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2019年1月

2019/01/31

無国籍な青春サウンドトラックとしてのスティーリー・ダン(1)〜 『エイジャ』

 

 

1974年だっけな、バンドとしては崩壊しライヴ活動を停止したスティーリー・ダン。以後スタジオ・ワークに専念し、主にジャズ/フュージョン系の辣腕ミュージシャンたちをどんどん起用するようになって誕生したのが77年『エイジャ』、80年『ガウーチョ』。このころは、ドナルド・フェイゲン、ウォルター・ベッカー、ゲイリー・カッツ(プロデューサー)の三頭体制だった。

 

 

ところで、現在ぼくが聴いているスティーリー・ダンの CD は、と言っても『ガウーチョ』までの話だけど、ぜんぶ紙ジャケットの日本盤で、SHM-CD 仕様のリマスタード・アルバム(2000年発売)。復帰新作にあわせてリマスターされたってことかな。七枚をぜんぶいちどに買ったはず。音質がいいんだよね。スティーリー・ダンのような、特に『エイジャ』『ガウーチョ』あたりの作品を聴く際には、ここは重要になってくることだ。

 

 

『エイジャ』にしろ『ガウーチョ』にしろそうなんだけど、一種のサウンドトラック、言いかたを換えれば BGM のようなもんだとぼくは思っているわけ。上質なそれを創りだすために、三人が凝りに凝ったスタジオ・ワークの繰り返しでこだわって練りに練って作業したけれど、そういった専門方面にばかりスティーリー・ダン関係の話が行ってしまうのには、ちょっと違和感を持つこともある。

 

 

スタジオ・レコーディング作業に通じているわけでもなければ音楽の専門家でなく演奏家や歌手でもないぼくなんかには、やはり『エイジャ』も聴きやすいスムース・ロックに聴こえるわけだよ。なかなかすごいことが展開されているなとは聴けばわかるんだけど、そこにこだわりすぎずに、できあがった作品から得られる質感にこそ耳を向けていきたい。というか、ずっと長いあいだ、そうしてきた。

 

 

『エイジャ』のばあい、このアルバム題兼曲題とジャケット・デザインのおかげで、極東のイメージがちょっぴりあるかもしれないが、これはまあはっきり言っって<なんちゃって>なのだ。いい加減というか、コリアでも日本でもチャイニーズ・ミュージックでもない、三人が抱くなんとなくのインチキ東洋イメージ。それが『エイジャ』のバックボーンだ。

 

 

しかも曲「エイジャ」にはラテン音楽ふうのニュアンスだってあるよね。ウェイン・ショーターのサックス・ソロが入るパートでスティーヴ・ガッドがどんどんたたみかけるドラミングを聴かせるが、ここの荘厳な迫力はものすごい。爽快感だってある。しかも一曲を通し、ピアノが弾くフレーズが跳ねていて、だからそのせいでもラテン風味があると言える。しかし、歌詞にちょびっと出てくるものの、東洋イメージはホントいい加減だなあ。っていうか、どこにあるのか?

 

 

こんなことは『エイジャ』全体をとおし言えることで、ドナルド・フェイゲンやウォルター・ベッカーの少年・青春時代へのノスタルジーのなかにあるチープなまがいものミュージック、それはつまりテレビ・ドラマや映画などのサウンドトラックなんだけど、そんなようなものをグッと上質化して一流のアダルト・オリエンティッド・ロック、すなわちジャズ・フュージョン的ロックに仕立て上げたのが、アルバム『エイジャ』なのだ。

 

 

そうするために、上等なフェイク音楽作品を創りあげるために、気持ちと時間とお金と時間と人員を惜しみなくフル稼働させ、練り上げた。スティーリー・ダンでも、これ以前の作品ではここまで明確じゃなかったと思うんだけど、ジュヴナイル・ノスタルジーのサウンドトラックとして創った音楽ってことがさ。だから、『エイジャ』には、アルバム全体をとおし、なんだか独特の甘酸っぱさみたいなものがあるね。

 

 

関係ない話かもしれないが、アルバム『エイジャ』では、2曲目のタイトル曲のほか、4曲目「ペグ」、ラストの「ジョジー」もかなり好き。どれもミュージシャンたちの最高級の辣腕技術がなかったら音にならなかったものだけど、この部分にだけこだわりすぎるのもよくない。もっと、こう、できあがっていま聴ける曲としての、青春回顧サウンドトラック的な受け止めかたを大切にしたい。

 

 

(特にフェイゲンの)そんな志向は、自作『ガウーチョ』でも続き、そしてなにより、この二部作の事実上の続編であるソロ作『ザ・ナイトフライ』(1982)でもフル展開されている。

2019/01/30

サッチモ泰然自若 〜『プレイズ W. C. ハンディ』

 

 

Spotify にあるのだとこういうジャケット・デザインだけど、ぼくにとってはルイ・アームストロングのこの『プレイズ W. C. ハンディ』は断然こっちの上掲ジャケなのだ。そのむかし、この三角形に切り込みの入ったジャケットのアナログ・レコードを繰り返し聴いたんだからさ〜。

 

 

『プレイズ W. C. ハンディ』は、Spotify ので見るその同じジャケットで、CD 二枚組の「コンプリート・エディション」というのがリリースされていて、もとのオリジナル・レコードが全11曲だったのに対し、プラス19トラックを追加して、さらに詳細な英文解説が附属している。解説文にはずいぶん助けてもらうけれど、音の追加分は考慮に入れなくていいと思う。

 

 

さて、1928年を最後にレギュラー・コンボを解散し、その後しばらくはオーケストラを率いて活動することの多かったサッチモ。レナード・フェザーらの熱心な働きかけもあって、ふたたびスモール・コンボを正式に再組織したのが1947年夏(その前年から臨時に同様の活動をしていた)。六人編成のオール・スターズで、サッチモ、ジャック・ティガーデン、バーニー・ビガード、ディック・キャリー(p)、アーヴェル・ショウ(b)、シドニー・カトレット。

 

 

この第二次世界大戦後初のレギュラー・コンボの活動内容がすばらしく、評価も高かったので、なんとかそれをレコードに残したいと考えたコロンビアのジョージ・アヴァキャンが、当時デッカ所属だったサッチモの、このコンボをボスごと借り受けて1954年に制作したのが『プレイズ W. C. ハンディ』だ。しかしバンド・メンバーには若干の違いもある。『プレイズ W. C. ハンディ』では、トロンボーンにトラミー・ヤング、ピアノでビリー・カイル、ドラムスでバレット・ディームズ。さらにゲストの女性歌手ヴェルマ・ミドルトンがいる。

 

 

サッチモの『プレイズ W. C. ハンディ』は、日本でもレコード発売時から評価が高く、たぶんいまでも戦後のサッチモのストレート・ジャズ作品では最高傑作ということになっているものだ。(ポップスなどと切り離し)ストレート・ジャズと限定することが、はたしてサッチモのような音楽家の見方としてふさわしいのかどうかは言いたいことがかなりたくさんあるけれど、今日はいったんそれをおいて、たしかに内容は極上である『プレイズ W. C. ハンディ』のことをちょちょっとメモしておこう。

 

 

W. C. ハンディ曲集だから、1920年代以後、都会派女性ヴォードヴィル系ジャズ・ブルーズ歌手たちもたくさん歌ってきたレパートリーが『プレイズ W. C. ハンディ』にも含まれている。サッチモはその当時そんな歌手たちの伴奏を務めたばあいがある。たとえばここにも1曲目にある「セント・ルイス・ブルーズ」はベシー・スミスが歌ったものの伴奏にサッチモがついた。サッチモ自身も自分のビッグ・バンドを率い1929年にオーケーに録音したのがレコード発売され CD 復刻もされている。

 

 

『プレイズ W. C. ハンディ』の「セント・ルイス・ブルーズ」も、かの印象的なアバネーラ・リズムが活用され、しかもヴェルマ・ミドルトンがかなりの部分を受け持ってフィーチャーされ、ソロまわしもほぼ全員に割りふられている。幕開けに置いたこれがこのアルバムの目玉、売りであるとしたコロンビアの目論見がはっきりと出ているよね。

 

 

かなりいいなとぼくも思うものの、ここでの「セント・ルイス・ブルーズ」は、やや大上段に構えすぎたように感じているのも事実。ちょっと大げさじゃないだろうか。演奏時間もアルバム最長の八分超え。ちょっとやりすぎかもなあ。むかし大学生のころからそう感じていて、率直に告白すると、ちょっぴりだけ息苦しさをおぼえないでもない。

 

 

ぼくの好きな『プレイズ W. C. ハンディ』は、2曲目以後。ビリー・カイルのピアノが軽いタッチとフレーズで弾きはじめる「イエロー・ドッグ・ブルーズ」からして、とってもいいなあ、快感だなあと、これは間違いないフィーリングだ。心なしかサッチモのヴォーカルもトランペットも、軽快でふんわりソフトだ。重くない。これはサッチモのようなトランペッターについては意外に思われることかもしれないが、すくなくとも『プレイズ W. C. ハンディ』2曲目以後ではサウンドに軽妙さが聴ける。バンド全員の出す音もそう。ここが、好き。

 

 

サイド・メンのなかではトラミー・ヤングがいちばんたくさんソロを吹いていて、ぼくの大好きなバーニー・ビガードは二番目。バーニーのクラリネットをもっと聴きたかったかもしれないが、しかしソロは多くなくてもオブリガートなどをたくさんつけているから不満足感はない。サッチモのヴォーカルへのからみかたなども、うまあじだ。

 

 

また、ピアノのビリー・カイル。このひとは、ある意味この『プレイズ W. C. ハンディ』バンドの肝だね。イントロを弾いて雰囲気をつくったりするだけじゃない、曲中でもそのフレーズでバンド全体のリズムを動かしているように聴く。もともとニュー・オーリンズのジャズでは、バンドはバンド、ピアノは単独で、という水と油だったが、サッチモ自身、シカゴ時代にバンドにピアノが入る有用性を学んだ。クラシカルなニュー・オーリンズ・ジャズでも、ある時期以後はピアニストが参加するばあいもある。

 

 

曲によっては、ブルーズ・ソングだからなのか、特に終盤部の盛り上がるところで8ビートっぽいシャッフルになっているのもおもしろい。ストレートな伝統派ジャズ・リスナーのみなさんには受け入れがたい意見かもしれないが、リズム&ブルーズやロックに似た8ビートは、ふつうのジャズのなかにもどんどんあって、そこだけでもって音楽の区別をすることなど不可能だ。

 

 

それから、これは大学生のころからアルバム『プレイズ W. C. ハンディ』の2曲目以後に強く感じているチャームなんだけど、うまくことばにできないこの雰囲気、こう、なんと言ったらいいのか、晴れた日に川の土手にすっくと立って対岸を泰然自若としてジッと眺めているような、こんな表現で伝わりますかどうか、とにかくそんなフィーリングがあって、ぼくにだけかな?わからないが、そんなところ、本当に大好きだ。

 

 

サッチモのほかの作品やほかのジャズだけじゃない音楽作品にあまり感じないこのサッパリした空気感。『プレイズ W. C. ハンディ』の最大の聴きどころがぼくにとってはこれで、大学生のころからいちばん好きだと感じ続け、いま2019年現在でもそれが変わっていない。これって、どういうことなんだろう?ほかのみなさんは感じないものなのだろうか?

 

 

特にサッチモのヴォーカルとビリー・カイルのピアノに、強くこれを感じとっている。なんなんだろう?

 

 

このサッチモとバンドのスタンスは、6曲目の「メンフィス・ブルーズ」にも強くあるし、7曲目「ビール・ストリート・ブルーズ」の歌や、10曲目「ヘジテイティング・ブルーズ」のトランペット演奏パートと歌、幕閉め11曲目「アトランタ・ブルーズ」なんか一曲全体を通しこの爽快感があると思うんだけどね。ビリー・カイルのピアノ・ソロ部も気持ちいいし、その後のサッチモひとり多重録音パートにも漂っているこの自若さはなんだろう?聴いていて、気分いいことこの上なし。

2019/01/29

人気の美咲

 

 

平成で人気のお名前は翔太くんと美咲ちゃんという上記 Yahoo! ニュースを読んだのが11月27日。しかしぼくらにとって、特に女の子のほうの美咲という名前の前に来る苗字は、岩佐!岩佐だ。岩佐美咲しかありえない。我らがわさみんこと演歌歌手の岩佐美咲こそ、日本中のありとあらゆる全員の美咲ちゃんのなかで、最高峰に君臨する女王だ。

 

 

このニュースにかんしては、実はその日のうちに岩佐美咲本人も反応していて、そうか、美咲って人気のお名前ってことですかね、たしかによく出会います、美咲ちゃんには、とツイートしていた。やっぱりふつうのありふれた女性名ではあるんだよね、美咲っていうのはね。ところが、その上に岩佐とついたら、唯一無二の至高の存在になる。世界でまったくふたりといない、ただひとりの「美咲」になるんだよ。

 

 

なんたって歌がいいと思うよ、われらが美咲のばあいは。いちおうこれでもかりに歌好き、音楽好きなつもりのぼくで、いままでかなりたくさん聴いてきたつもりなんだけど、岩佐の美咲ちゃんにはビックリさせられちゃったもんねえ、いい意味で。こんな素直にスッとナチュラルに歌え、しかもそんなナイーヴ歌唱法で濃いめのドロドロ情念演歌まであっさりこなしているなんて。

 

 

これはいままで散々繰り返してきたことだけど、なっかなかできることじゃないと思うんだ。「石狩挽歌」でも「北の螢」でも「なみだの桟橋」でも、いろんな歌手によるカヴァー・ヴァージョンをちょっと聴いてみてよ。みんなああいった濃いめの情緒をたっぷり表に描き出しているじゃないか。

 

 

演歌じゃないが、中島みゆきの「糸」でも同じ。YouTube にたくさんあるのをささっと聴いてみてほしい。美咲にもうしわけないが、この曲にかんしては中島みゆきのオリジナル歌唱がいちばんすぐれている。美咲も超えていない。テレサ・テンのレパートリー同様にね。でも、そのほかの歌手たちがやる「糸」やテレサの曲と比較すれば、美咲の歌唱が断然別次元の高レベルにあることを実感できる。

 

 

濃厚情念演歌でも、中島みゆきでも、テレサ・テンでも、J-POP とかでも、美咲ヴァージョンがぼくらにとっては No. 1だぜ。そりゃあオリジナル歌手を超えていないかもしれないが(どれとは言わないが、曲によっては初演歌手の上を軽々と飛翔している)、カヴァー歌手のなかで、だれか美咲以上に歌そのものの持つ魅力をストレートに聴き手に伝達できているひとがいるんなら、ぜひ教えてほしいものだ。

 

 

そう、コミュニケーション力が異常に高いんだな、美咲の歌は。歌本来の持ち味を、リスナーにフルに伝えることのできる歌手が美咲だ。結果、ぼくらの涙腺は崩壊してしまうから、言い換えれば美咲パワーは破壊力でもある。もちろん乱暴なものじゃない。そっとやさしくことばを置くようにフェザー・タッチで歌を綴るそのデリケートさで、ぼくらの心をもみほぐし溶かすんだ、美咲はね。

 

 

美咲の容貌の可愛さ、チャーミングさについて語るのは、ぼくのこのブログの範囲外なのでつつしんでおく。とっにかく!可愛いんだ、岩佐の美咲ちゃんは!写真や動画で見てもすばらしいが、実物の魅力はそのはるか上を行くチャーミングさなんだよ。しかも生ステージに立ってマイクを持ちイントロが流れた瞬間に、キリッとした凛な表情に変貌する。そして、しっかりとした歌をはじめちゃうんだな。

 

 

こんな岩佐美咲(愛称「わさみん」)。美咲という名前がどれほど人気があってポピュラーで、世にあふれていて、ありふれた名前であろうとも、岩佐の美咲ちゃんこそトップにいる存在で、最も人気のある最有名な「美咲」に違いない。世の美咲ちゃんが束になってかかってこようとも、岩佐の美咲ちゃんひとりには全然かなわないと思うよ〜。

2019/01/28

岩佐美咲 2019.1.26 at 東京キネマ倶楽部がすばらしかった

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いま、1月27日午前中に新宿にあるホテルの部屋でゆっくりしながら、テキスト・エディタに向かって Mac のキーボードを叩いています。岩佐美咲関連の文章は、いつもいつもわさ友であるわいるどさんのブログを参考に、というか下敷きにさせていただいておりますので、今日もセット・リストを拝借させていただきます。それにしても、毎回こういったことをわいるどさんは客席でメモなさっているのですよね。お疲れ様です。日本の演歌、歌謡曲、J-POP の世界におくわしいということもわかっております。

 

 

わいるどさんのブログ

 

 

 

2019.1.26のセット・リストは以下のとおり。

 

 

01. 佐渡の鬼太鼓

 

02. 旅愁

 

03. 能登半島

 

04. 遣らずの雨

 

05. 冬のリヴィエラ

 

06. 恋の奴隷

 

07. お久しぶりね

 

08. あなた

 

09. 別れの予感

 

(ラウンド・コーナー)

 

10. 飛んでイスタンブール

 

11. 大阪ラプソディー

 

12. 手紙

 

13. 狙い撃ち

 

(ラウンド・コーナー終了)

 

14. 揺れる想い

 

15. ルージュの伝言

 

16. 元気を出して

 

17. ごめんね東京

 

18. もしも私が空に住んでいたら

 

19. 鞆の浦慕情

 

20. 鯖街道

 

(アンコール)

 

EN1. 恋の終わり三軒茶屋

 

EN2. 初酒

 

EN3. 無人駅

 

 

