帝王帝王言わないで、"オレ" も "ぼく" に 〜 マイルズを人間化してほしい
マイルズがいつごろから(ジャズの)帝王と呼ばれはじめたのかはよくわからない。日本でだけなのか、本国アメリカや他国などでも同様だったのかも知らないのだが、ぼくが1979年にジャズを聴きはじめたころにはまだこの呼称は少なかった(見なかった?)ように記憶している。帝王化したのは81年の復帰後だったんじゃないかな。
あの約六年間のブランクが、音楽シーンでの不在こそが、マイルズを帝王化させた、と考えるのはわりとわかりやすい。もっとずっと前からコロンビアや、ライヴを取り仕切るプロモーターたちはマイルズを別格視し特別扱いしていたが、だから待遇も収入も破格のものだったけれど、まだまだ現実的存在だった。
大活躍中のまま一時隠遁した、というより1972年から(主に股関節のことで)身体的に苦しい状態にありはしたので、それでもなおシーンのトップを駆け続けていたから、75年にいったんやめちゃいたいと思うのは、いま考えたら理解できることだった。しかしそのまま活動がゼロになってしまったもんなあ。
1981年に復帰するまでのあいだ、ファンも、ジャーナリズムも、そしてミュージシャン仲間でも、マイルズを刺激しちょっとでも姿を現してもらおう、トランペットを手に吹いてもらおうという動きをとっていたのはみなさんご存知のとおり。ハービー・ハンコックらによるかの VSOP もそのひとつ。だけど、みずからその気になるまで当人は頑として動かなかった。ずっと暗闇のなかにいたんだよね(これは比喩というだけじゃない、マイルズの部屋はあの間ずっと照明が暗かったようだ)。
マイルズの周囲やファンのあいだで、待望感というか渇望感がこれでもかというほど、限界まで高まっていた1981年に復帰したから(その兆候はすこし前から日本のジャズ・ジャーナリズムでも報道されていた)、もう絶対に下になんか置かない VIP 待遇になっちゃった。マイルズが悪いというんじゃない。(中山康樹さんはじめ)ぼくたちが勝手に帝王化したのがよくなかったかも、という意味だ。
帝王化してからのマイルズの気持ちの一端は、1985年の来日時にタモリがインタヴューしたそのなかにも表れていた。タモリはまぁたぶんストレート・アヘッドなジャズをやっているマイルズのファンなんだよね、それで『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』(1964)など何枚かレコードの話をマイルズに向けていた。最初、マイルズは聞いていないふりをしていたのだが。
しかし、しばらくしてふとタモリのほうを見て、「あなたはぼくのレコードをちゃんとしっかり聴いてくれているんですね、アメリカじゃあこんなインタヴューはされなくなってしまいました、みんな "ジャズの未来はどうなるんですか?" みたいな質問ばっかりで嫌になります、そんなことぼくが知るわけないでしょう、ぼくのやった音楽を聴いてくれていて、その話をしてくれて、ありがとう」と言ったのだ。
つまりさ、タモリはずっとマイルズのファンで、レコードをずっと聴いていて、その素直な気持ちをそのまま向けたんだろう、それがマイルズの琴線に触れたんだよ。そうじゃないジャズ聴きやマスコミや音楽関係者は、マイルズをまるで神棚にまつりあげるようなことをして、遠ざけて、人間視しなくなっていた。やっている音楽の内容だってしっかりとは聴いちゃいない。
ジャズの帝王とマイルズのことを呼ぶことで、この音楽家のことを指したことになると思っている、というか要はな〜んも考えていない日本のジャズ・マスコミや CD ショップ関係者などは、ちゃんと考えなおしてほしい、というか、一度でいいからしっかり考えてみてほしい、その冠呼称でこの音楽家のことを呼んだことになるのかどうかを。
帝王とか(生ける)伝説とかって呼ばれてまつりあげられて、ふつうに(人間として)扱ってもらえなくなったりしたら、さびしい気分だと思うんだよ。あんな才能を持つ音楽家はそれだけで孤独なのに、その上さらに闇を抱えることになっていたに違いない。もうこの世にいない故人だけど、やっぱりちょっとね。
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