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2019年6月

2019/06/30

岩佐美咲坂本冬美

B4141637243044a4b1cefd98ebe8d7a8坂本冬美の ENKA シリーズ三枚のことを書きました。すべて有名演歌スタンダード曲のカヴァーなわけですから、若手演歌歌手わさみんこと岩佐美咲も歌っているものが多いのは当然のことでありますね。わさみんだけでなく、演歌歌手なら冬美の ENKA シリーズとレパートリーがダブるひとがほとんどでしょう。「舟唄」「津軽海峡・冬景色」「北の宿から」「おもいで酒」「石狩挽歌」「女のブルース」など、やっていない演歌歌手を見つけるほうがむずかしいかも。

 

そんなわけで、今日は冬美の ENKA シリーズで歌われている曲のうち、わさみんも歌っているものをピック・アップしてちょっと比較してみよう、それでふたりの持ち味の違いといったところを考えてみよう、それで冬美ちゃんにはなにも言うことなどないけれど、今後のわさみん向けのなにかにでもなる内容になればな、と思いキーボードを叩いています。

 

まず、冬美の ENKA シリーズにあるもののなかでわさみんも CD や DVD で歌っている曲を一覧にしておきます。冬美のアルバム発売収録順。

 

・石狩挽歌
・津軽海峡・冬景色
・越冬つばめ
・北の宿から
・女のブルース
・大阪ラプソディー
・空港
・火の国の女

 

やはり最新作『ENKA III 〜偲歌』収録のものが目立っていますが、でも総数ではあんがいすくないですね。いや、多いのか。わかりませんが、冬美の歌はどれも見事なものです。最近ずっと書いていますけど、近年の冬美の円熟といったら舌を巻くものですよ。おそろしいほどと言ってもいい。しかしおそろしいということばを使うなら、いま24歳のわさみんだってそうなんです。なんたってわさみんは歌の天才ですからね。デビュー期から完成されていました。

 

たとえば「越冬つばめ」。この曲なんか、わさみんヴァージョン(『リクエスト・カバーズ』収録)のほうが冬美のよりいいと思うんですね。冬美の ENKA シリーズとわさみんとの最大の違いは、冬美のほうはアレンジにかなりの工夫が凝らされているというところ。わさみんのカヴァーのばあいはいつもストレートに、だいたいのばあいオリジナルのアレンジを踏襲しているので、そこも大きな差異になってきますね。

 

「越冬つばめ」でもそうで、ぼくが聴くところ、わさみんヴァージョンの素直な伴奏のほうがこの曲の味をより活かすことにつながっているなと聴きます。歌手のヴォーカル表現法も、冬美はわざとグッと抑えた、大人のナイーヴさを出すことに腐心していますが、わさみんのほうはもともと持っている本能的ストレートさでそのまま歌っているのが好感度大です。

 

しかもわさみんの「越冬つばめ」が収録されている『リクエスト・カバーズ』はデビュー・アルバムなんですね。2013年のリリースでした。わさみんがいまの完成形に到達したのは、ぼくの見るところ2018年ごろからですから、その五年も前のリリースだったんです。歌手デビューが2012年ですからね。それなのにここまで歌えているなんて、ああ、天才…。こういったところは凡百の歌手がわさみんに太刀打ちできない部分です。冬美は平凡な歌手ではありませんが、それでもああ…。

 

わさみん側が素直でオリジナルに忠実なアレンジを採用することが多いのが結果的に功を奏しているのは、「越冬つばめ」だけでなく、ほかはたとえば「石狩挽歌」でもそうです。冬美ヴァージョンの「石狩挽歌」はちょっとアレンジこねくりすぎじゃないかと思うんですね。歌手の歌いかたも無表情にもっと淡々とやったほうがいい。それでこそ「石狩挽歌」という曲のフィーリングが伝わります。その点、わさみんヴァージョンは完璧で文句のつけようがないです。発売も2017年なので、完成に近づいていると言えます。

 

最初からかなり完成度が高かったわさみんであるとはいえ、しかしたとえば「津軽海峡・冬景色」なんかは物足りません。2013年の「もしも私が空に住んでいたら」のカップリングだったんですけど、う〜ん…、これは、まあアレンジもイマイチですがわさみんのヴォーカルがまだまだ幼いと言わざるをえません。逆に言えば、近年はグッと成長し声そのものにも色と艶が増すようになっているということです。そこから振り返れば、この「津軽海峡・冬景色」はまだまだですね。断然、冬美ヴァージョンに軍配が上がります。

 

同じ2013年のわさみんでも、「津軽海峡・冬景色」と「越冬つばめ」でこのような差がどうして生まれているのか、ちょっとじっくり考えてみないとわからないですね。それにぼくは当時のわさみんのことをなにも知りません。曲そのものがわさみん向きだったかどうかという相性の問題もあったと思います。同じ年の『リクエスト・カバーズ』にある「ブルー・ライト・ヨコハマ」なんかは見事な歌唱ですしね。

 

上でも書きましたが、冬美の ENKA シリーズ最大の特色は(ヴォーカルふくめ)アレンジの工夫なんですけど、結果的にそうとう見事なことになっているものがありますね。わさみんも歌っている「大阪ラプソディー」なんかもそうです。冬美のはどうしてこんなにチャーミングなのか。アレンジャー坂本昌之がすごいのか。わさみんがファースト・コンサートで歌った「女のブルース」もそうですね。冬美ヴァージョンはどっちも新作『ENKA III 〜偲歌』に収録されています。

 

「大阪ラプソディー」は、わさみんも歌唱イベントなど現場でくりかえしなんども歌っています。大阪が舞台になっている歌であるということで、ぼくもよく出かけていく大阪でのイベントでは本当によく歌われます。近年のわさみんヴァージョンは、やはり声そのものに成熟を感じる内容で、現場で聴いて、ため息が出るほど見事なものになっているんですね。

 

がしかし、アレンジが同じですよね。これはしょうがないことなんですけど、CD 収録などの際に作成されたカラオケをそのまま使いまわしているわけです。だからこそ、伴奏がずっと同じものであるからこそ、その上に乗るわさみんの歌唱技巧の上達がわかりやすい、伝わりやすいという面はあります。けれども、歌手がここまで大きく成長しているんだから、伴奏のオケもそろそろ歌手の成熟にあわせて新しくしてほしいという気分だってぼくにはあるんです。

 

わさみん現場でいくら聴いてもそんなふうには思いませんが、冬美の「大阪ラプソディー」その他を CD で聴いちゃったら、そのおもしろさ、魅力に降参し、振り返って、ああこれはわさみんも歌っているじゃないか、わさみんのもいいけれど、アレンジというか伴奏がそのままだからちょっぴり残念だなと思い至ったんですね。冬美ほどの実力の持ち主だからあんな斬新なアレンジでも歌いこなせるんであって…、と思われるかもしれませんが、歌手としての資質を考えたらわさみんのほうが新世代ですからね。

 

わさみんが歌い込んでいる曲の数々は、そろそろオケを録り直していただきたいと、斬新なおもしろいチャーミングなアレンジでやらせてみてもいいのではないかと、それが冬美の ENKA シリーズを聴いていてのぼくの率直な感想なんです。はっきり言えば、こんな斬新なアレンジを施してもらえる冬美がうらやましくてたまりません。わさみんのオケはずっと同じですから。いろんな問題というか制限があるんだろうなとは想像できますけれどもね。

 

また、冬美の ENKA シリーズにあってわさみんがいまだ歌っていないなかには、ちょっとわさみんに歌わせてみてほしいと思える曲がいくつもあります。『ENKA I 〜 情歌』にある「大阪しぐれ」(都はるみ)、『II 〜哀歌』にある「雨の慕情」(八代亜紀)、「アカシアの雨がやむとき」(西田佐知子)、『III 〜 偲歌』にある「ふりむけばヨコハマ」(マルシア)などがそうですね。

 

それらの曲は、ぼくの見るところ、いまの2019年のわさみんの資質にピッタリ似合います。間違いないと思います。冬美の ENKA シリーズ三枚トータルのプレイリストを以下に貼っておきますので、Spotify は一ヶ月15時間までなら無料で聴けますので、ぜひちょっと耳を傾けてみてください。わさみんが歌うに際しては、それら冬美ヴァージョンでアレンジャーをやっている坂本昌之さんにアドバイスいただけることでもあれば、望外の喜びです。坂本さんは本当にすごいアレンジャーです。
https://open.spotify.com/playlist/2ZtZnLHa9HU9XI0rGSTBwC?si=gYDKYfbRS8-6CVI1j7IQbw

 

冬美の ENKA シリーズについては、いままでにどんどん Black Beauty に書いてきていますので、ご興味を持たれたわさみんファンのみなさんはちょっと覗いてみてくださいね。

2019/06/29

アンナ・セットンとの出逢い

1007780197https://open.spotify.com/album/6WgABJKyrASDU4k0hDjin9?si=1gmYJigXSj6Y91TeWcmf-Q

 

bunboni さんにご紹介いただきました。
https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-05-15

 

ブラジルにアンナ・セットンという歌手がいるみたいです。どんなもんかな?とちょっと試聴だけするつもりで Spotify で聴きはじめたらチャーミングで、一気に最後まで聴いてしまいました。デビュー作なんでしょうか、趣味のいい2018年の『アンナ・セットン』がすっかりお気に入りになっているんですけど、これはたぶんジャズ・アルバムと呼んでいいはずです。バックの演奏がジャズなだけでなく、その上に乗るアンナのヴォーカルにもぼくはちょっとしたジャズっぽさを感じるんですね。

 

アルバム『アンナ・セットン』はまず出だし1曲目がすごく気持ちいい!もうこれ一発で全体の印象がいい方向に決まってしまうくらい快感ですよ。アルバムはたった33分間ですから、この好印象で最後まで駆け抜けることができるんですね。それにしてもいい曲ですねえ、トップの「Baião da Dora」って。演奏もアンナも気持ちいいです。ドラムスの音が出てアンナのスキャットが入ってきた瞬間に、こりゃあいい!って思いましたよ。

 

バックは基本ギター、ピアノ、ベース、ドラムスで、随時管楽器が入るといった程度。アンナのヴォーカルにもっぱら焦点があたっていて、ソフトで口あたりのよい声とサッパリした歌い口を際立たせる演奏と録音になっているのも好感度大です。アンナのフレイジングにはけっこうな技巧も感じられる繊細さで、このちょっぴりジャジーな良質のヴォーカル・アルバムをいい感じに仕上げていますよね。

 

おもしろいのは5曲目「ミーニャ・ヴォス、ミーニャ・ヴィーダ」(カエターノ・ヴェローゾ)と、ナット・キング・コールで有名な6曲目の「ネイチャー・ボーイ」。前者では最初から最後までやわらかいエレキ・ギターだけでの伴奏でふんわりと漂うようにアンナが歌い、後者ではにぎやかで派手にかざっています。

 

特に「ネイチャー・ボーイ」には着目したいですよね。この曲はそもそもナット・キング・コールのヴァージョンを聴いてもわかるようにやや不思議な動きのメロディを持っていて、ナットはそれを活かすべく手をくわえずにストレートに歌っていました。もとからちょっとエキゾティックなテイストを持った旋律の曲ですからね。

 

アンナらはそれをさらに拡大すべく、楽器伴奏で大幅なエキゾティック・ニュアンスを付与、ラテンなムード満点にアレンジしてあります。楽器演奏も、中間部のトランペット・ソロの背後でドラムスとパーカッションがにぎやかに刻んでいますし、アンナのヴォーカル・パートでもそれは強調されているんです。もとからやや不思議な曲である「ネイチャー・ボーイ」が、さらにいっそうミステリアスなヴェールをまとったかのようですねえ。

 

そのほか、アルバムのどの曲もていねいにアレンジされ演奏され、歌われていて、創り手サイドのヴォーカル・アルバムにとりくむデリケートな姿勢がうかがえて、実際、結果、こじんまりとしているけれど、いい手ごたえの良質なヴォーカル・アルバムができあがっていると言えますね。サウンド面では折々にエクスペリメンタルな要素もスパイス的に利いていて、なかなかおもしろいです。

 

ジャズと言ったけれどジャズじゃないかもしれないし、ブラジル女性ヴォーカル・ミュージック・ファンや、もっとひろく女性歌手ファンのみなさんには大きく推薦できる、趣味のいい好アルバムです。

2019/06/28

おいらのやることみなファンキー 〜 ルー・ドナルドスン

516lzid2dlhttps://open.spotify.com/album/4bonZNozN5B3PO7nXJ317E?si=O9swzWr9RjiC7fcN_ovJqQ

 

ぼくにとってルー・ドナルドスンとはバッパーというよりファンキーなソウル・ジャズのひと。『アリゲイター・ブーガルー』みたいなやつですね。そしてここにも一個くっさぁ〜いアルバムがあります。1970年リリースの『エヴリシング・アイ・プレイ・イズ・ファンキー』(ブルー・ノート)。スタンダード「虹の彼方に」もやっていますけど、アルバムの約38分間ほぼ全編がファンキー路線で、も〜う!気持ちいいったらありゃしません。

 

このアルバムは1969年8月(4、5曲目)と70年1月(1、2、3、6曲目)の二回のセッションでの収録曲で構成されているんですけど、バンド編成はどっちもホーン二管にギターやオルガンをくわえるという『アリゲイター・ブーガルー』路線。でも大きな違いもありまして、こっちにはフェンダー・ベースを弾くジミー・ルイスが参加しています。オルガン奏者がいながらにベーシストも入れるというのは、リズム重視の時代の要請ってことでしょう。実際、ジミー・ルイスのベース・プレイは、オルガニストがフット・ペダルを操作するのでは実現不可能な細かく精緻なファンキー・ラインを奏でていて、大成功していると言えます。

 

アルバム『エヴリシング・アイ・プレイ・イズ・ファンキー』の全六曲では、3曲目のスタンダード・バラード「虹の彼方に」を除く五つすべてがブルーズ(かその亜種)で、そのうちラスト6曲目「マイナー・バッシュ」が4/4拍子のストレートなジャズ・ビートなのを除けば、残りは8ビートのファンキー・グルーヴを持っているという、はっきり言って万々歳な作品なんですね。

 

オープナーの「エヴリシング・アイ・ゴナ・ドゥー・ビー・ファンキー(フロム・ナウ・オン)」は、まずルーをはじめとする面々の会話からはじまって、曲題そのままのことばをルーが歌いだしたら本編開幕。ブルー・ミッチェルとの二管でそのテーマを再演奏し、まずメルヴィン・スパークスのギターからソロ・パートに突入します。どのソロもファンキーで、いやあ愉快爽快万々歳。オルガンでビャビャッとやっているのは大好きなロニー・スミス。その後ふたたびヴォーカル・コーラス・パートも出ます。

 

こんな軽妙でユーモラスでもある「エヴリシング・アイ・ゴナ・ドゥー・ビー・ファンキー(フロム・ナウ・オン)」の曲と演奏で、このアルバム全体の色調が決定していますよね。このファンキー・オープナーを聴けば、そしてノレれば、アルバムの残りの部分も保障されたも同然です。実際、すばらしく見事なんです。

 

2曲目「ハンプズ・ハンプ」はゆったりテンポでシンコペイトしながら揺れるビートを持つグルーヴァー。やはりメルヴィン・スパークスのギター・ソロがカッコイイです。また全曲で肝を握っているドラマーはイドリス・ムハンマド。ルーのセッションでは、かの『アリゲイター・ブーガルー』でレオ・モリスとして叩いていたひとですね。ムスリムに改宗して名前が変わりました。

 

4曲目「ドンキー・ウォーク」は完璧なる「アリゲイター・ブーガルー」系で、たぶんその改作みたいなもんですよね。リズム・パターンはまったくの同一。しかし大きな違いもあって、「ドンキー・ウォーク」では各人のソロのあいだストップ・タイムが多用されていること。リズムが止まっているあいだになにを演奏するかが最大の聴きどころです。ルーがガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」を、トランペットのエド・ウィリアムズが古いブルーズ・ソング「ワイ・ドント・ユー・ドゥー・ライト」を、それぞれ引用。イドリスのはたはたドラミングも快感です。

 

5曲目「ウェスト・インディアン・ダディ」。曲題どおり西インド諸島の音楽に言及したもので、カリプソ風味が強く感じられます。ジャズ楽曲のなかだとソニー・ロリンズの「セント・トーマス」にそっくりなリズム・パターンと言えましょう。しかもルーのこれはブルーズで、ファンキーでアーシーにくっさいっていう、なんともいえずたまらない心地よさなんですね。

 

いやあ、ホント、こんなソウル・ジャズこそ大好きです!

