1930年代の全世界的なルンバの大ブーム。それの重要拠点だったのがパリとニュー・ヨークで、といってもそもそも「ルンバ」ということばの定義からはじめないと、こりゃまたややこしいのだ。2017年に CD 二枚組で二種類リリースされた田中勝則さんのディスコロヒア盤『ルンバの神話(パリ篇)』『同(ニューヨーク篇)』の計四枚が参考音源。ルンバということばがなにを指すかについても、それらに附属の田中さんの解説文を踏まえ、まず書いておく。
ラテン音楽(だけじゃなくアメリカ合衆国音楽もそうだったのだが)のレコード・レーベルでは、曲のタイトルの横か下に楽曲形式名が記されてある。それがルンバとなっているものが今日の当面の話題なのだが、これはもちろんキューバ音楽の一種。ルンバがなにを指すかがややこしく、しかも時代を経て定義に変遷があったのでめんどくさい。
ぜんぶ書くとたいへんな長さになってしまうので、田中勝則さんの解説文に読める最新学説を踏まえた上で、ざっと「ルンバ」定義の現状だけ整理しておく。このことばの意味の歴史的変遷などについては『ルンバの神話(パリ篇)』附属のブックレットをご覧ください。
1)キューバでソンという音楽が流行する前の1920年代に、すでにルンバという形式名があった
2)そのルンバとは、のちの1940年代に出現し(ストリート・)ルンバとして知られるようになる、タイコだけで歌われる、かのアフリカ黒人系ダンス・ミュージックではない
3)ソンの台頭でいったんは衰退する
4)新しく生まれた音楽ソンの影響を多分に受けつつ、1930年代にリニューアルされた新ルンバが、アメリカ合衆国をはじめ全世界的に大流行する
5)そんなニュー・ルンバは、決してソンを水で薄めたような薄っぺらい音楽ではない
6)つまり、まずルンバあり、あいだにソンをはさみ、新世代ルンバとなり、それが海外で大ヒットした際、同じ「ルンバ」という名称を持った
7)その後、今度は本当にキューバの黒人たちがアフリカ音楽のルーツを直接的に受け継いだようなストリート・ミュージックが誕生し、それも「ルンバ」と呼ばれたが、別な音楽だ
さて、ニュー・ヨークが1930年代ルンバの一大拠点だったのはわかりやすいが、どうしてパリもそうだったのか?しかしこれもあんがいわかりやすい面があると思う。アメリカ合衆国と違ってキューバ人コミュニティなどなかったはずのフランスで、しかもおそらくはスペイン経由でパリに渡ったケースも多かったはずと推察されるけれど、ジャズ受容と評価の歴史をご存知のかたなら、世界で最も早くアメリカ黒人ジャズを評価し庇護したのがパリ人だったことを思い出されるだろう。
つまり、そんな土地だからってこと。有り体に言ってしまえば、ちょっとしたエキゾティズム、アフリカ系の文化などに興味を示し、促進したいと考えるパリジャンの体質みたいなものがあるかもなあと思うんだ。もっとずっと時代が下っての、かのいわゆる<パリ発ワールド・ミュージック>の時代のことも考えあわせれば、そんな資質をパリという大都市が持っているとわかりやすい。
実際、パリでキューバ人音楽家が初録音したのは、ニュー・ヨークよりも早かった。ニュー・ヨークでドン・アスピアス楽団が「南京豆売り」を録音したのが1930年5月だけど、パリでエドゥアルド・カステジャーノスのオーケストラが録音したのは、同30年の1月だったんだよ。そんな1930年がパリとニュー・ヨークを震源地とする世界的ルンバ・ブームの発祥年と見ていいだろう。
ディスコロヒア盤『ルンバの神話(パリ篇)』のディスク2は全面的にレクオーナ・キューバン・ボーイズなので、今日はそれ以前のレコードを紹介したディスク1に話題を絞っている。1曲目はまだそうでもないが、2曲目カスティージャノス楽団「私のタイコ」から俄然グッとわかりやすく明快なキューバン・ルンバになっている。ソンの痕跡も鮮明に聴けるし、エンターテイメント感覚にあふれたポップ・ミュージックとなっているんだよね。
3曲目、同楽団の「ルンバへの招待」(Invitacion A La Rumba、これが CD アルバム題ともなっている)からは、ポップな芸能感覚も強く打ち出すようになり、また曲題そのものだって、パリでルンバ・ブームを盛り上げよう、そのために…、という意識が鮮明に読みとれる。1932年のレコードだから、初録音から二年で、すっかりそんな機運ができあがっていたんだろうね。
6曲目ドン・バレット楽団「ベガン・ビギン」は、文字どおりマルティニーク音楽で、これはフランス人オーディエンスを強く意識したんだろう。ビギンはこのディスクにもうひとつ出てくる。キューバ人でありながらこういった音楽もそつなくこなすあたりに実力の高さがうかがえるよね。出来も明るい音楽で、聴いていてウキウキ楽しい。7曲目同楽団「マルタ」は名曲。
16曲目エリベルト楽団「シーソー」、17曲目オスカル・カジェ楽団「アリ・ババ」(どっちも1933年)あたりからやや雰囲気が変化しつつあるように思う。打楽器群がにぎやかで派手になり、リズムが色彩豊かで快活さを増しているように聴こえる。キューバ本国の政情と関係ありやなしやわからないが、とにかくこの1933年にはヘラルド・マチャード大統領が失脚している。マチャード政権はアフロ系打楽器の使用を禁止していた。
ともあれ1933年の「アリ・ババ」(ヘティ・クース・エンダンで知られるあの曲)らへんから、ぼくもよく知るいわゆるキューバ音楽になっているみたいだ。この曲のばあい後半部にリズム・ブレイクがあって、そこで派手な打楽器乱れ打ちになっているし、も〜う大好きでたまらない。キューバ本国ではまだまだマチャード派が残っていて反対派との衝突が激しかっただろうけれど、ここパリでは関係ない、パ〜ッとやろうぜ!って感じだったのかな。
20曲目からリコ楽団のレコードが続いているが、1910年ハバナ生まれで26年に渡仏しドン・バレット楽団に在籍していたフィリベルト・リコみずからが率いるバンドの成熟が、たぶん、この『ルンバの神話(パリ篇)』一枚目のクライマックスじゃないかな。最終盤のエリセオ・グレネ楽団の二曲とあわせ、パリにおけるルンバの成熟を実感する。特にディスク末尾の「夜のコンガ」(La Comparsa De Los Congos)なんか最高の名曲じゃないかな。ルンバというよりコンガだけど、山本リンダ「どうにもとまらない」がもう見えている…、っていっつもそこか〜い!
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