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2019年3月

2019/03/31

無人駅で背筋も凍る by 岩佐美咲 at 大阪岸和田 2019.3.30

Img_9465 いやあ、今日のわさみんの二回目はマジすごかった!とんでもないものを聴いてしまいました!

 

いやはや、今日の岸和田トークタウンでの岩佐美咲、15:30からの回はものすごかったですねえ。四曲ともすごかったですが、特に一曲目でやった「無人駅」。こんな「無人駅」は聴いたことないです。壮絶というか、背筋も凍るかと思うほど、ものすごかったです。いやあ、こんな美咲は、こんな「無人駅」は、聴いたことなかったです。すごいすごい、ものすごいのひとことで、ほかに表現がありません。いままでぼくは美咲をちょっとしか聴いていませんが、こんなにものすごい歌には、はっきり言ってビックリでした。完璧さを通り越して時空を歪めましたね。

 

岸和田トークタウンの最寄駅は東岸和田。それがある阪和線に無人駅があるかどうか、知りません。たぶんまあ、ないのでしょう。しかし孤独の心境を綴った美咲のデビュー曲「無人駅」がここまでの高度な次元に到達してしまうと、究極の空白状態に心がおちいって、会場の席にすわって聴くぼくはただボ〜ッと口を開けて、「なんじゃこれ〜〜!?」と驚いていることしかできませんでした。もうなんにも考えられなかったです。

 

それにしても、2019.3.30、岸和田トークタウンでの15:30からの回の美咲はいったいどうしたのでしょう?なにがあったのでしょう?四曲ともすばらしすぎたんです。こんな美咲は、ぼくはいままで聴いたことないです。四曲とも音程も完璧、発声も見事で、しかも歌唱表現が、もう、聴いたことない究極の極致、最高度のレベルに達していました。特に「無人駅」。

 

美咲本人が言うには、13:00からの一回目終了後の間合いにお寿司を食べたそうで、それは岸和田トークタウンに来るたびに楽しみにしているものだそう。やっぱり美味しいご馳走を食べると人は変わりますね。13:00からの美咲もよかったんですけど、15:30からの回は歌手として、いや、人として、違っていました。歌で表現する世界の、そこに存在する人間としてのありようの、細部まで神経が行き届き、繊細だけど大胆で豪放、演歌歌手、歌謡曲歌手としてここまでレベルの高い次元にいる人間は、いまほかにいないのだぞ、並ぶものなどいないのだぞと見せつけてくれましたね。いやあ、すごかった。

 

15:30からの回では、「東京のバスガール」も「お久しぶりね」も「恋の終わり三軒茶屋」も、ぜんぶ完璧でした。完璧とは音程が、というだけではありません。表現として相当な高みにあったという意味です。しかしそれでも、オープニングで歌った「無人駅」の破壊的ど迫力、孤独の境地を綴る究極の歌唱表現の前には、なにもかも消し飛んでしまったのです。それほど、あの「無人駅」はスペシャルでした。たぶん、ワン・アンド・オンリーです。二度とあんな背筋の凍る歌は聴けないと思います。いくら美咲でも。

 

いやあ、しかし、1.26のソロ・コンサート、2.13、14の新曲発売記念イヴェントと美咲の成長&完成を聴いてきたつもりでしたが、3.30岸和田15:30からの回は、それらのさらに上空を飛翔するすんばらしさでした。こんな歌、こんな美咲、こんな「無人駅」は、知らないです。いやあ、今日はものすごいものを聴いてしまいました。大感動です。美咲に心から感謝します。いや、それにしてもホント、今日の美咲はいったいどうしたのでしょう?どうしてここまでの歌表現ができるのでしょう?わからないことだらけになりました。

 

2019.3.30岸和田トークタウンでの岩佐美咲イヴェントのちゃんとしたレポートは、このわいるどさんのブログ記事をお読みください。
https://ameblo.jp/saku1125/entry-12450489104.html

2019/03/30

可能なら権利を買ってでも上げたいんだけど

Fullsizeoutput_1dce どんどん自作ムーヴィを YouTube に上げているけれども、といってもオリジナルではなく流通音楽 CD 商品から勝手にアップロードしているだけで、それが現在いくつあるのかな、500個近くあるのか?、ともあれ権利の切れた古い録音以外はすべて著作権侵害を起こしていることになる。

 

だからダメっちゃあダメなんだけど、どうしてもこの音楽をみなさんに紹介したい、聴いてもらいたいという一心でやっているボランティア行為であって、手間がちょっとだけかかり、お金は一円もかからないけれど、もちろんぼくの懐になにがしかが入ってくるなんてことはありえない。NPO みたいなもんなんだから、もっとゆるく長い目で見てもらってもいいんじゃないかと思うこともある。

 

ブログを開始して以後は、論を進める上で音を聴いて検証してもらいたいという目的でも、ネットにまだ存在しない音源を自作ムーヴィにして YouTube に上げるようになった。Spotify を本格活用するようになって以後それで見つかる音楽はそれで、それになければ(無関係の第三者の手になる無断のものでも)YouTube アップローズを探し、それもなければ自分で上げる。

 

こういうのはですね、まあ法を犯しているという意味では絶対ダメな行為ではありますけれどもね、音楽が好きで好きでたまらない人間の、社会への一種の奉仕、恩返しでもあると思う。しかし、違法は違法、取り締まられることもある。いままで四回、問答無用で YouTube 運営側にムーヴィを強制削除された。一回削除されるたびに警告のメールが来て、著作権法のお勉強問答をやらされ、さらにアカウント停止の猶予回数が一個減る。

 

事前告知なしで運営側に無言強制削除される YouTube アップロードは、見ているとどうも再生回数の多いものが標的になる傾向があるように思うのだが、たぶん間違いないね。音楽家の有名/無名、ネット音源管理に厳しい/厳しくない、も関係ないようだ。マイルズ・デイヴィスなんか、いくら上げてもいっこうに注意すらされないもんね。野放し状態。

 

はじめてその手の強制処分を受けたのはプリンスの音楽だけど、彼は超人気有名人でネット音源管理にも異常に厳しかったので知られているけれど、それでも四個上げたうち、最も再生回数の多いほうから二つだけが強制削除された。察するに動画の再生回数が増え人気が上昇すると、たぶん話題になりやすく、結果、権利者(クレームするのは発売元のレーベルである模様)の目にとまりやすく、それで、アッ!これはアカンやないか、削除申請を出そう!となっているように推測する。たぶん、間違いないね、うん。

 

2018年に発売されたグラント・グリーンのファンク・ライヴからのファンキー・メドレーも、むろん無断で上げているわけだから文句は言えないが、発売元からのクレームで強制削除された。だからライフがまた一個減ったわけ。その際、残りライフがたったの一つとなってしまい、もう一度同じことがあれば君の YouTube アカウントは停止されるぞとの警告メールが来たので、もう今後はなにも上げないようにしたい。

 

いちばん言いたいことは、いまの時代、音楽のリリース商品はフィジカルだけでなくネットでも聴けるように、というかむしろどっちかというとネット優先で聴けるように、してもらいたいということだ。前々から言っていることだけど、それが音楽リスナーの便に利することなのだ。CD しかないとかだと、ネットで紹介できないでしょ。それを買ってほしいと言って乞い願うしかないわけで、ばあいによっては相手によっては、むずかしい提案だったりするんですよ〜。あるいはネットに文章でも公開するばあい、音源を例証として引用できないじゃん、ネットで聴けないとさ。

 

その点、プリンスの音楽は、昨2018年、(ほぼ)ぜんぶネットでオフィシャルに聴けるようになったので、もはや悩みはなくなった。こんなにもステキだぞと紹介したいばかりにその一心で YouTube アップロード・ファイルを作り、上げて、結果、強制削除され警告されてライフが計二個減ったけれども、いまはもうだいじょうぶ。あんなプリンスだったけど、亡くなって、遺族やレコード会社のみなさんが考えてくださったということだね。ことばもないほど感謝している。

 

そういったことを、グラント・グリーンのかのライヴ盤にしろなんにしろ、発売元は考えて実行してほしいんだ。アッ!無断アップロード見っけ!報告し削除申請を出そうっと!ってなことは、まあ当然でしょうがそればかりじゃなく、みんなが簡単にネットで聴けるようにしてくれなくっちゃダメなんだよ。CD っていつかは廃盤や製造・販売中止になるでしょ。その後はどうすんのさ。

2019/03/29

むかしこんなひとがいた

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22歳で東京に出てきたんですけど、その前の五年間がジャズ時代というかジャズ修行時代っていうべきでしょうか、ぼくにとってはそんな時期でした。情報というか、知識と知恵を求め、経験を求め重ね、そして当時はレコードしかありませんでしたからレコード・ショップのジャズ・コーナーで長い時間を過ごしていましたねえ。

 

だいたい、ジャズのレコードでどれを聴いたらいいか、このジャズ・マンのことはちっとも知らないけどどこから聴いていったらいいか、なんていうことも、まあ1979年以後のことですからそれなりに情報というかガイドがあったんですけど、ものによってひとによって、言うことが違っていたり正反対だったりしますから、結局のところ、自分の直感みたいなものを信じるしかないんです。

 

ずっとそれでちょうど40年間やってきました。結果的にこんな人間になりましたから、成功だったか失敗だったか、自分では判断できません。それでもまあまあちょっとは聴いてきたと言えるんじゃないかと、ぼくなりに自負しております。そんなあいだ、ときどきはイヤな思いをしたりゲンナリすることもあったんです。

 

いちばんチェッ!と思った瞬間は、レコードを買う際、他人にその選択を支配されようとしたりしたことでした。さすがに2019年ともなればそんなひとびとは絶滅したと信じていますが、むかしはこんなひとがいたんです、それもレコード・ショップにですよ、アンタにこれはススメられない、まだ早い、まずこっちから聴け、だからまずこれを買えと言われるんです。ジャズのレコードの話です。それもレコード・ショップのジャズ担当者が言うんですよ。

 

なんどがあったんですけど、おかしいでしょう。レコード・ショップで、たとえばチャーリー・パーカーを抜き出して、大学生のぼくはお店のおじさんに聞くんです、「これはどんな感じですか?」と。すると、上で書いたような内容をまくしたてられ、ウンチクを聞かされて、挙げ句の果てにぼくが抜き出して尋ねたレコードは売ってもらえないんですよ。

 

こんなことがあっていいのでしょうか。ジャズにかぎらずどんな音楽家でも、どこからまず入って聴きはじめるかは、各人おのおの自由でいいはずです。その音楽家をよ〜くご存知の先輩が、まあよかれと思っての老婆心なんでしょうけど、これはまず入門には向かない、まず順番にこれらを聴いてからそれを、とアドヴァイスなさりたいお気持ちは、ぼくもいたくわかります。けど、やっちゃダメですね。

 

そういった老婆心の発揮は、たんにアドヴァイスとして功を奏さないばかりではありません。マニアとして自分たちとその世界を囲い込み、結果的にその音楽家や音楽の敷居を高くして、これから入ってこようという人間を遠ざけてしまうだけなんです。つまり、ご本人の意図と正反対の結果しかもたらしません。

 

なににガビ〜ンと来るかは、ひとそれぞれ違うと思うんです。ツウが思う意外なものが、イイッ!と感じることだってありますよね。

 

以前、ぼくは痛烈なマニア批判を(サッカー・マニアと上西小百合議員の一件にからめて)やりました。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-6f6b.html

 

これは自戒の念を込めてという意味もあっての文章だったのですが、今日のこの文章も、長年にわたるぼくのレコード/CD 蒐集と、それにともなってのイヤな経験とをあわせ、はたして自分がそんなダメおやじになっていないかを自省してという側面もあるんです。

 

他人にアドヴァイスする際は、細心の注意を払わないといけませんね。

2019/03/28

イーグルズ『ザ・ロング・ラン』がわりとブラック・ミュージックだし

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https://open.spotify.com/album/1sW1HxI9VppbiXqgFQHVCP?si=wF131hFYSjmlcS6GmdBESg

 

『ホテル・カリフォルニア』の大成功から二年以上を経て1979年に発表されたイーグルズの『ザ・ロング・ラン』。個人的にはこれがリアルタイムでの初&唯一イーグルズなのだ。解散前にもうひとつ、ライヴ・アルバムがあるが、どうしてだかその気にならず手に取ったこともない。むろん再結成後なんか眼中にない。それは『ザ・ロング・ラン』が強い終末感を、すなわちぼくたちはもう終わったんですよというオーラを強く放っているせいかもしれない。

 

リアルタイムでの初&唯一のイーグルズなんだから、彼らのほかのどんなアルバムより思い入れは強い。そしてそれ以上にこの『ザ・ロング・ラン』を特徴付けているのは、けっこう黒っぽいということだ。たぶんイーグルズが最もブラック・ミュージックに接近したのがこの一枚なのだ。こういったことをイーグルズのファンやロック専門家のどなたかがたぶんすでに言っているだろうとは思うものの知らないので、今日、ぼくなりに書いてみようっと。

 

5曲目の「キング・オヴ・ハリウッド」までがレコードでの A 面だったが、そういった思い出にかかわる部分をいったんおくと、まずオープナーの「ザ・ロング・ラン」がわりかしメンフィス・ソウルふうなビートというかリズムの創りじゃないかな。それをもっとタイトにしたみたいな感じがする。そのほか、『ザ・ロング・ラン』で黒人音楽的かなと思うものを拾ってみれば、2曲目「アイ・キャント・テル・ユー・ワイ」、5「キング・オヴ・ハリウッド」、7「ゾーズ・シューズ」、8「ティーネイジ・ジェイル」あたりかな。ラストの「ザ・サッド・カフェ」はジャズだけど、黒人音楽的ではないね。

 

2曲目、新参加のベーシスト、ティモシー・シュミットの「アイ・キャント・テル・ユー・ワイ」。これこそ、レコード発売当時から現在2019年まで、ずっとこのアルバムでいちばんの愛聴曲。これは R&B バラードだもん。ブルー・アイドだけど完璧だ。ブラック・ミュージックのデリケートな肌ざわりがあるよね。サウンド・メイクもそうだけど、なんたってティモシーのやわらかいヴォーカルと、それからクリーン・トーンで弾くグレン・フライのギター・ソロで泣ける。すばらしいのひここと。

