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2019年7月

2019/07/31

Spotify でボックス・セットを聴くのは不便な面もある

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それはスマートフォンで聴くばあいに限って不便ということなんですけど、フィジカルでしたら CD 三枚とか四枚とかそれ以上でも何枚組でも、とにかく大部なボックス・セット様のものを Spotify のスマホ・アプリでは聴きにくいと思うんですね。特に聴き慣れていない、知らない作品のばあいはそうです。

 

どうしてかって、いまどこを聴いているか、何枚目の何曲目らへんかがわかりにくいんです。これ、同じ Spotify でもパソコン・アプリで聴く際はそんなことないんですよ。ディスク1、2とか、まあ「ディスク」とは書いてないんですけど「1」「2」とかって表示されてちゃんと分かれてて、それごとに曲数も1からカウントされ直していますからね。だからパソコン・アプリを眺めながらであれば、いま聴いているのが何枚目の何曲目か、把握は容易です。

 

ところがスマホ用の Spotify アプリではそれがないんですね。ボックス全体が「一個」のものとしてズルズルぜんぶつながっていて、フィジカルでいうディスクの境目が表示されないんです。ぜんぶ一個。これは、ディスクという物理概念など時代遅れだから…、とかいうたぐいの話じゃないと思いますよ。トータルで100曲も150曲もが一続きで、しかもあまり知らないアルバムだったら、ちょっと聴きにくいんじゃないですかね。

 

たとえばですよ、写真左 or 上の横長のは、アルバム『ロンギング・フォー・ザ・パスト』を Mac の Spotify アプリで表示して撮影したものです。「2」とかっていう数字が見えますよね。それがフィジカルだと二枚目ってことです。ところが iPhone の Spotify アプリでこれと同じ箇所を写すと、写真右 or 下の縦長のみたいになるんです。どこにも境目がありませんよねえ。

 

いいですか、大きなサイズのアルバムで、一個に100曲ほども収録されているものを、こうやってただズルズルとひと続きで表示されたのでは、スマホで聴くばあい、いまどこいらへんなのか、把握がとても困難です。だから、聴いていて、オッ、この曲はいいな、どこの国のだれがやっているなんという曲で、いったいどんなものなのか?と、たとえばブックレットなどで相当箇所をさがそうとしても、すぐには見つからず右往左往することになってしまうんですね。

 

このへん、Spotify アプリをスマホでお使いのみなさんはどうなさっているのでしょう?一度お話をうかがってみたいと思っているんですけどね。もちろんスマホだとディスプレイ・サイズが小さいですから一度に表示できる情報量もかなり制限されることになり、だから相対的に重要性が低いと判断されたものはカットされているんでしょうね。パソコン・アプリだとちゃんと出ているわけですから、Spotify 側だってそれらの情報は持っています。

 

しかしですよ、大きなサイズのアルバムで全体が100曲とかそれ以上とかにもなるものを、区切りなしでズルズル一個の表示でやりますと、どこを聴いているのやらサッパリわからないことになって、結果的にリスナーの不便、不利益を生じさせていると思うんですよ。フランク・ザッパの『ロキシー・パフォーマンシズ』なんかも、CD だと八枚組なんですけどズルズルひと繋がりの表示で、なにがなんやら、把握できません。

 

Spotify さんもパソコン・アプリ同様に(フィジカルだとディスクに相当する)「1」「2」などの表示を、スマホ・アプリでも出すことはそんなにむずかしいことなのかと、素人としては疑問に思うわけなんですね。ただたんに流し聴きできればそれでいい、音楽は BGM にすぎないというだけならそのままでいいでしょうけど、聴き手のなかにはいろんな人間がいます。ときにはスマホの Spotify アプリで聴いて、一曲づつしっかり把握しつつ、なにか書きたいというばあいだってあるんですからね。

 

一枚のディスクごとにテーマみたいなものが設定されていて、それに従って収録曲も分別されているというケースも多いわけですが、Spotify のスマホ・アプリのばあい、これを無視してぜんぶダラ〜ッとつなげて並べてしまいますので、困っちゃうんですよねえ。『オピカ・ペンデ』でも『ロンギング・フォー・ザ・パスト』でも、全四枚の一枚ごとに収録の音楽の国・地域・種類が分類されているんですから、Spotify でもそれに即した表示にしてくれなくっちゃ、聴きにくいちゅ〜ねん。

 

ホント、今日書いたことは日々 Spotify を使うなかで切実に痛感していて、悩んでもいることなんで、もし改善の可能性がちょっとでもあるならば、ご検討いただきたいと思います。

 

@Spotify @SpotifyCaresJP

2019/07/30

東アジア人にとっての過去への思慕 〜『ロンギング・フォー・ザ・パスト』

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https://open.spotify.com/album/7E19WO7xmhFrjsWi9rRNm7?si=cWxcNqfBTYyLX3qqQ8Hsvg

 

2013年のダスト・トゥ・デジタル盤 CD 四枚組&豪華ブックの『ロンギング・フォー・ザ・パスト:ザ・78 rpm・エラ・イン・サウスイースト・エイジア』。この前年のアフリカ音楽 SP 音源集『オピカ・ペンデ』といい、ちょうどこのころダスト・トゥ・デジタルというインディペンデント・レーベルを知って、なんというすばらしい会社か!と感嘆しきりでしたよねえ。たぶんみなさんもそうだったのではないでしょうか。

 

でも『オピカ・ペンデ』ではあまり感じなかったことを、東南アジアの1905〜66年の SP 音源集『ロンギング・フォー・ザ・パスト』でははっきり感じます。ひとことにして、郷愁。むかしをなつかしむフィーリングが、ぼくみたいなありきたりの日本人にもあるんですね、このボックスを聴くと。それでなんとも言えない気持ちになってしまいます。失われてもうそこにはないけれど、いま音で聴けて実感できる過去の自分の姿を見ているような、そんな感じですかねえ。

 

これはやはりアフリカと東南アジアという地域性の違いから来るものでしょうか。きっとそうですよね。洋楽好きのぼくみたいな人間にとっては、ふだんから聴きなじんでいるのはどっちかというと『オピカ・ペンデ』に収録されているような音楽なんですけど(ラテン音楽要素も濃いですし)、『ロンギング・フォー・ザ・パスト』を聴くと、そんな次元を超えて DNA に訴えかけてかきまわしてくれるような、なごませてくれるような、そんな気分がします。

 

でもって、『ロンギング・フォー・ザ・パスト』を聴いていると、ほっこりなごんだやわらかくあったかい時間が流れていくのもはっきり感じます。これも(東)アジア性といったことかもしれないですね。収録されている90曲のなかにとんがったシビアなものはまったくなし。親近感とか身近な卑近性を感じさせるものばかりですよねえ。だから東アジア人としての DNA とあわさって、聴いているとなんだかアット・ホームな感覚でくつろげるんだと思います。

 

『ロンギング・フォー・ザ・パスト』四枚組に収録されている音楽は、それぞれ以下のように国によって分かれているようです。聴いてそうだとわかる部分とぼくには不鮮明な部分とがあります。

 

CD1 ヴェトナム、ラオス、カンボジア
CD2 タイ、カンボジア、ラオス、ヴェトナム
CD3 ビルマ、タイ
CD4 マレイシア、シンガポール、インドネシア

 

個人的にいちばんピンと来るのは、CD2終盤からCD3にかけて収録されているタイのルークトゥン、CD3のビルマ(とその仏教歌謡)、CD4のインドネシアのガムラン・ミュージックでしょうか。ルークトゥンはあまり聴き慣れている音楽じゃなかったんですけど、このボックスで聴くと実に魅力的でした。インドネシアのガムランや、ビルマの仏教歌謡(というか伴奏のサイン・ワイン楽団ですけど、ぼくが好きなのは)やビルマ・ピアノなどは、ちょっとだけ聴き知っていたところです。あ、四枚目にはウピット・サリマナなんかも収録されているんですねえ。

 

全体的に中国音楽の、というか中国音階のということか、影響を強く感じるばあいも多いのは、たぶんあたりまえのことなんですよねえ。東アジア圏では歴史的に中国の文化的なパワーが大きいですし、また中国系のひとびとが各地にたくさん住んでもいます。

 

いやあ、それにしても本当にのんびりのどかで、おだかかで、いいですねえ、東南アジアの古い SP 音源集。癒されるとはまさにこのことです。CD 四枚の収録順や CD ごとの分別方針は必ずしも鮮明じゃないというかタイトじゃないみたいですけど、だからビルマが出てくると思ったらタイになってまたビルマになったりしますけど、そんなところも東アジア的おおらかさでしょうかねえ。

2019/07/29

ブダペスト発のアフロビート・ジャズ 〜 アバセがカッコいい!

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https://open.spotify.com/album/2ePA1dCL1PlQTpdDmwWEUw?si=sY8NVhCgSN-aKpFaYlCr5Q

 

https://abasemusic.bandcamp.com/album/invocation

https://www.facebook.com/abasemusic/

 

どうしてこんなにカッコいいんだぁ〜!

 

Àbáse っていうのはバンド(ユニット)名じゃなくて個人のステージ・ネームなのかなと思ったら、どうやら鍵盤楽器奏者にしてプロデューサーの Bognár Szabolcs(ブダペスト生まれベルリン在住)というひとのジャズ・プロジェクト名がアバせらしいです。このハンガリー人名はどう読めばいいのでしょう?ボグナール・サボルチュ?

 

ともかくですね、そんなアバせのデビュー・アルバム『インヴォケイション』(2019.5.23)が、も〜う、カッコイイのなんのって!ここまでカッコいいジャズ・ファンクは近年まれですね。抜群にすんばらしいですよ。ジャズ系のアルバムでは今年2019年ベスト・ワンと言い切ってしまいたいほど、それほど、クールでチリングでドープですよねえ。いやあ、シビレます。カッコイイ!

 

1990年代的なアシッド・ジャズ〜レア・グルーヴ風味もたっぷり感じられる『インヴォケイション』だから、実はそんなに新しくない音楽なのかもですけど、関係ないですね、カァ〜ッコイイことこの上ないですもん。完璧なぼく好み。でもってこのアルバムはアフロ・ジャズ・ファンクっていうかアフロ・ジャズ・フュージョンっていうか、まあそんなもんですよね。実際、フェラ・クティのアフロビートの痕跡はそこかしこに鮮明に聴きとれます。

 

4曲目のタイトルが「Lagos」なのも示唆的ですけど、それよりも音楽的には5曲目「Sambo」、6曲目「Gbé Ra Nlè (Get Off Di Floor)」こそがアルバムの目玉、白眉ですね。特に6曲目がすんばらしすぎます。これは完璧なアフロビート・ジャズ・ナンバーなんですね。アルバム中この曲でだけ大編成ホーン陣が活躍しているのも強く印象に残ります。いやあ、カッコいい。シビレれますね〜。アバセって、いったいなにものなんでしょうか?

 

6曲目「Gbé Ra Nlè (Get Off Di Floor)」は10分以上もあって、しかもダルくゆるむところがまったくなく、最初から最後までしっかりタイトにグルーヴします。アルバム中ほかの曲が数分程度なのを見ると、この6曲目にアバセ自身インパクトを置きたかったんだなと思うんですね。ドラムス、エレベ、エレキ・ギターの三者でリフを合奏しグルーヴの土台をつくり、そこにアバセの鍵盤サウンドが乗り、ホーンズが咆哮、バリトン・サックス・ソロになだれこんでいく瞬間なんか、なんど聴いても背筋がゾクゾクしますよ。ギター・ソロもカッコいい。後半のヴォーカルもいいし。それよりなにより、このビートですよねえ。どうしてこんなにカッコいいんだぁ〜!

 

アバセは天性のサウンド&ビート・メイカーだと思うんですけど、そのビート感覚には、たしかにヒップ・ホップ世代ならではというか、一度ヒップ・ホップを通過していないと獲得しえないものがあるなあと思います。ジャズ・ミーツ・ヒップ・ホップなアフロビート・ジャズ・ファンクっていうか、そんなものじゃないですかねえ、『インヴォケイション』って。

 

5曲目「Sambo」も西アフリカ系のジャズだし、1〜4曲目は洗練された都会のヒップ・ホップ・ジャズ。アルバムより先にシングルとしてリリースされていた3曲目「Skeme Goes All City」のこの斬新なビート感覚といったらクールじゃないですか。まさに2010年代後半的な感性と言えましょう。沈み込むようなダウナーなフィーリングもありますしね。6曲目とならぶアルバムのハイライトである2曲目「Align」もそうです。ドラミング(とシンセ・ベース)を聴いてください。超カッコイイでしょ。

 

DJ 感覚にもあふれるアバセの『インヴォケイション』、締めのラスト7曲目「Ashek Ellil」は、アフロ系というより中東アラブ音楽ふう。後半のヴォーカルは間違いなく中近東の歌手だと思います。

 

アメリカ、西アフリカ、ブラジル、中東と、種々の音楽要素が渾然一体化している『インヴォケイション』。ハンガリーはブダペスト生まれでベルリンに拠点を置くアバセは、このアルバムを世界各地で録音したみたいなんですけど、(音楽の)旅人、放浪性みたいな側面も感じられますね。文化的ハイブリッド性とあわせ、強く共感するところです。

 

(written 2019.7.28)

2019/07/28

インドネシア産スワンプ・ロック 〜 サンディ・ソンドロ

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https://open.spotify.com/album/31F02ahSHVa7Fk6mODePOb?si=XpeuzszsSfS1WatYZktqCw

 

インドネシアのサンディ・ソンドロ。名前のあるひとらしいですけど、知りませんでした。エル・スールのホーム・ページにこのアルバムが載るまでは。その2018年作『ビューティフル・ソウル』が出会いだったんです。ジャケット写真だけ見て、なにかこう、感じるものがあったんですよね。それで、買う前に Spotify で試聴してみて大正解。これはまったくぼく好みのアメリカ南部ふうのスワンプ・ロックなんですよね。だから当然ブラック・ミュージック・テイストがあります。

 

インドネシア音楽っぽいローカル・カラーはどこにもないこの『ビューティフル・ソウル』。収録の10曲11トラックすべてサンディ・ソンドロの自作か共作で、だからこういった持ち味の音楽家なんでしょうね。エル・スール原田さんの紹介文によれば欧米で長らく活動していたとのことなので、なかでも特にアメリカ音楽かな、ロックとかソウル、そしてなによりかつてのブラック・コンテンポラリーを彷彿させるソングライティングをするひとですね。サンディのことをなにも知りませんが、たぶんそんな世代なのではないでしょうか。

 

こういった音楽を聴くのであれば、インドネシアのサンディ・ソンドロじゃなくてもアメリカにいくらでもあるじゃないかって言われたらたしかにそのとおり。サンディならではの味はいったいどこにあるのでしょう?サウンド・メイクもヴォーカルも、完全にアメリカン・ポップスのそれですしね。歌っている歌詞が、たしかにインドネシア現地のことばなのかもしれないですけど(そこがインドネシア色?)、ぼくは聴いてもわかりませんし、また、英語で歌う曲も多いです。

 

まあでも音楽って出会いだと思うんですよね。サンディ・ソンドロの『ビューティフル・ソウル』を聴いていて心地いいというのは間違いないですし、ここまでサッパリといさぎよい、他国人によるアメリカン・ロック/ソウルもなかなかないかも。あ、いや、いっぱいあるのか。それほど1970〜1980年代ふうなああいったアメリカンな曲づくりとサウンド・メイク、歌いかたは全世界に普及しているのかもしれません。

 

サンディ・ソンドロの『ビューティフル・ソウル』にはちょっとレトロな味もあって、スワンプ・ロックと書きましたが、たしかに1960年代末〜70年代前半ごろのあのフィーリングを感じるものです。ロックのなかに、カントリー、ブルーズ、ゴスペル、ソウルなど、ルーツ志向な音楽がないまぜとなって渾然一体化した、まろやかでコクのあるあの味わいが、間違いなくサンディの『ビューティフル・ソウル』にはあります。だいたいこのジャケットがスワンピーじゃないですか。

 

そんなところも美点ですし、全体的にどこのだれでも楽しめるユニヴァーサルなポップ・ミュージックに仕上がっているところもいいです。これを聴くならアメリカ人を聴けばいい、みたいな言いかたをちょっとしましたが、ぼくは決してサンディ・ソンドロの『ビューティフル・ソウル』をありふれた作品だというつもりはないです。かなりの良作だと思いますねえ。