2019/06/27

坂本冬美の ENKA シリーズを考える

8f6abf0057d64a00a6dd892b0f838919https://open.spotify.com/playlist/2ZtZnLHa9HU9XI0rGSTBwC?si=_cZuM2w4TsqcmloJSlGq4A

 

2016年の『ENKA 〜情歌〜』にはじまった坂本冬美のこの ENKA シリーズ。2017年の『II 〜哀歌』、2018年の『III 〜偲歌』と一年一作のペースで発売され、まだ完結していないのかもしれないですが、トリロジーとなったところでいったん立ち止まり、このシリーズがいったいなんなのか、どんな世界を展開しているのか、ちょっと考えてみましょう。

 

冬美は1987年の「あばれ太鼓」でデビューしていますので、この ENKAシリーズは芸歴30周年をそろそろ迎えるからということでその記念として企画されたものかもしれません。レコード会社(ユニバーサル)からなのか事務所側から持ちかけたのか、はたまた冬美本人の発案だったのか、そのへんはわかりませんが、結果的にこのトリロジーは大成功だったといっていい充実度じゃないでしょうか。

 

歌手坂本冬美のキャリア全体から見ても代表作となるであろうこの ENKA シリーズ。三作トータルでの全33曲に、書き下ろしの新曲はありません。すべてが(セルフをふくめ)カヴァーなのです。なかには「石狩挽歌」(北原ミレイ)、「津軽海峡・冬景色」(石川さゆり)、「越冬つばめ」(森昌子)、「愛燦燦」(美空ひばり)、「舟唄」「雨の慕情」(八代亜紀)、「大阪しぐれ」「北の宿から」(都はるみ)、「港町ブルース」(森進一)、「女のブルース」(藤圭子)、「空港」(テレサ・テン)といったような、日本歌謡史を代表する超名曲もあります。

 

こんな曲の数々をカヴァーするわけですから、制作側も歌手本人も気合が入ってリキんでしまうのではないかと思いきや、結果は正反対です。ふわっと軽く漂うかのようなサウンドとヴォーカルで、肩の力がちょうどいい具合に抜け、ディープな表現もできる力を持ちながらそれを抑え、あっさりめの味付けでさらりと冬美は歌いこなしています。伴奏陣というかアレンジャーたちもそんなふうに仕事をしていて、だからこれは企画段階からそのようなライトでポップな演歌世界を構築したい、それが大人の表現法だから、という意図があったんだなと受けとることができますね。

 

感情表現に抑制を効かせたライト・タッチな歌唱表現こそ、ENKA シリーズ三枚で冬美が展開しているものです。大人の女性が静かにたたずんで微笑みながらやさしくそっと語りかけているような、そんな世界ですよね。なかには、たとえば一枚目にある南郷達也アレンジのものや、二枚目にあるハード・ブラス・ロックな「帰ってこいよ」など、この路線からはみだしたド演歌に近いものもありますが、トータルでいえば例外として度外視してかまいません。トリロジー全体からすればプロデュース、アレンジと冬美の構築した音楽が奈辺にあるかは明白ですから。

 

ひとことにすれば、冬美の ENKA とは、演歌から激烈さを消し表現に抑制を効かせた世界。風のようにふんわり漂い香るアッサリ情緒。ほんのり軽いフィーリン、ファド、フラメンコなどラテン/ワールド・ミュージック・テイストで伴奏サウンドをくるむこと。リズムに軽快なシンコペイションを効かせノリよく歌わせること。そんな方向性に沿って伴奏やヴォーカルをアレンジし、歌手もさらっと歌うこと。

 

ENKA シリーズを一枚目から順にたどっていくと、そんなニュー冬美には、まず「大阪しぐれ」で出会えるなと思うんです。この「大阪しぐれ」はかなりいいですよねえ。ところでここでは冬美の声がまるで都はるみに聴こえるんですけど、どうなっているんでしょう?いちばんいいころのはるみが乗り移ったかのようですよ。似せているとかいう次元じゃなくて、なにかの共振現象じゃないでしょうか。すごいなあ、冬美。

 

この「大阪しぐれ」では坂本昌之のアレンジもなんともいえず見事です。エレキ・ギターの弦をミュートしてシングル・ノートでリフを演奏させていますが、それが実に効果的。リズムに軽いラテン・シンコペイションを効かせて、全体のサウンドも落ち着いて、派手さのないなかに繊細微妙なフィーリングをかもしだしています。上に乗る冬美のヴォーカルも、軽いはるみ調で軽快でノリがいいです。いやあ、見事。

 

三枚全体で見渡しても、この「大阪しぐれ」は出色の出来なんですが、一枚目の『情歌』全体ではまだすこし物足りないっていうか、ふんわり軽いフィーリン演歌みたいな境地にフルには到達していないかも。まだ激烈濃厚演歌テイストが強めに残っていますよね。ハードで濃ゆい演歌がよくないっていう意味じゃなくて、このシリーズ三枚全体を俯瞰すると、やや場違いかなと感じてしまうんです。

 

その点、シリーズ二作目の『哀歌』だと、軽快ライト・テイストな冬美 ENKA 世界が(ほぼ)フルに実現しているといっていい充実度ですよね。もうオープニングの「雨の慕情」でアクースティック・ギターとフルートのふわっとしたサウンドと、それに乗る抑制の効いたヴォーカルが聴こえてきただけで、それだけでもう降参です。ぼくは一回目にこの「雨の慕情」をちらっと聴いただけで、ああこのアルバムは傑作に違いない、冬美はこんな円熟の境地に達してしまったと、感嘆のためいきが出ましたね。

 

「骨まで愛して」なんかも、骨までだからがっつりディープに歌い込みたい歌だし、冬美にその実力もありますけど、そこを抑えて、つまり感情を激しく表出するのをこらえて、ぐっと自然体で構え、ふわっとソフトに歌っていますよね。こういった表現をこそ、大人になった、成熟した、言いかたがあれですが「枯れた」(いい意味で)と呼びたいです。

 

「アカシアの雨がやむとき」が ENKA シリーズ二枚目『哀歌』の白眉だと思うんですけど、どうでしょうこの世界!?も〜う、く〜〜ったまらん!じゃないですか。そのほか、この二枚目では「帰ってこいよ」を除くだいたいどの曲も抑制が効いていて感情表現がハードではなく、聴き手に心地よい印象を与えます。

 

一枚目『情歌』の「大阪しぐれ」、二枚目『哀歌』の「雨の慕情」「アカシアの雨がやむとき」に相当するのが、三枚目『偲歌』では「港町ブルース」や「大阪ラプソディー」「ふりむけばヨコハマ」などです。「望郷」もこのアルバムでは傑出してすばらしいですが、やや傾向が違っていますよね。シリーズ三枚トータルではっきり感じる音楽コンセプトからすれば、やはり「大阪ラプソディー」こそ最高の一曲ではないでしょうか。

 

ところで、ここまでぼくが激賞してきている曲のアレンジは、すべて坂本昌之がやっているんですけど、「大阪しぐれ」「雨の慕情」「アカシアの雨がやむとき」「大阪ラプソディー」などをまとめて聴けば、坂本アレンジの特定傾向を聴きとることができます。それはエレベとエレキ・ギターの単音弾きとドラムスの三者をユニゾン・シンクロさせて、それに軽いラテン・シンコペイションを効かせてフックとし、その上にメリハリの効いた管弦楽をふわっと乗せ、冬美にもリズミカルかつ軽快にやわらかく歌わせるというものです。

 

そんなふうにつくられた冬美の ENKA ワールド。今後さらに四作目、五作目と続いていくのかどうかわかりませんが、ある種の頂点に冬美がいま立っているというのは間違いありません。歌手として、(歌世界のなかでの)女として、人間として、最高度に円熟した坂本冬美のふわっと軽いフィーリン演歌みたいな世界は、聴いて快感で、聴き終えての後口もサラリ爽やか。いやあ、すごい高みに到達したもんです。

 

以下は、三枚から特にすぐれていると判断したものだけを順番に並べたベスト・セレクションです。
https://open.spotify.com/playlist/4QQsmZVXDK2HtrgVJpfKuy?si=cPXovjffR3Se7BXkAFytSw

2019/06/26

冬美の円熟 〜『ENKA III 〜 偲歌』

61ip8r6ebilhttps://open.spotify.com/album/4N1LO6cSf23N1eiYRWcBOY?si=C36YXE-PTB2M9c3KXB0W2w

 

昨2018年12月にリリースされた坂本冬美の最新アルバム『ENKA III 〜 偲歌』は、猪俣公章生誕80周年記念と銘打たれていて、収録の10曲はすべて猪俣が作曲したものです。冬美にとっては師でもあるわけですから、やはり猪俣トリビュートという側面も強い作品でしょう。同じく猪俣の弟子であるマルシアがゲスト参加していることからもそれは読みとれます。

 

そんな冬美と妹弟子マルシアとのデュオで歌われる「大阪ラプソディー」、かなりおもしろいんじゃないでしょうか。個人的にはこのアルバム『ENKA III』での最大のお気に入りがこれです。なにがいいって、リズムですよね。アレンジャーはこのシリーズ通例でやはり坂本昌之ですが、ベースとエレキ・ギターとドラムス、そしてここではストリングスも一体となって、この軽いラテン風味の香るリズム・テイストを奏でているのが楽しいです。ふたりのヴォーカルもノリがいいですしね。

 

特に一番の歌詞で「御堂筋は恋の道」の「御堂筋」パート、二番なら「どこも好きよ二人なら」の「どこも」パートでストップ・タイムが活用されていますが、もうそこがたまらなく好きなんです。ストップ・タイム部では特にストリングスがシャッ!シャッ!と切るように演奏して効果を出しているのが印象的。坂本のペンの冴えを感じますね。

 

こんなほんのり軽いラテン香のただようライトなポップ演歌が、前作『ENKA II 〜哀歌〜』とも共通するフィーリンですから、『ENKA III』でも主流だと言えましょう。「港町ブルース」「女のブルース」「ふりむけばヨコハマ」など。また、しっとり系ですが「空港」「君こそわが命」も同じ路線に乗っているとしていいかもしれません。

 

なかでもマルシアのデビュー・ヒットだった「ふりむけばヨコハマ」なんかも出来がいいです。猪俣の弟子のマルシアの代表曲なわけで、それを姉弟子冬美がとりあげてこんなふうにしっとりと歌いこなしてみせれば、この猪俣ワールドにぼくらは降参するしかありません。「ふ、り、む、け、ば、ヨコハマ〜」とリフレインされるところで感極まってしまいます。

 

それにしても、冬美のヴォーカル表現の成熟・円熟といったらどうでしょう。ここまで軽くフワリと、ディープな情緒表出を抑え、軽く自然体で、しかしそれだからこそかえって大人の女としての切なさ・哀しみをこれでもかと感じさせるようなさりげなさ 〜 こういった視点で聴けば、いまの冬美ほどに歌える歌手は日本にいないのでは?と思えるほどのすばらしさ。聴けば聴くほどその世界のトリコとなってしまう味を持っていますよね。

 

そこまでの円熟した冬美が『ENKA III』で聴かせる寂寥は、坂本ではなく若草 恵がアレンジした二曲「ふたりの旅路」「望郷」でこそいっそうの極みにあると聴こえます。しかもアルバム中この二曲でだけポルトガル・ギターが、それも複数台使用されていて、若草のアレンジともあいまって、まるでファド演歌とでもいうべき独自の境地に達しているんです。

 

(複数台の)ポルトガル・ギターをうまく活用したファド演歌ふうな世界は、それら二曲のそれぞれ全体で表現されているわけではありません。主に前奏・間奏・終奏部ではっきりわかるといった程度です。しかし本場ポルトガルのファド歌手がそうであるように、ここでの冬美は二曲の全体で強い哀愁と寂寥をこれでもかと、しかし表面的にはサラリとあっさりオブラートに包んで、ぼくら聴き手の心に忍ばせてくれるんですね。

 

孤独、寂寥、哀愁を漂わすファドの世界を、アレンジャーの若草と歌手の冬美は、猪俣の楽曲を使いこなして表現し、いままで演歌の世界ではだれも到達したことのない世界を聴かせてくれているという気がします。「望郷」なんかあまりにも切なすぎて、歌詞が身に沁みすぎて、声のかすれかた一つ一つにまで命がこもっていて、もう聴くたびに落涙をくりかえすばかり。もうなんなんですかこの冬美ワールドは。

2019/06/25

エディ・パルミエリのフォルティシモ 〜『フル・サークル』

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フル・サークルとは、この2018年作にふさわしいアルバム題ですね。まさにフルもフル、こんな満々のサルサ・グルーヴはいまどきなかなかないかもしれません。80歳のエディ・パルミエリにしかなしえなかった作品だったんですね。まさしくフォルティシモな音楽が全編にわたって繰り広げられています。このみなぎるエネルギー感、それがフォルテ、いや、フォルティシモだなと思うわけです。

 

アルバム『フル・サークル』はエディ・パルミエリがストレート・サルサに回帰した作品ですけど、サルサってこんな音楽でしたっけねえ。悪くいうと一本調子で緩急がない。ぐいぐいと大音量で押しまくるばかりで、一時間にわたってこの調子だから、聴いているほうはちょっと…、と引いてしまうばあいだってあるかも。音量が小さく控えめになる時間がないんですもんねえ。

 

でも、いま2019年にもはや時代遅れかもしれないそんなフォルティシモ一辺倒音楽を世に問うたエディ・パルミエリの、なんというかやりたかったこととは、時代遅れになったサルサ・ミュージックの押し一辺倒な大音量パワーを取り戻し、生命力を高らかにうたいあげるところにあったのかもしれません。御大も80歳ということで、いま、まだまだ自分は健在なんだぜと胸を張っているような、そんな宣言なのかもしれませんね。

 

エディの『フル・サークル』では、打楽器隊も管楽器隊も、エディの弾くピアノも、トレスも、ヴォーカル陣も、みんな目一杯にまで音を出して、限界まで音量を上げて、ずーっと最大音量を維持しつつパワーを見せつけて、押し切ろうとしている、しかも隙間なくびっしり音が敷きつめられている、そんな音楽です。ベテラン連中の、老いてますます盛ん的なマチスモを感じますね。良くも悪しくも。

 

それにしても、一時間、やっかましい音楽です(笑)。

2019/06/24

ジミー・ブラントンは23歳で、クリフォード・ブラウンは25歳で亡くなった

Jimmy_blanton Clifford_brown「まだハタチの女性だというのだから、驚かされます」…、って、なんでカタカナなのかもわかりませんけど、もっとわからないのは年齢と音楽的成熟とを結合させるこのかたの発想です。いままでもずっとそうなんですけど、若いけど音楽的に成熟していることに驚き、歳とっているのに音楽が若ければこれまた驚き、ってそんないつもいつも驚いてばかりいるもんだから、事実、実年齢と音楽は無関係であることを裏返しに証明しているようなもんですよ。

 

音楽の世界で、若くして、そうですねたとえば十代前半ごろで立派な歌を、演奏を、特に歌かな、聴かせるというケースは枚挙にいとまがないじゃないですか。美空ひばりもリトル・エスター(エスター・フィリップス)も鄧麗君もそんな年齢でレコード・デビューしていて、しかも当初から完成されていました。立派な大人の歌を(大人顔負けとかではない)聴かせていたと思うんですね。

 

楽器奏者でも十代でのデビュー時から円熟していたひとは多いです。ジャズ・トランペット奏者リー・モーガンは18歳でプロ・デビューしています。表題にしましたがデューク・エリントン楽団のベース奏者ジミー・ブラントンも、モダン・ジャズ・トランペッターのクリフォード・ブラウンも若年で成熟。亡くなったときに20代前半だったんですからね。その時点で彼らの演奏は完璧でした。

 

音楽的感性はしばしば十代で養われ、しかも完成することが多いですし、それは才能や本能といった部分だけでなく、鍛錬がその時期に集中的になされるからでもありましょう。それでメキメキ腕をあげ、歌手として楽器奏者として、二十歳を迎えたといったあたりの年齢でも完成するケースがいままでの音楽史で実に多いことをみなさんご存知のはずです。意地悪なことを言えば、その後は落ちていく一方なんていうひともいますけど。

 

もちろん生物学的な年齢を重ねるに連れ、音楽も充実度を増していくひとも多いですよね。実人生での経験の積み重ねが音楽にも反映されて、熟成度を増すんですよね。でもそれを音楽の世界における一般法則だなどととらえてはなりません。そういうケースもあればそうじゃないケース、すなわち若くして熟した深みのある音楽を実現できる存在もいるという、それだけのことなんで。

 

だから若くして熟した才能に出会っても、それでいちいち驚いていてはキリないですよ。歴史が証明しているようにそういう存在は音楽の世界ではわりと一般的ですから、決して例外だとか稀な天才だとかいうわけじゃないです。ごくふつうのことなんで、そういうひともいるんだな、またしても出会ったな、とふつうに受け止めれていればいいだけじゃないでしょうか。

 

ともあれ、音楽、スポーツ競技、数学。この三分野は十代で大きく花開くことのできるものなんです。そんなケースがあまりにも多いわけなんでごく一般的なことで、だから二十歳なんていったら(アイドル界じゃないけど)もう年寄り、そろそろ引退だと言われちゃいますよ。実際そうなったひとも多いですしね。

2019/06/23

男歌・女歌(二回目 with わさみん)

Img_8481一回目はこれ → https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-c90d.html

 

このリンク先の2016年9月付の記事以上の知見は持ち合わせていないのでくりかえしになりますが、二回目を書いておかなくちゃなと思うことが最近なんどかありました。

 

