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2018/11/18

あらさがしをするな 〜 晩年トゥーサン篇

今日の文章は、本秀康さんの2018年10月22日のこのツイートにはげまされ、もともと持っていた考えをふくらませることができた結果です。
どっちもジョー・ヘンリーがプロデュースしたアラン・トゥーサンさいごの二枚『ブライト・ミシシッピ』(2009)と『アメリカン・チューンズ』(2016)。どっちも基本ジャズ・インストルメンタル・アルバムだよね。音楽にハイ・レヴェルな緊張感やスリル、グルーヴをこそ求めるというリスナーのみなさんには決して推薦できないが、人生が、このころのアラン同様エンディングに近づいていたり、なにか大切なものを失って落ち込んでいる心をみずからなぐさめたいというような、そんな聴衆にはもってこいかもしれない。

ぼくはべつに最近そんな心境だとかいうわけでもないんだけど、ちょっとしたくつろぎ、安らぎ、落ち着きも音楽に見出しはじめている。ジョニ・ミッチェルの多くとか伊藤ゴローがてがけた原田知世とか、そんなような傾向の音楽じゃないかな。グルーヴィではない。がしかし、心が静まって落ち着いていられる。そんな音楽も、また、いいんじゃないだろうか。ハード・グルーヴァーもいまだに大好きだけどさ。どっちかに決めなくていい。

レコスケくんと違って、ぼくは「音楽聴き疲れてもう聴きたくない」という状態になったことはいまだない。ハードなやつをどんだけ聴き続けても疲れないし、いやにはならない。だけど、たまのチェンジ・オヴ・ペースっていうか、あるいは人生いつも前向きにばかりもいられず、たまの後歩とか、そんなときだってあるよなあ。ひとのことはわかりませんが、自分自身をふりかえると、アラン・トゥーサンのこの二枚が沁みてくるときが、たまにある、というか、最近、出てきつつある。

しかも、以前一度褒めた『ブライト・ミシシッピ』よりも、ここのところ『アメリカン・チューンズ』のほうがもっといいぞと思えはじめている。あのときの記事では「あまり面白くなかった」と書いてあるが2016年のことだ。生活も人生も考えかたもフィーリングも変わったし、音楽のことだってなにもわかっていなかった。
それに、古いニュー・オーリンズ(・スタイルの)ジャズをやっていた『ブライト・ミシシッピ』に比し、『アメリカン・チューンズ』では、もっとこう、汎ニュー・オーリンズ音楽的というか、当地の音楽家なんだぞっていう気概も感じられるような気がする。老いて衰えても、しっかりと失くさず持っているものをちゃんと表現している部分があるんだよね。さすがはアランだなあ。こんなことに、二年前は気づいてもいなかった。

それは簡単に言えば、毎度毎度のことだけど、カリブ〜ラテン音楽的ということ。ニュー・オーリンズという音楽首都は、アフロ・クレオール・ミュージックのアメリカ合衆国内における牙城でもあるっていう、そんな事実を、しかもやわらかくやさしく、激しくない静かなソフト・タッチで示してくれているんだよね。いいなあ、これ、『アメリカン・チューンズ』。さすがはアランだ。でもこんなおだやかな境地は晩年ならではだ。

まずなんたって『アメリカン・チューンズ』にはアバネーラがあるもんね。クラシック界のひとだけどニュー・オーリンズの作曲家、ルイス・モロー・ゴットシャルクの「ダンサ、OP. 33」。いちおう弓弾きのアップライト・ベースとパーカッションが伴奏につくものの、ほぼアランのソロ・ピアノ演奏と言っていい内容だ。このアバネーラはクラシカルで上品で優雅で、実にいいよ。

それからなんとビル・エヴァンズの「ワルツ・フォー・デビー」をラテンにアレンジして弾くというおもしろさ。こんな妙味がこの曲にあったんだねえ。意外な発見で、ちょっとビックリさせられちゃった。これもアランがニュー・オーリンズの音楽家だからできたことで、エヴァンズやそのシンプルなフォロワーだと、こんな解釈は不可能だったろう。

ゴットシャルク以外にも、ニュー・オーリンズのソングライターが書いたものをいくつもやっている。自作は当然そうなるが他作でも、プロフェッサー・ロングヘア「マルディ・グラ・イン・ニュー・オーリンズ」「ヘイ・リトル・ガール」、アール・キング「ビッグ・チーフ」など。デューク・エリントンを二曲やっていたり、ビリー・ストレイホーンもあるのが興味深い。アール・ハインズだって弾いているが、その「ロゼッタ」がこれまたラテン・リズムにアレンジしてあるっていう楽しさ。

しかも、それらすべて、ラテン/カリビアン・テイストだ。しかしアランは強く激しく快活な感じにはしていない。ゆっくり典雅に室内でゆるやかに動き舞うかのようなフィーリングでピアノを弾いているんだよね。その静かで落ち着いたムードは、おそらくは終末に近づいているという諦観もあったろうけれど、結果、実現した音楽は、弱っている人間の心のひだにも入り込みそっと慰撫するかのごとく、なめらかでやわらかく、しかもふんわりあたたかい。さらに近づきすぎないクールな感触もある。

こんな遺作『アメリカン・チューンズ』からふりかえって聴きなおすと、一個前の『ブライト・ミシシッピ』では、ラスト二曲「ロング、ロング・ジャーニー」「ソリチュード」が、ものすごく沁みてくるんだ。このフィーリングは、なんなんだ?ずっとひとりで長旅を続けてきたと、己が人生の回顧記みたいな前者でその歌詞を歌うのはアラン自身だ。そのあとアルバムの締めくくりにデュークの「ひとりぼっちで」が置かれているんだよね。なんともいえない感情がぼくのなかに込み上げる。なんだろうね、これは。

アラン、ありがとう。

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