これが自分だというレコード・ジャケット
プロ写真家の著作物を無断で Twitter アイコンに使用することは法律違反であるとの判断がくだった。あたりまえのことではある。レコードや CD のジャケットは、写真が使ってあるばあいもそうでなくとも、撮影したりデザインした人間に著作権がある。人物が写っているときはその人物の権利だってあるだろう。だから、無断で借用してはイカンのだとは、マジふつうのことなんだけど。
ぼくだって、あらゆるネット活動のアイコンやプロフィール画像を2017年の秋ごろまでは英 BBC 制作の幼児向け番組『テレタビーズ』に登場するポーにしていたんだから、えらそうなことはなにも言えない。音楽好きなら、自分の好きなレコード・ジャケットをアイコンにしたいと思うことも多いはずだし、実際、いまでもかなりいるんじゃないかな。
録音音楽が好きな人間にとって、最も身近な写真やイラストがレコード・ジャケットであり、それをジッと眺めながら中身の音楽に聴き入るというのは、日常の光景だ。ジャケットはまずもって「顔」なんだしね。いまでもそうか知らないが、ジャズ喫茶ではいまかけているレコードとして、店内で見えるようにジャケットを掲げていた。客もみんなそれを見ていたよね。
それの延長か関係ないのか、う〜ん、ジャズ狂になる前の思春期に買った数々のドーナツ盤の記憶からすれば無関係かもだけど、自宅でもだいたいみなさん同じようなことをなさるはず。すくなくともぼくはする。つまり、一瞥して目が届く場所にいま聴いている CD のジャケットを置き、それを見つめながら聴いていることが多い。
人間恋愛だと、好きな相手のポートレイトを小さな(大きくてもいいが)写真に印刷して、部屋に飾ったり財布やスマホ・ケースのポケットに入れて持ち歩いたり、こんなことはふつうのことだよね。それと同じように、音楽愛好者は、アルバムやシングルのジャケットをいつも眺めている。あぁ〜、この音楽ってきれいなんだよなぁ〜って思うとき、くわえてジャケットまでも美しく楽しければ言うことなしだ。
だから、SNS 活動をやるにあたり、自分の好きな写真やデザインのレコードや CD のジャケットをそのまま転用してしまいたい心理は、とってもよくわかる。著作権云々が頭から飛んでいるんだよね。そこに法を犯しているかも?という自覚は、たぶん、ない。好きだから、ただ好きだから、それだけの理由で、使いたい。「これが自分だ」と。
今回の裁判の判決は、そこいらへんのことを、たんに好きだから云々だけじゃなく、ちゃんとプロの写真家やデザイナーが手がけた著作物で、したがって権利を持つものなのだから無断使用はいけませんよという、ひとつ冷静になって考えてみてくださいねという、そんなきっかけにはなった。みなさん、今後は使いにくくなるのかもしれないね。
だから、もう、好きな、好きで好きでたまらないレコード・ジャケットをなにかのシンボリックな自己であるとして公共に提示する使用法はやめて、これからは原点に立ち返り、部屋のなかで、お店のなかで、外出先で、CD 現物を眺めたり、あるいは同じジャケが表示される音楽アプリなどでこじんまりと表示されてあるのを見つめたりして、これがぼくなのですなどという顕示もせず、ただ内心でだけニンマリしていよう。
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