今回のコンサートも、やはり、もうすぐ2月13日に発売になる新曲「恋の終わり三軒茶屋」の路線にあわせて構成された内容だったように思います。ぼくは昨日はじめてこの新曲をフルでちゃんと聴いたのですが、それ以前からみなさんがおっしゃっていたとおり、演歌というより歌謡曲というか、ライト・ポップスに近い曲です。ショート・ヴァージョンのヴィデオがすでに正式公開されています。

 

 

 

こんな感じ、簡単に言えば(三木たかし作の)テレサ・テン楽曲路線と言ってさしつかえないのではないでしょうか。2月13日発売のこの新曲「恋の終わり三軒茶屋」のカップリング曲も、昨日ぜんぶ歌われましたが、それは6〜9曲目の四つです。四つとも抜群の出来でしたが、なかでも特に「恋の奴隷」(奥村チヨ)、「お久しぶりね」(小柳ルミ子)、「別れの予感」(テレサ・テン)が耳を惹きました。

 

 

着目すべきは、どれもリズムが快活なラテン・タッチです。個人的にこういったラテン調歌謡曲がたまらなく大好きなのですが、日本の大衆歌謡(演歌でも歌謡曲でもなんでも)のなかにラテン・タッチが抜きがたく浸透していることは、以前、美咲関連の記事で強調しました。直接的にはビゼーの「カルメン」由来でしょうけれど、それがそもそもキューバのアバネーラからもらっているものなのです。

 

 

 

ふだんから Black Beauty を読んでくださっているみなさんなら、ぼくのラテン好きをよくご存知でしょう。東南アジアやアラブ圏にまでおよぶ、ラテン(中南米)音楽の全世界的影響力とはなんなのか?といった内容を、いつの日かまとめてみたい、書いてみたいと思っていますが、今日の話題は岩佐美咲です。

 

 

「恋の奴隷」も「お久しぶりね」も、いままでの歌唱イヴェントで披露されていますし、「別れの予感」は以前のソロ・コンサートでも歌われました。それらを現地で体験なさったみなさんのお話を総合すると、こういった曲群と美咲の資質の相性がとてもよいということは、ぼくも推測できていました。がしかし、昨日、鶯谷で生で聴いて、ここまで見事な歌唱に仕上がっているとは、ビックリしちゃったと言いたいくらいの強烈な魅力を放っていましたね。

 

 

これは新曲「恋の終わり三軒茶屋」についても同様のことが言えるのですが、ラテン・タッチな跳ねるリズムへの美咲のヴォーカルの乗りが絶妙にすばらしく、声に艶と張りもあって、フレイジングの隅々にまで細やかな神経が配られていて、結果、全体的にこれら五曲は最高にチャーミングな歌となっていましたね。

 

 

大瀧詠一が書いた森進一の「冬のリヴィエラ」でも、ぼくは同じことを感じました。昨日のコンサートを通し、こういったラテン・タッチでライトなポップス路線はこれが最初に来たもので、そこまではわりと従来路線的な濃厚演歌で攻めていましたから、「冬のリヴィエラ」でオオッ!となったのは事実ですね。そこまでは、たとえば石川さゆりの「能登半島」なども歌われましたので。

 

 

美咲のためのオリジナル楽曲は、新曲「恋の終わり三軒茶屋」含め、八曲、もちろんすべて披露されましたが、昨日のコンサート全体から受けた印象では、美咲の今年の、あるいは今後の、展開は、演歌路線をいったんおいて、軽歌謡路線に舵を切っていくかもしれないな、と思えました。

 

 

いや、もちろん演歌路線も、そうじゃないものも、すべて美咲の歌はすばらしいですが、新曲「恋の終わり三軒茶屋」(2月13日発売)とそのカップリング四曲の、合計五曲に端的に象徴されている、跳ねるラテン・リズムをともなった軽妙な歌謡曲路線こそ、美咲の資質がフル発揮されるものなのかもしれませんね。

2019/01/27

わさみん運営、しっかりお願いね

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ごらんのとおり、チケットは無事届き、コンサートも観覧できました。




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いまこの文章は2019年1月8日に書いていますが、26日の岩佐美咲コンサートのチケットが無事届き、現場でコンサートも体験できたら、そのあとでネットに公開しようと思います。




 

 

つまり、いまだ(1月8日時点では)コンサート・チケットは届いていない。仕事が遅すぎると思うんだよね。ぼくが56年の人生でたくさん足を運んだ、もうそりゃあ無数に体験したと言っていい各種コンサートのなかで、岩佐美咲関係がいちばん遅い。しかもですよ、そもそも買えたかどうか、すなわち自分の席が確保できているのかどうかさえ、わからない。というかちゃんとしたひとこともない。

 

 

こんなもんなんでしょうか?こういった歌手たち、アイドル・タレントたちのコンサートやその関係って?でもしかし、同じくアイドル(界出身の)歌手である原田知世コンサートが、なんとなんと1月28日に渋谷 NHKホールで開催されるんだけど、それは昨年11月の告知と同時にぴあで買ったら、当選告知がメールでちゃんと来て、その一週間後にチケット現物も届いたよ。

 

 

そうそう、今日の本題に関係ない話だけど、岩佐美咲コンサートが2019年1月26日夜、原田知世コンサートが1月28日夜と、なんなんこれ?ぼくがいまの日本人歌手で最も好きな二名のフル・コンサートが、それもたったの中一日で立て続けに東京都内で開催されるなんて😍!神の思し召しだとしか思えないね❤️!

 

 

それだから、東京都内のホテルに連泊することにしてあるんだけど、まあそれはいい。美咲コンサートのチケット発送が遅すぎるという話だ。発送どころか、書いたように当選したどうかの通知も、ない。ないんだ。ぼくはいわゆるおっかけじゃないっていうか、美咲単推しのオタクじゃないのだろう。いろんな音楽が、いろんな歌手が、音楽家が、好きでどんどん聴いている。美咲も、スペシャルであるとはいえ、そのなかのひとりだ。

 

 

言い換えれば、ぼくは美咲のことをひとりのちゃんとしたというか、立派な一人前の歌手として見ているし、実際いままでもそう扱ってきたつもりだ。そうじゃなかったら、いままでのこんな美咲関係のブログ記事が書けるわけはないと思うよ。だからこそ、マネージャーさんはじめ、運営側のみなさんにもちゃんとしてほしい。自分たちが仕事をしている美咲のことを、一人前の歌手として扱ってしっかり仕事をしてほしい。

 

 

美咲ファンのなかにも、少数派かもしれないがぼくのように、その歌をしっかり聴き、たんなる若い可愛い女の子アイドル(出身)・タレント歌手というだけじゃない、いままでの日本歌謡史のなかにしっかり位置付けて、諸先輩の歌手のみなさんと比較しても遜色ないすぐれた歌手として、聴いて、考えて、文章を書いている人間だっているんだよ。

 

 

そんなとき、いざ年に一回の大切なフル・コンサートの、そのチケットの、代金と手数料の振り込み手続きをしたのは昨2018年9月だっていうのに、チケット現物の発送は、なんと本番のたった二週間前なんですと!長良事務所のスタッフさんがブログを更新して、そうおっしゃっていた。

 

 

前年の九月に一万円を超えるお金を振り込んで、現物入手が一月半ば。こんなことって、ありえるのでしょうか?遅い。遅すぎる。仕事が。美咲はちゃんとしっかり準備して立派な歌を歌っているのに、周囲のみなさんがのんびりしすぎているのでは?上でも書いたがこのことは、言い換えれば肝心のスタッフさんたちが美咲のことを、ファンのことを、一人前に見ていないかもしれないという証左だ。

 

 

第何回とカウントされる美咲のコンサートは、年に一回しかないんだよ。そこに向けて日本全国の美咲ファンのみなさんも準備し、ふだんの生歌イヴェント系になかなか足を運べないかたがたもお金を貯め、仕事を休む算段をつけ、宿泊や交通手段も確保して、それでみなさんが集結する、そんな大切なコンサートなんですよ。

 

 

嗚呼、それなのに…。チケット現物は、いまだ届かず。まあファン・クラブ枠で応募したみなさんの席はぜんぶ確保できております、ご安心くださいとの、スタッフさんのご発言があったとはいえ、いくらなんでもなあ。不安で不安でしかたがない。岩佐美咲ほどの大きな才能を持ち花咲かせつつある歌手の、それも年に一回のフル・コンサートなのに。このままでいいのでしょうか。

2019/01/26

サッチモの写真を見るのが好き

 

 

一度も会ったことのないサッチモだけど、このひとのことが、心底好き。音楽がやっぱりいいんだけど、音楽を聴かずに写真だけ見ていてもいいよねえ。っていうかサッチモのばあい、写真から、あのコルネット(トランペット)・サウンドと歌声が鮮明に聴こえてくる。間違いない。それで最高に心地いいし、安らげるし、心おだやかになるんだ。

 

 

こんなことは、たぶん、サッチモがまさに狙ったことだ。彼の意図通りぼくの心に作用している。亡くなったのが1971年だから、もう何年になるんだろう、勘定する気もないんだけど、それは意味のないことだからさ。どうしてかって、いま書いたように、生前のサッチモがみんなのことを楽しく幸せな気持ちにしたいと思って活動したそのまま、2019年のぼくもそうなっているんだから、完璧に時空を超え飛翔している。

 

 

なんてすばらしいことなんだろう。もはや、20世紀のアメリカン・ポピュラー・ミュージック界最大のイコンだったなんていう次元じゃない。すくなくともぼくにとっていちばん楽しいのがサッチモだから、古今東西ありとあらゆる音楽世界で最も秀でた音楽のイコンがサッチモなんじゃないか。間違いないと思う。

 

 

もちろんふだんからサッチモの音楽を聴いている。このひとのいろんな写真を眺めながら。そしてサッチモはいつも笑っている。大きながま口を開けて(サッチモとの愛称はここから)、ガッハッハという顔つきで思い切り笑っているよね。サッチモのそんな笑顔を見ながらその音楽を聴けば、この笑顔と音楽が完璧に一体化しているとわかる。

 

 

写真を眺めるだけでも、サッチモの笑顔はぼくを楽しく幸せな気分にしてくれる。音楽と一体化しているというのは、このひとの音楽こそ最高・至高のものだと信じているぼく(だけじゃないと思うんだ)の考えだけど、サッチモの音楽に特に縁のないみなさんだって、上で一枚ご紹介したし、以下でも貼っていくものをご覧になれば、同じような気持ちになれるかも。

 

 

また、いちばん上でサッチモの公式 Instagram の宛先を書いておいたので、もしご興味とお時間のあるかたは、ぜひちょっとパラパラ眺めてみてほしい。生活や人生の辛苦を、いっときでも、忘れることができるし、どんどん眺めていればそんな時間がちょっとづつ長くなり、どっちかというと楽しい時間のほうがたくさんになってくるというのが、ぼくのばあい。

 

 

たとえばこれは若いころだなあ。オーケー・レーベルに録音していた、たぶん1920年代の写真だね。わりと有名な一枚で、各所に転載されるので、ぼくも以前からよく見ている。

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これは戦後の一枚だね。どこかのレコーディング・スタジオでのワン・ショットだろうなあ。

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モダン・ジャズ・トランペットの巨人ディジー・ガレスピーと競演中のこんな写真もある。ここでは笑っていない。真剣な表情で対峙しているよね。そういった顔もまたいい。音楽に対するサッチモの姿勢がよく伝わってきて、これも大好きな一枚だ。

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1970年に「ウィ・シャル・オーヴァーカム」を録音した際のスタジオでの一枚。いっしょに写っているのがマイルズ・デイヴィス。ふたりとも、いや特にマイルズのほうが一層、うれしそうだ。いいツー・ショットだなあ。あのしわがれ声のマイルズが、このときはなんとバック・コーラスでレコーディングに参加した。サッチモへの敬愛を、この写真からも感じとることができる。

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猫との一枚。

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これはデューク・エリントンとだ。デュークの笑顔もはじけている。

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本当に好きで好きでたまらない、ぼくも敬愛するサッチモことルイ・アームストロング。1920年代から亡くなる1971まで、あの音楽とあの笑顔で、ずっとみんなのことを楽しませ幸せな気分にし、そして亡くなったあとにサッチモのことを知り大好きになったぼくのような人間のことも、やはり同じようにエンターテインし、慰撫してくれる。

 

 

なんて偉いひとなんだろう。

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2019/01/25

ステレオ?モノ? 〜 スピーカーは一台でいいかも

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専門家じゃない個人がふだん自室で音楽を聴く際のスピーカーって、実は一台でじゅうぶんじゃないだろうか。最近そう感じるようになっている。ってことはつまりモノラル再生ってことだけど、そもそもモノとかステレオとかっていう(録音物)再生概念があやしいと最近思いはじめている。それはそうと、ある時期以後音楽再生機器をステレオと呼び習わすのは、どうしてなんだっけ?

 

 

それはアンタが録音時期の古いモノラル音楽ばかり聴いているせいだろう、だからスピーカー一台でオッケーなんだろう、モノラル再生は本来スピーカー一台でやるのが本筋とオーディオ専門家も言うしなってなことでは全然ないのだ。ステレオ録音作品をどんどん一台で聴いている。音が左右にクッキリ分かれないだけで、そのほかはなんの違いもなし。

 

 

あ、たったいま気がついた。ステレオと銘打っていた時期のレコード、ってことはすなわち1950年代末〜60年代のものってことだけど、あのころ、左右に音が分かれすぎていたよね。その後はこれがなくなっている。むろん、右か左にしか定位しない音があるものの、全体的には一丸となって音が出てくるようなミックスになっているよね。近年だと1990年代あたりから?21世紀になってから?わからないけれど、CD でも配信でも、モノラルなミックスと再生状況に近づきつつある。回帰しつつある?

 

 

スピーカー一台で聴くとぼくが言う際のスピーカーは、主に上掲写真にある Bose の Bluetooth スピーカーのこと。音楽再生は一台のスピーカーでいいのだとは、2017年夏にこれを買って使いはじめ、一年半ほどが経過しての実感なんだよね。皮膚感覚で得たものだ。同じく Bose の同じく Bluetooth スピーカーで、下掲写真の小さいやつは IPX7規格の防水性能ありのポータブルで、お風呂場などで使っている。

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Bose のこれらのスピーカーは、二台を無線接続してステレオ・モードで鳴らすことも可能だし、実際購入当初はぼくも同じ円柱形のを二台買ってそうしていた。だが、だんだんと、一台で鳴らしたときの音楽再生音が特に違いを持たないとわかるようになってきたんだよね。音が左右に分かれない、ビュンビュン飛ばないってだけのことで、音は記録されているものぜんぶが聴こえるし、それに、上でも触れたが左右分割じゃないとおもしろみがわからない音楽はほぼなし。

 

 

っていうかさ、ご存知のとおり1950年代末〜60年代の、ステレオ・レコード黎明期の音楽なんかも、実はモノラル再生したほうがいいものだよね。それだけまだ技術が進んでいなかったということだけど、あんな中抜けしているようなステレオ状態なんて本当はまやかしで、音楽現場の実像からも遠く、再生物としても中途半端で、聴いちゃいられない。みなさん実感がおありのはず。

 

 

いま、音楽現場の実像と書いたが、かのフィル・スペクターもそう考えていたように、演唱されている現場で聴く音楽とは、左右に音が分かれたりなどしていない。言ってみれば、まあ、モノラル状況だ。聴き手の右や左から異なる音が聴こえてくるなんてのは、複数の演奏者に囲まれているようなケースでしかありえないことで、ふつうのライヴ現場、でなくとも日常の生音楽体験で、(いわゆる)ステレオで音が聴こえることなんて、あるの??

 

 

ここまで書いてきたことは、しかし後付けの理屈なのだ、ぼくのなかでは、一年以上にわたり Bose の Bluetooth スピーカーで音楽を聴き続け、だいたいが長風呂人間で、真夏でも湯船に20分は浸かっている(体温程度のお湯ですよ)という人間だから、防水ポータブルの Bose 一台を持って入り、ずっと聴いているし、っていうかこのスピーカーのおかげでお風呂タイムが楽しくなって長風呂になったんだけど、お風呂じゃなく自室でも Spotify で聴くばあいは(ヘッドフォンやイヤフォンが嫌だから)スピーカー派のぼくの現実的選択肢は、一台の Bluetooth スピーカーを iPhone とペアリングするしかないっていう、だからずっとそれで聴いているという 〜〜〜 この一年半以上のあいだの実体験から来るものなんだよね。

 

 

それで、最近はブログ用にでも書く文章でも、そうやって聴いて書いたものがすでにたくさんある。どれがそうだなどとは指摘できないほどで、今後はもっと増えていくはず。すなわち、音楽聴取と、それにもとづく感想や考察や、それを文章化したものに、ぼくのなかでは、なんの違いもないんだよね。CD や iTunes ファイルを聴くときは、下掲写真の JBL 四台体制だけど、同じ音源でもスピーカー一台で聴いて、なんの違いも、ない。それがようやくわかった。

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2019/01/24

すごい、このンゴニの音!〜 タラウィット・ティンブクトゥは振動がすべて

 

 

タラウィット・ティンブクトゥ(Tallawit Timbouctou)の2018年リリース作『Hali Diallo』。見開きジャケットを開いた左側に記載の情報によれば、録音は2011年のものらしい。どうして七年間も眠らせてあったのかはぜんぜんわからないが、この音楽、すごいぞ。マリ北部の砂漠のトゥアレグの、と書くとギター・バンド、砂漠のブルーズ、とリプが来そうだけど、ここではギターじゃない。ンゴニ(ここでの名、テハルディン)だ。それも激しく電気アンプリファイドされている。そ〜れが!しびれるほど魅力的!!