日本の演歌や歌謡曲や J-POP や、要するに大衆歌謡の世界に(男性が/女性が歌うべき)男性曲/女性曲といったものはありません。こういうことばをお使いになるかたがたの文章を拝見していると、男性歌手の曲を女性が歌ったりその逆だったりするのはイマイチなのだ、ちょっと遠慮したいのである、というご気分がおありだとお見受けします。でも、そんなことはないんですよね。

 

たとえば女性歌手が男性の持ち歌をやるのは、なんら不思議なことではありません。その逆も然り。歌詞内容が、男性が歌うような内容で男心を扱ったものでことばづかいも男ことばで、といった曲でも、女性歌手はどんどん歌っていますよね。それが<男歌>というもので、日本の歌の世界ではあたりまえのことなんですね。逆に男性歌手が女ことばで女心を歌ったものは<女歌>と呼び、それらどっちもごくごくふつうのことで、違和感はありません。

 

ちょっとそれぞれ具体例をあげておきましょう。上の過去記事とダブるばあいはご容赦ください。八代亜紀の「舟唄」。これは男歌ですね。歌詞内容も男ことばで男の心情をつづったものですが、女性である八代はなんの問題もなく歌いこなし、説得力のあるすばらしい歌唱を聴かせています。
https://www.youtube.com/watch?v=2kOQfc1FswE

 

わさみんこと岩佐美咲も歌った、川中美幸の「ふたり酒」も男歌ですよね。完璧な男口調じゃないですか。これをおかしいなどという演歌ファンはいないわけです。もっとも、このままアメリカなどへ持っていったら奇妙であると言われること必定ですけどね。日本ではまったくふつうです。
https://www.youtube.com/watch?v=8wUHmhgubks

 

わさみんの名前を出しましたので、彼女がカヴァーした女歌の例をあげておきましょう。森進一の「北の螢」がそうです。森は男性でありながら、女性の立場に立って女ことばで女性の(男性に対する)心情を切々とつづっています。これを聴いて、キモチワルイ〜などと感じる日本人演歌ファンはほとんどいないはずです。
https://www.youtube.com/watch?v=IoNdfSU4DyU

 

わさみんもギター弾き語りライヴで歌った「木綿のハンカチーフ」(太田裕美)なんかは、一曲の歌詞のなかで男の立場と女の立場がどんどん入れ替わりますよね。A メロ部は男性心情を男ことばで歌っていますが、サビになると突然女性になります。男女の対話形式で毎コーラスが進むんです。こういうのは例外かもしれませんが、太田裕美もわさみんも、男になったり女になったりして、一曲のなかで自在に歌い分けているんですね。
https://www.youtube.com/watch?v=_qzIG2SK3eI

 

男性曲/女性曲などとおっしゃるかたは、ぼくがここまで述べたようなことではなく、たんにオリジナル歌手が男性だから/女性だから、異性の歌手がカヴァーするのはどうかと思うといったニュアンスなのかもしれないですね。だから内容は男歌だけど八代亜紀の「舟歌」を同じ女性のわさみんが歌うのはべつに問題なく、いっぽう歌詞内容は男性/女性どっちでも OK なものだけど西田敏行の歌った曲をわさみんがやるのにはやや違和感があるとか、そういうことでしょうか。

 

しかし、わさみんは上でもあげましたように森進一の女歌や川中美幸の男歌を歌って見事な結果を示していますよね。いや、それは男性歌手がやったものでも女歌(女性心情)だから違和感が小さいということなのでしょうか。男歌(男性心情)でも川中美幸は女性歌手だからわさみんが歌っても違和感なしとかですか。う〜ん、それはちょっとどうなのでしょう。歌詞が男性内容/女性内容であるかどうかには関係なくどっちの性別の歌手でも歌えるのが日本歌謡の特徴なのですから、オリジナル歌手の性別いかんにこだわりすぎないほうがいいのではないでしょうか。

 

音楽だけじゃなく、一般に芸能・芸術表現の世界では、性別はしばしばクロスします。超えていくんです。このことは日本人であれば皮膚感覚で理解できていることじゃないでしょうか。歌舞伎の伝統がありますし、近代以後なら宝塚もあります。男性役者が女形を演じたり、女性が男役をやったりして、違和感がないわけですからね。それはたんに役割分担であるとぼくらもわかっているからでしょう。同性愛者だから、なんてわけではないと知っています。

 

演歌や歌謡曲の世界でも同じなんですよね。性別というか、歌詞内容の、または初演歌手の、性差にとらわれて、こっちの(同一)性別じゃないと歌えないとは、ぼくら日本人はふつう考えませんし、実際、歌手のみなさんも性別を超えてどんどんカヴァーなさっているというのが事実です。よくご存知でしょう。日本の歌の世界とはそういうものなんですね。

 

わさみんこと岩佐美咲には、だから女歌でも男歌でも、オリジナル歌手が男性でも女性でも、どんどんとりあげてカヴァーしてほしいなとぼくは思っています。なんでも歌いこなせる実力が身についてきているから、というのもあるんですけど、それ以上にもとからそういう世界なんです。わさみんもその世界に身を置いている、つまり伝統の一端を担っているんですから。

 

ぼくらファンもそれをちゃんと理解した上で、わさみんになにを歌ってほしいかは(性別関係なしで)柔軟に考えていったほうがいいんじゃないでしょうかヾ(๑╹◡╹)ノ。

2019/06/22

ルーカス・ネルスンの新作が心地いい

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https://open.spotify.com/album/4pq1gNWh38JQfazZqxjH5m?si=UWXQNhTRQMGfVj_4gRyTlg

 

このアルバムが出たのは萩原健太さんに教えていただきました。
https://kenta45rpm.com/2019/06/19/turn-off-the-news-lukas-nelson/

 

大御所ウィリー・ネルスンの息子ルーカスは、現在ちょうど30歳。バンド、プロミス・オヴ・ザ・リアルを率いていますが、もう知名度があるんじゃないでしょうか。最近ならなんといってもあの大ヒット映画『アリー/スター誕生』の音楽にかかわっただけでなく、画面にも登場しました。2015年来ニール・ヤングのサポート・バンドを続けていますし、そのアルバムだって数枚あります。

 

父ウィリーがカントリー・ミュージック界の存在なのに対し、屈折していない奔放な二世ルーカスの音楽性はもっと幅広く、カントリー・ベースのルーツ・ロッカーというべきでしょうね。プロミス・オヴ・ザ・リアルはインディ・レーベルでいくつもアルバムをリリースしていましたが、メイジャーのコンコードに移籍してからは、今2019年の『ターン・オフ・ザ・ニューズ(ビルド・ア・ガーデン)』が二作目になります。

 

その最新作『ターン・オフ・ザ・ニューズ』がとってもいいんですよ。大収穫じゃないでしょうか。まず出だし1曲目「バッド・ケース」でトラヴェリング・ウィルベリーズ風味全開なんだから、もうそれでぼくなんかは心奪われてしまいます。いやあ、見事というしかない。なんなんですかこれは。ルーカス・ネルスンってこんなにも気持ちのいいロッカーなんでしたっけ。すばらしいのひとこと。この一曲を、しかも冒頭部を、聴いただけで、アルバムが良品とわかるツカミですね。

 

ジェフ・リン、ボブ・ディラン、ジョージ・ハリスンらのトラヴェリング・ウィルベリーズが、そもそも1980年代末にあってのロックンロール・ルーツ復興だったわけですけど、ルーカス・ネルスンは2019年になってそこにベースを置くことで、それをジャンプの土台にして、いわばダブル・プロセスを経てのルーツ・ロック視線を獲得しているのだと言えます。こういうと込み入ってそうですが、できあがりの音は素直でストレートですね。

 

アルバム『ターン・オフ・ザ・ニューズ』2曲目のタイトル曲もトラヴェリング・ウィルベリーズ路線ですが、3曲目はロイ・オービスンへのストレート・オマージュみたいなメロディ・ラインを持っていて、それもトラヴェリング・ウィルベリーズの一作目にありましたから、ここまでが明確なルーツ・ロック志向、先輩への敬意表明と言えます。あ、そういえば父ウィリーはそんな世代ですよねえ。じゃあルーカスのこんな音楽は父親礼賛でもあるんでしょうか。

 

端的に言って、こういうのをアメリカン・ロックの王道まっしぐらな良心的作品、若き教科書と呼びたいルーカス・ネルスンの『ターン・オフ・ザ・ニューズ』は、ライヴ一発録り感も強いんです。実際、聴いた感じ、オーヴァー・ダビングは極力おさえられているに違いありません。五人編成のバンド・レギュラーと若干名のゲスト参加ミュージシャンによるスタジオでの同時演奏を生収録し、あまり加工せず、そのままパッケージングしただろうと推察できる音響ですよね。ルーツ・ロック志向とあいまっての同一基軸上にある録音技法で、好感が持てます。

 

アルバム4曲目以後は、これもロックの根底にあるラテン・テイスト、すなわちリズム・シンコペイションを活用した曲も増えています。それを、往時のイーグルズ的なカントリー・ロック・サウンドのなかにうまく溶け込ませているといった印象なんですね。西海岸的ルーツ・ロックのなかにラテン要素が不可分のものとして一体化しているのは、土地柄を考えたら納得ですよね。

 

それでも父ウィリーが参加している7曲目「ミステリー」はストレートなカントリー・ナンバーかなと思うんですけど、4「セイヴ・ア・リトル・ハートエイク」はソウルフル、8「シンプル・ライフ」はラテンでファンキーですし、またその「シンプル・ライフ」後半のギター・ソロ・インスト部はややジャム・バンドっぽくもあります。9曲目「アウト・イン・LA」の冒頭はチープなビート・ボックスのサウンドではじまったりして、歌が出たらやっぱりラテンなリズム・フックが効いているし、ギター・ソロも光っていて、かなりおもしろいですねえ。

 

その後、(ブルーズ・ベースの)ハード・ロックでちょっぴりサイケデリック風味もある(つまりはあのころのあれ)10曲目「サムシング・リアル」を経て、アルバム一枚目ラストの11「スターズ・メイド・オヴ・ユー」は明快な1960年代ふうポップ・チューン。ギター・ソロはドリーミーです。カントリーでもロックでもなさそうなこれで(実質的に)アルバムは幕締めとなるんですね。

 

ルーカス・ネルスンの新作『ターン・オフ・ザ・ニューズ』、多くの曲でリズムに跳ねるひねりが効いていて、それがラテン・シンコペイションに聴こえるというのはぼくの嗜好ゆえかもしれません。でも王道アメリカン・カントリー・ロックのなかにも、それが<アメリカ>音楽である以上はラテン・テイストから逃れることなどできない、むしろ効果的な有機体として活用しているなあと、このアルバムを聴いても思うんですね。

 

この快作、アマゾンで見てみますと、どうやら日本盤もリリースされるみたいです。現在予約受付中となっていますから。いつごろのリリースになるんでしょう。これで、日本の音楽好きのみなさんのあいだでも、このアメリカン・ロックの良心のかたまりみたいな若者の気持ちいい音楽が人気になるといいなあと思います。

 

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2019/06/21

ミスター・サンバ 〜 シロ・モンテイロ

Unknown_20190620133201http://elsurrecords.com/2018/04/13/ciro-monteiro-a-bossa-de-sempre-2/

 

サンバというかブラジル音楽シーンは1940年ごろを境に変化しました。40年はカルメン・ミランダがアメリカ合衆国に渡った年で、その前、36年にマリオ・レイスが引退、37年にノエール・ローザが亡くなって、38年には若きルイス・バルボーザまでもこの世のひとではなくなってしまったんですから。大きな転換点というかピンチだったと言えるのではないでしょうか。

 

オフィス・サンビーニャ盤『永遠のボッサ』(2002)が編まれているシロ・モンテイロが活躍したのは、ちょうどそんなピンチの時期。デビューは1930年代末ですが、全盛期はやはり40年代前半だったと見ていいはずです。たぶん1942〜44年ごろじゃないですか、シロがいちばんよかったのは。

 

そんなことが、『永遠のボッサ』を聴いているとわかります。ちょうど14曲目「ラランジェイラのボタン」(Botoes De Laranjeira、1942年)のへんから歌がグッとよくなって、19曲目「黒人のサンビスタ」(Crioulo Sambista、1944年)まで続きます。その後は大編成オーケストラの伴奏をしたがえてのものになりますが、シロ特有の軽妙さ、サンバ・ジ・ボッサの感覚がやや薄れているかなという気がしないでもないです。

 

14〜19曲目の六曲のなかには、たとえば「偽りのバイーア女」(Falsa Baiana)のような大傑作があったり、「キスしてちょうだい!」(Beija-Me)も楽しいし、ユーモラスでファンキーなサンバの男性歌手ナンバー・ワンと言われただけのことはあるなとよくわかりますよね。女性のそれがカルメン・ミランダなら男性はシロ・モンテイロで決まりでしょう。

 

「偽りのバイーア女」https://www.youtube.com/watch?v=aKhPbVlw1UY
「キスしてちょうだい!」https://www.youtube.com/watch?v=QFTeg9GL0E4

 

カルメンやシロらのサンバは、軽妙洒脱で、カーニヴァル・サンバの現場とは必ずしもかかわりあわず、歌謡としてのサンバに重点を置いたようなものでした。1930年代後半からのサンバ・ショーロ、すなわち歌謡サンバのなかにショーロ感覚を活かしたようなものの流れをくむもので、実際バック・バンドはショーロのコンジュントがよくやりました。

 

男性サンバ歌手としては、マリオ・レイス、ルイス・バルボーザ、そしてシロ・モンテイロといった流れはそんな路線の代表的系譜だったと言えるはずです。もちろんフランシスコ・アルヴィス、オルランド・シルヴァ、ネルソン・ゴンザルヴィスといった流れもあって対照的ですけれど、個人的にはシロをこそミスター・サンバと呼びたいですね。

2019/06/20

ラテンなイージー・リスニングで暑い日の息抜きや〜『トロピカル・スウィンギン』

51g2tnn2zal_sy355_http://elsurrecords.com/2018/08/25/v-a-tropical-swingin-60s-guitar-sounds-from-cuba%e3%80%80/

 

昨2018年、雑誌『ギター・マガジン』との連動で発売されたコンピレイション CD アルバム『トロピカル・スウィンギン:60s ギター・サウンズ・フロム・キューバ』。雑誌の特集もチョ〜おもしろかったですよねえ。ギター雑誌の企画ということで、もちろんギター、それもエレキ・ギターのことにフォーカスが当たっているわけですけど、CD のほうの聴きかたは自由ですからね〜。ぼく自身この CD で 必ずしもギターばかり聴いているわけじゃないのです。

 

『ギター・マガジン』2018年9月号の特集があまりにも充実していて、はっきり言ってなにもかもぜんぶ書いてあるもんですから、そのまま読んで聴いていればいいので、っていうのもありますが(未読のかたには強くオススメします!)、それ以上にいつもながらぼくは演奏全体を聴いています。ソロ演奏でもないかぎり、だいたい、なにか特定の楽器にだけ集中して聴くというのがあまりない人間なんですね。

 

そのばあい、『トロピカル・スウィンギン』をただだらっと部屋で流していると、エレキ・ギターのサウンドもさることながら、1960年代のキューバン・ミュージックが BGM としていい感じに聴こえてきます。そのなかにはマンボっぽいものもあればデスカルガもあり、たまにけっこうジャジーだったり、ジャイヴィだったりもしますし、またサルサの先駆けみたいな要素だって聴きとれますね。

 

このアルバムのなかでいちばん好きなのは、ラストの「イパネマの娘」なんですが、特にヴァイブラフォンの使いかたが好きなんです。ピアノとの合奏でおもしろくフェイクされたテーマを演奏する部分がなかでもお気に入り。ボサ・ノーヴァっぽくリム・ショットを多用する(といってもこの演奏はボサ・ノーヴァにはぜんぜん聴こえない)ドラマーの叩きかたもグッドじゃないですか。ギター・ソロもありますけど、それだけじゃなく一曲全体を聴いて好きだなあって感じているわけです。

 

ほかの曲もそうで、アルバム全体でどの演奏もだいたいとんがらずスムースでなめらかな音楽になっていて、しかもラテン(キューバ)・ミュージックらしい強い官能性はなし。アピールしすぎず、あくまでどこまでも耳ざわりよく、雰囲気重視で、格好のムードをつくりあげてくれていると思いますよ。そう、ぼくにとって『トロピカル・スウィンギン』はちょうどいい夏の部屋のムード・ミュージック、BGM、あるいはイージー・リスニングなんですね。映画のサウンドトラック的と言ってもいいかも。そんな一枚として、昨夏来ときどきかけてはくつろいでいるわけなんです。

2019/06/19

自作自演のビートルズ『ア・ハード・デイズ・ナイト』

0000520_beatles_calendar_2014_a_hard_dayhttps://open.spotify.com/album/6wCttLq0ADzkPgtRnUihLV?si=y-iX63UjQqS18Sc71FStOg

 

