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2018年12月

2018/12/31

マルチーニョが描くニュー・サンバの未来 〜 ブラジル三題(3)

 

 

すごいすごい、こんなサンバ、というか音楽、聴いたことないぞ、大傑作じゃないか!ヨーロピアン・アフロ・サンバだ、歌謡&ダンス・ミュージック、ポピュラー・ミュージックの理想型だ!

 

 

昨日書いたようにモナルコの新作のことはわりと話題になっていて、情報に疎いぼくでもたどりつけたけれど、個人的には今日書くマルチーニョ・ダ・ヴィラの2018年新作『Bandeira da Fé』のほうが本命、っていうかぼく好み。モナルコとあわせ、古参サンビスタ健在という息吹を感じる充実の新作コンビということになるだろうけれど、ぼく的には断然マルチーニョ。大傑作だと思う。モナルコの新作の方がサンバとしてはオーソドックスだし出来もすばらしいのにオカシイかもだけど、好みだからしょ〜がないよ。bunboni さん、サンキュー!

 

 

 

マルチーニョの新作のほうが好きっていうか傑作だと思うのは、録音とミックスの結果できあがった音響のせいでもある。なぜだか、好きなんだ。いいと思うんだ。楽器とヴォーカルとの大小、出し引きの音量バランスとか、打楽器アンサンブルの活かしかたとかがさ。そんで、そういう音響に仕上げるだけの、中身の音楽の違いが、モナルコ新作とマルチーニョ新作のあいだにはある。モナルコ新作はすごくいいけれど、マルチーニョのほうだってかなりおもしろいよ。楽しく、充実している。音響も新しい、というだけの中身のあるニュー・ミュージックだ。どっちが上、とかいう話じゃない。

 

 

マルチーニョの新作『バンデイラ・ダ・フェ』がすごい、というかどんな音楽なのかは、幕開けの「O Rei Dos Carnavais」に典型的に表現されている。アルバムの曲はぜんぶマルチーニョが書いたもの(か共作)でこれもそうだけど、三部構成でどんどん目まぐるしく曲想が変化する。不穏なムードを漂わせつつサンバのリズムで、同時にシャンソンふうな語りくちヴォーカルでマルチーニョが歌いはじめる。カヴァーコがまるでファド伴奏のポルトガル・ギターみたいに響く。

 

 

ナレイションになったかと思うと、突如パーカッション・アンサンブル・パートになるよね。ブックレットには二名の打楽器奏者がクレジットされているが、これは…、う〜ん、やっぱり二人だけなのかな、でもこのリズム・アンサンブルはすごい。アフリカ音楽的っていうか、サンバのアフロ・ルーツを鮮明に示しつつ、同時に2018年的に新しい。このパートでは打楽器奏者のみ演奏している。

 

 

曲「O Rei Dos Carnavais」では、打楽器オンリーのパートが終わると、第一部と同じ内容(シャンソン・サンバ)に戻り、またナレイションになって、次の第三部はまた違った明るく激しく快活なサンバ・パートが来る。ここではいかにもカーニヴァル・サンバっぽい合唱隊も入っている。そのままこの変幻自在で統合的な一曲が終わるんだ。

 

 

どうこれ?古参サンビスタのやるサンバのワン・トラックとは思えない新進の気概に満ちているじゃないか。すごい、すごいぞマルチーニョ!好きだ〜!ここまで書いたような1曲目の構成要素は、アルバム全体を通しずっとかたちを変えてさまざまに表現されている。つまり、ブラジルのカーニヴァル・サンバ、(シャンソンやファドといった)ヨーロッパ歌謡ふうサンバ、ナレイション、アフリカ系打楽器アンサンブルの、四者一体。いやあ、すごい、すごいぞ、こんな音楽聴いたことないぞ。降参するしかない。大傑作じゃないか。

 

 

全体的に不穏でダークで、ブルーでダウナーで、いわば不気味な空気感というか幕(それはヨーロッパ的憂いに相通ずるものかもしれない)がたれこめているのも、このアルバムの特筆すべき特色で、きわめて2018年的。どの曲もそうなんだけど、それがあからさまに表面化しているのが7曲目「Ser Mulher」と11「Zumbi Dos Palmares, Zumbi」。しかもこの二曲はサンバというよりアフリカン・ミュージックだもんね。一歩譲ってアフロ・サンバ。いやあ、すごいすごい、アフロ・サンバでヨーロピアン・メランコリー、いや、いまの世界の不安感を表現しているんだよね。

 

 

ラッピン・フードを迎えてやっている10曲目「O Sonho Continua」なんか、こりゃもうサンバでもアフロ・ミュージックでもない。2018年型最先端ブラック・ミュージックの世界的普遍型じゃないか。これが古参サンビスタの手になる作品だなんてなあ。新進の気概と上で書いたけれど、もっとすごいものだよなあ。この10曲目では(たぶんどっちかの)パーカッショニストが打ち込みのデジタル・ビートも駆使している。鋭角なエレキ・ギター・サウンドも切り込んだり漂ったりする。

 

 

いちばんすごいのは、そんな、歌謡サンバなのか、ダンス・サンバなのか、(シャンソンやファドっぽい)欧州ナレイション歌謡ミュージックに近いのか、アフリカン・ダンス・ミュージックなのか、わからない、一体化した音楽の全体を、マルチーニョひとりの深みと凄みのある落ち着いた声が貫いているってことだ。ドスが効いていて、それでも同時に(重苦しくならず)軽みをも漂わせている。鋭く尖っているようで、同時に柔和。

 

 

そしてなめらかなリズムと雰囲気を持つクロージング・ナンバー12曲目が終わったら、マルチーニョひとりになっての笑い声が入っているんだよね。不気味だ。背筋が凍りそうだが、しかし同時に深く安心する。

 

 

いやあ、すごい。こんな音楽、聴いたことないぞ。サンバでありつつ、もうサンバじゃない。2018年、影の、というか真のナンバー・ワン作品はこれだ。

2018/12/30

人生ってすばらしい、モナルコの王道サンバ 〜 ブラジル三題(2)

 

 

モナルコの2018年新作『De Todos Os Tempos』のことも bunboni さんはお書きですが、これにかんしては有名古参サンビスタだし、王道のエスコーラ系伝統サンバだし、内容もすばらしいしで、それなりに情報はあったから、ぼくも知ることができました。ですが、bunboni さん、それから Astral さんに感謝します。サンバ好きは全員反応できるアルバムですね。

 

 

 

 

"Obrigado" ということばは、小学生の終わりか中学生のはじめごろ、山本リンダがどれかの曲で歌い終えて袖へ向いて体をかしげる瞬間に小さな声でオブリガードとサラッとひとこと言うので知った。テレビの歌番組でね。しかしあのころ、ブラジルのことばも音楽もなにひとつわかっていなかったのに、あのひとことが印象的で、音楽もサンバっぽいダンス歌謡だとか、ありがとうという意味だとか、どうして知っていたんだろう?不思議だが、事実だ。

 

 

サンバを歌ってオブリガード、これはモナルコの2018年新作『De Todos Os Tempos』の一つのキーだと思うんだよね。そう気づいたら(関係ないけど)山本リンダの思い出にたどりついちゃった。ごめんなさい。やっぱりあのへんが(ジャズキチになる前の)ぼくのきっかけだったんだね。ストレート・ジャズを知って夢中になって、地下に伏流水となってもぐったままだったんだと思う。でも消えてはいなかった。最近ようやく頭を上げてきた。

 

 

なんにせよ現役活動中の古参サンビスタのなかで最大の注目株かもしれないモナルコの2018年作『De Todos Os Tempos』はすばらしすぎる。しかもどこにも衒いや気取りや気負いのない素直でナチュラルなストレート・サンバだ。80歳超えた老人がそれをそのままやって、いまの時代にここまで心に響く音楽に仕上げることができるなんて、すごいことじゃないか。モナルコの力というだけでなく、サンバなど古くから連綿と受け継がれてきている音楽が決して古びないというそんな伝統のパワーこそ、真に大切なものじゃないかな。

 

 

だから、サンバ好きやブラジル音楽に興味がある人間にとって、2018年最大の重要作がこのモナルコの『De Todos Os Tempos』かもしれないんだよね。歌っている曲はすべてモナルコの自作か共作。伴奏編成は、おなじみの面々にまじり新顔もいるようだ。新顔のなかで、個人的に大好きなひとだからか、バンドリンのルイス・バルセロスが気になった。

 

 

ルイス・バルセロスは全曲に参加しているわけではない。数曲だけなんだけど、ルイスが弾いているものは、一聴、あっ、彼だ、とわかるサウンドを出しているのはさすがだね。バンドリンの鉄弦の硬い響きがキラキラ輝いて、7弦や6弦のギターや、カヴァキーニョ、打楽器、バック・コーラス隊などの伴奏陣のなかでもひときわ目立つ。それがモナルコのこの渋く枯れた声を盛り立てているよなあ。

 

 

アルバム『De Todos Os Tempos』は、全16曲、だいたいどの曲も似たようなグルーヴを持っていて、それは20世紀はじめごろからのエスコーラ・サンバからなにも変わっていない、変えていない、つまり(どんな客をもうならせる)老舗の味っていうやつだけど、ぼく的にはなかでもゲスト・シンガーが参加した二曲がことさら響く。

 

 

すなわち、アルシオーネ参加の5曲目「Uma Canção Pra São Luis」と、ゼカ・パゴジーニョ参加の12曲目「Seu Bernardo Sapateiro」。アルバム中どの曲もそうだけど、やはりここでもアレンジャーの存在を実感するし、実際、ブックレットに一曲づつ明記されている。このふたつの曲調は反対で、前者は哀愁の短調、後者は陽気な長調。これらの二傾向が併行し、ないまぜになって、アルバム『De Todos Os Tempos』全体が構成されているんだけど、あたかも人生とはそんなもんだと教えられているかのようだ。

 

 

それにしても、5「Uma Canção Pra São Luis」なんか、本当にすばらしく泣けるサウダージを持っているじゃないか。クラリネットを中心とするリフが繰り返し入るけれど、そのアレンジされたフレーズも最高に沁みる。コーラス隊も、そして主役のモナルコとアルシオーネの声も絶品。バンドの演奏も落ち着いていて、いいね。

 

 

モナルコのこの2018年新作『De Todos Os Tempos』には、サンバの、ブラジル音楽の、いや、音楽の、つまり人生の、すべてがある。楽しいこともつらいことも、幸せなことも不幸なことも、酸いも甘いも、すべてを味わってきて乗り越えて、いま、静かな場所にいるモナルコが説く「人生ってすばらしいもんなんだよ、感謝しよう」っていう、そんなこと 〜 つまり <音楽 = 人生> のあらゆることがここにあるね。

2018/12/29

声とギター、2018 〜 ブラジル三題(1)

 

 

年間ベスト・テンの記事でも書いたけれど、2018年はブラジル音楽の新作が充実していたという印象がある。そんな年を締めくくる三日間に、今年終盤に知ったブラジル音楽の傑作三枚をとりあげてメモしておきたい。三日連続で。それで大晦日まで行く。ブラジル三題でブラジルの年2018年は終わりだ。

 

 

・Danilo Moraes "Obra Filha"

 

・Monarco "De Todos Os Tempos"

 

・Martinho Da Vila "Bandeira Da Fé"

 

 

この三枚、購入時期からしてベスト・テン選出に間に合わなかっただけだ。あと一ヶ月早く聴いていれば、三つともベスト・テン入りだったはず。それほど内容はすばらしい。って、これを書いている今日は12月9日だから(ベスト・テンを書いたのはもっと前)、年間ベストに入れられないことはないんだけどさっ。いやあ、かなりつらいことがいくえにも重なった年だったけど、音楽的にはやっぱり超充実していたよなあ。

 

 

そんなわけで、今日はブラジルのシンガー・ソングライター、ダニーロ・モラエスのギター弾き語りライヴ『Obra Filha』を。これもまたまたまた bunboni さんに教えていただいたもの(いつもながら、感謝しかない)。bunboni さんですらこれではじめて知ったとおっしゃるくらいなんだから、ぼくが自力でたどりつくはずもない。ありがとうございます。本当にいいアルバム。そんでもって、ぼく好み。

 

 

 

最高にすばらしいのは、とっても親密なアット・ホーム感がこのライヴ・アルバムに漂っているところ。2017年5月27日、サン・パウロのスタジオ Family Mob でのライヴ録音だけど、人間的あたたかみがあふれているんだよね。感情が、というか情緒というかエモーションがねえ、いいよ、とっても、ダニーロ・モラエスの『オブラ・フィーリャ』。一曲女性歌手レナ・バウルがゲスト参加するだけ(4曲目)で、ほかはぜんぶがダニーロひとりでのギター弾き語り。

 

 

CD(配信でも)で作品『オブラ・フィーリャ』をお聴きいただければ、(たぶん)小規模な客席とダニーロとの距離感の近さや、親密な雰囲気、あたたかい空気感をご理解いただけるはずだ。スタジオ・ライヴで機材も音響もちゃんとしているから、録音状態も極上。さらに弾き語るダニーロの演唱の完成度がこれまた高い。

 

 

こういったナイロン弦ギター一本での<声とギター>的な作品は、ブラジルの伝統なんだよね。ジョアン・ジルベルト以来ってことかな。ダニーロも、そんな偉大な伝統に連なる現代の名手ということに、『オブラ・フィーリャ』で、なったと言える。なお、ブックレットにはカイピーラ・ギターも弾いていると記載があるが、どこだろう(^^;?

 

 

ダニーロの『オブラ・フィーリャ』での本領は、おそらくは(ちょっぴり激しく?)リズミカルに細かく刻みながらやや滑稽さもまといながら快活に跳ねるようにやっているものにあるんだよね、きっと。1「オブラ・フィーリャ」、3「ナウフラーゴ・ド・アモール」、5「ハイカイ・ニ・ミン」、12「ナ・ヴォルタ・ド・パリ」、14「セウ・ペイト・メウ・レイト」など。

 

 

さらに7曲目「フレーヴォ・パラ・スージー」、それからこれはダニーロの曲じゃない10「ティリンゴ」。ここまで書いたもので聴けるギター・リズムのおもしろさは特筆すべき。一曲ごとにすこしづつリズムのスタイルやニュアンスを変えながら、多彩な表情を表現しているよね。せわしない感じはちっともなく、ゆったりと余裕を見せながらやっているのが好感度大。ヴォーカルもそんなギターにあわせた細かい歌いかたで、速射砲のように、しかし歯切れよくことばをつむぎだす。実に見事だと感心しちゃう。

 

 

それでも、ダニーロの『オブラ・フィーリャ』でぼくがとっても強く心惹かれるのは、サウダージ横溢の切な系バラードっぽいものだ。それらでは本当に泣きそうになってしまうんだ。ギターのリズムもフレイジングも、メロディ・ラインも歌いかたも、ビンビン響いて涙腺が刺激される。6曲目「プロ・ジアマンテ・アマネセール」、9「セン・ショラーレ、アカブイ」、11「マイズ・ウン・ラメント」、16「アマーリア」がそれ。8「オ・ペルフーミ・ダス・フローレス」も入れていいかな。

 

 

これらはメロディ・ラインが本当に切なく美しいと思うんだよね。その底に激しいパッションや苦悶が感じられるものだけど、悩み悶え苦しむ美こそこの世で最高の美なんじゃないだろうか。それはしかも刹那的なものでもあって、はかない。はかないからこそ、美しい。そんな至高の音楽美を、上記曲にぼくは感じている。

 

 

なかでも特に11「マイズ・ウン・ラメント」だなあ。最高だ。好きで好きでたまらない。セウのヴァージョンではそうでもなかったのになあ。ダニーロ自作自演ヴァージョンはギター演奏のパターンも最高に沁みる。いやあ、こんなにも哀しく切なく美しい弾き語り音楽って、なっかなかないよねえ。

 

 

アルバム・クロージングの「アマーリア」では、客席の合唱とのコール&レスポンスになっているのもすばらしい。ダニーロの「アマーリア」という曲が持つ親密さが端的に表れているし、エモーショナルに響き共感できるももだからだろうなあ。

 

 

そしてたぶんこの曲はこの日のスタジオ・ライヴのラスト・ナンバーだったんだろう、そこまでのダニーロの演唱のすばらしさとあたたかさで客席がすっかり和んで打ち解けているのも、聴けばよくわかる。こんなトポスが大好きだ。この場にぼくもいたかった。CD で追体験妄想している。このアルバム、comfortable のひとこと。

2018/12/28

帝王帝王言わないで、"オレ" も "ぼく" に 〜 マイルズを人間化してほしい

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マイルズ・デイヴィス。ジャズの帝王と言われていて、むかしの話だと思っていたが、最近も変わらない。Twitter なんかでも多くの CD 販売ショップ公式アカウントがそう呼ぶ。これはいかんよなあ。そろそろやめてほしいんだよね、帝王とマイルズを呼ぶのをさ。人間扱いしていないと思うから。神とか帝王とかっていう存在は、早く下界におろして人間化したほうがいいよ。

 

 

マイルズがいつごろから(ジャズの)帝王と呼ばれはじめたのかはよくわからない。日本でだけなのか、本国アメリカや他国などでも同様だったのかも知らないのだが、ぼくが1979年にジャズを聴きはじめたころにはまだこの呼称は少なかった(見なかった?)ように記憶している。帝王化したのは81年の復帰後だったんじゃないかな。

 

 

あの約六年間のブランクが、音楽シーンでの不在こそが、マイルズを帝王化させた、と考えるのはわりとわかりやすい。もっとずっと前からコロンビアや、ライヴを取り仕切るプロモーターたちはマイルズを別格視し特別扱いしていたが、だから待遇も収入も破格のものだったけれど、まだまだ現実的存在だった。

 

 

大活躍中のまま一時隠遁した、というより1972年から(主に股関節のことで)身体的に苦しい状態にありはしたので、それでもなおシーンのトップを駆け続けていたから、75年にいったんやめちゃいたいと思うのは、いま考えたら理解できることだった。しかしそのまま活動がゼロになってしまったもんなあ。

 

 

1981年に復帰するまでのあいだ、ファンも、ジャーナリズムも、そしてミュージシャン仲間でも、マイルズを刺激しちょっとでも姿を現してもらおう、トランペットを手に吹いてもらおうという動きをとっていたのはみなさんご存知のとおり。ハービー・ハンコックらによるかの VSOP もそのひとつ。だけど、みずからその気になるまで当人は頑として動かなかった。ずっと暗闇のなかにいたんだよね(これは比喩というだけじゃない、マイルズの部屋はあの間ずっと照明が暗かったようだ)。

 

 

マイルズの周囲やファンのあいだで、待望感というか渇望感がこれでもかというほど、限界まで高まっていた1981年に復帰したから(その兆候はすこし前から日本のジャズ・ジャーナリズムでも報道されていた)、もう絶対に下になんか置かない VIP 待遇になっちゃった。マイルズが悪いというんじゃない。(中山康樹さんはじめ)ぼくたちが勝手に帝王化したのがよくなかったかも、という意味だ。

 

 

帝王化してからのマイルズの気持ちの一端は、1985年の来日時にタモリがインタヴューしたそのなかにも表れていた。タモリはまぁたぶんストレート・アヘッドなジャズをやっているマイルズのファンなんだよね、それで『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』(1964)など何枚かレコードの話をマイルズに向けていた。最初、マイルズは聞いていないふりをしていたのだが。