 

 

それで、このアルバム『Hali Diallo』は、いちおう10個にトラックが切れていて、曲名もつけられているが、これたぶん「一個の」演奏なんだよね?そう、たぶん間違いない。メドレーのノン・ストップ状態というよりも、一つ、一曲の演奏だからこうなっているんだと思う。たぶん、なんらかの現場、儀式かなにかで延々とやっているような、そんな音楽なのかもしれない。だから45分間ずっと一個なんだろう。モロッコの儀式グナーワなんかと同じで。

 

 

『Hali Diallo』のタラウィット・ティンブクトゥは三人編成。テハルディンだけど便宜上ンゴニと呼ぶが、それが二台。うち一台はベース役。そのほか一名が打楽器カラバシを担当している。アルバムの音を聴くと、おそらく多重録音などいっさいなしで、このトリオだけによる現場での即興演奏をそのまま録音したものなんじゃないかと思う。

 

 

そのインプロヴィゼイションも、聴くひとによっては単調だとかワン・パターンだとかとらえられてしまうかもしれないものだけど、とんでもない。こんなシビれる音楽の反復形式はないんだよね。アフリカ音楽だとこういった高揚や興奮があたりまえのものだ。特にカラバシのサウンドがズンズン、バシバシ決まって、ビートでまいっちゃう。

 

 

でもしかし、ぼくにとってのこのタラウィット・ティンブクトゥ『Hali Diallo』は、メイン・パートを弾き歌う Aghaly Ag Amoumine の魅力がほぼすべて。特にンゴニだなあ、シビれちゃうのは。ヴォーカルのほうは、全45分間でほぼ出てこないと言いたいほどあまり入らないし、歌っているあいだもどうってことないんじゃないかな。でもちょっと典型的な砂漠のブルーズ・バンドのヴォーカリストっぽいトーキング・スタイル。

 

 

それよりなにより、このンゴニの音だよ、このアルバムは。こんなンゴニの音、聴いたことありましたっけ?電気アンプリファイドされているけれど、激しくひずんでいる。間違いなくなにかのエフェクターをかませてあるよなあ。ファズとかディストーション系かオーヴァードライヴかを。それで、こんな、まるでハード・ロック/ヘヴィ・メタルのエレキ・ギタリストが出しそうなンゴニ・サウンドになっている。

 

 

こういったひずみまくった音が、も〜う!大好物だから、ぼくは。喩えて言えば、まるでマラハティーニのあの声そのままをンゴニに移植したような、そんなサウンドでビリビリ空気が振動して、こ〜りゃ快感だ。しかもアルバム『Hali Diallo』の全45分間、まったくやむことなく、こんなディストーティッド・ンゴニがビリビリ鳴り続けているんだもん。快感すぎて、もう一気に駆け抜けて、聴き終えたら爽快感すらある。

 

 

ビリビリっていう振動がすべてのタラウィット・ティンブクトゥ『Hali Diallo』。いわゆる砂漠のブルーズ愛好家にもアピールできる内容だし、ハード・ロック好きにもいけるし、西アフリカのンゴニが好きなかたには、それがここまでの音に化けているのか!と、興味本位で入っていけるかもしれないし、なんたってこのひずみまくった音のノン・ストップ状態45分間でイキっぱなしになるし、こんなに気持ちいい音楽がほかにあるのか。

2019/01/23

『ウィ・ウォント・マイルズ』一枚目の急速二曲がけっこうすごい

 

 

こないだ、マイルズ・デイヴィス人間化提言(?)の記事を書いたでしょ。このトランペッターが帝王化したのはたぶん1981年の復帰後と判断して、そのへんのアルバムを聴きながらだったんだよ。それで発見したのが、復帰第二作の二枚組ライヴ・アルバム『ウィ・ウォント・マイルズ』一枚目にある急速調の二曲で、特にバンドが、いや、マイルズも、かなりすごい演奏を展開しているなということだった。

 

 

すなわち「バック・シート・ベティ」と、「ファスト・トラック」(との記載だが「アイーダ」)。そもそも『ウィ・ウォント・マイルズ』では、二枚目 A 面いっぱいを占めていた「マイ・マンズ・ゴーン・ナウ」がいちばんいいということに長年(ぼくのなかでは)なっていて、ぼくだけじゃなく同様の意見を表明なさるかたはわりといた。ま、いまでもぼくは基本そうなんだけど。

 

 

一枚目だと、東京は新宿西口広場でのライヴ収録である「ジャン・ピエール」がなんともおもしろくなくて、それがしかもレコードのオープナーとクローザーみたいに置かれて二回出てくるので、正直言ってちょっとこれは、テオ、なんだよ〜、バンドは大健闘だけど…、って感じてたんだよね。そのせいか、それにはさまれた「バック・シート・ベティ」「ファスト・トラック」にしっかり耳を傾けていなかったかも。

 

 

整理しておくと、「バック・シート・ベティ」は1981年7月5日、ニュー・ヨークのエイヴリー・フィッシャー・ホール公演から、「ファスト・トラック」は同年6月27日、ボストンのクラブ、キックスでの公演から、それぞれ編集されて収録されている。どっちもブートレグでオリジナル演奏を聴けるので、かなりな程度までテオが手をくわえているとわかっている。

 

 

しかしバンドの演奏やボスの吹奏ぶりそのものを変更できないもんねえ。実際、マイク・スターン(g)+マーカス・ミラー(b)+アル・フォスター(d)の三人は、はっきり言って大名演として問題ないほどのものすごい演奏を展開。そこにパーカッションのミノ・シネルも加わって(ミノはボストンでマイルズがスカウトした)、このリズムの躍動感はなかなかすばらしいものだよねえ。

 

 

「バック・シート・ベティ」では、スタジオ作『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』で聴けるミディアム・テンポでのゆったりした、しかし複雑にレイヤーされたグルーヴは影をひそめ、激速的とまで言えるほどの壮絶なワン・トラックにアレンジしてある。リズム・パターンはかなり整理されてシンプルになっているが、ここではそれがいい方向に作用している。

 

 

マイルズは最初ハーマン・ミュートをつけて控えめに吹きはじめるのだが、そこからしてすでにただならぬ妖気がただよっていると、いまのぼくなら感じる。そのミューティッド・ソロのあいだ、バンド、特にマーカスとアルが協調して盛り上げて、マイクがそれに引っ張られ合わせているように聴こえる。しかしまだまだ序章だ。

 

 

3:06でいきなりオープン・ホーンで一音高らかに吹いてからが本番。そのトランペット・サウンドも熱気をはらんでいるが、バンドがいきなり四音のストップ・タイム的ブレイクふうなパターンに移行。四つ目を合わせた次に五つ目のバン!が来るこのリズム・パターンは、しかし事前のアレンジじゃない。エイヴリー・フィッシャー・ホールの演奏現場でのアド・リブ着案なんだよね。それなのにドンピシャのタイミングで四人が合奏。マイルズもあおられて、ソロ内容がどんどん高揚していく。

 

 

クライマックスは、4:55 〜 5:06。ここも事前に用意のないアド・リブだと思うけれど、マイルズが吹く背後でギターとベースが止んで打楽器二名オンリーの伴奏になっている。この約10秒間でマイルズはこれ以上ない最高のフレーズを発しているよね。吹き終わりで、だれかがイエィ!って叫んでいるもん(ミノ?)。ギターとベースが再開してからも(ブロック・リフを演奏しつつ)熱は下がらず、高温沸騰したまま例のギター・ファンファーレみたいなのが来て、この興奮のワン・トラックは突如終了。いやあ、すごいなあ。

 

 

続く「ファスト・トラック」は、キックス現場での演奏「アイーダ」を収録したテープの回転数を上げテンポを速めてある。そうだとうなずける音響だよね。悪く言えばやや不自然で人工的に響くのだけど、しかしテオのそういった編集作業が、ここでも功を奏し、急速調の興奮をさらに一層かきたてることに成功しているんだよね。

 

 

「ファスト・トラック」では、7:14 からはじまるボスの二回目のソロからものすごいことになっているじゃないか。本人の熱の入りようも尋常じゃないが、バンドもどうしたんだこれ?そのままミノのコンガ・ソロになり、それが終わってからの 10:00 過ぎあたりからがいよいよこの世のものじゃない異次元に六人が飛躍していってしまう。

 

 

マイルズも(このころまだ体調がおもわしくなかったにもかかわらず)ハイ・ノートをどんどんヒット。しかもパワフルだ。マイクのギター・コード・ワークを中心として、ちょっとふつうじゃない妖気をバック・バンドが放っている。そして13分過ぎごろから、完全なる宇宙空間へ飛び出しているよねえ。なんなのここは?いったいどうしちゃったの?

 

 

今日書いたことは、すべて事前打ち合わせなどで実現できることじゃない。現場での瞬時な即興であるからこそかなえられた展開なのだ。いやあ、この1981年のカム・バック・バンド、いまさらだけど、やっぱりなかなかすごい実力を持っていたんだよなあ。ボスのトランペット吹奏能力も1983年ごろにようやく戻ったなどと思っていたのだが、とんでもない。いまごろ気づいたのはぼくだけに違いない。

2019/01/22

ナターリア・ラフォルカデの汎ラテン・アメリカン古謡、こっちが一作目

 

 

ナターリア・ラフォルカデによるラテン・アメリカン古謡シリーズ『ムサス』のファンなんですけど、ぼくは。最初に聴いた2018年リリースの二作目の印象がとてもよかったんだよね。それで、その前の一作目(2017)も渋谷エル・スールで買って聴いたわけ。もともと評価が高かったのはこっちだし。そうしたら、これもなかなかすばらしい。まあナターリアの声は、なんちゅ〜かその〜、アイドル・ヴォイスかもしれませんが、ぼくなんかは抵抗ないよ。

 

 

正式題は『MUSAS: Un Homenaje al Folclore Latinoamericano en Manos de Los Macorinos』と長すぎるので、みんな『ムサス』と呼んでいるこの二枚シリーズ。2018年リリースの Vol. 2については以前書いたのでご一読いただきたいと思います。今日はさかのぼって一作目のことだけ。といってもアルバム・コンセプトは同じで、内容もかなりな部分完璧に同一といってさしつかえないものだけどね。

 

 

 

もちろん違いはある。『ムサス』一作目は、汎ラテン・アメリカンというより、メキシコとキューバ二ヶ国の古謡(か、それに似せた自作&共作も多し)にほぼフォーカスがしぼられている。キューバとメキシコが、特に音楽の世界で、それもキューバ革命までは、かなり密接な関係にあったことはご存知のとおり。そこにアメリカ合衆国も深くからんでいる。『ムサス』Vol. 1だと、ナターリアも、特にメキシコという自身の土地のルーツに目を向けていたということかな。

 

 

それで、以前、ライ・クーダーをフィーチャーしてチーフタンズがやったメキシカン・フォークロア・アルバムのことを書いたでしょ。『サン・パトリシオ』だっけな。たしか2010年作。あれは米墨戦争に題材をとったものだからああなっていた。ナターリアの『ムサス』Vol. 1をご存知ないかたも、だいたいあの『サン・パトリシオ』を想像していただければ、遠くないと思う。

 

 

 

『ムサス』Vol. 1で最も有名な曲は、たぶん9曲目「Tú Me Acostumbraste」だね。かのフランク・ドミンゲスが書いたもので、ナターリアはオマーラ・ポルトゥオンドを迎えデュエットで歌っている。やはりちょっとフィーリンっぽい仕上がりに聴こえるのはオマーラのおかげか、曲がもともとそういった傾向のものだからか。ナターリアの声はでもそんなにクールさを感じないものだけど。

 

 

このへんは、もちろんオマーラとナターリアが歌手として器が違いすぎるからっていうのもあるよね。年季が入って枯れたクールな味わいに到達しているオマーラはやはりさすがだ。しかもドライになりすぎない情緒をしっかり残してある。ナターリアも、でもかなり健闘はしているよねえ。オマーラと並ぶと分が悪いけれど、落ち着いたフィーリングで淡々と、ほかの曲でもこなしている。

 

 

それから『ムサス』Vol. 1におけるナターリア最大の功績と思うのがソング・ライティングだ。自作、あるいはほかの作者との共作でナターリアがたくさん書いているが、上でも触れたフランク・ドミンゲスそのほかの曲群と並んでも違和感ないもんね。アルバムでは主に前半部が自作セクションみたいになっている。

 

 

そこでは、たとえば1、5、6曲目がナターリアひとりでの自作、2、3が共作で、(主に)メキシカン・フォークロアの世界を見事に再現している。それらを聴き、アルバム後半の有名他作曲セクションへスムースに流れていくのを聴いていると、なかなかすごいな、ナターリア、かなり勉強したんだなと痛感する。しかも1曲目にはレゲエのニュアンスだってあるもんさあ。

 

 

プロデュースも全面的にナターリアがひとりでやっている(とのクレジットだけど、共演のロス・マコリーノスが手を貸しているはず)ところからしても、アルバム全体でラテン・アメリカン古謡の陰と陽を交互に並べ陰影をつけていく選曲や並び順といったところからしても、しっとりとした歌いこなしやアレンジ、そしてなによりアイドル歌謡(?)の世界からここまで深い部分まで掘り下げる野心や心意気などからしても、ナターリア・ラフォルカデには感心しきりなぼく。かわいいし。

2019/01/21

「どんな気分だい?」なんて言わないし 〜 マイ・フェイヴァリット・ディラン

 

 

ぼくのいちばん好きなボブ・ディラン、それは『ジョン・ウェズリー・ハーディング』(1967)と『ナッシュヴィル・スカイライン』(1969)の二枚だ。とても雰囲気が似ている。コンサヴァティヴ、というと拒否反応を示すロック・ファンもいそうだけど、そんなおやだかなムード、衣装がぼくはとても好き。落ち着いているし、ゆっくりくつろいでいるような、そんな音楽じゃないか。とがったところや激しさや攻撃性がない。だから、いま、この二枚がとっても好き。

 

 

曲のつくりもバンドの楽器編成や演奏スタイルも、この二枚ではよく似ている。基本カントリー(・ロック)なテイストで、ペダル・スティールやエレキ・ギターも隠し味的に入るけれど、根本的にはアクースティック楽器で編成されたおだやかサウンドだ。『ジョン・ウェズリー・ハーディング』のほうでは、ディランがハーモニカもたくさん吹く。

 

 

シンプルなラヴ・ソングがたくさん含まれているのも特色で、ぼくがこの二枚がとても好きだと感じる要素。たとえば、『ジョン・ウェズリー・ハーディング』にある「今宵ぼくは君のもの」(I'll Be Your Baby Tonight)、『ナッシュヴィル・スカイライン』にある「君とふたりっきり」(To Be Alone With You)、「今夜は君とずっといっしょにいるよ」(Tonight I'll Be Staying Here With You)などなど。

 

 

こんなわかりやすい恋愛曲を、おだやかでやさしくソフトな演奏と歌い口でディランがやってくれる。挑発的で好戦的な衣を脱いで、普段着のやわらかさを出した彼が、人生や生活で傷ついた聴き手のささくれ立ったつらいメンタルを、そっと慰撫してくれているかのような、そんな心地がする。

 

 

だから、今後もなにかあったら、この二枚を一個にしたプレイリストの、約1時間4分を聴こう。繰り返し繰り返し、聴こう。それで生きていける。

 

2019/01/20

渋谷エル・スールに捧ぐ(たぶん1月27日夜)〜 ミンガス、マイルズ&モア

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2019年も、今月、渋谷エル・スールにお邪魔することとなりました。大好きな歌手二名のコンサートが、なんと1月26日、28日と立て続けに東京都内で開催されますので。四泊程度の東京滞在となります。エル・スール店舗に顔を出せるのがいつになるか、まだはっきりしませんが、たぶん1月27日(日曜)の夜、晩ごはんを食べてから向かおうと、いまのところは考えております。

 

 

それで、エル・スール原田(プロレスラーのリング・ネームみたい)さんとのお約束で、なにか音楽 CD-R を焼いて持参することとなり、原田さんがチャーリー・パーカー以後のジャズがいいとおっしゃるのでマイルズ・デイヴィスと、それから Twitter で原田さんとこのお話をしていたときたまたま聴いていたのでチャールズ・ミンガスの、それぞれマイ・ベスト・セレクションをつくりました。+おまけでブルーズ・ロック・ギターのベストと、計三枚を持っていきます。

 

 

マイルズは1970年代電化ファンク時代のベスト。ミンガスは泥臭くブルージーにクッサく攻めているものを中心に。ブルーズ・ロック・ギターの一枚は以前このブログで書いたものとほぼ変わりません。三つ目にかんするくわしいことは、以下をご一読ください。

 

 

 

マイルズとミンガスのそれぞれ一枚は、いまだ書いていない新制作ものなので、曲目など以下に記しておきます。曲目だけでなく、付記したほうがいいかなと判断するデータはそうしてあります。そうですね、演者名は不要だから、曲名と、収録アルバムとその発表年(録音年は曖昧なばあいもあり)くらいでしょうか。内容の説明は今日はしません。

 

 

・チャールズ・ミンガス・ベスト

 

01. Ysabel's Table Dance (Tijuana Moods)1962

 

02. Better Git It In Your Soul (Mingus Ah Um) 1959

 

03. Cryin' Blues (Blues & Roots) 1960

 

04. E's Flat Ah's Flat Too (Blues & Roots)

 

05. Devil Woman (Oh Yeah) 1961

 

06. Ecclusiastics (Oh Yeah)

 

07. Hog Callin' Blues (Oh Yeah)

 

08. Oh Lord Don't Let Them Drop That Atomic Bomb On Me (Oh Yeah)

 

09. Invisible Lady (Oh Yeah)

 

10. Jelly Roll (Mingus Ah Um)

 