初期はカヴァー・ソングも多かったビートルズですけど、アルバムの三作目『ア・ハード・デイズ・ナイト』(1964)で初の全編自作曲となりました。ビートルズの一般的なイメージは、やはり有名オリジナル楽曲でできあがっていると思うんですが、このアルバムがはじめてだったんですね。といってもこの次の『ビートルズ・フォー・セール』にもその次の『ヘルプ!』にもロックンロール・カヴァーが数曲あります。でも『ア・ハード・デイズ・ナイト』で新たなソングライティング領域に踏み出したと言えるはずですね。

 

アルバムの13曲すべてがレノン・マッカートニー・コンビの自作曲である『ア・ハード・デイズ・ナイト』における曲づくり上の特色は、このソングライター・コンビがまだ名目だけのものじゃなく実体機能しているというところ。そしてそれだけじゃなく、このアルバム以前と比較して、曲づくりの著しい成長を聴きとることができるというところ。さらに、ラテン音楽要素が強く感じられるというところ。この三つをもってこのアルバムの色が決まっています。

 

『ア・ハード・デイズ・ナイト』にはジョンとポールのツイン・リード・ヴォーカルの曲が三つもあります。1「ア・ハード・デイズ・ナイト」、3「イフ・アイ・フェル」、13「アイル・ビー・バック」。このうち1と3は特筆すべきソングライティングとできぐあいです。

 

1「ア・ハード・デイズ・ナイト」は A メロ部をジョンが歌い、サビはポールという構成。その入れ替わり具合も絶妙ですし、ツイン・リードといい二名の声の違いの活かしかたといい、レノン・マッカートニーのコンビ二名で練った曲づくりだとよくわかります。名義だけそのままに単独で曲を書くことばかりになっていくレノン・マッカートニーですが、この時点ではまだ実質的なコンビでした。なお、この曲でもリンゴがボンゴを叩いていますよね。地味で目立たないですけれども。

 

3「イフ・アイ・フェル」はとても美しいメロディを持っています。しかもこのきれいな旋律にはリードがありません。終始ジョンとポールのハーモニーで進み、どっちが歌っているのも主旋律ではありません。主旋律がないんですよねこの曲には。ジョンとポールはどっちもリードじゃありませんしどっちもサイドじゃありません。二名が同じ比率でこのハーモニー・ヴォーカル・ナンバーを歌っているわけなんです。こんな曲はほかにたぶんないかも。ふつうメイン・パートがあるでしょ。これもタッグで考えた曲づくりに違いないとわかります。

 

そんな「イフ・アイ・フェル」みたいなのは例外的な美ですけど、ふつうのヴォーカル・ハーモニーならこのアルバムでどんどんたくさん聴けます。実はそんな部分も後年どんどん減っていくことになり、デビュー期は三声ハーモニーの美しさが売りだったバンドなのに、それがなくなっていきます。そういう点でふりかえっても、『ア・ハード・デイズ・ナイト』は一つのピークだったかも。

 

ハーモニーはどんどん聴けるので、このアルバムにあるラテン傾向曲でももちろん聴けます。といってもなかにはひとりで歌ってテープ操作でダブル・トラックング処理を施しただけの重層ヴォーカルもありますけど。たとえば4曲目の「アイム・ハッピー・ジャスト・トゥ・ダンス・ウィズ・ユー」はジョージが歌っていますが、この曲のことがぼくはなぜだかすごく好き。たぶん、ギター・カッティングのしゃくりあげるようなリズムにラテン・テイストを感じとっているからですね。いやあ、チャーミングな曲です。

 

ラテンといえば、続く5曲目「アンド・アイ・ラヴ・ハー」の官能はまさしくラテンのそれですよ。曲想もリズムもサウンドもラテン音楽。リンゴはドラムスを叩かずボンゴとクラベスだけ。ジョージがナイロン弦のクラシック・ギターを弾き、ポールをリードとする四人が夜の妖しい世界をうまく表現しています。これはすばらしい曲ですねえ。ロックっぽさは皆無じゃないですか。

 

そのほか、10「シングズ・ウィ・セッド・トゥデイ」、11「ウェン・アイ・ガット・ホーム」、12「ユー・キャント・ドゥー・ザット」、13「アイル・ビー・バック」にも、そこはかとなきラテン・ミュージック・テイストを感じているぼく。「アンド・アイ・ラヴ・ハー」みたいのは意識してラテン・ソングを書いたわけですが、それ以外はビートルズみたいなポップス/ロックのグループの音楽のなかにも、生命力の強いラテン性が知らないうちにしのびこんでいるということだろうと思います。

 

その上、アルバム『ア・ハード・デイズ・ナイト』では、レノン・マッカートニーのソングライター・コンビが名目だけでなく実体としてフル機能して充実していた時期の傑作ですから、意識するにせよしないにせよ、ラテンな音楽要素がうまく溶け込んで、みずからの音楽の一要素としていい感じに活かせたということでしょうかね。

2019/06/18

アメリゴ・ギャザウェイがリミックスしたマイルズ「ラバーバンド・オヴ・ライフ」がカッコイイ

180315_miles_rsd_rubberbandhttps://open.spotify.com/album/4iHtBFo4si4ke896dw2yHJ?si=f0JtSy_uQb6vxpspcthV2Q

 

今日の文章はいままでに書いたこれらの記事を下敷きにしています。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-b4d9.html
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-c5c347.html

 

マイルズ・デイヴィスの『ラバーバンド』フル・アルバムのリリースが公式発表されましたので、2018年11月末のデジタル配信『ラバーバンド EP』にはあったのに漏れるものについて、この際ちょっとメモしておきます。上のアルバム5トラック目の「ラバーランド・オヴ・ライフ(アメリゴ・ギャザウェイ・リミックス)」のこと。これは2019年9月6日リリース予定のフル・アルバムには含まれず、また2018年4月に出たアナログ12インチ EP レコードにもありませんでしたから、いまのところ、あるいは今後も?フィジカルなし、配信かダウンロード限定でしか聴けないものです。

 

しかしながら、そのアメリゴ・ギャザウェイがリミックスした「ラバーバンド・オヴ・ライフ」が超クールじゃないですか〜。なんともいえずカッコイイ。ぼくは大好きなんです。配信アルバム『ラバーバンド EP』の計5トラックのなかでこれがいちばんイイと思っているんですけどね。アメリゴ・ギャザウェイの名はマイルズ・ファンにはなじみが薄いでしょうけど無名人じゃないので、ご存知なかったらちょっとネット検索してみてください。

 

配信『ラバーバンド EP』とリリース予定のフル・アルバム『ラバーバンド』(の予告内容)を比較してみますと、前者にあって後者にも収録されるのは、前者2トラック目の「ラバーバンド・オヴ・ライフ(Feat. レディシ)」と4「ラバーバンド」(は1985年のオリジナル・ミックスです)のふたつ。このふたつ以外はフル・アルバムに入りませんが、ラジオ・エディットや2018年ヴァージョンのインストルメンタルは不要との判断は理解できます。

 

しかし配信 EP ラストのアメリゴ・ギャザウェイ・リミックスはそ〜と〜カッコイイので、しかもこれはアナログ12インチ EP にもなかったし、ということはもはやずっとフィジカル化しないままになるんでしょうか?あまりにももったいないんじゃないでしょうか?こんなにもクールですのにねえ。ストリーミングかダウンロードの『ラバーバンド EP』をお聴きになったならば、多くのかたが同様の感想をお持ちになるのではないでしょうか、最高にカッコイイと。

 

アメリゴ・ギャザウェイ・リミックスは、昨年発売された「ラバーバンド・オヴ・ライフ」のほかの3ヴァージョンとかなり様子が異なっています。それら3ヴァージョンで最も印象的であるボトムス(ベース・ドラム&アップライト・ベース!)の低音部を抜き、サウンドの分厚い感じも消してスカスカにし、ほかのヴァージョンではあまり目立たなかったギター・カッティングをサウンドの中心に据えています。

 

しかもそのギター・カッティングは、アメリゴ・ギャザウェイ・ヴァージョンにしかありません。だから彼が弾いたかだれかに弾かせたかで、新たに付与したものでしょう。全体的に風通しのいい骸骨サウンドとあいまって、その空間を E♭m7 / A♭7 / D♭m7 / G♭7 と四つのコードで刻むエレキ・ギター・リフがチリングですよねえ。も〜う、本当に大好き!

 

あ、コードのことを書きましたので、その点だけちょっとほかのトラック含め書いておきますね。1985年オリジナルの「ラバーバンド」のキーは Dm です。Dm 一発と書いてある文章も見ますけどそれは違います。マイルズがオープン・ホーンで吹くパートがサビというかフックみたいになっていて、そこだけ G♯m に転調します。そこ以外はハーマン・ミュート・プレイですよね。

 

配信『ラバーバンド EP』にあるほかの4トラック、すなわちリメイクされた「ラバーバンド・オヴ・ライフ」は、この転調を消してサビもなくし(オープン・ホーン・サウンドはあり)、全体をワン・グルーヴで貫いて、しかもキーを E♭m に上げ、それ一発でトラック全体を統一しています。アメリゴ・ギャザウェイもこの E♭m ワン・コード一発感は維持しつつ、上で書いたような四つのギター・コードを展開しているわけなんですね。

 

低音部のこともちょっと書きましたので、ついでに触れましょう。1985年のオリジナル「ラバーバンド」に弦ベースは入っていません。そのかわりシンセサイザー・ベースがぶんぶん弾かれていますよね。それ以外の四つ、2018年ヴァージョンでは弦ベーシストがいますが、それがアクースティックなアップライト・ベースを弾いているんですよねえ。ちょっとわかりにくいですが、耳を傾けてみてください。

 

アメリゴ・ヴァージョンではいきなりそのアップライト・ベースの音ではじまりますので、ここはわかりやすいんですけど、マイルズの声に続いて本演奏がはじまったらベースはやっぱりあまり聴こえなくなります。ドラムスの音も極端に減らして、これたぶんハイ・ハットを叩くサウンドだけになっていますよね。音量だって小さいので、アメリゴが手がけた「ラバーバンド・オヴ・ライフ」にベースとドラムスはほぼなし、としてもいいくらいです。

 

そんな風通しのいい空間的なサウンドのアメリゴ・ヴァージョンでは、四つのコードをカッティングするエレキ・ギターとマイルズのトランペットとの事実上のデュオ演奏でトラックが進行するというに近い部分がありますね。事実そうなっている、つまりギター・カッティングとマイルズのトランペットだけという時間はけっこうあります。それにエレピとレディシの声がからんでいるといった感じでしょうか。

 

スカスカ・サウンドでボトムスもないからなのかどうか、アメリゴ・ヴァージョンには奇妙な浮遊感があります。ほかの「ラバーバンド・オヴ・ライフ」がずっしりと沈み込むようなヘヴィさ、ダウナーさを最大の特徴としているのとはかなり様子が異なっていますよねえ。どっちがいいとかいう問題じゃなく、どれもぼくは好きなんですが、アメリゴ・ヴァージョンにはぼくを惹きつけてやまない something else を感じるんです。なんでしょうね、それは?やはりエレキ・ギター・カッティングが好きだというだけの嗜好でしょうか?とにかく聴いていて気持ちいいです。えもいわれぬ快感なんですね。

 

アメリゴ・ギャザウェイ・リミックスでは、マイルズのしゃべり声をいくつもサンプリングして挿入しているのも特徴です。マイルズが晩年に主演したオーストラリア映画『ディンゴ』からのセリフを持ってきています。イントロ部で聴こえる「よろしかったらちょっとお聴かせしましょうか」(If you don’t mind, we’d like to play something for you.)は間違いありません。なかなか見事なアメリゴのアイデアじゃないですかね。アウトロ部での「どうでしたか?」(Did you like the music?)、女性の声で「こんなすごいもの聴いたことありません」(It was the best thing I've ever heard.)も、映画『ディンゴ』からでしょう。

2019/06/17

すべては美咲のおかげです

Img_8471最近、朝昼に飲む精神安定剤も寝る前の眠剤もどんどん減っているとしまです。精神安定剤なんか、もうほぼゼロに近くなっているんですもんね。変化が最初に現れたのは今年二月中旬のこと。それまでの人生でなかったことなんですが(あったかもしれないが遠い過去のことだから忘れた)、朝昼晩と眠くなるようになったんですよ。一日中しょっちゅう眠い、というか実際居眠りしちゃうわけなんです。

 

生活に支障が出るようになったので、いろいろと原因を疑って考えてみましたが、毎月通っている心療内科医に相談して、これということがわかりました。薬の効きすぎなんですね。27歳で心療内科に通うようになったくわしいいきさつを語ると長くなりすぎますので省略しますが、その後1999年夏に衝撃的なことがあって以来、すっかり強い薬が欠かせなくなりました。

 

そのままずっと来ていたんですが、今年二月になって変化の兆しが現れて、そして数ヶ月で徐々に、でもしっかりと状態が改善されるようになり、薬をどんどん減らしていってもメンタル面に支障が出ないばかりかシャッキリするようになって健康状態良好で、だからお医者さんも「戸嶋さんの具合はよくなってきていると判断します」と言ってくださっています。

 

劇的ななにかがあって急に改善したわけじゃないですから、ちょっとづつちょっとづつメンタルが上向きになっていって、今年に入ってしばらくしてから身体に顕著に症状が出てくるようになったということでしょうね。自覚できる改善要因はふたつです。ひとつは猫。もうひとつがわさみんこと岩佐美咲ちゃんと会う機会が増えたことなんですよ。どっちも昨年11月からですから、そのあたりからぼくの状態は改善しはじめたんですね、しばらくのあいだは潜行的に、そして今年二月中旬になって顕在的に。

 

猫のことはこのブログでくわしくは書きません。ペット不可物件に住んでいますので室内で飼っているわけじゃありませんが、いわゆるノラというか外猫さんがぼくんちのベランダにどんどん来るようになって現在に至ります。大きなヒーリングというかアニマル・セラピーなんですけど、さらに自覚的にはわさみんこと岩佐美咲ちゃんにどんどん会っては歌を聴き、2ショット写真を撮っては握手し、おしゃべりできるようになったのが大きなことなんですよ。

 

はじめてわさみんに会ったのは昨2018年2月の恵比寿でのコンサートですが、音楽こそ命な人間としては小規模な歌唱イヴェントなんて、はっきり言いますがゴメンニャサイばかにしていたんです。わさみんにかなり近づきやすいかもしれないけどたったの四曲じゃないかと、そうたかをくくっていたかもしれません。それがどんだけ楽しくてどんだけ癒しになるか、ちっとも知りもせずに。

 

きっかけはやはり11月に四国でわさみんの歌唱イヴェントがあったことですね。11/10今治と11/11高知。地元四国まで来てくれるんだから、と思って参加してみたんですね。これがぼくにとってはとっても大きな転換点でした。その楽しさたるやハンパなものじゃなかったです。わさみんといっしょに撮った写真をネットに上げたりするとみなさんおやさしくて好意的な反応をしてくださってそれもうれしくて、出かけた先でちょっといいホテルでくつろいだり、現地のグルメを味わったり…、などなどで、もうすっかりヤミツキになってしまいました。

 

わさみんが四国まで来てくれなかったら、そんなこと諸々ナシで進んだ人生だったかもしれないですよね。そうだったなら、ぼくの心身状態はいまみたいに改善していなかったかも。わさみんと歌唱イヴェントとそれに関係する旅行の楽しさで、もうすっかり癒し効果を得ています。化学的な薬じゃなくて、ちょっとお金はかかるかもしれないけど人生で病んで苦しんで悩んでなにかを抱えている人間にとってのわさみん薬効果は絶大なんですね。

 

これが世間のみなさんがおっしゃっている、体験してきている、(元)アイドルの癒しパワーか!と思い知りました。その後、2018年12月の倉敷、2019年1月と2月の東京、3月、6月の大阪と、頻繁にわさみん現場に通っていますが、そのあいだにすっかり身体の、心の、具合が良くなりましたので、もはやわさみんから離れるなんてことはありえません。

 

わさみんに会うと元気になれる、心も体も健康状態が向上する、これはレッキとした事実です。6/8京橋(大阪)では本人に「わさみんはぼくらの栄養だからビタミンみたいなもんでワサミン C とかあると思う」って言ってみたら、わさみんはちっとも驚きも爆笑もせず、そりゃそうでしょうよという顔でおだやかに微笑んでいましたね。いまのぼくのことは、なにもかもこれすべて美咲ちゃんのおかげです。

 

猫と岩佐美咲。この二大ヒーリング・パワーですっかり生活と人生に落ち着きと幸福感が出てきたぼく。わさみん、本当にありがとう。こんなお腹の突き出た高年オヤジにもいやな顔ひとつせず、にこやかに握手して写真におさまってくれて、本当に感謝しています。猫にお礼は言えないけれど、ちょっといいごはんをあげています。わさみんのことはこれからもブログで褒めまくります。

2019/06/16

DVD『岩佐美咲コンサート2019』

81fjoavuv2l_sl1500_2019年1月26日に鶯谷の東京キネマ倶楽部で行われた岩佐美咲(わさみん)コンサートの模様が、つい先日 DVD や Blu-ray の映像作品になって発売されました。こないだ6月8日の大阪京橋や9日の箕面の現場では、ステージ上からわさみん本人が「二月にやったコンサートが」「二月、二月」となんどもくりかえすのでシバいたろかと…、もとい、訂正のツッコミを入れて差し上げようかとよっぽど思いましたが(わさみん現場ではどんどん声が飛びます)、思いとどまりました。