 

 

しかし、しばらくしてふとタモリのほうを見て、「あなたはぼくのレコードをちゃんとしっかり聴いてくれているんですね、アメリカじゃあこんなインタヴューはされなくなってしまいました、みんな "ジャズの未来はどうなるんですか?" みたいな質問ばっかりで嫌になります、そんなことぼくが知るわけないでしょう、ぼくのやった音楽を聴いてくれていて、その話をしてくれて、ありがとう」と言ったのだ。

 

 

つまりさ、タモリはずっとマイルズのファンで、レコードをずっと聴いていて、その素直な気持ちをそのまま向けたんだろう、それがマイルズの琴線に触れたんだよ。そうじゃないジャズ聴きやマスコミや音楽関係者は、マイルズをまるで神棚にまつりあげるようなことをして、遠ざけて、人間視しなくなっていた。やっている音楽の内容だってしっかりとは聴いちゃいない。

 

 

ジャズの帝王とマイルズのことを呼ぶことで、この音楽家のことを指したことになると思っている、というか要はな〜んも考えていない日本のジャズ・マスコミや CD ショップ関係者などは、ちゃんと考えなおしてほしい、というか、一度でいいからしっかり考えてみてほしい、その冠呼称でこの音楽家のことを呼んだことになるのかどうかを。

 

 

帝王とか(生ける)伝説とかって呼ばれてまつりあげられて、ふつうに(人間として)扱ってもらえなくなったりしたら、さびしい気分だと思うんだよ。あんな才能を持つ音楽家はそれだけで孤独なのに、その上さらに闇を抱えることになっていたに違いない。もうこの世にいない故人だけど、やっぱりちょっとね。

2018/12/27

コレクターじゃないよ、ぼくは

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こと音楽にかんしては「聴けるか聴けないか」〜 ここだけに強いこだわりがあって、音源が入手できるかあるいはシェアできるかでとにかく耳に入れられることがぼくには超大事。いまのところ、CD を買って聴くほうがちゃんとできるような気がしているので買っているが、最近は Spotify でだけ聴いて書いたりするもの(は増えつつある)も、特になにも変わらないとわかってきたので、そのうち聴けるなら買わない方向へ進むかもしれない。やはり物体かファイルで持っているかどうかは瑣末なことなんだなあ、あくまでぼく的にはね。他人様のことはいっさい言っていない。

 

 

部屋のなかには CD がいっぱいあるけれど、コレクトしているだとか自分がコレクターだという自覚はない。実際違うと思う。ちゃんと聴きたいからとか、曲情報やパーソネルなどデータがほしいから CD を買うだけだ。だから一枚に払う値段が高くても安くてもそれでしか聴けなかったら買っている。以前書いたスリー・キャッツ(「黄色いさくらんぼ」入り)の一枚は8000円以上もしたけど、ほぼ躊躇なしだった。

 

 

逆にというか、一度買った CD を処分したりもしない。このことは以前書いたね。第一印象が悪くそれがしばらく続くものでも、長いあいだ寝かせておいて聴いてみたらガラリ容貌が変化したという経験をなんどもしている。だから売り払うなんておそろしい真似は到底できそうもない。この CD、ひょっとしたらすごく楽しくおもしろく美しい音楽なんじゃないか、そう感じないのは自分のほうの問題だろうか、と思ったら絶対ムリだね。

 

 

このへん、コレクターと呼ばれるみなさん、自覚のあるみなさんは、「コレクション」をきちんとしておきたい、つまりつまらない石のまじらない自分好みのコレクションにして維持しておきたいというお気持ちがおありかも?と感じている。だからおもしろくないと感じた CD とかは売っちゃうんでしょ。コレクション or ライブラリを汚さないために。ちゃんとしておきたいがために。学生時分や若くてお金がないころ、食えなくて、あるいは違うレコードを買いたいがためやむをえず、売る、というのは別な問題だ。

 

 

ぼくの場合、自分の持つ CD 群をコレクションとしてちゃんとしたいとか、部屋のなかにあるそんなようなものを自分好みに仕立て上げたいといった考えはこれっぽっちも抱いていない。音楽に対し大それた考えだと思うしなあ。ただ聴きたいものをどんどん買って一方的に増えていくだけだ。玉もあれば石もある。半々くらいかな。でも、ホント、石が玉に化けたりしますから〜、年月を経て。

 

 

大切なのは溝や面に記録された音楽の中身だから、パッケージに対するこだわりも薄い。まず、日本盤には必須の帯。あれは高校生の終わりごろに LP レコードを自分のお金で買うようになったはじめのころから現在に至るまで意味がわからず、ずっと捨て続けてきている。いまでもそう。さすがに大学生のころみたいにいきなり指でビリっと破り外すということはしなくなったけど、CD 附属のものでも外れにくくてイラっとしたらやるかも。あんなもん、いら〜ん。即、ゴミ箱。せっかくのきれいなジャケット・デザインが一部隠れちゃうし。

 

 

ひとつには中古で売るときに帯の有無で値段が変わるなんていう事情をちっとも知らなかったせいもあるけれど、結局、売らないんだから関係ないぞ。売ったことがないから知らなかったわけだけど。ライナーノーツもくだらないものはむかしは捨てていた。これは、ここ数年、音楽にかんする文章をどんどん書くようになってやめた(どんなものでも参考というか<教師>になると知った)。まあでもだからコレクションとしてはカタワだ。

 

 

中古盤 CD しか買えないばあい(もけっこうある過去の名盤)はそれを、主にアマゾンのマーケットプレイスで買っているけれど、ときどきレンタル落ちの商品が出ている。それでこのことは事前に確認できないんだけど、お店のなんらかのシールがド〜ンとジャケット表にだって遠慮なく貼ってあることがあるんだよ。しかし、ホント事前にわからないんだ。届いてみて、最初のころはエ〜ッ、やめてくれ〜!とか思っていたけれど、もう慣れた。平気だ。大切なのはジャケットの清汚じゃない、盤面の清汚も関係ない。唯一大切なのは、盤面に記録された音源が再生できるかどうか。

 

 

そう、音が聴けるかどうか、ここだけが勝負。それに付随するメモラビリアとかパッケージのどうこうとか、なにからなにまで、たぶん、ぼくには関係ない。音楽が聴けりゃあそれでオッケー。大学生のころ、普段の自室ではレコードからコビーしたカセットテープで聴いていたけれど、だからジャケットとかパッケージ・デザインはいっさい消える。しかし、聴いての感動に微塵の違いもなかった。

 

 

いまはカセットや MD など物体コピーしなくとも、パソコンなりなんなりのデジタル機器にコピー・ファイル化して持っていれば、それで聴けるからそれでもいいんじゃないかな。それでですね、Spotify その他ストリーミング・サーヴィスで聴くのも、それと特に違いはないと思うんだけどね。

 

 

結論としては、ぼくは30年以上前の大学生のころからなにも変わっていない。パッケージにまつわる諸々がどうでもいい人間で、パッケージでなくともいいのであって、コレクターでもなく、収集癖もなく、ただただ音楽を聴きたいだけ。コンサートへ行ってもチケット半券やパンフレットなどを思い出として持っておく習慣も、むかしからぜんぜんなし。音の姿のみ、とっても大切に憶えている。

2018/12/26

わさみんサンタで癒される in 倉敷 2018.12.23

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去る2018年12月23日に、岡山県倉敷市のイオンモールで、わさみん(岩佐美咲さん)の歌唱イヴェントが開催されましたので馳せ参じました。四国・中国エリアでこうやって実施していただけると行きやすくて助かります。11月にも、わさみん in 四国 2 days がありましたが、こんな短期間に続けて体験できてしまっていいのだろうか?なにか大きな落とし穴が待ち受けているのではないか?と警戒したくなるほど、楽しく幸せです。

 

 

倉敷わさみんの模様についての詳細レポは、いつものことながらやはりこの人、わいるどさんのブログにアップされていますので(ホンマいろいろ頼りにしてまっせ)、そちらをご一読いただきたいと思います。

 

 

・12/23イオンモール倉敷歌唱イベントレポ!

 

 

 

11月のときと同様、セット・リストだけぼくも書いておきます。

 

 

 

 

一回目(13:00〜)

 

 

 

 

1 鯖街道

 

2 銀座カンカン娘

 

3 大阪ラプソディー

 

4 佐渡の鬼太鼓

 

 

 

 

二回目(15:30〜)

 

 

 

 

1 もしも私が空に住んでいたら

 

2 東京のバスガール

 

3 手紙

 

4 佐渡の鬼太鼓

 

 

 

 

クリスマス時期ということで、わさみんサイドとしてもそれを意識して二回目のステージではサンタクロース?雪だるま?のような装いで登場し歌いました。その格好のまま特典会に臨み、握手や2ショット写真撮影をこなしていましたね。本当に可愛かったです。しかも、わさみん、ここ一年くらいかな、大人の女性としてのセクシーさもまとうようになっていますからね。

 

 

 

 

大人としてのセクシーさ、色気、艶、あるいはそもそも歌手としての大きな成長・成熟みたいなことは、イオン倉敷での歌唱内容にもはっきりと表れていました。12/22〜24の三連休のわさみんはハード・スケジュール。三日間で福岡、倉敷、鴻巣と、休みなしで大きな距離を移動し歌い特典会をこなし、しかも12/22福岡の前日は青森での仕事でした。だからスケジュール的にかなりキツかったかもしれません。

 

 

 

 

そんな部分が、ある種の「疲れ」のようなものとなって歌に出てしまっていたとの見方もできましょう。それに、ふだんの仕事着は和服であるわさみんが、第二部ではクリスマス仕様の洋装をまとい、しかもかなりヒールの高い黒の靴を履き登場し、歌いましたので、そんな慣れない出で立ちもまた、歌に不安定さをもたらす要因だったかもしれません。服装が違うから…、というのは第二部終了後に本人とおしゃべりした際、言っていました。

 

 

 

 

しかし、ここから書くことが重要です。上で書いた、わさみんの大人になった成長ぶり、セクシーさが、倉敷での歌にも出ていたとぼくは思うのですね。いちばんそれがよくわかるのは、たしかに全体的に疲れていてコンディションがイマイチかな?と聴き受けられるなかにも、しっかりとそれを補ってあまりあるヴォーカル・フレイジングや発声、声の伸ばしかた張りかた、音程をちょっぴり外したかな?と思った刹那にサッと修正する対応能力の高さ 〜〜 などといった部分です。

 

 

 

 

12/23の全七曲八歌唱のなかで、いちばん出来がよかったのは第二部の「東京のバスガール」だったと思います。この曲にかんしては完璧だったとして過言ではありません。声もしっかりしていたし、色艶があって、しかもただの一瞬たりとも音程が揺るがず極上の正確さでした。しかも余裕がありましたしね。

 

 

 

 

「佐渡の鬼太鼓」二回、「鯖街道」「もしも私が空に住んでいたら」と、計四回のオリジナル楽曲では、いままで聴けなかった歌唱法がありました。三曲とも、A メロ部分は声も小さめで淡々ときわめて無表情にやって、あれっ?と思っていると、サビに入った途端に声を強く張って伸ばし、フレイジングの抑揚も大きめ・濃いめにつけはじめるといったものでした。サビに入ったときのあのチェンジぶりはかなり大きなものでした。

 

 

 

 

この、オリジナル曲三つでの、いままで聴いたことのない歌いぶりにぼくは最初驚いていたのですが、わさみんもコンディションが万全ではないなりに工夫して、楽曲の魅力を効果的に会場のお客さんにアピールできるようにと考えて練りこんだものなんだと、聴いているあいだにそう考えるようになりました。サビは一曲のなかでいちばんの盛り上げどころですから。あるいは、天賦の才を持つ歌手です、あらかじめ準備せずとも、自然に対応できていたのかもしれませんね。

 

 

 

 

どっちであるにせよ、今後はハード・スケジュールを言いわけにできなくなっていくはずです。人気がもっと上昇すればお仕事もさらに忙しくなって、スケジュールも過酷になっていくわけですから。世界の人気歌手、トップ・スター歌手と呼ばれる先輩方は、みなさんそんな日々を過ごしながら全国(全世界)を飛び回り、なおかつしっかりとした内容のステージをこなし、お客さんを納得させていますからね。

 

 

 

 

わさみんも、これから先どんどんビッグな存在となっていくわけですから、そう考えれば、急場しのぎではない持続的な対応力とか、ハード・スケジュールのなか体調に合わせた歌唱法の調整能力を身につけていくことは、とても重要です。2018年12月23日の倉敷わさみんの歌は、そうなりつつあるという、歌手としての成長ぶりを感じることができるものでした。

 

 

 

 

全国のわさ民のみなさん同様、ぼくもわさみんの歌には敏感で、CD でふだんから繰り返し繰り返しあの完璧な歌を聴いちゃっていますから、生歌唱でもついつい細かい点が気になって採点が辛くなってしまう面があるのかもしれません。そんなこともこんなこともぜんぶひっくるめ、わさみんの可能性が大きなものだと感じ、期待しているからでありますよ。

 

 

 

 

といっても、倉敷わさみんはじゅうぶん立派でした。やはりイオンモール倉敷にいらっしゃった(わさ民ではない)お客さんもお買いものの足を止め、この子だれ?すごいわぁ〜!と思わずじっくり聴き入っていかれるということがありましたしね。それだけの魅力をわさみんは持っています。会場の物販コーナーにタワーレコード倉敷さんが用意した CD や DVD の山は、第二部の途中でなんと完売してしまいました。つまり、それだけこの日のわさみんの歌がチャーミングで、不意に足を止めてみただけの一般のお客さんもどんどん買っていかれたということです。

 

 

 

 

やっぱりたいしたもんじゃありませんか、われらがわさみんは!

2018/12/25

年間ベスト・テン 2018

ネットで個人が発表しているものは、たぶんみなさんだれにも頼まれず勝手にやっているだけの、年間ベスト・テン。そしてぼくのばあいは完全なる自己満足。例年どおり12月25日付で記しておこう。毎度のことながら、ぼくの選ぶ対象は、今年リリースということより今年出会った音楽作品ということ。

 

 

ではまず、以下の新作篇&リイシュー/発掘篇で10個づつ選んだもののうち Spotify で聴けるものをぜんぶ並べて一個のプレイリストにしておいたので、それから。リイシュー篇はやはりネットで聴けるものが少なかった。いっぽう新作篇で未配信のものは一定傾向を見せているかもしれない。

 

 

 

また、Spotify は自動でこんなプレイリストを作成し、お知らせしてくれる。題して「Your Top Songs 2018」。今年ぼくがこの音楽配信サーヴィスでどんな曲をたくさん再生したのか、一目瞭然。傾向と趣味と生活が丸見えになっているよねえ…。

 

 

 

じゃあ、分野を問わず全体的にブラジルの音楽がかなり充実していた(ブログ記事にしておらずベスト・テンにも入れられない秀作がいくつもあり)という個人的印象を持っている2018年の新作篇ベスト・テンから。


 

 

【新作篇】

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(1)Iona Fyfe / Away From My Window(スコットランド)

 

(2)岩佐美咲 / 岩佐美咲コンサート2018(日本、DVD)

 

(3)Nina Wirtti / Joana de Tal(ブラジル、2012年作)

 

 

再生回数からしても、強い癒しになっているという点からしても、このトップ3しかない。金銀銅みたいな順位はほぼなし。この三枚をなんど聴いたことか、なんど救われなんど励まされ、なんど生きていく力をもらったことか、わからない。三人には、音楽には、本当に感謝しています。アイオナ・ファイフ、岩佐美咲、ニーナ・ヴィルチ、この三人のことは死んでも忘れません。あたたかく、かつ爽やかな気分になれる。

 

 

 

 

 

(4)Paulo Flores / Kandongueiro Voador(アンゴラ、2017年作)

 

 

在ポルトガルであるアンゴラの音楽家の最新作。これの一個前のも個人的には好きなんだけど、作品の完成度や訴求力などからしたら、やっぱりこっちだね。2010年代末というまさにいまの時代の人類向けの音楽だ。

 

 

 

(5)Ry Cooder / The Prodigal Son(アメリカ合衆国)

 

 

古参人ライ・クーダーのこれも、2018年といういまの時代の、しかもアメリカ人じゃないと創れない音楽作品だった。アメリカ合衆国音楽の2010年代ベストかもしれないと、個人的には思う。

 

 

 

(6)牛深ハイヤ節(日本)

 

 

熊本県牛深のこのダンス・ビートは、日本のいろんなダンシング囃子のルーツなのかもしれない。踊らず聴くだけでも、ただひたすら楽しく快感だ。『阿波の遊行』もおもしろかったけど、ぼくはこっちを。

 

 

 

(7)Maalem Mahmoud Gania / Colours of the Night(モロッコ、配信とレコードのみ、2017年作)

 

 

これも、実際に録音作品化されていることは少ないだろう現場の生の儀式グナーワの姿を、そこそこよく再現しているものかもしれない。クラクラめまいがしそうな幻惑トランス・ミュージックだ。

 

 

 

(8)Amzik / Asuyu N Temzi(アルジェリア、2016年作)

 

 

この在仏アルジェリア出身カビール系バンドのアルバムに、どうしてだか強く惹かれてしまうぼく。いったいどこに共感しているのか自分でもわからないが、とにかく気持ちがきわまってしまうんだ。

 

 

 

(9)Itiberê Zwarg & Grupo / Intuitivo(ブラジル)

 

 

上で書いた、ブラジルものが充実していた2018年という印象を、ジャズ方面で代表している傑作。これはマジすごいぞ。快適で愉快で爽快。ものすごく難度の高いことをやっているのに仕上がりの聴感は楽チンという、真の意味での技巧を駆使したもの。なっかなかないよ、こんな音楽。

 

 

 

(10)Mariah Carey / Caution(アメリカ合衆国)

 

 

ハマってしまった。なんだかんだで毎日聴いちゃっている。1990年代に大活躍した歌手なので<古い声>だけど、それと最新の先端流行サウンドとのブレンド具合が絶妙すぎる。それに、ただたんに聴いていてひたすら心地いいんだよ。

 

 

 

【リイシューと発掘篇】

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会社公式とはいえ、物体の存在しない、ただの配信プレイリストだけど、今年は五月末にこれを聴いて以後、ずっとこの関連ばかり追いかけ続けたとして過言ではない。モダン・ジャズだけっていうんじゃない本当にたくさんのことを学ばせていただいた。ブルー・ノート・レーベルとストリーミング・サーヴィスに感謝したい。

 

 

 

(2)中南米音楽アルバム

 

 

日本におけるラテン音楽本格紹介のパイオニア、高橋忠雄さんが1941年に発表したアンソロジー。それを孫弟子みたいな田中勝則さんが蘇らせてくれた。うれしかったなあ。

 

 

 

(3)Slim Gaillard / Groove Juice: The Norman Granz Recordings + More

 

 

いちおうはジャイヴ系のジャズ・マンということになっているスリム・ゲイラードの録音集は、スリムの音楽芸の深さ、奥行き、幅広さを、さらにアメリカ音楽のラテン性までをを思い知らせてくれたのだった。

 

 

 

(4)Sindo Garay / De La Trova Un Cantar...