11. Flamingo (Tijuana Moods)

 

 

・マイルズ・デイヴィス電化ベスト

 

01. Sivad (Live-Evil) 1971 - edited by Toshima

 

02. Honky Tonk (Get Up With It) 1974

 

03. The Little Blue Frog [alt .take] (The Complete Bitches Brew Sessions) 1998

 

04. Johnny Bratton [take 4] (The Complete Jack Johnson Sessions) 2003

 

05. Archie Moore (The Complete Jack Johnson Sessions)

 

06. Sugar Ray (The Complete Jack Johnson Sessions)

 

07. Maiysha (Get Up With It)

 

08. Big Fun (1973 single A-side)

 

09. Holly-wuud (ibid B-side)

 

10. Minnie (The Complete On The Corner Sessions) 2007

 

 

ミンガス・ベストはすべて既発の公式音源を好みで並べただけ。マイルズ・ベストのほうは、1曲目の「シヴァッド」がぼくの手になる短縮編集作業を経たものなので、この世にこれでしか聴けません。それ以外はこっちも公式発売音源そのままです。

 

 

また、マイルズのほうで3、4、5、6、10曲目は、当時未発表で長年お蔵入りしていたもの。大部なボックス・セットではじめて日の目を見たものたちですが、なかなかどうして、おもしろいんじゃないでしょうか。8、9曲目はシングル盤で当時既発とはいえ、CD リイシューは2007年の『オン・ザ・コーナー』ボックスでが初でした。

 

 

あ、そうですね、ブルーズ・ロック・ギターの一枚も、いちおう曲目と演者名だけ記しておくことにしましょう。

 

 

・ブルーズ・ロック・ギター

 

01. Albert's Shuffle (2002 Remix Without Horns) - Mike Bloomfield, Al Kooper

 

02. Shake Your Moneymaker - Fleetwood Mac

 

03. I Ain't Superstitious - Jeff Beck

 

04. Have You Ever Loved A Woman - Derek & The Dominos

 

05. Merely A Blues In A - Frank Zappa

 

06. Cosmik Debris - Frank Zappa

 

07. I Can't Quit You Baby - Led Zeppelin

 

08. Stop Breaking Down - The Rolling Stones

 

09. The Sky Is Crying [Live] - Stevie Ray Vaughan

 

10. Red House - Jimi Hendrix

 

11. Purple House - Prince

 

12. The Ride - Prince

 

13. Matchbox - Paul McCartney

2019/01/19

ハバナのチャネー(ガリシア出身)

 

 

ジャケットに描かれている人物がチャネーことホセ・カストロ・ゴンサーレス(1856〜1917)だ。スペイン北東部ガリシア出身の音楽家で、キューバに渡り活躍、主に作曲家としての功績が大きいと言えるはず。いわゆる国民楽派っていうか、マヌエル・デ・ファリャ(スペイン)、エルネスト・レクオーナ(キューバ)、ルイス・モロー・ゴットシャルク(ニュー・オーリンズ)といった、ラテン/アメリカ音楽世界で、その19世紀末〜20世紀初頭ごろに出現した1グループに分類できるかも。

 

 

2017年はそんなチャネーのハバナでの没後100周年に当たるので、たぶんそれで企画されたのが、今日話題にしたい音楽アルバム『アバーナのチャネー』(Chané na Habana) だね。主役はチャネーのすばらしい曲の数々だけど、演奏しているのは、中心がキューバ出身のピアニスト、アレハンドロ・バルガスとその六人編成バンド。さらにカメラータ・エヘリアという弦楽隊が付き、女性歌手ローサ・セドロンがヴォーカルを担当している。

 

 

『アバーナのチャネー』は、2017年7月30/31日に、ガリシアのオーディトリアムでライヴ録音されたもので、しかしライヴ感はまったくと言っていいほどない。拍手や歓声は100%カットされているようだし、音響もライヴ・ホールのものじゃないような感じだ。また生演唱ならではのほころびもなく、でもこれは事前の準備に時間をかけたということだろう。

 

 

それから、なんたってこのアルバム『アバーナのチャネー』パッケージは豪華。音楽 CD は一枚なんだけど、それがていねいな薄緑色の草模様をあしらったケースに入り、西英二語によるブックレットは分厚くゴージャスで詳細(ページ数は打たれていない)。それらが、まるでキューバ特産の葉巻ケースを模したようなハード・ボックスにおさめられている。瀟洒な感じもあるが、それはまるでチャネーの音楽をそのままパッケージでも再現したかのよう。

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以下、演唱家たちのその内容というよりもチャネーの曲の内容に主に絞って、ぼくの好みな部分だけ、感想をちょこっとメモしておきたい。いや、でもホントこの『アバーナのチャネー』は一回目に聴いた第一印象が極上で、質のいいシルクの布をまとっているかのような肌ざわり。聴き込むうち徐々にイマイチかも?と思える部分も出てきたが、全体的にすばらしい内容であるのは間違いない。

 

 

ガリシアの民俗音楽にヒントを得てチャネーが書いたものも好きだけど、個人的にはキューバ音楽要素が気になるし、それこそ大好きだ。音階は必ずしもスペイン音階と限らないのがやはりガリシア出身のコンポーザーらしいところか。それでも随所にそれっぽい旋律は聴ける。でも、やっぱりリズムだなあ、ぼくには。

 

 

たとえば1曲目「A Foliada」もアフロ・キューバ系のビートを(軽く)持っているが、ローサの歌が出るとそれがいったん落ち着いている。しかし歌の後半部分でパッと変化して、リズムが快活なカリブ系のそれになってからは、弦楽のリリカルな響きもあいまって、とても見事な雰囲気だ。めくるめくようなメロディの動きも実にいい。

 

 

2曲目「Gaiteiriño Pasa」はボレーロ/モルナとされているが、これも含め、これ以後アルバムにあるボレーロ楽曲はどれも大好きだ。それはアバネーラ楽曲とも密接な関連がありそう。キューバにおけるアバネーラやボレーロの登場をいつごろと見るのかなかなかむずかしいが、チャネーのキューバ到着は1894年1月だから、どっちもすでにしっかりあったと見て間違いない。

 

 

チャネーは、そんなキューバ音楽要素を、渡玖前に、スペイン人作曲家がアダプトしたものからも学んでいたかもしれない。いずれにせよ、チャネーのボレーロ/アバネーラに聴ける優雅で典雅なムードはとてもすばらしい。3曲目「Os Teus Ollos」もボレーロだが、ぼくが(フィーリンにもつながっていくものとして)知っているキューバン・ボレーロほどリズムの8ビートなちゃかちゃか感はない。もっとゆったりゆるやか。

 

 

10曲目「Un Adiós A Mariquiña」でも同じ印象がある。これはボレーロ/コンゴとされている。コンゴっていうのは(音楽としての)コンガのことかなあ?そんな快活なリズムにも聴こえないから、別のなにかかもしれない…、と思って聴いていると、やはり後半部でにぎやかになってくる。がまあでも、全体的にとてもしっとりやわらかいソフトなフェザー・タッチだ。

 

 

そう、いま書いたことと、上でもちょこっと触れたけれど、ちょっとフィーリンっぽいんだよね、チャネーのボレーロは。これは演奏やローサのスムースな歌唱のおかげもあるのか、ちょっとわからないが、個人的印象としてはチャネーの楽曲そのものにフィーリンになりうる要素が宿っていたに違いないと思う。バラーダ(バラード)とされている4曲目「Luisa」にしても、アフロとなっている6曲目「Alalá」にしても、そう。フィーリンっぽいよ。

 

 

ところでこの「アララー」という曲はとってもいいね。アルバム『アバーナのチャネー』の全曲のなかで最大の好物かもしれない。あ、いや、あるいはアルバム・ラストの12曲目、アバネーラと記されている「Balada Inédita」かもなあ。ふたつとも大好物。「アララー」と「バラーダ・イネーディタ」は、どっちもガリシアのトラッド・フォークからモチーフを得たものだそうで、でもリズムはこれ、キューバのものだよなあ。ガリシア+キューバの合体美ってことか。すばらしい。

 

 

陽気で激しいビート・ナンバーも聴き逃せない。たとえば7曲目「Primeira Perda」(グアヒーラ)、8「Cantiga」(チャチャチャ)、9「Tangaraños」(コンガ・サンティアグエーラ)、そして11「Soledades」(メレンゲ)あたり。

 

 

どれもいいけれど、ぼくにとってすごく楽しいのが11「ソレダーデス」。こんな曲題だけどさびしさやわびしさはなく、これはほぼサルサ・ミュージックの先取り、100年近く前にそれを予告したかのようなワン・トラックなのだ。だから好き!ピアノの弾きかたにしてもまるでエディ・パルミエーリみたいだし、リズム・セクションのビート感にしてもそう。ティンバレスでも入っていれば完璧だったが、そこまでは望むべくもない。がしかし、しっかりキューバ発祥で花開いたものが聴こえているよ。

2019/01/18

2018年も快進撃だったフェミ(1)〜 ややフェミニンなの?

 

 

(2)をいつ書くかはまだぜんぜんわかりません。

 

 

フェミ(・オルン)・ソーラーの快進撃が止まらない。昨2018年にも二枚の新作をリリース。いまぼくの自室にも、その『オン・ストリート』と『スウィートネス』がある。どっちもよかった。今日はナイジェリアで昨年五月のリリースだったらしい『オン・ストリート』のほうだけちょこちょこっとメモしておきたい。それにしてもナイジェリア盤 CD って、パッケージがどうしていつもこんな糊付け甘いんでしょうか?買えて聴けるんだから文句言えませんけれども。

 

 

『オン・ストリート』はわずか36分程度で、しかもぜんぶがひとつながりのワン・トラック。ジャケ裏には Tracks と題し五つの曲名が記されているが、これってメドレー形式ってことでもないような気が、ぼくが聴いてわかる範囲では、する。いちおう五曲メドレーってことなんだろうけど、なにもわかっていないぼくには36分間ぜんぶで「一曲」にしか聴こえないんですゴメンナサイ。

 

 

だってね、『オン・ストリート』では一度も曲調が変わらないままずっと最後まで続いている。快活で陽気に跳ねるような元気満々のグルーヴで貫かれているよね。それがね、聴いていると楽しいったら楽しいな。楽器編成は、複数ギター、ドラム・セット、複数トーキング・ドラム、各種パーカッション類といったあたりかな。バック・コーラス隊もいつものようにいる。

 

 

しかしいつものフェミの作品と異なっているのは、リード・ヴォーカルにゲストが迎えられていることだ。ジャケ表にフィーチャリング・イドウ・サンタナと書いてあるのがきっとそれだ。でもこのひと、だれなんだろう?エル・スール原田さんでもほぼなにもわからなかったと HP でお書きだから、まあ謎の人物なんですな、きっと。フェミとは声質も節まわしも違ってややガサついているので、二名の聴き分けは容易。

 

 

イドウは『オン・ストリート』の最初から最後までどんどん参加しているが、やはりそれでもあくまで主役はフェミだ。このやや甲高く軽やかなジュジュ声こそフェミの持ち味で、やさしさをもぼくは感じとっていて、そのやわらかな感触はフェミニンですらあると、ぼくだったら思う。ジュジュ・ミュージックの主役歌手に対しふさわしくない形容かもしれないが、そもそもキング・サニー・アデにだってぼくはこれを感じていた。

 

 

だから、ぼくにとってのジュジュ・ミュージックとは、この野太い、まあ野生的な、しかし、でありかつ細やかにすみずみにまで神経を配って組み立てられた洗練リズム・アンサンブルの上を、エレキ・ギターがヒュンヒュン飛んで、最上層に主役歌手のソフト・タッチな女性的ヴォーカルがふわっと乗っているという、そんなイメージというか、そんなところが魅力なんだよね。

 

 

ジュジュとかフジとか、ナイジェリアのこういった種類の音楽について、こんなことを言っている文章に出会ったことがないので、ぼくだけのおかしな印象かもしれない。でも個人的には間違いない実感なんだよね。すくなくともフェミのジュジュというか、ジャサは、フェミニンにやさしい。

 

 

もちろんパーカッシヴなリズム・アンサンブルの躍動感、隙のないサウンド・メイクが土台にあってこそだけどね。

 

 

2018年のフェミは二枚目の『スウィートネス』も最高だったし(こっちは Spotify にもあり)、今日書いた『オン・ストリート』も楽しくて、36分間ワン・トラックだしで、あっという間に聴き終えてもう一回!とリピートする快作だ。

2019/01/17

ひとり書き For No One

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音楽をどんどん聴くのは、もちろんだれのためでもない自分のため、というかためでもなく、ただたんに聴きたいからだ。しかしまあ、ためというか自分にとっての効用みたいなことはあるように感じている。なんだか気分がダウンなとき、肉体的になんらかのつらい状況にあるときなどなど、好きな音楽に聴き入ることで、ある種の救い、とまで言わないまでも強い癒しになっているのは間違いない実感。むろん、べつになにもない平穏で楽しい時間にだってどんどん聴いている。つまり、いつでも音楽といっしょ。

 

 

そうやってどんどん聴いて、それについて毎日どんどん文章を書き、公開するというのは、しかしいったいぼくはなんのため or だれのためにやっているのだろうか?まあこれも露出狂趣味のナルシストであるぼくだから、書いて見せるという行為が快感なだけだからっていうのが最大の理由だろうなあ。たんに、楽しいんだ。

 

 

最初ぼくはブログをはじめるつもりはなかった。はじめたのは2015年9月3日だけど、その約半年ほど前から音楽について書いてはツイートする、ほぼ毎晩のように、ということを続けていた。あれはいったいどうしてはじまったのか?などという問いを立ててみることも無意味だろう。音楽好き&おしゃべり好き人間だから、どんどん聴いている音楽についてたくさんしゃべりたい、ぼくにとってそのための場は Twitter しかなかったというだけだ。

 

 

Twilog というウェブ・サーヴィスがあって、ツイートをぜんぶ記録してくれる。検索も容易だから、ずいぶんと助かっている。2015年の春先あたりから音楽投稿をどんどんやるようになり、しかし Twitter はひとつのツイートが140文字までという制限があるから連続ツイートになる。タイムラインだと次々と流れていってしまうので、あとからさがして読みなおそうと思ったら Twilog が便利なのだ。

 

 

それで Twilog で自分の音楽ツイート連投を拾い、一つの話題についてのものを一個のテキスト・ファイルにまとめていた。最初は Twitter に投げっぱなしであとから Twilog で拾うというやりかただったんだけど、そのうち、たくさんのツイートじたいを保存しておいて、そのままテキスト・エディタにまとめて貼り付けてまとめるということをやりだした。ドラッグ&ドロップで。

 

 

そうしてできあがり保存してある音楽文章のテキスト・ファイルが、ぜんぶで150個ほど(だったと思う)たまってきて、これをこのまま死蔵したままでいいのだろうか?もったいないんじゃないだろうか?いや、べつにどなたに見せるとかいうんじゃなく、自分自身のために、ブログみたいな、別のなにかでもよかったんだけど、なんらかのものにして公開していけば楽しいかも?と考えるようになった。

 

 

これがこのブログをはじめた動機。だから文章を書きはじめてからブログをはじめる2015年9月3日までにすこし時間が経過していた。貯金が150個近くもあって、その上さらに休まず毎日連続ツイートしているんだから心配ないと思い、毎日更新するということを決めた。これにかんしては現在テキスト・ファイルの貯金が28個になっているので、ちょっとがんばらないといけないのかも。

 

 

ブログに毎日上げるようになってしばらく経ってからは、そもそもの書きかたが変化して、連続ツイートというより最初からブログ用にと考えて書くようになったけれど、しかしそうなってもやっぱり書くのは Twitter アプリ(Mac用でサード・パーティ製のやつ)のテキスト入力フィールドを使ってだったというありさま(笑)。140字という字数制限があるので、それくらい書いてはエディタに保存し、続きをまた Twitter アプリの文字入力欄で書くっていう、なにやってたんだぼくは(苦笑)?

 

 

これをやめ、もちろんいまでは最初からテキスト・エディタ(Jedit Ω)で書いているんだけど、それをもとに、やはり Twitter での連続投稿はやっている。ツイートしたものをそのとき一個一個見ながらが最終校正になるんだよね。これはちょっと不思議なようなそうでもないのか分からないが、エディタ画面で見てわからない細かな書きミスに、ネット投稿済みのものを見れば気づくっていう、ホントこれ、なんで?

 

 

そんな連続ツイートに反応があったり、完成品をブログに上げたお知らせをツイートしたものに反応があったりと、なにか目に見えるものや、そうでなくともひそかに感じられるちょっとしたものでもあれば、もちろんうれしく励みになる。この nifty のココログには<いいね>ボタンみたいなものがないんだもんなあ。はじめる際にそこまではまったく思いがおよんでいなかった。

 

 

だからつまりこれ、このブログ内に限れば、コメントが付く以外の反応はいっさいわからない仕組みになっている。<いいね>ボタンでもあるようなブログ・サーヴィスを選べばよかったのだろうか?