 

5曲目「キング・オヴ・ハリウッド」は特に黒人音楽的に聴こえないかもしれないが、この淡々と進むビート感。起伏に乏しく(平坦で)起承転結がなく、同一の雰囲気と同一のパターン、ワン・グルーヴを延々と反復しているこのサウンド&リズム・メイク、それがブラック・ミュージック的だなと思うわけ。だいたい音楽における<ドラマ>なんて、近代西洋の発想だ。黒人音楽はその尺度では計れない。

 

7「ゾーズ・シューズ」、8「ティーネイジ・ジェイル」はやや似たような黒人音楽寄りのサウンドを持っていると言えるかも。それはファンクへのアプローチ、それもリズム面でなくサウンド・カラー面での接近といったことがあるんじゃないかと思う。粘りつくような湿度の高い音色でやる(特に)ギター・トーンの創り。ザップのロジャーなんかに相通ずるものがあるよねえ。

 

「ゾーズ・シューズ」ではジョー・ウォルシュ、ドン・フェルダーが二名ともトーキング・モジュレイターをエレキ・ギターにかませて弾いている。つまりトーク・ボックスのサウンドになっているよね。この二人のトーク・ボックス・ギターのからみがこの曲最大の聴きどころ。どう、粘っこいよね。大好きだ、こういうの。この曲ではこころなしかビートもファンクっぽい。

 

「ティーネイジ・ジェイル」での聴きどころとぼくが感じるのは、この大きくゆったりうねる&ストップ・タイムを活用したリズム(とドラミング)と、それからやっぱり楽器ソロだね。一番手でシンセサイザー・ソロが出るが、グレン・フライとクレジットされている。鍵盤シンセだとは思うけど、ちょっぴりギター・シンセっぽくもあるフレイジングだよね。あれっ?やっぱりギタシンなの??ともかくそのシンセの音色がまるでクラヴィネットみたいに粘りつく。この粘着力はブラック・ミュージックのそれだよ。

 

アルバム・ラストで、ゲストにデイヴィッド・サンボーンを迎えてやっている「ザ・サッド・カフェ」。幕閉めに置かれていることといい、これ以上の終末感もないもんだと思うほどのわびしさだけど、しかしそのなかでもアクースティック・ギターのカッティングに着目したい。黒人音楽らしさはないかもだけど、ラテン・ビートの亜種のようなリズム・ニュアンスがあるじゃないか。特にソロ部。ドン・フェルダーが弾いているんだってさ。ラテンの痕跡が聴けるのは、いかにも西海岸のバンドの終焉にふさわしい。

2019/03/27

リンダがリンダだったころ

61ifai2rcyl_sy355_https://open.spotify.com/album/2BbcfLv9Sa82xqHdB1Nf15?si=C-ZHWvQvSZ6Wz9hDCBK5yg

ライノから今2019年に発売されたリンダ・ロンシュタット1980年のライヴ・アルバム『ライヴ・イン・ハリウッド』。意外なことにリンダのキャリア初のライヴ盤となるこれの唯一の瑕疵は、最後の曲「デスペラード」を歌い終えて、「おやすみなさい」と言って音がフェイド・アウトしたのに、そのままにしているとしばらくしてもう一回音が出て、バンド・メン紹介が流れることだ。ここは「デスペラード」より前のパートだったのでは?このしんみりとしたイーグルズ・ナンバーを歌ったリンダの声でおやすみって言われて、そのままアルバムも終われば100%文句なしだった。

しかしこれはけなしているのではない。逆だ。このたった一点を除き、リンダの『ライヴ・イン・ハリウッド』はあらゆる意味で完璧なんだ。1970年代アメリカン・ポップス/ロックのもっとも良質な部分をある意味体現していたと言える70年代後半〜末ごろのリンダ。だから80年の、しかも西海岸ハリウッドでのライヴとなれば、中身は保障されたも同然だけど、実際『ライヴ・イン・ハリウッド』は折り紙つきの上質さ。収録の12曲は、その夜80年4月24日のオリジナル・コンサートから、リンダ自身がお気に入りを選んだらしい。

附属解説文によれば、この『ライヴ・イン・ハリウッド』はブートレグ対策として公式リリースされたという面もあったようだ。しかもそのブートレグは DVD だとのことで、ってことは映像もオフィシャルに記録されているだろうと思うんだよね。テレビ番組用の収録だったようだしさ。今回 CD でのリリースだけど、あの、1980年の、チャーミングなことこの上なかったリンダの姿をもう一回観たいもんだと思う。歌はもちろん言うことなしだから。

『ライヴ・イン・ハリウッド』のバック・バンドは、三人のギタリストを含む八人。たぶんこのテレビ・ライヴ収録用の臨時編成なんだろう。ダニー・コーチマー、ラス・カンクル、ビリー・ペイン、ダン・ダグモア、ボブ・グローブなど、西海岸の腕利きメンツが揃っている。リンダのプロデューサーだったピーター・アッシャーもいる。演奏もこなれたもので、必ずしもリンダの伴奏をしたことがなかったひともいると思うんだけど、立派な出来だ。

西海岸のといえば、『ライヴ・イン・ハリウッド』にはリトル・フィートの曲もある。ビル・ペインの演奏面での参加と関係あるようなないような、要は西海岸勢としての一体感ってことだろうね、イーグルズの「デスペラード」を幕閉めみたいにしてやっていると上で書いたけど、フィートのほうはロウエル・ジョージの「ウィリン」を歌っている。

イーグルズとかリトル・フィートなどとリンダの関係はいまさら言うことはないほど有名だから省略。歌唱の出来をいうと、「ウィリン」のほうはロウエルと比較できない。あんなロウエルしゃべりがあってこその曲だからむずかしいよね、ふつうに歌ってもサマになんないもんねえ。でも伴奏陣はかなりいい内容を展開していると思うよ。

「デスペラード」でのリンダは極上だ。ビリー・ペインのアクースティック・ピアノだけを伴奏にして淡々と、実にしんみりとこんな歌詞を綴っている。沁みるなあ。声を強く出し張るところもあるけれど、全体的にはイーグルズ・ヴァージョン同様の落ち着いたフィーリングでしゃべりかけてくれる。そこには、ひとり者の心境にそっと寄り添う真のやさしさみたいなものだって感じられるもんね。いいなあ、このリンダの「デスペラード」。あぁ、くどいけれども、これでアルバムが終わっていれば…。

『ライヴ・イン・ハリウッド』の目玉は、しかしもっとリズムの効いたロック系ポップ・ナンバーで、しかもそこにはあきらかな、あるいはそこはかとなき、メキシコ/カリブ/ラテン風香がまぶされていて、ぼくなんかはニンマリ。そりゃあねえ、ご存知のとおり西海岸にはヒスパニック系も多いですからね。だいたいサン・フランシスコだってロス・アンジェルスだって、スペイン語の地名だから。

いちばんはっきりしているのが5曲目、ロイ・オービスンの「ブルー・バイユー」で、これはもうラテン・ナンバーと呼んでさしつかえないほどのできばえ。いやあ、すばらしい。伴奏陣もいいんだが、リンダのよく通りわたる澄んだヴォーカルになんたってため息が出る。終盤部、スペイン語で歌うパートが特にいい。エンディングで「アズ〜ル」の「ル」で声を裏返しファルセットになる瞬間のキラキラ!

2曲目「イッツ・ソー・イージー」でもリズム・シンコペイションがいいし、4曲目「ジャスト・ワン・ルック」でもだれなのかエレキ・ギターで引っ掻くようなコード・ワークを聴かせてくれているのが効果大。そのカッティングにはあきらかなラテン・ビートの痕跡があるよね。跳ねるリズムだしね。いや、跳ねているのはアルバムのほぼ全曲そうなんだけど。

リンダにとってブレイクスルーだった大ヒット、9曲目「ユア・ノー・グッド」では、オリジナルにないジャム・パートをはさんでの約六分間。ジャムはギター二名のソロ・バトル。この日のライヴ、クレジットでは三人のギタリストがいるし、スタイルを聴解する力がぼくにはないので、どなたかお願いします。ジャム・パートはライヴならではのおまけだけど、あらためていい曲だよねえと実感。

2019/03/26

奇特なぼくら

 

Fullsizeoutput_1dc1ときどき忘れて勘違いしそうになるけれど、音楽にかんしてぼくはマイノリティのなかのマイノリティなのだ。音楽を好むという人間はどっちかというと多数派だと思うけれど、たいていみんな自国の歌を聴いている。それもポップ・ソング、つまり(日本だと)歌謡曲とか演歌その他であって、ましてや外国の音楽、それもそのなかでも特に人気のない分野を選り好みして進んで聴くというような人間は、超少数派。
洋楽でもロックとかジャズは人気のあるほうに入ると思うし、有名歌手や音楽家は知名度だってあるだろう。ブラジルのサンバとかボサ・ノーヴァとかもわりと知られているのかな。でもたとえばそのブラジルのなかでもショーロとかってなると、好きでどんどん漁って聴いているという人間なんて、まずいないんだ。ぜんぜんいないかも?と思ったほうがいいんじゃないか。
ここらあたりはぼくがときどき誤解しそうになることで、ショーロについて熱心に語った文章をブログに上げて、そのお知らせを Twitter に書くとすこしだけ好反応があったりするんだけど、よくよく見てみたらそれはみんなエル・スールとなんらかの関係を持つひとたちだけで、彼らもやっぱりみんな奇特な部類なんだよね(笑)。世間一般の嗜好とは、ぼくたちみんな、かけ離れているんだぞ。ショーロなんて、そんな音楽があるということすら知られていないと思う、一般的には。
洋楽でもアメリカ音楽やブラジル音楽はわりと知名度のあるほうで、しかしそのなかでもたとえばジャンプ・ミュージックやジャイヴや、上で書いたショーロとかなんかはまったくもって人気がないどころか知られてもいない。だからましてやアメリカやブラジル以外の国や地域の音楽なんて、そもそもそんなもんがあるのか?くらいに思われているかもねえ。
困ったことにヾ(๑╹◡╹)ノ、エル・スールというお店はそういった「そんなもんがあるのか?」という音楽の CD ばかり売っていて、ここに集結するリアルでもネット通販でもお客さんは、ぼくを含め、そういうのこそが好きなのだ。ぼく個人はなんだかんだいってアメリカ合衆国産の音楽が結局いちばん好きだけど、みなさんはそうでもないみたいだしなあ。ソ〜ト〜珍しい部類の音楽好きに入っちゃうんだぞ〜。
ぼくたち、常にマイノリティ。だから虐げられているなんてことはなく、そんな感覚も事実もなく、ただたんに好きな音楽を心ゆくまで存分に楽しめれば、それでだれにも災いをもたらさなければ、なんの問題もない。自分の趣味や考えを、ほかの音楽愛好家に強要したりすることなく、ただ個人個人がおのおの好きなものをひたすら楽しんで、ひとによってはおおやけに文章を書いたりして、それも趣味の範囲なんだから、どなたとも関係なしだ。
音楽愛好の世界で、自分たちが中心にいるだとか、みんなを引っ張っているだとか、そんなことをいっさい考えず意識もせず、ただ偏屈で珍妙なマイノリティ趣味のままどんどんひとりで進みたい。間違ってもぼく(たち)は音楽リスナーの王道表通りを歩んでいるだとか、勘違いしないことだ。マイナーな人気のない音楽をひっそりと楽しんで、結果、文章を書いては公開しているけれど、あくまでだれにも理解・共感されない日陰者だ。

2019/03/25

これまた2010年代のアマジーグ・フォロワーだ 〜 フリークレイン

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これはフリークレインっていうほうがバンド名で、『ノマド』は作品名か。な〜んも知りませんがゆえ、いまようやく把握いたしましたこの2017年のアルジェリア盤 CD。しか〜し、中身の音楽はそんなに知らないものじゃないぞ。端的に言えば、これまた21世紀に蘇りし1998年のグナーワ・ディフュジオンというか現代版アマジーグ・カテブにほかならない。人気だなあ、アマジーグ。

 

 

昨年もこのブログで書いた、なんだっけなアルジェリア出身のバンドが、もろグナーワ・ディフュジオンだったけれど、っていうかこのバンドはアマジーグのワン・マン体制なのでアマジーグの影響ということか、どうもこの2010年代に入ってそれが若い世代のアルジェリアのバンドに顕著に出てきているような気がする。シーンを把握するのが苦手な性格なのでわかりませんが、なにかこう、現代版アマジーグとでもいうような傾向が見えるような見えないような…。

 

 

2010年代のアマジーグがいまのアルジェリアのバンドに見えるというのは、このフリークレインの『ノマド』にしてもそうなんだけど、ライ(はアマジーグにはないのだが)と、それからシャアビを根底に置きながら、音楽の方法論としてはレゲエやロックやラガマフィンなどをまとうという、そういったサウンド・メイクのありように最も顕著にあることなのだ。アマジーグ・フォロワーのぜんぶのバンドがこの方向性を取っている。

 

 

フリークレインのばあいは、それプラス、リード・ヴォーカリストの歌いかたにもアマジーグ唱法の直接の痕跡がはっきりと聴ける。声の出しかた、張りかた、ワン・フレーズの終わりで「アァ〜〜」と声をサステインさせるときのその声のトーンなんかもそっくりじゃないかな。ちょっと揺らぎながら哀しみを込めて、しかし強く訴えかけるように濃いヴォイスで伸ばすところ。同じだ。

 

 

『ノマド』にはレゲエもはっきりと(直接的、間接的に)聴けるし、またそれ以外の曲の多くはビートがロックのそれだなと聴こえたり、しかしグナーワ・ディフジオンと違ってストレートなシャアビなんかは聴けない。徹底的にポップ・ビートの衣をまとわせているのが今様なのかな。エレキ・ギターの単音弾きはここでもやっぱりカルロス・サンタナっぽい。って、サンタナの影響拡散力もこれまたすごいものがあるなあ。

 

 

だいたいフリークレインの『ノマド』には「Amazighia」なんて曲題のものがあるくらいで、その1曲目なんか聴いたら、な〜んだグナーワ・ディフュジオンのコピー・バンドじゃん、って感じちゃうくらいクリソツなんだけど、2曲目以後ラストまではそれなりのこのバンドらしい個性もうかがえて、微笑むところ。なかなか完成度も高いし、楽しめる一枚です。

2019/03/24

超爽快なバンドリン・ジャズ 〜 カラピッショ・ランジェル

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この作品、bunboni さんに教えていただきました。感謝します。
https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-01-19

 

 

いやあ、カッコイイなあこのブラジリアン・ジャズ。そう、ジャズに違いない作品だ。主役は(ジャズというよりショーロで頻用される)バンドリンだけど、こういったジャズこそ、現在進行形のもののなかでは、いまのぼくにとって理想形のひとつ。も〜う、カッコイイのひとことに尽きるほど爽快にカッコイイぞ。まるでイケメンが颯爽と疾走するかのごとき風景を感じるサウンドだ。おかしいですか、この表現?