 

 

キューバの古いトロバドールのソング・ブック。シンド自演もあり。19世紀末〜20世紀初頭のひとだけど、いま聴いても感じる爽やかさがある。夏や暑い日にもピッタリだと思うよ。

 

 

 

(5)Voices of Mississippi: Artists and Musicians Documented by William Ferris

 

 

ダスト・トゥ・デジタル渾身のボックス・セット。今年はもう間に合わないけど、来年絶対書く。超充実だし、おもしろいし、聴いて本当に楽しく心地いい。特にディスク1のブルーズ篇。

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(6)Frank Zappa / The Roxy Performances

 

 

ちょこちょこと触れたけれど、サイズのせいもあってボックス・トータルではまだ文章化していない。が、繰り返し楽しんでいる。主にあちこちと拾い聴きだけどね。ザッパ好きには必須。


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(7)Grant Green / Slick! Live At Oil Can Harry's

 

 

グラント・グリーンの1970年代はかなりファンク寄りだったことがまたしても証明されて、本当にうれしかった。長尺メドレーはマジ鬼すごいよ。

 

 

 

(8)ボラ・デ・ニエベ / キューバのピアノ弾き語り:名人一代記

 

 

これもすばらしい一枚だったけど、書くのは来年になっちゃうなあ。ってか、ベスト・テンにも入れられないが今年リリースで内容のよかったものは、本当に多いんだ。たぶん書かないままになってしまうものが多くなると思う。

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(9)Phyllis Dillon / One Life To Live

 

 

ジャマイカのロック・ステディ歌手。秀逸なカヴァー・ソングの数々がかわいくてチャーミング。

 

 

 

(10)Ella Fitzgerald, Louis Armstrong / Cheek To Cheek: The Complete Duet Recordings

 

 

my happiness.

2018/12/24

ささやかなジェリー・クリスマス

 

 

ドブロ・マスター、ジェリー・ダグラスの手がけたクリスマス・アルバムが今日の話題。ドブロ(Dobro) とはリゾネイター・ギターのブランド名。リゾネイター、すなわち反響板をギターのボディにつけて音量増幅を狙うべく開発されたもの。ふつうのアクースティック・ギターは音の小さい楽器だからさ。第二次世界大戦前のアメリカのギター・ミュージックでは、ナショナル社製のものとあわせ、リソネイター・ギターはよく使われた。木製ボディと金属製ボディとがある。

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音量増幅は、その後電気でできるようになりエレキ・ギターが爆発的に普及したので、この目的だけでドブロでもナショナルでもリゾネイター・ギターを用いる意味はなくなったし、現実、そんな弾き手はいなくなったと思う。しかしいまでもドブロを弾くギタリストが絶えないのはレトロ感と、あとはやっぱりひとえにその独特の音色のおもしろさ、美しさにあるんだろう。特にスライド・バーで演奏したばあいなど、えもいわれぬ妙味をかもしだす。ジェリー・ダグラスもまた、そんな魅力にとりつかれたひとり。

 

 

ジェリー・ダグラスはドブロしか弾かないというわけじゃない。いろんなアルバムでほかの各種ギターなども演奏しているが、やはりこのギタリストの特色は当代随一のドブロ弾きという点にある。本当に美しく弾くんだよね。ジェリーの弾くドブロ・サウンドを聴いていると、たとえばスライド・プレイなどでも、うっとりとして時間を忘れて聴き惚れ、ほうけてしまう。それほど美しいギター・トーンなのは、2009年のクリスマス・アルバム『ジェリー・クリスマス』でもよくわかっていただけるはずだ。

 

 

『ジェリー・クリスマス』の全12曲中、ジェリーの自作曲は11「マウイ・クリスマス」(Spotfy にあるのだと「マウイ」とだけの記載)だけ。ほかは伝承的なクリスマス・キャロルや他作のクリスマス・ソングなどを、ほぼどれもインストルメンタル演奏のみで仕上げている。例外的にヴォーカルが入るのは、4「ニュー・イヤーズ・イヴ」、6「サンタ・クロース・イズ・カミング・トゥ・タウン」だけ。後者はマイケル・ジャクスンも歌ったよね。

 

 

この二曲以外は、すべてドブロを中心とするギターが主役のストリング・アンサンブルでひた走る。エレキ・ギターが聴こえたりもするが例外で、ほぼアルバム全編がアクースティック・サウンドで占められているのもクリスマスの雰囲気をいい感じに表現できている。キリスト教のミサの敬虔でおごそかな感じも出せているし、また宗教関係なくアメリカン・ギター・ミュージックの世界に興味をお持ちのかたなら楽しめる音楽作品だ。

 

 

楽曲や演奏内容の解説は今日は不要と判断する。有名曲でも無名曲でも、伝承ものでも個人作でも、ジェリー・ダグラスがひたすらていねいに、美しく、ドブロなど各種ギターをていねいに奏でているのに身を任せればそれでいい。つまり、ジェリーはオーヴァー・ダブで音を重ねてある。ひとりギター・アンサンブルと言いたいところだけど、『ジェリー・クリスマス』にはもう一名のギタリスト、ガスリー・トラップも参加している。6曲目「サンタが街にやってくる」ではガスリーしか弾いていない。ジェリーは Scary Vocal とのクレジット。この声がジェリーなんだね。

 

 

ベース奏者はほぼ全曲で参加。ドラマーはいたりいなかったり。それからヴァイオリンだね、かなりいい感じなのは。ルーク・ブラ(Luke Bulla)という名前がクレジットされている。美しい演奏だ。ぼくはやっぱりジェリーの、ドブロを弾く、それもスライド・プレイに耳をそばだてるのだが、それの次にうっとりするのがルークのヴァイオリンだなあ。きれいだ。それ以外ことばがない。クリスマス時期の、寒く引き締まったキリリとする空気感もよく表現できているように思う。

 

 

特にアルバム7曲目「イン・ザ・ブリーク・ミッドウィンター」と8「クリスマス・タイム・イズ・ヒア」のあたりの美しさは筆舌に尽くし難い。ハッと息を飲むようなクールな輝きがあるんじゃないだろうか。ジェリーのドブロ・サウンドがなんたってすばらしいが、ルークのヴァイオリンだって見事。テンポ設定含むアレンジ全体もかなりいい。

 

 

アルバム唯一のジェリー自作曲、11「マウイ・クリスマス」だけ、バンド編成ではなく、ジェリーがひとりですべての楽器をこなしたワン・マン多重録音トラックとなっている。なぜマウイなのか?音楽的にハワイアン要素があるか?というと、やはりあるように聴こえるね。チューニングの異なる各種ギター類楽器をジェリーは演奏して重ねてあるが、そのアンサンブルにはハワイのスラック・キー・ギター音楽のあの独自の色彩感があると思うんだ。

 

 

ハワイアン・ギター・クリスマスの次の、アルバム『ジェリー・クリスマス』の終幕は、3/4拍子にアレンジした「ベツレヘムの美しい星」。クリスマス・ソングだけど、ジェリーのこのアルバムのなかでは唯一ダンサブルなフィーリングに仕上がっていて、とてもいい。キリスト教の関連があるのかないのか、ヨーロッパのフォーク・ダンスっぽいワルツに解釈してある。しんみりとおだやかに、でも陽気に楽しく、クリスマスのお祝いをしましょう。

2018/12/23

オピカ・ペンデ(2)

 

 

78回転 SP 音源でたどるアフリカ音楽黎明期コレクション『オピカ・ペンデ』の二回目。ディスク3と4について。それぞれ中部〜東アフリカ篇と、南アフリカ〜インド洋篇ということになる。二枚とも、昨日書いた北アフリカ&西アフリカ篇よりも、一層ヴァラエティに富んでいるようにぼくには聴こえるのだが、勘違いだろうか。

 

 

三枚目はまず教会コーラスみたいなもの(コンゴ)ではじまるのだが、その後はケニヤ、コンゴ、タンザニア、カメルーンなどでのバンド編成音楽もたくさん並んでいる。2曲目はほぼギター弾き語りに近いもの(ケニヤ)だけど、3曲目のアディクワ(コンゴ)でモダンなバンド・グルーヴが聴ける。リンガラかな、これは。ギターはアクースティックだけど。ラテン音楽、というかはっきり言ってやっぱりキューバ音楽の影響が色濃く聴ける。3・2クラーベのパターンが入っているしね。すごくいいぞ、このアディクワ(Adikwa Na Bana Loningisa Rumba) の「Tolingana」!好き!

 

 

その後も、まだポップな大衆音楽化していない民俗的なものと、ポピュラー・ミュージックと呼んでさしつかえないものがないまぜになってどんどん流れてくるように思う。なかには(ちょっと北アフリカ地域を思わせるような)アラブ音楽的というか、いや、そうじゃなく、ムスリム音楽的ってことか、そんなものだってあるなあ。そりゃまあそうだね。

 

 

9曲目、Tobbo Eitel「Ja Bane」(カメルーン) も硬い木製音でクラーベ・パターンが入るキューバ音楽的なもの。これもバンド形式でかなりグルーヴィ。いいなあ。トランペットやクラリネットの管楽器も入っている。前者はやっぱりちょっとソンふう?そんなふうに聴こえないでもない。これもぼく好みのワン・トラックだ。爽快感だってある。

 

 

かなりジャズな10曲目、Kiko Kids の「Tom Tom」(東アフリカ)を経て、12曲目、グラン・カレ(Kabasele-Kibongue, Orchestre African Jazz)の「Titi」(コンゴ)もリンガラかな。アディクワといい、このあたりは要するにルンバ・コンゴレーズ黎明期ってことなんだよね、たぶん。いやあ、完璧にぼく好みの音楽です。好きだ、マジで。

 

 

あれっ、これはゲンブリ(モロッコ発祥の三弦ベース)の音だよね?って思っちゃう14曲目の Pancras Mkwawa「Ngosingosi」(タンザニア)を経、また17曲目、Ustad Amar Gaba「Ba'd el Zouz Marghub」(ケニヤ)は、まるでマカームを弾くウードの音みたいじゃないか!というのも経て、21曲目、Evarist & Party「Nambanda」がタンザニアの不協和合唱だ。こういうの、大好きなんだよね。

 

 

それに、24曲目、コンゴの Jean Bosco Mwenda が弾く「Masanga」の美しさったらないね。アフリカン・ギターの大傑作じゃないだろうか。っていうか世界中探したってアクースティック・ギター一台だけでこんな世界を表現できるのって、ほかにはハワイアン・スラック・キー・ギターだけじゃないの?ほかにありましたっけ?

 

 

南アフリカ〜インド洋篇のディスク4。マダガスカルの吹き人不詳のフルート・ソロではじまる。それはなんだか日本の尺八独奏にも似たニュアンスだってあるような?勘違いかもしれない。2曲目、Flying Jazz Queens の「Siyahamba」(南アフリカ)でいきなりモダンなフィーリングのポップ・ミュージックになる。バンド形式の伴奏で女声コーラスが歌い、ベースはエレキ。かなり楽しいぞ。

 

 

3曲目以後もそうだし、っていうかそもそも CD4は『オピカ・ペンデ』全編のなかでもきわだった特色があるんじゃないかと思うんだけど、それは明るいってことだ。サウンドの色調が、三枚目までとはあきらかに異なっている。使っているトーナリティのせいだろうけれど、それだけでもない。なにか世界が変容したような感じがするんだよね。気のせいかもしれない。ラテン〜キューバ音楽要素がやはり色濃くあるのは変わらない。

 

 

だれかは知らないんだけど、4曲目、Francis Baloyi And Shangaan Band の「Sati Wa Vakwela」(モザンビーク)で聴けるギターもかなりすごいよなあ。その上にヴォーカル単唱と合唱が重なっているが、ギター演奏がすごくいい。グルグル回転しているような幻惑的な弾きかただ。

 

 

5曲目、イヴニング・バーズの「Yenz' Inqab' Intombi」(南アフリカ)もいいがそれを経て、8曲目、レユニオンの Orchestre Andre Philippe And St.-Pierre「Cuisine Roulante」が楽しくて、これまたいい。演者名どおり、大編成バンドの模様。でも欧米のオーケストラみたいに整然としておらず、<ズレて>いるのが、かえって快感を呼ぶんだよね。

 

 

ぼく好みな11曲目のギター弾き語り、Americo Valenti「Wati Si Sasekahipahpa」(モザンビーク)を聴いている時間も極楽だ。っていうか12、Lucas Lunga「Vura Matambo」(ザンビア/ジンバブエ)、13、Wilson Makawa And His Guitar「Bambo Siyaya」(マラウィ)と、三つ続けてアクースティック・ギター弾き語りが続くセクションが、マジで大好き!ホント、だれなん?三人とも?すんごくいいね。

 

 

これもかなりジャズな19曲目、Transvaal Rockin' Jazz Stars「Swaziland」(南アフリカ)を経、親指ピアノ独奏+歌の21曲目、Elias Nelushi「Kama Kalinyana」(南アフリカ/モザンビーク)もいいが経て、アメリカン・ブルーズみたいな弾き語りに似た22曲目、Orbert Nentambo Zahke「Nongqangqa Lishonile」(南アフリカ)にたどり着く。南アフリカなのに、サハラのトゥアレグの、いわゆる砂漠のブルーズに近いような気がする。好物だ。

 

 

アコーディオン合奏にスティール・ギターがからんでワルツをやる、セイシェルの24曲目、Seychelles United Band の「Waltz of the Young Hearts」がいいなあと思ってゆったりしていると、次の25曲目が早くも四枚組ボックスのオーラスになってしまう。あっという間だった。それは南アフリカの Griffiths Motsieloa and Company がやる「Nkosi Sikelel' iAfrika」。南ア国歌。

2018/12/22

オピカ・ペンデ(1)

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二日連続です。

 

 

 

 

2011年にダスト・トゥ・デジタルからリリースされたジョナサン・ウォードの『オピカ・ペンデ』四枚組。これがなんであるか、アフリカ音楽に興味があるかたがたにはまったく説明不要だ。問答無用、絶対必須のコレクション。今日はディスク1と2について、ちょちょっと短く個人的感想メモを記しておく。ちゃんとしたことは、たとえば荻原和也さんの『ポップ・アフリカ 800』7ページめをご覧いただきたい。

 

 

『オピカ・ペンデ』は、まず一枚目で北アフリカ地域の音楽からはじまる。2011年に最初にディスクをトレイに入れ再生ボタンを押したとき、ありゃ、これはアラブ音楽じゃないか、ってことは北アフリカ地域だな、でもここはふだんあまり「(いわゆる)アフリカの」音楽には含めないばあいも多いけれど…、と思ったのだった。個人的にはサハラ以南よりもマグレブ地域のアラブ・アンダルース音楽に重心を移していたので、これはうれしかった。

 

 

『オピカ・ペンデ』にはインド洋の音楽まで収録されている。つまり、ジョナサン・ウォードとしては、地理的な意味で総体としての<アフリカ>の音楽をまんべんなく網羅したいという意図があったんだろう。実際、CD 四枚にかたよりなく選ばれていて、しかもたったひとりのプライヴェイト・コレクションでこれが実現しているのは、まったくの驚異(脅威)と言うほかない。

 

 

CD1の北アフリカ地域篇でも CD2の西アフリカ地域篇でも、ぼくは知らない名前が多い。聴けば、音楽そのものはなじみがあるものが多いけれど、不明となっている演者もあったりして、それらでもぼくでも知っている有名歌手の録音と比べて遜色ない。しかもこれが20世紀前半の録音なのだ。驚くべき豊穣さ。

 

 

そして、北アフリカ音楽でも西アフリカ音楽でも、現在アフリカン・ポップス(に前者は含まないことが多いけれど)としてぼくたちが楽しんでいるものの多くが、すでにこの『オピカ・ペンデ』にはある。すくなくとも祖型は整っている。あたりまえな話なんだけど、この時代から連綿と受け継がれ、それが(米欧由来の楽器と手法も導入しつつ)ポップ化して、いま聴けるかたちになっていったんだろうと容易に想像できる。

 

 

しかし、勘違いしてはならない。そういったモダン・アフロ(&マグレブ・)ポップへの下敷きとして『オピカ・ペンデ』があるのではない。このボックスに収録されている78回転レコードの音源そのものが、楽しく質が高く豊穣なのだ。

 

 

個人的に、ディスク1と2とでは、1990年代末以来すっかり肌になじんでいる北アフリカのアラブ系音楽よりも、二枚目収録の西アフリカ篇のほうに強く惹かれる。北アフリカ篇で聴けた憂い、それはアンダルース由来の翳りかもしれないが、ふだんはそういったものに引き込まれることの多いぼくでも、『オピカ・ペンデ』ではサハラ以南の音源のほうがおもしろく楽しい。

 

 

特にラテン・アメリカ音楽、はっきり言っちゃってキューバ音楽だけど、その影響が濃く聴けるのもディスク2の愉快さだ。つまりそれほどラテン音楽が本当に大好き。1曲目の Mbongue Diboue Et Son Ensemble による「Tu Nja Tengene Elie」からして、なんらかの木製打楽器で3・2クラーベを刻んでいるもんね。クラーベの魔力たるや!