2019/07/27

井上陽水奥田民生『ショッピング』は傑作

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1997年作のこれ、ホ〜ント痛快な傑作だと思いますねえ。こういった作品こそ、ポピュラー・ミュージックの、いや、「音楽」の、お手本、理想に違いありません。その最大の理由は、陽水も民生も大まじめに、真剣に、遊んでいる、ふざけているからなんですね。なかなかここまでおふざけに徹している音楽アルバムってないんですよね。痛恨事はこのアルバムが、一曲たりとも、ネットで聴けないことだけです。

 

陽水民生の『ショッピング』が超楽しいっていうのは、いままでにも数回書いていることなんですけど、ホントいつまで経ってもヘヴィ・ローテイション盤の位置から降りないので、ずっと聴き続けているので、傑作だと信じているので、しかしそれにしてはあまり話題にあがらないアルバムですので、だからまたいま一度書いておくことにします。やっぱり大切なことはくりかえし言わないとね。

 

こんな大傑作がそうとは言われないのは、やっぱりこのアルバムでの陽水も民生もおふざけに徹しているからでしょうねえ。大まじめに、懸命に、ふざけているんですけど、シリアス主義の強いリスナーのみなさんのあいだではこんな音楽はなかなか受け入れがたいということなんでしょうかねえ。残念です。でも聴けば文句なしに楽しいんです。間違いないです。

 

どこがふざけているって、大きく言って二点ですね。まず歌詞。そしてかなりの曲が米英ポップ/ロックの有名曲をそのまま拝借していること。この二つなんですね。歌詞の点では、このアルバムのどこにもシリアスな面はないです。たとえば8曲目「A と B」。この曲題で察せられるとおり、カセット・テープのことを歌っただけの内容なんですね。それをロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」に乗せて大まじめに陽水が綴っているっていう。

 

民生リードの7曲目「2500」はレッド・ツェッペリンのパターンが下敷きに、っていうかそのまんまですけど、これも歌詞を真剣に受け止めようとなんかしたらバカを見ますよ。意味なんかないわけですからね。たんなる言葉遊びなだけだと、聴けばわかります。陽水リードの10曲目「手引きのようなもの」だって同じ。釣りと恋愛をひっかけているだけです。

 

歌詞に意味なんかない、たんなるお遊びだ、というこの二名の大まじめなおふざけポリシーは、もとは PUFFY に提供した楽曲であるアルバム・ラストの「アジアの純真」でいちばん鮮明に表出されています。みなさんもお聴きになればおわかりでしょう。「北京、ベルリン、ダブリン、リベリア、束になって輪になって/イラン、アフガン、聴かせてバラライカ」なんて歌詞のいったいどこに意味なんかあるんでしょうか。しかしものすごく語呂がいいから、音楽の歌詞としては最高ですね。

 

1950〜70年代の洋楽好きにはたまらない仕掛けが随所に施してあるのもポイント高いです。いままで書いたもの以外だと、4曲目「ショッピング」はベニー・グッドマン楽団の1938年のヒット「シング・シング・シング」ですけれど、5曲目「意外な言葉」は、ビートルズの「ドント・レット・ミー・ダウン」、6「カラフル」は1950年代ふうのラテン・テイストを持った米英ポップ/ロック、9「月ひとしずく」はジョージ・ハリスンの「マイ・スウィート・ロード」、などなど。特にアルバム5〜9曲目あたりの流れは文句なしですね。

 

ま、簡単に言って、この陽水民生のアルバム『ショッピング』とぼくはウマが合う、相性バッチリ100%、ぼくにとってはこの世で巡り合った運命のパートナーみたいなものなので、も〜う、ホント、いつなんど聴いても心地いいんですね。適度な興奮とくつろぎがここにあります。たまらなく大好き。本当に愛しています。ただ、それだけ。極私的には、だから、大傑作というか、これ以上の音楽がこの世にあるのか、というほどの最高の一作なんですね。

2019/07/26

ウォークマンが登場した1979年以後、ぼくらの音楽ライフは二度と同じじゃなくなった

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今日の文章は、ピッチフォークのこのツイートとリンク先の記事にインスパイアされて書きました。
https://twitter.com/pitchfork/status/1148849358059843584

 

いまではあたりまえな音楽の携帯、持ち運び。いつでもどこででも、電車やバスのなかでもホテルの部屋でも、カフェでもレストランでも、ウォーキングやジョギングしながら、自分のお気に入りの音楽を聴けますよね。たぶんいま30歳代以下の世代のみなさんであれば、えっ?!そうじゃないことなんてあるの?音楽は持ち運んでどこででも聴けるものですよね!と1ミリも疑っていないんじゃないかと思うんです。でも、それらなにもかも、1979年までは不可能なことだったんですよねえ。

 

そう、音楽リスナーにとっては「すべて」を1979年発売開始のウォークマンが変えたのです。ぼくはこのソニー製商品の登場を克明に憶えています。その年、ちょうどジャズにどまはりして、夢中で音楽レコードを、大半はジャズですけど、どんどん買って自宅に持ち帰ってはカセットテープにダビングする(のは自室のラジカセで聴きたいがため)日々を送っている真っ最中でしたから。毎日通っている大学の生協の購買部に、ある日、ウォークマンが並んだんですよ。一年生(西日本では一回生という)のときです。

 

もちろん当時のウォークマンはカセットテープを聴くものでした。書きましたように音楽のカセットテープなら数多く持っていた身としては、これを自室だけでなくカバンに入れて大学まで持って行って、教室のなかや食堂や図書館でででも、とにかくどこででも聴けるんだと思えば、買うのに躊躇はなかったですね。そんなに高価なものじゃなかったように思いますし。

 

そのころ、つまり1970年代末〜80年代(前半ごろまで?)はちょっとしたウォークマン・ブームみたいなものがあって、とにかくソニーのこれは売れたんです。日本であまりにも売れたがためなのか海外進出も果たし、Walkman は携帯音楽プレイヤーの代名詞になりましたよね。あのころ、Walkman なんていう英語はおかしいぞなどという専門家のことばも飛び交っていたとかすかに記憶していますが、アホなことです。なんだって売れまくれば定着します。

 

ぼくの大学生活四年間は、ジャズとそのほかの音楽と、英語で読む海外小説、主にミステリと、映画と、まさにこの三つでできていたんですけれども(つまり実に植草甚一さん的)、一回生のときに買ったウォークマンを本当にどこにでも持ち歩いていました。スキマ時間スキマ時間で音楽カセットを聴いていたんですね。な〜んだ、約40年が経過したいまでもちっとも生活が変わっていないじゃないですか(苦笑)。いまは iPhone なだけで。

 

1979年発売型のウォークマンは乾電池駆動でした。当時はまだモバイル・バッテリーなども一般的実用品ではありませんでしたから、当然そうなるでしょうね。それにケーブルでヘッドフォンをつなげて聴くんですね。いまはヘッドフォン、イヤフォンも Bluetooth の無線接続が普及していますので(といっても電車内や街中ではまだまだ有線接続のかたも多い様子、というのも iPhone を買うとデフォルトで付属しますので)、そこは時代が変化しました。

 

とにかく、音楽を携帯できる、いつでもどこででも聴ける。このことが実現したのは革命的だったんです。片時たりとも音楽から離れたくない音楽キチガイにとっては、喉から手が出るほど渇望していたことでしたが、現実的には叶わぬ夢だったんです。その果たせぬ夢を、1979年発売開始のソニーのウォークマンが実現してくれたんです。ぼくらにとってウォークマンは神の道具のようでしたよ。

 

ジャズ喫茶や自宅リビングではレコードで聴きまくり、それをカセットテープにダビングし自室のラジカセで聴き、そのテープ数本をカバンに入れて外出し、大学やその他、いや、だいたい大学構内でかな、ウォークマンを使ってヘッドフォンで聴くという、そういった音楽生活を送っていたわけなんですね。特に大学内で数時間の空き時間や勉強時間ができるときは、そりゃもうウォークマンが欠かせませんでした。ほ〜んとウォークマン様さまでした。

 

そうやって大学四年間をウォークマンとともに過ごしたぼくも、進学のため上京したらしばらくして CD メディアの登場を目の当たりにすることとなり、そしてポータブル CD プレイヤーが発売されるようになりました。CD は LP と違ってメディアそのものが携帯しやすいので、(カセットなどに移さなくても)そのまま持ち運びながら聴けるということですよね。

 

個人的には、しかし CD も外出先で聴きたいときはカセットにダビングしてウォークマンをちょっとのあいだ使っていましたが、すぐにポータブル MD プレイヤーを使うようになりました。音質的には同じようなものだったでしょうが、テープと違って巻かない MD(ミュージック・ディスク)は扱いが簡便で、曲の頭出しなんかも容易でした。ぼくの周囲では MD をダビングや交換用のメディアとしていたひとが多かったんですけど、MDって日本でしか流行らなかったんでしょうか?音楽新作商品としても一時期 MD が音楽ショップにありましたけどねえ。

 

というのも、上でリンクしたピッチフォークの記事ではウォークマン → 携帯 CD プレイヤー → iPod → スマートフォンの順で記載されているからです。ぼくや周囲が iPodを使うようになったのは21世紀に入って数年経ってからで、そのためにパソコン用の iTunes アプリも出ましたね。同時期だったでしょうか、そもそも iTunes は iPod に音楽を入れるためのものとして Apple が開発したんだったように記憶しています。

 

iPod の登場は、1979年のウォークマンの登場と同じくらい革命的というか衝撃的で、CD の音楽をデジタル・ファイルにして、それを入れた携帯機器で聴くという生活は、いまに至るモバイル・ミュージック・ライフの礎を築いたものでしたよね。iPod の出現と普及が、いまのぼくたちのデジタル音楽携帯生活の土台を形成したんだと思います。iPod は、コンピューター・ハード&ソフト・メーカーだった Apple が、コンピューター製品じゃないものを作り売った最初でしたからねえ。

 

iPod はもはやほぼ廃れてしまったように見えていますけど、現在みんながやっている、スマートフォンで音楽を聴く生活スタイルは、その起源をず〜っとたどって考えてみますと、ピッチフォークの記事がそう位置付けたように、1979年にソニーからウォークマンが発売されたことに大元があるのは間違いないように思います。

 

つまり、2019年に至っても続くこのぼくらの音楽リスナー生活は、なにもかもすべて、1979年のウォークマンがつくってくれたのだと、ソニーのウォークマンこそが大革命だったのだと、そう言えるでしょう。個人的にはちょうどピッタリ同じ年に熱狂的音楽愛好者に転じたわけですから、ソフト&ハード両面で、なんだかとっても感慨深いというか、これはたんなる奇遇とは思えないシンクロナイズですよ。

 

ソニーのウォークマンは、このブランド名をそのままに、現在でも携帯型デジタル音楽プレイヤーとして活躍しているみたいです。

2019/07/25

ぼくにとってのティナリウェン『アマサクル』

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https://open.spotify.com/album/5FPDGVaIIfWVH79NJoslSe?si=kZqojpACR86TSn6VGTlXMA

 

最近ひさびさにじっくり聴きかえしたティナリウェンの『アマサクル』(2003)。このアルバムがこのバンドとの出会いだったんですけど、どうして知ったかというとその年(翌年?)の『ミュージック・マガジン』の年間ベストテン、ワールド部門で上位に来ていたからなんです(一位だっけ?)。誌面に写るジャケットも魅力的で、当時まだリアルな路面店でしか CD 買っていなかったので、どこかのお店でさがしてゲットしたわけなんです。それで帰って聴いてみて、一発でファンになりました。こんなにぼく向きの音楽があるのかと。

 

当時好きだったのがアルバム1曲目の「Amassakoul 'N' Ténéré」で、もうこの一曲だけでこのバンドのイメージが決まっていたとして過言ではないです。これ一曲がティナリウェンのすべてでした。それくらい大好きだったし、いまでもそうなんですけど、次のアルバム以後はこういったタイプの曲が少なくなっていると思うんですね。だからこそワン・アンド・オンリーで、ときどきこれを聴くためにだけ『アマサクル』を聴きかえしていたくらいです。

 

正直言って、『アマサクル』でその一曲しか聴いていなかったんじゃないかという気すらするんですね。ほかになんにも憶えていませんもん。それくらいトップのあの一曲は強烈っていうか印象に非常に強く焼きつく力を持ったものでした、ぼく的にはですね。実を言うと、いま2019年でもティナリウェンの代表的ワン・トラックをあげろと言われたら、瞬時にこれですね。も〜う、好きなんです。

 

でもいまじっくりアルバム全体を聴きかえしますと、いろんな曲が入っていますよねえ。ワン・アンド・オンリーと言ったように1曲目みたいなのはほかにありませんが、たとえば2曲目「Ouakahila Ar Tesniman」と5曲目「Chet Boghassa」はよく似ています。アップ・ビートが効いて激しくグルーヴするような感じが、同じですよね。こういった急速調の音楽が大好きですから、ティナリウェンのこういったものも好物です。

 

ぼくにとってティナリウェンとは、どこか醒めたクールな感じ、熱があるものの一歩引いて、表現する世界のなかにひたりきらないところ、冷静さも魅力なので、必ずしも激しさばかり感じているわけではありません。上で書いたようなアップ・テンポのトラックだって、いきり立っているというわけではなさそうですよね。

 

そういった、表現世界との適度な距離感とほどよいクールネスをちょうどよく感じるのが、『アマサクル』だとまあ1曲目んですけど、ほかにもたとえば3曲目の「Chatma」なんか、すんごくいいですよねえ。書いているように1曲目でぼくのなかでのティナリウェンが決まってしまっていましたが、そうでなかったらこの「Chatma」がこのアルバム『アマサクル』での白眉となったかもしれません。いや、実際みなさんにはそうなんでしょう。

 

曲「Chatma」みたいに、中庸テンポでジワジワじっくりと熱を入れていくというか、低温調理といいますか、あるいはあまり火を通しすぎないミディアム・レア加減といいましょうか、このジンワリさ加減はなかなか絶妙なものじゃないでしょうかね。サウンド構成は、ヴォーカル、ベース、パーカッション、二台のギターと、それだけ。

 

6曲目「Amidinin」のリズムはちょっとヨレていて、なんだかハリージ(ペルシャ湾岸ポップス)みたいだなと聴こえたり、8曲目「Aldhechen Manin」はレゲエで、まるでボブ・マーリーそっくりだと思ったりとか、笛が入る終盤9、11曲目での呪術的な感じの音楽展開も、いまとなっては実にティナリウェンらしいなと感じるというか、そのあたりふくめ諸々、最近ようやくわかるようになったことです。むかしは嫌いでしたからねえ、このへんの曲たちのことは。

2019/07/24

坂本冬美「君こそわが命」

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https://open.spotify.com/album/4N1LO6cSf23N1eiYRWcBOY?si=e95HvCh_SEKMS4TaJ8AQcw

 

スチャラカさんじゃないけれど、まさに「坂本冬美ばっかり聴いとります」状態のぼく。昨2018年12月リリースの最新アルバム『ENKA III 〜 偲歌』があまりにもすばらしいからですけど、なんどもなんどもくりかえし聴くうち、最後のほうにある二曲「望郷」「君こそわが命」がどんどん沁みてくるようになっています。いやあ、なんなんですかこの二曲は。すごいじゃないですか、冬美。

 

みなさんにはたぶん「望郷」こそいちばん沁みる一曲ということになるだろうと思います。たしかにすばらしい。ファドと演歌の合体で、しかも重たかったり暗かったりとはならず、ENKA シリーズのなかにある、らしい軽みというか、ソフト・タッチを失っていないですよねえ。冬美の声の出しかた、歌いまわしも「望郷」では実に見事で、この哀切感の極致みたいな歌詞内容をとてもていねいに表現しています。

 

がしかし、ぼく個人にとってはアルバム・ラストの「君こそわが命」こそがすばらしく沁みる最高、至高のものなんです。歌詞川内康範、曲猪俣公章、初演歌手水原弘というこのワン・ナンバー(1967)を、冬美は極めすぎずやわらかさを保って、やさしくやさしくデリケートにデリケートに綴っていますよね。なんたってこの歌詞ですよ。川内康範って、こんなにもすごい歌詞を書くひとだったんですねえ。いやあ、すごいとはわかっていましたが、ここまでとは。

 