 

 

このアルバムでの主役バンドリン奏者はカラピッショ・ランジェル(Carrapicho Rangel)。アルバム名は『Na Estrada Da Luz』(2018)で、編成はバンドリン、ピアノ、ベース、ドラムスのカルテット。まず、いちばんグッと来るのがアルバム・ラスト8曲目の「Brisa」(作はパウロ・アルメイダ)。こ〜れが!もう!特にリズムのキメが爽快のひとことに尽きる!カッコイイなんてもんじゃない。ピアノ+ベース+ドラムスの三人がビシバシ決めまくるんだけど、いやあ、すんごくいいぞ!

 

 

曲「Brisa」では出だしからそのキメが入るので、みなさんすぐにおわかりいただけるはず。キメが演奏されたまま、そのまま上にカラピッショのバンドリンが乗っていく。それもうまくて舌を巻くような技巧だけど、決してメカニカルに無機的ではない。ぬくもり、あたたかさ、リリカルさを感じられる弾きかたなのがいいね。しょんべんチビリそうなほど超絶クールなキメの上をバンドリンが走るさまは爽快。快感だね。キメたまま曲じたいが終わる。いやあ〜、たまりませんね。

 

 

「Brisa」の前の7曲目「Partindo Pro Alto」だって同様のカッコいいキメが(ここではピアノとドラムスのデュオで)ビシバシ入るし、だいたいこのカラピッショのアルバム『Na Estrada Da Luz』は全体的にとてもよくアレンジされ練りこまれている。合奏パートが多く、その合間を縫うように入るソロは必要最小限で曲全体を壊さないように、というのが考え抜かれているんだよね。

 

 

それでここまでカタルシスがあって、しかもアルバム全体がたったの37分間で、しかもそれで食い足りない感じなんて全然なくって大満足っていう、こうなるとアメリカ合衆国の1960年代ジャズなんて、いったいなんだったんでしょうか?と言いたくなってしまうが、音楽の種類が違うんだから比較は無意味ですね。いまの即興系なんかも、ちょっとその…(モゴモゴ)。

 

 

カラピッショの『Na Estrada Da Luz』。ここまで乾いてクールなキメというかアレンジをやりまくるのに、ぬくもった情感があって、それはあたかもショラール感覚と言ってもいいようなものなんだけど、それは主役がバンドリンを弾いているせいなのか、あるいはそういった持ち味の音楽家でそういった音楽なのか。ちょっと2010年代後半の新世代ブラジリアン・ジャズって、おそろしいほど上質だ。

2019/03/23

渋谷で5時

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1991年に渋谷にメイン・キャンパスがある大学に就職したけれど、その前は東急東横線の都立大学へ通っていたから結局やっぱり渋谷駅がターミナル。そんなわけで1984年の上京時から2011年に愛媛に帰ってくるまで、ずっと渋谷がぼくのホーム・グラウンドだった。レコードや CD も、渋谷でいちばんたくさん買った。だから渋谷にあったレコード、CD ショップには、ほぼ入りびたり状態だったなあ。

 

 

いまでこそワールド・ミュージック・ショップ、エル・スールでめっちゃたくさん買っているが、このお店はぼくの東京時代、宮益坂にあった。現在は公園通りの NHK ホールへと向かう道中にある。しかし東京時代にそんなにたくさん通ったわけじゃなかった。ぼくが上京したころ、まだなかったように思うんだけど、間違っていたらゴメンナサイ。

 

 

タワー・レコード渋谷店も1984年にあったかどうか、記憶が定かでない。あったかなと思うんだけど、ぼくが憶えているのは宇田川町のジーンズ・ショップの二階にあったタワレコ渋谷店。80年代なかごろ?か後半からか?そこに通いはじめ、輸入盤のレコードや CD を、それこそ山のように買いまくった。都立大学から渋谷まで帰ってきて買って、自宅へ向かう山手線に乗る前に荷物を抱えて、という感じだったなあ。

 

 

アナログ→ CD の移行もタワレコ渋谷店で体験した。以前も書いたが、ぼくがはじめて買った CD はマイルズ・デイヴィスの『オーラ』で、当時これが CD しか店頭に並ばなかったためだ。まずそのソフトを買って、すぐにプレイヤーを買った。マイルズの『オーラ』CD をタワレコ渋谷店で買ったんだよね。でも当初、レコードはないのか?!と店内をさがしまわり、店員さんにも聞いたんだよ。

 

 

渋谷にメイン・キャンパスがある大学に就職してからは、サムズが最頻店となった。大きな歩道橋を渡った渋谷警察署の裏のビル二階にあった時代の話だ。渋谷駅を降りて大学まで歩いていくちょうどその道中にあったのでそれで発見し、通うようになった。ここはアメリカ黒人音楽の専門店。そりゃあも〜う、買ったなあ、サムズで。現在持っている CD の総量でいえば、サムズで買ったものがかなりの割合を占めるはず。

 

 

サムズには毎日(のように、ではなく文字どおり毎日)行っていた。小さなお店だし、そんなに行っていたらもちろん顔と名前を憶えられてしまう。好きな黒人音楽の趣味も把握されてしまい、ある時期以後は店内で物色しているとお店のかたから「戸嶋さん、こんなの出ましたけど、どうですか?」などとオススメされることも増えたのだった。その多くがブルーズ。1990年代はブルーズ・ブームだったしね。いやあ、サムズではとにかく買った。移転してからは行きにくくなってしまい残念。いまはもうない。

 

 

それからいままでもぼくの文章でしばしば名前を出しているが、渋谷東急プラザ(も、いまはもうないんだっけ?)内にある新星堂でもたくさん買ったなあ。ここでは CD しか買わなかった。仕事のとき、ぼくは常に早めに渋谷駅に到着してしまう習慣があったので、まだ大学まで歩いていく時間じゃないなと思ったとき、井の頭線のホームから近いので東急プラザによく立ち寄ってブラブラしていたんだ。紀伊国屋書店も入っていたので、そこもよくぶらついていたよ。

 

 

ディスクユニオン各店だって渋谷にもあるし、HMV も Wave もあったし、なんというか渋谷は(いまはどうだか知らないが)レコード、CD ショップがひしめく激戦区みたいな印象が1980年代後半〜90年代いっぱい、つまり20世紀末にはあったと記憶しているんだけど、違うかなあ。もうホント、時間がいくらあっても足りないんだよね、そんなに音楽ショップがあったら、その街をぶらつくのにさ。半日くらいはあっという間に過ぎてしまう。

 

 

そんな街だからなのか関係ないのか、1995年に参加してサーヴィス終了まで夢中でやっていたパソコン通信 Nifty-Serve の音楽部屋のオフ会は、どれも必ず渋谷で行われていた。レコード/CD ショップがたくさんあるのでみんなでグルグルまわり、食事をするお店にも困らないし、最後は老舗ロック喫茶の BYG(道玄坂)でゆっくりしながら、その日の収穫物をみんなが報告し、あとは雑談。楽しかったなあ。

2019/03/22

UK ブルーズ・ロック 9

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ブルーズはアメリカ産のものなのに、ブルーズ・ロックとなると、むろんアメリカ人もやっているけれど、断然ブリティッシュ勢、それも1960年代発信のものがおもしろいし、すぐれているように見えるし、熱心でもあって、成果を残しているよね。ポール・バタフィールド、オールマン・ブラザーズなどアメリカにもいるが、イギリスだと、たとえばローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリン、ジェフ・ベック、エリック・クラプトン、ヴァン・モリスン、などなど、嗚呼、瞬時にどんどん名前があがるじゃないか。いくらでもいる。やっぱりね、そうだよ。

 

 

そんなわけで、今日は個人的にお気に入りの UK ブルーズ・ロックのアルバム九枚を並べておくことにする。ベストテンじゃなく九枚なのは、ひとえに上掲画像のようにタイルしたかったから。それだけ。以下、2019年3月時点での個人的好み順に一位から並べておいた。上掲正方形画像も同じ順で左上から貼ってある。

 

 

1. Fleetwood Mac / Fleetwood Mac (1968)
2. The Rolling Stones / Exile On Main Street (1972)
3. Led Zeppelin / Led Zeppelin (1969)
4. Jeff Beck / Truth (1968)
5. Free / Free (1969)
6. Cream / Wheels of Fire (1968)
7. John Mayall & The Bluesbreakers With Eric Clapton (1966)
8. Them / The Angry Young Them (1965)
9. The Animals / The Animals (1964)

 

 

フリートウッド・マックは、例のアルバム以後大人気になったけれど、ブルーズ・ロック観点からはもちろんピーター・グリーン時代だ。同様にゼムもやっぱりヴァン・モリスン時代がいいってことになるよね。アニマルズも似たような傾向があると思うので、これら三者、そういった時期のそういったアルバムでいちばん好きなものを選んでおいた。

 

 

エリック・クラプトン関連が二作となったのはあれだけど、でも当然という気もする。1960年代の英国で、ブルーズ・ベースの(ロックのような)音楽をやっていたなかで、いちばん輝いていたのはやはりクラプトンに違いないから。クリームにかんしてはもっと違うアルバムがよかったような気がしないでもないが、『ウィールズ・オヴ・ファイア』がぼくは好き。それだけ。ジョン・メイオール関連はもちろんこれだ。ひょっとしてブルーズをやるクラプトンの生涯ナンバー・ワン?

 

 

レッド・ツェッペリンとジェフ・ベック・グループのブルーズ・ロックはファーストと『トゥルース』で決まりだと、たぶんみなさんも思うんじゃないかな。フリーについてのぼくの選出はイマイチかも。でもこれも(ジャケット含め)好みの問題だから、しょ〜がないよ。

 

 

ローリング・ストーンズのブルーズ・ロックというと1960年代ものをみなさんあげるんじゃないかと思う。異論はないんだけど、個人的見解としては、1972年の『エクサイル・オン・メイン・ストリート』こそ、最高に消化・昇華されたブルーズ・ロック、でもない、もはやこれはブルーズそのものの味わいだと言いたくなるほど。それほどぼくは好きだし高く評価している。UK ロック勢が生み出したさまざまな作品のなかで、いや、別のいろんな意味でも、ロック界最高傑作じゃないかな。

2019/03/21

大編成オーケストラの時代

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クラシック音楽の大規模管弦楽とか、ジャズのビッグ・バンドとかは、なんたって生演奏現場の隅々にまで音を届けなくちゃいけないからあんな大人数編成になっていたというのが、誕生当時のまずもって最大の理由。少人数編成での生音では大きな会場の隅々にまで音楽が行き渡らない。電気拡散技術、すなわち PA(Public Address)なんかまだなかった時代の話。

 

 

 

 

ってことは、PA なしでも、聴衆規模が小さい時代やばあいには、あんな大編成は不要だと考えることも可能。実際、クラシック音楽のシンフォニーなんかでも、モーツァルトが生きていた時代あたりだと、聴衆のいる場所がまださほどの大きさじゃなくて、だからいわゆる古楽っていうんですか、楽器もあの時代のものを再現したものを用い、演奏するオーケストラの規模も抑えてわりと小さめの編成で再現した交響曲のレコードなんかがあるよね。大学生のころ、そんなモーツァルトのエインシャント・シンフォニーが新鮮でときどき聴いていた。

 

 

 

 

裏返せば、聴衆規模の、すなわちコンサート・ホールの大規模化は、19世紀の一般市民社会の誕生と軌を一にしていた。19世紀には、ほかにもオリンピックの復活現代化や、万国博覧会、百科事典、デパートメント・ストアの誕生など、似たようなことだったかなと思える事象が発生している。網羅的に大規模化し、それが一般大衆に行き渡ることを最大の目的とするといったことがらがね。

 

 

 

 

ジャズのビッグ・バンドも、こっちはまずもってアメリカ国内でダンスの伴奏をするのが第一目的で、誕生が、クラシック音楽でいう大編成シンフォニーの時代よりすこしあとだったのでとうぜん会場規模は大きい。もちろんニュー・オーリンズで誕生したころのジャズはそんなことなかったのだけど、シカゴ、ニュー・ヨーク、カンザス・シティなどのダンス・ホール、ボール・ルームなどでやるようになってからはビッグ・バンドじゃないと音量不足だったことは明白だ。

 

 

 

 

ダンスの伴奏音楽としてのジャズ音楽が会場で踊る客みんなに聴こえないといけないわけだから、コンボ編成ジャズ・バンドの、まあドラムスやピアノなんかはもとから音がデカいのでそのままでいいが、管楽器は同じものの人員を三人とか四人とかに増幅し、音量増大を図ったんだね。むろん、クラシックの管楽、すなわちブラス・バンドや、ひいてはマーチやポルカのバンドなども参照したに違いない。

 

 

 

 

古典的クラシック音楽(ミョ〜な言いかただけど)のコンサートではあくまでアクースティック・サウンドを届けることになっているのでいまでもそうだけど、ポピュラー音楽ではある時期以後マイクで拾った音を電気で拡大して大きなスピーカーで鳴らし、それでパブリック・アドレス目的は果たされることとなった。だから少人数編成だろうが、アクースティック・ギター弾き語りだろうが、そのまま野球場でもライヴ・コンサートを開催できる。