 

 

その後、ハイライフやパームワイン・ミュージックを中心に進んでいるかなと思うんだけど(それらの話はぜんぶ省略)、一弦フィドルのソロ演奏で聴かせる4曲目 Yankori Beibatane「Air De Haoua」(ニジェール)があったり、5曲目 Richard Ábé Brown Band「Bārā Sānābo Bārā」(ナイジェリア)ではムビラ+パーカッション+歌の構成が楽しい。23曲目カメルーン人のだれかによる「Musique De Danse」はムビラ+パーカッションのインストルメンタルで、ミニマル・ミュージックな反復に酔ってしまう。

2018/12/21

マイルズ「ターナラウンドフレイズ」

 

 

 

1974.3.30 ニュー・ヨーク https://www.youtube.com/watch?v=fWdmMCnNw2I

 

 

 

スタジオ録音はいまだ発表されていない(あるかどうか知らない)マイルズ・デイヴィス・バンドの「ターナラウンドフレイズ」。しかし1973〜75年のライヴ・ステージではお決まりのコンサート開幕ナンバーだったので、音源数はかなり多い。個人的におなじみのものだけ上に並べておいたが、そのうち、1973東京を除けば、いまはすべて公式音源で聴けるようになっている。

 

 

常にコンサートの開幕ナンバーだったといっても、当時は通常二部構成だったので、どっちかのオープニングということだけど、演奏されなかった例外がほぼなしと言ってさしつかえないほど。したがってブートまで漁って聴いていると本当に耳タコになる「ターナラウンドフレイズ」だけど、1969〜71年の定番だった「ディレクションズ」(ジョー・ザヴィヌル作)同様、聴き飽きない。折々で様変わりしているからかなあ。

 

 

1973年でも、六月の東京ではこんな軽やかで爽やか系ファンクみたいだったのが、翌月のモントルーではもう重さ(悪い意味ではない)が出はじめていると思うんだよね。11月のベルリンでもそれを発展させている。それにベルリンでの「ターナラウンドフレイズ」は、ややいびつな感じがする。結局この1973年の演奏では、東京ヴァージョンがいちばん聴きやすいし、ぼくは好きだ。低音欠如だけどね。

 

 

1974年になるとリズム・アンサンブルが違ってきているよね。カラフルさを増している。73年のものはまだわりとシンプル。それがメンツもほぼ変わらないのに翌年のカーネギー・ホール公演でどうしてこうなっているんだろう?たんに録音状態のせいってだけ?エムトゥーメのコンガだね、特に大活躍しているのは。う〜ん、聴きかえしても、やっぱりこれは録音エンジニアリングやミキシングだけのこと?いや、コンガの叩きかたもちょっと違うような…。

 

 

ここまでがファンクな「ターナラウンドフレイズ」で、聴くたびにいまでもカッコイイなあ〜って思うんだけど、1975年大阪公演夜の部の開幕になっているものは、むかしからイマイチ。っていうか、はっきり言えばおもしろくないなあと感じ続けていた。軽くなりすぎていると思うんだよね。リズムも走り気味だしね…、と、ついこないだまで思っていた。

 

 

ところが「ターナラウンドフレイズ」ばかり抜き出して録音順に聴いてみると、ラストになるこの1975.2.1大阪ヴァージョンだってなかなかいいんだよね。新鮮な発見だった。ロックふうな軽快さがいい風味に思えてきた。ヘヴィでディープなファンク路線からロックへと変貌している大きな要因はアル・フォスターのドラミング。それに釣られてレジー・ルーカスのギター・カッティングも違っている。でも、なかなかいいよ。それに『アガルタ』『パンゲア』を通してふだんはいいと思わないソニー・フォーチュンのアルト・サックス・ソロがいい感じに聴こえるのはメリットだ。

2018/12/20

いまやシカゴ・ブルーズ旧世代?〜 バディ・ガイの現役感

 

 

まあやっぱりね、レッド・ツェッペリンその他ブルーズ・ロック勢が洋楽入門だった人間にはね、こういった作品がこたえられないんですよ〜、バディ・ガイのシルヴァートーン・レーベル時代1996年のライヴ・アルバム『ライヴ!ザ・リール・ディール』。いいぞこれマジで。ぼくには。

 

 

それで、1950年代末〜60年代に登場したシカゴ・ブルーズ新世代のうち、2018年に現役活動中でいちばん輝いているおじいちゃんがバディ・ガイかもしれないよなあ。今2018年にも新作をリリースしたし、その内容だってぼくは好きだった。そんなバディのシルヴァートーン時代でいちばんいいと個人的に感じているのが1996年の『ライヴ!ザ・リール・ディール』なんだよね。リリース当時からの愛聴盤。

 

 

『ライヴ!ザ・リール・ディール』は、シカゴにあるバディ・ガイ本人のお店でのライヴ収録で、メンツはバディ・ガイのほか、ジョニー・ジョンスン(ピアノ)は名のあるところ。バック・バンドは G.E. スミスとサタデイ・ナイト・ライヴ・バンドで、そのメンツも附属リーフレットに明記されてあるが、よく知らない。レパートリーは有名ブルーズ・スタンダードと自作曲を織り交ぜてやっている。

 

 

最初に触れたように、このライヴ・アルバムの内容はだいぶロック寄り。シルヴァートーン時代のバディ・ガイはだいたいそうなっているよね。ここは聴くひとによって好悪が分かれるのかもしれない。ぼくは大好きだけど。冒頭の司会者の声に続き G.E. スミスが反復リフを弾き、バンドが入って、さぁ、バディ・ガイの野太いギター・サウンドが出ただけで脳天くい打ち状態で背筋がしびれるもんなあ。出だしの第一音のこの存在感!この太デカさはなんだよこれ〜!すげえ!

 

 

その1曲目「アイヴ・ガット・マイ・アイズ・オン・ユー」も有名ブルーズだけど、ここでのバディ・ガイらの解釈は、基本、ブギ・ウギだよね。このアルバム『ライヴ!ザ・リール・ディール』では、そのほかそうなっている曲は多い。電化バンド・ブルーズでのブギ・ウギ活かしが随所で聴ける。新世代のモダン・シカゴ・ブルーズの拠ってきたるところを鮮明に示し、それを1990年代半ばのフィーリングで再解釈している。

 

 

2曲目のメロウ・スロー「スウィート・ブラック・エンジェル」、3曲目の「トーク・トゥ・ミー・ベイビー」(アイ・キャント・ホールド・アウト)と、冒頭から三つ、ブルーズ・スタンダードが続く。これでつかみはおっけーみたいな感じかな。ピアノのジミー・ジョンスンもいい味でバッキングにソロにと大活躍。バンドも熟練のうまあじだ。

 

 

4曲目に続きこれもメロウ・スローな5曲目「アイヴ・ガット・ニューズ・フォー・ユー」はアルバム中最長尺で、楽器ソロをまわしている時間が長い。バディ・ガイだけでなく G.E. スミスもギター・ソロをとり、またジョニー・ジョンスンのピアノ・ソロがかなりの聴きものだ。アルバム中これ以外のぜんぶの曲でそうだけど、ホーン・セクションの演奏がモダンさをかもしだしているよね。ややジャジーでもあり、リズム&ブルーズ/ソウルっぽくもある。

 

 

そうそう、ジャジーといえば、この『ライヴ!ザ・リール・ディール』8曲目の「エイント・ザット・ラヴィン・ユー」はジャズ・ブルーズ仕立てなんだよなあ。こういうのをバディ・ガイみたいなブルーズ・マンがやるっていうのはやや意外だったけれど、アレンジもよく、聴ける出来に仕上がっている。バディは本来、なんというかこう、ガシャガシャとせわしなく、ややヒステリックに弾き歌うスタイルだから、こういうジャズをやるとはホント意外だったよ。老年なりの熟練ってことかなあ。

 

 

『ライヴ!ザ・リール・ディール』全体で、そんな老境にさしかかりつつあった1996年のバディ・ガイの丸みと太みを帯びたギター・サウンドやヴォーカル表現のコクみたいなものが味わえるとぼくは思う。ロック寄りの、まあはっきり言えばブルーズ・ロック作品だからと遠ざけることはないんじゃないかな。好き嫌いはともかく、内容は極上なんだしね。細かくせわしないフレイジングで、特にギター演奏のほうは、やっぱりバディ・ガイ本来の持ち味だってしっかり出ているしね。

2018/12/19

シカゴ・ブルーズの25年(3)

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ところで「25年」と題されているのは、おおよそ1945〜70年あたりと見ていいんだろうか?うんまあだいたいそれくらいだよね、第二次世界大戦後のシカゴ・ブルーズ25年ってことで。それで P ヴァイン盤『シカゴ・ブルースの25年』にはたった二曲、ブルーズ・ウィミンが収録されている。一枚目のメンフィス・ミニーと三枚目のココ・テイラー。比較すれば、たしかにクォーター・センチュリーでシカゴ・ブルーズがどれだけ変容したか、強く実感できる差がある。そのままこの P ヴァイン盤のタイトルを象徴するものだ。

 

 

そのココ・テイラーの「ホンキー・トンキー」でもよくわかることだけど、ブルーズ・ソングとしてブギ・ウギ・ベースのジャンプ・ミュージック感覚を土台に持つという素地は、25年が経過しても変化していない。ここは本質なんだろうね。『シカゴ・ブルースの25年』CD3収録の多くの曲でこれが理解できる。がしかし同時に感覚はかなり変化しているのも間違いなく理解できることだ。

 

 

主役ヴォーカリストの声の出しかた、張りかた、節まわしなども、ディープになっていくいっぽうで軽妙さを持ち、しかし同時にゴスペル・フィールをもまとうようになっている。うまく言えないんだけど、こう、粘りつくような強さがありかつ、軽さ、ふわっとしたソフトな現代感覚が同居していると思うんだよね。ダウン・ホームなシカゴ・ブルーズに分類される第一世代には、後者がなかった。

 

 

そしてヴォーカルも、それからギターやピアノなども、表現がシャープになっている。スマートになっているというか(関西語で言う)シュッとした感じが聴きとれる…、ってこれ、通じる表現なのか?まあ言い換えれば、細身でイケメンふうで都会感覚のある洗練された現代ブルーズっていうかさ、そんなものにシカゴ・ブルーズがなっていったと、『シカゴ・ブルースの25年』CD3を聴けばわかると思うんだよね。しかし同時にゴスペルふうなディープさも獲得している。

 

 

また表現様式そのものが変容していると聴ける部分もあって、たとえば CD2ラストの「コール・ミー・イフ・ユー・ニード・ミー」。歌はシェイキー・ジェイクでギターがマジック・サム。また CD3の11曲目、ロニー・ブルックスの「フィギュア・ヘッド」。まずちょっと耳を傾けていただきたい。

 

 

Shakey Jake「Call Me If You Need Me」(1958)
https://www.youtube.com/watch?v=kynsJwG-9vg

 

Lonnie Brooks「Figure Head」(1964)
https://www.youtube.com/watch?v=VwGkI8ltfMU

 

 

どっちもクールだよね。しかしクール感覚があると同時に、これらはぼくの聴くところ、ファンク・ミュージックに近づいている。ファンク・ブルーズっていうか、特にギターだね、どっちの曲でも。シェイキー・ジェイクのほうではマジック・サムが一曲全体をギター・ソロでラッピングしているが、すなわち P ファンクの手法じゃないか。ギター・トーンもフレーズも、鋭敏だ。

 

 

ロニー・ブルックスのほうでは、自身がギターでショート・パッセージを繰り返し弾き反復していることで曲の根幹としているのが耳をひく。こんなのはそれまでのシカゴ・ブルーズにはなかった。まるでヒプノティックな反復構造になっていて、バンド全員で表現するビート感も、現代ファンクのそれだなあ。しかもヴォーカルは軽くてクール。

 

 

CD3の23曲目、ボビー・ラッシュの「アイ・ディドゥント・ノウ」は、エルモア・ジェイムズがやったロバート・ジョンスンにはじまり、最後までブルーズ・クラシックスのメドレーなだけで、そこだけ取ると新しさなんてなさそうだけど、ボビーのヴォーカル&ハーモニカだけでなく、不明の特にドラマーの叩きかたに新感覚なファンキー・ブルーズを、ぼくだったら聴きとるところ。解説文の高地明さんはジミー・リード・ビートだと指摘なさり、新感覚なファンキーさはないとおっしゃっているけれど、どうでしょう?

 

 

 

ディスク3のおしりのほうに二曲収録のデトロイト Jr にしても、ピアノの弾きかたはただのブギ・ウギなんだけど、それを土台にしつつ、曲全体の仕上がりにはファンキーなモダン・ビート、現代感覚が聴けると思うんだよね。時代を重ねても決して変化しない本質は維持しつつ、そこに次世代の新感覚を加味して料理しなおし、斬新なワン・ディッシュとして提示する 〜 シカゴ・ブルーズに限らず、どんな世界でもそうかな。

 

 

アンソロジー『シカゴ・ブルースの25年』のオーラスはこれ。バスター・ベントンの「マニー・イズ・ザ・ネーム・オヴ・ザ・ゲーム」。黒人社会の経済問題を歌ったマイナー・ブルーズ。たぶん1973年録音で、この当時から現代までも、アメリカ社会で黒人がおかれた状況を、あるいはブルーズ・コミュニティのありようを、ここに聴きとることができる。と同時に、いまの日本人だって共感できるものなんじゃないかな。そう思うんだけどね。いまちょうど日本も hard times にあると思うよ。

 

2018/12/18

シカゴ・ブルーズの25年(2)

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P ヴァイン盤『シカゴ・ブルースの25年』ディスク2を一言にすれば、ダウン・ホームでもないがモダンでもない、ということになるだろうか。中間的ってことかなあ。そして軽くなく、ひきずるように重く暗い。この最後の点だけとれば、初期シカゴ・ブルーズのダウン・ホーム感に相通ずるものがあるけれど、もはやフィーリングが異なっていて、どっちかというとソウル・ブルーズ、というか R&B スタイルのブルーズになっている。

 

 

それでも、シカゴ・ブルーズのイメージを決定づけているのは、以前リトル・ウォルターの記事でも書いたようにアンプリファイド・ハーモニカのサウンドに違いなく、これはマディ・ウォーターズのチェス録音からずっと同じ。というかだいたいあんな世界はマディのレコードこそがつくりあげたものだ。独立活動のむずかしいハーピストにとってはブルーズ・ギタリストのお抱えとなるのが通例で、そのボスとはだれあろうマディだった。

 

 

そんなわけで『シカゴ・ブルースの25年』二枚目前半を占めるハーピストの大半もマディと関係がある。関係ないひとも収録されているが、ルイス・マイヤーズ(ギターのあのひと)、ビッグ・ウォルター・ホーントン、リトル・ウィリー・フォスター、スヌーキー・プライアー、ジュニア・ウェルズなどを並べ、シカゴ・ブルーズのサウンドとはどんなものだったか、端的にわかりやすく示したってことかなあ。

 

 

こういったハーピストの録音でも、ブギ・ウギ・シャッフルを土台とするジャンプ・ブルーズ/リズム&ブルーズ調になっているばあいも多く、シカゴ・ブルーズの特色が変化しつつあったということがよくわかる構成となっているのも興味深い。粘りつくように泥臭くブルージーとはいっても、南部感覚に根ざしたダウン・ホームなフィーリングとはかなり違ってきている。都会的なブルーズ・サウンドになってきつつあると指摘してもいいだろうか。

 

 

そんな、新時代に行きつつあるシカゴ・ブルーズの持つブギ・ウギ・ベースの洗練された大都会ブルーズといった側面は、『シカゴ・ブルースの25年』二枚目だと13、14曲目のロバート・Jr・ロックウッドで一気に開花。解説文の鈴木啓志さんも(一枚目のジョニー・シャインズの項で)強調なさっているように、ロックッドはロバート・ジョンスンの都会派な部分を継承している。ブギ・ウギでありかつ T・ボーン・ウォーカー的に洗練されたジャジーさもあるんだよね。デルタ・カントリー・スタイルなシャインズとは好対照。ロックウッドのそんなところは、ぼく自身、以前一、二度くわしい記事にしたので省略。

 

 

『シカゴ・ブルースの25年』二枚目では、19曲目のエルモア・ジェイムズ「イット・ハーツ・ミー・トゥー」(曲はタンパ・レッド作)やホームシック・ジェイムズ「クロスローズ」で、一気にグンとモダンになっているように聴こえるし、耳馴染みのありすぎるロックウッドに比し、新鮮だ。いや、エルモアなんかはやはりふだんから聴きすぎているが、それでもなんだかちょっと違うよね、典型的シカゴ・ブルーズとは。

 

 

エルモア「イット・ハーツ・ミー・トゥー」(チーフ)https://www.youtube.com/watch?v=958Gw-tCbmg

 

ホームシック・ジェイムズ「クロスローズ」https://www.youtube.com/watch?v=GKLJH23j5HM

 

 

どっちもスライド・ギター・プレイで聴かせる、というかそもそもホームシック・ジェイムズのロバート・ジョンスン解釈はエルモアのに沿ったもので、だから二曲ともエルモア・スタイルのモダン・ブルーズというべきか。しかしホームシック・ジェイムズなんかは初期シカゴ・ブルーズ・メンのひとり。それが1960年代にはこんな演唱を残しているというのが、シカゴ新時代を感じさせるもので、おもしろいサンプルだ。

 

 

その後、『シカゴ・ブルースの25年』二枚目は、モーリス・ピジョーを経て、かのオーティス・ラッシュ、マジック・サム・バディ・ガイといった完全新世代へと突入。しかし、これはディスク3に収録したいモダン・シカゴ・ブルーズが収録時間の関係でこっちにはみ出しているだけのことだから、明日話題にしようと思う。CD2の22曲目、オーティス・ラッシュの「アイ・キャント・クイット・ユー・ベイビー」が流れてくると、刷新された新世代の登場を痛感する。

2018/12/17

シカゴ・ブルーズの25年(1)

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1981年の LP 四枚組が初版だった P ヴァイン盤アンソロジー『シカゴ・ブルースの25年』。現在持っていて聴いているのは二度目の CD リイシュー(最新版)で2008年のリリース。これ以前に一度内容を拡充して CD で再発されていたらしいが、なぜだか見逃していた。大学生のころ、ブルーズ、シカゴ・ブルーズのことなどなんにも知らないのにこんな四枚組を買ったのはどうしてか、それは忘れてしまった。

 

 

日本人ブルーズ・リスナーにはまったく説明不要の CD では三枚組の『シカゴ・ブルースの25年』だから、これがなんなのかの説明はぜんぶ省略し、一日一枚づつとりあげて三日間にわたりメモしておきたい。現在聴きかえして感じる個人的雑感をちょちょっとね。ちゃんとしたことは CD 附属の分厚い日本語ブックレットをご覧いただきたい。

 

 

『シカゴ・ブルースの25年』三枚にはそれぞれテーマが掲げられている。順にダウン・ホーム・シカゴ・ブルース、ストレート・シカゴ・ブルース、モダン・シカゴ・ブルース。たしかに聴いてみると、この区分は理解できる音楽性の違いや変化がある。しかしそんな截然と分かたれるというものでもない。連続していて、行ったり来たりしているのは当然だ。

 

 

ディスク1のダウン・ホーム・シカゴ・ブルーズとは、第二次世界大戦後のシカゴ・ブルーズがどんなものだったかのひとつの典型だから、ほぼ万人にわかりやすい。簡単に言えば南部ミシシッピ・デルタ・ブルーズの感覚をそのまま保持しつつ、楽器だけ電化してモダン・バンド化したようなもののこと。この P ヴァイン盤には未収録だが、シカゴ・ブルーズのシグネチャーたるマディ・ウォーターズもハウリン・ウルフもそうだった。

 

 

第二次世界大戦前からもちろん北部の大都会シカゴにはブルーズ・メンがたくさんいて録音していた。シティ・ブルーズやブギ・ウギなど、レコード作品も多い。『シカゴ・ブルースの25年』の一枚目では、南部ミシシッピ出身で、戦後シカゴに北上して移住し、ダウン・ホーム感のある(弾き語りやそれに近い)ブルーズをやっているものと、戦前からの流れを汲む都会派の洗練シティ・ブルーズ系のものが併行している。

 

 

都会的なジャズ(都会的でないジャズはなし)が好きというぼくの傾向からすれば、ディスク1の10〜17曲目にあるシティ・ブルーズ系のものにやはり惹かれる。ここはたぶん日本の多くのブルーズ・ミュージック愛好家とは違っているところだね。エディ・ボイド、J.T. ブラウン、メンフィス・スリムなど、ブギ・ウギ系でありつつ、当時のリアルタイムなリズム&ブルーズの影響下にあるような都会派ブルーズのことが、本当に大好き。

 

 

ところで、ディスク1で23曲目にある J.B. ルノアーの「レット・イット・ロール」。18曲目以後のこのポジションは、一枚目のなかでも、電化デルタ・ブルーズから一歩踏み出たシンプルな初期バンド・シカゴ・ブルーズという意味の位置なんだけど、ルノアーの「レット・イット・ロール」は都会派のバンド・ブギ・ウギだなあ。だから、一枚目中盤部に入っていてもおかしくない。

 

 

それで、疑問なんだけど、ラッキー・ミリンダー楽団がやったのに、同名の「レット・イット・ロール」という曲がある。ジャンプ・ミュージックだけど、だからつまりジャズで、ミリンダーのそれは女性歌手アニスティーン・アレンが歌う1947年録音。J.B. ルノアーの「レット・イット・ロール」(レッツ・ロール)は1951年録音だ。聴き比べてみてほしい。かなり近いものじゃないだろうか?

