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2018/10/24

そしてだれもいなくなっても

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Whatever you do, do with all your might.

今日の文章は、文明堂チョコラーテさん(という見ず知らずのかた)のこの2018年10月19日のツイートがきっかけで書いた内容です。
歌手、音楽家によっては、レコード、CD、配信をだれも買ってくれなくなったり、ライヴ現場にだれも来てくれないばあいには、やる気が消え失せるというばあいもあるみたいだよね。ブログなど(そのほかなんでも)を書いて公開するのも、ほぼだれも読みにきてくれないという状態になれば、やる気がなくなって更新しないようになり、最終的には閉鎖してしまいたいとか、それも似たような心理なのかな、わかりませんが。

上でリンク貼った文明堂チョコラーテさんの文章にある忌野清志郎は立派だ。そこでは沢田研二の一件に触れてあるが、っていうかあのコンサート中止騒動のニュースに際し思い出されて書かれた内容だけど、どっちかというとジュリーのほうのファンであるぼくは、こういう対比は好きじゃない。エスタブリッシュメント vs レベルの構図みたいでさ。それに、清志郎のような考えはジュリーだってしっかり持っているんだよね。中止の真因は…、やめとこう。

とにかく、客が些少でも全力を尽くす、わざわざ時間とお金を使って来てくれた客がひとりでもいれば、そのたったひとりの客が心ゆくまで楽しんで満足して帰ってもらえるようにフル稼働する、それが人間たるもの、ちゃんとした態度だと、ぼくも心からそう思っている。信じている。実際、この考えを果たせる歌手、音楽家、芸能人が好きだし、ぼく自身もそうありたいと思って実行しているつもり。

音楽は、ただの趣味だけど、でもひとによってはばあいによっては、人生に、生き死ににかかわるものだよね。ぼくのばあいはそうなんだけどさ。だからブログに書くネタがなくなるということは、たぶん、考えられない。死ぬまでネタ切れにはならないと思う。もし書かなくなるとすればもっと別の、たとえばただでさえずっと前からあやしい医学的聴力がゼロになるとか、視力を失って文字入力法が音声認識以外なくなるとか、あるいはなんらかの肉体的 or 精神的な損傷でダメになってしまうとか、そんなことしか考えられない。

そういうふうにならなかったら、生物学的に不可能になるまでぼくは書きつづける。なぜならばぼくにとって音楽を聴き文を書く、これすなわち、生きるということとイコールだからだ。生きることをやめるわけには、まだいかないよ。だからブログも一種の生存証明のような面だってある。ちゃんと元気でやっていますよっていう。でも、これは、どなたかへ向けての証明書ではない。公開することじたいが100%自己満足なのだ。

したがって、どなたも読みにきてくれなくなったって、更新しなくなったり閉鎖したりはしない。読者の多寡、有無は関係ない。音楽を聴きたい、書きたい、書いて公開したい、ただこの一心でやっているだけ。実際、2015年9月3日にはじめたころには読者がどれだけいたのかわからないし、いまでも把握していない。なぜならアクセス解析を見ない習慣だからだ。

自分のためにやっているだけ、というとちょっとウソだけど、どなたが読みにきてくださっているかとか、アクセスの多い少ないだとか、どんなアクセス痕があるかだとか、いっさい関係ないから、アクセス解析を見る意味がないんだ。忌野清志郎じゃないが、客の多寡はどうでもいい。どなたが読みにきてくださっている/いないにも関係なく、ぼくは全力を尽くし、ていねいに細部にこだわって、推敲を重ね、アップしている。

自分が好きでこだわってやっている趣味のことだ、他人は関係ないだろう。それをやることでみずからが楽しめればそれでいいだろう。それに、たぶんだけど、ぼくが書く文章は、内容によってはどなたの関心もひかない可能性があるように思えている。たとえば2017年大晦日にアップした、100年前のジャズ録音開始期にかんするものなどは、そうだったんじゃないかなあ。世には珍奇なもの好きがいるから、わからないけれども。

歌手や音楽家や芸能人が、たとえライヴ現場の客がゼロでも全力を尽くすように、猛獣がうさぎを捕らえるのにも全力を尽くすように、簡単なことでも手を抜かず、だれも見ていないからとあきらめたりやる気をなくしたりせず、このひとに読んでほしいからなどという考えなんかも捨てて、自分のこと以外いっさい無関係で、ただひたすら邁進したい。

ていねいにていねいに、常に力を抜かずイージーに考えず、たとえ客がたった10名の小さな地方都市の小屋でのライヴでも超満員の東京ドーム公演に臨むかのような心持ちで全力でやっていく忌野清志郎のように、ぼくもたとえどうなってもガッカリせずあきらめず、いつも元気にフル稼働で、音楽を聴き、文章を書いて、公開していきたい。それで、清志郎のようにみずからが楽しみたいし、楽しんでいる。清志郎のように他人に楽しんでいただけるかは、副産物だ。

そしてだれもいなくなっても、やめたりはしない。

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