しかも、この歌詞はぼくのことじゃないですか。ぼくのことを歌ってくれているじゃないですか。あんまりにも沁みすぎるので、ちょっとご紹介しておきます。『ENKA III 〜偲歌』の冬美は3コーラス全部を歌っています。YouTube でさがすといくつも出てくる、テレビの歌番組での水原弘は1、3番とツー・コーラスを歌っているものばかりですね。

 

あなたをほんとはさがしてた
汚れ汚れて傷ついて
死ぬまで逢えぬと思っていたが
けれどもようやく虹を見た
あなたの瞳に虹を見た
君こそ命、君こそ命、わが命

あなたをほんとはさがしてた
この世にいないと思ってた
信じる心をなくしていたが
けれどもあなたに愛を見て
生まれてはじめて気がついた
君こそ命、君こそ命、わが命

あなたをほんとはさがしてた
そのときすでに遅かった
どんなに、どんなに愛していても
あなたをきっと傷つける
だから離れて行くけれど
君こそ命、君こそ命、わが命

 

ピアノも弾いている坂本昌之のアレンジだって絶品ですが、なんといってもこの曲では冬美の声の出しかたですね、すごいのは。初演の水原弘は男性ですが、女性である冬美が歌っても違和感のない歌詞内容ですから、冬美は長い長い人生の終幕でようやく見つけた運命の相手を、大切に大切に、ていねいにていねいに、扱うように、そっとやさしくフェザー・タッチの手ざわりで、綴っています。しかも表情がきわめてデリケートで、しかも豊かです。

 

三番の「そのときすでに遅かった」の「遅かった」部分なんかでの声質変化なんか、絶妙のひとことじゃないでしょうか。冬美(や水原弘もそうですが)の歌う「すでに遅かった」は、絶望や諦観ではありません。遅かったけどやっと君を見つけたという喜びなんですからね。冬美の声にポジティヴなトーンがあるでしょう。

 

ですからこそ、近づかず「離れて行く」、距離をとっていくんだけど、君をこそ愛している、君こそがぼくの命なのですから、やっと見つけたこの愛をなくさないように、そのために離れていく、たぶん相手には、ぼくがあなたを見つけたということを気づきすらされていない、が、それでいい、伝わらなくていい、ぼくは君こそが命なんだから、遠く離れて、ずっと愛し続けていくという。

 

そんな歌ですよね。冬美のヴァージョンをなんども聴いて感極まってしまいまして、水原弘のヴァージョンは Spotify でさがすと1967年2月発売のオリジナル・シングルがありましたので、聴きました。YouTube で歌番組出演の際のものだって聴きあさりましたが、水原弘のどれにも、この冬美の歌以上の「君こそわが命」はありませんでした。初演(は実は他の歌手との競作ですけど)の水原弘でもここまでの深い表現はできていないと思うんですね。いちおう、彼の初演ヴァージョンをご紹介しておきます。
https://open.spotify.com/track/1sv35TVF69HUSAX5m2O3Ig?si=E0vpQ_TOSzCLOj5fsFr26w

 

ぼくも57歳にしてようやくこんな歌に出逢えました。これからも、つらいことがあったとき、しんどい思いをするときには、この坂本冬美の「君こそわが命」を聴いて生きていきたいと思います。それほどの、人生の支えになる歌ですよ、これは。

2019/07/23

マイルズ『イン・ア・サイレント・ウェイ』は先駆だったのか

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https://open.spotify.com/album/0Hs3BomCdwIWRhgT57x22T?si=O7vcOSNFTU6TveXIYyeTPw

 

日本時間の2019年6月30日(日曜)の23時過ぎに、ソニー・レガシー(コロンビア)がこういうツイートをしました。岩佐美咲を聴きに広島まで来ていたぼくは、それを広島駅近くのホテルの一室でお風呂上がりに読んだのです。
https://twitter.com/SonyLegacyRecs/status/1145334982052917250

 

いわく:

〜〜
『イン・ア・サイレント・ウェイ』は、いまから50年前にリリースされたときジャズを永遠に変えたと言ってさしつかえない。このレコードはマイルズ・デイヴィスのエレクトリック期のはじまりで、それすなわち現代ジャズ・フュージョンの先駆だったということだ。
〜〜

 

レガシーの言う50年前、すなわち1969年6月30日とは、マイルズの『イン・ア・サイレント・ウェイ』レコードがアメリカで発売されたまさにその当日なんですね。録音が2月のことでした。そんなわけで、アメリカ時間(といってもタイム・ゾーンが数個ありますけど)で6月30日になったのを機に、レガシーがこういったツイートをしたわけですね。

 

そんなレガシーの気持ちはよくわかります。がしかし、このレコードがレガシーの言うような意味合いでのはじまり、先駆的音楽だったのでしょうか。そのへんはちょっと考えてみないと軽々しくは言えません。いや、次作の『ビッチズ・ブルー』のほうが…云々といった伝統的言説をくりかえしたいのではありません。むしろ逆です。『イン・ア・サイレント・ウェイ』より前のマイルズ・ミュージックのなかに、マイルズ電化時代の端緒とかジャズ・フュージョンの先駆みたいなものがあったのではないでしょうか。

 

マイルズのエレクトリック期のはじまりは、言うまでもなく『イン・ア・サイレント・ウェイ』の一年ほど前です。リアルタイム発売されていたものに限定しても、『マイルズ・イン・ザ・スカイ』(1968年7月22日発売)の「スタッフ」(同年5月録音)があります。フェンダー・ローズ・ピアノとフェンダー・ベースが使われていて、電化マイルズではこれがいちばん早い一例ということになるんで、これこそがはじまりです。

 

もちろんそれは言いましたようにリアルタイムで発売されていたもののなかでは、ということですが、今日の話ではそう限定していいと思います。なぜなら当時世界が聴けなかったものは当時の世界に影響を与えていないからです。ですので、初電化&フュージョン・マイルズは1968年の「スタッフ」だと言ってさしつかえないはずなんです。いみじくもかの有名フュージョン・バンド名と同じなのは、関係ないことなんでしょうか。

 

アルバム『マイルズ・イン・ザ・スカイ』では、ほぼ「スタッフ」一曲だけだったんですけど、次作1969年2月5日発売の『キリマンジャロの娘』ではエレクトリック化+リズム&サウンドのファンキー化、多ジャンルとの融合(フュージョン)化がいっそう進み、アルバムのほぼ全編がその新路線で占められていると言えます。アルバム・オープナーの「フルロン・ブラン」はジェイムズ・ブラウンのファンク・アンセム「コールド・スウェット」のマイルズ流焼き直しですし、以前からアルバム『キリマンジャロの娘』を高く評価し重要性を強調しているぼくですが、ここでいま一度それをくりかえしておきたいと思うんです。

 

カリブ〜ラテン〜アフリカへの視線という面で聴いても、『イン・ア・サイレント・ウェイ』よりもむしろ前作『キリマンジャロの娘』のほうがより進んでいます。前者1969年6月30日発売のアルバムを特徴づけ、それまでのマイルズ・ミュージックとは一線を画すものとしているのは、なんといってもジョー・ザヴィヌルの参加ですね。演奏面でもそうですがそれよりも、キーとなる曲を提供しているというソングライターとしての参加が大きなことです。

 

すなわち曲「イン・ア・サイレント・ウェイ」。だから、これをふくむこのアルバムが、レガシーのツイートしたような先駆的役割をはたしたとするならば、この一点にかかわっているはずです。偉大なコンポーザーとしてのジョー・ザヴィヌルの参加と、静謐なユートピア志向のアンビエンス路線の音楽構築。つまり、ウェザー・リポートやリターン・トゥ・フォーエヴァーなどへの先鞭をつけたと。

 

しかしそれでも強調しておきますが、マイルズのアルバムでは曲「イン・ア・サイレント・ウェイ」が、動の「イッツ・アバウト・ザット・タイム」をはさみこんでいます。その中間部は完全なるファンク・グルーヴを持っていて、メロディでもサウンドでもリズムでもない、まさにグルーヴ一発勝負のグルーヴ・オリエンティッドな音楽になっていることを聴き逃してはならないのです。

 

結局のところ、マイルズが先駆的な役割をはたしたかもしれない1970年代ジャズ(・フュージョン)は、その後の足どりもたどりながら考えてみますと、やはり躍動感を重視する方向に進んだと思うんですね。ロックやファンク・ミュージックが端的に持っていたようなグルーヴ感をジャズも持つようになった、それも(ジャズ・)フュージョンという音楽の最大の特色のひとつです。

 

そういったものの先駆がマイルズのアルバム『イン・ア・サイレント・ウェイ』だったとするならば、上で書きましたが、そういったグルーヴ志向はもっと前からマイルズのなかにもあったと。「スタッフ」や「フルロン・ブラン」があったじゃないかと。そう考えてみますと、たしかにアルバム『イン・ア・サイレント・ウェイ』はパーフェクトな完成品として見事な構築美を放っていますけれども、そのさらに先駆がマイルズ自身のなかにもすこし前からあったなと、こう思うんですね。

 

以下のプレイリストも参考にしてみてください。
https://open.spotify.com/playlist/6lqRYW2bedj7VPWHw8hb2Y?si=ZXEeWx3sTveocH4aft5vFQ

2019/07/22

モニターを聴く、わさみんやマイルズや

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わさみん(岩佐美咲ちゃん)の歌唱イヴェントに行くと、握手しておしゃべりできる特典会で、その日のモニター・スピーカーの話をよくします。歌手でも楽器奏者でも、ライヴのときの音楽家はモニターがないと伴奏が聴こえない、ってことはないけれど聴こえにくいので、やりにくいはずですよね。大晦日の NHK『紅白歌合戦』なんかをじっくり観ていても、最近は無線型イヤフォン・モニターも増えてきているんだなとわかりますが、やっぱりまだまだケーブル付きスピーカーがほとんどでしょうし。CD 収録などスタジオではヘッドフォン着用が一般的だと思います。

 

音楽にとても興味があるとか、歌手、演奏家、その関係者であるとか、そういったことじゃないと、ライヴ・ステージ上にあるモニターの存在になかなか目を向けることがないかもですが、いままでお気づきでなかったみなさんも、次回の現場で注目してみてください。上の写真は2018年2月の恵比寿での岩佐美咲ソロ・コンサートで撮った一枚です。わさみんの前に大きな黒いスピーカー様のものが見えるでしょう、それが跳ね返りモニターです。ステージにいる歌手や演奏家は、それで伴奏を聴いて歌ったり演奏するんです。

 

わさみん現場ではモニターが必ずしも跳ね返り型でないこともあり、こないだ6/30広島祇園の現場では、左右にある観客向けスピーカーの隣にもうワン・セット、ステージ内側を向いたスピーカーがあって、それがわさみん用のモニターでした。その日も特典会でモニターの話をしましたが、その日もそれ以前もわさみん本人いわく、まったくモニターがないこともあるそうで、そんなときはメチャメチャ歌いにくいはずと素人なりに思います。

 

二月の浅草ヨーロー堂さんだったか小岩音曲堂さんでは、いちおうステージ前方に跳ね返り型モニターがあったものの、通常の左右二個セットではなく一個だけ、しかもなんだかはしっこのほうに置かれていたんですね。わさみんはちょっとだけオケを聴きにくかったかもしれないですけど、あの二日間とも歌は完璧でしたので、もはや問題にしない域にまで達しているのかもしれません。

 

まったくどこにも、どんなものでも、モニターがないばあい、6/30のわさみんいわく、お客さん向けに音を出しているそのスピーカーから流れる同じ音を自分も聴きながら、あわせて歌うんだとのこと。わさみんはステージ上にいて、観客用のスピーカーはもちろん客席のほうを向いていますから、歌手本人はオケを聴きとりづらいんじゃないかと想像しますが、わさみんも聴きにくいと言っていましたねえ。モニターがなにもないときは、やはりちょっと困ると。

 

しかし考えてみたら、わさみんのコンサートでは客席をまわりながら(握手したり写メにおさまったりしながら)歌うコーナーがあることも多いですよね。客席にはもちろんモニターなんかありません。無線型イヤフォン・モニターも装着していません。ってことは、ああいったラウンド・コーナーでのわさみんは、ぼくたち観客が聴いているのと同じ音を聴きながら歌っているということです。客席をまわっている時間ですから、モニターがないばあいのステージ上とは違って、歌手もそんなに音が聴こえづらいってことはないのかもしれないですね。今度チャンスがあったら本人に話を聞いてみましょう。すくなくともラウンド・コーナーでのわさみんの歌も見事です。

 

ともあれ、ステージ上で歌ったり演奏するばあいはモニターがないとやりにくいものなんです。伴奏がちゃんとしたバランスで聴けなかったら演唱できないですから。

 

この件でぼくがよく思い出すのは1981年復帰後のマイルズ・デイヴィスのことです。くわしいことは省略しますが諸事情あって、復帰に際しマイルズは、トランペットのベルの前にマイクを取り付け音を拾い、それをトランペット本体に付けた小さな装置から電波で飛ばすということになりました。とにかくステージ上を自由に歩きまわりながら吹けるようにしたかったのです。

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あの当時、ぼくは意識していなかったんですけど、ステージ上手から下手までくまなく歩きながら吹いていたマイルズは、いったいどうやってバンドの音を聴いていたのでしょう?バンド連中が音を聴くためのモニターはそれぞれの前にありました。でもボスは自由に歩きまわりながらトランペットを吹くわけですので(だいたい袖から吹きながら登場しますから、ある時期以後は)、マイルズ用の据え置き型モニターなぞ無意味です。本人の弾く鍵盤の前か横にはあったかと思いますがね。

 

たぶんですけど、ステージの左右脇に設置されていた観客用の PA スピーカーから出る音を、マイルズはステージ上でキャッチしていたはずだと思うんです。ステージで演奏される生音を聴いて、なわけありません。ギターやベースはエレクトリックですから。それらの音は、しかしステージ上にあるギター・アンプやベース・アンプが出す音をボスも聴いて、それであわせていたという可能性もありますよね。う〜ん、どうだったんでしょうか。

 

このあたり、マイルズのインタヴューはかなり読んだと自負しているぼくですけど、だれも触れたことがないんです。すくなくとも読んだことがありません。ぼくの興味の持ちかたが異常なんでしょうか?いや、ぼくもマイルズの存命中はほとんど意識したことのないテーマでした。ホント、どうだったんでしょう?1981年復帰後のマイルズはライヴでステージ上を歩きまわりながらどうやってバンドの出す音を聴いていたのでしょう?