 

 

「レット・イット・ロール」

 

ラッキー・ミリンダー楽団 https://www.youtube.com/watch?v=dHVtTHJCQE4

 

 

 

「一晩中レッツ・ロール」って、まぁありふれたそういう意味の常套句だから、それだけで同じとか似ているとか近いとかっていうのはおかしい。だけどこのふたつのばあい、音楽的に近接しているものがあると思うんだよね。ブギ・ウギが土台になっていて、ブンチャブンチャとリフを刻んで、歌詞はセックスのことで、楽曲形式は定型ブルーズ。それでもってジャンプするというかロールするようなフィーリングの曲調。

 

 

ロック・ミュージックにもつながっていくことだと思うけど、こういった近似現象が、1940〜50年代のアメリカン・ブラック・ミュージックの世界で、同時多発的に、起こっていたんだとぼくは考えている。そこにジャズだブルーズだリズム&ブルーズだロックだなどとの区分は意味をなさない。芋づる式にぜんぶがつながり一体化していたというか<おんなじ>ものだった。

 

 

『シカゴ・ブルースの25年』収録の J.B. ルノアーの「レット・イット・ロール」もまたそんな一例っていうことなんだろうね。だから、1950年代前半の初期モダン・シカゴ・バンド・ブルーズでも、リロイ・カー&スクラッパー・ブラックウェル「(イン・ジ・イヴニング)ウェン・ザ・サン・ゴーズ・ダウン」の焼き直しがあったり(16、リトル・ブラザー・モンゴメリー「キープ・オン・ドリンキン」)、ブギ・ウギがあったり、洗練された R&B 調のものがあったりなどしながら、ミシシッピ由来の泥臭いダウン・ホーム感覚と徐々に溶け合っていったのだろう。

 

 

北部の洗練された(ある種ジャジーな)クールな音楽感覚と、南部ミシシッピ由来の泥臭い感覚とが、このシカゴという大都会で出会ったという(地理的な意味でもそんな)ところに、このウィンディ・シティを全米有数のブルーズ・メッカにした理由があったのかも。融合前のカオス状態が『シカゴ・ブルースの25年』ディスク1で聴けるんだと思う。

2018/12/16

シカゴ、ストーンズをやる

 

 

この2018年作『シカゴ・プレイズ・ザ・ストーンズ』は、ローリング・ストーンズ2016年の『ブルー・アンド・ロンサム』に対するシカゴ・ブルーズ側からのオマージュだ。

 

 

以下、いちおう曲名・演者名を書いとこうっと。

 

 

01. Let It Bleed (John Primer)

 

02. Play With Fire (Billy Boy Arnold)

 

03. Doo Doo Doo Doo Doo [Heartbreaker] (Buddy Guy with Mick Jagger)

 

04. Satisfaction (Ronnie Baker Brooks)

 

05. Sympathy For The Devil (Billy Branch)

 

06. Angie (John Primer)

 

07. Gimme Shelter (Leanne Faine)

 

08. Beast of Burden (Jimmy Burns with Keith Richards)

 

09. Miss You (Mike Avery)

 

10. I Go Wild (Omar Coleman)

 

11. Out of Control (Carlos Johnson)

 

12. Dead Flowers (Jimmy Burns)

 

 

on all tracks, The Living History Band : Bob Margolin (g), Johnny Iguana (p), Vincent Butcher (h), Felton Crews (b), Kenny 'Beedy-Eyes' Smith (d).

 

 

毎度毎度の同じ話で恐縮ですが、ローリンズ・ストーンズがアメリカ黒人ブルーズの普及啓蒙活動に果たした役割・功績は大きい。これは史実だから、どなたにも認めていただかないといけない。好き嫌いは別として、ロック界で、ブルーズ、とりわけシカゴ・ブルーズに最も真摯・真剣に取り組んできたのがストーンズだとして間違いないはず。

 

 

ストーンズは絶大な人気を誇るメガ・バンドだから、ストーンズがやるおかげでそれだけで、アメリカ黒人ブルーズにもある程度は光が当たったという部分があるかも。光が当たらないほうがいいというのは、たんなる根性曲がりのヒネクレもの。いい音楽、音楽家は、知名度が上がって売れたほうがいい。アメリカ黒人ブルーズ、特にいわゆるシカゴ・ブルーズのばあい、だから、そんな貢献をちょっとはストーンズがしたんじゃないだろうか。

 

 

だから、シカゴ・ブルーズ・シーンでもストーンズへの感謝の気持ちを持つ黒人音楽家が多いかもしれないと思うんだよね。そこへ2016年にストーンズがシカゴ・ブルーズばかりをカヴァーした最新作『ブルー・アンド・ロンサム』が発売されそこそこ評判になったので、ちょうどいいタイミングだったんだろう、きっと、シカゴ側からこの英国白人の子どもたちへ感謝を表するのにね。その結果、今2018年の『シカゴ・プレイズ・ザ・ストーンズ』につながったんだと思う。

 

 

そんなわけで、ストーンズのオリジナル・ソングを、シカゴの黒人ブルーズ・メンがみずからのスタイルに解釈しなおしたものをやってみよう、新旧シカゴ人脈を使って、ばあいによってはミック・ジャガーやキース・リチャーズをゲストに招いたりしながら、というプロジェクトが立ち上がったんだと思う。くわしい経緯は CD 附属の紙に書いてある(と思うけど、いくえにも折りたたまれた巨大な一枚紙を広げねばならない仕様にイラっときて、読んでない)。

 

 

まず1曲目の「レット・イット・ブリード」がはじまった途端に笑っちゃうよね。これがあの曲かと。あまりにもコテコテ。基本、ブギ・ウギをベースとする1950年代以後のモダン・シカゴ・ブルーズのやりかたになおしてあるが、この曲、こんなふうになりうる可能性があったんだなあ。すばらしい、これがブルーズだ&ストーンズ・ナンバーだと思い知る。

 

 

しかしこんな「レット・イット・ブリード」なんか序の口だ。ビックリするのは、たぶん6曲目「アンジー」、8「ビースト・オヴ・バーデン」、12「デッド・フラワーズ」あたりかな。あんな曲たちがこんなふうに変貌しちゃって、思い切りワラケてくるよ。いや、悪い意味じゃない、楽しくおもしろい。そして最高だ。それでもしかし「アンジー」はなんだよこれ〜(笑)。原曲のあの情緒のかけらもないじゃないかヾ(๑╹◡╹)ノ。

 

 

「ビースト・オヴ・バーデン」はまだそれでもカーティス・メイフィールドふうのニュー・ソウル・ナンバーに仕上がっているのがオリジナルだったので、180度様変わりしているとまでは言えないのか。ここでもブギ・ウギを土台とするジャンプ・ブルーズになっているんだけどね〜。ブロック・タンギングを多用するブルージーなハーモニカはここでも入る。ほぼ全曲で入っている。

 

 

ラスト12曲目の「デッド・フラワーズ」なんかカントリー・ロックな曲だったのに、こんなブルーズ・ソングになっちゃって。でも、ほんのちょっとのグラム・パースンズ色が残っているように聴こえるのがおもしろい。さらにさらに、ここではラテン・リズムなニュアンスがあるのが楽しい。ピアノはニュー・オーリンズ・スタイルだし。最高にイイね。コテコテのラテン・ブルーズ化した「デッド・フラワーズ」が聴けるなんてねえ〜。言うことなしだ。

 

 

「デッド・フラワーズ」でもそうだし、アルバム中ほかでも随所で聴けるけれど、エレキ・スライド・ギター。これはだれが弾いてんの?ボブ・マーゴリン?気になるのはどうしてかというと、ドゥエイン・オールマンに似て聴こえる部分があるからなんだよね。つまり、英国ブルーズ・ロック・バンドを媒介にして、シカゴとマスル・ショールズがとなりあわせになっている。ストーンズの経歴を考えたら自然なことだね。

2018/12/15

ジャコーを中心に、バンドリンを囲むベテランと新進と

 

 

(個人的には)ブラジル・イヤーだった2018年。ジャコー・ド・バンドリンの生誕100周年でもあった。言っときますがショーロ史上最重要人物のひとり。そこで2018年に同じ楽器バンドリンのベテラン、ジョエール・ナシメントと新進、ファビオ・ペロンを組ませてジャコー曲集をやらせてみようというのは、だれの発案だったんだろうなあ。プロデューサーがカルロス・アルベルト・シオンとエンリッキ・カゼスだから、そのどっちかってことかな。

 

 

二名のバンドリン奏者ジョエール・ナシメント(8弦、ベテラン80歳)とファビオ・ペロン(10弦、新進28歳)にくわえ、エンリッキ&ベトのカゼス兄弟、7弦ギターのジョアン・カマレーロ(これはエンリッキ・カゼス・トリオ?)と、この五人が演奏の中心になっている。曲によってはフリューゲルホーンやアコーディオンその他が参加する。やっているのはもちろんすべてジャコーの曲で、アレンジはエンリッキ。

 

 

できあがったアルバムが『ジャコー・ド・バンドリン 100 アノス センティメント&バランソ』(Jacob Do Bandolim 100 Anos Sentimento & Balanço)。収録の12曲ぜんぶがジョエールとファビオの共演ではない。ふたりのタッグが聴けるのはアルバム冒頭の1、2曲目と終盤の11、12曲目の四曲。そのあいだはそれぞれ単独での演奏。7「De Coração A Coração」だけはデュオ演奏で、ジョエールのバンドリンとジョアンの7弦ギターのみ。

 

 

そのバンドリン+7弦ギターのデュオ「De Coração A Coração」にもはっきり表れているこの湿った泣きの情緒、これがショーロのショーロたるゆえんで、歌心を全開にし、しっとりと雨がそぼ降るかごときフィーリングをこれでもかと表現しているのが実にいいね。むろんジャコーの曲がもとからいいってことだけど、ジョエール&ジョアンのデュオ演奏が美をきわだたせているなあ。

 

 

そうそう、以前ピシンギーニャ関連で言ったような気がするけれど言っていないかもしれないんだが、ジャコーはそこまで古いひとじゃないにせよ、ショーロの古典名曲って、だいたいだれがやってもふつうに演奏すればいい感じに聴けるように仕上がるって思わない?ぼくはそう感じている。つまりこれは、クラシック音楽の名曲なんかと同じで、ある種の普遍性・永続性を持っているという証拠なんだよ。ショーロって、ポピュラー音楽でそんな曲が最も多い世界かも。

 

 

アルバム『ジャコー・ド・バンドリン 100 アノス』収録のジャコーの曲は、上で書いたような、ゆったりしたテンポでのサウダージ全開の泣きのショーロ心情と、快活なリズムを持つ楽しく愉快なショーロ(それってショーロがもとから持つストリート感覚の発露?)に大別できるようだ。くわえて、ややエキゾティックなリズムやニュアンスを持つものだってある。

 

 

しっとりした泣きのショーロが1、3、7曲目。快活ダンス・ショーロが2、4、5、9、12あたりかな。どっちとも言えない中間的なのが8と10。エキゾティック・ショーロというか、要するにスパニッシュ(系ラテン含む)音楽要素を色濃く反映しているのが6と11だ。(ベトのソロがある)9はこっちかも。6「Assanhado」、11「Santa Morena」は、どっちもジャコーのオリジナルからしてこんな感じになっていたもの。後者はフラメンコ。こういったエキゾティック・リズムのショーロでは、ベトのパーカッションも大活躍している。

 

 

ベトを除き(基本)ストリング・アンサンブルで構成されている音楽なので、複数のバンドリンやカヴァキーニョや各種ギターなどがからみあいぶつかりあって、音のキラメキが生まれ輝いているのがとってもいいね。同系楽器が複数からむときには、たとえば金管アンサンブルなんかでも同様の効果が生まれると思うんだけど、ギター型弦楽器中心のショーロだと、これまたえもいわれぬ独特のキラキラさがあるなあ。

 

 

そんな世界の先駆者にして世界を確立したジャコー・ド・バンドリンの生誕100周年に、同じ楽器の古参と新進二名を共演させ、偉大なる先達の名曲の数々をとりあげて21世紀に再現し、不朽の音楽美、音楽享楽を味あわせてくれる 〜 こんなことはブラジルのショーロ界のほかではなかなかむずかしいことじゃないかなと思う。

 

 

『ジャコー・ド・バンドリン 100 アノス』もまた2018年を代表する傑作とかじゃない。落ち着いた佳作といった程度。だけど2018年にしか生まれえなかった作品には違いないし、バンドリンを通じての世代を超えた心と技術の交流、人間的あたたかみを感じられるアルバムで、好感度は高い。

 

 

とってもハート・ウォーミングな音楽だしね。まあショーロってそういうものだけどさ。

2018/12/14

down & blue 〜 マライアとマイルズ、時代の音

 

 

 

 

Astral さんのこの記事がなかったら、今日の文章は書けなかったはず。感謝します。そもそも21世紀に入ってからは完全にスルーしていたマライア・キャリーの、2018年新作を聴いてみようと思ったのは Astral さんのおかげです。

 

 

 

どっちも Spotify でしか聴いていない、っていうかマライアの新作『コーション』のほうは CD あるけれど、マイルズ・デイヴィスの『ラバーバンド EP』は、ついこないだ11月にようやく配信リリースされたばかりで CD はなし。以前書いた今年四月のレコード・ストア・デイ限定で12インチ・アナログが売られたものだ。マイルズほどの音楽家だ、待っていればそのうち CD もリリースされそうだけど、動きがやや遅い。『ラバーランド EP』がなんなのかは、以下をご一読あれ。

 

 

 

CD かサブスクリプションかはさておいて、マライアの『コーション』とマイルズの『ラバーバンド EP』は、完璧に同種の音楽だと思うんだよね。暗くダウナーなテンポ設定、深く沈み込むようなリズムの感じ、それらと同様なサウンドの垂れ幕、ビート感、ボトムスの創りかたが最大の共通項かな。それでグルーヴが同系のものとなっているように思う。

 

 

Astral さんもお書きのように、こういったダウナーな感じ、ノリ、グルーヴが、今様 R&B なんだけど、マライアのほうは新録の新作なので、時代に合わせてきているのは当然。ぼくもかつては夢中だった1990年代前半ごろのマライアのあの楽しく跳ねまわるポップでキュートな感触は消えているが、ないのがあたりまえだ。しかしあれだ、ちょっと歳食ったとはいえマライアはやっぱりクイーンなんだなあ、時代の求める先端サウンドを持ってきて、しかもそこに、これだけは余人に真似できない歌唱力でもって音楽に力を与え、聴き手を説得する。『コーション』、すばらしい新作だ。

 

 

ところが、マイルズの『ラバーバンド EP』は今年四月リリースとはいえ、録音は1985年。知っているひとは知っている、かのラバーバンド・セッションから誕生した一曲で、そのオリジナル・ヴァージョンは配信 EP でも四つ目に入っているので確認できる。それは、2010年代のサウンドでは、まったく、ない。いかにもあのころ1980年代半ばという、マイルズがワーナーに移籍直後の『ツツ』に入っていてもおかしくないサウンドだよね。

 

 

それを、今年四月のレコード・ストア・デイで限定発売するにあたり、リリース関係者はリミックスし創りなおした。まずテンポをグッと落とし、重心を低くして身をかがめ、暗めのダウナーなグルーヴを与え、マライアの新作アルバム同様、ボトムスを強調し、中低音メインの音楽に仕立てている。高い音は主役の吹くトランペットと、今回新たに重ねた女声ヴォーカルだけと言ってもいいほど。
 

 

 

1985年のマイルズやセッション時のプロデューサーだったランディ・ホールら関係者が、2010年代後半の音楽を予見していたとは思えない。たんに発掘素材(といっても曲「ラバーバンド」は前から編纂盤 CD でリリースされていた)をいじって、今2018年のリミックスとリイシューに際してもプロデュースしたランディ・ホールなど複数名が、時代の音になるように手をくわえただけだ。

 

 

しかしマイルズのトランペット演奏そのものは変更できない。そのまま、テンポは落としてあるがだいたいそのまま、活かして使ってある。それが実にいまの2018年の時代の空気を呼吸しているように聴こえるから不思議だ。1985年録音のオリジナルと同じ演奏なのに。そのイシュード・トラックで聴いても2018年の音だとは感じないのに。

 

 

ミックス次第で音楽はかなり変貌するということなんだろうけど、それで同じマテリアルでも響きかた、というか音楽じたいが大きく違ってくるということだろうけれど、でも、いやあ、マイルズってさすがすごいなあ、っていうのが、たんなるいちマイルズ狂の妄言なんだよね。2018年のマライアや、2010年代先端 R&B のサウンドに聴こえるもんね。1991年に死んだ男の出す音がね。

2018/12/13

ライヴ・エルヴィス 1954〜1955

 

 

昨日の続き。2017年の三枚組『ア・ボーイ・フロム・テュペロ:ザ・コンプリート 1953-1955 レコーディングズ』の CD3、つまりライヴ&ラジオ・マテリアル。録音時期は1954/10/16〜55/10/29で、全32トラック。なかには紹介やインタヴューやコマーシャル・メッセージ(ラジオ放送用)だけのトラックもあるので、歌はぜんぶで30トラック。ソング・トラックの冒頭にも紹介の声など、どんどん入る。

 

 

演目はわりとだぶっていて、いちばんたくさんやっているのは「ザッツ・オール・ライト」の六回。そのほかサンでスタジオ録音している曲が中心だけど、そうじゃないのは「シェイク、ラトル・アンド・ロール」「フール、フール、フール」「ハーツ・オヴ・ストーン」「トウィードリー・ディー」「マニー・ハニー」「リトル・ママ」「アイ・ガット・ア・ウーマン」「メイベリーン」。

 

 

『ア・ボーイ・フロム・テュペロ』三枚目のライヴ&ラジオ音源集を聴くと、サン時代のスタジオ録音ではエルヴィスもまだかなり抑制を効かせていたんだなとわかる。生演唱だとエネルギーが解放され気味なのだ。といっても後年の爆発的なハード・ロックなバンド連中のそれとは比較できないが、1950年代半ばというロック台頭間もないころの、それもデビューしたての白人歌手としては、かなり激しいと言える。

 

 

なんども収録されている「ザッツ・オール・ライト」でもそれはわかる。あんな中庸でおとなしいフィーリングだったスタジオ・ヴァージョンだけど、それはサン録音のだいたいのトラックについて言えたことで、腰が動くようにハードで猥褻なイメージはまだないよね。ところが同時期のライヴ・マテリアルではそんなような激しい雰囲気に近づいているのだ。

 

 

昨日の記事では、エルヴィスはロッカーというよりどっちかというとバラディアーだと書いたんだけど、『ア・ボーイ・フロム・テュペロ』三枚目収録のライヴ&ラジオ・マテリアルではこの印象が逆転している。テンポはやはり中庸な「ザッツ・オール・ライト」や「グッド・ロッキン・トゥナイト」なんかでも、伴奏陣二名はほぼ同じだけど、主役歌手は発声そのものからして違っているんだ。今日上で使った写真に見えるエルヴィスの姿、これがピッタリ来るような躍動感を聴かせている。

 

 