 

それはいいとして、五月末に発売された DVD『岩佐美咲コンサート2019〜世代を超えて受け継がれる音楽の力』をようやく観聴きすることができましたので、感想を記しておきます。まず、この作品、こんなに客席を写しているとは知りませんでした。みなさんもぼくも、あのかたもこのかたもぼくも、しっかり判別できるように出演しているではあ〜りませんか。ちょっとビックリしました。DVD がはじまったらまずイの一番に客席が映りますしね。こういう演出なんでしょう。

 

ともかく『岩佐美咲コンサート2019』。やはり今年の新曲「恋の終わり三軒茶屋」の傾向に合わせるような選曲、構成になっているなと感じます。同様のことを昨年の DVD 作品についても言いましたが、やはりそういったことなんでしょうね。昨年の「佐渡の鬼太鼓」が激烈なド演歌だったのに対し、「恋の終わり三軒茶屋」はライトな歌謡曲テイストなので、コンサート全体もそっちに傾いているのは間違いありません。

 

コンサートの幕開け1曲目がいきなり「佐渡の鬼太鼓」だったのには現場でもすこし驚きましたが、昨年の代表曲をいきなりもってきたのには、「恋の終わり三軒茶屋」(とその路線)への大きな変化と移行をスムースにするために、あえてトップに持ってきて、まあいわば距離を遠くしたという面があったんじゃないかと思います。次いでこれも濃いめ抒情演歌の「旅愁」(西崎みどり)ですから、コンサート幕開けはこういった路線で昨年来の情緒をふりかえってもらおうといった意図が見えますね。

 

MC をはさんでの3曲目が「能登半島」(石川さゆり)で、ここまでが濃厚演歌系。5曲目の「冬のリヴィエラ」(森進一)からガラリと雰囲気を変えてライト・ポップス路線に移り、新曲「恋の終わり三軒茶屋」の傾向に沿ったセット・リストが続きますので、そのあいだの4曲目「遣らずの雨」(川中美幸)はいわば緩衝材みたいなもんです。スムースにチェンジするための。

 

しかし緩衝材などと言いましたが、その「遣らずの雨」がとってもすばらしいんじゃないでしょうか。個人的実感ではこの『岩佐美咲コンサート2019』でのクライマックスというか白眉、出色の一曲がこの4曲目「遣らずの雨」です。川中美幸さんの歌ですが、曲想が濃厚演歌と軽歌謡との中間的なものだから、美咲にはこれ以上なくピッタリはまっています。ここでの美咲の歌唱表現も実に見事なもので、はっきり言って感動ものですね。声の色やツヤといいフレイジングといい、完璧ですよ。いやあ、美咲の「遣らずの雨」、すばらしすぎる。

 

続く「冬のリヴィエラ」からが本格的なライト・ポップス路線ですね。まさしく新曲「恋の終わり三軒茶屋」の傾向に合わせたセット・リストが続きます。カップリング曲になった四曲「恋の奴隷」(奥村チヨ)、「お久しぶりね」(小柳ルミ子)、「あなた」(小坂明子)、「別れの予感」(テレサ・テン)と、ここらはもう文句なしです。ぼくも歌唱イヴェントにどんどん出かけていますので、これら四曲における美咲の歌唱が進歩しているのを実感してはいます。それはコンサート終盤のアンコールで披露される「恋の終わり三軒茶屋」にしてもそうです。生現場で歌い込んで練り込まれ、いっそうよくなっていますよね。

 

ラウンド・コーナー(撮影可で美咲が客席をまわりながら歌う)でも、「飛んでイスタンブール」(庄野真代)は美咲の最新傾向や資質にぴったり似合っているなと思いますし、またラウンド・コーナー最後の「狙いうち」(山本リンダ)はうれしかったですね。なんたってリンダさんはぼくのはじめての女ですから。このことはいままでなんども書いているのでくわしくは省略します。

 

ところで、この話をいままでに美咲ファンのどなたからもうかがったことはないのですが、山本リンダさんやピンク・レディーさん(昨年のラウンド・コーナーで「UFO」を美咲はやった)のレパートリーは、歌手岩佐美咲の資質に実にピッタリ似合っているんじゃないでしょうか。ぼくはそうにらんでいるんですけどね。だから、実を言うと「どうにもとまらない」「狙いうち」「ペッパー警部」「UFO」あたりは、歌唱イヴェントでどんどん歌ってほしいし、CD にも収録したらいいのになと思うんです。間違いないはず。

 

その後、「ルージュの伝言」(荒井由実)、「元気を出して」(竹内まりや)などを経て、今年はここまで一曲しか歌っていなかったオリジナル楽曲セクションに入り、コンサートは終盤へと向かっていきます。アンコールのラストまでぜんぶが美咲のためのオリジナル・ナンバーで占められていますが、これは、一曲だけやや傾向の異なるド演歌の「佐渡の鬼太鼓」を切り離し、ほかの曲をまとめて終盤にもってくることで、歌い込んでいるおなじみ曲の数々で新しい岩佐美咲をアピールしたかったという、そんな意図があったとぼくには思えました。

2019/06/15

マイルズの『ラバーバンド』、ついに9月6日のフル・リリースが決定!

Miles_davis_rubberband_cover_art_2https://open.spotify.com/album/4iHtBFo4si4ke896dw2yHJ?si=x7fl3UNDQ36esupSqq5OMA

 

https://twitter.com/milesdavis/status/1139171874460581890

https://store.rhino.com/rubberband-2lp-1.html

 

マイルズ・デイヴィスの失われたアルバム『ラバーバンド』が、とうとう11曲のフル・アルバムとしてリリースされるとアナウンスされました。2LP、CD、デジタル配信の三種類。曲目は以下のとおり。

 

01 Rubberband Of Life (Feat. Ledisi)
02 This Is It
03 Paradise
04 So Emotional (Feat. Lalah Hathaway)
05 Give It Up
06 Maze
07 Carnival Time
08 I Love What We Made Together
09 See I See
10 Echoes In Time / The Wrinkle
11 Rubberband

 

これらのうち、同じソースである1曲目と11曲目はすでに公式リリースされていますね。上のリンク最上段がその音源です。それは昨2018年4月のレコード・ストア・デイ限定で12インチ・アナログ EP が発売されていたもので、その後 Spotify などデジタル配信でも聴けるようになっています。だから、フル・アルバムとしてのリリースへ向けての準備はその前からはじまっていたんでしょう。ライノのサイトでは、2017年に開始されたとありますね。

 

マイルズの『ラバーバンド』とはなにか?それは以下の過去記事でかなりくわしく解説しましたのでご一読ください。簡単にいえば、マイルズが1985年にコロンビアを離れワーナーに移籍した直後にロス・アンジェルスのスタジオで取り組んでいたレコーディング・セッションで誕生した曲の数々です。当初それをワーナーでのデビュー・アルバムとする予定だったはずですが、なぜかお蔵入りし、次いで完成した『ツツ』が、マイルズの初ワーナー作品となりました。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-b4d9.html

 

この記事は「そして、フル・アルバムとしてはいまだ失われたままの『ラバーバンド』だけど、いつの日か、見い出される日が来ることを期待したい。」と結んでありますね。とうとうそれが実現することとなってうれしいかぎり。こんな気分になったのもひさしぶりです。そうそう、12月にはこんな文章も書きましたよ。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/down-blue-7ca8.html

 

この記事は、オリジナル・セッションの「ラバーバンド」からリワークされた「ラバーバンド・オヴ・ライフ」が、実に2018年的今様のコンテンポラリー・サウンドに仕上がっていて感心するという趣旨です。しかし、来たる九月リリース予定のフル・アルバム『ラバーバンド』にそこまで求めてはいけないのかもしれません。

 

今回も発売プロデューサーはランディ・ホール、ゼイン・ジャイルズ、ヴィンス・ウィルバーンの三人です。来たるアルバム『ラバーバンド』フィジカルのライナー・ノーツをお書きになったジョージ・コールさんと昨晩二往復ほど直接お話をさせていただきました。フル・アルバムをお聴きになったジョージさんによれば、三人はすごくよくやっている、1985年のマイルズ・サウンド、オリジナル・レコーディングになるべく近づけるように、それを忠実に再現しようと腐心していて、しかしいくつかコンテンポラリーに響いたりもするものもある、とのことです。

 

具体的には、「カーニヴァル・タイム」「ザ・リンクル」「ギヴ・イット・アップ」「エコーズ・イン・タイム」「シー・アイ・シー」「ディス・イズ・イット」は、オリジナル・レコーディングのサウンドに本当にとても近いもので、いっぽう、ヴォーカリストがゲスト参加している「ラバーバンド・オヴ・ライフ」「ソー・エモーショナル」はもちろん、「パラダイス」もリワークめざましく、現代的なサウンドに仕上がっているとの、ジョージさんのお話です。

 

また、「メイズ」「カーニヴァル・タイム」「ザ・リンクル」の三曲は1986年ごろからマイルズ・バンドのライヴ・ツアーで定番レパートリーとなりましたので、公式盤でもブート盤でも当時のライヴを収録したものがいくつかありますよね。スタジオ・ヴァージョンもそう大きくは変わらないんでしょう。三曲ともぼくだって東京の生現場で聴きました。

 

だから、マイルズの『ラバーバンド』、2019年9月に発売するという事実に同時代的な意味合いや意義を大きく求めることはむずかしいかもしれません。といっても一般人のぼくはまだフルには聴いていませんけれど。そういったことよりも、とうとう日の目を見る偉大な発掘ものとして意味を見出すべきものなんだと、いまはそう思うんですね。なんたってぼくもマイルズの1980年代ものが大好きですし、もしそうだったならきっと『ラバーバンド』はお気に入りになるはずだ、とジョージさんも太鼓判でしたよ。

 

なんにせよ、期待は大きいと言えます。9月6日を待ちましょうね。ジャケット絵はマイルズ本人の筆によるものです。

2019/06/14

美咲の歌唱技巧

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こないだ6月9日に箕面でわさみん(岩佐美咲ちゃん)と話したのは、歌詞の意味によって発声を自在に変えているよねということでした。その日は箕面温泉スパーガーデンでコンサートが行われて、わさみんは一部、二部あわせて計30曲歌いました。それをじっくり聴き、また以前より抱いている感想をそのときにいっそう確信しましたので、わさみんに話を向けてみたわけなんです。

 

あたりまえみたいなことだし、歌手ならみなさんやっているのがふつうだし、わさみんファンのみなさんもとうにお気づきのことだとは思います。歌詞の意味が明るい前向きのものであるときと、暗いというか陰なしっとり系の意味のことばであるときとで、わさみんの声はかなり違いますよね。

 

それは曲によっての歌い分けというだけではありません。同じ一曲のなかでも歌詞の意味内容が変化するにつれ、声のトーンをわさみんは各種使い分けているんですよね。歌手ならあたりまえといっても、わさみんはかなり微妙繊細な声質変化を実現していて、明るいトーン、しっとりトーンと、しかもどっちも艶があって輝いていますよね。完璧に使い分けるのはなかなかむずかしいことじゃないかと思うんです。

 

歌詞をどう歌ったらいいか、伝わるかを考えて、それをどんな声でどう発声してメロディの変化にもあわせていくかという方法論を実行するということを、最近、わさみんはわさみんなりに確立しつつあるでしょう。ぼくの聴くところ、どうも2018年のソロ・コンサートあたりからじゃないかと。それが2019年に入ってコンサートや歌唱イヴェントなどで深化しているという、そんな印象です。

 

たとえばですよ、大好きな「初酒」のことをとりあげましょう。オリジナル・シングル・ヴァージョンと、2018年、19年コンサート・ヴァージョンとでは、もうぜんぜん別物ですよ。ふだんはぼくも CD で聴いていますから、ときどき DVD(や生歌)で聴くとわさみんの成長にビックリしちゃうんです。もうね、声じたいも一曲全体でまるで違っていますけど、もっとすごいのは一曲のなかのパートパートで声を使い分けているところ。

 

「初酒」は曲そのものが前向きに笑って進んでいこうという人生応援歌みたいな内容なので、孤独や喪失を歌ったものが多いほかのわさみん楽曲とはもとから大きく違っています。だからわさみんも歌いかたをそれにあわせた明るい声のトーンにスイッチしているんですが、この曲でも箇所箇所でこまかく声の色や質を自在にチェンジさせながら歌っているんですよね、最近のわさみんは。発声そのものを変えているんです。

 

「生きてりゃいろいろとぉ〜、つらいこともあるさぁ〜」とふつうに歌いはじめていますが、ここでもうすでに2018年ヴァージョン以後は声が色っぽくなって艶が増しています。大人の女が、落ち込んでいるぼくらにやさしく語りかけてくれているような、そっと寄り添ってくれているような、そばに座って一酌やりながらなぐさめてくれているような、そんな色気が近年は出ていますよね。わさみんはスッとストレートに歌っているだけなのに…、と思わせるところが技巧が真に上達した部分で、実は相当練りこんで歌い込んだ結果なのですよね。意識してわさみんはこんなふうに歌っていますが、なにも意識していないナチュラルさだと感じさせる結果にまで到達しているということです。

 

すごいことですよ、これは。しかも続く「ここらでひとやすみ」の「ひと」を「ひっと」気味に歌い、声もいっそう明るみのあるものに変えてヴォーカル・トーンに軽みを出し、実際、軽い気分でちょっと休もうよ、という歌詞の意味に最大限の説得力を持たせることに成功しているんですね。

 

次の「我慢しなくていいんだ、よ」パートで、ぼくなんかは涙腺が弱いですから、ホロっときちゃうんですね。特に一拍休符を入れた「よ」の声質変化です。「我慢しなくていいんだ」までは強めのリキみ声を張り、おいお前そんなに気を張るな我慢すんなと説得されているような気分にさせておいて、一瞬間をおいた「よ」ではふっと力を抜くんですよね、わさみんは。もう、この「よ」でぼくはダメになっちゃうんです。親や教師がこどもを叱っておいて最後の最後にすっと優しくする一瞬でこどもを落とすでしょ、あれと同じですよ、わさみんのこの声質変幻技巧は。最近のことなんです。CD での「初酒」ではまだふつうですから。

 

わさみんはこういったことを、実にスムースかつナチュラルに実現していますが、なにも考えず自然に歌っているだけだと、聴いた感じそういう印象に仕上がっているのは、実は最高の技巧が凝らされている結果だからということなんですね。ほかの曲でも最近ぼくはそれを感じていましたが、6/9箕面で30曲聴いて確信に至り、終演後にわさみんと話してみて、その反応で、あぁ間違いないとわかりました。本人は工夫を重ね、その工夫とは結果的になにも工夫していない自然体なのだと聴こえるように練りこまれたものだということです。

 

ぼくが言っているのは「初酒」のことだけではありません。ほかの曲でもこういったケースが多々見受けられますので、2018、19年のソロ・コンサート DVD でみなさんも探してみてくださいね。じっくり聴き込めば、わさみんがリスナーに歌を伝えるためにどれほどの技巧を凝らしているか、気づくことができるはずです。

 

また箕面のコンサートや全国各地でやっている歌唱イヴェントなど、生歌でもこういったことは聴きとれるし、生現場ならではのわさみんとの近い距離感で、歌の内容がもっと胸に迫ってきて、小規模で気さくなさりげない親近感のある現場でも、わさみんが歌に本気の工夫を込めていることと、その結果の自然体を獲得していることを理解できると思うんですね。

 

CD を聴き、DVD を観聴きし、生歌現場で聴いて接近し、と三種総合でわさみんを味わってこそ、この歌手の真価と深化もわかろうというものだっていうことです。

2019/06/13

ポップでファンクなドナルド・バードの『125番街』

71zjwadra5l_sl1011_https://open.spotify.com/album/2YLGbldm2kzxMpTzI3kkXn?si=-ok_TPRGQwWHW4SCzhUUvw

 

ドナルド・バードの『アンド・125th・ストリート、N.Y.C.』(エレクトラ、1979)は、基本的に前作『サンキュー…フォー F.U.M.L.(ファンキング・アップ・マイ・ライフ)』の創りを踏襲している。タイトなファンク・ドラミングにきめきめスラップ・ベース、ソリッドなエレキ・ギター・カッティングに電気キーボード類(ここではクレア・フィッシャー)。その上にヴォーカルとトランペットが乗っかっているという、そのまま。

 

しかし大きな違いもあって、前作では全曲が弟子バンド、ブラックバーズの面々が書いたコンポジションだったのに対し、『125番街』ではほほすべてをドナルド・バード自身が作曲している。それでここまでできあがりが似てくるというのは、アレンジャーが同じウェイド・マーカスであることも肝だけど、ドナルド自身こういったファンクな曲創りを急速に身につけたということだろう。

 