 

関連で思い出すのは、1983年のマイルズ・バンド大阪公演。この年はギル・エヴァンズ・オーケストラとのジョイント・コンサートでしたが、二部のギルのバンドにはギターのハイラム・ブロックがいました。大阪はハイラム生誕の地。中之島フェスティバル・ホールの客もそれをよく承知していました。気分が上がったのか、ハイラムはぐるぐると観客席を歩きまわりながら(客をいじりつつ)長尺のソロを弾きまくったんですね。あのときのハイラムもやはり観客用の PA スピーカーの音を聴いていたのでしょうか。それしか考えられないですねえ。

 

音楽ライヴは人類史と同じ歴史があるわけですけど、電気技術などたかだか近年の発明なわけで、ですから長らく人類はモニターだとかスピーカーだとか、イヤフォンやヘッドフォンなども、そんなものがないまま何千年もライヴ・コンサートをやってきたわけですよ。その姿は、いまでも伝統的クラシック音楽(妙な言いかたですが)のコンサートで垣間見ることができます。モーツァルトとかベートーヴェンとかの演奏会では、演奏者も聴衆も、いまでも生音だけを扱っているんですよ、大きなコンサートでも。

 

クラシックじゃない音楽でも電気発明前の長いあいだ、人類は仲間の演奏するアクースティック・サウンドだけをじかに耳にしながら歌ったり演奏したりしてきたわけです。19世紀の大規模一般市民階級の台頭までは音楽ライヴの規模も小さかったので、小規模な生音演唱だけでじゅうぶんでした。ステージ(というかなんというか)の歌手や演奏家たちも、互いの音を互いに聴きながら、つまりモニタリングしながら、自分の歌や演奏をあわせて(あわせなかったり)乗せていくのは、そんなにむずかしいことではなかったのかもしれないですね。

 

話をわさみんというか演歌歌手に戻しますと、ベテランの超実力派ともなりますと、ライヴ・ステージ上にいてオーケストラを背後に置き、それが演奏しつつ、跳ね返りのモニター・スピーカーもなしで、完璧な歌を聴かせるひともいるみたいです。八代亜紀さんがそうらしいですよ。そんなにまでなれば、もはやなにがなんやら、凡人には理解できないですよねえ。

2019/07/21

パット・マシーニーの挑戦作『イマジナリー・デイ』

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https://open.spotify.com/album/0h3GpqEpPx8d0kd0ZfRRCf?si=_2LH6W_bQ-6yfTuqEyn4_Q

 

パット・マシーニー・グループ1997年の意欲作『イマジナリー・デイ』(ワーナー)。といっても CD ジャケットもブックレットをふくむパッケージングのどこも、ぜんぶこの象形文字しか記されておりませんので、だから現物では確認がむずかしいですのでネットで、あるいは Spotify で、それもネットか、ともかくそんなことでアルバム題や曲題など確認しております。いちおうブックレットの内側に一曲ごとにメンバーがなんの楽器を担当しているかはアルファベットで記載があって、なんとか助かりました。

 

で、『イマジナリー・デイ』。意欲作というか大作というか、まずオープニングの1曲目「イマジナリー・デイ」が流れてきただけでオオォ〜ってなりますよね。それまでパットの音楽とはかすりもしなかったイラン(ペルシャ)音楽なんですもんね。パットはどうして突然イラン音楽に接近したのでしょうか。そのへんわかりませんが、アメリカのジャズ・ミュージック方面からイラン音楽との合体を試みた作品もなかなかないなと思います。

 

曲「イマジナリー・デイ」こそがこのアルバムの目玉だとしていいはずです。この約10分間の壮大な音絵巻は何部かに分かれています。パットの使用楽器もそのたびに替わり、最初フレットレスなクラシカル・ギターですが、その後ギター・シンセサイザーに持ち替えたりなどしています。また、この曲にはおなじみのヒューマン・ヴォイスが入りません。これもグループ名義の主要曲としては珍しいことです。

 

ヒューマン・ヴォイスといえば、続く2曲目「フォロー・ミー」では活用されていますね。アルバム『イマジナリー・デイ』ではこの曲とあとちょっとだけなんです。「フォロー・ミー」はパット・マシーニー・グループの従来路線っぽいワン・ナンバーで、おなじみの曲想とサウンドですが、アルバムで少ないっていうことは、なにかの終焉を感じないでもないですね。パットの弾くテーマがハーモニクス音で構成されているのが、なんとも切なさ満点です。

 

その次の3曲目「イントゥ・ザ・ドリーム」もワールド・ミュージック路線。やはりイラン音楽にインスパイアされたものみたいですね。これはパットのギター独奏で、42弦のピカソ・ギターを活用しています。これはたぶんオーヴァー・ダブなしの一発演奏じゃないでしょうか。めくるめくような響きがして、しかも静謐で美しいですよねえ。いやあ、すばらしい。

 

一曲飛ばして5曲目の「ザ・ヒート・オヴ・ザ・デイ」。これはまずちょっとフラメンコっぽい感じがします。イラン(ペルシャ)音楽とはちょっと違うと思うんですけど、どうしてここでフラメンコが出てくるのでしょう。ハンド・クラップの使いかたももろフラメンコ調で、リズムのぐるぐるまわる感じとか、完璧にアンダルシアの音楽です。これも複数部構成になっていて、途中でやや静かなパートもあります。ギター・シンセサイザーのパート以後は、グッと来る高まりと感動がありますね。胸に迫るというか、そこではヒューマン・ヴォイスが効果的に使われています。

 

6曲目以後には、ここまでのようなおもしろさが薄いように思います。でもいわゆるジャズ・フュージョンとか、はたまたギター・ロックだとか、そういった方面から聴けばなかなか完成度の高い良質な音楽ですね。アルバム『イマジナリー・デイ』全体では意欲的な挑戦作といった趣ですからイマイチですけど。でもラストの「ジ・アウェイクニング」とか、相当いい内容に違いありません。アルバム全体がこうですから、ファンが離れたかもしれない一枚かもですね。

2019/07/20

ぼくにとってのサリフ『ソロ』

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https://open.spotify.com/album/62DPGNE8CtgV8OKT8BUzZG?si=kWrBgX1VS620pMdgHDrpgg

 

サリフ・ケイタについても代表作『ソロ』(1987)についてもたくさんのことばが重ねられていますので、ぼくはぼくで自分の好きな部分についてだけ個人的なメモを記しておいたのでいいでしょう。まずは2曲目「ソロ(アフリキ)」。これ、も〜う本当に大好きな曲なんですね。たぶんアルバム『ソロ』のなかでのぼく的 No.1がこれですよ。

 

曲「ソロ(アフリキ)」は三部構成。出だしのパート1も好きです。このミディアム・スローなグルーヴがなんともいえず心地いいです。女声コーラスはいかにも西アフリカ的といえるもので、だいたいがマス・クワイア好き人間であるぼくには、最初からなじめた部分です。サリフのヴォーカルについてはぼくが書くことなどないはずです。バックでキーボードが細かく刻んでいるのが印象に残りますね。

 

もっと好きなのが、3:15 〜 3:18 のブレイク以後のパート2です。ホーンズがいきなり咆哮し、リズムが強くビートを打ちはじめます。そこからがマジで大好きなんですね。この強いビート感、グルーヴにぞっこん参っているわけなんです。終盤でもう一回曲想がチェンジして落ち着いた感じになりますので、その前までのこのパート2が、ぼくの大好物です。女声コーラスもサリフもいいですが、ぼくが好きなのは(キーボードをふくむ)リズム・セクションです。

 

リズム隊といえば、いまブックレットを見返していてはじめて気がついたんですけど、このアルバム『ソロ』でもエレベはミシェル・アリボーなんですね。ぜんぜん知りませんでした。当時見ていたはずですけど、だれだかピンと来るはずもなくそのままになっていたんでしょう。サリフの作品では後年の『ムベンバ』でもミシェルでしたし、関係が深いのかもしれないですね。

 

一曲飛ばして4曲目の「シナ(スンブヤ)」。この曲のリズムは、2曲目「ソロ(アフリキ)」のパート2のそれによく似ています。ほぼ同じといってさしつかえないでしょう。こういったビート・タイプは当時のサリフやマリ音楽、あるいは西アフリカのなかによくあったものなのでしょうか。もうホント快感で、聴いていて気持ちが昂まるのに落ち着いてリラックスするっていう、なんだかそんな不思議なフィーリングです。

 

そんなこのリズムは西アフリカ、マリといった部分だけでなく、かなりヨーロッパ的、西欧大衆音楽的であるとも言える気がするんですね。すくなくとも楽器編成やアンサンブル手法や、できあがりのサウンドを聴いての印象など、米欧ポップ・ミュージックのそれだと言えます。アレンジャーがヨーロッパ人なんですけど、しかし欧州的とも断定できないし100%アフリカ的でもないっていう、その中間的というか半々のせめぎあいのなかでできあがったものかもしれません。

 

また一曲飛ばしてアルバム・ラストの6「サンニ・ケニバ」。これはスローでゆったりしたグルーヴ・タイプを持つ曲ですけど、このリズムやサウンドも大の好みなんですね。サリフのヴォーカルも落ち着いた感じで、鋭く突き刺し威嚇するといった部分は小さいですけど、それでも彼ならではの威厳をまとった近づきがたさを聴かせていますよね。

 

こういった威厳、高貴な近づきがたさ、サリフだけでなく、たとえばアメリカのアリーサ・フランクリンなどにも感じるものなんですけど、だからこそかえっていっそう親近感が増すと言いますか、妙なことかもしれませんが、ぼくのなかでは尊敬が親愛に重なっていく部分が間違いなくあるんです。

2019/07/19

『マイルズ・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン』は名盤だ(何回目)

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https://open.spotify.com/album/6QV1iyREyud3AGQZxf8Yt7?si=VQ2wZ4cfR1S14j4VCuXYDg

 

いままでもくりかえし言っているんですけど、いっさい無視されたままですし、日本でもアメリカでも世界でもそうなんで、だからこれからもくりかえし言わなくちゃいけません、認知されるその日まで。マイルズ・デイヴィスのプレスティジ盤『マイルズ・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン(クインテット/セクステット)』は、隠れた名盤ですよ。隠れも隠れ、いままでどなたも一度も言ったことがありませんし、ジャズ・ファンの話題にのぼったことすらないですからね。でも内容は極上なんです。

 

極上なのに名盤と言われたことがないのは、たぶんジャズ史的な意味合いが1ミリもないからでしょうねえ。たしかに歴史を変えたとかなんとか、そんな音楽ではぜんぜんありません。そんな世界とはかすりもしません。ですけどねえ、あなた、そんなことばかりに価値を置いて音楽(いや、ジャズのばあいだけ?)の良し悪しを判断するなんて、なんたる貧乏な考えかたでしょうか。くつろげるリラクシングな上質ジャズだって、その上質さに折り紙がつけば、名盤と呼んでいいはずですよ。

 

『マイルズ・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン』のメンバーは、いわゆるオール・スター編成で、弱小インディペンデントのプレスティジとしてはかなり張り切った企画だったんじゃないかと思います。録音日の1955年8月5日というと、マイルズはすでにファースト・レギュラー・クインテットを結成していて(この日付だとサックスがソニー・ロリンズ)ライヴ活動もやっていたんですが、そのワーキング・バンドを起用せずにオール・スター編成にしたというわけですね。

 

最大のスターはなんといってもやはりミルト・ジャクスン(ヴァイブラフォン)でしょう。アルト・サックスのジャッキー・マクリーンも1955年なら若手実力派として人気が出ていたころです。マイルズはミルト、ジャッキーともに、もっと前から自分のレコーディング・セッションで起用していますよね。その成果もグッドなので引き続きということだったのでしょう。

 

リズム・セクションも特筆すべき編成です。レイ・ブライアント(ピアノ)、パーシー・ヒース(ベース)、アート・テイラー(ドラムス)。アートはこのころプレスティジ・レーベルのハウス・ドラマーのような位置にいました。パーシーはミルト同様 MJQ から(プレスティジのセッションでは多いケース)。しかしピアノのレイこそ、このセッションのキー・マンなんですね。

 

ブルーズに土台を置くしっかりとした素養を持ちながら、ドライヴするビ・バッパーであり、かつ(やや女性的に)繊細に、デリケートに、リリカルに演奏できるレイ・ブライアントは、ちょうどこの当時マイルズが進もうとしていた音楽の方向性とピッタリ一致する資質のピアニストです。実際、このアルバム『マイルズ・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン』でも、決してソロ時間は長くありませんし目立ちませんが、各人の背後での堅実なサポートぶりには目を(耳を?)見張り(聴張り?)ます。ソロもいいです。

 

そんなような資質のモダン・ジャズ・ピアニストといいますと、トミー・フラナガンもいますよね。トミーもマイルズといっしょにやればちょうどいい旨味に仕上がるというのは、やはりプレスティジ盤である『コレクターズ・アイテムズ』B 面で証明されていること。それなのにトミー・フラナガンといいレイ・ブライアントといい、どっちもマイルズのレコーディングには一日しか呼ばれなかったのが不思議なような気もしますが、すでにレッド・ガーランドがレギュラーの座におさまっていたからでありましょう。

 

さて、『マイルズ・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクスン』。「クインテット/セクステット」のことばがアルバム題の一部になることもあるのは、計四曲のうち、アルトのジャッキー・マクリーンが二曲にしか参加していないため、六人編成と五人編成の曲がふたつづつでアルバムが構成されているからです。1955年8月5日にはその四曲しか録音されていませんが、A-1、B-1の二曲がセッションの前半部で、ジャッキーが参加したもの。ここでなんらかの理由があって帰ってしまったみたいですよ。だからほかの二曲を残された五人で仕上げたわけです。

 

アルバム最大の聴きものは二曲あるブルーズ・ナンバーです。A-1「ドクター・ジャックル」(ジャッキー・マクリーン作)、B-2「チェインジズ」(レイ・ブライアント作)。特に「ドクター・ジャックル」が絶品ですよね。かなり見事なジャズ・ブルーズ演奏だと言えます。聴き手をトリコにするマジックがここには働いていますよね。

 

「ドクター・ジャックル」のテーマ・メロディの動きを聴きますと、書き手のジャッキー・マクリーンが完全なるチャーリー・パーカー派、ビ・バッパーであると、いまさらながらによくわかります。録音された1955年8月というとバード本人はもはや死んでいましたが、バード直系の弟子格ジャッキーがこうしてその息を継いでいたと言えましょう。しかもブルーズですからね、これは。バードに結合しつつブルーズをやるっていう、つまりセッション・リーダーのマイルズの指向性とも一致する一曲です。

 

しかも「ドクター・ジャックル」で一番手のソロを取るのは、テーマを二管で演奏する二人のどちらでもなく、ヴァイブのミルト・ジャクスンです。ミルトはブルーズが大得意なジャズ・マンでありますし、1955年8月当時、このメンツのなかでは最も成熟していた旨味を持つ演奏家でした。ですから、まずミルトに一番手で弾かせ、その後各人のソロまわしが終わってテーマ合奏に戻る前にももう一回、4コーラスのソロを割り当てているわけですね。

 

しかも「ドクター・ジャックル」におけるそのミルト・ジャクスンのソロがすばらしいのなんのって、こりゃあ超絶品じゃあないでしょうか。こんなに旨味なジャズ・ブルーズ・ソロって、なっかなかありませんよ〜。しかもミルトは、この曲でソロを取るほかのだれよりも強烈にアフター・ビートを効かせています。4/4拍子で四つカウントするなかの2と4に強い強勢を置いていますよね。

 

そのおかげでジャンピーな、というかミルトのソロ部では跳ねる感覚が出ていると思うんです。レイ・ブライアントのピアノ・ソロ部でもそうですが、こういったブルーズ・ダンサーが(ジャズにあっても)いちばん好きなぼくなんか、ホッント〜ッにたまらない快感なんです。おかげでジャズ・ブルーズでもよくある8ビート・シャッフルの感覚に近づいていますしね。その点では、アート・テイラーのドラミングにも着目してほしいです。

 

アルバム・ラストの「チェインジズ」にもすこし触れておかなくちゃ。作者のレイ・ブライアント自身は「ブルーズ・チェインジズ」というどストレートな曲題で再演することも多かった一曲ですが、ちょっと奇妙に1コーラス AAB 形式12小節ブルーズの途中5小節目からはじまりますので、やや面食らいますよね。そのせいか、ストレートなブルーズくささのないナンバーです。

 

ブルージーさ、ファンキーさがないということでいえば、ミルト・ジャクスンが弾きはじめる本編開幕前に、作者自身による非常にリリカルなピアノ・プレリュードが付いていることもそれに拍車をかけています。その部分だけを聴けば、あっ、バラード演奏がはじまるんだなと、そう思いますよね。これに関連してもう一個、アルバム中この曲でだけ、ボスはトランペットにハーマン・ミュートを付けて吹いています。リリカル・マイルズの代名詞的道具ですからねえ。

 

作者本人のピアノ・ソロが三番手で出ますけど、レイ・ブライアントって、ブルーズをやるときはかなりくっさ〜いファンキーさを発揮するというのが一般的なイメージでしょう。でもそれはもっと時代が下っての、たとえばかの1972年『アローン・アット・モントルー』とかで確立されたものです。1950年代の録音を聴くと、リーダー作品なんかでも(たとえばプレスティジ盤1957年『レイ・ブライアント・トリオ』)当時のマイルズに近い、女性的でやわらかいリリカルさが前面に出ています。

2019/07/18

原田知世 / マイ・ベスト(二回目だけど)

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https://open.spotify.com/playlist/2iv3ZMahUZH4VSwKtbjDyj?si=bsWVAW2VQ3aC6up61_e1Xw

 

2019年1月28日、渋谷はNHKホールで体験した原田知世ちゃんのコンサート。昨年末にリリースされた最新作『L'Heure Bleue (ルール・ブルー)』発売記念のものでしたので、そこからのレパートリーが中心でした。ステージ上にいたした伊藤ゴローさんがお話しされていましたが、 久々のオリジナル・アルバムですが、どうもみなさんカヴァー・ソングのほうがお好きなようでと苦笑なさっていたのです。でも、ゴメンニャサイぼくもやっぱりそんなひとりで、知世ちゃん+ゴローさんのコンビで往年の歌謡曲や知世ちゃん自身の過去曲など、(セルフ・)カヴァーしたものが大好きなんですね。

 