 

 

 

 

で、実際そういうことになっているけれども、ポップスやジャズやラテン音楽などのビッグ・バンドはやっぱり途絶えない。音量増幅というだけなら意味はなくなったわけだからそこじゃなく、なにか大規模編成、特に大人数管楽器同時演奏になんらかの魅力があって、それはコンボ演奏では実現できないものだからみんな聴くということになっているんだよね、きっと。

 

 

 

 

純音楽的内容から離れるような離れないようなわからないが、ビッグ・バンドは一種の祝祭、ハレの空間&時間&サウンドであるということもあるんじゃないかと思う。いまぼくは、たとえば渋さ知らズのような集団を念頭に置いているのだが、生でもなんどか観聴きしたこのビッグ・バンドは、CD で聴いてもわかる非日常性を実現している。コンボ編成ではちょっと実現不可能なような、まあ有り体に言えばニギヤカシだよね。それが(音だけ CD で聴いても)チョ〜楽しい。

 

 

 

 

そのほか、ビッグ・バンドだと、複数管楽器のトゥッティがもたらす分厚いハーモニーやユニゾンが、ある種のウネリを生んでいると言える。一糸乱れずクラシック音楽みたいに整然と演奏されるのとは若干異なる重なり合いが濁りみとなり、聴き手に快楽をもたらす、そんなことがあるんじゃないかな。

 

 

 

 

ここ10年くらいかな、大規模なジャズ・バンドが復権しつつあって、それにはラージ・アンサンブルというニュー・タームが使われているが、ビッグ・バンドと言わないのにはなにか明白な理由があるに違いない。いまでも銘柄として現役活動している古典的名門ビッグ・バンドと区別したいというだけじゃない、なにか音楽的な違いがさ、あるんだろうね。評価と人気が高いらしいマリア・シュナイダーとか挾間美帆なんかも不精してまだちっとも聴いていないが、もちろんきっとそのうち聴きますよ。渋さ知らズみたいなのが好きなぼくだけどね( ͡° ͜ʖ ͡°)。

2019/03/20

マイルズの電化トランペット時代はマチスモ志向

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それから今日書きたいテーマ向きの端的ないい写真が見つからなかった。ずいぶん前、紙媒体の雑誌かなにかで、マイルズ・デイヴィスの持つトランペットからケーブルが出ているのを直接とらえた写真をいくつか見ていた記憶があるんだけど、画像検索しても出てこない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在までに公式発売されている全音源でたどるかぎり、マイルズがはじめて電気トランペットを吹いたのは、1970年6月3日録音の「リトル・ハイ・ピープル」でのこと。現在ふたつのテイクが公式発売されているが、テイク7、テイク8との表記なので、アーリー・テイクがあるんじゃなかろうか。どんな様子だったのか、知りたいもんだ。ともあれ「リトル・ハイ・ピープル」は『ザ・コンプリート・ジャック・ジョンスン・セッションズ』(2003)で聴ける。それまで完全未発表だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マイルズに電気トランペットを提案したのはチック・コリアだったとのことなんだけど、実際、「リトル・ハイ・ピープル」のセッションに参加している。がしかしアイデアはもっと前にチックが持ちかけていたものなんだろう。それでおもしろいとボスも思ったのか思わなかったのか、しかしその後すぐには電気トランペットを吹かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本格的に電気トランペットを吹くようになったのは、公式発売音源だと1970年12月のセラー・ドア・ライヴから。その後翌71年もライヴで吹き続け、この年はスタジオ入りがなぜだかまったくないのだが、72年にスタジオ・セッションを再開したらもう全面的に電気トランペットしか吹かないという具合になって、そのまま75年夏の引退まで続け、81年に復帰したらやめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だからほんの五年間だけのマイルズの電気トランペット時代だけど、その前後と比較して、やはりトランペットの音もトータルでの音楽性も、かなり異なっていたように思うんだよね。ひとことにすれば、マチスモ・ファンク時代。リズムが強靭になり、サウンドも激しく電気増幅されてハードになり、だから最大の上物である自身のトランペットの音も強化すべしと考えたかもしれないよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以前から書くように、ジャズ・トランペットにはそもそもマチスモ的なイメージがつきまとう。それを変えたのがほかならぬマイルズだった。音量も音色も小さくか細く、まるで女性的(女性のみなさん、ごめんなさい)。およそ猛々しくないやさしくソフトなサウンドでしか吹けないのがマイルズで、かのチャーリー・パーカーだってそんなマイルズの特徴がちょうど自分のアルト・サウンドといいコントラストになると踏んでバンド・レギュラーに起用したのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自身のバンドを結成してからも、マイルズはただでさえ音量の小さいソフト・サウンドである自身のトランペットに、さらに弱音器まで付けてもう一段小さく細くしてしまうというやりかたでトレード・マークとしたくらいなのだ。そんなハーマン・ミュートでのプレイで必要最小限の音数しか使わず、繊細にていねいに、薄〜っいガラス製品を扱うがごとき演奏で評判をとり、人気も定着した。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-0e78.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1970年暮れから五年間の電気トランペット時代は、そういった方向性とはまるで真逆だよね。猛々しく荒々しい音色だし、しかもその時代、マイルズはかなり音数多めに吹きまくっている。女性的な繊細さとはほど遠いマチスモ・イメージがあって、しかも1981年にカム・バックして以後は、またふたたび従来のソフト路線に回帰したかのようだったので、70〜75年のあいだだけの特異現象だったかもしれないんだなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マイルズの電気トランペット時代は、ジャズ・トランペットというものの本来的特色を再獲得し回帰しただけだったと言うこともできようが、マイルズの音楽キャリア全体を見ればちょっとそれも違うような気がする。あの1970年代のロック/ファンク時代に合うように自身の楽器の音もチューンナップしていたと、それも一時的なものだったと見るのがふさわしいんじゃないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あんなハードな電化ファンクへと変貌していたマイルズ・ミュージックだから、自身のか弱いトランペットの音(しかこのひとは生では出せない)ではそぐわない、バンド・サウンドのなかに埋もれて消えてしまう、なんとかしなくちゃ!と考えて採用したのが、トランペットにピックアップ・マイクをつけ、ケーブルでアンプに接続し電気増幅するという手段だったんだろう。必然的に音色も、吹奏全体も、バンド・サウンドも、デリケートさよりワイルドさのほうが勝るようになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1970年代マイルズのファンク志向と一体化していた電気トランペットの吹奏は、このひとにしては珍しいマチスモ志向だったのだと見ることができるかも。

2019/03/19

トランプ時代のアメリカ音楽 〜 メイヴィスの『ライヴ・イン・ロンドン』

 

 

ロンドンのユニオン・チャペルで2018年7月に録音されたメイヴィス・ステイプルズの『ライヴ・イン・ロンドン』(2019)は、完璧にオールド・ファッションドな音楽だ。1曲目「ラヴ・アンド・トラスト」出だしのブルージーなエレキ・ギターを聴いただけで、まるで50年くらい時代をさかのぼったような気分になる。メイヴィスは80歳ほどなわけだし、ちょうどいちばん元気があったころのそんな音楽をいまに再現していると言えるかも。

 

 

元気があったころと書いたけれど、でも『ライヴ・イン・ロンドン』でのメイヴィスも相当元気だよ。そして、実際、いま2018〜19年も、ちょうど50年前くらいと似たような時代状況になってきているのじゃないだろうか。メイヴィスの音楽が、変わっていないのに老いず衰えず(と聴こえる)訴求力を放っているようなのは、きっとそのせいに違いないと思える。おそらくこの歌手はこのことに自覚的だ。だからこんなライヴ・アルバムをリリースしたのだろう。

 

 

とりあげているレパートリーも、トラックリストで曲名をざっと一瞥しただけで想像できそうな、まったくそのとおりの内容の歌が続いている。いま、2018/19年ごろに、アメリカ(だけでなく世界)で失われようとしているかのように見えるものを取り戻さんとでもいうべきメッセージというかアピールだよね。しかも、社会的、政治的であると同時にきわめてパーソナルな日常の現実にも密着している。

 

 

そんな内容を綴るメイヴィスの歌声に変わらぬ力強さがあって、失礼ながらとうていこの年齢の歌手とは思えぬ張りと艶を感じる。いま2019年にこの年齢の歌手のなかでは、世界で最もしっかり歌える存在じゃないだろうか。まぁあれだ、愛と信頼とか、あなたは決してひとりじゃないのよとか、そんな内容はちょっといまのぼくは信じられない気分もあるんだけど、メイヴィスにこうやって歌われると違ったフィーリングにもなってこようというもの。

 

 

しかも『ライヴ・イン・ロンドン』は伴奏がシンプルだ。ギター&ベース&ドラムスの三人だけでオーヴァー・ダブもなし。あと、バック・コーラスが二名いて、本当にたったこれだけ。この、いわばスカスカに空間のあいたサウンドが、かえって主役歌手のヴォーカルの存在感、ナマナマしさをきわだたせる結果となっているから大成功だ。飾り付けない音楽で、メイヴィスが歌い伝えたい内容がダイレクトに響いてくる。そんな気がする。

 

 

昨2018年にはライ・クーダーの『ザ・プローディガル・サン』があったけれど、メイヴィスの『ライヴ・イン・ロンドン』といい、いまのこの時代の、しかもアメリカ合衆国人じゃないと産み出しえない音楽作品じゃないかと思うんだよね。

2019/03/18

三天皇といっしょにツェッペリンのフィルム・コンサート(夢)

 

(BGM はこれで)

 

 

この夢を見てから時間が経過しているので内容を忘れている部分もあり、すこしあやふやだけど、憶えていることと、それからしょせんは夢なんだからもう一回想像力を働かせて盛ってふくらませて、記しておこう。今朝の夢のなかでぼくは、昭和、平成、次代の三天皇の居並ぶ同席で、クラスメイトといっしょに、レッド・ツェッペリンのライヴを収録したフィルム・コンサートを見た。

 

 

だから、やっぱり夢だよねえ。いまの皇太子が平成の次の天皇になるその元号は決まっていないし、昭和天皇はこの世にいない。それに天皇家がレッド・ツェッペリンのような音楽を聴くかどうかもわからない。マスコミ報道などではクラシック音楽の楽器演奏をおやりのかたもいらっしゃると見るけれど、だからハード・ロックの、それも生演奏ライヴじゃなくてフィルム・コンサートなんかにいらっしゃるとは思えない。

 

 

まあでも英国王室で、ずっと以前、どなただったかがアメリカのジャズに夢中で…、云々みたいな話を読んだこともあるし、世界の王族・皇族がたのなかで、ポピュラー・ミュージックに興味を示されるばあいがあってもそんなに不思議じゃない気がするよね。それでも、日本の三天皇がレッド・ツェッペリンとはなあ。

 

 

ぼくがツェッペリンの大ファンであることは前からご存知のとおり。それから第二次世界大戦後の皇室に対し好意を抱いていることもたしかだ。特に平成天皇以後かな、共感するようになったのは。このツェッペリン好き&皇室好きのダブルであいまって、夢のなかでそんなことになったんだろうか。う〜ん、わからない。とにかくそのときは高校のクラスでフィルム・コンサートを見るという会で、それに三天皇が同席された。

 

 

あらんことか、ぼくはそのコンサート終了後、平成天皇とことばも交わしたのだった。その内容はぜんぶ忘れたが、たぶんツェッペリンの音楽についてどうお聴きになりましたか?みたいなことをしゃべったんだという気がする。日常のご公務にかんしてもなにか話したかもしれない。う〜ん、忘れちゃった。

 

 

それでそのツェッペリンのフィルム・コンサートは、(愛媛県松山市の)高校のクラスで見るものだったにもかかわらず、サハラかどこか、とにかく砂漠のなかに会場が設営されてあって、スクリーンがあって、席は急ごしらえのパイプ椅子を並べただけだった。不思議なことに、コンサート終了後に平成天皇とことばを交わした際、はしごのようなものを降りてきつつだったように憶えているので、ってことは会場は階上だった?う〜ん、わからない。とにかくふつうにしゃべっただけでなく、はしごか階段を下りてきながら会話した。

 

 

フィルム・コンサートで観たツェッペリンのライヴじたいは、たぶん例の『永遠の詩』(The Song Remains The Same) ではなかった。あれは実際に映画として上演されたもので、ぼくも松山市の映画館で観た、高三のときに。まさにフィルム・コンサート然としていたが、あの映画にはマディスン・スクウェア・ガーデンでのライヴ演奏シーンだけでなく、さまざまにフィクショナルなシーンが挿入されているので、ライヴ体験というのともちょっと違う面がある。

 

 

その意味では、21世紀になってから公式発売された『DVD』(か『VHS』)はコンサートの模様だけを収録したものだから、あれをスクリーンに投影すればツェッペリンのフィルム・コンサートみたいな感じにはなるなあ。いちばん上でリンクを貼った CD 三枚組ライヴ・アルバム『ハウ・ザ・ウェスト・ワズ・ウォン』は、『DVD』と同時期に姉妹商品のようにして発売されたものだった。

 

 

いまでも鮮明に憶えているのは、その三天皇同席のフィルム・コンサートでは、ラスト・ナンバーが「ロックンロール」だった。これは間違いない。だってね、曲の最終盤のストップ・タイムを使ったア・カペラ部 "lonely, lonely, lonely, lonley time!" を、うれしくなったぼくは同時に叫ぶように歌ったんだもん。でもって、そこの lonely と time のあいだの間合いは、四枚目のスタジオ・アルバムにあるオリジナル・ヴァージョンと同じで、間合いをかなり空けることもある各種ライヴ・ヴァージョンのものではなかった。

2019/03/17

シームレス連続再生のために

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音楽狂いで、片時も音楽から離れられないというみなさん、どうなさっているでしょうか?ぼくを含むそういった音楽キチガイのばあい、音楽再生装置をどこにでも持ち歩く以外ないと思うんですけど、なかなかたいへんなばあいもありますよねえ。しかも音質だってあまり犠牲にしたくない。どうすれば、どこへ行っても変わらず音楽を聴き続けられるか、悩むところであります。

 

 