発声も違えば、フレジング、節まわし、フレーズ末尾の微妙な震え&持ち上げ具合などもグンと生々しくなっていて、まさに live & raw なロック・ヴォーカリスト、エルヴィス・プレスリーがここに誕生している。サンのシングル・レコードもメンフィス・エリアを中心に売れラジオ放送もされたろうけれど、『ア・ボーイ・フロム・テュペロ』三枚目で聴けるライヴ&ラジオ・エルヴィスこそ、次世代を担うポップ・シンガーとして、つまりまだこのジャンル名は確立されていない<ロック>歌手として、メイジャーの RCA が白羽の矢を立てたものだったかも。

 

 

シンプルに言えは、1954/55年のライヴ・エルヴィスは、ハメを外しはじめている。エネルギー、エモーションを解放・放出しはじめているんだ。彼自身の、そして1955年という時代のそれを。それでもってしか、新しい音楽は生まれえなかった。いつでもそうだけど、このロック台頭の契機も、やはり個人=社会の脱皮・飛躍にあったと言えるはず。

 

 

そんなことは、『ア・ボーイ・フロム・テュペロ』三枚目のライヴ・マテリアルで聴けるオーディエンスの反応のよさからもうかがえる。嬌声が飛んでいるが、「ザッツ・オール・ライト」なんかでも、ある時期以後のものは、エルヴィスが「ザッツ・オール・ライト!」と強く叫ぶように歌い繰り返すと、客席から「ザッツ・オール・ライト!」とおうむ返しでレスポンスの合いの手が飛んでいる。熱気がかなりなことになっているんだよね。

 

 

こういった雰囲気は、新しい音楽が生み出されようとしているそのときその現場ではいつでも聴けるものなんじゃないか。エルヴィスがロックを生んだとか、ロック歌手第一号だったと言えるかどうかは微妙だ。同じような内容の歌やヴォーカル表現が、もっと前から徐々に出現し、かたちを整えはじめていたと思う。がしかし、ここまで満ちたエネルギーが辛抱ならず爆発しそうになっている瞬間は、ロックのばあい、これまでほかの音楽家では聴けなかったはずだ。

 

 

個人的にはサン・レーベルでのスタジオ録音レコードで聴けるのんびりのどかで中庸なムードが大好きで、ポップで聴きやすいしって思うんだけど、そして(同時期のエルヴィスの)音楽や歌のクォリティとしてはやっぱりそっちのほうが高かったんだと言わざるをえないけれど、この時期のエルヴィスは、間違いなく<なにか>を産もうとしている。そんなエネルギーが充満し爆発しかけているんだよね。新時代がすぐそこまで来ている。

2018/12/12

ブルー・エルヴィス 〜 サン・マスターズ

 

 

2017年の RCA 盤三枚組『ア・ボーイ・フロム・テュペロ:ザ・コンプリート 1953-1955 レコーディングズ』は、エルヴィス・プレスリー最初期の姿のほぼ全貌を収録したものとして間違いない、人類の宝だ。超充実の附属ブックレットは英文119ページで、写真満載。このボックスはも〜う!楽しいったら楽しいな。

 

 

『ア・ボーイ・フロム・テュペロ』CD1は主にサン・レーベルへの録音。CD2はその別テイク集。CD3はライヴ&ラジオ・マテリアルで、三枚ともやっている曲はだいたいぜんぶ CD1にあるのがエルヴィスによる初演だ。別テイク集は研究家・好事家のためのものだから、CD1のスタジオ録音オリジナルとCD3のライヴ&ラジオ集に話を絞って問題ないはず。今日は一枚目の話だけ。三枚目は明日書く。

 

 

『ア・ボーイ・フロム・テュペロ』附属ブックレット末尾には曲目一覧があって、この時代のエルヴィスがやったのはすべて他作曲だからその作者名と、それからていねいなことに全曲エルヴィスのカヴァーの影響源・参照元が付記されてある。知っていることだとはいえ、これはありがたい。あらためて思い出す必要がない。眺めてそうだそうだとうなづいていればいいから、こんなラクチンなことはないんだ。RCA もやるときはやる。その他、このボックスはマジすごいよ。1953〜55年12月まで時系列に進む解説は、同時代の社会文化事情も併行記載され、も〜う!文句なし。

 

 

『ア・ボーイ・フロム・テュペロ』一枚目の全27曲。1〜4曲目は<メンフィス・レコーディング・サーヴィス・アセテート>とあるが、これはエルヴィス自身がお金を払ってレコードにしてもらったものだ。5〜23曲目が<サン・マスターズ>、24〜27はサン時代の録音だけど、移籍の際にサンのエルヴィスのすべてを買いとった RCA が手を加え自社シングルとしてあらためてリリースしたもの。

 

 

だから今日のとりあえずの興味は5〜23曲目のサン・シングルズなんだけど、その前の自前レコードから含めても、この時期のエルヴィス最大の特色は、憂鬱そうに歌うバラディアーだという点にある。決して激しいロックンローラーではない。ご存知ないかたも、上のリンクをちょっとクリックしてみてほしい。快活なロック・ナンバーと呼べるものはかなり少ないよね。

 

 

有名な「ザッツ・オール・ライト」「グッド・ロッキン・トゥナイト」「ベイビー、レッツ・プレイ・ハウス」もハードなロックンロールじゃない。ミディアム・テンポでゆったり大きく進むもので、ポップなんだ。エルヴィスの歌にも伴奏にも、余裕が感じられる。

 

 

激しいビートの効いたロック・ナンバーと呼んでいいと思えるのは、たぶん、8「ブルー・ムーン・オヴ・ケンタッキー」、12「アイ・ドント・ケア・イフ・ザ・サン・ドント・シャイン」、13「ジャスト・ビコーズ」、15「ミルクカウ・ブルーズ・ブギ」、21「ミステリー・トレイン」と、これだけじゃないかな。

 

 

ところでそんなロックンロール・ソングになっているもののなかでは、「ミステリー・トレイン」がいちばん出来がいいんじゃないかと思う。たぶん、この時期のエルヴィスにフィットした題材っていうことだろうなあ。スコッティ・ムーアの弾くエレキ・ギター・リフも実にいいし、エルヴィスの声のトーンがいい。決して焦っておらず冷静にとりくんでいて、余裕を持ちながらも快活でハードに乗るフィーリングがある。ま、ぼくのばあいは、このトレイン・ピースという(ブルーズ界には多い)題材そのものが好きですが。それだけのこと?

 

 

エルヴィスの声が…、と書いたけれど、この歌手最大のチャームがそこだと思うんだよね。声そのものに(ややメランコリックな)色気を宿している。なにも工夫せずとも似合う題材をスッと素直に歌うだけでそれだけで、セクシーなんだ。これこそ、エルヴィス・プレスリーを爆発的メガ・スターにした最大の理由だったと思う。そんな部分、サン・レーベルへの録音でもしっかり確認できる。

 

 

そんなヴォイス・メランコリー・セクシーなエルヴィスは、このサン時代、私見ではゆったりしたテンポの曲でのほうが魅力が増しているように聴こえるんだよね。それらはしばしばロスト・ラヴ・ソングで、それをこんな(ブルージーな)声でエルヴィスが漂うように揺れるように震えるように歌うもんだから、う〜ん、もうたまらない強い引力が発生しているなあ。

 

 

このサン時代のエルヴィス(実はメイジャー移籍後も?)は本質的にバラディアーだったというぼくの意見は、こんな事実に支えられているんだよね。「アイ・ラヴ・ユー・ビコーズ」「ブルー・ムーン」(が、サン・エルヴィスの最高傑作かも)「アイル・ネヴァー・レット・ユー・ゴー(リトル・ダーリン)」「ユア・ア・ハートブレイカー」「アイム・レフト、ユア・ライト、シーズ・ゴーン」(2ヴァージョンとも)「ウェン・イット・レインズ、イット・プアーズ」など。

 

 

これらの曲では、ブルーでメランコリックに漂っている、フラフラして安定しない、どこへ行くのか心配だ、支えてあげないと到底見ていられない、といった気持ちにリスナーをさせるような、そんなヴォーカル表現ができているなあと思うし、そんな部分こそエルヴィス最大の魅力だったかも。後年までもずっと。

 

 

端的に言えば、泣き嘆き懇願し揺れるブルー・エルヴィス。それがこの歌手だ。

2018/12/11

2018年ジャズ最高傑作かも 〜 イチベレ・ズヴァルギ

 

 

このアルバム、これも、またしても、bunboni さんに教えていただきました(こんなことばっかでいいのか?ごめんなさい)。ありがとうございます。ぼくもたぶん2018年のジャズ最高傑作かなと思っています。

 

 

 

ブラジルのジャズ・ベーシスト、イチベレ・ズヴァルギ(Itiberê Zwarg)。といってもぼくは今回のこの2018年新作ではじめて出会った人だけど、その2018年新作『intuitivo』がすばらしすぎる。なにがいいって、まずアンサンブル主導で進むところ。これ、譜面は、たぶんイチベレがぜんぶ書いているんだろうなあ。それが複雑高度で難度が高いんだけど、グルーポのメンバーは全員平気な顔をしてサラリとこなしているのが、またすごい。ばんばんキメまくるのが超快感だ。

 

 

楽器ソロも当然あるけれど、ソロまわしを音楽展開の軸には据えていない。ソロはあくまでチェンジ・オヴ・ペースっていうか、ほんの彩り程度に添えられるだけで、そのへんも従来型のジャズ・マナーとは大きく異なっている。ソロに充てられている時間だってかなり短い。アンサンブルのあいだを縫うようにしてすこし走る程度なのが、音楽全体の構築美とテンションを高く維持する結果となっていて、とってもいいね。

 

 

この点では、このバンドの名前を出すと抵抗を受ける可能性もあるけれどウェザー・リポート。特にジョー・ザヴィヌル体制が固まった時期以後のウェザーに相通ずるものがあると、ぼくは聴く。事前に完成品となっていた作編曲譜面があって、それをバンド・リハーサルで練りこんでいって、あくまで音楽のメインはアンサンブル、ソロは脇役程度でちょっぴり、全体の緊張感あふれる構築美重視で、難度の高い演奏をバンド全員がキメまくってこなす 〜 どう?イチベレとウェザーにはかなり共通項が多いよ。メロディ・ラインに湿り気のある情緒性が薄く、だから歌心もなく、メカニカルに上下することがほとんどだっていうのも同じ。

 

 

あっ、こう書くと、フランク・ザッパの音楽にも似ているよなあ、イチベレ・ズヴァルギ。イチベレのこの新作で、ウェザー・リポートやザッパを連想する音楽ファンがどれだけいるのかわからないが、愛好家であるぼくの感触では間違いないように思える。っていうか、イチベレのこの新作についての文章ををたくさんはちゃんと読んでいないから、みなさんどうお感じなんだろうかわからない。ちょっぴりビ・バップ・ミュージック的でもあるよね。あ、そういえばザッパとビ・バップは…、いや、今日はやめときます。

 

 

中身の音楽がどんなものなのか、具体的なことはいちばん上でリンクした bunboni さんの文章に書いてある。ぼくは同感で、付け加えることがないように思うから、そちらをお読みください。『イントゥイチーヴォ』でのイチベレは、ベースだけでなく、ピアノ、クラヴィネットなど複数楽器を担当。声も出している。演奏メンツは曲によって大きく変わるが、ホーン・アンサンブルはリード楽器で構成されているみたいで、金管の参加はない模様。

 

 

色彩感がアルバム全体のなかではやや異なっているかなと思うのが5曲目「ノイビーラ」。これはイチベレ(ピアノ)とマリアーナ(フルート)両ズヴァルギの完全デュオ演奏。アルバムのなかではこの曲にだけ湿ったぬくもりのある歌心が感じられ、ちょうどピシンギーニャが自分の曲を吹いているのにやや似た印象を持った。そう、この5曲目だけ、ややショーロっぽい。大好きだ。

 

 

でもこんな感じは、アルバム『イントゥイチーヴォ』のなかでは例外。ほかは乾いて硬質な難度の高いジャズ・アンサンブルを、そのあいだにほんの短いソロがはさまりながら、メンバーがビシバシとキメまくり、聴いているこっちまで快感のめまいを起こしそうなほどスリル満点の音楽に仕上がっている。イチベレやメンバーのヴォイスの使いかたも効果的。いやあ、気持ちいいったらありゃしない。

2018/12/10

アメリカ、君に夢中さ 〜 カエターノ『粋な男ライヴ』

 

 

昨日書いたオリジナリウスのカルメン・ミランダ集には、そこはかとなくカエターノ・ヴェローゾ香があるというのがぼくの感覚なんだけど、そんなわけで聴きかえしたカエターノの CD『粋な男ライヴ』(Fina Estampa Ao Vivo、1995)。「サンバとタンゴ」つながりってだけ?う〜ん、それだけじゃない気がする。このなんとなく漂う共通性については、しかし掘り下げず、カエターノのこのライヴ盤について、せっかく思い出したんだから、ちょっとメモしておこう。汎ラテン・アメリカン・ソング・ブックとでもいった意匠や規模のことは、よくわからないのだが。

 

 

カルメン・ミランダの「サンバとタンゴ」で幕開けするのは、このライヴが、スタジオ作『粋な男』で示したスペイン語歌曲集でのラテン・アメリカ性よりもずっと先をカエターノが見据えているという証拠だ。カルメンのオリジナル・ヴァージョンのようにサビでタンゴになってはいないが、ラテン諸国の蜜月時代を歌い込んだものと言えるはず。すくなくともぼくはそう聴く。つまり、『粋な男ライヴ』ではスペイン語アメリカだけでもポルトガル語アメリカだけでもない、汎(ラテン・)アメリカ音楽のひろがりと同一性を示そうとしている。

 

 

それはここでの「サンバとタンゴ」のリズムにも顕著に示されている。サビでタンゴ・リズムにならずサンバのままではあるけれど、ほぼカエターノとパンデイロだけというに近い前半部に続き中盤のチェロ・ピチカート・ソロ(ジャキス・モレレンバウム)をはさんでの後半部では、スルドが大きく入って、ゆったりと低音を置いている。しかし同時にパンデイロとカエターノのギターは細かく刻んでいるから、大細二種の混交ポリリズムでグルーヴが生まれているんだ。

 

 

こういった種類のグルーヴ・タイプは、前々から書くようにアフロ・クレオール音楽にある典型なんだよね。ラテン・アメリカだけでなく、アメリカ合衆国の黒人音楽でも聴けるもの。カエターノの『粋な男ライヴ』では、2曲目以後、スペイン語曲とポルトガル語曲の双方を縦横に行き来しながら、こんな汎アメリカン・ミュージック・グルーヴを描き出してくれている。

 

 

2「ラメント・ボリンカーノ」、3「粋な男」、4「ククルクク・パロマ」は、スタジオ作『粋な男』のライヴお披露目といったところか。しかし次の5曲目にジルベルト・ジルと組んでやった「ハイチ」(『トロピカリア 2』)が来る意味は大きい。尖ったリリックも意味が強いが、現代アフロ・ブラジル音楽的なノリ、リズムの創りに注目したい。全体が鋭利なナイフのように輝いている。

 

 

ギター弾き語り(を中心とする)セクションはカエターノのライヴ・コンサートでは定番なので、6〜8曲目はちょっとのチェンジ・オヴ・ペースといったところか。しかしとりあげられているのはブラジル古典曲ばかりなのがふだんと異なっている。やはりブラジル〜ラテン・アメリカ〜南中北アメリカ(〜アフリカ)を俯瞰したいという主役の気持ちを感じるものだ。

 

 

9曲目、ジョアン・ジルベルトの「ヴォセ・エステヴィ・コン・メウ・ベン?」で陽光が差す。ジャキス・モレレンバウム編曲指揮の管楽がやわらかくイントロを奏でたあと、カエターノひとりの弾き語りが出た瞬間の快感と和みはなにものにも代えがたいチャームだ。弾き語りそのものはジョアン直系のボサ・ノーヴァ。伴奏の管弦アレンジはアントニオ・カルロス・ジョビンを想起させるもの。

 

 

その後、タンゴやボレーロやキューバン・ソングなどを経て、やはりキューバ人、セサール・ポルティージョ・デ・ラ・ルス作の14曲目「コンティーゴ・エン・ラ・ディスタンシア」でオーケストラ・サウンドの幕がおりた刹那に涙腺が刺激され、それを背後にするカエターノのヴォーカルで目から水がホロっと一滴こぼれ、コード・チェンジでまた泣く。

 

 

バイーアのことをカエターノが綴った美しい15「イタプアン」を経ての16曲目「ソイ・ロコ・ポル・ティ、アメリカ」。これはジルとカピナンの手になるサルサ・ナンバーで、それをカエターノがここでこうやって歌うというのは、南中北総体としてのアメリカ(音楽)全体を視野に入れつつ、直接的にはラテン・アメリカ世界の同胞意識を歌い込んだものと言っていいはず。しかも、ここでのリズムを聴いてほしい。サルサといいながら、アフロ・バイーア的、さらに言えばタメの深いこのグルーヴはアフリカ音楽的ではないだろうか。

2018/12/09

どう聴いても、マンハッタン・トランスファー・シングズ・カルメン・ミランダで、最高だ

 

 

このアルバムを教えてくださったのは、またしても bunboni さんです。感謝します。年齢やキャリアでものごとを判断することをぼくはしませんが。ありがとうございます。

 

 

 

通算二作目らしいオルジナリウス(Ordinarius)の『Notável』(2017)。これが楽しいことこの上ない。楽しいことしかない、そればかりっていう作品で、いいなあこりゃ〜。オルジナリウスというブラジルのヴォーカル・コーラス・グループのことは今回はじめて知ったけれど、CD 附属のリーフレットには男女七人が写っている。ハーモニーの組み立てはきわめてオーソドックス。それでとりあげているのが、新作ではカルメン・ミランダのレパートリーなんだなあ。聴くしかないっしょ、こりゃ〜。そして、降参しました、あまりの楽しさに。

 

 

このオルジナリウスというヴォーカル・グループは、ぼくの聴くところ、現代ブラジルのマンハッタン・トランスファー(アメリカ合衆国)だね。男女混成で、ハーモニーの組み立てにちょっとでも前衛的なところはなく、きわめてオーソドックス。その国のポップ・ソングの伝統にのっとって、古い曲もストレートかつきれいにカヴァーして、あくまで楽しく、わいわいがやがやとにぎやかに、ときどき切なくしんみりと、ポップにわかりやすく楽しく聴かせる 〜 なにからなにまで同じじゃないか:マンハッタン・トランスファーとオリジナリウス。

 

 

CD パッケージにはパーカッショニストだけ楽器奏者がクレジットされている。実際音を聴いても伴奏はそれだけだね。でも生演奏の打楽器だけでなく、コンピューター・サウンドも混ぜてあるみたい。間違いないと思うんだけど、でも100%伴奏はそれだけ。あとはぜんぶがヴォーカル・コーラス。それも(bunboni さんの言葉をお借りすると)シャバダバっていう例のあたりまえなふつうのやつ。ポップでわかりやすく、聴きやすく、そして(たぶん)世界のいたるところにある。

 

 

ああいったヴォーカル・ハーモニーの重ねかたが全世界で聴けるのは、たぶんキリスト教会音楽のおかげってことかなあ。クラシック音楽界のものだってそうだしね。以前、インドはゴアのヴォーカル・コーラスのことを書いたけれど(葡トラジソン社の例のシリーズ)、やはり同じようなものだった。あれは植民地支配したポルトガルの教会コーラスが持ち込まれたんだと思うけれど、ブラジルでこうやってオルジナリウスみたいなのが聴けるのもポルトガル由来?あるいはアメリカン・ポップ・コーラスも入り込んでいる?