これは理由のひとつとして知世ちゃんに出会ったタイミングというのもあるんです。ぼくが縁あって知世ちゃんをしっかり聴くようになったのは2017年のこと。ちょうど二枚のカヴァー・ソング集『恋愛小説』の1と2が直前にあって、セルフ・カヴァー集の『音楽と私』とベスト盤の『私の音楽』がその年にリリースされました。そんなときにぼくは知世ちゃんに出会ったんですね。

 

だから、そういった世界から知世ちゃんになじんでいったのは間違いないわけでして。ですから、以前自分でつくっていまでもずっとふだん楽しんでいる知世ちゃんのマイ・ベストも、ほぼそんな選曲になっていますよね。でも鈴木慶一さんプロデュース作品からも特にカッコイイと思うものを数曲入れました。ロックっぽいというか元気のいいエスノ・ポップみたいな良曲がいくつもありますから。沖縄音階を使いつつダブふうのサウンド・メイクを施してある「さよならを言いに」なんか、絶品ですよ。ムーンライダーズっぽいロック・ナンバー「月が横切る十三夜」もいいノリよくカッコイイです。

 

伊藤ゴローさんプロデュースのもののなかにも、たとえば「September」みたいなグルーヴ・チューンがあるのですが、全体的にはしっとり落ち着いた大人の静かな世界を表現しているかなと思います。好きかどうかはひとによって意見が分かれそうな気もしますよね。ジャズやある種のブラジル音楽などに親しみを持つかたがたならば、わりとすっと入っていけそうに思うのですが。

 

その際、たぶんハードルとなるのは知世ちゃんのヴォーカル資質ですよね。声量も小さいし張らないし(これはNHKホールで痛感しました)ふわっとしていて、悪く言えば「ガッツがない」。演歌歌手などにあるような強い声を張って伸ばしたりなどはまったくやりませんできません。芯の細い声質ですからね。そういった、いわば in a silent way なサウンド志向もぼくなんかはあんがい好きなんですね。どういった音楽構築を目指すかの方向性が一致すればこの上なくハマるのが知世ちゃんの声です。

 

伊藤ゴローさんと知世ちゃんとのコンビでこれだけ成功しているのは、やはりそういったことが吉と出たということじゃないでしょうか。結果としてとても魅力的なサウンドとヴォーカルに聴こえますからね。まず最初はゴローさんが知世ちゃんをチョイスしたらしいんですが、自己の音楽にどんな声がいちばんピッタリ来るかを見抜いたゴローさんはさすがです。

 

そんなゴローさん&知世ちゃんコンビでやった音楽のうち、マイ・ベストの選曲の歌謡曲カヴァーのなかでは、たとえば松田聖子さんの「SWEET MEMORIES」なんか、最高じゃないでしょうか。ハープとコントラバスとソプラノ・サックスだけというゴローさんのアレンジがなんといっても切なくて見事ですが、その上に乗る知世ちゃんの声と歌いかたがぼくは大好きなんですよ。曲よしアレンジよし歌よしで、この切哀感満点な失恋ソングの最高のヴァージョンになったと思います。

 

知世ちゃん自身の過去曲のセルフ・カヴァーでは、なんといっても「時をかける少女」(2017年版)と「天国にいちばん近い島」がすばらしすぎます。前者は完璧なボサ・ノーヴァ・スタイル。失いそうで壊れそうな愛をガラスのように大切に扱うデリケートがよく表現されています。後者は坪口昌恭さんの弾くピアノ伴奏がおそろしいまでに美しくて、それで泣きそうになっちゃいます。ややハスキーに、愛する対象を美として称える知世ちゃんの声にかかるちょうどいいエコー成分が、ぼくたちのため息なんですね。

2019/07/17

1930年代のニュー・ヨーク・ルンバ(2)〜 アフロ・キューバン

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http://elsurrecords.com/2017/11/25/v-a-invitacion-la-rumba-en-nueva-york/

 

『ルンバの神話(改訂版、ニューヨーク篇)』CD2は、アントバルズとザビア・クガート楽団の音源を収録してあります。この二者でだいたいぜんぶですから、簡単にメモしておきましょう。Orquesta Antobal’s Cubans は、アントバル〜サンシャイン夫妻が、活躍した弟アスピアスの突然の引退で、新たなバンドを創立したものです。ザビア・クガート楽団は説明不要ですね。

 

このアルバム収録のアントバルズのばあい、わりとスムースなサウンドをしているなという印象があります。それでもディスク1の音源の大半よりは快活で激しいルンバなのでしょうか。カーニヴァル用の、いわゆるコンガ(音楽ジャンル名としての)も数曲あります。なぜだかぼくはコンガ好きなもんで、そういったものは本当に楽しいですね。

 

コンガじゃなくてルンバかもしれませんがディスク2の3曲目「マリアンナ」とか、いいですねえ。そのものずばりな曲題の7曲目「ラ・コンガ」も大好物です。そのほか、10「パンチョにはみんな同じ」、11「キューバの思い出」、12「ノ・セ・プエデ」あたりが個人的好物ですね。やっぱりルンバかなとは思うんですが、やや激しめのダンス・ビートが効いています。同じダンス・ミュージックでもゆったりゆるいものより断然好きです。

 

ところでアントバルズのリズムはしばしばティンバレスが表現していますよね。1930年代にここまでティンバレスを大胆活用したラテン・バンドは、アントバルズだけだったのでしょうか。もっと時代が下ってのマンボや、もっといえばサルサ・ミュージック感覚の先取りと言えるかもしれません。アントバルズでもパッとブレイクが入ってその空間にティンバレスが飛び込んだりもしますしね。

 

CD2の15曲目以後はほぼすべてザビア・クガート楽団の音源ですが、このバンドは(アスピアス楽団〜)アントバルズに象徴されるニュー・ヨーク・ラテンの粋をそのまま受け継いで、アントバルズ崩壊後のラテン音楽界を背負って立ったのだと言えましょう。ザビア・クガート楽団は知名度も高いので、多言は無用です。このアルバム収録曲は、すべてマチートかミゲリート・バルデスがヴォーカルを担当したものですね。

 

特にマチートの参加は、1930年代終盤になってザビア・クガート楽団の音楽が急充実してくる最大要因だったかもしれません。16曲目「黒人の祈り」などを聴いてもそれがわかります。17曲目は「自動車コンガ」。コンガですから大のぼく好みです。いやあ、楽しいったら楽しいな。しかもクガート楽団のコンガはポップでカラフルです。とにかく楽しい。

 

18曲目「カリエンティート」は、ザビア・クガート楽団でマチートが最も実力を発揮したナンバーかもしれません。この曲はソンなんですが、さすがはキューバでソンのバンドを渡り歩いたマチートだけあるという安定した歌いっぷりで、バンドの伴奏も躍動的でイキイキしていて、いいですねえ。また、上でも言いましたが、クガート楽団の音楽は親しみやすいポップな魅力がありますよね。そんなところも好感度大です。

 

歌手ミゲリートがザビア・クガート楽団と共演したものは、このアルバムで全五曲。もっともっと聴きたかったと思わせる充実度で、こちらも文句なしです。ミゲリートのヴォーカルはマチートよりも技巧的、でありながらよりなめらかですね。楽団の演奏もそれにあわせるがごとくの流麗さで、いやあ、聴きごたえありますね。

 

ところで、ここに収録されているザビア・クガート楽団&ミゲリートの曲は、多くをアルセニオ・ロドリゲスが書いているんですね。ここはかなり興味深いところなので強調しておきたいです。アルセニオがまだ自身のコンフントを率いるようになる前ですけど、いわゆる<アフロ>・キューバン・ソングの創出に本物の黒人キューバ人のアルセニオがかかわったという事実は、アフロの意味を逆転させるものかもしれないですからね。

 

まああんまりそんな深いことを考えなくたって、アルセニオ+クガート楽団+ミゲリートの三者合体によるアフロ・キューバン・ソングの数々は、文句なしに楽しいですけどね。このアルバムだと22曲目「ルンバに惚れた」、24「泣けよ、ティンバレス」、25「アディオス、アフリカ」がそうですよ。

2019/07/16

1930年代のニュー・ヨーク・ルンバ(1)

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http://elsurrecords.com/2017/11/25/v-a-invitacion-la-rumba-en-nueva-york/

 

以前1930年代ルンバのパリ編のことを書きました。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/1-2518.html
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/2-d92a.html

 

これらのなかで「ルンバ」という音楽用語の定義などは書きましたので、ご興味がおありならご一読ください。このときはディスコロヒア盤 CD 二枚組『ルンバの神話(パリ篇)』の話題だったんですが、もちろんニュー・ヨーク篇があります。のばしのばしにしていたそれのことを、また二回にわけて書いてみようと思うんですね。パリ篇の音源がすべてパリ録音だったのに対し、ニュー・ヨーク篇ではもちろん全編ニュー・ヨーク録音。なんたってキューバ革命前のラテン音楽のメッカはニュー・ヨークでしたからね。

 

ディスコロヒア盤『ルンバの神話(改訂版、ニューヨーク篇』(Invitacion A La Rumba En Nueva York)の CD1は、大きく言ってドン・アスピアス楽団とクァルテート・マチーンの録音が多数を占めています。簡単にメモしておきましょう。

 

ドン・アスピアス楽団によるこのアルバム1曲目が「南京豆売り」なのはわかりやすいですよね。この楽団によるこの曲の大ヒットこそ、1930年代ルンバ最大の象徴ですからね。ニュー・ヨーク録音のこれが売れたことで、アメリカ合衆国の音楽家であるルイ・アームストロングやデューク・エリントンといった大物も即座にカヴァーしたのはご存知のとおり。そのほかこの「南京豆売り」をやったひとは数知れず。とにかく多いです。

 

アルバムを聴いていきますと、ぜんぶで九つ収録されているドン・アスピアス楽団の曲に激しく快活なものは少なくて、やや落ち着いた中庸なものが多いというのが最大の印象です。そのあたりはいかにもカリブ、キューバの音楽だなと思うんですけど、ソンのギア部に相通ずるものだって感じるんですね、おだやかなメロディ重視の方向性には。

 

それでも4曲目の「ヴードゥー」はかなり躍動的。コンガ(音楽の種類としての)っぽい感じもします。聴いているとウキウキ気分が沸き立って、こりゃ楽しい。こういった音楽のことが本当に大好きなんです。ぼくのなかではこの曲が、このアルバムにおけるアスピアス楽団の収録曲 No.1。

 

ところで、ニュー・ヨーク・ルンバは1930年にレコード録音がはじまりますが、ご存知のとおり29年以来の大不況のさなか。だから、実はバンド編成も少人数のばあいが多かったみたいで、それでもなお歌とダンスという二大要素を不足なく満たせるようにいうことで、カルテット(四人編成)程度のバンドがかなりあった模様。その代表格がアルバム12〜16曲目にあるクァルテート・マチーンです。

 

クァルテート・マチーンは、というかそのほかのルンバ・カルテットもたぶん、ギター二台、パーカッション(多くはクラベス)、トランペットという編成でした。たった四人でもやっぱりトランペットが欠かせないのがいかにもキューバ音楽的です。クァルテート・マチーンも哀愁のあるラテン・メロディ、つまりソンのギア部みたいなものを歌っていることが多いみたいです。

 

アルバム一枚目終盤には、キューバではなくプエルト・リコやコロンビアのバンドも収録されています。このへんはいかにもニュー・ヨークっぽいところ。パリ篇にはちっともありませんでした。ニュー・ヨークのイースト・ハーレムにはプエルト・リコ人たちなどが多く住み、通称スパニッシュ・ハーレムと呼ばれたのです。

 

ラテン的デリカシーから遠いかもしれないですけど、ぼくの好みからしたら、二曲収録のコロンビアのバンド、ナノ・ロドリーゴ楽団の音楽が楽しいです。荒っぽいというか雑なんですけど、ロック・ミュージックっぽいし、かなりのエネルギーを感じる躍動感で、こういった熱はその後のマンボやサルサなどのニュー・ヨーク・ラテンへつながっていったものだったかもしれないとも思います。そのほか、プエルト・リコの大作曲家ラファエル・エルナンデスの楽団自身による「カチータ」も一枚目ラストにあります。

2019/07/15

チュー・ベリーの魅力

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https://www.amazon.co.jp//dp/B00GXEXYZU/

 

ご覧のように猫ジャケであるエピック・イン・ジャズのシリーズの、一枚『チュー』。テナー・サックス奏者チュー・ベリーに焦点を当てた編集盤です。いままでも書いていますがくりかえしますと、エピック・イン・ジャズのシリーズはどれも録音は第二次世界大戦前の SP 時代のもの。それを戦後、LP 盤にまとめて再録しているものなのです。LP はエピック盤ですから、もちろん音源はすべてコロンビア系のレーベル原盤。

 

さて、スウィング・ジャズ黄金期の No.1 テナー・サックス奏者とされ多忙だったチュー・ベリー。しかしどうしてコールマン・ホーキンスじゃないのかといいますと、肝心な時期にホークはアメリカを離れヨーロッパで活動していたからなんですね。1934年末から39年までの話です。ちょうどスウィング・ジャズ勃興〜黄金期じゃないですか。しかもですよ、ジャズ・ミュージックにおいてテナー・サックスが大きな注目を浴びるようになったのとも時期的に一致するんですよ。あぁ、なんということでしょう。

 

いや、ホークはすでに影響力絶大でありましたし、帰国後に名声を再確立しました。ともあれ彼の不在期にアメリカでテナー・サックスがジャズの主要楽器として注目されるようになって以後、この楽器で大活躍したのが、ベン・ウェブスター、レスター・ヤング、そしてレオン・チュー・ベリーの三人だったんですね。

 

チュー・ベリーの生涯最高名演は、たぶんライオネル・ハンプトンのヴィクター・セッションで吹いた「スウィートハーツ・オン・パレード」(1939)でありましょう。ヴィクターへの吹き込みですから、コロンビア系であるエピック盤『チュー』には収録できません。ですけれど、せっかくチューの話題なんですから、会社のしがらみなどないこの個人ブログ、その演奏をご紹介しておきましょう。
https://www.youtube.com/watch?v=tG4udzyZpeY

 

どうです、このテナー・サックス・ブロウの豪快さといったら。これを聴けば、チューがスウィング期のテナー No.1と言われたのも当然だとわかりますよね。ヴォーカルはボスのハンプです。チューのテナーはソロ部だけじゃなく演奏開始から終了までずっと吹き続けていて、いわば一曲全体をテナー・ソロでラッピングしていますよね。ハンプの指示だったと思いますが、ここまでできる流暢さは驚異です。いやあ、なんてすばらしいテナーでしょうか。

 

この演奏をお聴きになってもおわかりのように、チューのテナー・サウンドは丸いです。影響源のホークのような硬さはないですよね。ホークのあの音はきれいに抜けているからなんですけど、チューはチューでこの独特の丸みを帯びたやわらかい音色でみんなを魅了したんです。またフレイジングはなめらかで、ここもときどき飛躍するホーク(やレスター)とは大きく違います。さらさらと流れるようなスムースさがありますよね。だから聴きやすいんですよね。歌心も満点ですし。

 

そんなチュー・ベリーのエピック盤『チュー』は、1〜7曲目までがチュー名義のコンボ・セッションから。8曲目「ウォーミング・アップ」はテディ・ウィルスンのブランズウィック・セッションからのもの。9曲目以後は(チューが所属していた)キャブ・キャロウェイ楽団の録音です。同楽団でのラスト五曲は、若き日のディジー・ガレスピーがロイ・エルドリッジの影響を聴かせたりするのも興味深いところ。

 

アルバム終盤のそれら五曲のうちでも、最後の三曲(1940、41年録音)は、とりわけキャブ楽団がチューのテナーにフォーカスした演奏内容で、彼の持ち味もよくわかる名演です。「ゴースト・オヴ・ア・チャンス」「ロンサム・ナイツ」「テイク・ジ・"A"・トレイン」。ご紹介しておきましょう。

 

「ゴースト・オヴ・ア・チャンス」https://www.youtube.com/watch?v=GzHCpklaEdM
「ロンサム・ナイツ」https://www.youtube.com/watch?v=a6-7JBwMKdw
「テイク・ジ・"A"・トレイン」https://www.youtube.com/watch?v=geeChTEC3hE

 

