏コラ・ソロのめくるめくスピーディなカッコよさ!こんなの、聴いたことないぞ。

 

 

それらも、ソナはガンビアのグリオ末裔でコラ弾き語りということだからトラディショナルな音楽なのか?と思うと、それをベースに置きつつもモダンなリズム・セクションを縦横に活用しながら、かなりファンキーかつ爽やかに、あるいは言ってしまえばアメリカン・ファンク・ミュージックに通じるものだって感じとれそうなほどグルーヴ重視型でノリ一発の音楽に仕上がっている。しかしヴァイオレンスはない。あくまでデリケートな肌触りがあるのがとてもいい。

 

 

それらとすこし違うタイプの曲だって、たぶんソナのアルバム『Fasiya』のものはぜんぶいいんだ。ゆったりめだけどビートの効いている2曲目「Mamamuso」、フルートがいい効果を出すバラード調の3「Saya」、コラなしだけど完全にソナひとりですべての音を組み立てた6「Mamake」での、じっくり聴かせる落ち着きとしっとり感。

 

 

リティ(一弦の擦弦リュート)以外はこれまたソナひとりの多重録音である8曲目「Gainaako」では、ソナの一人多重コーラスのポリフォニーも見事。リティも含め楽器の出すリズムは典型的なハチロク(6/8拍子)で、これは10「Mali Ni Ce」、11「Fasiya」でも同じ。アフリカン・ミュージックではありきたりなポリリズムかもしれないが。9「Suma」も、バラフォン奏者以外はぜんぶソナだ。ヴォーカルにも力が入っている。

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