寝ているあいだと仕事のあいだを除けば、ぼくもず〜〜〜〜っと音楽を聴いているという人間だから、それなりに工夫をしないといけません。カセットテープを聴くウォークマンを大学生時分に買って以来、いろいろと音楽の携帯を試してきたんですけど、シームレス連続再生という観点もあわせ考えると、最近、ひとつの結論にたどりつきつつあるのかもしれないです。

 

 

それは Spotify(でなくともいいんですけど)でストリーミング再生し、しかも出力は Bluetooth 機器を用いるという方法です。この Bluetooth 機器を用いるという点が肝心で、ぼくは現在のところその手の音楽出力装置を(常用しているものだけだと)三種類使い分けています。それをいちばん上の写真で示しました。二個までがスピーカーで、残り一個がイヤフォンです。ときどき使うといった程度なら、これら以外にもう三個、Bluetoothスピーカーやヘッドフォンも持っています。

 

 

どうして Bluetooth 機器であることが肝心かと言いますと、これがまさにシームレス連続再生を可能とするものだからです。たとえばですよ、長時間の(フィジカルだとボックス・セットに相当する)一個の音楽作品を、ずっと自室のスピーカーの前にすわって聴くのはなかなかたいへんです。事実上、不可能じゃないでしょうか。五時間とか八時間とか、ばあいによっては半日とかも再生時間がかかる音楽作品は、その長さのあいだに出かけたり、いろいろとするじゃないですか。

 

 

そんなとき、Bluetooth 機器で鳴らしていれば、たとえばスピーカーで聴いていて、別な Bluetooth スピーカーやヘッドフォンやイヤフォンの電源を入れるとですね、自動的にそっちへスウィッチしてくれ、そっちから音楽が流れてくるんですよ。オートで切り替わるんです。タイム・ギャップもありません。音楽がシームレスに流れつながります。これはぼくも最初、知らなかった仕様で、最近はたいへんありがたく活用しています。

 

 

音楽を聴いていて、途中で席を立ちたいとなったとき、というかそうならないなんてことはありませんよね、人間ですからトイレに行ったり、キッチンに立ったり、お仕事やお買いもので外出したり、などなど、さまざまな必要に迫られます。ふつうの(音楽狂ではない)人間なら、音楽を聴くのはそこでストップ、となるのでしょうね。ところがぼくはそれがイヤなんです。ず〜〜〜っと聴き続けていたいんです。有り体にいって、ぼくにとっての音楽とは空気、酸素だから、呼吸を止めるわけにはいかないんです。

 

 

だから、どこででも音楽をシームレス連続再生したいんです。上記のようなケースにくわえ、最近ぼくは毎夜のお風呂前に30分間のウォーキングを欠かさなくなりました。毎晩八時半ごろから歩くんですが、もちろんそれまで部屋でずっと音楽を聴いています。その聴いている音楽を途切れさせず、そのままウォーキングの BGM として持ち歩きたいんです。というか、現実にそうしています。シームレス連続再生で、途切れず、聴きながらそのまま外出し、そのまま聴き続け、帰宅したら、部屋の Bluetooth スピーカーの電源を入れたら、またそっちにシームレスに音楽再生が移動します。

 

 

ウォーキングから帰ったらすぐにお風呂に入りますので、今度は防水ポータブルの Bluetooth ミニ・スピーカーを使いますが、それの電源を入れたら、また自動的にそっちに再生が移動し、またシームレスでそのまま連続再生。お風呂で聴いて、出てからだを拭いて、部屋のスピーカーでまたそのまま連続再生…、てな具合で、部屋に座っていても立って移動しても、どこへ外出しようとも、ぼくのばあい、音楽を途切れずそのままシームレスで連続再生し聴いています。

 

 

だから、途中でなにかしてもしなくても、部屋にいても外出しても、長時間の(ボックス・セット相当の、あるいはどんどんたくさんのアルバムやプレイリストの)音楽をそのまま連続再生し続けて、最初から最後まで八時間でも十時間でも、聴けています。どんな長さの音楽でも次々とスウィッチしながら、どんどん聴くっていう具合です。

 

 

音楽狂で、いつでもどこででも音楽と肌身離れずくっついていたいというぼくみたいな人間にとっては、ホントこれ以外の方法はないと思うんですね。どこへ行くにも音楽をシームレス連続再生できるので、日常生活のどんなことも一層楽しくなりました。いつでもどこででも、音楽といっしょ。これが理想です。実現している理想です、ぼくのばあい。

 

 

なお、Bluetooth 出力装置さえ使えば、べつに Spotify(とかその他ストリーミング・サーヴィス)である必要はありません。スピーカーなりイヤフォンなりヘッドフォンをパソコンとペアリングすればいいだけですから、音楽ファイルがパソコン内にあれば、同じシームレス連続再生が実現できます。しかしですね、外出時に本体からあまり離れると Bluetooth の電波が入らなくなります。だから、現実的にはスマートフォンを持ち歩きながらストリーミング・サーヴィスを使いながらでやる以外ないと思うんですね。

 

 

どうです、音楽好きのみなさん?

2019/03/16

ドゥドゥ・タッサの『エル・ハジャール』で『ラテン・プレイボーイズ』を思い起こした

 

 

昨日、イスラエルのアラブ・ロッカー、ドゥドゥ・タッサ&ザ・クウェイティスの『エル・ハジャール』のことを書いたけど、これをまず一回目に聴いたとき最初に思ったのは、まるで『ラテン・プレイボーイズ』みたいだなということだった。アメリカ西海岸のチカーノ・ロック・バンド、ロス・ロボスの別働隊であるラテン・プレイボーイズの1994年第一作だ。実態はデイヴィッド・イダルゴ、ルイ・ペレス&ミッチェル・フルーム、チャド・ブレイクの四人。

 

 

『ラテン・プレイボーイズ』がどんなふうに創られた音楽なのかはさておいて、『エル・ハジャール』がそれに似ていると感じたのは、おおざっぱな聴感上の類似だけのことで、たとえばドラムス・サウンドとエレキ・ギター、エレベの音が、ミキシングを経てこんな感じに大きく聴こえて、なんだか強調されているなと思うっていう、そんなところが共通しているなと思っただけ。

 

 

『ラテン・プレイボーイズ』だと、たとえば1曲目の「Viva La Raza」なんかでも、イントロを経て本編に入ると、突然ドラム・セットとエレキ・ギターの音がかなり大きく強調されている。ドゥドゥ・タッサらの『エル・ハジャール』でも、たとえばナスリーン・カドリが歌う2曲目で、ヴォーカルに続き大きくそれらが聴こえるし、ドゥドゥみずから歌う3曲目なんかでもそうだ。このズンズン来るドラムスの音、それがいいなとぼくだったら思う。それは『ラテン・プレイボーイズ』でも同じだ。

 

 

「Viva La Raza」は、なんだか曲調もアラブ音楽ふうだと感じないでもないような…、そんな気がしないでもないような…、どうですか?そういえば、同じアルバムの5曲目「Manifold De Amour」ではコントラバスが使ってあるけれど、この曲もなんだか哀感調がアラブ歌謡ふう…、じゃなくてラテン音楽の切なさなんだけど、でもなんだかちょっとこれ、相通ずるものがありそうな…、そうでもないですか?

 

 

サウンドの全体的な触感も、ロー・ファイな技術を駆使した『ラテン・プレイボーイズ』と、特別そんなことはしていないだろう『エル・ハジャール』では似ていないはずなのに、なんだか共通する印象を持ってしまうのはぼくだけだろうか?ん〜、うまく言えないんだけど、どっちも音がザラついている。そんな触感がある。しかも隙間がよく空いている。そしてかなりナマナマしい肉体性を感じる。

 

 

ま、ドゥドゥ・タッサ&ザ・クウェイティスの『エル・ハジャール』で『ラテン・プレイボーイズ』を連想するのはぼくだけかもしれないけどね。音楽創りの姿勢や手法なんかは、まるで正反対のように思うし。

2019/03/15

こんなアラビック・ロックを待っていた! 〜 ドゥドゥ・タッサ&ザ・クウェイティス

 

 

な〜んだこりゃ〜あ!最高におもしろいじゃないか!今日はまだ2月25日だけど、2019年新作篇ベストテン第一位はこれで決まりだな。と断言したいほどすばらしい音楽作品であるドゥドゥ・タッサ&ザ・クウェイティスの2019年作『エル・ハジャール』。最高だよ。ドゥドゥ・タッサがだれなのかちっとも知りもせず、エル・スールのホーム・ページで見かけたときなんらかの勘が働いたんだよなあ。我ながら見事だったと、いま聴き書きながらひとりごちている。

 

 

いや、ひとりごちなんてもったいない、イスラエルのドゥドゥ・タッサのこの『エル・ハジャール』は多くのかたにおもしろがっていただける内容をもったすぐれた音楽作品なのだ。イスラエルと読んで、ある種のステレオタイプが耳に浮かぶかたは、考えをあらためたほうがいいかも。これはアラブ音楽なのだ。厳密にはユダヤ人のやるイラク音楽で、それを現代ロックふうに再解釈したものなんだよね。

 

 

どうしてそんなことになっているのか、すこし説明しておいたほうがいいのだろうか。1930〜40年代のイラクで絶大なる人気を誇ったアラビア音楽のバンドがあった。名をサレハ&ダウド・アル・クウェイティ・ブラザーズという。サレハとダウドは兄弟で、ユダヤ人。ご存知のとおりユダヤとアラブは密接な関係にあって、音楽をはじめ文化的には不可分一体の関係だった。かつてのイラクでユダヤ人アラビア音楽家が活躍したのもむべなるかな。

 

 

イスラエル建国後の中東戦争を経て、イラクでもユダヤ人は迫害されるようになったので、サレハとダウドのクウェイティ・ブラザーズも家族とともにイスラエルに移住。のちの1977年にドゥドゥ・タッサが生まれることになるが、ダウドが直系の祖父なのだ。サレハが大叔父ということになる。先祖の偉大な音楽家の血脈を受け継ぐドゥドゥ・タッサは、ふだんイスラエルのロッカーとして音楽生活を送っているが、クウェイティ・ブラザーズの音楽を現代的に解釈・再現しようとしてやっているのがザ・クウェイティスなんだよね。

 

 

2019年作『エル・ハジャール』も、音楽的には完璧にアラブ音楽。収録の10曲すべてサレハ・アル・クウェイティの書いたもので、それをドゥドゥがピックアップして、現代ロック的な楽器編成と演奏で解釈しなおして、バンドで演奏し、みずから、またゲスト・シンガーを迎えて歌っている。コンピューターを用いたプログラミングも多用されているようだ。

 

 

アラブ音楽だけれども、曲そのものはクラシカルであるとはいえ、そこは現代ロックのフィルターを通してのものだから、アラブの芳香はやや弱くなっているかもしれない(と、数々のアラブ古典歌謡と比較してそう感じる)。しかし、たとえば打ち込みのドラムス・サウンドの強調や、エレベやエレキ・ギターの多用で、かえって哀感が色濃くにじみ出ているばあいもあるなと、アルバム『エル・ハジャール』を聴くとぼくだったら感じる。

 

 

特にゲストの女性歌手二名がそれぞれ歌う2曲目「トリ・ヤ・レイライ」(ナスリーン・カドリ)、4曲目「ヒルワ・ムラット・エル・ラヤリ」(レヘラ)には、抗うことなど不可能な強い艶と色香が漂っていて、まるで魔力のように聴き手を惹きつけてやまない。いやあ、すばらしい。女性歌手の声がいいっていうことなんだけど、ドゥドゥらによるバック・トラックも見事だと思うよ。

 

 

それら以外では多くの曲でドゥドゥみずからが歌っているが、立派なアラブの発声とコブシまわしじゃないかな。さらに、ここはたぶん多くのアラブ歌謡ファンと意見が異なるところなんだろうと思うんだけど、(打ち込みによる)ドラムス・サウンドの強さなどもいい効果になっているなと感じている。ヒップ・ホップ感覚の、特異なアラブ・ロックともいうべき容貌と化しているようじゃないか。大好きだ。特にたとえば3曲目「モシャブからやってきた娘」。

 

 

一般的には、たぶん7曲目「愛している」がハイライトということになるかもしれない。ここでフィーチャーされているヴォーカルは、なんとダウド・アル・クウェイティ。そう、ドゥドゥの祖父の声だ。古い、たぶんダウドのイラク時代に録音されたものを使っているんじゃないかな。それにくわえ、楽器伴奏を孫のドゥドゥらがやって最新のバック・トラックを創り、足して合体させたんだと思う。さすがに異様な妖気が漂っている。

2019/03/14

エンリッキのアゼヴェード再読に聴くショーロのアフロ性

 

 

これも2019年1月27日に渋谷エル・スール店内で見つけて買った一枚。エンリッキ・カゼスの『レレンド・ヴァルジール・アゼヴェード』(RGE、1998)。もちろんヴァルジール・アゼヴェードの現代的再解釈を試みたアルバムで、エンリッキだからあたりまえ〜と言うのはあれだけど、やはりいつもながらレベルの高いショーロ作品となっている。

 

 

このエンリッキの『レレンド・ヴァルジール・アゼヴェード』のテーマは、ずばりショーロのアフロ・ラテン特性を表現することにある。特にリズム面でその方向性がはっきりと出ているように思う。だから、しっとりゆるやかな(バラードふうの)楽曲である2「Pedacinho Do Cêu」、8「Mágoas De Cavaquinho」、9「Você, Carinho E Amor」などは、いかにもショラール(泣き)系ショーロで大好きなんだけれども、今日の話題からは外れる。またアルバム・ラスト14曲目のカヴァキーニョ独奏「Minhas Mãos, Meu Cavaquinho」はこの上ない美しさでため息が出るけれど、泣く泣く話題の外に置く。

 

 

アルバムがヴァルジール・アゼヴェード作品集ということで彼の曲をやっているわけだから、1「Delicado」、12「Brasileirinho」といった超有名曲もある。しかし今回このアルバムではちょっとふだんと違ったアプローチでエンリッキは取り組んでいて、それはたとえば「ブラジレイリーニョ」だけ聴いてもわかる。というかこの曲こそエンリッキ自身なんどもなんども録音しているから、この『アゼヴェード再読』ヴァージョンの特別さがよくわかると思うんだ。