特に最初のバラードふたつが絶品ですよね。チューのテナー吹奏の魅力がよくわかるものだと思います。まずはテーマ・メロディをうまくフェイクしながらなめらかに演奏し、その後徐々にそのヴァリエイションを歌うがごとく朗々と吹き続ける暖かみのあるサウンドに感心します。バラードと言いましがが、正確には二曲ともやや違って、孤独やさびしさを扱った内容です。それをここまで真に迫って演奏できるチューの才能のすばらしさ。決して絶望や諦観ではなく、ハート・ウォーミングな心情を感じさせるのがこのテナー・マンの魅力ですね。

 

これら三曲では、上でも書きましたがブレイク前のディジー・ガレスピーがトランペットを吹いています。「ロンサム・ナイツ」「テイク・ジ・"A"・トレイン」で聴けるミューティッド・ソロがディジーなので、短いですが耳を傾けてみてください。まだビ・バッパーといえるだけのスタイルを確立していませんが、ちょっとおもしろいんじゃないでしょうか。

 

チュー・ベリーは、これら三曲より前に収録されているもの(1937、38年録音)でも、ソロ時間は短いながら立派に自己の表現をはたしているなとわかる立派な演奏です。もっとも、チューは自己名義のバンドを率いたことがなく、自身名義のレコードだってそのときだけの臨時編成で名義だけチューになっているというもの。しかも総数がかなり少ないのです。音楽生涯のほぼすべてをほかの偉大なリーダーのバンドの一員として過ごしました。といってもキャブ・キャロウェイ楽団在籍中の1941年にわずか31歳で亡くなってしまったんですけどね。

2019/07/14

これまたグラント・グリーンのファンク・ライヴ

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https://open.spotify.com/album/4NL6PN6GkMqI7Ztz4iGPU6?si=skjpcCOXS966RYu-lJANfw

 

どうしてこんなにカッコイイんだぁ〜、グラント・グリーン1970年のライヴ盤『アライヴ!』。完璧なるジャズ・ファンクですよね。もともとが真っ黒けな資質のギターリストであるとはいっても、70年代のグラントはなにかに取り憑かれたかのようにリズム&ブルーズ/ファンク/ソウル・ジャズ路線を突っ走っていました。ライヴでもそうでした。『アライヴ!』もまたそんな一枚。

 

『アライヴ!』は1970年8月15日、ニュー・ジャージーでのパフォーマンスで、編成はボスのギター、クロード・バーティーのテナー・サックス、ウィリアム・ビヴンズのヴァイブラフォン、ニール・クリークかロニー・フォスターのオルガン、イドリス・ムハンマドのドラムス、ジョゼフ・アームストロングのコンガ。

 

やっている演目も、数曲のグルーヴ一直線などファンク一路線からハービー・ハンコックの新主流派「処女航海」までと幅広いんですけど、でもやっぱりアルバム・オープナーがクール&ザ・ギャングの「レット・ザ・ミュージック・テイク・ユア・マインド」であることに、このアルバムの音楽性が典型的に象徴されていますね。いやあ、ションベンちびりそうなほどグルーヴィでコテコテです。

 

その「レット・ザ・ミュージック・テイク・ユア・マインド」もカッコイイし、続く2曲目「タイム・トゥ・リメンバー」(ニール・クリークのオリジナル)もメロウ R&B みたいなバラード調。ヴァイヴラフォンがいい感じで効いているのも甘美なムードをもりあげたり、それとグラントのギターがユニゾンで進むところにテナー・サックスがからんだり、もうタマランですよ。メロウでソフトでデリケートで、夜の音楽ですね。

 

3トラック目のバンド・イントロダクションに続き、4曲目の「スーキー、スーキー」(ドン・コヴェイ)が、たぶんこのアルバム『アライヴ!』最大の目玉にして白眉、聴きものでしょう。このグルーヴのキメかたったらないですね。イドリス・ムハンマドのファンク・ドラミングは全曲で見事ですが、特にこの「スーキー、スーキー」では抜きに出ています。グラントのギター・ソロもファンキーでかっちょええ〜。ワン・リフ反復で演奏の土台ができていることに最注目しないとですね。

 

この『アライヴ!』でも、演目やリズムやグルーヴはソウル/ファンク・ミュージックのそれで、ビシバシきめているけれど、なんだかんだ言って楽器ソロの時間が長く、それがギター、テナー・サックス、ヴァイブ、オルガンと続きまわすというのが中心ですから、そこはジャズ・マナーだといえばそうです。でもこんなねえ、クール・アンド・ザ・ギャングだとかドン・コヴェイだとかギャンブル&ハフだとかロナルド・アイズリーだとかの曲を、しかもこんなにファンキーにコテコテにやってみせたジャズ・マンが、1970年時点でほかにいましたか?!グラント・グリーンだって、どうして1970年代はここまでのことになっていたのか、60年代も黒っぽかったとはいえああだったのに?と思うと、まあ快哉を叫ぶしかないわけですよ。

2019/07/13

ミジコペイのスムースなシンコペイション

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https://open.spotify.com/album/0cBvFiydjZLqHO5dZL454n?si=aj75pNPmQxipUgXHvkLiBg

 

トニー・シャスールのライヴ盤二枚組はしっかり聴いていたものの、ミジコペイのアルバムは今回はじめて耳にしてみたぼくです(DVDは不便ですから)。2019年の『クレオール・ビッグ・バンド』。アルバム題どおり、ビッグ・バンド・ジャズのサウンドですね。それも旧来的な伝統のビッグ・バンドのそれで、目新しいところはありません。でもそういったことがこのアルバムにちょうどいいくつろぎをもたらしているので、ポイントは高いと言えましょう。

 

伝統的ビッグ・バンド・ジャズだと言いましても、それでもやはりミジコペイならでは、という部分はしっかりあります。ぼくにとっては二点。ひとつがトニー・シャスールをはじめみんながどんどん歌うこと。もう一点はこのリズムです。ストレートなメインストリーム・ジャズのビートの格好をしているものも多いんですけど、それだけじゃなく、いかにもカリブのバンドというだけあるシンコペイションを効かせているものがありますね。それでニンマリするんです。

 

たとえば、この新作のなかでの最有名曲は3曲目の「スターダスト」ですけれど、ストレートな4/4拍子系じゃないでしょ。ガチャガチャと跳ねていますよ。そこが実にいいと思うんです。ヴァースをふたりが歌い終えてリフレイン部に入ったら、ドラマーが強いシンコペイションを叩いていますでしょ。旧来的なビッグ・バンド・ジャズで「スターダスト」みたいな曲を、というと古くさ〜くなってしまいそうですけど、このリズムのおかげでそうはなっていないわけですね。

 

こんなカリビアン・リズムの活用法はこのアルバムの至るところで聴けて、ぼく的にはミジコペイ最大のポイント、長所となっているように思うんです。「スターダスト」では歌が終わってピアノ・ソロになっても、やはりリズムは強く跳ね、背後のホーン・リフもスタッカート気味に入っていますしね。なめらかさも際立っていますけど、突っかかって跳ねるような要素がありますよね。そこがいい。

 

こういったことが、しかしアルバム『クレオール・ビッグ・バンド』ではひとつながりのスムースさで表現されていますので、スーッと聴きやすく、聴き手は意識しないで流してしまうだろうと思います。そのおかげで、これはただのふつうのジャズ・ミュージックじゃないか、という感想を抱くばあいも多いんじゃないでしょうか。それでいいと思うんですけど、このアルバムの音楽の心地よさの源泉は、特にクレオール系音楽に親しんでいる身からしたら、そんなリズム・シンコペイションにもあるなと考えていますよ。

 

リズムのちゃかちゃかっていう跳ねかたは、このアルバムの多くの曲でどんどん聴けますので、みなさんもさがしてみてください。上で書いた、ヴォーカル・ナンバーが多いのでぼくなんかは好きという点は、しかし旧来的なジャズ・ファンのみなさんには共感していただきにくいのかもしれませんけどね。また、『クレオール・ビッグ・バンド』はスタジオ録音作ですが、全編とおしてライヴ一発録りみたいな雰囲気があるというか、そんな音響なのも特長といえます。

2019/07/12

ウッドストック幻想の崩壊と、太田裕美『心が風邪をひいた日』

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https://open.spotify.com/album/3Mb2LRrANO8jZhSOoctdkx?si=050okitiQhqmwywF_W8w1w

 

大好きな太田裕美の『心が風邪をひいた日』(1975)。このアルバムのテーマは、ウッドストック幻想崩壊後の失意、失望ということでしょう。それが顕著に表現されているのが、11曲目「青春のしおり」。歌詞は松本隆が書いていて(このアルバムは一曲だけ太田自身の作詞ですけど、ほかはすべて松本)、それにちょっと耳を傾けるだけでもぼくの言いたいことがおわかりのはず。

 

たとえば一番には「キスがまったく甘くないこと気づいてからの味気ない日々」。二番には露骨に松本の世代が出ていて、まずいきなり「CSNY 聴きだしてからあなたはひとがかわったようね」「みんな自分のウッドストック、緑の楽園を探していたの、夢ひとつづつ消えていくたび、大人になった味気ない日々」とあるんですね。CSNY はシーエスエヌワイと歌われています。

 

”味気ない日々”は、この曲「青春のしおり」の毎コーラス末尾で出てくるリフレイン・フレーズになっているわけですが、どう聴いても1969年8月のウッドストック・フェスティヴァルに象徴される楽園と夢、楽しさ、にぎわい 〜 こういったバブルがはじけて以後の、そう、バブルでしかなかったと気づいて以後の、あの世代のひとびとの気分の沈みを表現していると思えます。

 

曲「青春のしおり」は歌詞内容がというだけでなく、曲調もしっとり暗く哀しげなもので(作曲は佐藤健、このアルバムでは筒美京平の曲が多く、その次が荒井由実)、考えてみればアルバム『心が風邪をひいた日』というこのアルバム題だって、曲「青春のしおり」三番の歌詞の一節からとられたものなんですね。心の風邪って、鬱・落ち込みっていうことですからね。「季節の変わり目」だから、と歌われています。季節とは時代ということです。

 

アルバム全体でも、しっとり系の哀しげな曲と歌詞が多いんですよね。最大のシグネチャー・ソングが多幸感に満ち満ちたメロディ・ライン、サウンド、リズムを持つ「木綿のハンカチーフ」なもんですから意外な気もしますが、だいたいこの大ヒット曲だってつらい失恋を扱った内容です。歌詞以外はまったく裏腹で楽しげですけれどもね。

 

1曲目の「木綿のハンカチーフ」が終わったら、もう太田の歌うのは哀しみ、(心象の)夕暮れ風景ばかり。明るく楽しい歌といえば、7曲目「ひぐらし」と9「銀河急行に乗って」だけです。いや、後者はやや陰かもです。だからアルバム全体のなかではこれらが流れくるとホッと救われたような気分になります。暗闇に一筋の光が差し込んだかのような気分になるんですね。

 

歌詞は失恋を扱った哀しいものなのに曲はすごく楽しげという「木綿のハンカチーフ」と正反対なのが、6曲目「七つの願いごと」。歌詞内容を聴くと愛のはじまりと成長を扱ったもので、しかし曲はどこからどう聴いてもかなり寂しげ。悲哀に満ちたといってもいいほどの暗さ、影が落ちています。8曲目「水曜日の約束」も同様です。

 

太田の歌うこういった情緒は、あの時代のいわゆるフォーク&ニュー・ミュージック世代がよく歌っていたあのような特有のものだったかもしれません。リアルタイムではぼくはそういう世代じゃないんですけど、中学生のころテレビジョンでよく耳にしていたようなかすかな記憶がこびりついています。青春とか、青春が終わって大人になって以後は、現実は…云々とか、そんな歌、多かったですよねえ。テレビ・ドラマだって、たとえば中村雅俊あたりが主演してそういったテーマとフィーリングを表現していたような、そんな記憶があります。

 

いまふりかえってよく考えてみますと、それらはだいたい1970年代前半あたりのものでした。そのことと、音楽アルバム『心が風邪をひいた日』全体を貫くこのしっとり系の色調と、太田裕美や作詞作曲製作陣の世代を考えるとき、やはりどうしても<ウッドストック=楽園>への礼賛が消え崩壊して以後の、アメリカでもそうでしたがたぶん日本の音楽家たちのあいだにもあった失望感、暗く落ちんだ気分、ふわふわ浮ついた気分はもう終わりだ、これからは大人になってつらい日常を歩んでいかなくちゃいけないんだという、諦観というか現実感 〜〜 こういったことがはっきり下敷きになっていたと思うんです。ぼくはその一個下の世代ですので、的外れな意見かもしれませんが。

 

太田裕美自身の性格にはそんな部分はあまりないそうで、あっさりさっぱりした人物だそうです。太田の Twitter アカウントをフォローしてふだんから読んでいるんですけど、たしかに太田のツイートする日常は実にあっけらかんとした気持ちのいいものです。女々しくひきずったり、暗く落ち込んだりするのは、すくなくともツイートにはまったく出たことがなく、その正反対の印象です。

 

そんな太田は、歌手としても同様の持ち味だと言えましょう。書いてきたような暗く哀しい内容のアルバム『心が風邪をひいた日』ですが、落ち込みすぎない救い・光となっているのは、太田のさわやかでさっぱりした歌い口なんですよね。「青春のしおり」「袋小路」「夕焼け」「かなしみ葉書」「水車」など、そういったしっとり系ナンバーの数々でも、太田は歯切れよく発音しさっぱりと歌いこなしています。だから結局アルバム『心が風邪をひいた日』はいい後味を残してくれます。そして、失恋を歌った哀しげボサ・ノーヴァ風味な「わかれ道」で幕を閉じるんですね。

 

曲「木綿のハンカチーフ」については、以前くわしく書きました。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-68fa.html

2019/07/11

どこか不気味なクレア・ヘイスティングズが好き

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https://open.spotify.com/album/53uaFPysAodYgJwu0OHWdn?si=FLdrAVeWR1eRuAwpUBBh3w

 

これまたスコットランドの若手歌手クレア・ヘイスティングズの新作『ゾーズ・フー・ローム』(2019)。これもかなりいい内容ですよねえ。アイオナ・ファイフやハンナ・ラリティほどのことはないなあと思っていましたら、いつの間にか数知れずくりかえし聴いているから不思議です。クレアのどこにそんなチャームがあるのか、ちょっと考えてもよくわからないのですけど、惹きつけられる声の持ち主と言えましょう。

 

クレアの『ゾーズ・フー・ローム』は、アルバム題からも察せられるとおり「旅」がテーマになっている作品。それにもとづいて選曲された伝承曲や、あるいは自作や他作曲もすこし織り交ぜながら、ギター、フィドル、ピアノ、アコーディオンのシンプルな編成の伴奏で、地味だけど落ち着いた透明感のある発声と歌いかたをしているんですね。

 

CD パッケージのどこにもクレジットはないものの、シンセサイザーに違いないサウンドもところどころで聴かれ、とてもいいエフェクトになっているのも印象に残ります。特に幕開けの「ザ・ロージアン・ヘアスト」と幕締めの「テン・サウザンド・マイルズ」でそれがよくわかります。後者はボブ・ディランらも歌ったので知名度があるはずです。

 

しかも「テン・サウザンド・マイルズ」では楽器伴奏がかすかに漂うシンセサイザーだけで、あとはクレアのヴォーカルの(オーヴァー・ダビングによる)多重唱だけというもの。だからまあほぼ声だけなんですよね。トラッド歌手の世界では無伴奏で歌うのが日常的であるとはいえ、ここでのクレアのヴォーカルはかなり聴かせる説得力を持っています。

 

また、出だし1曲目や、また4曲目「セイリンズ・ア・ウィーリー・ライフ」などでは、クレアの背後の楽器伴奏で緊張が走ります。やや不気味なサウンドを出しているのがわかりますよね。音をあえて外し不協和な響きにして、音色もゆがめて、わざとギギッ〜っていう不気味な伴奏を楽器がやっているんです。UK トラッドの世界でぼくはあまり聴いたことのないサウンドです。

 

こういった微妙な緊張感は、実はクレアのこのアルバム全体を貫いておりまして、この音楽にリラックス・ムードよりもテンションをもたらし、その結果音楽のキリリとした美しさを際立たせる役目を果たしていると思うんですね。おもしろい演出です。

 

旅、というか sail、sailing ということばがよく聴こえるアルバムですので船旅がテーマなのでしょうか、旅立ちにつきものの(人との)別れも歌われたりして、そんなテーマ設定もお気に入りですし、声も伴奏もよくて、くりかえし聴くのにちょうどいい40分というアルバムの長さですし、最初はピンとこなかったんですが、聴き込むうちに離れられなくなる魅力をもった不思議な音楽です。