 

 

でもしかし、一時期そんなふうに感じていたものの、最近、そう、ここ半年くらいかな、これはいっさいなにもないほうがぼくにはいいのであるとわかるようになった。Twitter や Facebook にブログ更新のお知らせを書き、それに反応があるときは、もちろんすごくうれしく幸せだ。でも、なにもなくたってかまわない。

 

 

つまり、反応がないばかりか、どなたが読んでくださっているだとか、そもそもどんな層が読者であるとか、あるいはそういったもの、つまり読者を想定しながら書くことだとか、そんなこと諸々、ぼくには、いっさい、関係ない。やっていないし、考えすらもしなくなった。読者はまったく想定せずに書いている。

 

 

ぼくはだれのためにも書いていない。For No One。だれにも見られていないと自覚するようになっている。それに、そう思えばなんだって書けるし、筆が乗らない日にこんなつまらないものしか書けなかったなと思っても、躊躇なくブログで公開できる。それも正直な記録なんだしね。

 

 

すべては自分のためだ。自分ひとりで音楽を聴き、自分が読むために文章を書き、自己満足のために公開する。今日のこの記事だってそうなんだよ。

2019/01/16

ルー・ドナルドスン with レイ・バレット

 

 

いま部屋にあるルー・ドナルドスンのアルバムのうち、コンガでレイ・バレットが参加しているものだけ拾ってみたら、『ブルーズ・ウォーク』『ライト・フット』の二枚だったので並べてみた。どっちも当然ブルー・ノート盤で、1958年録音で、編成も同じワン・ホーン・クインテット。なんだか似たような傾向の作品だね。しかもレイ・バレットが参加していないアルバムとは、やはり違いがあるよ。

 

 

レイ・バレットとは、つまり例のコンガ奏者なんで、自身はニュー・ヨークで生まれ育ったとはいえ両親がプエルト・リカン。ファニア・オール・スターズにも参加し、かのチーター・ライヴでも演奏している。そのころがレイの音楽人生最大の成功期かなあ。ルー・ドナルドスンとやったのは1950年代末だからまだまだどうってことないけれど、それでもこのストレートなモダン・ジャズ・コンボに色彩感を与えていると言えるのかもしれない?

 

 

『ブルーズ・ウォーク』『ライト・フット』の二枚では、疑いなく前者のほうが評価が高い。そもそもストレート・ジャズをやっているルーの代表作とみなされているよね。たぶんビ・パップ・ルーツがまだ鮮明だからじゃないかと思う。個人的な好みを言わせていただければ『ライト・フット』に軍配をあげたい。なぜなら、より泥臭く、ブルーズ/リズム&ブルーズ寄りで、しかもラテン・タッチもちょっとだけあらわになりつつあるからだ。

 

 

そんなわけで、あたかもレイ・バレット参加のちょっぴりラテン寄りモダン・ジャズの話をするかのように見せかけながら、その実、以下では特にそれにこだわらず(なぜかって、さほどのことにはなっていないような)、ふつうのストレート・アヘッドなジャズ・アルバムとして『ブルーズ・ウォーク』『ライト・フット』についての個人的感想メモを書いておこう。

 

 

『ブルーズ・ウォーク』のほうがまだビ・バップ的っていうのは、何点かに見受けられることだ。選曲でもデンジル・ベストの「ムーヴ」があったりするし、それ以上に主役アルト・サックス奏者のスタイルが、まだまだ直接的にチャーリー・パーカー的そのままじゃないか。引用句までそっくりだしね。それでも「オータム・ノクターン」みたいな曲ではしっとりとした艶を聴かせ、1曲目のアルバム・タイトル・チューンでは、レイ・バレットのおかげかそうでないのか、ちょっぴりふだんとは雰囲気の異なるブルーズ演奏に聴こえなくもない?

 

 

ブルーズ演奏といえば、やっぱりこの点こそ『ライト・フット』で大きく変化している部分で、この二枚の特徴を分かつところ。つまり2曲目の「ホグ・モウ」。これしかし、Spotify のではなぜだか存在を抹消されているがマスター・テイクの前に「フォールス・スタート」があるのがいままでのフィジカル・アルバム。なかなかいい雰囲気のスタジオ・トークだから、ストリーミングで聴けないのは不可解だ。

 

 

それはいい。「ホグ・モウ」。これはもうドロドロに泥臭いという意味でのファンキー・チューンまっしぐらで、いくらブルーズが得意なルーでもここまでのものはやったことがなかったはず。1958年だと、同じモダン・ジャズ・アルト奏者でもキャノンボール・アダリーですらやったことがあるかないかといったあたり。実にクッサァ〜!大好きだこういうの!ヾ(๑╹◡╹)ノ

 

 

こんなスローでクッサいファンキーなストレート・ブルーズ「ホグ・モウ」では、ルーもいいがピアノのハーマン・フォスターがさすがの水を得た魚。バッキングにソロにと、特にブロック・コードでぐいぐい攻めるあたりのクッサいブルージーさが、ブルーズ大好き人間にはこらえられない旨味なんだよね。ちょっぴり「アフター・アワーズ」のエイヴリー・パリッシュ系だね。個人的にはこういった跳ねるジャズ・ブルーズこそ、最高の大好物。

 

 

アルバム『ライト・フット』には、まだまだ(ブルー・ノート・)ブーガルーには遠いけれど、ほんのかすかにラテン・ジャズのタッチを感じるものが二曲ある。3曲目「メアリー・アン」と4曲目「グリーン・アイズ」。前者はレイ・チャールズのラテン R&B ソング。後者はジミー・ドーシー楽団のもの(1941年)だけど、曲はキューバ出身のニロ・メネンデスが1929年にスペイン語題で書いたもの。

 

 

ちょっぴりアフロ・キューバンを香らせたかと思えば、演奏の大半はラテン・タッチを捨てストレート・ジャズになってしまっているとはいえ、こういった二曲に目をつけるということじたいが、ルー自身が変わりはじめていたか、レイ・バレットの助言でもあったのか、あるいはそもそもそんな時代だったということか、よくわからないが、おもしろいところじゃないだろうか。期せずして、これら二曲ではアルバムのほかの曲よりもバレットのコンガが目立っているような?そうでもない?

 

 

まぁこのあたりは、むかしもそうだし、たぶんいまでも、真っ正直なストレート・ジャズ愛好家は評価してくれないところなんだ。残念きわまりない。もっと時代がくだってルーが『アリゲイター・ブーガルー』を録音・発表したり、そもそもその周辺の、つまり昨年来繰り返している #BlueNoteBoogaloo の動きとか、ってことは要するにハービー・ハンコック「ウォーターメロン・マン」(1962)、リー・モーガン「ザ・サイドワインダー」(1963)につながっているわけだから、するってぇ〜と1970年代のジャズ・ファンクに流れ込んでいるだとか…。サルサ勃興の動きとも同時代で共振していただとか……。

 

 

あんまりこんなことまでルー・ドナルドスン with レイ・バレットの話で書くのはやりすぎかもしれないんだけど、でもたまにはさ、フツーのジャズ・ファンのみんなにも考えて聴きなおしてみてほしいと思うんだよ。ジャズのなかのラテンがいったいなんだったのか?それがどういうことで、結果どんなものを生み、なにとつながっていったのかをね。

2019/01/15

カッコイイなあ、エルヴィス『オン・ステージ』

 

 

超カッコいいエルヴィス・プレスリーのライヴ・アルバム『オン・ステージ』(1970、RCA)。しかしこれ、エルヴィスの名がジャケットのどこにもないよね。1970年だとそれほどのイコンと化していたってことだね。いまぼくが持っていて聴いているのは1999年リリースの拡大盤で、全16曲。しかし上でリンクを貼った Spotify のはオリジナルどおりの10曲でたったの30分間。 内容がいいから、いくらなんでも短すぎるんじゃないかと思うんだけど。でも疾風のように吹き去って、それもいい。

 

 

拡大盤のトラックリストは以下のとおり。

 

 

01. See See Rider

 

02. Release Me

 

03. Sweet Caroline

 

04. Runaway

 

05. The Wonder Of You

 

06. Polk Salad Annie

 

07. Yesterday / Hey Jude

 

08. Proud Mary

 

09. Walk A Mile In My Shoes

 

10. In The Ghetto

 

11. Don't Cry Daddy

 

12. Kentucky Rain

 

13. I Can't Stop Loving You

 

14. Suspicious Minds

 

15. Long Tall Sally

 

16. Let It Be Me

 

 

ぼくにとってのエルヴィス『オン・ステージ』は、まず一発目の「シー・シー・ライダー」(伝承ブルーズ)で爽快かつ軽快にかっ飛ばすクールさにやられてしまうっていうのが正直なところ。それから6曲目の「ポーク・サラッド・アニー」(トニー・ジョー・ワイト)だなあ。ふたつともカッコよすぎる。ロックはレベル・ミュージックだなんて勘違いしている向きには、このへんの時期のこんなエルヴィスは絶対に受け入れられないだろうなあ。わっはっは。

 

 

1970年のオリジナル・リリースのレコード10曲だと、当時エルヴィスのイメージがついていない曲ばかり収録したという側面もあったようだ。Spotify にあるやつで追体験してほしい。ぼくもそうしている。現行の拡大盤 CD だと「イン・ザ・ゲトー」「ケンタッキー・レイン」「サスピシャス・マインド」などもあるので、この印象は弱くなっている。だから1970年のレコード発売時の会社の目論見はややわかりにくくなっているかも。

 

 

それでも、チョ〜カッコいいと思う「シー・シー・ライダー」「ポーク・サラッド・アニー」(やっぱりこの二曲がぼく的には『オン・ステージ』の白眉)なんかはやはり新鮮。後者はコンテンポラリー・ソングだったけど、前者の伝承ブルーズ・ソングはだれの提案・選曲だったんだろう?ホ〜ント古い歌なんだよね。レコードでの初演は1924年の女性歌手マ・レイニー。以前、記事にしたことがある。

 

 

 

つまり、自分のパートナーの浮気癖で悩み悶々とし問い詰め嘆き苦しむという歌なのに、『オン・ステージ』幕開けのエルヴィス・ヴァージョンの爽快さったらないね。ホント選曲者を知りたいが、アレンジャーがだれだったのかはもっと知りたいぞ。バンドの演奏もいいが、もっといいのがエルヴィスのさっぱりした歌い口だ。どこにも浮気性な女を問い詰める苦悶なんか感じられない、爽やかロックンロールだ。こうしたガラリの変貌も、音楽のおもしろさだね。

 

 

アダプト、アレンジがいいっていうのは『オン・ステージ』全体について言えること。エルヴィス本人がどこまでこのラス・ヴェガスでのショウの構成にかかわっていたのかわからないが、想像するに音楽監督みたいな役割の人物がいたに違いない。ショウのプロデューサーってことかな。それで、それまでエルヴィスが録音したことのない、エルヴィス色のついていない曲を選ぶことになったのだろう。それをこんなふうにやってみようとアレンジ&プロデュースした人間の実力がかなり高かったんだと思う。

 

 

しかしエルヴィスはたんに上に乗っかっているだけの人形なんかじゃない。それまで自身が歌い込んだことのない数々の曲を、『オン・ステージ』を聴けばあたかもむかしからのおなじみレパートリーであるかのように楽々、軽々と(と聴こえるのがすごい)歌いこなしているじゃないか。凡百の歌手には不可能なことなんだよ。

 

 

つまり、裏方で音楽をプロデュースする人間の力、フロントに立つスター歌手の実力、そしてひるがえって曲そのものの魅力、それを書いたソングライターの真価までも、手に取るようにわかってしまう 〜 それがエルヴィスの『オン・ステージ』なんだよね。いやあ、すばらしいアルバムじゃないだろうか。たんに一発目の「シー・シー・ライダー」があまりにカッコよくて快感なだけでぼくはハマった一枚だけど、考えてみればすごいことをみんなやっている。

 

 

ラス・ヴェガスなんかでやっているこういった種類の音楽エンターテイメント・ショウのことは、わりかし鼻で笑ってバカにしているシリアスな音楽リスナーが多そうな気がしているけれど、とんでもない話だよ。(当時の)現役トップ・プロたちの一流のエンターテイメントは、最高におもしろく楽しくすばらしい。

2019/01/14

あなたはいずこ?(4分19秒の宝石)

 

 

聴いてほしい、このクリスチャン・マクブライド(ジャズ・ベーシスト)のアルバム『カインド・オヴ・ブラウン』ラストの「ウェア・アー・ユー?」を。なんて美しいことか。こんなにも美しいジャズ・ベース演奏、特に弓弾きでのそれは聴いたことがない。あぁ、美しい…。

 

 

クリスチャン・マクブライドの『カインド・オヴ・ブラウン』(2009)というアルバムは、全体的にはどうってことない凡庸な一枚だ。退屈だと言ってしまってもいいくらい。「ウェア・アー・ユー?」を除いては。ぼくとマクブライドとの出会いのこと(トーニックでのライヴ盤三枚組)や、このベース奏者の非凡さをどう考えているかなど、諸々、今日はいっさい省略。「ウェア・アー・ユー?」の、この世のものとは思えない美しさに酔えば、それでいいのではないだろうか?

 

 

クリスチャン・マクブライドの「ウェア・アー・ユー?」はピアノ(エリック・リード)とのデュオ演奏。曲はジミー・マクヒュー&ハロルド・アダムスンの手になるもので、1937年の映画挿入歌。その後多くの音楽家がやってスタンダード・ソング化している。アリーサ・フランクリンの、それからなんとボブ・ディランの、ヴァージョンもあるんだよ。

 

 

曲題で察せられるとおり、好きな相手が自分のもとを去っていってしまい、あなたはいまどこにいるのですか?わたしをおいてひとりぼっちにしてどこへ行ってしまったのですか?と悲痛な嘆きを歌ったもの。という歌詞なんだけど、メロディの動きはひたすら美しく、失くしてしまった愛を、いまだ傷癒えぬとはいえ、きれいな想い出に昇華しつつあるような、そんな旋律だよね。っていうかね、こんな端正なメロディだからこそ、この失恋の痛みがいっそう強く聴き手に沁みてくるのかもしれない。

 

 

クリスチャン・マクブライドのヴァージョンはかなりテンポを落とし、リリカルすぎるピアノ・イントロに続きマクブライドが弓弾きで入ってきた瞬間、その音色のあまりの美しさに涙がこぼれそうになってしまう。ロスト・ラヴ・ソングだという歌詞のこの内容をこれ以上ない耽美さで表現できているアルコ弾きサウンドじゃないかな。

 

 

3:15〜3:18 において、音をぐいぐい折り重ねるあたりで、ぼくは感極まってしまって、いまだになんかい聴いても涙腺がウルウルってなっちゃうんだよね。しかもその折り重なった次の瞬間にサッと転調しちゃうもんだから、もうダメだ涙腺崩壊。こんな展開、ずるいよ〜。あまりにもきれいすぎる。弓弾きでここまできれいに聴こえるっていうのは、クリスチャン・マクブライドの最高級の技巧ゆえだけどね。特に音程が正確きわまりない。コントラバスではむずかしいんだ。

 

 

クリスチャン・マクブライドの「ウェア・アー・ユー?」。一曲をとおし、伴奏のピアニストも主役ベーシストも、この失愛の歌を、ひたすらていねいにていねいに、やさしくやさしく、そっとそっと撫でるように、そんな心持ちで、まるで大切なものを両手で胸にそっと抱え持つように、心をくだいて演奏しているなとわかるので、とってもいいよねえ。

 

 

いやあ、こんなにも美しいジャズ・べース演奏は、ぼくは、聴いたことがないよ。この「あなたはいずこ?」、折に触れて聴いて、感嘆のためいきをもらしている。

2019/01/13

ここはいまどこ? 〜 どうして iTunes や Spotify で聴くか

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Spotify に同じものがある CD は、最近 iTunes にインポートしなくなった。昨年末に書いたブラジル三題だってぜんぶ CD を買ったけれど、Mac には入れず、CD で聴くか Spotify で聴くかだったんだよね。マライア・キャリーとマイルズ・デイヴィスの関係を書いたあたりからそうなったし、そのほか、どんどん増えている。 CD で聴けるんだから Spotify で聴かなくたって…(あるいはその逆)、と思われるかもしれないが、これにはぼくなりの理由がある。

 

 

それで、最近は CD で聴いてこりゃあいいね〜となった音楽をMacの iTunes に取り込まず、まず Spotify で探して、あればそのまま save する。あるいは Apple Music でもいい、どうしてもストリーミング・サーヴィスで見つけられないばあいだけ CD を Mac にインポートするということになった。上段と同じことを書いているけれども、一面、MacBook Pro の内蔵ストレージの空き残量が激減しているせいでもある。

 

 

要するにブログで記事にしたいとか、そうじゃなくともちゃんと聴いて考えたいとかって思ったものは、iTunes で聴けるか Spotify で聴けるかのどっちかにはするっていう意味なんで、これがいまのところはぼくにとって必須なのだ。画面上でトラックリスト、プレイリストを見ながら再生中の場所を把握しながら聴けること、いま耳に入っているのは何曲目の何分何秒目か、など、こういったことがわかるのが個人的には不可欠。

 

 

また一定部分だけを反復再生したり、違う(ひとの)アルバムに収録されている同じ曲を抜き出して一堂に集めて聴きたいとか、一個のアルバムやプレイリストで三曲あとのものを連続再生したいとか、別な音楽家の別な曲へ次はそのまま飛びたいとかなどなど、まあこういった自在な聴きかたが iTunes や Spotify では簡単にできちゃうのだ。それらをやることが、毎日書いている文章の土台になっている。

 

 

CD (や配信)で聴けるアルバムをそのままとらえてストレートに聴いて考えることができたらいいなと、本心からそう思うんだけど、たとえばはじめて聴く作品など収録曲がわからないし、どんな順番でどんな曲が流れてくるか頭に入っていないわけだから、そんなばあい、CD プレイヤーのディスプレイ部表示だけでは情報不足なんだよね、ぼく的には。

 

 

たぶんみなさんは CD ジャケット裏とか附属リーフレット or ブックレットなどに記載のある曲目表などを眺めながらそれをおやりなんだろうと思う。ぼくだって長年ずっとそうだったし、いまから20年以上前に音楽誌に原稿を書いていたころはそうしていたはずなのに、iTunes の便利さに慣れたら戻れなくなっちゃった。当面は。あっ、iTunes って元来 iPod に音楽を入れるためのアプリだったんだっけ?