『125番街』のほうには、ドナルドのトランペット・ソロをフィーチャーしたインストルメンタル・ナンバーも数曲ある。これも大きな違いだね。それらでは、かつてジャズ・トランペッターだった腕前を活かし、魅力的な演奏を聴かせていると言える。全曲ヴォーカル・ナンバーでソロのなかった前作との大きな差だ。全体的にはやはり歌ものが『125番街』でも多いけど、バランス重視型にシフトしているよね。

 

クレア・フィッシャーの鍵盤演奏だけを伴奏にしてドナルドが吹くラヴ・バラード「マリリン」のこの上ない美しさったらないね。ふんわりとやわらかいヴェールが降りているかのようでありかつキラキラした透明感にも満ちていて、屹立する孤高感もあり、こういったインストルメンタルはジャズでもないし、なんだろうファンカバラードとでも言ったらいいのか、いやあ、マジきれいですね。

 

同じくインストルメンタルな6曲目「ヴェロニカ」。こっちはちょっぴりビートが効いているが、やはり女性名を曲題にしているところといい、同じくラヴ・バラードとしていい曲想じゃないかな。ややジャジーさも加味し、都会の夜の雰囲気も漂っている。ドナルド独自のハーフ・ヴァルヴを多用したノート・ベンディングも聴けるし、ジャズ・バラードに近い演奏で、これも充実している。

 

これら二曲以外はファンク・ヴォーカル・ナンバーだけど、とっつきやすくノリやすいし、ジャズ・ファンクというよりロックやソウルに近いフィーリングもあって、しかも全体的にやはりかなりポップで親しみやすい。どこかで聴いたようなファミリアーなリフやフックも随所で多用されているし、それでいてリズムやサウンドはタイトでシャープでソリッド。とんがっている感じがせず丸いのが、ドナルド・バードの持ち味だね。

 

ドナルド・バード・シリーズはこれで終わりです。

2019/06/12

ドナルド・バードの「サンキュー」

R40416013806458461397jpeghttps://open.spotify.com/album/6NwRfwq2bQZ3HgvcH3OhiZ?si=uOGD8vp0QUytwZkcDs7epw

 

ドナルド・バード、1978年のエレクトラ盤『サンキュー…フォー F.U.M.L.(ファンキング・アップ・マイ・ライフ)』は、それまでのあらゆるドナルドの音楽とも明確に異なっている。ジャズから大きく離れ、リズム&ブルーズ/ファンク・ミュージックへと大きくグンと踏み出しているよね。かすかにフュージョン色とディスコ色もあるかなとは思うけど、もはやジャジーさはほんのかすかにしかない。というか、これはもはやジャズ作品じゃないね。

 

アルバム題は1曲目のタイトルだけど、あるいはスライ&ザ・ファミリー・ストーンを意識したものだったかもしれない。そういえばドナルドのこのアルバムでは、ほぼ全曲にわたってエレキ・ベースのスラップが強調されているが、これもスライ時代のラリー・グレアムを、こっちは間違いなく下敷きにしている。弾いているのはエド・ワトキンス。ドナルドの音楽でエレベのスラップを活用したものはそれまでまったくない。このサウンド・メイクも間違いなくファンク・ミュージック志向だ。

 

全曲でヴォーカルが大きくフィーチャーされているし、っていうかそもそもこのアルバムではどの曲も歌ものであって、ドナルドのトランペットやバンドの演奏を聴かせるためのものなんかじゃない。ポップス/ファンク界にあるものと同様に、あるのは歌。すべてはそれをどう聴かせるかというところにかかっている。

 

そんな音楽がドナルドのリーダー作として、しかもだれかポップ界の人材を起用してでなく本人自身のプロデュースで、実現しているという事実ひとつ取っても、いかにこの(ジャズ界出身の)トランペッターが自己の音楽を変容させたか、わかろうというもの。といっても曲はすべて弟子たちバンドのブラックバーズの面々が書いたものだけど。レーベルを移籍したので、ラリー・マイゼルはもういない。

 

トランペット吹奏も、ほぼ全曲でハーマン・ミュートを付けてのもの。あくまで曲全体のなかに溶け込んでムードをつくるエフェクトとして機能するように、と心がけてのものだったんじゃないかな。それに実際、ドナルドはあまり吹いていない。ソロみたいなものはまったくないし、歌のオブリガートでパラパラやっているだけ。それも思いつくままやっているだけで、構成らしい構成もなし。

 

構成は、どこまでも曲のリズムやサウンド全体をどう組み立てるかに腐心されていて、リード・ヴォーカルをフィーチャーしても楽器はあくまで伴奏でしかないのだと、このアルバムを聴けばわかるよね。これが(かつては)ハード・バッパーだった楽器奏者のリーダー作なんだから、それも1978年時点でのそれなんだから、ちょっとビックリだよねえ。

 

アルバムのなかでは、ビートの効いた明るいファンク・チューンと都会の夜の雰囲気を持つメロウ・バラード系が代わる代わる出てくるように思うし、その二種類が並べられているとして間違いないと思う。タイトなドラミング、迫力のあるスラップ・ベース、くちゅくちゅ言うソウルフルなギター・サウンドなど、どこにもジャズがないドナルド・バードの『サンキュー…フォー F.U.M.L.』は、一つの時代の道標ではあったと思うのだ。

2019/06/11

ドナルド・バードのレア・グルーヴ全盛期 〜『ストリート・レイディ』

71mrljnjakl_sl1400_https://open.spotify.com/album/7Iw2Tx6Jh0Y8iKEVfx7Sua?si=lJSdFdJBRQycPUuUfuQt2g

 

ひとりで1990年代にタイム・スリップしつづけているような気分のここ数日。ドナルド・バードの『ストリート・レイディ』(1973)も、ぼくの持つ CD には「ブルー・ノート・レア・グルーヴ・シリーズ」とバ〜ンと銘打ってあって、たしかにそうだよなあ、あのころこういったのがもてはやされていたもんねえ。CD リイシューそのものがレア・グルーヴ・ムーヴメントに乗ってのものだったんじゃないかなあ。

 

さて、『ブラック・バード』のことを書いたから、その次に大きなことは1979年のエレクトラ盤『ドナルド・バード・アンド・125th・ストリート、N.Y.C』になるんじゃないかと思うけど、そのあいだに個人的にグッとくるものが二枚あるので、それぞれ単独でとりあげてちょっとだけメモしておきたい。まずは『ブラック・バード』の次作『ストリート・レイディ』のこと。

 

『ストリート・レイディ』は前作に比べるとやや食い足りない感じがするのも事実。そしてジャズ・ファンクよりもふつうのフュージョンに寄っているようなサウンドだよね。ワン・リフ中心に組み立てていたワン・グルーヴのタイトさ、ファンキーさが薄れて、もっとやわらかめの方向に向いているように聴こえる。したがって、ちょっとジャジーさは復活したと言えるかも。

 

ぼくにとっての『ストリート・レイディ』は、なんたってマイルズ・デイヴィスの愛聴盤だったという事実でもって認識されている。わりと有名なんじゃないかな。それなもんで、マイルズの遺作『ドゥー・バップ』の4曲目「ハイ・スピード・チェイス」では、曲「ストリート・レイディ」からのサンプルが使われている。トラックをつくったイージー・モー・ビーも明言している。
https://open.spotify.com/track/00JSeHZVBL0bwKZ7GL0jYu?si=jnICO51lQSCp9g0UBQsyog

 

聴き比べれば、あぁ〜な〜んだ、とわかっちゃうけど、ぼくが最初に『ドゥー・バップ』を聴いた1992年当時、まだドナルド・バードの「ストリート・レイディ」を知らなかったから、なんてカッコいいトラックなんだ、イージー・モー・ビーってすごいんだな、って感心しきりだったよ〜。

 

いま、アルバム『ストリート・レイディ』全体を聴きかえしても、やっぱり曲「ストリート・レイディ」が突出してすばらしいと思える。アルバムの白眉だね。この曲はピアノを中心とするバック・トラックだけ先にできあがっていて、その上に楽器ソロやヴォーカルを乗せたものだと思うけど、ラリー・マイゼルのサウンドやリズム・メイクの冴えを感じるよね。前作『ブラック・バード』の手法だったボトムス中心のワン・リフはここにはない。「ストリート・レイディ」ではジャジーな演奏に近いフィーリングだ。

 

それはアルバム全体に言えること。『ブラック・バード』が異質で異様に鈍黒く輝いていただけかもしれないが、ああいったヘヴィなリフ一発の反復で組み立てる手法は、次作『ストリート・レイディ』ではほぼ聴けない。代わって、ジャジーなスポンティニアスさに軸足を戻しているかのようだ。だからファンクというよりソフト・フュージョンに聴こえるんだね。『ストリート・レイディ』だってしっかり組み立てられているけれど、できあがりがどう聴こえるかにラリー・マイゼルは気を配ったんだろう。

2019/06/10

ドナルド・バードの飛翔宣言 〜『ブラック・バード』

61zgdthclhttps://open.spotify.com/album/0j5Nx6IeRw3H5gohShC0qZ?si=kxPedjLGRqW8fV8FVhn-6w

 

さてさて、ドナルド・バードの『ブラック・バード』(1972年録音73年リリース)。ラリーとフォンスのマイゼル兄弟を迎え、いよいよポップ・ファンク路線へと本格転換した記念碑的アルバムだ。アルバム題は、ドナルドが大学で教えていた弟子バンドの名 The Blackbyrds から取っている。ハワード大学で教鞭をとっていたドナルドで、この後もそのかかわりあいで作品ができたりもしている。『ブラック・バード』は売れたので、その意味でもエポック・メイキングだった。

 

プロデュースが全面的に代わったということで、もう音づくりが前作までと比較して根本から変化しているよね。リズムやサウンドがいくらファンキーになっても、なんだかんだでジャズ的な即興のスリルをベースにしていた『エチオピアン・ナイツ』までに対し、『ブラック・バード』以後ではワン・リフの反復とシンプルなフレーズ・パターンを中心にポップに組み立てている。長めのアド・リブ的な展開はなしで、カッチリしたアレンジと構成でできている。

 

こんなふうにヴォーカルが入ることもそれまでなかった。歌っているのはドナルドとラリー・マイゼルを中心とする数名みたいで、しかもそれはいわゆる歌ではなく、ちょっとしたエフェクトというか雰囲気づくりみたいなフレーズだよね。ドナルドに歌わせたのはたぶんラリーだと思うけど、『ブラック・バード』の評判がよかったので、これ以後、あるいはラリーと別れても、ドナルドは歌い続けている。ハミングに近いようなものだとはいえ。

 

エフェクト的な使いかたといえば、ドナルドのトランペットやフリューゲル・ホーンだってそうなのだ。アルバムで本格ソロはなし。折々にはさみこまれているだけだよね。吹奏にどこまで自由が与えられていたかわからない面もあるけど、『ブラック・バード』全体やラリーがプロデュースしたほかの作品も聴くと、けっこう指定されていたのでは?と思えるふしもある。あ、そうそう、収録曲はぜんぶラリーが書いているんだ。アレンジもラリー。

 

それでラリーがかっちりした枠組みを考えて構成し、それに沿って音を足していったというのがとてもよくわかるできばえのアルバムだよね。どの収録曲も、ファンクの手法であるワン・リフのワン・グルーヴを根底に置き、ドラムス+エレベ+エレキ・ギター+鍵盤でそれを演奏させ、その上に効果的にドナルドほかのホーン陣とヴォーカルをからめてある。音楽にさわやかな空気を付与することに成功しているフルートも効果的だ。

 

ジャズ・ミュージック的にどんどん個人がソロをとってそれが複数人で連続するというような、そんな音楽の快感はアルバム『ブラック・バード』にはない。取って代わってここにある気持ちよさは、タイトでファンキーなワン・グルーヴに乗るダンスのそれだ。グルーヴ一発ですべてが決まる、そんな音楽だよね。聴いていて、ただそのノリに身を委ねればスリリング、そんなブラック・ミュージック本来のありように<もどった>だけ、と考えることだってできるね。

2019/06/09

ドナルド・バードの『エレクトリック・バード』から『エチオピアン・ナイツ』まで三枚まとめて

4abfc9aba0794f09805ae78b7626c422https://open.spotify.com/album/3I3wHHxGI7jFOzMja07ZcS?si=CE6jK8G9Q5WdppyRroXvNQ

 

https://open.spotify.com/album/41rZeHM1GX1aocheecDsBr?si=ZmEyppjQTXS_UC300RjC9Q

 

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ドナルド・バード。1969年の『ファンシー・フリー』の次に大きなことは、なんたって73年リリースの『ブラック・バード』だから、そのあいだにある三つのアルバム(といっても当時はリリースされなかったものも)『エレクトリック・バード』(70)、『コフィ』(69〜70/95)『エチオピアン・ナイツ』(71/72)について、まとめてざっと扱っておきたい。『エチオピアン・ナイツ』はかなりカッコイイから単独記事にしてもよかったんだけど。

 

じゃあそのカッコいい『エチオピアン・ナイツ』のことを最初に書こうっと。このアルバム題や「皇帝」などの曲題は、もちろんラスタファリズムから来ているものだろう。音楽的にこのアルバムがジャマイカやレゲエと関係あるかどうかわからないが、1972年だし、ドナルド・バードやブルー・ノート陣営としても意識したムーヴメントだったのだろう。

 

三曲のアルバム『エチオンピアン・ナイツ』では、1曲目「ジ・エンペラー」と3曲目「ザ・リトル・ラスティ」がめっちゃいい。これの次作『ブラック・バード』からしばらくのあいだ、ラリーとフォンスのマイゼル兄弟がドナルドのアルバムをプロデュースするようになり演奏にも参加して、明確なファンク路線に傾いているが、マイゼル兄弟なしですでにこれだけのものが仕上がっているとわかる。

 

いや、予兆というか、もうじゅうぶんカッコイイよね。「ジ・エンペラー」でもエレベの太い音がリフを弾きはじめるが、こんなのはそれまでのドナルドの音楽にはなかったものだ。続いて出るドラムスもかっこよくグルーヴィ。エレキ・ギター二台がからんでリフを演奏するあたりで、もう脳天シビレちゃう感じだなあ。もうね、なんたってこのリズムというかグルーヴですよ、聴きものは。カァ〜ッコイイじゃないですか!

 

それはアルバム・ラストの「ザ・リトル・ラスティ」でも同じ。しかもこれは曲というより、たぶんただの即興演奏だよね。リズムが順番に出て重ね、ソロをみんながまわしているだけだと思う。あらかじめの決めごとはなにもなかったかも。それでこれだけのグルーヴが生まれるのは個人の力量もあるし、時代もあるし、ドナルド・バードにはこういったソウル/ファンク系の資質が本来あったと見たほうがいい。いやあ、カッコエエなあ〜。この曲のギター・ソロはデイヴィッド・T・ウォーカー。

 

レア・グルーヴ/アシッド・ジャズ観点からもめちゃめちゃグッドな『エチオピアン・ナイツ』だけど、それに先行する二作『エレクトリック・バード』『コフィ』は、一部を除きイマイチ物足りない。というのはグルーヴを感じるかどうかという点でだけどね。でもいい部分だってあるし、また同時にかなり興味深い。

 

個人的な最大の関心ごとは、1970年5月録音の『エレクトリック・バード』が、完全にマイルズ・デイヴィス『ビッチズ・ブルー』を意識したものになっているというところ。マイルズのは録音が1969年8月だけどレコード発売が70年4月だった。さらにその二枚組にも関与したギル・エヴァンズのアレンジ手法も大きくとりいれている。

 

なんたって1曲目「エスタヴァニーコ」のホーン・アレンジを聴いてみて。どう聴いたってギルでしょ。実際に手がけているのはフェンダー・ローズで参加のデューク・ピアスンみたいだけど、このフルートなどの使いかたといい、あからさまにギル・メソッドじゃないか。こういったちょっと大がかりなホーン・アンサンブルは『ビッチズ・ブルー』にはないけれど、ギルなら当時書きそうな譜面で、サウンドの響き、それのなかに立ち上がってくるオープン・ホーンのトランペットといい、ギル&マイルズの仕事をそのまま下敷きにしているのは間違いない。

 

そのほか『エレクトリック・バード』は全体的に1968/69年ごろのマイルズ、特に『ビッチズ・ブルー』からアイデアを借用している音楽で、ここまで露骨だと感心するしかない。あるいは、この当時のジャズ界でマイルズ&ギルの影響力がそれだけ大きかったという証左でもあるね。アルバム・ラストの「ザ・デュード」はかっこいいグルーヴァーだ。これだけはマイルズよりいい。

 

録音当時は未発表だった『コフィ』。1曲目のアルバム・タイトル曲で出るフルートが印象的だけど(ルー・タバキン)、アルバムで最も魅力的なのは2曲目の「フフ」だね。このリズムがいいと思うよ。リム・ショットかんかんやりすぎ(つまり大歓迎)のアイアート・モレイラも楽しい。そのせいか、数年後のリターン・トゥ・フォーエヴァーを想起させるところのあるドラミングとリズム・スタイルだ。だから好きなのかなあ。5曲目「ザ・ラウド・マイノリティ」も、うねるホーン・リフがいいね。トランペット・ソロもキレているし、リズム・セクションも魅力的だ。