 

 

そのへんの理屈は、でも今日はいらないね。ただたんに聴けば楽しい、気分ウキウキで上々に陽気でいられるオルジナリウスのカルメン・ミランダ曲集。たったの35分程度しかないけれど、この短さもこじんまりした宝石の輝きを思わせて、とてもいい。でもこれ、商品のどこにも Carmen Miranda の文字は一個もない。だから気づかないひとがいるかもだけど、それでもオッケーだと思う。楽しんでもらえさえすれば、それでいいと思うんだよね、こういう音楽は。

 

 

でも随所にピリっとした工夫は施してある。たとえば大好きな7曲目「サンバとタンゴ」は、メイン・メロディが出る前にヴァースみたいなのがくっついているし、その後も(たぶんタンゴつながりということで)カルロス・ガルデルの「Por Una Cabeza」が出てくる。9曲目「Touradas Em Madrid」の最終盤では、ベートーヴェンの「歓喜の歌」(交響曲第九番)が歌われる。

 

 

これまた大好きな8曲目「Adeus, Batucada」では女性がおやすみで、男声コーラスのみ。10曲目「O Que É Que A Bahiana Tem」では、やはりリズムの感じがサンバというよりアフロ・バイーアな雰囲気なのも楽しい。曲じたいはアルバム中いちばん古い、有名な11「Tico Tico No Fubá」では、ちょっぴりエキゾティックに、でもカルメン・ミランダが持っていた愉快な軽みさをうまく再現できている。

 

 

パッとすぐぜんぶ聴けるし、聴きやすくわかりやすく楽しいし、オススメのポップ・アルバム!

2018/12/08

カルメン 37

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(明日12.9にこれが再発されます)

 

 
ブラジルが誇る全世界的イコン、ペレとカルメン・ミランダ。カルメンの全盛期1935〜40年のオデオン録音完全集五枚組 CD セットは、このサイズなのにぜんぶ聴き終えるのがあっという間という驚異のすばらしさ。そんなブラジル EMI リリースの完全集ボックスから1937年のものだけそのままの順で抜き出すと、以下の26曲。この年がカルメンのピークだったと思う。カッコ内は録音月日。並びはレコード発売順だろう。五枚組だと、三枚目〜四枚目頭となる。

 

 

01. O Samba E O Tango (2/24)

 

02. Reminiscência Triste (2/24)

 

03. Saudade De Você (3/20)

 

04. Gente Bamba (3/20)

 

05. Cachorro Vira-Lata (5/4)

 

06. Imperador Do Samba (5/4)

 

07. Dance Rumba (3/25)

 

08. Em Tudo, Menos Em Ti (3/25)

 

09. Canjiquinha Quente (5/4)

 

10. Me Dá, Me Dá (5/4)

 

11. Quem É? (7/20)

 

12. Cabaret No Morro (7/20)

 

13. Primavera Da Vida (8/29)

 

14. Bahiana Do Taboleiro (8/29)

 

15. Fon Fon (9/17)

 

16. Camisa Listada (9/20)

 

17. Quando Eu Penso Na Bahia (9/17)

 

18. Eu Dei... (9/21)

 

19. Dona Geisha (10/13)

 

20. No Frêvo Do Amôr (12/3)

 

21. Vira P'ra Cá (10/13)

 

22. Quantas Lagrimas (12/3)

 

23. Você Está Ahi P'ra Isso? (12/14)

 

24. Pois Sim, Pois Não! (12/14)

 

25. Onde Vai Você Maria? (12/22)

 

26. Onde É Que Você Anda? (12/29)

 

 

1937年のカルメンは、すでにショーロっぽいサンバに舵を切っている。伴奏も、数曲オーケストラ伴奏のものがあるが例外で、すべてがオデオンのバンドかベネジート・ラセルダのコンジュントがやっている。カルメンのヴォーカル同様、軽やかにヒラヒラと舞い、スウィングしている。しかも高度な技巧がそれとはわからないほどの自然な有機性を持っている。

 

 

カルメンのヴォーカルそのものはもっと前から完成されていたが、歌った題材、伴奏楽団などとあいまって、最高の高みに到達していたのが1937年のオデオン録音だろう。まず、カエターノ・ヴェローゾが復活させた「サンバとタンゴ」で幕開けだが、カルメンのものはサビ=<タンゴ>部でリズムもタンゴになり、歌詞もスペイン語、伴奏にもバンドネオンが入っているという凝りよう。

 

 

しかしこんなのは序の口に過ぎない。4「Gente Bamba」、5「Cachorro Vira-Lata」、6「Imperador Do Samba」あたりになると、あまりのすばらしさに形容することばが見つからない。聴感上のイメージはサラリとしていて、きわめてスムースでナチュラルだけど、歌いこなしの見事さには舌を巻くしかない。しかもキメた表情なんかぜんぜんしておらず、あくまでキュートで可愛らしい。発声もことばの使いかたもフレイジングもリズム感もパーフェクト。すべてが極上だ。な〜んてチャーミングなんだ!カルメン!好きだ〜っ!

 

 

続く二曲、7「Dance Rumba」、8「Em Tudo, Menos Em Ti」はキューバ音楽が題材。ルンバなんだけど、キューバ音楽とブラジル音楽が同じくらい好きなぼくには楽しいことこの上ない。1930年代後半のブラジル歌謡におけるこういったものは、ややエキゾティックな雰囲気だったのだろうか?あんがいそうじゃなかったかも?という気がしないでもない。それほど革命前のキューバ音楽は全世界に多大な影響を与え浸透していた。

 

 

バイーア音楽要素(14「Bahiana Do Taboleiro」、17「Quando Eu Penso Na Bahia」)やフレーヴォ(20「No Frêvo Do Amôr」)といった、リオ・デジャネイロの(カーニヴァル・)サンバの世界からしたらややエキゾティックに響くかもというものだってすでにしっかり用意されている。しかもカルメンの歌唱は余裕たっぷりで、いささかのほころびも聴かれないのが驚異だ。カエターノはこのへんも意識して継承したと思う。

 

 

大編成オーケストラを伴奏につけたストレートなカーニヴァル・サンバだって文句なしだし、なんなんだろう、この1937年のカルメンは?ここまで完成されていてここまでの高みにあり、しかもそうでいながら近寄りがたさなどちっともまとわず、庶民的で親しみやすい可愛らしさをふりまいて、大人の、ちょっぴりきわどいセクシーさをも漂わせているっていう、こんな歌手が、古今東西性別問わず、ほかにいるとは思えない。

 

 

 

※ 参考プレイリスト

 

2018/12/07

マイルズのジミヘン時代

 

 

マイルズ・デイヴィスのブラック・ロックといえるのは、リアルタイム・リリース作品でいうと『ア・トリビュート・トゥ・ジャック・ジョンスン』(1971)と、あとは『パンゲア』(1976)一枚目かな。でも『ジャック・ジョンスン』周辺には同じようにカッコいいギター・ロック・ピースがいくつも未発表のままになっていたのが現在ではリリースされているので、今日のプレイリストに入れておいた。

 

 

アルバム『ジャック・ジョンスン』にしたって、1971年リリースの完成品はいろんな素材をコラージュしてあって、トータル・ワークとしてはレベルが高くおもしろいが、ロック色がやや薄まっているかもしれない。そんなわけで今日は『ジャック・ジョンスン』ボックス収録の生素材のほうを選んで入れておいた。こっちのほうがストレートでわかりやすいロックだ。

 

 

『ジャック・ジョンスン』とその周辺になった1970年春ごろのマイルズは、どうしてだか鍵盤楽器奏者を使わず、ジョン・マクラフリンひとりのコード・ワーク伴奏でロックっぽい音楽を展開していた。その前後はやはりいつもどおりのマイルズだから、なにかあったかもしれないなあ。ほんの数カ月だけ短期的に、ジミ・ヘンドリクス的なギター・ロックをやりたかった理由が。

 

 

あっ、と思って、いまジミヘンの没年月を確認してみたが、1970年9月だから、う〜ん、関係ないんだなあ。今日のプレイリストに入れておいた1〜9曲目のマテリアルをマイルズが録音したのは、70年の2〜4月。5月にはキース・ジャレットが参加して、ふたたび鍵盤楽器メインのサウンド創りに戻っている。ってことはじゃあこのたった三ヶ月間のロック・マイルズとはなんだったのか?チック・コリアがバンド・レギュラーだったのに、起用すらしていないしね。ジャレットが入るとチックも戻っている。やや不思議だ。

 

 

まあでもやっぱりあの時代のものではあったんだよねえ。1970年の春ならば、ロック・ミュージックが時代の寵児となっていたちょうどそのころ。ジョン・マクラフリンはなんだかんだ言ってやっぱりジャズ・ギタリストだな、と思うけれど、それでも今日のセレクションをお聴きいただければ、かなりがんばってジミヘン寄りになっていると思う。ボスの指示だったのかなあ。

 

 

それプラス、ぶっといエレベ(はデイヴ・ホランドかマイクル・ヘンダスン)と(主に)ビリー・コバムの8ビート・ドラミングという、このトリオ編成でマイルズが歌っているんだから、ちょうどジミヘンのトリオと似た感じになるじゃないか。スティーヴ・グロスマンのソプラノ・サックスさえ聴こえなければ完璧だった。やはりジャジーな要素をちょっとは残しておかないとダメだったのか。

 

 

ともあれ、シンプルでカッコイイ。サウンドもリズムも整理されていて、とてもわかりやすくノリやすい。この1970年2〜4月のマイルズ・マテリアルは、あまりジャズ・ファン向けのものじゃない。むしろロック・ミュージックやリズム&ブルーズの愛好家のほうがよりよく楽しめるはず。実際、ぼくのいままでの数十年間にわたる推薦経験でもそうだった。

 

 

なかにはボスがトランペットをまったく吹いていないギター・トリオ・ピースだってあるもんね。8曲目の「アーチー・ムーア」がそう。いやあ、こんなふうにセッションできたら気持ちいいだろうなあ。これはコンポジションじゃない。ただの即興演奏だ。いや、これだけじゃない、この時期のマイルズ・ミュージックはどれもギターを中心に据えたインプロヴァイズド・ミュージック。

 

 

『パンゲア』一枚目「ジンバブエ」のことにも触れておこう。1曲目がおなじみ「ターナラウンドフレイズ」だけど、このノリの軽さといったらない。1973〜75年とずっと演奏されたモチーフだけど、ここではまったく異なる容貌と化している。ファンクっぽさが消え、ロック調になっているよね。特に頭から出るアル・フォスターのドラミングが軽い。ファンク・ミュージックには欠かせない "間" もないから、レジー・ルーカスの刻みもそれにあわせている。

 

 

『パンゲア』のこの「ジンバブエ」は、むかしからイマイチな評判で、濃厚なセクシーさを放つファンクな二枚目「ゴンドワナ」ほど人気がない、というかみんなだいたい聴かないんだ。たしかにジャズ/ファンク方面から見ればそうなっちゃうけれど、ブラック・ロックとして聴けばなかなかいいんじゃないかなと思うよ。後半、右チャンネルで出るレジー(ピート・コージーじゃないんだよね)のギター・ソロだって、ハード・ロック・スタイルだもんね。

2018/12/06

どうしてロニー・バロンに惹かれたか

 

 

ロニー・バロンの最高傑作『ブルー・デリカシーズ Vol. 1』(1979)については、以前一度詳述した。今日はまた違うことを思い出したので、メモしておきたい。

 

 

 

昨日(といっても11月頭ですよ)、ぼくの YouTube アップローズのひとつに、あるコメントがついた。ロニー・バロンのソロ・アルバム『ブルー・デリカシーズ Vol. 1』から「シンギング・イン・マイ・ソウル」を上げてあるものに、「このすごいアルバムのほかの曲もどうかアップしてくれないか?」とね。それで、あっ…、と思って Spotify でさがしてみたけど、ないんだよね、このアルバム。そもそもロニー・バロンは一枚もない。これが代表作なんだから、これがなければほかもない。

 

 

だから、ぼくは権利なんかいっさい持っていない赤の他人ですけれど、こういったことは公共奉仕みたいなもんなんだからファイルをつくって上げたんだよ、YouTube に、ロニー・バロンの『ブルー・デリカシーズ Vol. 1』一枚丸ごとをさ。上げてくれないかとコメントしてくださったかたも、そうでないかたも、関係ないかたも、みなさんの音楽の楽しみの一助ともなれば幸せです。

 

 

そんなわけで、2018年11月初旬に聴きかえしたロニー・バロンの『ブルー・デリカシーズ Vol. 1』。そうしたら再発見というか、いままで忘れていたことを思い出した。大学生のころ、ロニー・バロンがだれなのかちっとも知りもせず100%完璧なジャケだけ買いだった『ブルー・デリカシーズ Vol. 1』のどこが、あの当時、あんなに気に入ってヘヴィ・ローテイション盤になったのかということだ。

 

 

一言にすれば、このちょっと気どった、キザな声の出しかた、歌いかたが好きだった。これが初ロニー・バロンだったんだから、こんな歌いかたの歌手なのかどうか、わかるわけもない。ドクター・ジョンの『ガンボ』的なニュー・オーリンズ・クラシックス集であることもわかっていなかったはず。ただ、なんだか、この声の出しかたがカッコイイなあ〜って思ったのだった。このことをふと思い出した。ケレン味好き?

 

 

なんだか都会的な感じがして、そんでもってソウルフル、だとあのころ思っていたんだよね。そこが当時のぼくのお気に入りになったはず。忘れていた。『ブルー・デリカシーズ Vol. 1』で、ロニーはいろんな声を出している。よく変えているよね。たぶん一曲づつぜんぶ違う声を使っているから、10曲のアルバム全体で10通りの声を使い分けている。

 

 

大学生のころは、こういう歌手なんだと思っていて、それから歌手業がメインでピアノもついでに弾くひと、という認識だった。それくらい『ブルー・デリカシーズ Vol. 1』でのヴォーカル表現の多彩さは、いま聴きかえしても鮮明だ。あのころぼくは、なんて上手く旨い歌手だろうと感じていたはずだ。当時、ピアノ演奏のほうは添えもの的に聴いていただけ。

 

 

1曲目「トリック・バッグ」からそれはすでに目立っている。つまりカッコつけたキザさ。そこがいいとぼくは思っていたんだよね。気取ってスマしたようなクールな声の出しかたがね。曲後半部はリピート・パターンに乗ってのヴォーカル・インプロヴィゼイション披露となっているのもうまい演出じゃないか。その後半部では、また違う声の色を使ったりしている。メイン部でも 'They came running down' 部のおしりのほうなんかの音程の取りかたとその声、好きだなあ。

 

 

しかも「トリック・バッグ」には男主人公と義理の父の会話パートがあって、そこでロニーは二種類の声を使い分けているよね。会話に設定された歌詞内容は笑えるものだけど、おもしろい試みだなあ〜って、大学生のころ感じていたはず。ロニー・バロンっていうこのひとは、いろんな声を出せる歌手なんだ、うまいなあ〜という印象だった。

 

 

2曲目の「ウォーリード・ライフ・ブルーズ」ではまた別の声。しかしこれ、かのスリーピー・ジョン・エスティス以来の伝承ブルーズ・スタンダードだけど、ロニーはだれのヴァージョンを下敷きにしたんだろう?同じピアニストだからビッグ・メイシオの?違うよなあ。どなたかおわかりのかた、教えてください。あるいはロニーのオリジナル・アイデアかなあ。声は、終盤部でファルセットに移行するが、最後の最後でまたチェンジ、かなり気取ったヴォーカルになる。

 

 

こんな具合が3曲目以後もどんどん続き、とにかく『ブルー・デリカシーズ Vol. 1』でのロニー・バロンは一曲ごと、また同じ曲のなかでも、声をどんどん変えているんだよね。あの大学生当時、おもしろ〜い!とボンヤリ感じていただけだったが、いま2018年11月初旬に聴きなおすと、あきらかなプロデュース意図を感じる。理由があってかなり故意にやっていることだなあ、これは。

 

 

どういうわけでそんなヴォーカル・プロデュースをしたのかはわからないので、そこは放っておこう。やはり主役の声の使いかたがアルバム中最も際立っている4曲目のコーラス・ナンバー「シンギング・イン・マイ・ソウル」、ガムでもくちゃくちゃ噛みながらしゃべるようなフィーリングで歌う5「ドゥーイン・サムシング・ロング」、クラーベ・パターンに乗ってわりとシャウト気味な6「ライツ・アウト」、メロウ・ソウルな8「ハッピー・ティアーズ」。

 

 

そして、アルバム終盤の二曲。7「ピンク・シャンペイン」では、女声とコーラスでずっと進む。このフィーメイル・ヴォーカルはだれなんだろう?ゲスト参加?あるいはひょっとしてロニーが声色を使ってオーヴァー・ダブで重ねた?もしかりに後者だったなら降参だ。どっちにしてもけっこうユーモラスな曲調で楽しい。

 

 

ラストのパーシー・メイフィールド「リヴァーズ・インヴィテイション」。この曲では、また大胆に違う声でロニーは歌っている。アルバム中、ここでのこの声がぼくはいちばん好きだった。これはいまでもそう。いかにもニュー・オーリンズの音楽家らしいラテン調のリズム・アレンジに乗って、ロニーはやや翳のあるくぐもった声質を使っている。ちょっぴりこわい歌詞内容をわざと聴きとりにくくしてあるかのようだ。しかもこの曲、ちょっと歌ったら、あとは残り時間の約八分間、ほとんどがサックス・ソロなので、歌の印象が後口に残らない。

2018/12/05

ネット聴きで思い出はつくれない?