 

 

ネット配信で音楽が聴けるようになって、まあ Apple Music その他でもいいんだけど Spoify でも画面上にトラックリスト、プレイリストが表示されるので眺めながら聴けば、まったく未知のアルバムでもいま何曲目のなんというものを再生中なのか、いま自分はどこらへんあたりを聴いているのかが瞭然とするのがいい。これがなかったらぼくの文章もないんだ。

 

 

こんなこと、むかしから耳タコになるまで繰り返し聴いていてよく知っているアルバムだったなら問題ないわけなんだよね。CD をプレイヤーのトレイに乗せてそのまま再生すれば、いま自分がどこを聴いているかだって、その瞬間瞬間にぜんぶわかる(はずだけど、たまにボーッとしていて見失う)。はじめて聴く、まだ繰り返し聴いていないものだと、そのへんがただ CD で聴くだけだとわかんないでしょ〜?違う?みんなどうしてんの〜?

 

 

べつに分析的な聴きかたをしたいとか、それができているとか、そんな意味じゃないんだよ。いま、自分が、どこにいるか?:これを常に確認しながら進みたいだけなんだ。ふつうに聴いてさ。未知の世界だとそれがわかりにくなるばあいも、ある、ぼくは。だから CD よりも現状確認が容易な iTunes や Spotify で聴く。それだけ。CD で同じことができるなら、そっちのほうがいいんだけど。だれかやりかたを教えてください。

 

 

あと、かなり重要な一点がある。CD そのままでは素人にはまず不可能なことが iTunes や Spotify では簡単にできる。それはマイ・ベスト的なプレイリストを作って聴けるということ。この、自家製セレクションがあっけないほど簡単にだれでもできるというのは、本当に楽しいことなんですよ。

2019/01/12

ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ(2)〜 ゴスペル篇

 

 

2018年のダスト・トゥ・デジタル盤『ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ:アーティスツ・アンド・ミュージシャンズ・ドキュメンティッド・バイ・ウィリアム・フェリス』二枚目のゴスペル篇もビル・フェリスみずからの採取で、録音時期は CD1のブルーズ篇とほぼ同じ1966〜78年。

 

 

収録されているゴスペル・ソングは、教会での合唱(マス・クワイア)もあれば、教会のサーヴィス現場での音楽を録音したのかと思えたりするものもあり、また少人数編成(しばしば家族グループなど)による、いわゆるカルテット・スタイルにやや近いようなものもあり、さらにひとり(かごく少人数)での弾き語りブルーズと区別しにくいような、すなわちギター・エヴァンジェリスト的スタイルでやっているものもある。

 

 

実際、かなり大きな歓声と拍手が飛んだりするトラックも多いし、そうでなくとも音響があきらかに教会でのそれだとわかるものだってあるので、そういったものはやはり教会やどこかの集会場みたいなところでのゴスペルの現場録音なんだろうね。と思ってからブックレットを読んでみたら、やはりそうだった。ぜんぶ録音場所や教会名が記載されてあるじゃないか。最初から見ておけばよかった。

 

 

『ヴィイシズ・オヴ・ミシシッピ』CD2収録のゴスペル録音も全体的に大いに楽しめるものだけど、ものがものだけに、うんまあ CD1のブルーズだって日常生活での現実的効用があったと思うんだけど、CD2のゴスペル篇だとそれがより一層顕著だと、聴けばわかる。

 

 

まったく救われないだとか陽がささないだとかあなたの罪だとか、そういった歌もたくさんあるが、そう歌うことにより、ある種のカタルシスを得るものなんだろうし、もっと違った種類の、前向きの肯定感、生きる意味を強く再確認して喜びを歌いあげているようなものは、激しいビートをともなっていてもいなくても、強く高揚する。そういった直截的にポジティヴなゴスペル・ソングが、ぼくは本当に好きなんだ。

 

 

南部ミシシッピの黒人民俗共同体内部でも、やはり同じような高揚があって効用が働いていたはずだ。『ヴィイシズ・オヴ・ミシシッピ』CD2収録の、教会や集会場、公民館みたいな場所での現場録音ものなどだと、それがクッキリと伝わってくる。それに、そんな<ゴスペル>の意義なんか抜いても、たんに、純に、ビートの効いた音楽として、聴いて踊れば快感だ。そう、実にダンサブルなんだよね。

 

 

この一枚のなかで、ぼくにとって特に高揚するやつが、以下の五曲。

 

 

・You Don't Know Like I Know

 

・So Glad I Got Good Religion

 

・I Know The Lord Will Make A Way (Yes He Will)

 

・We're So Glad To Be Here

 

・Glory, Glory (Lay My Burden Down)

 

 

なかでも二曲、「ユー・ドント・ノウ・ライク・アイ・ノウ」「グローリー、グローリー(重荷をおろす)」だなあ、カッコイイのは。なんなんだこの昂まりは。実際、このふたつを聴くと、自室のなかでぼくはどんどん激しく腰や膝や肘、腕、指を動かしてダンスしている。こうやって(アメリカ南部黒人も)日常の辛苦を忘れていくのだな。

 

 

いずれも伴奏楽器は必要最小限しかなく、だいたいがヒューマン・ヴォイスとハンド・クラップで構成されているサウンドも、素朴なようでいて、実は21世紀的にも卑近なアピール力を持っているかのように聴こえる。「グローリー、グローリー」のほうなんか、現場会衆はもちろん CD(や配信)で聴くだけの聴衆をも、有無を言わさず納得させるだけのものがあるなあ。

 

 

ものすごいのひとことだけど、南部黒人フォーク・ライフのなかにある説得力が普遍性を持つということなんだろうなあ。すなわち、生きるということ。それが持つパワー。

2019/01/11

ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ(1)〜 ブルーズ篇

 

 

ジャケット写真にいるドクロを持った人物は、ブルーズ・マン、ジェイムズ・’サン・フォード’・トーマス。この2018年のダスト・トゥ・デジタル盤『ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ:アーティスツ・アンド・ミュージシャンズ・ドキュメンティッド・バイ・ウィリアム・フェリス』の録音編纂者の長年の友人で、地元ミシシッピのブルーズ・マンにしてスカルプター。

 

 

ウィリアム・フォークナーとボビー・ラッシュが仲良くすわっているようなそんな世界の住人だったウィリアム・フェリス。ミシシッピはヴィックスバーグに1942年に生まれ、人生のすべてをアメリカ南部のフォークロア採取・研究に捧げてきた。フォークロア・リサーチ、オーディオ・レコーディング、文献記録、写真撮影、フィルム・メイクなど、ひたすら南部の声を記録し続けてきたのだった。

 

 

このディケイドで三冊の本も出しているボブ・フェリスだけど、ダスト・トゥ・デジタルからディスク四枚と大部のブックレットで出版された『ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ』は、主に音楽などオーディオ面における彼のサザン・フォークロア採取の集大成と言えるはず。いくら生まれ育った土地と環境であったとはいえ、相当な愛情熱がないと、ここまでのものにはならないはず。すごい、のひとことだ。

 

 

ダスト・トゥ・デジタル盤『ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ』のディスク3はストーリーテリングで、ディスク4はドキュメンタリー・フィルム。それらもおもしろいんだけど、こんなボックス・セットのすべてを扱うのはぼくの能力を超えている。ブックレットの文字情報も写真類も考慮外に置くしかない。だから一枚目のブルーズ篇と二枚目のゴスペル篇の、わかりやすく音楽的な部分だけに絞って、今日、明日の二日で二枚をそれぞれ短く簡単にメモしておきたい。

 

 

『ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ』CD1のブルーズ篇は、おおよそ1960年代末〜70年代半ばの録音で、フレッド・マクダウェルみたいな超有名人もいるにはいるが、アノニマスに近いような存在だって多い。あるいはブルーズ・マン、ウーマンなどと呼ぶのもおかしいのかもしれない。つまり、ミシシッピの黒人のふだんの日常生活にそれがあって、そこいらへんのおっちゃん、おばちゃんがちょろっと(たぶん毎日の生活でそうしているように)ブルーズをやってみただけのものを、ビル・フェリスは録ったのだろう。

 

 

だからまさにフォークロアっていうかフォーク・ブルーズなわけだけど、CD でお持ちでないかたも上のアルバムでちょっと聴いていただきたい。アメリカ黒人ブルーズ、それも商業化されたポピュラー・ブルーズのファンなみなさんなら聴き憶えのあるものがかなり混じっているはずだ。「ブギ・チルン」だったり「スタッカリー」だったり「アイサイト・トゥ・ザ・ブラインド」だったり「ダスト・マイ・ブルーム」だったり「リトル・レッド・ルースター」「ミステリー・トレイン」だったり、まだまだあるが省略。

 

 

それらは必ずしもそういった曲題が記載されていない。そもそもこの CD1に収録されているブルーズ録音が、いったいどういったもので構成されているかをちょっと考えて整理してみたのが、以下のとおり。

 

 

1)過去から受け継がれた南部ミシシッピの口承伝統、それを演者個人がパーソナライズしブルーズとして歌ったもの

 

 

2)同じような伝承レパートリーから、過去に先人ブルーズ・マンが商業録音し、スタンダード化したばあいもあり

 

 

3)過去何十年にもわたりなんども商業録音されていたポピュラー・ブルーズが、ここでひとつのフォーク・ヴァージョンとなっている

 

 

4)ここに収録されている演者のオリジナル・コンポジション

 

 

だいたいこれくらいかな。何曲目がどれみたいな指摘はむずかしいばあいもある。たとえば「スタッカリー」なんかはもちろん口承伝統のお話で、実にさまざまなヴァージョンがあるとみなさんご存知のとおり。ひょっとして「リル・ライザ・ジェイン」も、かのヒューイ・スミスがやったものは、ここに収録されているフォーク・トラディションが土台だったのかも。

 

 

いっぽう「ミステリー・トレイン」として知られているここでの曲名「トレイン・アイ・ライド」なんかは、ぼくの考えでは、もともとポップ・ソングというかポピュラー・ブルーズだったんじゃないだろうか。かなりの有名曲なので、南部のフォークロアのなかにも入り込んだのだと見るべきかと思う。違うかもしれないが、わからない。そのほか、似たような事情かなと推察できるトラックがあり。

 

 

しかしながらロバート・ジョンスン/エルモア・ジェイムズで有名な「ダスト・マイ・ブルーム」とかジョン・リー・フッカーで有名な「ブギ・チルン」であるここでの曲名「アイ・フィール・ソー・グッド」なんかは、どういう経緯でこのボックスにあるのか、ぼくにはよくわからない。「ダスト・マイ・ブルーム」は南部フォークロアからロバート・ジョンスンがピック・アップしたもので、「ブギ・チルン」はポピュラー・ブルーズのフォークロア化かなあ?いやあ、わからない。

 

 

がしかし「トレイン・アイ・ライド」も「アイ・フィール・ソー・グッド」も、演者はどちらもラヴィ・ウィリアムズとなっている。商業的なブルーズ界でも活躍するかの人物とは別人じゃないだろうか?う〜ん、まあそれだけじゃあなんだかわからないよなあ。どうなんだろう?「ブギ・チルン」はやっぱりジョン・リー・フッカーのがオリジナルのポップ・ブルーズで、それをここでラヴィ・ウィリアムズがこんな感じに仕立てているってことかなあ?

 

 

『ヴォイシズ・オヴ・ミシシッピ』一枚目に最もたくさん収録されているブルーズ・マンは、やはりジェイムズ・’サン・フォード’・トーマス。ボブ・フェリスの親友だからなのか、あるいはサン・トーマスの、ここにも収録されているブルーズ演唱が、きわめて南部的にディープで、まさにミシシッピの声、黒人の民俗生活に即したようなできあがりになっているからなのか。まあ両方かな。

 

 

サン・トーマスのブルーズは、「44 ブルーズ」「ケイロ」「ダスト・マイ・ブルーム」「アイ・キャナット・トゥ・ステイ・ヒア」と四曲収録されているが、なんど聴いてもすばらしいと感銘を受けるのが「ケイロ」(カイロ)だ。ここではエレキ・ギターで弾き語っている。声も見事だが、なんたってギター演奏がすばらしいクサさ(褒めことば)。実にディープにブルージーだ。こんなブルーズをいつもそばにおいておきたい、聴いていたいと思わせる日常的な親密さもあり、しかし同時に冷たく突き放されているような近寄りがたいオーラもあり。文句なしだ。

2019/01/10

メロウ・ステフォン・ハリス 〜『ソニック・クリード』

 

 

このアルバム、ぼくのこの記事への bunboni さんのコメントで教えていただきました。まさにぼく好み。

 

 

 

ジャズ・ヴァイビスト、ステフォン・ハリスは、メロウ R&B みたいなのが最大の持ち味なんだろうか。今回はじめて聴くので、そのへんはつかみきれないけれど、ステフォン・ハリス+ブラックアウト『ソニック・クリード』(2018)で聴くかぎりでは、極上のメロウネスをふりまいていて、それがなんともいえず心地いい。だから、ホレス・シルヴァーきっかけで教えていただけたとはいえ、ぼくにとってのステフォンとは甘さのひと。メロウ R&B みたいなジャズのヴァイビストって感じ。

 

 

アルバム『ソニック・クリード』にあるメロウ・サウンドは四曲。どれもすばらしい。そしてすんごく心地いい。3「レッツ・テイク・ア・トリップ・トゥ・ザ・スカイ」、7「スロー・イット・アウェイ」、8「ナウ」。9「ゴーン・トゥー・スーン」。3と8には女性ヴォーカリスト、ジーン・ベイラーが参加。それもまたたまらない甘美さだし、全体のサウンドの組み立ても見事にスウィート。

 

 

ステフォン・ハリスのメロウさは、こういった曲群に限った話じゃなく、ビートが強くテンポも速いものでもきわだっている。くだんのホレス・シルヴァー「ザ・ケープ・ヴァーディアン・ブルーズ」なんかでも、ノリよく、しかも曲内での複雑なリズムの変化をなんなく自在にこなしながら、しかし同時にハードすぎず乾かない。わりとしっかりした湿り気があるよね。サウンド全体に甘いシュガー粉をふりかけたようなというか、そんな幕が間違いなく垂れ込めている。特にケイシー・ベンジャミンのアルト・サックス・ソロ部でそれが顕著だ。

 

 

ステフォン・ハリスのヴァイブラフォン演奏にもスウィートさ、メロウさがあって、こんな弾きかたはジャズ演奏家のものでもないような気がしてしまう…、のはぼくの感覚が古くさいせいだね、きっと。マリンバを叩いている曲や、あるいはヴァイブでもモーターの回転を抑えてヴィブラートを控えている曲もあるけれど、それでも感じるステフォンのメロウ体質。

 

 

ハードで硬い曲でモーターを回さないものですらそうなんだから、上で触れた四曲、3、7、8、9ではも〜うモーターぐいんぐいん回しまくり、ホントすばらしくやわらかいヴァイブをもたらしている。ステフォン・ハリスは自身のヴァイブ演奏だけでなく、サウンド全体の組み立ての隅の隅まで細やかに気を配り、ていねいにていねいに、やさしくやさしく、まるで愛する女性を愛撫するかのごときデリケート・タッチで、やっているんだよね。うん、そういった行為の BGM としてもよく似合いそう。大好き。

 

 

3曲目「レッツ・テイク・ア・トリップ・トゥ・ザ・スカイ」出だしでは、いきなりモーターの回転全開で、グワングワンとヴィブラートを思い切り効かせたエコーまみれのヴァイブ・サウンドで幕開け。このイントロ部だけでもうこの音楽がなんなのか、理解できようというもの。こんな甘美さは、アルバム終盤のスーパー・メロウ・セクションである7〜9曲目で一層きわだっている。

 

 

モーターを回してヴィブラート効かせすぎなんじゃないかとすら思う瞬間すらあるメロウなステフォン・ハリスだけど、アビー・リンカーンの7「スロー・イット・アウェイ」も、ボビー・ハッチャースンの8「ナウ」も極上。でも、このアルバムで最も大きな感動を得たのは、ラストのマイケル・ジャクスン・ナンバー、9「ゴーン・トゥー・スーン」だ。これはヴァイブとマリンバの、ステフォンひとりデュオ多重録音作品。

 

 

「ゴーン・トゥー・スーン」は、メロウというのとはちょっと違う雰囲気かもだけど、このあまりにも切ない一曲をステフォンひとりでの多重録音デュオで、この上ない美しさに仕立て上げているじゃないか。マリンバが伴奏でヴァイブが主旋律を弾く。このひとりデュオ演奏を聴いていると、ぼくなんか、やっぱりたまらない気持ちになって、きわまってしまうなあ。泣いちゃいそう。名演ですね。

2019/01/09

ンビーラとは楽器であり音楽であり、生きかたである 〜 ステーラ・チウェーシェの初期シングル集

 

 

現在ドイツで活動しているジンバブウェの女性ンビーラ奏者&歌手ステーラ・チウェーシェ。彼女の1974〜83年の7インチ・レコード音源八曲(でぜんぶではないんだろう)を、ドイツのグリッタービート・レーベルが CD リイシューしてくれたのが昨2018年にリリースされた『カサーワ:アーリー・シングルズ』。オフィス・サンビーニャ盤をぼくは買った。収録の音源は、いままでまったくリイシューされたことがなかったはずだ。

 

 

整理しておくと、CD アルバム『カサーワ:アーリー・シングルズ』収録の音源はぜんぶで8トラックだけど、それのもとになった7インチ・シングルでは9トラック8曲。CD6トラック目の「マヤヤ」がパート1と2のシングル・レコードでは両面だったものを一個にしたものだから。CD で1曲目の「不可能なこと」(Ratidzo)だけはどこのレーベルのものか不明だが、そのほかは二つのローカル・レーベル Shungu と Zimbabwe から発売されたものがオリジナル。