 

 

なにがスペシャルなのか、ひとことにすれば、ベト大活躍のパーカッシヴな「ブラジレイリーニョ」になっていて、しかもリズムにシンコペイションが効いていて、ヒョコヒョコっと跳ねているということなんだ。ベトが活躍しパーカッション類のシンコペイッティド・サウンドが強調され、ユーモラスに跳ねているという、この一点こそ、このアルバム全体を貫く音楽性の肝だ。ヤなことばで使いたくないが、アルバム・コンセプトはそこにある。

 

 

このことを踏まえれば、上記曲以外、このアルバム収録曲は、どれもすべてリズムのアフロ・ラテン/アフロ・ブラジリアン性に重きをおいた演奏になっているとわかるはず。ゆるやかでおやだかにスムースにスーッとリズムが進むものがほぼないんだよね。どの曲も跳ねている。ひっかかりながらユーモラスに(リズムが)上下する。意図してエンリッキはあえてそうアレンジしたに違いない。そのため、ベトの打楽器演奏に重心を持ってきている。

 

 

それでもって、ショーロが本来、発生的には持っていたストリート・ミュージックとしてのアフロ・リズム特性をあばきだし、そのための媒介としてヴァルジール・アゼヴェード作品を用い、ある時期以後この音楽がまとったエレガントでクラシカルななめらかさは消した。なんというか、このアルバムの音楽はガチャガチャしているんだよね。いやいや、そんなふうには聴こえないよ、と思われるかもしれないが、これがぼくなりのエンリッキ『レレンド・ヴァルジール・アゼヴェード』の解釈だ。

2019/03/13

自然と密着したスコットランドのトラッド・カルテットがいい 〜 ファラ

 

 

このアルバム、bunboni さん経由で山岸伸一さんに教えていただきました。

 

 

 

ファラの『タイムズ・フロム・タイムズ・フォール』(2018)。トラッドというか、ぜんぶ自作曲なんだけど。ほ〜んとカッコいいジャケット・デザインだよねえ。見た瞬間に、こりゃいいんじゃないかと思ったらビンゴ。鮮烈な印象を残すあざやかな音楽で感心しちゃった。ファラはスコットランドの四人組。三人までがフィドルで、ほか一名がピアノだけど曲によってはフィドルという、なかなか変わった編成。しかし奇をてらったふうはなく、あくまで素直にストレートに、ケルト・トラッドふうのメンバー自作曲を演奏していて、好感度大。

 

 

コンボ編成だけど同じ楽器を多数起用して音を重ねるといえば、ジャズのマイルズ・デイヴィスが1968年暮れから70年まで、鍵盤楽器奏者を二名か三名同時起用していた。ファラの多重フィドルも複層的に重なり合い、クラシック音楽みたいに整然と合奏するだけでなく、微妙にズレているのはあえて意図してやって、サウンドにふくらみを持たせようという試みだとわかる。

 

 

たしかにケルト系のトラッドらしく猛烈にドライヴする曲もすばらしいんだけど、しかもそれが多重フィドル演奏で実現しているわけだからユニークな個性といえるけれど、この手のドライヴ感はこういった種類の音楽、のことにフィドル演奏ではあたりまえなものだから、そんなに独自だという印象を持たなかった。いや、めくるめく展開はたしかに見事。

 

 

それより個人的に印象に残ったのは静かでゆったりした(バラードっぽい)曲の数々。3曲目「アト・ジ・エブ」(からそのまま続けて4曲目に入る)とか、ヴォーカル・ナンバーである5曲目「ソング(ラヴ・ギャザーズ・オール)」とか、7「フランシス・デイ」、8「シー・イット・オール」、そしてなによりアルバム・ラスト12曲目の「マックスウェルズ・ライト」。

 

 

それらゆったり静謐ナンバーのほうに、むしろドラマを感じるのだった。美しい自然の風景を眺めているかのような、そんな気分で、内心落ち着くことができて、心象も暖かく豊かになっていくような、そんな心持ちがするよ。自然と密着したケルト系トラッドの世界を、自作曲で見事に実現しているなあ。ファラって、ただカッコイイだけじゃない懐の深さを感じる四人組だ。

2019/03/12

ババ・コマンダント二作目が心地いい

 

 

一作目がかなりおもしろかったブルキナ・ファソのババ・コマンダント&ザ・マンディンゴ・バンドだから、二作目リリースを知って飛びついて買ったんだけど、その『Sira Ba Kele』(2018)はこりゃまただいぶ感じが変わったよねえ。サイケデリックだった面影は消えて、サウンドも整理され、グッと聴きやすくなって、いいのやらイマイチなのやらわからないが、でもぼくはけっこう好き。それに二作目は一聴目の第一印象がかなりよかった。これも聴きやすさのおかげってこと?

 

 

変化を強く実感するのは2曲目「Siraba Kele」だろうか。サウンドの中心になっているのはバラフォンと司令官の弾くンゴニで、エレキ・ギターも聴こえるものの質感はアクースティック。ナチュラルっていうかオーガニックなテイストで、それはアルバム全体をとおしてそうなのだ。オーガニックですよ、ババ・コマンダントがさ。あ、いや、こういう言いかたはよくないな。いいほうへ変化したと。

 

 

2曲目もそれ以外も、ンゴニやバラフォン(やエレベなどのこともあり)が弾く同一パターン反復の上に音楽が成り立っていて、まるで西アフリカ音楽のクラシカルな典型に立ち戻ったかのよう。アクースティックなサウンド質感だって伝統的だし、聴きやすく整理されていてあまりゴチャゴチャしていないし、司令官の野卑にしゃべるようなヴォーカルはそのままの迫力で、いいねえ、こりゃ、この二作目。

 

 

第一印象がよかったというのは3曲目「Bobira」と4曲目「Siguisso」 、特に4曲目のこと。3曲目ではバラフォンの音が目立っていて、そうだからだと思うんだけど、このアルバムの音楽はさわやかで軽快な味をバンドのサウンド全体にもたらしている。一作目になかったバラフォンをくわえたのは大正解だったと言える。大好きな4曲目では、全速力のリズムの疾走感がいいね。やはりそれをバラフォンが主に表現しているのがポイント高し。それに司令官のンゴニがからみ、エレキ・ギターはあくまでエフェクト程度。ファンクっぽいしね。これもいいなあ。

 

 

5曲目「Keleya」のエレベ・パターン延々ループも快感だ。しかもエレキ・ギター・ソロがちょっぴりカルロス・サンタナっぽいし、なかなかおもしろい。あ、サンタナっぽいといえば、この新作ではエレキ・ギターのシングル・ノート弾きがわりとどの曲でもそうなんだよね。これはいったいどうして?なんていう問いも無意味だろうか、ああいったラテンなギター・スタイルは全世界に波及している。

 

 

いやあ、ホント聴きやすくノリやすいし、聴いたあとくちもサッパリさわやかだし、ババ・コマンダントの二作目『Sira Ba Kele』、なかなかのオススメ品です。呪術を思わせるようなジャケット・デザインは逆効果かも。体をあまり表現していない。

2019/03/11

ロックからアラブ音楽に入門するならこれ 〜 ヤシーン

 

 

ヤシーン&ジ・オリエンタル・グルーヴ(っていかにもインチキくさい名前だが)の2016年盤『メディタレイニアン・クラッシュ』。この音楽家とは初邂逅だったんだけど、五人編成バンドのようで、アルジェリアンはアルジェリアンでも在仏ではなく在西。それもバルセロナに住んでヤシーンは活動しているらしい。音楽もなかなかおもしろいね。やっぱりフェイクっぽいかな?という感じも若干あるけれど、ロック・ミュージシャンがやるアラブ・アプローチと考えればかなりいい出来に入るはず。

 

 

『メディタレイニアン・クラッシュ』というアルバム題は社会派かな?と香らせたりするものだけど、アルバムの中身の音楽はそんなことまったく無関係に楽しめるものだ。やっぱりアラブのライ・ロック、シャアビ・ロックとか、そんな趣が濃厚で、ちょうど「カシミール」のレッド・ツェッペリンとかあのへんをもっとグッと本格的にしたみたいなフィーリングかもね。

 

 

1曲目「Barcelona Sona」のイントロだけでそんなふうに心をつかまれてしまうもので、歌が出たらもっとクッサ〜い(いい意味で)アリジェリア香が漂っている。この曲だけでなくアルバム全体に、かの ONB(オルケストル・ナシオナル・ドゥ・バルベス)っぽいサウンド色があって、そんなところも聴きやすく、ぼく好み。こういったポップなミクスチャー系が苦手な向きには推薦できないが。

 

 

だまって聴いていたら4曲目で耳馴染みのあるメロディが。これは「アラウィ」じゃないの。と思ってはじめて曲名を見たら「Turkish-Al-lawi」となっている。でもトルコふうな部分はあまり感じない。それより ONB ヴァージョンの「アラウィ」にとてもよく似ているよね。1990年代末を思い出すかのよう。だからヤシーンのこのアルバムはちょい古いといえば古い。でも、好き。

 

 

本格的なウード独奏も入る5曲目などを経て、7曲目でこれまたよ〜く知っている曲となる。「Mare tournaré demà」となっているこれは、たとえばラシッド・タハらもやったかのカビール・ソング「Menfi」だよね。それをヤシーンらは正面切ったアレンジと歌でしっかりやっていて、これはなかなかの聴きものだ。後半は幻惑的な展開となって、テンポがどんどん上がる。アルバム中いちばんいい。

 

 

聴きやすいしなかなかおもしろいよ、このヤシーン&ジ・オリエンタル・グルーヴの『メディタレイニアン・クラッシュ』。ツェッペリンその他でロックからアラブ(系や周辺)音楽に近づいてきた入門者にも推薦しやすい内容で、共感していただきやすいサウンドだ。ここをきっかけにライやシャアビの世界へと足を踏み入れていけばいいんだと思うしね。

2019/03/10

アンゴラの歌(と踊り)40年

 

 

2016年盤の17曲入り一枚もの CD『40 Anos A Cantar Angola』(Spotify のだと16曲)。よくわかってないんだけど、一種のサンプラー的アンソロジーってことなんだろうか?だいたいぜんぶセンバ?これを買ったエル・スールのホーム・ページにも CD パッケージにも、まったく曲目一覧しか記載がない。あ、いちおう選曲者がペラ紙の内側に書いてあった。Virgílio Correia さん。ぜんぜん知らないや。1975年のアンゴラ独立年に40を足すと2015年となるが、そういう意味なんだろうか?

 

 

聴いていると、たしかにアコーディオン(じゃなかったんだっけ?)が特徴的な、独立後の早い時期のセンバみたいなのが多いし(それがアルバムの主体かな)、そうかと思うと打ち込み主体かと聴こえるモダンなものもちょっとあり、いっぽうぼくでも知っている有名人パウロ・フローレスもいる。以前『メモリアズ・ジ・アフリカ』っていうボックス・セットのことを書いたでしょ。ポルトガル語圏アフリカの音楽アンソロジー。あれにアンゴラ篇があったけど、それの収録曲と似たような感じが『40 アノス・ア・カンタール・アンゴラ』でも出てくる。

 

 

 

『40 アノス・ア・カンタール・アンゴラ』、Spotify で聴ける全16曲アルバムに即して話を進めるけれど、聴いた感じ(ホントなにもわかっちゃいませんから)、1〜5曲目までがモダン・センバみたいに聴こえ、だからパウロ・フローレスを幕開けに置いているのはそういうシーンのトップ・ランナーとして、ということなのかもしれない。しかしぼく的にはここでグッと来るというわけじゃないアルバムだ。

 

 

6曲目の Carlos Burity「Monami Ya N'Gienda」がまるでアメリカのコンテンポラリー R&B みたいに聴こえるメロウ・バラードなんだけど、これはセンバじゃないよねえ。ぼくのなかでセンバとは激しく快活で躍動的なダンス・ミュージックのことになっている。それでも、この6曲目は国籍を感じない普遍的なブラック・ミュージックで、これはこれでかなりいい。ジャズ・フュージョンっぽくもある。

 

 

それが終わって7曲目から11曲目までの五曲が、ぼくにとっての『40 アノス・ア・カンタール・アンゴラ』のハイライト。いやあ、めっちゃくちゃいいじゃないですか!極上の楽しさだ。この五曲は、録音時期も音楽のスタイルとしても古い典型的なセンバなんだよねえ、たぶんさ。もはや時代遅れのオールド・スクールかもしれないが、2019年に聴いて楽しいったら楽しいな、という間違いない実感がある。ダンス・ミュージックは古くならないんだ。

 

 

マジほんとダンサブルで、実際、ぼくはこの五曲のセクションを聴きながら部屋のなかでは踊っているし、気分ウキウキの極上フィーリング。あっ、アコーディオン(?)は、このセクションでは7曲目だけか。ほかはエレキ・ギターが中心で、それにくわえ打楽器群という編成だね、聴いた感じ。くわえてリード・ヴォーカルとコーラス隊とのコール&レスポンス。う〜ん、わかりやすくて、グルーヴが明快で、とてもいい。

 

 

この五曲のセクションを聴いてからだが動かないひとは、たぶんアンゴラのセンバには縁がないということになってしまうかもしれない。いやいや、そんなことない、ここを聴いて指先一本動かない人間なんていないよ。このグルーヴには抗えないはず。じゃなかったら、大衆音楽のことをジッと座ってだけ聴くものだと思い込んでいるか、だ。

 

 

アルバム『40 アノス・ア・カンタール・アンゴラ』では、12曲目のゆったりナンバーをはさみ、13曲目以後ラストまで、やはり激しいダンス・ビートが並んでいる。冒頭の1〜5曲目もダンサブルなセンバだったし、結局このアルバムは歌というよりダンスなんだよね。アルバム題に 'Cantar' とはあるものの、踊って過ごす40年ってことかな。聴くぼくら日本人をも踊らせる強力なグルーヴがあるね。

2019/03/09

フォーキーなチャブーカ版ボサ・ノーヴァ or フィーリンの誕生?