2019/06/08

サッチ・ア・ナイト!〜 ドクター・ジョンに会った日

Drjohnobithttps://www.youtube.com/watch?v=50yEQQB2OVE

 

ドナルド・バード・シリーズのまっただなかではありますが、今日だけ急遽予定を変更します。愛するドクター・ジョンの訃報に接し、思い出を記しておきます。

 

ドクター・ジョンに会ったのは、正確に何年と憶えていませんが、1990年代なかばの八月、それもニュー・オーリンズで、でした。なんどめかのアメリカ旅行でその年の夏休みは南部の数都市をまわったのです。ルイジアナ州ニュー・オーリンズはその最後に五日ほど滞在しました。当時は結婚していたので二人旅。

 

ニュー・オーリンズに到着すると、ぼくはすぐに街角で現地音楽情報のフリー・ペーパー(雑誌みたいな感じ)を手にとりました。そういったたぐいのものは、ニュー・オーリンズだとまさしくいたるところに置いてあります。いかにも音楽の街って感じで、ストリート・ミュージシャンもフレンチ・クォーターのいろんなところで演奏していました。ブラス・バンドというか、金管楽器を演奏していることが多かったですかね。

 

フレンチ・クォーターのすみっこのほうにあったホテルの部屋で音楽情報誌をパラパラめくっていましたら、なんと現地のクラブというかライヴ・ハウスみたいなところに、それも明日、ドクター・ジョンが出演するとなっているではありませんか。これを見送る選択肢なんて、あるわけないです。そのまま速攻でそのクラブまで歩いて行って(近くだったから)、明日のことを問い合わせ、前売りみたいな感じでお金を支払って、チケットはないけど覚え書きみたいなものをもらいました。

 

さあどうしよう?ただでさえドクター・ジョンのライヴに接することができればうれしい。日本ででも体験できればハッピーでしょう。それがなんと現地ニュー・オーリンズで観られるんですよ。その日の夜はあらかじめの興奮でよく寝られなかったかもしれません。しかし翌晩はそのライヴ本番なんですからもっと寝られないはず。妻はドクター・ジョンと言われてもピンとこなかったようですが、いっしょに来るとなりました。

 

当日の夜はそのクラブに行くのが早すぎました。開演予定時間を大幅に過ぎてもなにもはじまらず、ようやく出てきたのが前座の無名ブラス・バンドでした。このへんはいかにもニュー・オーリンズっぽいですよね。たぶん、日本にいるぼくらがまったく知らないブラス・バンドがいっぱい活動しているんだろうと思います。その前座バンドの内容については今日は書きません。

 

ドクター・ジョンのバンドが出てきたのはもう真夜中になってからです。その時間にはクラブ内がすし詰め状態。でも小さな場所でしたから、たぶん2、300人程度だったんじゃないでしょうか、オール・スタンディングで椅子席はどこにもなく、立ったままギュウギュウで身動きとれないほどの状態になっていましたね。

 

1990年代半ばのドクター・ジョン・バンドのレギュラー・メンバーが揃っていました。ギターのボビー・ブルームやドラムスのハーマン・アーネスト III など。テナー・サックスでアルヴィン・レッド・タイラーもゲストとしてステージ上手(向かって右)に立っていましたよ。客席のキャパも小さかったけどステージもこじんまりとしたもので、しかもまったく飾り気のないものでした。

 

ドクター・ジョン本人の登場は、最初にリンクを貼った YouTube 動画と同じです。その動画は1995年モントルー・ジャズ・フェスティヴァルでの模様ですが、ぼくがニュー・オーリンズで観たのも同時期。バンド・メンバーもほぼ同じ、オープニングの1曲目も「アイコ・アイコ」で同じです。そのころのドクター・ジョンのライヴは、いつもこんなふうに幕開けしていたのかもしれないですね。

 

バンドが演奏をはじめ、ニュー・オーリンズのクラブで聴いていたぼくたちも、あ、「アイコ・アイコ」だなとわかるのですが、御大はなかなか登場しません。ビートが続き、しばらくしてからダンス・ステップを踏みながらすこしづつピアノのあるところまで歩みよっていくのです。上の動画では下手から出てきていますが、ぼくが観たときは上手から現れました。たぶんそっちに控え室があるんでしょうね。

 

また、上の動画とぼくの現地体験との最大の違いは、ニュー・オーリンズのクラブではマルディ・グラ・インディアンの扮装で登場したことです。ぼくはさすがに初体験でしたので、こんなにも派手派手なんだとちょっと驚きました。写真などでならみなさんご覧になっているでしょう、あの格好でドクター・ジョンが袖からゆっくり歩み出てきて、ピアノの前の椅子にすわり、バンドの演奏する「アイコ・アイコ」のファンク・ビートに乗ってピアノを叩いて歌いだすんです。

 

音楽そのものは、「アイコ・アイコ」だけ同時期のモントルー・ライヴをご紹介しましたが、それと同じようだったと記憶しています。この曲のばあいドクター・ジョンのものは1972年の『ガンボ』ヴァージョンが有名ですが、1990年代なかばにはもっとグッと重心を落とし腰をかがめて、ヘヴィなファンク・チューンに変貌させていましたよ。ヘヴィ・ファンクだったという印象は、2曲目以後も続きました。音楽のファンク化には、ハーマン・アーネストの貢献も大きかったのでは。

 

どの曲をやったと正確にぜんぶを記憶していませんが、自身のヒット・チューンを中心に代表曲を立て続けにやったはずです。1990年代なかばならドクター・ジョンは50歳代なかごろですから、いろんな意味で最充実していたんだなと、いま振り返ると思います。バンドもたぶん生涯でいちばんすぐれたものだったかもしれないし、意欲も気力も体力も演唱技術も円熟の極みにあったから、そんなドクター・ジョンのライヴを、しかもニュー・オーリンズで体験できたなんて、ぼくの一生の宝です。その夜は興奮していてそんなふうには感じませんでしたが、なんという幸運にめぐまれたのでしょう。

 

ほんとうに、なんという夜だったかと、そう思います。終演は深夜25時をまわっていました。いったんメイン・アクトが終わってアンコールで再登場してオーラスにやった曲も、「サッチ・ア・ナイト」だったんですよ。すでに超大物だったドクター・ジョンですから、自身の地元ニュー・オーリンズの、それもファミリアーな小さなクラブで演奏できるのは、レアな機会だったのかもしれないですね。だから、彼にとっても「サッチ・ア・ナイト」だったのかも。

2019/06/07

ドナルド・バードの1969年 〜『ファンシー・フリー』

Bluenoterecords_2019may18https://open.spotify.com/album/1lpT5gGbaQJLy4YzFEqZXC?si=KCBoTZJFSkW6bGI6lqjj7g

 

ドナルド・バードの1969年作『ファンシー・フリー』では、やっぱりレコードの両面トップだった1、3曲目が聴きものかなと思う。いや、いま聴くとB 面の二曲(3、4曲目)はどっちもいいな。リズムがタイトでファンキーで、全体のサウンドもリズム&ブルーズ寄りになっている。だから『ファンシー・フリー』を大きく分けると A 面がジャズ・サイド、B 面がファンク・サイドということができるかも。

 

それでもアルバム・タイトルにしているんだから1曲目の「ファンシー・フリー」が目玉なのは間違いないんだろう。かすかに1970年代中期っぽいさわやかフュージョンも香るジャズ・ロックで、デューク・ピアスンの弾くフェンダー・ローズとジェリー・ドジオンのフルートが印象的。ドナルドのトランペット+フルート+サックス+トロンボーンという四管編成で、この時期のこのひとの作品はだいたいそんな感じの多管編成。

 

でも、アルバム『ファンシー・フリー』だとそんなやや大編成気味なアンサンブルの出番はあまりない。曲「ファンシー・フリー」でも管楽器は一人づつ出てきてテーマとソロを担当。テーマはフルートが吹いて、そのままソロへ。そのテーマ・メロディはドナルドの作曲となっているよね。これが実にいい感じだ。ジャズなんだけど、1969年当時のロックとかソウル、ファンクなど、要はブラック・ミュージックを強く意識したような旋律の動きで、心地よい。

 

曲「ファンシー・フリー」のリズムは、いかにも1969年のジャズ・ロックといった典型的なもの。しかし二名のパーカッショニストと、(ルー・ドナルドスンの『アリゲイター・ブーガルー』をやった)レオ・モリス aka イドリス・ムハンマドのドラムスという打楽器アンサンブルが、これまたさわやかだ。粘り気、湿度が足りないが、2019年に聴くと、ちょうどいい同時代感がするので不思議。

 

その点、1969年当時のジャズ・ミュージュックとしてはかなりコテコテのブラック・ミュージックに寄ったような3、4曲目は、当時なら<新しい>とされたところだけど、いま聴くとやや時代を感じてしまうところ。それでもぼくの好みでいえばこれら二曲のほうが圧倒的に好きなんだけどね。うん、間違いない。

 

だいたい3曲目の「ジ・アップタウナー」は、曲「アリゲイター・ブーガルー」の焼き直しでしょ。だから二番煎じでダメっていう意味じゃなくて、こういった種類の音楽、すなわちブルー・ノート・ブーガルーに分類できるジャズなら、いくら聴いても快感が増すばかりなんだ。どんどん聴きたい。それにこの曲では、このアルバム中唯一エレキ・ギター・ソロがある。それも「アリゲイター・ブーガルー」の流儀。

 

「ジ・アップタウナー」では、フランク・フォスターだってこんなにもファンキーなソロを吹くひとだっけ?とビックリするくらいカッコイイ。それに続くギター・ソロはジミー・ポンダー。グラント・グリーンとジョージ・ベンスンを足して二で割ったみたいだ。これはいい。主役のドナルドのトランペットの音色も輝いているしね。

 

「ジ・アップタウナー」は、おおもとをたどっていけばハービー・ハンコックの「ウォーターメロン・マン」やリー・モーガンの「ザ・サイドワインダー」とかに行き着くもので、どれもぜんぶラテンなファンキー・ブルーズ。ジャズがファンクになっていく経過ではラテン・ビートがやはり最も重要な役割を果たしていたね。

 

4曲目の「ザ・ウィージル」もブルーズで、この曲のテーマ演奏部でだけ四本のホーン・アンサンブルが聴ける。しかし聴きどころはやはりこのタイトなリズムだ。カッチョエエなあ〜。それに乗る一番手のドナルドのトランペット・ソロも見事だ。ところでこのひとのファンク路線傾倒が進むにつれトランペット・ソロの出番が減っていくのだが、『ファンシー・フリー』ではまだまだジャズだからなのか、バリバリ吹いていていいよねえ。

 

アルバム唯一のピュア・ジャズ・ピースともいうべき2曲目の「アイ・ラヴ・ザ・ガール」。ほぼドナルドひとりをフィーチャーするショウケースになっていて、こういったちょっとこじんまりしたかわいらしいラヴ・バラードをきれいに吹くこのトランペッターのチャーミングさがよくわかる。この曲の演奏にもぼくは好感を抱いている。

2019/06/06

ドナルド・バードの「その」一歩手前 〜『ザ・クリーパー』

31dmhggwyclhttps://open.spotify.com/album/4JcgkSAYLd38tzn7gQZR1D?si=PK_-TekDQ7C8NeyxmdwyUA

 

電化ファンク路線のドナルド・バードのことを書こうと思っているが、その前にちょうどその直前にあたる1967年録音作『ザ・クリーパー』をとりあげておきたい。これ、ブルー・ノートから発売されたのは1981年だったため、リアルタイムではいきなり『ファンシー・フリー』(69)がやってきたように見えていたはずだよねえ。当時の話を読んだことはないのだが。

 

『ザ・クリーパー』での目玉は、なんたって断然1曲目の「サンバ・ヤントラ」だ。も〜う、これ一曲だけでじゅうぶんと言ってもいいくらいなもの。曲題に反しブラジルのほうはまったく向いておらず、完全なるアフロ・キューバン、それもモダン・ジャズにおける典型的なそれだけど、しかしここまで激しく徹底してやりまくっているのはなかなかないよ。

 

「サンバ・ヤントラ」を書いたのは、ピアノで参加のチック・コリア。1967年録音だからキャリアの初期だよね。以前も触れたがチックのばあいは独立前にモンゴ・サンタマリアのバンドで活動していたことからラテン傾向があるんじゃないかとぼくは考えている。現在までずっとそう。三つ子の魂百まで。

 

さらにベースでミロスラフ・ヴィトウスが参加しているけれど、残念ながらアルバム『ザ・クリーパー』では活躍していると言いがたい。それにだいたい弾いてんのか?という程度しか聴こえないよねえ。たぶんミキシングのせいだろう。チックとヴィトウスという新世代、それも1970年代以後のジャズ界の最重要人物になっていく存在がいるわけだけど、『ザ・クリーパー』ではチックのほうに目を向ければそれで OK。

 

1曲目「サンバ・ヤントラ」のこの激しすぎるアフロ・キューバン・ビートですべてを持っていかれる思いだけど、ドラムスのミッキー・ローカーも大活躍だよね。ホーンは三管で、ドナルド・バードのほかにサックスがソニー・レッドのアルトとペッパー・アダムズのバリトン。全員がソロをとるが、やっぱりチックのソロがいちばんいいなと思うのはぼくの欲目か。

 

ラテン・ビートがファンクの基礎にあるんだという話は、このブログでもいままで再三再四くりかえしている。ラテン・ミュージックにあるリズムの跳ねかた、すなわちシンコペイションが北米合衆国のジャズやリズム&ブルーズやロックに流入して、というかそもそもそれらの存立の根本要因としてあって、ファンクネスを獲得するにいたる大きな源流だった。

 

だから、モダン・ジャズ、というかハード・バップがあんななめらかでスムースに進むフラットなビート感を持っていたところにラテン・シンコペイションがくわわって、それで1960年代末ごろからのジャズ・ファンクへ流れていくことになったんだと見て間違いないように思うんだ。だからドナルド・バードの『ザ・クリーパー』1曲目の「サンバ・ヤントラ」みたいなのはいくら重視しても重視しすぎることはないはず。ドナルド自身、数年後にファンク路線に転ずることとなったけれど、ちゃんとこうやって伏線というか準備段階があったんだ。

 

アルバム『ザ・クリーパー』では、それ以外は、6曲目の「アーリー・サンデイ・モーニング」がほんのり軽いラテン・ビートが香り、これはいわゆるブーガルー・ジャズ、すなわちリー・モーガンの「ザ・サイドワインダー」の路線だなと思う。だからこれも #BlueNoteBoogaloo だ。

 

これら二曲以外はふつうのモダン・ジャズ演奏が並んでいるという印象で、どうってことないかな。でも2曲目のバラード「アイ・ウィル・ウェイト・フォー・ユー」はかなりいい出来だ。邦題が「シェルブールの雨傘」で、ミシェル・ルグランの書いた名曲。ドナルド・バードはこういったきれいなバラードをきれいに吹くのがとてもうまいよね。

2019/06/05

CD 買うのにハズレがなくなった

Fullsizeoutput_1e94https://open.spotify.com/album/05enmrBRGHjSeAzjSvh64M?si=VIr0xGX5SN-AVTuMb1vj9Q

 

のは、もちろんネットで聴けるようになったから。ぼくのばあい主に Spotify などストリーミング・サーヴィスでのことだけどね。以前「未知との遭遇」はまだ(仮想でも)CD でのほうが確率が高いと書いたけれど、それが事実であるとはいえ、いったん見つけたらすぐには買わずネットで試聴する。アルバムが Spotify にあれば、まるごとぜんぶ聴けちゃうんだ。聴いて、買う価値ありと判断したのを(ネット・ショッピングで)カートに入れればいいから、外れる可能性なんてなくなった。

 

だからぼくは最近、ネットで聴けないもの(最近なら、たとえばスコットランドのハンナ・ラリティやブラジルの Guanduo など)を除き、すべて Spotify でフル試聴してから CD を買っている。ばあいによっては CD が入手できなくとも聴ければ満足(するしかない)ということだってあるよ。エジプトの歌手アンガームの2018年作『Rah Tethkerni』 はどうにもフィジカルが入手できなかった。でも Spotify で不足なく聴けて、充実作だとわかる。(注)CD が買えるようになりました。

 

アンガームといえば、もっとすばらしかった2019年新作『Hala Khasa Gedan』もたぶん CD は買えないなとなかばあきらめながら Spotify でなんども聴いて、そのあまりのすばらしさに絶句するしかなかったわけだけど、ダメもとでエル・スール原田さんに非常に強く懇願してみたら、どうやら少数だけ確保できて入荷するようだ。よかった。(注)安定供給かもしれません。

 

しかしその CD が買えるアンガーム2018にしても2019にしても、買う前から大当たりだとわかっている。もうさ、この世の音楽流通の九割以上は Spotify で聴けるんだから、経済的に限度のある一般庶民なら使わない手はないと思うよ。タダ同然で無限に聴ける、しかも高音質なのに、CD 買ってみるまでアタリかハズレかわからないなんていうアホなギャンブルをしている意味がわからない。

 