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ンビーラ(親指ピアノの名称でありかつ音楽のジャンル名でもあり)のこともステーラ・チウェーシェのこともそこそこ知られていると思うので、そのあたりの紹介はいっさい省略する。それでもしかし、彼女のジンバブウェ時代のこんなキャリア初期シングル集がまとめられ、国外というか世界的マーケットで販売されるのは、もちろん初の事態だろう。うれしかったなあ。大歓迎。

 

 

『カサーワ:アーリー・シングルズ』では、1曲目「不可能なこと」でだけ、左右のチャンネルに一台づつ、計二台のンビーラが聴こえる(ように思うのだが)。インストルメンタル・ナンバーであるこれ、もし二名の合奏だったとしたらステーラのほかはだれなのか、ぼくにはまったくわからない。マラカスのようなパーカッション・サウンドも聴こえる。

 

 

マラカスのようなシャカシャカっていう音の打楽器はホショと呼ぶらしい。アルバム2曲目以後は、すべてステーラひとりのンビーラ弾き語り+ホショという編成。ショナ人であるステーラのンビーラ演奏は、例によってミニマル・ミュージック的に同一パターンを延々と反復しながらちょっとづつズラしているが、そのパターンを取りだしてみると、かなり複雑なリズムを表現しているばあいがある。

 

 

裏拍を強調しながら進んだり、ポリリズミックになったりしながら、あたかも二個以上のフラグメンツをすこしずらして合体させ同時進行させているような、そんな難度の高いフレーズというかパターンを延々と反復することで、ぼくたち聴き手は陶酔し、徐々に酔い、日常とは異なる地平に連れていかれるかのような、そんな音楽だね、ステーラのンビーラ。

 

 

しかしステーラ本人にとってのンビーラ演奏は、まったきリアルな人生そのものだった。グリッタービート盤の英文解説によれば、10代のころはエルヴィス・プレスリーほかアメリカのロックンローラーたちに夢中だったらしいが、ンビーラの伝統継承者となろうと決心したら、今度は大きな壁が待ち受けていたようだ。そもそも女性がンビーラを演奏することは許されていなかったとのことなので。

 

 

だから、だれもステーラにンビーラ演奏の手ほどきもしないばかりか、そもそも楽器を手に入れることすら困難だったとのこと。デビュー・シングルである「ネマムササ/カサーワ」は、人から借りたンビーラで演奏したらしい。演奏法や歌唱なども、独学で苦労しながら身につけたものだったかもしれない。

 

 

ンビーラを弾きながらステーラが歌うその声には、そんな困難を経て、まあ言ってみればジンバブウェ内でも "レベル" 的な生きかたをしながら、それを経て獲得したのであろうパワフルさがみなぎっている。オフィス・サンビーニャ盤の日本語解説ではヌスラット・ファテ・アリ・ハーンの声が引き合いに出されていて、それはちょっと言いすぎでは?と思わないでもないが、ジンバブウェでのデビュー期のステーラの音楽に、苦闘と表裏一体の鋭強さを聴きとることは、どなたにとっても容易なはず。

2019/01/08

みなさん、イマルハンをもっと聴いてくれませんか

 

 

一時期70分超もあたりまえだった音楽新作 CD の収録時間が、ここ最近ぐっと短めになってきていると思いませんか。ぼくは鈍感だから、ようやく気がついた。昨年暮れのマライア・キャリー新作もブラジル三題もそうだった。今日話題にしたいイマルハンの2018年作『Temet』も約41分間。やっぱりこれくらいが集中して聴きやすく、気軽になんどでも聴けるし、いいね。レコード時代への回帰?

 

 

イマルハンは、サハラのトゥアレグのギター中心の、いわゆる砂漠のブルーズに分類されるバンドだけど、以前書いた一作目からして、ぼくのなかではティナリウェン以上に魅力的だった。二作目になる2018年新作『Temet』で、ますますその感を強くした。ひょっとしたらこの手のあまたあるトゥアレグ・ギター・バンドのなかでの、ぼくの最大の好物かもしれないとすら思う。

 

 

いくつか理由をぼくなりに考えてみたので、整理してみよう。

 

 

・ドラム・セットが使われている

 

・ビート感がとても強く、アップ・テンポで激しくグルーヴするものが多い

 

・リード・ヴォーカリストの発声や歌いかた、というかコブシまわしが浪曲〜演歌的で好み

 

・っていうかつまりアラブ歌謡ふうだ

 

・それらの結果、強い高揚感がある

 

 

この五点は密接に関連している。四点目までを総合した結果五点目があるわけ。決定的なのが、ぼくにとってはヴォーカルのこと。ティナリウェン他とここが決定的に違っている。ティナリウェンのイブラヒムらは、うつむいてポツポツ落としていくようなフラグメンタリーなことばの発しかたなんだけど、イマルハンのサダム(Iyad Moussa Ben Abderahmane)は強く朗々と声を張るスタイル。ここが好き。いわばアメリカのソウル・ミュージックや、だから浪曲や演歌の歌手にも近い。

 

 

それでありかつ、曲のもとからのメロディにアラブ歌謡ふうというか、ムスリム音楽的というべきか、そんな粘っこさがあるんだよね。サダムのフレイジング、コブシまわしにもそれがあるかも。それをドラム・セットなども使いながら強く激しいリズムに乗せてグイグイやるっていう、つまり米ファンク・ミュージックにも通じるような、そんな高揚感だってあるじゃないか。

 

 

新作『Temet』にもアクースティック・ギターを使ったフォークっぽいもの(7、10曲目)があったり、またトゥアレグ・ハリージ(ハリージとはペルシャ湾岸ポップスのこと)みたいなというべきか、リズムがヨレてつっかかるような9曲目「Zinizjumegh」 があったりもするけれど、あくまで中心はストレートなハード・グルーヴ・ナンバーだ。

 

 

たとえば地を這うような重厚なエレベのリフではじまるトゥアレグ演歌の1曲目「Azzaman」もそう。シングル・トーンのエレキ・ギターの小さめの音で反復リフが入っているのも印象的だ。また3曲目「Ehad wa dagh」、6「Tumast」なんかのビートの強さ、グルーヴの激しさは特筆すべき。しかも聴きやすいポップさだってあるから、米英のポピュラー・ミュージックに最もなじみがあるぼくだってすんなり入っていける。たぶん、多くのみなさんがそうじゃないだろうか。

 

 

そうかと思うと、トゥアレグ・グナーワとでも呼びたいような雰囲気のものもあったりして、なかなか多彩なイマルハンの新作『Temet』。ここまで書いたような傾向は、それまでの(いわゆる)砂漠のブルーズのバンドにはなかったものだと思うんだ。ここまで実力が高く、楽しくおもしろく、聴きやすく、しかも CD が簡単に買え配信でだってすぐ聴けるトゥアレグ・ギター・バンド、イマルハンが、どうしてここまで話題にならないのか、不思議でならない。

2019/01/07

ノーティー・ナスティ・マリア・マルダー、好きだぁ〜!

 

 

2018年9月末のリリースだったマリア・マルダーの最新作『ドント・ユー・フィール・マイ・レッグ(ザ・ノーティ・ボーディ・ブルーズ・オヴ・ブルー・ル・バーカー)』。ジャケットを一瞥し、ある種の想像をなさったみなさまがた、その期待を裏切らない内容ですので、安心してお求めいただけます。いやあ、すばらしい。もうおばあちゃんのマリアだけど、本当に色っぽい、艶っぽいよね。いや違う、これが歌芸の力だってことか。いずれにせよ、楽しいアルバムだ。

 

 

内容は、アルバム題どおりルイーズ・ブルー・ル・バーカー曲集。ニュー・オーリンズのジャズ・ブルーズ歌手だったブルー・ル。パートナーのダニー・バーカー(ギター、バンジョー)の名はジャズ・ファンなら知っている有名どころ。マリア・マルダーは以前よりブルー・ルに共感を示してきていたようだ。

 

 

というかここのところのマリア・マルダーは、ずっと古いブルーズの世界に寄り添ってきていたらしいが、最近はずっとマリアのことをスルーし続けていたので、なんにも知らなかったのだ。今回、新作がスケベで楽しいので、と思って情報にあたり、はじめて知った。不明を恥じるばかり。

 

 

『ドント・ユー・フィール・マイ・レッグ』、ブルー・ル曲集ということで、音楽的には古いジャズ・ブルーズとなっている。それもコンボ編成でやるレトロなニュー・オーリンズ / ディキシーランド・ジャズが伴奏をつけているんだよね。マリア・マルダーのヴォーカルは、声がもうおばあちゃんのそれだけど、それがかえってこの猥歌集に独特の香りをもたらすことになり、生々しすぎないちょうどいいセクシーさをもたらしてていて、それでいながらまだまだ現役よと言わんばかりの老いてますます盛んみたいな雰囲気もあって、とってもいいね。

 

 

マリア・マルダー自身がプロデュースしているこの新作アルバムでは、多くの曲がだいたい2/4拍子で、バンドはギター、ピアノ、ベース、ドラムスのリズム・セクションに、管楽器がサックス(クラリネット持ち替え)、トロンボーン、トランペットの三本。随所でホーン・アンサンブルがリフを入れるけれど、どれもシンプルな反復で、アレンジャーらしき人物はいないかもしれない。男声バック・コーラスもどんどん入るが、たぶんホーン奏者たちの担当かなあ。

 

 

リズム隊のなかではデイヴ・トルカノフスキのピアノが一番活躍している。最新録音盤なので音はいいが、スタイルはレトロだ。ドラマー(ハーリン・ライリー)もベーシスト(ローランド・ゲリン)もそうだけど、クリストファー・アドキンスの弾くギターは、たんにレトロ・ジャズというにとどまらないおもしろさを出している部分もあるよね。ギターはマリア・マルダー自身もちょっと弾いているかも。

 

 

1曲目の「ジョージア・グラインド」からぐいぐい下世話に攻めるマリア・マルダーとバンド。卑猥なんだけど、ねっとりとしたいやらしさが薄く、さっぱり乾いたユーモアや猥雑さを感じさせるのがとてもいいね。2/4拍子で演奏するバンドのノリもステキだ、というかぼく好み。こういった古いジャズ・ブルーズが好きな人間にはこたえられない内容だと思う。いやあ、楽しい。セックスを扱うマリアの歌いかたがいいと思うよ。ナスティ&ノーティでさ。

 

 

3曲目「あんたのダンナを貸してよ」なんかでのこの大きくゆったりと乗るビートもとてもいい。マリア・マルダーのこのヴォーカルがまたステキだし、リズム伴奏もホーン・ソロもリラックスしていて聴きやすい。5曲目「あんたはおちぶれ」のマリアの快活なリズムへのノリも見事。歌の合間合間にウ〜ッ!とかアッ!とか叫ぶように入れる合いの手も色っぽい。ホーン・セクションのワン・リフ反復でリズムが決まっているのもグッド・アイデア。

 

 

7曲目「ニックス・オン・ゾーズ・ラッシュ・ヘッズ」もスケベで最高だが、リズム隊の伴奏がユニークなのと、ここでもサックス・ソロがいいのに注目したい。トランペット・ソロの途中でストップ・タイムを使ってあって、その間ミュート気味のギター・カッティングがシャカシャカ刻み入るのも心地いい。

 

 

11曲目「ハンディ・アンディ」とか12「ドンチュー・フィール・マイ・レッグ」なんかもどスケベで最高なんだけど、老婆のいやらしさ全開でマリア・マルダーが歌う歌詞内容の解説は書けないのでご勘弁ください。聴けばなんとなくの雰囲気は嗅ぎとっていただけるのではないだろうか。バック・バンドの演奏がズンズンと大きくゆったりノッているのも最高にムーディ。

 

 

たんに年増好きなだけかもしれないぼくで、だからおばあちゃんシンガーがこういう猥歌を雰囲気を出してやっているのを聴いて、このジャケットを眺めながら妄想し、いい気分にひたっているだけなのかもしれないんだけど、マリア・マルダーの『ドント・ユー・フィール・マイ・レッグ』、なかなどうして、たいしたもんじゃありませんか。快哉を叫びたい。お元気そうでなによりです。

2019/01/06

心地よい『ジャズ来たるべきもの』〜 オーネットはイージーだ

 

 

あのさ、コードとかモードとかの和声のことや楽理体系全般、突き詰めたら結局シロウトにはわからないわけよ。ってかぼくはそうなんだけど。すくなくとも聴いただけじゃあ、よっぽど特別なことになっていないかぎり、そんな大差ないと感じるけどさぁ、みんなどうなの?演奏家、理論家じゃないそこのみんな?小節数とかも、ふだん数えながら聴いたりします?

 

 

オーネット・コールマン1959年の『ザ・シェイプ・オヴ・ジャズ・トゥ・カム』だって、これが問題作だとか衝撃作だってとらえたのは、要は(当時の)演奏できるジャズ・ミュージシャンたち、専門家たちなんでしょ?さらに、もうずいぶん時間が経過した。いま、ぼくらシロウトが、聴いて、これのどこがそんなにとんがっていると感じることがあるのかなあ?むしろかなりおだやかな音楽じゃないかと聴こえるけどね。

 

 

しかも全曲なめらかな定常ビートがあるでしょ。聴きやすい。ぼくのばあい、ここが聴く際にイージーに感じるかどうかの最大の分かれ目で、ビートが定常的(であればポリリズムでもミックスでも変幻でも、また和声もアトーナルでもなんでも、かまわない)でなかったりするとむずかしいと感じることがある。テンポ・ルパートというのとはちょっと違うことなんだけど。

 

 

そんなことでオーネットの『ザ・シェイプ・オヴ・ジャズ・トゥ・カム』も、1959年当時の受け止められかたがどうだったかは文献資料などで読むしかないが、ぼくがジャズ・ファンになった1970年代末でも似たような衝撃問題作視する言説がちょっぴり残っていたように憶えている。それが現在ではほぼ消えてなくなっているように見えるのは喜ばしい。個人的実感とも一致する。

 

 

そう、オーネットの『ザ・シェイプ・オヴ・ジャズ・トゥ・カム』は聴きやすく心地いい。リラックスできる音楽で、だから日常の部屋のなかで BGM として流れてきてもぜんぜん違和感がない。っていうかね、ここで正直に告白するけれど、こんな気持ちを抱くようになった卑近なきっかけは、21世紀に入ってすこし経ったころかな、よくネット・ラジオの音楽チャンネルをかけっぱなしにしていることが多かったんだけど、その際のことだ。

 

 

昼間でも夜でも深夜でも、部屋でなにかをしているときにネット・ラジオで BGM として不意にふと流れくるオーネットの「ピース」や「コンジーニアリティ」。「ロンリー・ウーマン」が来ることもあったっけ。それで耳に入り、あっ、いい雰囲気だね、心地いいって、そう感じたんだよね。前後はジャズじゃないもののことが多かったはず。しゃべりはいっさいなしで音楽だけがどんどん来るチャンネルがいくつもあるよね。

 

 

ああいったネット・ラジオでの BGM 体験がなかったら、オーネットの『ザ・シェイプ・オヴ・ジャズ・トゥ・カム』に対し、いまだにやや身構えるような部分が残っていたかもしれないところ。つまり、要はあまりちゃんと聴いていなかったかも。中身の音楽がどんだけ心地いいか知らなかったわけだから、読む知識だけあって音をしっかり耳に入れていなかったんだなと指摘されても、おっしゃるとおりですと言うしかない。

 

 

ホント、でも「ピース」ヤ「コンジーニアリティ」は耳あたりがよく快感で心地よくスムースでなめらかな音楽だよね。っていうかアルバム全体がそうだ。それで、このことは長年抱き続けているオーネット像なんだけど世論と乖離が大きいので遠慮して言ってこなかったことをここで告白するが、オーネットの音楽はだいたいいつの時代のどんな作品も、やわらかくて違和感がなく、聴きやすくとっつきやすく、なめらかだ。フリー・ジャズだとの紋切り型セリフにつきまといがちな印象がない。

 

 

「ロンリー・ウーマン」のばあいは、中近東ふうなところがあるのも、いまのぼくにとってはポイント高し。まずチャーリー・ヘイデンの弾くベースのラインがアラブ音階を使っているかのようじゃないか。オーネットとドン・チェリーが(ズレた)ユニゾンで吹く二管テーマにもアラブ音楽っぽいなニュアンスがある。

 

 

さらにおもしろいのは、これ、ドラマーがビリー・ヒギンズでしょ。かのラテン・ジャズ、ボサ・ノーヴァ・ジャズ、ブーガルー・ジャズのビートを叩かせたら随一という人物だ。「ロンリー・ウーマン」でも、音階はアラブのそれを想起させるニュアンスを香らせながら、ヒギンズのビートには、特にスネアの使いかたに、やはりラテン(ブーガルー)要素があると聴こえるんだ。アラブ音楽とラテン・リズムの相性の良さは証明されているじゃない。ねっ、「ロンリー・ウーマン」、相当おもしろいよね。BGM 的に聴きやすいしさ。

2019/01/05

オーネットのタイトな明快フュージョン 〜『オヴ・ヒューマン・フィーリングズ』

 

 

過去の名盤みたいなものが CD ではどんどん入手しにくくなりつつある。中古価格が、いっぽうでたったの一円とかの価格設定になっているかと思えば、もういっぽうで一万円を軽く越えていたりする。CD 一枚の値段ですよ。 どっちもイヤだ。オーネット・コールマンの1982年作『オヴ・ヒューマン・フィーリングズ』は後者のパターンで、超高値。まあ名盤じゃないかもしれないが、ぼくはかなり好きな一枚なんだよね。だけど、もはやフィジカルは入手不可になってしまった(涙)。だから、今日のこの文章も Spotify で聴いて書く。

 

 

オーネットの『オヴ・ヒューマン・フィーリングズ』のばあいは、当時から廃盤になるのも早かったらしいから、そのまま再発されていないってことかなあ。評価が低いとか人気もないとか、そんなことなんだろうか?そうかどうかよくわからないが、ぼくがこのアルバムを好きなのは、とても聴きやすく明快で、しかもシンプルで、悪く言えばワン・パターンというか、アルバム全体で一本調子で変化がないけれど、言い換えればたったの36分間を一気に駆け抜ける爽快さ、痛快さがあるから。

 

 

ツイン・ドラムスの一方に息子のデナード・コールマンが入り、エレベがジャマラディーン・タクマ。この総勢三名が、強くタイトなリズムをバキバキ決めているのがぼく好み。ファンクなリズムということになるかもしれないが、ぼくだったらロックへの接近と聴くところ。だからつまり、『オヴ・ヒューマン・フィーリングズ』はジャズ・ロック・フュージョンなんだよね。あっ、それで評判悪くて再発されないの?