 

 

ペルーのチャブーカ・グランダ。ムシカ・クリオージャの音楽家として知名度があるので、無知なぼくでも知っている。彼女が書いて歌ったものはだいたいぜんぶバルス・ペルアーノだ。昨2018年にエル・スールで買った『未発表音源集』(Lo Nuevo de Chabuca Granda)は、お蔵入りしたままだった1968年の録音集とのことで、いままで聴いていたチャブーカの歌とは若干趣きが異なっているかも。

 

 

シンプルなギターとカホンだけの伴奏によるトリオ編成で、チャブーカはきわめてプライヴェイトな装いを見せ、ナチュラルにすーっと歌っている。なめらかっていうか、スムースで、それはあたかもキューバのフィーリンやブラジルのボサ・ノーヴァにも通じるような自然体。それが心地いいんだよね。創り込まれていないラフさっていうか、日常の歌って感じ。実にいい。

 

 

実際、『未発表録音集』で聴けるチャブーカの歌は、かなりラフな状況で演唱され録音されていたものなんだろうと想像できる。音響の空気感からも、スタジオかどこかでのライヴ一発録りに違いないと思え、そんな親近感や卑近性が、チャブーカの音楽の持つ優雅さと複雑さ(後者はアフロ系の微妙さか)の絡みをきわだたせることになっている。むきだしのチャブーカっていうか、生のソフトな肉体を感じられるところがいいんだよね。

 

 

だれが弾いているのか(クレジットもないから)わからないナイロン弦ギターのフレーズにはジャジーで洒落たタッチも聴きとれて、チャブーカのヴォーカルもリキみがなく、この時期のラテン歌手にしてはありえないほどフリーで自然体で、しかもフォーキー。それらすべての要素があいまって、この音楽をチャブーカ版のフィーリンとかボサ・ノーヴァみたいなものに響かせているよ。なかなかこんなムシカ・クリオージャ、聴いたことないよ。

 

 

チャブーカの『未発表録音集』、たしかに作品としての緻密な完成度という観点からは相当もの足りないんだけど、このちょっとしたアマチュア性というか、ラフな日常性(はラテンな音楽性からはやや遠いかもしれないし)が、簡単には生まれえない独特のおしゃれな陰影を歌にもたらして、得がたいライト・タッチなフィーリングを生んでいる。かなりいいと思うなあ。

 

 

仲間内だけの親密な集まりで、小さな狭い部屋のなかで、日常的なリラックスした楽しみのためにだけちょちょっと弾き歌う、そんなこじんまりしたパーティのための音楽としてバルス・ペルアーノを再構築したいとう実験的録音だったのかもしれないね。バルス・ペルアーノもまた、かしこまって聴くための音楽と日常的なダンス・ミュージック、この両面を、やはりポピュラー・ミュージックらしくあわせもっていたんだろうと、チャブーカのこの録音集を聴くと実感する。

2019/03/08

(懐かしき)プエルト・リコは歌

 

 

2018年の仏ブダ盤『懐かしきプエルトリコ 1940-1960 プレーナ、グアラーチャ、ボレロ、ヒバロ』(Nostálgico Puerto Rico - Plenas, Guarachas, Boleros y Canciónes Jibaras - 1940-1960)。カリブのプエルト・リコが世界の音楽でどれだけ大きな役割を果たしてきたか、キューバ音楽ほどではないにせよ、知っているひとは知っていることだ。1940〜60年と限定し、その時代のプエルト・リコ音楽を収録したのがこのアンソロジー。

 

 

このアルバム全体から受ける印象としては、1940〜60年というと、たとえばキューバ音楽などはメカニカルな反復形式を持つダンス・ミュージックが主たるものとなっていたと思うんだけど(その反面、メロウな歌謡音楽であるフィーリンも隆盛だったが)、プエルト・リコではなにしろ<歌>がメイン。これはとても強いイメージとしてこのアンソロジーでも全体を貫いている。

 

 

たとえばこのブダ盤でぼくが最も強い印象を受けるのは17曲目の「コンパシオン」なんだけど、なんなんだろうこの哀愁というか、悲哀に富んだコード・ワークとメロディの組み立ては。思わず感極まって涙がこぼれそうになってしまうほどだ。アコーディオンも効果的。ところで 'Compasión' って、英語でいう 'Compassion' と同じような意味なんだろうか?いやあ、この一曲だけなんども聴いてしまう。最高だ。ボレーロかな、これは。しかしおよそダンスには向いていなさそう。

 

 

こんな短調の旋律を持つ哀感ラテン・ナンバーはこの『懐かしきプエルトルコ』のなかにほかにもたくさんあって、特に歌われるパートの旋律美がとてもすばらしい。ラファエル・エルナンデス、ペドロ・フローレスというプエルト・リコ二大コンポーザーはここにもいるが、彼ら以外の手になる曲も美しい。そして泣いちゃうそうだ。そんな哀感がとても強い。

 

 

そうかと思うと、長調でわりかしダンサブルな快活ナンバーも同じくらい収録されていて、キューバでいうマンボに近いものもあれば、そのなかには20、21曲目の大編成でやるプレーナ(セサール・コンセプシオーン)なんかはとても見事だ。しかも(プエルト・リコ系ニュー・ヨーカーの音楽である)サルサへつながる道程をすでにここに聴きとれる。

 

 

それでもメロディがなめらかで流麗なのがプエルト・リコ音楽らしいところか。マイナーなボレーロでもメイジャーなカンシオーンであるヒバロでも快活陽気なプレーナやコンガでも中庸なダンス・ミュージックのグァヒーラ・グァラチャなんかでも、プエルト・リコ音楽として一貫している特徴は、ヴォーカルの即興性と哀感と甘美な歌唱性。

 

 

そんなところを持つつつ、中南北米の雑多な音楽を吸収しながら、(マンボのような)ダンス・ビートをも併行して体験していった歌手や演奏家が、やがてサルサのような音楽を産んでいくことになったのだろう。

2019/03/07

その(2):タールとトンバクの完全デュオ即興ライヴ 〜『チャカヴァク』

 

 

こういう音楽をぜひ一度生で聴いてみたい『Chakāvak』。これはウードじゃなくタールで、パーカッションはトンバクだけどね。アルバム『チャカヴァク』は、2018年4月15日のオスロでのライヴ録音で、タール(イラン人、写真左)とトンバク(イラン系ノルウェイ人)の完全デュオによるインプロヴィゼイション・ミュージック。オスロでの当夜の前半部を収録したものらしい。

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それで、昨日も書いたことだけど、こういったインストルメンタル・ミュージックのなんとなくの雰囲気がたまらなく大好きなんで、だから部屋のなかで集中せず BGM として流していいなぁ〜って感じているから、タールとトンバクの二名、特にリーダー役(じゃないかと思う)のイラン人タール奏者がだれか?なにをやっているのか?この音楽とはいったいどういうものか?にはイマイチ興味がない。なんとなく雰囲気がいいなあと思って愛聴し、というか流しているだけ。

 

 

『チャカヴァク』はいちおう10個にトラックが切れていて曲名もつけられているけれど、聴いた感じ、これは最初から最後まで一個のインプロヴィゼイションなんだろう。うん、間違いない。場所場所でそれぞれの展開があるので、それでトラックを切ってふさわしそうな曲題も考えてつけただけのことだね。即興のモチーフとなるような旋法はもちろんあるんだろう。聴くと明確なトーナリティが感じられる。しかもその和声統一感は、アルバムの最初から最後まで変化しない。

 

 

『チャカヴァク』にしかない、たとえば昨日の『ワスラ』などとの最大の違いは、やはり主役たる弦楽器の響きの差がもたらすものだろう。タールって、複弦3コースなんだっけな、音色も音域も、たとえばウードなどとはかなり異なるよね。ウードが低域でうめくものだとすれば、タールは甲高くさえずる、そんな印象がある。そんなタールの、タールにしかない独自のサウンドが、アルバム『チャカヴァク』最大の特長だ。好きだなあ、こういった音。

 

 

『チャカヴァク』でのトンバクは目立たず、あくまで脇役脇役と心がけているのが、聴いているとよくわかる。イラン人タール奏者はどうやらベテランのマスターなのかもしれないが(そのへん、本当になにも知りません)、その華麗な技を最大限にまで引き立てるべくトンバク奏者も徹底して伴奏に努めている。結果、大成功しているよね。だから、聴感上は、あるいは音楽の本質として、このアルバム、タール独奏というに近い。

 

 

そしてそのタールのこの高音域でひばりがさえずっているような、そんなサウンドが、聴いていて心地いいんだよね。なんらかのラメントみたいなものも含まれているのかな?とか、あるいは6トラック目「スパーク」と題されたパートなどは、たしかに火花散るような迫力もあって、エモーショナルに高揚し、実に心動かされるものだなあとか、アルバム『チャカヴァク』を通してなんども聴いて、随所に聴きどころがあるけれど、全体的にはあくまで一種のムード・ミュージックとして自室のなかで流して、それで心地いい雰囲気をかもしだしてくれる。

2019/03/06

その(1):ウード&パーカッションだけみたいな地味インストがかなり好き 〜『ワスラ』

 

 

以前、サビルのことを書いたでしょ。

 

 

 

ああいった地味ぃ〜っなウード(+パーカッション)・インストルメンタルな音楽が、あんがい大好物なんですよ。どこいらへんからこの嗜好が来ているのか、自分でもちょっとわからないが、CD(でも配信でも)を流し聴きしているだけで気分いいもん。しかも緊張感がとれてリラックスできる。だから自室のなかでいい BGM になる。BGM なんていうとバカにするような音楽好きシリアス一直線がいらっしゃるでしょうが、悪いことじゃないんですよ〜、イージー・リスニング側面っていうのはさ〜。

 

 

『ワスラ』(Wasla)のばあいは、ウードとレクの二重奏でやるエジプト古典音楽の組曲。本当にこのふたりだけでアルバム全編をやっていて、いっさいの装飾がない。だから、たぶんこれ、聴くひとによってはとてつもなく単調で退屈な音楽に聴こえるに違いない。ところがぼくの耳にはヴァリエイションとニュアンスに富んだ豊穣な音楽に思えるんだ。ホント大好き。

 

 

『ワスラ』という、もとの組曲がどんなものだったのか、ぼくはちっとも知らない。フランス語、英語、アラビア語の三ヶ国語で書かれたブックレットを実はまだ一度も読んでいない。だぁ〜ってね、音を鳴らしはじめたら、そのあまりの快感とくつろぎに、ただひたすら身をゆだねたくなって、実際、いままでなんども聴いているが、ただひたすらこの音楽を耳に入れているだけなんだ。これがなんであるか、いまは関係ない。知る気もないし、重要だとも思わない。音楽が、ただ、気持ちいい。それだけ。

 

 

『ワスラ』のばあい、今年1月27日に渋谷エル・スールに出かけていって、店内の CD 棚を物色し、このジャケットはいいな、たぶんこれ、ウード・インストルメンタルみたいなやつなんでしょ?どんな感じですか?と原田さんに尋ね、じゃあちょっと…、と聴かせてもらっての、ハイ購入!だったのだ。我ながらまだまだ直感は利くなあとひとりごち。

 

 

その際、原田さんに、最近この手のやつではこれがよかったですよ、と指し示していただいたのがサビルだったので〜す。そしてさらにもう一枚、同じ日に同傾向のインストルメンタル・アルバムをお店で見つけて買った。これも自宅で聴いたら極上の一枚だったので、明日、書くことにしよう。

2019/03/05

アルジェリアの砂漠のブルーズに冷と熱が同時に宿る

 

 

このシビれるようなエレキ・ギター・リフの弾きかたは砂漠のブルーズだね。アルジェリアのバンド、Afous D'Afous の2015年作『Imzad』のこと。アルジェリアのバンドらしい歌謡性というか、ライに通じるような音楽要素も(主にリード・ヴォーカリストの唱法とシンセサイザーの使いかたに)ある。レゲエもわりと鮮明にあって、またロックっぽい感じもするっていう、だから要はミクスチャー・バンドってことか。

 

 

でもこういったマグレブ系ミクスチャー・バンドで砂漠のブルーズが主成分になっているひとたちって、いままでいましたっけ?ぼくは初体験なんだけど。アルジェリアも国土の多くが砂漠だし、南はマリと接しているし、トゥアレグ人はもちろんいるし、だからあの手のギター・ミュージックがあって当然だけど、いままでこんなかたちでは出てこなかった(と思うんだけど?)のが、う〜ん、どっちかというと不思議なのかなあ。

 

 

このアルバム『Imzad』は簡易なペラ紙ジャケに曲目以外の情報はほぼ記載なしだから、Afous D'Afous のバンド編成やパーソネルなんかはぜんぜんわからない。ジャケットに七人写っているが、聴いた感じ、ヴォーカル、エレキ・ギター、電子鍵盤、ベース、ドラムス、パーカッション、サックスといった編成かな。コール&レスポンスでバック・コーラスもどんどん入るのはバンド・メンの担当か?砂漠のブルーズにしてはギターが一本だけで、サウンドの彩りはにぎやかでない。

 

 

しかしこのだれが弾いているのかわからない(すごく知りたい)エレキ・ギターがビリビリシビれるフレーズを連発。ギター・トーンの創りかたもうまく、細かなフレーズを折り重なるように積んでいくというこのスタイルは、ぼくの個人的体験ではティナリウェンではじめて知ったもので、その系列にあるものなのは間違いない。なめらかでなく、ビリビリと、ひっかかりながら反復されるエレキ・ギター・フレーズ。だから、砂漠のブルーズのギターは、河内音頭のそれにも相通ずる(とぼくは思っているんだけどね)。

 

 

ホント、Afous D'Afous の『Imzad』はギターとヴォーカルだけ聴いているだけで気持ちいいんだけど、たとえば四曲目でタブラが使ってあったりもするし、アルバム終盤部でのレゲエ・リズムの活かしかたなんかは汎モダン・アフリカン・ポップス的かな?いや、同じアルジェリア出身のアマジーグ・カテブ(グナーワ・ディフュジオン)のと同じマナーかな?と思えたり。しかしサックスが常時聴こえるのはなかなか珍しいと思えたりもする。