2019/07/10

マイク・スターンの「スター・ピープル」妙技

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https://www.youtube.com/watch?v=PsXqBdkaZbU&lc=z23zwr0wuruicdp34acdp434o4uhy2qud5a3yqjzz3dw03c010c

 

マイルズ・デイヴィスの曲「スター・ピープル」(1982年録音83年発売)について書くのは何回目になるでしょうか。ぼくとしてはさほど重視していなかったんですけど、とにかく YouTube に上げたのにみんなが賞賛のコメントをどんどん寄せてくれるんです。こんなにすごい音楽はないと。今日も一個ついて、いま2019年5月9日時点でもう39個のコメント。これはぼくが YouTube に上げた音楽ファイルのうち最大のコメント数なんですね。その大多数がこの音楽を賞賛しています。

 

しかし、どこがそんなにいいんだろう?というのがぼくの偽らざる気持ちでした。前にも言いましたが、この YouTube ファイルは、ブログでの論考の際この音源を例証として使いたいと思いましたがその時点でネットにありませんでしたので自分で作成してアップしただけですから、この音楽がいいぞ、みんな聴いて!ということじゃなかったのです。なのに、これだけ熱烈な賞賛のコメントがつくとなると、こりゃきっとこの音楽にはなにかがあるんだと、考えてみないといけないなと、そう思うようになりました。

 

曲「スター・ピープル」はもちろん定型12小節のブルーズですけど、完成品となったものには前奏と間奏でまったく無関係のシンセサイザー・サウンドが挿入されています。弾いているのはもちろんマイルズ。それにギターのマイク・スターンがからんでいますよね。その挿入パートはブルーズ本編とは別個に録音されていたものなんですね。発売に際してのテオ・マセロの編集ということです。

 

しかしそのシンセ挿入パートはなかなかいいですよね。これに限らずこの曲「スター・ピープル」の編集結果をマイルズ本人は気に入らなかったんですけど、だけどいま聴きかえすとなかなか効果的じゃないですか。スター・ピープルという(だれがつけたのかわからない)曲題にも似合った夜のムードをよく演出できていますし、ブルーズ演奏本編とのコントラストも効いています。

 

そう、夜のムード、星のひとたちっていうこの曲はそんなムードこそが最重要です。そしてブルーズ演奏パートでそれを最もよく表現できているのが、マイク・スターンのギター・ソロじゃないかと思うんですね。というか、この約18分間でいちばん際立った聴きものがマイクのソロじゃないでしょうか。実に見事のひとこと。そこにこそ、曲「スター・ピープル」の真価があると言いたいです。

 

マイクのギター・ソロは二回出ます。一回目はインタールード前の前半部で、マイルズのソロに続く二番手。自分のソロに続けて(サックスではなく)ギターリストをもってくるというあたりにも、マイルズのマイク重用が見て取れますよね。しかもそのギター・ソロの内容だって、とてもいい。はっきり言ってボスのトランペット・ソロよりもずっといいぞと思うくらいです。

 

実際問題、この「スター・ピープル」では、ボスのソロはまだまだ不安定で頼りないかもしれません。音色だってか弱いですしね。ビル・エヴァンズのテナー・サックス・ソロは大幅にカットされて、たったの1コーラスだけですからどうにも言いようがないといった程度。つまり、曲「スター・ピープル」はマイクをフィーチャーしたギター・ショウケースなんだと言えますね。いい内容で弾きまくっていますしね。

 

そんな側面をもっと拡大したのがシンセ・インタールード後の後半部。その後半部では、おしまいにボスが出てきてトランペットで演奏を幕締めにするものの、それまでずっとマイクひとりだけをフィーチャーしていて、ほかにだれも、ボスをふくめだれも、ソロをとらないんですもんねえ。マイクの独壇場になっているんです。しかも内容がかなりいいです。

 

まず、シンセ・インタールードがやんでも、その雰囲気をそのまま受け継いだような星屑ギターみたいに弾きはじめるマイク。最初はバックのドラムスとパーカッションも止まっていて、ベース伴奏だけです。そのマーカス・ミラーの弾くやわらかいエレベ・サウンドに乗って、デュオで、マイクはこれ以上ない、こたえられない深夜のブルーズ・ムードを弾きます。アル・フォスターのドラムスが入ってくるまでのあいだ数分間は至福ですね。

 

その後も、ヴァイオリン奏法などさまざまなテクニックを駆使してブルージーかつムード満点に弾きこなすマイク・スターン。マイルズが最後の約二分間だけ出ますけど、それまでずっとマイクがステージ最前方にいてフィーチャーされていますよね。ここまでマイク・スターンをフィーチャーしたのはボスなのか、あるいはテオの編集作業なのか(ビルのサックス・ソロを大幅に縮小したのはテオです)わからないですけど、この星のブルーズを見事に雰囲気満点に弾きこなすマイクに降参するしかないんですよね。

2019/07/09

ライヴ 9

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https://open.spotify.com/user/21qp3vk3o45zy3ulmo4rgpd3a/playlist/0DBjcBfM3DhrmBDP7B9KKW?si=Er1c8s33SB-sHwBk1_qd-A

 

個人的に大好きで愛聴しているライヴ・アルバム九選を並べてみました。選出基準はたんに好きだからというだけのことで、そのライヴ盤の、あるいは中身のライヴ・パフォーマンスの、意味とか意義とか重要性みたいなものは考慮していません。結果的にそういったものが入り込んだばあいもあるかもですけど。

 

以下、その九選。並び順にポリシーはなく、なんとなく思いついたまま。ライヴ音楽は、いつどこで行われたものかというのが大切になってきますから、書ける範囲で括弧内に記しておきました。

 

1) Benny Goodman / Live At Carnegie Hall 1938 (1938.1.16, NYC)
2) Caetano Veloso / Fina Estampa Ao Vivo (1995.9, Rio de Janeiro)
3) James Brown / Live At the Apollo, Volume II (1967.6.24-25, NYC)
4) Fania All Stars / Live At The Cheetah (1971.8.26, NYC)
5) The Rolling Stones / Love You Live (1975-77)
6) B. B. King / Live at The Regal (1964.11.21, Chicago)
7) Sly and the Family Stone / The Woodstock Experience (1969.8.17)
8) Zaire 74: The African Artists (1974.9.22-24, Kinshasa)
9) Duke Ellington / At Fargo 1940 (1940.11.7, North Dakota)

 

結果的に第二次世界大戦前のスウィング・ジャズ・オーケストラがふたつになったのはあれですけど、でもどっちも本当に好きなんですよ。エリントン楽団のファーゴでのライヴは評価も人気も高いものですね。ベニー・グッドマン楽団のカーネギー・ホール・コンサートのことは忘れられつつあるように思いますので、語り継いでいかねばなりません。クラシック音楽の殿堂だったカーネギー・ホールではじめてライヴ公演をやった大衆音楽の記録なんですから、超重要です。

 

カエターノの『粋な男ライヴ』は汎中南米音楽的な意匠もあっておもしろいところ。でもそんなこと考えなくたって純粋に楽しいです。ところでこのライヴ盤は CD と DVD で曲目が微妙に異なっていますね。このコンサートはフル収録されたはずですから、いつかフル・ヴァージョンが日の目を見ることを願っている次第であります。

 

JB と BB とストーンズのライヴに多言は無用でしょう。いやあ、好きですねえ。ファニア・オール・スターズのチーター・ライヴも名盤中の名盤だからなにも言わなくていいはずです。1970年代ニュー・ヨーク・ラテンの沸点の高さがよくわかる熱狂ぶりですね。

 

熱狂といえばスライのウッドストックとかキンシャサの奇跡前夜とかの狂熱ぶりもすごいものがあります。ある種類の音楽の熱がどんどん高まっていって、まさに爆発せんとする瞬間の、そのピークのマグマの噴出を記録したものだと言っていいはずです。『ザイール 74』のほうでは、特にエレキ・ギターのコクのあるまろやかな味わいも特筆すべきものですね。も〜う、大好き!

2019/07/08

ジョアンのギターと声こそがボサ・ノーヴァだった

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ジョアン・ジルベルトが亡くなったというニュースが今朝起きたら Twitter のタイムラインをかけめぐっておりました。88歳という年齢と、近年は活動していないような感じでしたので、そろそろ危ないのかなとは思っていましたが、いざ訃報に接するとやはりガックリきてしまいます。それで何枚かジョアンのアルバムを聴きかえしていましたが、個人的にいちばんのお気に入りで、かつ嗜好を超えて最高傑作なんじゃないかと思うものについて、簡単にメモしておきます。

 

それは1973年の『ジョアン・ジルベルト』(『三月の水』という邦題で日本盤もあるようです)。これ、いいアルバムなんですよねえ。どこがいいって、簡単に言えば、思わず息が止まりそうになる静けさと緊張(© 松山晋也さん)ですね。と同時に、けっこう激しいスウィング感を内包しているところもぼく好み。後者のスウィング感が内在しているというのは、主にジョアンのギター演奏に感じることです。それとヴォーカルとのクロス・リズムかな。

 

アルバム『ジョアン・ジルベルト』は、ほぼジョアンの声とギターですけど、ハイ・ハットを演奏する音も入っています。だれかドラマー(じゃないかもですが)が参加しているんでしょうね。最後の曲で聴こえる女声といい、いったいだれなんでしょう?ぼくの持つのはブラジル PolyGram 盤できわめて愛想がなく、そのへんのことはいっさいどこにも記載がありません。

 

まあでもだいたい九割程度はジョアンひとりでの弾き語りとしていい内容でしょうね。一曲目の「Águas De Março」(アントニオ・カルロス・ジョビン)からして軽快ですが、このギター演奏が特筆すべきものだと思うんです。この曲では声というか歌のほうはあまり重視していません。ギターで細かい譜割をコード・ワークで刻んでいくジョアンの凄腕にうなります。
https://www.youtube.com/watch?v=keZulqPcPag

 

特にいいな、すばらしいなと感じているのが、インストルメンタルな3曲目「Na Baixa Do Sapateiro」(アリ・バローゾ)を経ての、5〜7曲目の三連発。いやあ、実にすんごいスウィング感、いや、ドライヴ感です。ここらではヴォーカルも見事な絶品です。5「Falsa Baiana」(ジェラルド・ペレイラ)、6「Eu Quero Um Samba」(アロルド・バルボーザ)、7「Eu Vim Da Bahia」(ジルベルト・ジル)。
https://www.youtube.com/watch?v=MIwV1aMtmbs
https://www.youtube.com/watch?v=VN_72vMS1ys
https://www.youtube.com/watch?v=VmFINS_u2rs

 

どうです?もう痛快とすら言えますね。これら三曲はすべてサンバ楽曲なんですけど、ジョアンの手にかかるとものの見事にボサ・ノーヴァ・ナンバーに変身しているから驚きます。その際のキー・ポイントとなっているのがやはり彼のギター演奏だと思うんですね。ジョアンのギターが奏でるコード・ワークでつくるこのリズム。これこそがボサ・ノーヴァだったと思うんです。

 

ジョアン以後はみんなが真似するようになったギターの弾きかたなので、ぼくらはなんとも思わないっていうか、まぁあたりまえのものじゃないかくらいに聴いているかもって思うんですけど、新旧サンバ楽曲をとりあげてこんなふうに、こんなリズムで、弾いてみせるというのは、ジョアンが史上はじめてやったことです。ボサ・ノーヴァのアイデンティティを創出しました。

 

声の存在感や歌のうまさ(特に発声とリズム感覚)もあわせ、ジョアンのギターとヴォーカルこそがボサ・ノーヴァでした。なにをとりあげ演奏し歌ってもジャズになるというのがサッチモことルイ・アームストロングの偉大さでしたが、つい今朝方まで生きていたジョアン・ジルベルトは、ぼくの世代でもそんな大きな音楽家の存在をリアルタイムで実感できていた、稀有な天才でした。

2019/07/07

<故郷>へ連れ帰ってくれ 〜 ウィリー・ネルスンの新作に聴くカリブ海

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https://open.spotify.com/album/4eIsAOEVirxfsiQpwbhBpP?si=CdInUocPQpiOr7Ih23DwfA

 

こないだ息子ルーカス・ネルスンのバンドの新作をとりあげたでしょ。快作でした。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-eded22.html

 

これがまだまだヘヴィ・ローテイション盤の座から降りないうちに、父ウィリー・ネルスンの新作も届いちゃいました。題して『ライド・ミー・バック・ホーム』(2019)。これがなかなかおもしろいんです。ビリー・ジョエルの「素顔のままで」なんかもやっていますが、それよりなによりウィリー86歳という年齢を考えたら、これ、異常な充実度ですよ。ふだん年齢で音楽の若/熟を判断しないぼくですけど、この新作でのウィリーは声が若い!でも今日はそれを言いたいわけじゃありません。

 

単刀直入に。このウィリーの新作『ライド・ミー・バック・ホーム』には、鮮明なアバネーラ楽曲が三つあるんです。3曲目「マイ・フェイヴァリット・ピクチャー・オヴ・ユー」、8「ワン・モア・ソング・トゥ・ライト」、9「ノーバディーズ・リスニング」。アルバム全体はやはりカントリー・ミュージック作品に違いありませんから、そのなかにキューバ音楽要素がこれだけ混じり込んでいるというのは、驚くべきことなのか、あるいは当然のことなのか、どちらなのでしょうね。

 

8「ワン・モア・ソング・トゥ・ライト」、9「ノーバディーズ・リスニング」は今回の新作のための書き下ろしで、ウィリーとプロデューサーのバディ・キャノンの共作名義。「マイ・フェイヴァリット・ピクチャー・オヴ・ユー」は、2016年に亡くなったガイ・クラークのカヴァーですよね。そのオリジナルからしてカリビアン・テイストを持った曲でした。
https://www.youtube.com/watch?v=ZV-i1dwWq1I

 

没地がナッシュヴィルだったガイ・クラークもやはりカントリー界の音楽家でしょうけど、よく知っている種類の音楽じゃないので、カリビアン、キューバン・ミュージックとか、あるいはアバネーラ(がスペイン経由だったりもするかも?)とどんな関係があるのか、あまりよくわかりません。ですけれど、南部ニュー・オーリンズを経由してアメリカ合衆国とカリブ海とは隣り合わせなんですから。

 

これまたガイ・クラークがオリジナルの5曲目「イミグラント・アイズ」も、曲そのものはふつうの三拍子でアバネーラ舞曲じゃないですけど、間奏のギター・ソロ部にカリビアン/ハワイアン・テイストがわりと鮮明にありますよね。もっと正確にはテックス・メックス風味といったほうが近いのかもしれません。そういえば今回のこのウィリーの新作アルバム、全体的にどこか隣国メキシコの空気が香っているような気がして(特に和声面)、ウィリー自身の過去曲の再演である6「ステイ・アウェイ・フロム・ロンリー・プレイシズ」はジャズ・ナンバーになっているし、ホント、ごくふつうのカントリー・アルバムだとかたづけられないおもしろさです。

 

ジャズだって南部のクリオール首都ニュー・オーリンズで誕生した、ラテン(/カリブ)音楽の一種ですし、そういえばアバネーラ・ナンバーである9曲目「ノーバディーズ・リスニング」には "メキシコ湾" とか "ニュー・オーリンズ" といったことばがちりばめられています。ちゃんと歌詞を聴いていないので、どん内容を歌ったものか気にしていませんが、興味深いところじゃないでしょうか。キューバ音楽であるアバネーラ・ソング、ふうにつくったウィリー自作ナンバーでカリブに面する地名が複数出てくるというのはですね。

 

アバネーラはもちろんキューバ音楽なんですけど、アメリカ合衆国へそのまま直接流入したというより、19世紀にアバネーラが大流行したスペイン(キューバの宗主国)から入ってきたという面もあるでしょう。そもそもアメリカ大陸で大活躍のギターだってスペイン人やポルトガル人が持ち込んだものですから。楽器と音楽との両方が流れ込んだと思います。とにかく19世紀のスペインでは、それはもうアバネーラは大人気だったんですよ。メキシコ湾に面した南部の街を経由して直接流入したものと、二方向あったんじゃないでしょうか。

 