 

 

特にジャマラディーン・タクマのエレベがキマっているのがうれしい。こういったサウンドのエレベがぶんぶん言わせる音楽、好きだなあ。同じようにタイトに叩いているドラマーは、どっちかというとデナードなんだろうか?二台のエレキ・ギターはほぼソロを弾かず、オーネットの背後で動くだけ。だからソロイストはオーネットだけと言ってさしつかない。

 

 

その主役オーネットも、いつになくわかりやすい鮮明なソロ内容を展開していて、そう、うんまあフリー・ブロウイングなんだけど、このひとのばあいはむかしからずっと、いわゆる前衛的な感じがしないのがいいね。明快な反復パターンやショート・パッセージをヴァリエイションを持たせながらの連発で、だからどっちかといえば、エンターテイメント性のあるジャズ、そう、ジャンプ・ミュージックやリズム&ブルーズといった芸能系ジャズに近い感触がある。と、ぼくは以前から感じている。

 

 

そんなオーネット元来の資質が、1970年代末〜80年代前半に、時代の流行のロック/ファンクと合体してタイトで明解になったのが『オヴ・ヒューマン・フィーリングズ』だったかもしれないよなあ。いや、ホントどの曲もだいたい同じような内容なのでアレですが、尺が短いんで飽きずに最後まで走り抜けられるよ。

2019/01/04

このころのオーネットは、ジャズ界のキャプテン・ビーフハート

 

 

そういえば『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』のときに書き忘れたけれど、キャプテン・ビーフハート。彼の音楽と、このころのオーネット・コールマンのそれは相通ずるものがあるんじゃないだろうか。ただ、ぼくの感覚だとオーネットのほうがとっつきやすくわかりやすく親しみやすい。ビーフハートも好きだけけどオーネットのほうがもっと、っていうのはジャズ・ファンだからかなあ、どうなんだろう?

 

 

それで、このころに発売されたオーネットのアルバムでは、個人的に『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』より『ボディ・メタ』(1978)のほうが好き。本当に好きだ。作品としての出来云々はよくわからないけれど、とにかく好物なんだよね。それに、以前から書いている個人的愛聴盤『ヴァージン・ビューティ』の明快さにつながるものがもうすでに出てきていると感じられるのもいい。

 

 

『ヴァージン・ビューティ』(や、その前の『オヴ・ヒューマン・フィーリングズ』)へと続いていくものとは、リズムがシャープでタイトになっている部分。それでファンキーになっている。いま書いたファンキーには愉快さ、滑稽さという意味だけでなく、いわゆるファンク・ミュージック的なタイトなノリ、グルーヴという面もあるんだよね。それをぼくは『ボディ・メタ』に感じとっている。ジャズ界でも1978年リリースというとファンク方面へのアプローチはかなり遅いほうだったと思うけどね。

 

 

まず1曲目「ヴォイス・ポエトリー」が3・2クラーベのパターンだもんね。別称ボ・ディドリー・ビート。オーネットのばあいはロック方面というよりニュー・オーリンズやラテン音楽方面から直接引っ張ってきているような気がするが、二名のギタリストを聴くとロックもあった?と思える。曲「ヴォイス・ポエトリー」(といった曲題のつけかたはイマイチ)ではバンドのクラーベ・リズムに乗ってひたすらオーネットがブロウしているが、かなりクールなんだよね。だからブロウということばが似合わない。

 

 

2曲目以後は、バンドのリズムがどうもまだ『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』のあたりと同じ傾向で、タイトさに欠ける点はイマイチ。しかしキャプテン・ビーフハートの音楽との共通性はよりわかりやすくなっているから、その意味ではとっつきやすいと感じるリスナーのみなさんもいらっしゃるはず。オーネットのアルト・サックスが<声>で、背後でフリーに二本のエレキ・ギターがフラグメンタリーにからみあい、ベースもドラムスも決して合わせないように同時並行で進んでいる。

 

 

和声的にも、オーネット含め全員が<合わせないように>と腐心してやっているなあとわかったりもして、ここまでアトーナルじゃなくちゃならないと強く意識するならばそれはフリー(・ジャズ)じゃないと思うこともある。自由って、局面局面で合わせても合わせなくても好きなようにやればいい、ってことなんだから、こうやらなくっちゃ!と決め込んだらフリー・ミュージックじゃない。

 

 

この点だけが(オーネットだけじゃなく)一部のジャズ・ミュージシャンにぼくが持っている違和感。でもここだけを無視すればやはり楽しい。それに、『ボディ・メタ』ではリズムが明快なタイトさ、ファンクネスを獲得しつつあるしね。決して合わせないようにやってタイトなファンクネスに至るって、考えてみたらすごいことだ。ふつう相反することだもんねえ。

 

 

アルバム4曲目「フォ・アムール」はきれいなバラードっぽいもので、ちょうど『ヴァージン・ビューティ』にあった「アンノウン・アーティスト」を連想させるアルト演奏。オーネットのサックス・サウンドが本当に美しいし、セクシーだ。以前から書いているが、オーネットの音ってマジきれい。で、湿っているのか乾いているのかわからない。熱いのか醒めているのか、判断がつかないね。でも、マジ、きれいだ。その音色の生々しさだけにだって聴き惚れる。

2019/01/03

ジャジューカの神秘

 

 

昨日のオーネットからの流れで思い出したので軽くメモしておこう。2017年に来日公演もやったモロッコのマスター・ミュージシャンズ・オヴ・ジュジューカ。来日前の2016年9月14日にフランスはパリのサントル・ポンピドーでやったライヴ録音盤があるよね。タイトルは『ライヴ・イン・パリ』。これは来日記念盤ということなのかな、そんな文言が裏ジャケットに書かれている。

 

 

実を言うと、ぼくは(ローリング・ストーンズの)ブライアン・ジョーンズが関係した例のアルバムは、いまだ一度も聴いたことがないんだ。買ったことがないし、聴かせてもらったこともない。というままずっと来ているのもアカンのかと思ったりして、2018年暮れになってようやく Spotify にあったからチラッと聴くには聴いた。エル・スールで買った『ライヴ・イン・パリ』とそんな大差ないような気がする。

 

 

だから、これはジャジューカで連綿と受け継がれている民俗音楽だから、数十年程度では変容しないということかもしれない。グナーワにせよなんにせよ、こういったたぐいの民俗音楽ってだいたいそうじゃんね。日本の民謡だって、むかしからそんな変わってないでしょ。それだから時代に即していないとか云々は、また違う次元の話だと思うんだよね。ポップ・ミュージックじゃないんだし、当たっていない指摘だろう。

 

 

ブライアン・ジョーンズ関連の例の1971年の一枚で、それでたぶん欧米や世界でひろく知られるようになったのかもしれないジャジューカの音楽だけど、その『ブライアン・ジョーンズ・プリゼンツ・ザ・パイプス・オヴ・パン・アット・ジャジューカ』と、『ライヴ・イン・パリ』とでは、しかしかなりの違いもある。ブライアンのは以下。

 

 

 

太鼓と笛が中心になっているのは同じなんだけど、『ライヴ・イン・パリ』ではケマンチェ(?)みたいな擦弦楽器の音が聴こえるトラックがある。ジャケット裏にある Kamanja っていうのがそれかな、たぶん。それからヴォーカルも大きくフィーチャーされていて、リーダー格の独唱+バック・コーラス(はぜんぶユニゾン)でかなりたくさん歌っているコール&レスポンス。

 

 

さらにここがいちばん違っているなと思うのはリズムだ。太鼓が叩き出すそれはもちろん違うがそれだけじゃない。笛も擦弦も表現しているリズムがかなり違うのだ。ブライアン・ジョーンズのやつではおとなしく漂っているかのようなもので、はっきり言って魅力がやや薄いと思うんだけど、『ライヴ・イン・パリ』のほうではかなり激しい躍動的なビートを生み出している。激しいも激しい、これは演奏者もリスナーも興奮のるつぼにおとしいれ、異次元に誘うがごときトランス・ミュージックにほかならない。

 

 

太鼓も笛も擦弦も、ほぼ同一のパターンを延々と反復しながらちょっとづつニュアンスを変えていくんだけど、そのミニマルな展開が陶酔を誘う。擦弦はたぶん一台だけだと思うんだけど、太鼓と笛はそれぞれ大人数で、それも西洋音楽のように整然と合ってはおらず、微妙にというかずいぶんズレて重なっていることで、音に幅とひろがりと濁りみが生まれ、それの多重反復で聴いているほうはめまいを起こしそうな快感をおぼえる。

 

 

こういった音楽が、4000年だか受け継がれてきているんでしょ〜、すごいなあモロッコのジャジューカ。1970年代以後、ジャジューカやモロッコ外にもかなり紹介されてきている音楽だけど、たぶんほぼ変容せず姿を変えずにずっと維持できているんだろう。いまの時代だとなかなかむずかしいことだと思うんだけど、パリのサントル・ポンピドーでライヴやったりするくらいだし…、とかって思っちゃう。世界に紹介されているんだしね。

 

 

世界にさらされつつひろがって、しかも同時にモロッコはジャジューカの共同体内のあったのと同じ閉じたまま変容せず、そのままの音楽性を維持できているっていう、変わらないままで、しかも多くの世代を超えて支持され続けているっていう、そんな民俗伝統に根ざした音楽が、現代はたしてどれくらいあるのだろうか?この点でも、あるいは音楽を CD で聴くだけでも、ミステリアスだ。

2019/01/02

オーネット『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』

 

 

電気楽器を使うようになってからのオーネット・コールマンの作品でいちばん好きなのが1977年の『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』と78年の『ボディ・メタ』。それからあんがい88年の『ヴァージン・ビューティ』がかなり好きだけど、これは以前書いた。電化前だとゴールデン・サークルのライヴかな。いや、そのへんはまだちゃんとふりかえっていない。

 

 

『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』。オーネットが電気楽器を大胆に使いファンク路線をとり、のちにバンドがプライム・タイムと呼ばれるようになる、その最初らへんの一枚だったよね。ドラムスがすでにシャノン・ジャクスンだ。+エレキ・ギター二本とエレベ&オーネットのアルト・サックスで、「シーム・フロム・ア・シンフォニー」の2トラックをやっている。3トラック目は73年にモロッコはジャジューカで現地ミュージシャンたちといっしょにライヴ録音したもの。

 

 

1、2トラック目と3トラック目はかなり性格が異なっているので分けて考えたほうがいいのかもしれないが、しかしバックの音楽はかなり違うものの、オーネットのアルト・サックス演奏にかんしてはさほどの差異がないかも?と思えたりする。よく聴いたらバックのリズムとサウンドだって共通性があるような…。それを言ったら1950年代末のデビュー時から一貫してオーネット個人のサックス演奏はあまり変化していないのかもしれないが…、う〜ん、いや違うか、どうなんだろう?

 

 

ふたつある「シーム・フロム・ア・シンフォニー」。オーネットとギターがテーマというかショート・パッセージを延々と繰り返し反復演奏しているが、その背後でのバンドのリズムはまだまだそんなにタイトじゃない。がしかし、おどけるような感覚があるのがいいね。ユーモア感覚っていうかさ、バンドのリズムにもオーネットのアルト演奏にも生得的な?そういった要素を感じとることができる。

 

 

オーネットの音楽でいちばん好きなのはここで、あまりしかめ面してシリアスになりすぎない、できあがった録音作品だけ聴いているかぎりではユーモラスだというかファンキーにふざけているような、そんなフィーリングがあるところなんだよね。アルト・ソロの内容だって自然発生的にそんな要素を表現しているなと感じるけれど、ぼくの感覚がおかしいのかなあ。

 

 

ダブル・カルテットによる『フリー・ジャズ』(1961)だって、わりとシリアスにだけ受け止められている作品な気がするけれど、特に合奏部分なんかにファンキーな愉快さがあるし、それから(どんな作品でも)特にオーネットのアルト演奏部はかなりエモーショナルで生々しく、かと思うと湿ってなくてカラリと乾いているし、ユーモア感覚って一歩引いて自己を客観視してクールに突き放していないと出せないと思うけれど、オーネットにもそういった部分があるかも。

 

 

いちおうは電化ジャズ・ファンクになっている「シーム・フロム・ア・シンフォニー」2トラックに続く3トラック目「ミッドナイト・サンライズ」は、モロッコのマスター・ミュージシャンズ・オヴ・ジュジューカ(Joujouka との記載)との共演。ジャジューカの音楽家の演奏は例によって打楽器と笛によるミニマル・ミュージックだけど、その上をオーネットが自在に駆けまわるといった雰囲気。たったの五分未満と、ジャジューカの音楽としては物足りない長さかもしれないが、1973年当時ここまでできたアメリカ人ジャズ奏者は、たぶんオーネットだけだったろう。自由なジャズ(フリー・ジャズ)とはまさにこのことだ。

2019/01/01

いいね、パット・マシーニー『レター・フロム・ホーム』

 

 

ぼくの大好きなパット・マシーニー。1989年のゲフィン盤『レター・フロム・ホーム』もいいよねえ。以前、ゲフィン移籍第一作『スティル・ライフ(トーキング)』のことを書いたけれど、『レター・フロム・ホーム』はその次の作品。音楽的にも似ているというか、続いているというか、まぁおんなじだけど、こんな路線の音楽が大好物なんだから、金太郎飴でどんどん来ればひたすらいい気分なだけだよ。つまり、ヒューマン・ヴォイスを活用したブラジリアン・ジャズ・フュージョン。

 

 

『レター・フロム・ホーム』もパット・マシーニー・グループでの演奏で、ペドロ・アズナール&アーマンド・マーサルをくわえたレギュラー・メンツ計六人。人声で音楽に大きく貢献しているのは、やはりペドロ。このころのパット・マシーニー・グループにおける、ある意味、肝だった。リーダーたるギタリストや相棒のライル・メイズ以上にサウンドの色彩を支配していると、お聴きになればご納得いただけるはず。

 

 

そんなペドロの声を大きくフィーチャーし、ラテン〜ブラジリアンな躍動感を持ったリズミカルなナンバーが、『レター・フロム・ホーム』でもやはりぼく好み。アルバム・ラストのタイトル曲は、しかしまったく正反対で、ライルが美しくピアノ(そのほか)を弾く静謐なナンバー。ペドロのヴォーカルもなし。アルバム全体では、躍動をクール・ダウンするコーダのような役割なのかなと思う。

 

 

それとはちょっと違うかもだけど、ペドロの声もあるし、でも、8「ドリーム・オヴ・ザ・リターン」と10「ヴィダーラ」はやや近いゆったりナンバー。かなりダイナミックではあるけどね。さて、ここまで書いた三曲以外、アルバム『レター・フロム・ホーム』はぜんぶ快活に跳ねる軽快な楽曲で占められているのがこりゃまたぼく好みなのだ。楽しいったら楽しいな。

 

 

1曲目「ハヴ・ユー・ハード」からアクセル全開で飛ばしているのが快感だ。アフロ・ラテンな3「ベター・デイズ・アヘッド」(パーカッション陣活躍)、これまたアフリカンな4「スプリング・エイント・ヒア」は曲題どおり?やや翳哀のある曲想がこりゃまたいい。ややブラジル音楽のサウダージっぽい?6「5-5-7」もちょっとそうかな。

 

 

その次の7曲目「ビート 70」はひたすら楽しいビートの効いたダンス・チューン。これはまったく典型的なパット・マシーニー節丸出しともいうべき曲想とリズムとメロディ。パットの作品でならいくらでも見つけられるあたりまえなものだけど、上でも書いたように好きなものをどんどん続けて聴けば気持ちいい。

 

 

11曲目「スリップ・アウェイ」がこのアルバムの白眉かもしれない。かなりヒットしたというか、たしかなにかの賞をもらったんだっけ??「ビート 70」同様いかにもなパット・マシーニー・スタイルだけど、よく練られたメロディ・ラインとアレンジ、曲の展開など、寸分も隙のない仕事をパットがしている。ペドロのヴォイスは(たぶん)ぜんぶ書かれたラインを歌っていると思う。

 

 

毎度毎度の繰り返しだけど、かなり弾きまくれるギタリスト、パット・マシーニーにして必ずしも弾きすぎず控え、曲の構成とアレンジに重きを置いて綿密に練り上げ、それをグループの六人に有機的に役割を振り当てていると、聴けばわかるのが好感度大なのだ。しかも聴きやすくとっつきやすく、わかりやすくてポップだ。さらにセンティメンタル。シンフォニックにスケールも大きいし、いいと思うよ、パット・マシーニーの音楽って。

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