 

 

やっぱりこのビリビリとシビれるめくるめくようなエレキ・ギターこそ、Afous D'Afous『Imzad』最大の持ち味にしてアピールに違いない。サハラのトゥアレグ・ギター・バンド・ミュージックの持つクールネスと、ライなどアルジェリア歌謡音楽独自のヒートを同時に感じさせるアルバムで、珍しいかもだけど、中身はなかなか充実していて聴かせる一枚に違いない。かなり好きで、なんども繰り返し聴いている。

2019/03/04

夜明けのサンバ

 

 

これも2019年1月27日夕方に渋谷エル・スール店内で発見して買った一枚で、1966年の RGE 原盤、パウリーニョ・ダ・ヴィオーラ&エルトン・メデイロスの『夜明けのサンバ』(Samba Na Madrugada)。お店にあったのは2010年のボンバ盤だったが、中身は1997年の同社盤と差がないようだ。

 

 

このパウリーニョ&エルトンの『夜明けのサンバ』を一聴しての最大の印象は、パーカッションがまるでドラム・マシンみたいに響くなということ。ちょうど『暴動』のときのスライ・ストーンが使いこなしたドラム・マシンのサウンドに瓜二つだ。こんなことを言うと、サンバ、スライ双方のファンから総スカンを食らいそうだけど、ぼく的には間違いない実感。

 

 

でも『夜明けのサンバ』のほうにはマシンはおろかドラム・セットは使われていない。だいたいサンバってそんなもん使わないよね。じゃあこの音はなにを使って出しているのか?と思っても、CD パッケージ、附属の解説文のどこにも記載がない。なんらかの木製打楽器なんだろうなあ。叩くタイミングが正確だから、ということよりも、音色の類似と、それからやっぱりスライがうまかったんだなあ、ああいった(当時としては)無機的とされたビート・ボックスのサウンドに生々しさを与えていたから、ってことだと思う。だから似て聴こえるのだろう。

 

 

アルバム『夜明けのサンバ』では、基本、パウリーニョとエルトンが一曲づつ交互に歌い、ふたつあるメドレーでもやはり交互にやっているようだ。これを録音した1966年当時だと、二者とも新人の部類だったんだっけ?みずみずしくていいなあ。音楽の質も高い。それで、個人的には、パウリーニョの声のほうに共感をおぼえる。

 

 

エルトンの声のほうはちょっとザラッとしていてガサついているでしょ。ふだんはそういった濁りみ成分のある声や楽器音のほうが好みだし、サンバ・ヴォーカルとしても向いているかもしれないけれど、線の細いなめらかさを持つパウリーニョのソフト・ヴォイスのほうが、これにかぎってはぼく好み、このアルバム『夜明けのサンバ』にかぎってはね。

 

 

やっている中身は、『夜明けのサンバ』、だいたいがエスコーラ系カーニヴァル・サンバみたいだから、特筆すべきものじゃないような気がするんだけど、スライの使うドラム・マシンみたいなパーカッションの打音とパウリーニョの(新人的?)フレッシュ・クルーナー・ヴォイスで、なかなか鮮烈な快感を残す一枚だ。34分間と短いのも聴きやすくナイス。

2019/03/03

ポケット・ピシンギーニャ 〜 エンリッキ・カゼス

 

 

2019年1月27日に渋谷エル・スールを訪問した際、ここはブラジルの音楽 CD がかなり充実しているから(たぶん世界のどのエリアよりもブラジルの棚がいちばんデカい)、ぜんぶほじくり返して、いままで見逃していたアルバムを根こそぎ買った。ところでどんなレコード・ショップでもディグしまくると手がベタベタになるのはちょっとあれだなあ。それはいい。エル・スール店舗は宝の山だ。この日は時間があったので、ブラジル棚だけでなく、お店のなかをとにかく隅々までぜんぶひっくり返した。

 

 

今日話題にしたいエンリッキ・カゼスとマルセーロ・ゴンサルヴェスの『ピシンギーニャ・ジ・ボルソ』も、そんなふうにして発掘した一枚。完全に買い忘れていた1999年盤で、エンリッキはもちろんカヴァキーニョ。マルセーロが7弦ギターで、この完全デュオでピシンギーニャの楽曲の数々をコンパクトにまとめてみたというもの。アルバム題は『ポケット・ピシンギーニャ』という意味で、そんなようなコンサイス・ショーロみたいなもんかな。

 

 

エンリッキにはオルケストラ・ピシンギーニャみたいな仕事もあるわけで、ピシンギーニャのオーケストラ・アレンジを現代に再現しようとすることはやっている。また『エレトロ・ピシンギーニャ』のような現代エレクトロニクスを駆使してピシンギーニャ作品の持つユーモア感覚と楽しさを蘇らせようとしたアルバムだってあるわけで、ピシンギーニャという偉大な作曲家をさまざまな切り口で料理している。

 

 

『ポケット・ピシンギーニャ』のばあいはカヴァキーニョとギターの完全デュオのみでやっていて(一曲だけマルセーロのギター独奏あり)、オーケストラかコンジュント用に作編曲したピシンギーニャのコンポジションの解釈としては難航したんじゃないかと思うんだよね。アルバムを聴くとかっちりした譜面もなさそうで、エンリッキとマルセーロが息を合わせる微妙なタイミングがすべてみたいな演奏だしね。

 

 

だからエンリッキが案を練ったあと、ふたりでリハーサルを繰り返したと思う。2曲目「Segra ele」、9曲目「Tapa buraco」、13「1対0」のように、急速テンポで二名がぐいぐいスウィングするような曲の数々はもちろんすばらしい。どんだけふたりで練習したかもよくわかるピッタリの呼吸で、まるでサッカーの試合のオフェンスでテンポを上げて軽快にボールまわしをやっているような、そんな複雑にシステマティックな爽快さを感じるね。

 

 

個人的に『ポケット・ピシンギーニャ』でさらにもっとグッと来るのは、ミドル・テンポで愉快におもしろ楽しくやっているようなユーモラス・ショーロ(4「Passatempo」、6「Os dois se gostam」、8「Devagar e sempre」、11「Os oito batutas」)、ならびにサウダージ横溢の泣きのバラードふうショーロ(3「Sensivel」、5「Paciente」、7「Ingênuo」:ギター独奏、10「Cochitohando」、12「Gloria」)だね。

 

 

特に「センシヴェル」とか「グローリア」なんかで聴けるこのショラール(泣き)感覚の、エンリッキ&マルセーロ二名による表現には、ホント感極まって胸がいっぱいになってしまいそうだ。マジ泣きそう。しかもデュオ技巧としても超一品。からみはたんなるコントラ・ポントというようなものではない。もっと練り込まれた有機的な一体感を示していて、アレンジャーというか演奏の主導権はエンリッキにあっただろうけれど、完全即興と見てもいい次元のスポンティニアスさにまで二名合体で到達している。

 

 

しかもポケットのピシンギーニャですからね。そのまま携帯してちょっとふらっとでかけられるような、そんな親近なコンパクトさをもまとっている。すばらしいショーロ作品だ。スケールの大きな作曲家だったピシンギーニャだけど、同時にそうした卑近さをも(ショーロ全般もだけど)持ちあわせていたことをエンリッキはしっかりと音にしてくれて思い起こさせてくれている。脱帽。

2019/03/02

ブラジルのギター弾き語り名盤の系譜にまたひとつ加わった 〜 アルフレード・デル・ペーニョ

 

 

なんたってこのジャケットがいいよね、『サンバ・ソー』(2018)。渋谷エル・スールに行ったのは1月27日だったので、その直後の入荷ということだったんだね、このブラジル盤。無知にてアルフレード・デル・ペーニョがだれなのか知らなかったけれど、エル・スールのホーム・ページでこのジャケ写を見た瞬間にピンと来て買ったら大正解。やっぱりさ、CD でもジャケ買いって当たるもんなんだよね。

 

 

アルフレードの『サンバ・ソー』は、ほぼ全編ひとりでの7弦ギター弾き語り(14曲目で三人のバック・コーラスが入るだけ)。しかもサンバとかボサ・ノーヴァとかなにかにくくれない、ただブラジルの弾き語り音楽とでも言うしかないものなんだ。さらにあったかく、しかし鮮烈で、かつギターもヴォーカルも、特にギターのほうの技巧はかなりすぐれている。しかもそれがそうとは感じないほどオーガニックな肌合いに昇華されている。

 

 

アルフレードの『サンバ・ソー』。複雑なリズムを持つ速いテンポの曲と、バラードみたいな中庸〜ゆったりナンバーに大別できる。ぼくがなかでも感心するのは前者でのギター・リズム表現法だ。かなり難度の高い技を繰り出しているんだけど、リズム面でもハーモニー面でもそうで、しかしできあがりは実にサッパリしている。じっくり聴くと目を剥きそうな速弾きパッセージもあってオォ〜って思うけれど、それは演唱のなかに溶け込んでいて、これみよがしに目立たないのが好印象。

 

 

実際、このアルバム『サンバ・ソー』でのアルフレードのギター弾き語りは入り組んでいて高難度な複雑さ。それでいてシンプルに、しかもあたたかく聴こえるのは、決してひとりでの弾き語りだから、というだけじゃないはず。ジョアン・ジルベルト以来の伝統なんじゃないかな、こういった有機性は。できあがりにぬくもりがあってさっぱりしてシンプルな味わいに聴こえるっていうのはね。

 

 

昨年暮れに、やはりひとりでのギター弾き語り新名盤としてダニーロ・モラエスの『オブラ・フィーリャ』のことを書いたけれど、アルフレード・デル・ペーニョの『サンバ・ソー』は、それとはやや趣の異なる新たな名盤だ。ジャケの面構えがいいなとピンと来て中身を直感したそこのあなた、聴いてみて。マジでいいから!アルバムの曲もぜんぶアルフレードの自作。

2019/03/01

ふだんと違う曲順で聴くのもいい 〜 セレクションの効用

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いつもはオリジナル・アルバムを聴いていても、ときどきベスト盤とかアンソロジーとか選集とか、ネット配信なら公式 or 私的なプレイリストとか、そういったもので聴くのは新鮮な体験だ。お気に入りのオリジナル・アルバムは曲順が自分のなかに焼きつくから、一曲の終わりかけで次の曲の出だしが鳴りはじめるけれど、それでふだんは快感でも、たまに予定調和のつまらなさを感じてしまうときが、ぼくはある。

 

 

そんなばあい、セレクションで聴くと、ふだんと違う曲順になるから、この曲の次にアッ!って若干の意外性と驚きがあって、新鮮だ。よく知っている曲の、いままで気づいていなかった要素や魅力に簡単にたどりつける好適な手段なんだよね。ひるがえって、その曲が収録されているオリジナル・アルバムまでも違って見えてくるというもの。新たな姿を現すんだ。どう、おもしろいことじゃないか。ワクワクするね。

 

 

それ以上にセレクションで聴く最大の効用は、いままでよさがわからなかったアルバムや曲の魅力に気づける契機になるということだ。ふだんとは異なる曲順(やその他)で流れてくることによる意外性で、オォ〜、こんないい曲だったのか、ちょっとビックリしたぞ、ありがとうとなることが、ぼくはある。みなさんにはないかもしれないが、これがあるからセレクションで聴くことを、定期的に欠かさない。

 

 

いままで聴いていなかった曲、アルバム、またオリジナル・アルバムを持っておらず聴いてもいないそんなアルバムの収録曲に触れることができるのもアンソロジーの大きな効用だ。どんなに好きな音楽家でも、どうしてもその気にならず聴いていないアルバムというものが、あると思う(例外はマイルズ・デイヴィスでぜんぶ持って聴いている)。でもあんがいそういった意外なものが自分向きだったりすることがあるんだよ。でも、なにか機会がないと気づけないでしょ。

 

 

そんなとき、ベスト盤とかアンソロジーとかプレイリストがいいんだ。好きな曲に混じっていままで耳にしていなかった曲が流れきて、お、けっこういいんだねと気づくチャンスだ。すくなくともぼくはそうやって、聴かず嫌いのままでいた曲のおもしろさを発見し、それが収録されているオリジナル・アルバムを買うっていうことがある。今後も同じだろう。

 

 

複数の音楽家や分野をまたいだハイブリッドなセレクションだと、さらに大きな効用があるね。いくら脱ジャンル、越境などと唱えたって、ふつうみんな(含むぼく)、なかなかそれができない。混ぜ返しのガラガラポンが簡単にできて、それで新たな視野や認識を獲得できるのが、そういったプレイリストで聴く大きなメリットじゃないかな。ひとりの歌手、音楽家、ひとつのバンドのセレクションでも、ハイブリッドなセレクションでも、それではじめて魅力に気づいて、好きになり、結果、持っていたり持っていなかったりするオリジナル・アルバムも見直し評価を高めたり、はじめて買ったりする。

 

 

こんな楽しさがセレクションにはあるので、それを痛感しているので、もとから拝オリジナル・アルバム的発想のないぼくだけど、むかしから自分でもよくセレクションを作成する。むかしはカセット、MD で。いまは CD-R、あるいは iTunes や Spotify のプレイリストでね。作成過程でたくさんの楽しい発見があって、愛好度が増すんだ。

 

 

自作セレクションは、ふだんはひとりの音楽家についてのものだけど、音楽家やジャンルまたぎの混交セレクションだってよく作るんだよ。みんなもやっているようだ。Spotify だと自作プレイリストづくりが実にイージーで、だれでもできるようになったので大勢がやるようになって、たいへん喜ばしいと感じている。たくさんあふれているなかに光るものがいくつもある。

 

 

べつに光らなくたって個人的にこういったことをやるのは、これも音楽の楽しみのひとつだから。ただじっと与えられるオリジナル・アルバムを享受するだけじゃ飽き足りないんだ。大げさだろうがみずからプロデュースの領域に踏み込んで、一層大きな楽しみを獲得できれば、それで音楽に対する理解もひろがり深まるように感じる。

 

 

そんなわけで、与えられたものでも自作のものでも、セレクション、アンソロジー、ベスト盤、プレイリストで聴く意味、価値っていうのはあるものなんだよね。

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