こないだ書いたノラ・ジョーンズの新作にしろケンドリック・スコットの新作にしろ、どっちもブルー・ノート系だから同レーベルの Twitter アカウントがリリースをお知らせしてくれていて、発売日ピッタリに Spotify で聴けるようになったから速攻でくりかえし聴いた。それで CD 買いたい充実度だと判断したから買ったわけ。

 

ぼくもそうだけど、みなさんもお財布的な限界があるんでしょ。玉石混交でじゃんじゃん買える、その上でハズレは処分してアタリだけ楽しめばいいっていう富豪じゃないんでしょ。いい作品を一枚でも多く買いたいでしょ。そのためにはハズレ作品をなるべく買わないようにするしかないと思うよ。その上でアタリも数多いから厳選するしかないんだけどね。

 

そんなわけで、アタリかハズレか事前にわかっていれば大いに助かる。音楽フィジカルを買うのは、なにも宝くじ買っているわけじゃないんだから、ギャンブル的なスリルとかが享楽になったりはしないと思うんだけどね。すくなくともぼくはアタリの CD しか買いたくない。ひと月にそう何十万円も買えるわけじゃないんだから。

 

そうなれば、あらかじめ聴けるという手段を活用するしかない。大都会の路面店などに足を運べるみなさんは店頭の試聴機や試聴機会を利用して、それを実行していらっしゃるのだろう。愛媛県大洲市というド田舎に住むぼくにはそれが不可能。だったら月額たった980円の Spotify プレミアムしかないじゃないですか。

 

そんなわけで、最近ぼくはこんな考えに到達しつつある。それは、この世の音楽作品は二種類に分かれる。ネットで聴けるものと聴けないものだってこと。

2019/06/04

ストーンズ『レット・イット・ブリード』では A 面がいいね

Fullsizeoutput_1ed3https://open.spotify.com/album/4l4u9e9jSbotSXNjYfOugy?si=ozk2Rg8wQe2E0qPDY9fkpw

 

ローリング・ストーンズ『レット・イット・ブリード』(1969)では B 面がイマイチに聴こえるけれど、A 面は最高にすばらしい。黒っぽいリズム&ブルーズ調のオリジナル「ギミー・シェルター」で幕開け。そこからしてすでに文句なしだ。こういったブラック・ミュージック的なのはカヴァーが多かったストーンズだけど、バンド結成後七年でオリジナルでもここまでできるようになった。

 

2曲目「ラヴ・イン・ヴェイン」はロバート・ジョンスンのブルーズがオリジナルだけど、それがブギ・ウギ調だったのに対し、ストーンズはブルーズくささを消して、切なく甘いロッカバラードに解釈しているのがなんともいえず見事だ。ロバート・ジョンスンのオリジナルにバラード感覚がひそんでいると見抜いての展開で、本質をつかむとはこういったことを指すのだろう。個人的にはストーンズ・ヴァージョンでこの曲を知ったので、ロバート・ジョンスンのオリジナルはいまでも物足りず。

 

カントリー・ナンバーである3曲目「カントリー・ホンク」はもちろん「ホンキー・トンク・ウィミン」のプロトタイプだ。ブルージーなロック・ナンバーな後者に対し、ここでは完璧なるカントリー・ナンバー。フィドルまで入る。この時点でグラム・パースンズとの親交がはじまっていたに違いないとわかる音楽性だよね。カントリー・ロックではなくカントリー・ナンバーだ。

 

『レット・イット・ブリード』やこの時期のストーンズとしては、4曲目「リヴ・ウィズ・ミー」がやや異質なハード・ロック・ナンバー。出だしのエレベぶいぶいはどう聴いたってビル・ワイマンのはずがないぞと思って調べたら、やっぱりキース・リチャーズじゃん。ギターはもちろん弾いているが、ミック・テイラーとの役割分担がぼくにはわかりにくい。

 

ところでこの「リヴ・ウィズ・ミー」という曲のことがぼくは大好きなんだけど、理由のひとつとして中間部でボビー・キーズのテナー・サックス・ブロウが入るということがある。ジャジーだし、テキサス・ホンカーでありながら、ここでは都会的な夜の雰囲気を演出しているなと思う。キースの弾くエレベや(テイラーもふくめの)ギター・ワークとあわせ、洗練された都会の大人のムードがあるでしょ。AOR 的と言ってもいい??そんなところが大好き。

 

わかりやすくコピーしやすい5曲目「レット・イット・ブリード」。歌詞もメロディもリズムもいいね。コピーしやすいというのは本当で、なんたってこのぼくですらこのアクースティック・ギターの刻みをやりながら弾いて歌えていたほど。ちょうど20世紀の終わりごろ、ネットで知り合った音楽仲間たちとスタジオでこれをやって遊んでいた。きっかけはスキマ時間にぼくがギターを借りてこれを弾きだしたら後ろのドラマーがその場で合わせてくれたこと(そのひとは本来ベーシスト)。それでちょろっと歌ってみた。同じ3コード反復でカンタンなんだ。

 

しかし素人にはコピーできないのが、曲「レット・イット・ブリード」に漂うフワ〜っとした幕のようなサウンドというかアンビエンスで、たぶんそれがビル・ワイマンの担当となっているオートハープかなあ。もちろんライ・クーダーの弾くスライド・ギターも絶対に真似なんてできないもの。一曲全体をライのスライドがラッピングしていることで、この曲「レット・イット・ブリード」にアメリカ南部的なイナタさが付与されている。

2019/06/03

サンバ・カンソーン二題(2)〜 エレーナ・ジ・リマ

1007845145https://open.spotify.com/album/7605mLWOh3U3f1bWhNvlk0?si=XB2MhZQIQbCsp7WFnEa1sg

 

エルザ・ラランジェイラのリイシュー盤を買おうとして、ディスクユニオン通販の同じページに掲載されていた同じ復刻レーベルの同じシリーズということだからついでに買ったブラジルの歌手エレーナ・ジ・リマの二枚。そのうち『a vos e o sorriso de Helena de Lima』(1961)の話をしておきたい。このひともいいサンバ・カンソーン歌手だなあ。

 

このアルバムを聴くと、エレーナは、たとえばエルザ・ラランジェイラと比較してクラシカルな感じがする。エルザよりも躍動感と表情に乏しいかもしれないが、端正で典雅だ。現代のサンバ歌手、そういえば、エレーナもこのアルバムで「ノティシア・ジ・ジョルナル」をやっているからと思ってニーナ・ヴィルチと比べたら、やっぱりエレーナにスピード感はない。なんだかもっさりしている。

 

でもこういったことは、必ずしも欠点にならないと思うんだよね。かえってエレーナの優雅さを際立たせることになっていて、しかもゆったりと夜のしじまに漂うような雰囲気を実にうまく表現できることにつながっているかと思う。伴奏を担当する RGE のオーケストラも似たようなクラシカルなムードだ。アレンジはポショかネルシーニョ。ストリングスの使いかたもいいね。

 

そんなエレーナだから、アップ・テンポで軽快にやるような曲よりも、スローでゆったりした曲のほうが似合っているし出来もいいように思える。このアルバムだと、たとえば1「ジ・アゴスト・ア・セテンブロ」、4「オウヴ、メウ・アモール」、5「ペルドナ、メウ・ベン」、11「カンソーン・ジ・アモール」なんか、特にいいね。

 

それらの曲では、歌に込める情感の表現法が格別ていねいで、ことばをしっかりこまかく扱って、大げさにならないようにクールに歌うのかと思いきやかなりエモーショナルに熱い思いを出して強く長く声を張ったりもする。フレーズにつける表情はやや一本調子かなと思わないでもないけれど、抑揚を大きめにとってエレーナなりの哀感や笑顔をうまく見せている。

 

そんなサウダージなバラードの数々で実力を見せるクラシカルなサンバ・カンソーン歌手エレーナ・ジ・リマだけど、アルバム中9曲目の「エウ・ソウ・エウ」だけは、ボサ・ノーヴァになっているんだよね。もっさりしたエレーナなのに、この曲ではこのリズムに乗ってはずむように軽快に歌いこなしているのが印象に残る。声も抑えてソフトに軽く発音しているのが、当時の新音楽ボサ・ノーヴァによく似合っているしね。思わぬめっけものだ。

2019/06/02

サンバ・カンソーン二題(1)〜 エルザ・ラランジェイラ

1007845144https://open.spotify.com/album/26EiZk0wdTrQIFaDAlCaxf?si=kHdTAyE9SIqya6Av2NCbYQ

 

これも bunboni さんに教わった一枚です。
https://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2019-03-10

 

やっぱりサンバ・カンソーンは夜の音楽だよね。プレ・ボサ・ノーヴァ期のブラジル歌手エルザ・ラランジェイラの1960年盤『A Noite do Meu Bem』を聴いてもそう思う。bunboni さんのおっしゃるようにこのアルバムを聴くと、サンバ・カンソーン歌手としてとてもすぐれた存在だったのだとわかるよね。そして、アルバム全体がゆったり漂うような、そんな夜のとばりが降りているなと思うんだ。

 

なかには快活に跳ねているような曲だってある。2曲目「Tome Continha de Você」、9曲目「Podem Falar」、12曲目「Porque」 がそう。これらを歌うときのエルザも魅力的だ。特に9曲目。アップ・ビートに乗って楽しそうに、ちょっとしたやんちゃなはじけかたを見せて、かなりチャーミングだよね。フレーズの末尾ごとに音程をちょっとだけクイッと持ち上げるところとか、たまらなくかわいい。13曲目のパーカッションの使いかたはややカリブ寄りかも。

 

それでもやはりエルザの、『A Noite do Meu Bem』の、そしてサンバ・カンソーンの、チャームとは、たとえば1曲目「A Noite do Meu Bem」、5曲目「Eu Sei Que Vou Te Amar」、6曲目「Estou Amando Azul」、10曲目「Conversa」などのゆったり系にあるんだなと思う。

 

それらのバラード調の歌では、エルザは実に丁寧に、ゆっくりと、漂うようにけれどしっかりと、ことばをひとことひとことじっくりと綴っている。歌い込みかたに実に好感が持てるもので、情感を出しながら出しすぎず、ムード満点だけどどこかクールに、そして細かい配慮を行き届かせながらデリケートに歌っているよね。声の伸ばしかた、切りかたも見事だ。表情も多彩で豊か。

 

ところで1曲目「A Noite do Meu Bem」でもわかるんだけど、このアルバムではところどころエルザの二重唱のように聴こえる瞬間がある。これはあれかなあ、オーヴァー・ダビング?1960年だけど?あるいは(ビートルズでぼくは知った)テープ操作によるダブル・トラッキング技術を使っているの??

 

まあいい。今年ようやく CD 復刻が実現したというエルザ・ラランジェイラのこのアルバム『A Noite do Meu Bem』を聴いて、サンバ・カンソーンのこの深夜ムードにひたって、部屋のなかでゆっくりくつろいでいよう。サンバ・カンソーンって、暑くなってきたこれからの時期にあんがいちょうどフィットするクールさだってあるしね。

2019/06/01

家具調ステレオ・セットの時代

J4976318701https://open.spotify.com/album/5Dojf4fiiu5pmH3NBh2Ltx?si=y0c7M6r-QZi08N4cM_f9dg

 

ぼくが大学卒業まで使っていたレコード再生装置は、小学生のころに祖父が買ったものです。祖父は三波春夫の歌謡浪曲が大好きで、そのレコードを自宅で聴きたい一心でそれを買ってきました。日本コロムビア製のステレオ・セットだったのを憶えています。写真はネットで検索して拾った同社製のものですが、家にあったのはこれじゃありません。ですが当時のそんな写真をいまぼくが持っているはずもなく、だからやむなく。これで許してください。だいたい似たようなものでしたから。

 

こういった家具調のっていうんですか、いまならオーディオ装置はどっちかというとちょっと無骨な雰囲気でメタリックなものが多いと思うんですけど、写真のようなインテリアに溶け込む木製外観の一体型ステレオ・セットがむかしはあったんです。祖父がそれを買ってきたのは、正確に何年と憶えていませんが、ぼくが小学校高学年のころです。

 

ぼくは1962年生まれですので、だからたぶん1960年代末か70年前後か、そのあたりですよね。すくなくともぼくがはじめて買ったレコードである山本リンダ「どうにもとまらない」ドーナツ盤(1972年)をそれで聴いたという記憶は間違いありませんので、10歳までには家にステレオ・セットがあったはずです。そもそもそれがなかったら山本リンダのシングルを買ったかどうかもわかりません。

 

祖父からこの話を聴いたことはないのですが、いったいどこで三波春夫を聴いて、レコードがほしい、自宅で聴きたい、そのためにステレオ・セットを買おう、と思ったのでしょう?テレビ出演を観たか、実演が松山市内であってそれに接した可能性もありましょうが、推測するに、たぶんどなたかすでにレコード再生装置をお持ちの友人か知り合いか、あるいはレコード・ショップかなんらかのお店か、そんなところで三波春夫のレコードを祖父は聴いたのではないでしょうか。

 

ともかくそんなことで、遅くとも孫のぼくが10歳のときには家具調ステレオ・セットが家にありました。祖父はぼくが中学二年のときに亡くなりまして、その後ステレオ・セットは家族みんなで使うということになったのです。だいたいが音楽レコード好きの多い家族でしたしね。しかし(上掲写真のごとき)家具調ステレオ・セットはどんどん廃れていったのではないかと思います。

 

だから木製のああいったものは、ひょっとしたら1960〜70年代独自のものだったのかもしれませんね。レコード・プレイヤー、ラジオ受信機、アンプ、スピーカーが一体化しているもので、配線がどこにも見えませんでしたので、内部で結ばれていたのだと思います。そのあたりも家具調というかインテリアとして部屋の雰囲気をこわさないように、との配慮だったのでしょう。

 

それから、家にあったものはラジオ受信機の下に蓋があって、それを開けるとレコード収納棚がありました。左右のスピーカーにはさまれた真ん中は、上からレコード・プレイヤー、ラジオ受信機、そしてそれらと一体化しどこがそうだともわからないアンプ、そしてレコード収納棚でした。祖父はそのなかに、買ってきた三波春夫のレコードを並べていたんです。

 

レコード・ラックに蓋ができて中身がふだんは見えないようになる、なんていう部屋を、いまレコードや CD 愛好家のみなさんがお持ちかどうかわかりません。が、そのむかしぼくが大学卒業まで使っていたステレオ・セットはそうだったんですね。もちろん、ぼくをはじめ家族がレコードを買ってきては置きますので、そんなセットの下部の棚のなかだけでは到底収まりませんでしたけど。

 

オール・イン・ワンのステレオ・セットでしたので、ちょっと困ったのはぼくが高校生のころカセット・テープを使うようになり、それにレコードをダビングしたいと思っても、カセット・デッキを接続できる端子がなかなか見つからなかったことです。結局はなんとか接続できたのですが、なんだかとっても特殊なケーブルを使う必要があって面倒くさかったです。細かいことは省略します。

 

レッド・ツェッペリンやビリー・ジョエルも、それから17歳で電撃的にジャズ・ファンになって人生が一変して以後どんどんアホみたいに買いまくるようになったジャズ・レコードも、あるいはロックやシャンソンも、B.B. キングもジェイムズ・ブラウンも、バリのガムランも、とにかくなにもかもすべてを、この祖父の買ってきた家具調ステレオ・セットで聴いたんですよ。

 

ジャズ狂になってからの大学生時代、たまに同じジャズ趣味の友人を自宅に呼んでいっしょにレコードを聴くこともありました。ひとり暮らしだとだいたいみんな自室では小さなコンポで聴いていたようですから、ぼくんちにこんな大きなスピーカーがあるのがうらやましいと口をそろえていました。でも、たいしたスペックではありませんから、大きさほどのちゃんとした音は出ていなかったんじゃないでしょうか。

 

だいたいスピーカーのサイズが大きいといっても木製の外見だけのことで、サランネットもたぶん一体化していて外せませんでしたから、どんなユニットを使っているなどと確認することもできません。レコード・プレイヤーもアンプもちゃちなものだったのだと、当時聴いていた音の記憶といまぼくが聴いている音の現況とを比較するとそう思います。

 

でも自力でちゃんとしたステレオ・セットを買う経済力もなく(というかあんなにどんどんレコードを買いまくっていたんだからなんとかなったはずですけど)、そんな気はぼくにも両親にもなく、ぼくはぼくで祖父の買ってきた家具調ステレオ・セットでじゅうぶん満足していましたので、当時、その音質がどうのこうのとは思わなかったのです。そりゃあ同じレコードでもジャズ喫茶の音とは違うなとはわかっていましたけれども。

 

遅くともぼくが10歳のときには家にあって、その後大学卒業の22歳になるまで使いに使いまくった祖父購入の家具調ステレオ・セット。そのあいだ(約)12年間、特にこれといった故障もせず、レコードが正常に聴けないといった事態を一度も引き起さず、酷使に耐えてくれました。そのあいだに現在まで続く音楽趣味の土台が形成され人生が充実していますので、感謝もしています。

 

大学を卒業し自宅を離れ東京の大学院に進学したときに、はじめて自分でパイオニア製の小さなステレオ・セットを買いました。

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