 

 

という発言が、10月末ごろか?11月頭ごろか?Twitter 上であふれかえっていて、それに対する反応も大半が「そうだよね、便利にはなったけど、結局レコードや CD 聴いて自分の心のなかにできたものと同じものはダウンロードやストリーミングではできないよね」という趣旨のものだった。内心,ムムッ、そんなことないぞ! となっていたところに、ぼくが感じていることと同意の連続ツイートをしてくださったのが高橋健太郎さんだ。ここからのスレッド。

 

 

 

簡単に言えば、フィジカル商品に接するのと同じような接しかたは、ネット聴きではできないのかもしれないし、できるのかもしれないし、ぼくはよくわかっていないのだが、個人的実感としては、さほどの違いはないという気がする。リスナーに時間があって、たっぷり手間と気持ちをかければ、ネット聴き音楽でも、同じような思い出はできる。間違いない実感。

 

 

みんながそれはできないぞと言っているのは、結局、しょせんネット聴きはネット聴きとして(フィジカル体験とは)分けて考え、わりとイージーに接しているからじゃないかと思うんだよね。レコードや CD に注ぎ込んだのと同じだけの愛情を注がない。それなもんで、思い出(ってなんのことか、実はよくわからないが)ができあがらないんだよ。

 

 

健太郎さんじゃないけれど、ぼくも暇人なんで、ネットの音楽ストリーミング・サーヴィスを一日中ぶらついてはなにかを発見し、こりゃおもしろいサウンドだ!と思ってもなにもわからないばあい、データを求めてさらに一日ネットで調べまくったりして日が暮れるというようなことが、ときどきある。愛情をもって手間暇かければ、レコードや CD にわく愛情と同じものが自分のなかにわいてくるよ。

 

 

だから、つまり、いまはまだネット聴きはフィジカル聴きの substitution、それもほんのいっときの、臨時の、かなりイージーな、代用物でしかないという認識なんでしょ、みんながさ。そんな接しかただったなら、レコードだって CD だって、愛情も思い出もできやしないよ。もとをたどれば、録音複製商品は、ライヴ体験の substitution だったはずだ。

 

 

あ、いま思いついた。21世紀になって、いや、この数年ほどかな、現場へ出かけていき生のステージを体験することに大きな意味を見いだすかたが増えているように見える。かつては室内でフィジカル音楽作品ばかりどんどん聴いていたひとが、外へ出かけはじめている。音楽ライヴだけじゃなく、演劇や映画などみたいな総合エンターテイメントを含めてのライヴ体験重視に傾きつつあるかも。

 

 

そうなると同時に、ライヴではない録音音楽享受はネットのストリーミング・サーヴィスに比重を置くと、そんなアティテュードを取りはじめているかたが増えているように見えているんだよね。この二点は関係のあることなんだろうか?このへんはまだじっくり考えていないのでわからないが、ライヴなリアリティに接することとインターネット体験との関係性が、2010年代において変化しつつあるかもしれないよね。次の新段階に進んだというかさ。

 

 

まあともあれ、レコードや CD で聴くからいいんであって、だからこそ心に響くし思い出もできるんであって、ダウンロードやストリーミングで聴く音楽では、そんなものはできないんだ(だからオレはブツを買う?)といったたぐいの言説は、まったくの勘違い、間違い、あるいは思い込みだ。

 

 

有り体に言えば、いまはまだ移行期だから、抵抗感を持っているかたがかなり多いというだけだと思う。ちょうど LP から CD への移行期にも同じ現象があったじゃないか。しっかり憶えているよ。レコードだからいいんだ、CD の音なんかつまらないと、あのころみんな言っていた。そんでもってなかなか移行したがらなかったじゃん、みんな。アナログしか聴かないひとは、いまでも一定数いる。

 

 

フィジカルでもネット聴きでも、同じようにたっぷりじっくりと親密に接すれば、心に同じものができあがる。同じようにイージーに接すれば同じようになにも残らない。それだけの話だと思うよ。

2018/12/04

いま高知市内のホテルの部屋で、オーガニック・ビートルズを聴きながら、踊っています

 

 

 

 

ビートルズの『イーシャー・デモ』で具体的にチョ〜踊れるのは、「バック・イン・ジ USSR」「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」「レヴォルーション」「ハニー・パイ」など数曲。「ハニー・パイ」は意外かもだけど、マジな話。

 

 

ディスク3『イーシャー・デモ』は全編アンプラグドなんだけど、それだけじゃない、人間的なあたたかみを感じるサウンドだよね。(ばあいによっては三人だったり?)四人のビートルの息遣いや生々しい肉体性がしっかりある。2010年代的と言ってもさしつかえないかも。それが『ザ・ビートルズ』(ザ・ワイト・アルバム)50周年記念盤の三枚目『イーシャー・デモ』だ。

 

 

ところでこの文章は、いま2018年11月10日に高知市内のホテルの一室で書いているのだが、最初、昨日11/9に今治市内のホテルの部屋で『ザ・ビートルズ』記念盤六枚分を Spotify でしっかり聴いた。その日がリリース・デイトだったからだけど、ちょうど岩佐美咲の生歌を聴くため旅に出ていた。美咲を予習で聴く必要なんてない。それくらいふだんから繰り返し繰り返し美咲を聴いている。だから、話題沸騰中の『ザ・ビートルズ』記念盤はどんなんかな〜?と、オリジナル・アルバム分はまず飛ばし、次の『イーシャー・デモ』から流し、こ〜りゃいいね!ってなったのだ。

 

 

それなもんで、データ面の詳しいことがわからない。CD がまだ手もとにない。音だけ。それでじゅうぶん納得させられるものが『イーシャー・デモ』にはある。もう書かずにいられないというほど、11月12日に帰宅したら届くであろう物体を待ってなんかいられないというほど、それほど上質な音楽だ。だから、『イーシャー・デモ』がいったいなんなのか(現時点では)よく知らない。

 

 

ネット上にいくつか発言があるので読んでいるけれど、どうやらジョージの自宅でのホーム・レコーディングってこと?じゃあいまで言う宅録みたいなもん?だから機材がなくて、『イーシャー・デモ』は全編アクースティックなの?『ザ・ビートルズ』録音前の予行演習?例の『アンソロジー』にも入っていたのと同じものがあるようだけど?

 

 

そのあたりのちゃんとしたことは、たぶん CD セット附属の文章か、あるいは音楽メディアに載る記事が書いてくれるはずだから、それが確認できるようになるまで待たず、第一印象が極上のコットン100%な肌ざわりである『イーシャー・デモ』がどう楽しいのか、いま、音だけ聴いてメモしている。特にオリジナルの『ザ・ビートルズ』二枚分ではエレクトリック・サウンドだったものでアクースティックなダンス・ナンバーになっているものを中心に。

 

 

オリジナル・アルバム『ザ・ビートルズ』だって最初からアクースティックなオーガニック・サウンドが中心だったけれど、なかでも『イーシャー・デモ』にもある、たとえば「ディア・プルーデンス」「ブラックバード」「ジュリア」「マザー・ネイチャーズ・サン」といった曲群はさほどの違いがないので、驚かない。とりたてて言うことはないんじゃないかな。

 

 

それよりも、ローリング・ストーンズだけでなくビートルズも(『イーシャー・デモ』を聴けば)ここが立脚点だったとわかるチャック・ベリー的なパターンを持つ(オーガニック・)ロックンロール・ナンバーがものすごく楽しい。「バック・イン・ジ USSR」「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」「レヴォルーション」などだね。だれが弾いているのか、アクースティック・ギターのブギ・ウギ・パターンにもとづいたリフ・パターンで心ウキウキいい気分。これら三曲はほぼ同一のスタイルを持っているとしていい。

 

 

しかも宅録らしいアット・ホームな親近感、親密な空気がしっかり漂っているのも好感度大。メンバーも仲よく楽しそうにやっているのがいい。うれしい。楽器は基本アクースティック・ギターと、手拍子と、若干の打楽器系(?)しか聴こえない。すくなくともドラムスやベースはぜんぜんなしだ。コーラス・ワークがしっかりしているが、アレンジ済みだからというより、キャリア初期から三声ハーモニーをこなしてきたキャリアが自然となせるわざだろう。

 

 

オリジナル・アルバムではジャジーなオールド・ポップを模して手の込んでいた「ハニー・パイ」。ジャズ・バンドを起用していたよね。あれ大好きなんだけど、ところが『イーシャー・デモ』にある「ハニー・パイ」は、やはりアクースティック・ギターひとつが楽しくジャンピングに刻み、その上でポールが愉快に綴っているロックンロール。ここではレトロ・ジャズ・ポップな趣は消え、愉快なロック・ソングっぽくなっているのがとってもいい。

 

 

ジョージ好きのレコスケくんこと本秀康さんは「まだサイケデリックがほのかに残るインド産アシッドフォーク。まさに『サージェント〜』と『ホワイト〜』の中間地点。美しすぎます」(11月10日のツイート)とおっしゃる『イーシャー・デモ』。ぼく的には1968年のものというより、まるで2010年代のオーガニック・サウンドを予告したかのようなテクスチャーがいいなと感じるし、また踊れる曲は、本当に自宅で仲間内でワイワイ楽しくやっているという雰囲気横溢で、マジ楽しいし、聴いているぼくもマジ楽しくダンスできちゃうよ、マジで。

2018/12/03

my ideal

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こんなひとになりたいなあ〜って、むかしボンヤリ夢想していた人間に、いまぼくはなれているのではないだろうか。浴びるように音楽に囲まれ、音楽だけを聴き、それしかせず、いつどんな音楽をどれだけの音量で聴きまくってもうるさいと言ってくる同居人もおらず、だから聴きたいものを聴きたいように聴き放題。エレキ・ギターだって思い切りファズをかけて音量を上げギュイ〜〜ンと鳴らしてだれもクレームしないからどんどん弾ける。デジタル・ピアノをどんな音色・音量で弾いてもいい。

 

 

音楽さえあれば、それでいい。音楽を存分に心ゆくまで楽しめれば、満足だ。生コンサートも、岩佐美咲のをはじめいくつか足を運べる。そりゃあ首都圏に住んでいればもっとどんどん行けるだろうけれど、いまのぼくにはこれでちょうどいい。たまに現場に足を運べればゆっくりできる余裕もあって、現地グルメを味わったり、まあまあ悪くないホテルの部屋でくつろげる。

 

 

んでもって、旅行に出ても、結局ぼくはいつも音楽を聴いている。移動の交通機関のなかではヘッドフォンで聴き、ホテルの部屋ではスピーカーで鳴らし、ライヴ・イヴェントが行われる現場に到着しても開演時間までヘッドフォンで、また移動時やお買いものしたりお食事したりするお店のなかでも、だいたいずっと音楽といっしょ。それも自分好みのやつ。

 

 

そう、現場体験も好きなんだけど、自室そのほかのなかで録音作品を楽しむことのほうにもっと充足感があるというタイプなんだよね。だいたいはマンションの自室内でだけど、部屋のなかには CD がたくさんあって、ギターもウクレレもデジタル・ピアノもある。特に CD だなあ。それがそこそこ整理されてあって、聴きたい CD を(多くのばあいは)思いついたらすぐ手に取ることができる。それで、どんどん聴きまくる。

 

 

音楽を聴き、感じたこと、頭に浮かんだことを文章にし、こうやって公開することだってできている。ただの趣味でやっているプライヴェイト・ブログだから、ここに金銭はいっさい発生しないから、いっさいなんの拘束もない。自分の感じたまま、書きたいことをそのまま書きたいだけ、書ける。自由だ。

 

 

そう、音楽だけに囲まれ、それを聴いて文章を書きまくり、それで生きる 〜 そんな生活を送れたらなあ、そんな人間になれたらなあって、そんなふうに若いころ、これがぼくの理想だとボンヤリ考えていたんだよね。いま、ぼくは現実にそうなっているじゃないか。

 

 

音楽を呼吸し、音楽を食べ、それで生きている人間なのかもしれない。満足ゆくまで音楽が聴ければ、それがぼくの人生のすべてで、それが楽しみで、そこにこそ幸福を感じるという、そんなタイプかもしれないから、つまり、いまのぼくは理想的に幸せな人生を送っていると言える。糖尿病以外、深刻な病気もないし、糖尿にしたってお薬をちゃんと飲んでいれば正常数値内にあって問題なし。

 

 

それに、体と心のバランスが、いまちょうどいい具合に取れている。若いころのほうが肉体的には健康だったけれど、気持ちが慌ただしくざらついていた。さらにいまよりもっと年齢を重ねれば精神的にもっと成熟し、もっと静かでもっと落ち着いた心境になっていくかもしれないが、そのときは身体的衰えが深刻になっているだろう。

 

 

だから、いま50代半ばにあるいまのぼくは、あと数年か十年程度かな、それくらいが人生のピークなんだろうと思う。いまはちょうど絶頂期。ぼくを癒し、満足感を与えてくれて、幸せな気分にし、思い残すことはないという、そんな心持ちにさせてくれるのは、音楽だ。拡大すれば、フィクション作品。

 

 

人の孤独や悲しみは、フィクションによって癒やされる。

2018/12/02

ゲテモノ地下芸人?スクリーミン・ジェイ・ホーキンス

 

 

最大のヒット曲「アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー」を、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルを含むいろんなロック歌手が歌ったり、ジム・ジャームッシュが自分の映画で使ったりしたので、たぶんそれで多くのファンに憶えてもらっているのかもしれないスクリーミン・ジェイ・ホーキンス。彼は、基本、ジャンプ〜リズム&ブルーズ歌手だよね。それも外伝中のひと。

 

 

ということになっているものの、スクリーミン・ジェイの本質は、決してゲテモノではないはず。「アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー」がウケたので、レコードだけじゃなく、というよりもどっちかというとおもしろいのはライヴ・ステージでのあの大げさでシアトリカルな演出で、キワモノ的小道具や演出をともなっておどろおどろしくやる(ヴードゥー儀式っぽい?)一連の曲が代名詞になった。

 

 

がしかし CD 復刻されているもので聴きかえして確認しても、スクリーミン・ジェイは保守本道のジャズ〜ジャンプ〜リズム&ブルーズのひとで、売りは売りとして(「アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー」的なものを)やっているが、あんなふうに強調しなければ、わりとふつうの黒人音楽歌手だ。

 

 

日本のタモリと重なる面が、その意味では、あるような気がする。スクリーミン・ジェイにも「ホン・コン」その他、インチキ外国語でまくしたてる怪しげで毒々しい芸風があるのだが、またイグアナをやるような部分はこれも似たようなものがスクリーミン・ジェイにもあるが、ある時期以後のタモリが日本人みんなのお昼のお茶の間の顔となったように、実は穏当な部分が両者にはある。

 

 

九州のタモリを見出したのは、山下洋輔ほかジャズ・メンとその関連界隈だったが、スクリーミン・ジェイのばあいはアンラッキーが重なった。だから最初はあんなにトゲトゲしかったタモリがある時期までそれを維持するものの、日テレ『今夜は最高』あたりからきれいに整ってとっつきやすくなっていったのと、最初はふつうにやりたかったスクリーミン・ジェイがうまくいかず結果ああなったのとは、真逆な方向性だったと言うべきかもしれない。

 

 

つまり、ぼくの言いたいのは、本流/ハミ出しとか正統/ゲテモノとかいう二分では音楽芸能の世界は決して理解できないほど、この両面はピッタリくっついて、あるとき機会さえあればひっくり返ったり両者ないまぜで表出されたりするものなんじゃないかということだ。ただでさえサブ・カルチャーである大衆音楽の世界で、しかもスクリーミン・ジェイのばあいは黒人歌手だし、さらに一段マイノリティに分類されるんだから、そこであえてゲテ、キワなどと言いたてる必要がどこにあるのか。

 

 

録音集を(CD や配信で)聴いても、たしかに一連の魔術儀式路線が目立つものの、「ユー・メイド・ミー・ラヴ・ユー」「パースン・トゥ・パースン」といった典型的スワンプ・ポップ路線、有り体に言えばファッツ・ドミノ流三連ダダダもある。「ダーリン、プリーズ・フォーギヴ・ミー」はシャンソンふう、「テンプテイション」「フレンジー」は、ちょっとモンドなラテン R&B で、王道のものだ。コール・ポーター作のスタンダード「アイ・ラヴ・パリ」もある。途中ことば遊びが入るけどね。

 

 

「リトル・ディーモン」「ユー・エイント・フーリン・ミー」なんかは、ふつうのジャンプ・ナンバーだよなあ。まあジャンプ・ミュージックがハミ出しものだということにしたい愛好家のみなさんは勝手にしたらいいんだけど、ぼくに言わせりゃ、本道のスウィング・ジャズといっしょのものだからね。ジャンプもジャイヴもジャズなのだ。

 

 

人間だれだってアンラッキー続きでうっかりしたら、スクリーミン・ジェイ・ホーキンスのようなマイナーでエグいハミ出しかたをしなくちゃなんないことだってあるはずだ。それはメインストリームと表裏一体のもので、いったんは地下芸人であってもお茶の間の代名詞になっていくことだってあるわけで。そこの差、溝なんて、本当はありゃしない。

2018/12/01

おだやかによく歌うショーロ・トリオがあたたかい

 

 

このブラジル盤も、またまた bunboni さんに教えていただきました。ぼく好みの音楽です。

 

 

 

ブラジルの三人、ドラムスのエドゥ・リベイロ、バンドリン(&ギターもたくさん弾いている)のファビオ・ペロン、アコーディオンのトニーニョ・フェラグッチが組んだトリオ・アルバム『Folia de Treis』(2018)が実にいいよ。こういうの大好きだ。個人的にはショーロ・アルバムだと位置付けたい。そんな歌心がアルバム全編にあふれている。そして、ぼくはトニーニョのアコーディオンがいちばん好き。

 

 

このアルバムのなかで、特にこれが!という大好物が三曲。1「A Física」、5「Choro Suspirado」、10「Choro Materno」。ひとことにすればサウダージだけど、むかしからショーロのなかにも流れていて、サンバ〜ボサ・ノーヴァと受け継がれてきている<泣き>の感覚、切なさ、哀感の情緒がたっぷりあるよね、この三曲。

 

 

なかにはスピーディにかっ飛ばす技巧披露曲もあったりするアルバムだけど、そういった傾向のものは、実はいまの気分だとイマイチだったりする。このアルバムの CD を手にし、はじめて聴いたときからそうだった。いちばんグッと来たのが上記三曲で、なんど聴いてもそれが変わらないので、ぼくには、このアルバムのなかのそういった傾向のものが似合っているんだと思うんだ。

 

 

このトリオ・アルバム、表ジャケットを見ると、やっぱりいちおうエドゥがリーダー格なのかな?と思えるフシもあるし、ドラムス・オンリーのソロ・ナンバーだけでなく全編にわたりよく歌うエドゥのドラミングが大活躍している。がしかしぼくの耳にはトニーニョのアコーディオンこそが沁みわたるのだった。たんに音量・音色で目立ちやすいからというんじゃない。いちばんサウダージを表出しているからだ。

 

 

アコーディオンの音色というのが、やっぱりショーロの泣きにぴったり来るものなのかもしれないよなあ。このアルバムでのトニーニョを聴いているとそう感じる。あ、そういえば、この感覚はハーモニカなんかでも出せるものかもしれないよね。うん、たぶん間違いない。特にクロマティック・ハーモニカ。全編ハーモニカ奏者がフィーチャーされたショーロ・アルバムとか、ないんでしょうか?

 

 

ところで、トニーニョの演奏をぼくはこのアルバムではじめて聴いたわけだけど、気がついた範囲では1曲目と3曲目と10曲目(とあとすこし)におき、弾きながらハミングでユニゾンしているように思う。北米合衆国のジャズ・メン、特にジャイヴ系の演奏家のなかにはときどきいるけれど、トニーニョのばあいは愉快さじゃなく、このショローン感覚をきわだたせる役目になっているのがいいね。3曲目のそれはそうでもないか。

 

 

10曲目の「Choro Materno」でもファビオはギターだけど、それがまず出て、小音量のアコとからみ、エドゥのブラシが入り、トニーニョが本格的に弾きはじめたら、もうそれだけで泣きそうだ。う〜ん、これ、この曲(ファビオ作)、大好きだ。その上、途中からトニーニョがハミングでひとりユニゾン・デュオをやりだすので、もうそれで感極まって涙腺が崩壊しかけてしまう。いいなあ、これ。

 

 

決して2018年を代表する大傑作とかじゃないけれど、個人的にはいつもこういった音楽をそばに置いておきたい。そう思える親密な手ごたえと人間的なあたたかみを感じるもの。すばらしい。マジで大好き。

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