アバネーラを特徴付けているのは、かの独特な跳ねる二拍子のダンス・リズム・シンコペイションです。アフリカとヨーロッパと現地と、この三者が出会ったカリブ海は、中村とうようさんも強調したように世界の大衆音楽の揺籃の地であった可能性が高いです。三拍子はヨーロッパ由来かもしれませんが、それと二拍子がクロスして、独特の跳ねるリズムが生まれました。キューバをはじめとするカリブ海地域の音楽は、アフリカにもわたり近代アフロ・ポップのいしずえともなり、ラテン・ミュージックを生み、北に行って北米大陸でも文化混交による音楽の多様をもたらし、また植民地にしていた白人たちの手によってヨーロッパにもわたりました。アジア各国でもラテン音楽の影響は濃いですよね。

 

ウィリー・ネルスンらが活躍するアメリカのいわゆるカントリー・ミュージック界に、そもそもの最初からアバネーラのようなシンコペイティッド・リズムがあったと言えるかどうか、ぼくにはわかりません。しかし、縁なしと言いがたいのはたしかでしょうね。(ジャズだけでなく)アメリカ音楽とはラテン・アメリカ音楽であるがぼくの持論ですし、事実、ジャズでもブルーズでもロックでもファンクでも、とにかくアメリカ産大衆音楽のなかからラテン要素を抜くことなどできません。そもそもそれらのジャンル誕生の瞬間からラテン音楽は母胎となっていたでしょう。

 

そうであれば、やはりカントリー・ミュージックのなかには、いみじくも今回の新作でウィリー・ネルスンが鮮明に示してくれたように、最初からカリブ〜ラテン音楽が混じり込んでいると考えるのが妥当でしょうね。だって、三曲「マイ・フェイヴァリット・ピクチャー・オヴ・ユー」「ワン・モア・ソング・トゥ・ライト」「ノーバディーズ・リスニング」を聴けば、だれの耳にも明らかじゃないでしょうか。アイルランド〜ヨーロッパ系のずんずん進むフラットなビート感じゃなくて、ひっかかりながらヒョコヒョコ跳ねる二拍子系のクロス・ビートがここにはあります。

 

カントリー・ミュージックを主な題材に、北アメリカ大陸でどんな音楽文化混交が育まれたのか、想像をたくましくするに十分なウィリー・ネルスンの新作『ライド・ミー・バック・ホーム』なんですね。

2019/07/06

パット・マシーニー入門にこのベスト盤をぜひ

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https://open.spotify.com/album/2NopuRF2Xnm4Jgfcu4YGYP?si=yAxr0LWoSlOrH9zO0epU-g

 

パット・マシーニー・グループのベスト盤があります。2015年のノンサッチ盤『エッセンシャル・コレクション:ラスト・トレイン・ホーム』。これを CD ではなく Spotify で発見し(ジャケットが CD のと違うけど)たのは、こないだ『ザ・ロード・トゥ・ユー』のことを書いたでしょ、そんときに Spotify をぶらぶらしていて見つけたわけですよ。チラ見したらぜんぶ知っている曲が入っているから CD は買わなくていいやと思いましたが、ちょっと聴いてみたらなかなかすぐれた内容のベスト・セレクションでした。なんたって楽しいし。

 

『エッセンシャル・コレクション:ラスト・トレイン・ホーム』収録曲は以下のとおり。括弧内にオリジナル・アルバムとそのリリース年を書いておきましょう。

 

1. Last Train Home (Still Life, 1987)
2. Have You Heard (Letter From Home, 1989)
3. Minuano (Six Eight) (Still Life)
4. Third Wind (Still Life)
5. Here To Stay (We Live Here, 1995)
6. As It Is (Speaking of Now, 2002)
7. Better Days Ahead (Letter From Home)
8. Follow Me (Imaginary Day, 1997)
9. Stranger In Town (We Live Here)
10. Letter From Home (Letter From Home)
11. First Circle (The Road To You, 1993)
12. The Road To You (The Road To You)

 

このベスト盤編纂の意図は明白です。ビートの効いたイキのいいグルーヴ・ナンバーを立て続けに並べ、聴き手にパット・マシーニー・グループの世界の快感を味わってもらおうというものでしょう。実際、1「ラスト・トレイン・ホーム」から4「サード・ウィンド」くらいまではアップ・テンポで激しく疾走する爽快感と、パット独特の空間性のあるサウンド・メイクが活きていて、続けて聴いて圧倒されます。ものすご〜く気持ちいいじゃないですか。

 

特色はこれらの曲ではパットのギターとヴォーカル・コーラスの二本ラインがユニゾンで進むところ。そうじゃないパートもふくめ、実に綿密に構成されていることがわかりますよね。パットの音楽構築力を思い知ります。ヴィジュアル感覚あふれるパットの音楽は、やっぱりヒューマン・ヴォイスの活用で具現化されていると思いますし、そこにはブラジル音楽、ことにミナス派の影響も濃いわけです。

 

5曲目以後もテンポのゆるい静謐ナンバーはほぼなくて、ビートの効いたものばかり出てきますよね。ヴィジュアル感覚と書きましたけど、色彩感のあるサウンド・メイクと同じくらいパットの音楽で重要なのがリズム面での躍動感。それもやっぱりアフロ・ブラジル的な要素からもらっているのかなと思います。8曲目の「フォロー・ミー」は異色の意欲作『イマジナリー・デイ』からですが、この曲は従来路線っぽいですね。

 

そんな様子が9曲目の「ストレインジャー・イン・タウン」まで続いて、その後三曲はアルバムの終幕に置かれたコーダ的役目のバラード系かなと思います。もっとも11「ファースト・サークル」はハンド・クラップを効果的に用いた快活グルーヴァーですけどね。これと12「ザ・ロード・トゥ・ユー」はライヴ・ヴァージョン。静かな10「レター・フロム・ホーム」で聴けるライル・メイズのピアノもきれいですし、それにからむパットのアクースティック・ギターもいい。

 

いやあ、それにしてもこの『エッセンシャル・コレクション』、冒頭の四曲連続攻撃で、ぼくなんかもう完全にノック・アウトされちゃいました。この出だしにこのベスト盤編纂者の気持ちがいちばん強く入っているのは間違いありません。だいたい似たようなタイプと創りの曲が並ぶ四つですけど、こうまで快感なことって、ほかになっかなかないですよ。このはじめの四曲でグッと来なかったらパット・マシーニー・グループの音楽には縁がないと思っていいです。ピンと感じたのであれば、オリジナル・アルバムをたどって聴いてみていただければ、もっと世界がひろがります。

 

とにかく、なんども言いますが、1曲目「ラスト・トレイン・ホーム」、2「ハヴ・ユー・ハード」、3「ミヌアノ(68)」、4「サード・ウィンド」と連続しているのが、最高に快感です。音楽としてのスケールも大きいし、もうたまりません。聴きながら鳥肌立ちましたもんね。

2019/07/05

わさみん、カヴァーズ

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01 越冬つばめ
02 北の螢
03 なみだの桟橋
04 石狩挽歌
05 風の盆恋歌
06 旅愁
07 つぐない
08 空港
09 別れの予感
10 ブルーライト・ヨコハマ
11 手紙
12 恋の奴隷
13 お久しぶりね
14 20歳のめぐり逢い
15 涙そうそう(アコースティック・バージョン)
16 なごり雪(アコースティック・バージョン)
17 糸 [Live]

 

わさみん(岩佐美咲ちゃん)が歌って CD 収録されているカヴァー曲を、ぼくの大のお気に入りのものだけ選んで並べてみました。いちおう、ある一定傾向に沿った曲順なんですけど、それはド演歌路線から徐々に移行してライトな歌謡曲、ポップスへ流れていくように、ということです。わさみんの資質を考えたら、その中間あたりで最も魅力的に聴こえるんじゃないでしょうか。

 

上のトラック・リストどおりにぼくは iTunes でプレイリストを作成し、それを CD-R にも焼いて楽しんでいます。そのまま iPhone にもインポート済みですので、出先や交通機関のなかでも、カフェやレストランのなかでも、どこででもいつでも聴き放題なんですね。いやあ、楽しい。

 

全17曲ですけど、激烈濃厚演歌は6曲目の「旅愁」までですよね。だから全体数からしたらあんがい少ないです。ってことは、わさみんの資質がここにも明確に表れていると考えられるんじゃないでしょうか。とはいえ、わさみんの歌う濃厚演歌だってなかなか魅力的ですよ。特に傑出していると感じるのが「風の盆恋歌」と「旅愁」の二曲です。「石狩挽歌」もそれに匹敵するすばらしさ。

 

それでも「越冬つばめ」で今日のセレクションをはじめているのは、このイントロ部のスティール弦アクースティック・ギターのアルペジオが大好きだからなんです。まさしくなにかの幕が開くのにふさわしいフィーリングがあるんじゃないでしょうか。それにくわえハイ・ハットしゃかでエレベぶんと来るあたりで、こりゃもうまさしく幕が上がる瞬間を目の当たりにするかのようですよ。いやあ、好きですね。

 

テレサ・テンさんの持ち歌だったものは、もとから抒情演歌と軽歌謡との中間的なフィーリングを持っていますし、実際テレサさんもそういった領域の歌手だったと思いますし、だから今日のこのわさみんカヴァーズ・セレクションでも真ん中あたりに持ってきて、演歌パートから歌謡曲パートへの移行をなめからにする役目を果たしてくれています。わさみんヴァージョンだって見事ですよね。「別れの予感」なんか、絶品じゃないでしょうか。J-POP フィールのある楽曲ですから、わさみんにピッタリです。

 

いしだあゆみさんの「ブルー・ライト・ヨコハマ」を歌ったわさみんがかなりいいっていうのは、ぼくは最初のころからくりかえしているところ。このへんの軽いしっとりめなポップな歌謡曲はわさみん向きですよね。また、由紀さおりさんとは、歌手としての資質(歌声や歌いかたそのもので主張せず、歌の内容を素直に歌ってストレートに伝えてくれる)が共通していますし、またリズムもにぎやかで跳ねる感じだし、だからわさみんの「手紙」も実に見事です。

 

リズムが陽気で跳ねる楽しい(ラテン・)フィーリングというのは、実は今日のこのセレクション後半部の隠れテーマでもあります。「手紙」「恋の奴隷」「お久しぶりね」の三曲ですね。いやあ、本当に楽しい。歌唱イベントなどでもこれらを聴けば、本当に気分が浮き立ちます。CD ヴァージョンなら完成されていますしね。歌唱イベント現場での「お久しぶりね」では、歌詞の「もういちど、もういちど」部分でぼくらわさ民はパパンと手拍子を入れますよね。あれが(ラテン・)シンコペイションということなんです。

 

日本の歌謡曲や演歌のなかにもラテン・リズムやシンコペイションが鮮明に入り込んでいるのはもちろん間違いありません。もとをたどるとキューバ音楽がルーツなんですけど、日本の大衆歌謡のばあいは、ジョルジュ・ビゼーの「カルメン」が直接の先生だったかもしれません。このあたりは以前詳述しました。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-ffcb.html

 

セレクションの幕締めには、わさみんのアクースティック・ギター弾き語り三つを持ってきました。どれも見事ですが、特にラストの「糸」のこの表現は本当に舌を巻くすばらしさじゃないでしょうか。2017年5月のライヴ収録なんですけど、こういったわさみんをぼくはまだ生では未体験なんで、ぜひまた一度やっていただきたいと思います。秋LOVEライブ。 そのときは駆けつけますよ。

2019/07/04

ギターのごとく

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https://itunes.apple.com/jp/album/dis-is-da-drum/14450271?l=en

 

歌手やギターリストや管楽器奏者などは、ステージ前方まで出て、観客にアピールしながら演唱できますよね。簡単に言えば目立つことができるっていうことです。特にハンド・マイクを持つときの歌手とエレキ・ギターリスト(は最近、無線で音を飛ばすこともできる)かな。これがドラマーや鍵盤楽器奏者ともなれば据え置きのものを演奏するわけですから、そんなことは不可能。

 

ドラムスやアクースティック・ピアノを演奏するばあいはいまでも同様ですが、鍵盤楽器奏者が電子キーボード、シンセサイザーをやるときは、写真のハービー・ハンコックのようにショルダー・ストラップを使って、まるでエレキ・ギターのように抱えて、ステージ最前列にまで出て演奏することもできるようになっています。これは当人たちにとって、ライヴ・シーンでは大きなことなんじゃないかと思うんですね。

 

どんな楽器奏者でも、バンド(できればオーケストラ)をバックに従えて、最前列で堂々とカッコつけて歌いたいみたいな根源的な潜在欲求があるんじゃないかとぼくはにらんでいるんですけど、電子鍵盤楽器奏者のばあいは、それがいまや可能となったわけですね。ハービーのばあいでもほかの奏者のばあいでも、ぼくは生でも動画でもなんどか観ています。

 

すると当人たちは実に楽しそう。たとえばロック・コンサートなんかで、歌手、複数のギターリスト、ベーシストなどがステージ前列でズラッと並び、競い合ってジャムっている光景がよくありますね。そうはしないハービーだって、やろうと思えば可能なわけです。そして歌手やギターリストのように、ハービーも演奏に気持ちが入ってポーズをとったり顔で表情をつくりながら弾いたりします。ステージ前列に出てきて歩いたりしながら弾くこともあります。

 

もちろんやりながら表情が豊かになるのは、後方で据え置き型楽器を演奏していたってみんなそう。でもそれは感情の自然な発露であって、ステージ前列で観客にアピールするようにショウアップするということではなさそうです。ステージ最前列での歓悶の表情だって、ショウアップじゃなくてそれも自然に気持ちが入っているだけでしょうけど、やっぱり意味合いが違っていると思うんですね。

 

なんといってもエレキ・ギターがライヴ・シーンで活躍するようになって以後ですよね、そういったステージングがあたりまえのものになったのは。というとこれも1960年代のロック・コンサートからそうなったのでしょうか。そりゃあステージ最前列で棒みたいな楽器を紐で抱えた人間や歌手が複数、一列に並んで顔を歪めながら必死でやっているさまは見ごたえがありますよ。

 

ピアニストやその他鍵盤楽器奏者のばあいは長年それができませんでした。ハービーがライヴで使っているああいったギター型のシンセサイザーがいつごろから発売されるようになったのか、調べてみないとわからないですが、ステージングが一変したと思うんですね。まるでエレキ・ギターリストのごとくシンセサイザーを抱えて、前に出てフロントで弾きまくるハービー。カッコイイし、ぼくは好きです。なんたって本人が楽しいんですから。

2019/07/03

真実は音にあり 〜 略歴紹介なしのニュー・クリティシズム主義

31filles_kilimanjarohttps://open.spotify.com/album/7pFyY6SvB0XlUKp8srk8Az?si=2-efxcBCRMmRBdB6HXNrmw

 

文学批評の方法論のひとつにニュー・クリティシズムというのがありまして、ぼくは根っからそれに染まっている人間。英文学者だった時代が長いですけど、もっぱらこれで通してきました。ニュー・クリティシズムとはなにか?を簡単に言いますと、批評対象の作品を社会的・文化的、そしてなにより作者の伝記的文脈と切り離し、作品じたい自律したものとしてそれだけ扱うっていう態度のこと。主に英米で20世紀前半あたりに主に大学で流行ったやりかたです。すぐれた批評本もたくさんあります。

 

文学作品は、それじたい自律したものであって、創り手の人生や背景などに意味の源泉があるのではないという考えから来る批評方法だと言っていいんじゃないでしょうか。こういったニュー・クリティシズムが主にアメリカの大学で盛んだった理由のひとつには現実的な要請もありました。それは作家の人生や諸々の背景・文脈を解説するばあい、しっかりやるとそれだけで学期が終わってしまうっていうことです。

 

いくら従来的な文学批評法でも、最も肝心なのはやはり作品の中身を扱うことでしょう。そこへ一歩も足を踏み入れることのできないままワン・タームが終了すると、なにをやったのかわからなくなってしまう、という一種の危機感みたいなものがアメリカの大学で英文学の授業をする教授たちにあったと思います。これがニュー・クリティシズムが勃興する現場での現実的理由でした。

 

そんな事情もあったとはいえ、やっぱり作品そのものが大切だから、まとわりつく諸情報はとりあえずいったんは切り離して考え、作品単独でそれじたいのなかで意味は完結しているとして扱って考え分析するというニュー・クリティシズムの批評方法論は、いまでもけっこう有効なんじゃないかと思うんですね。それは第一になによりも作品そのものを大切にするという態度だからです。創り手の人物、人生、来歴などを作品関連情報として語るのは二の次でいいんです。

 

これ、真実はすべてテキストにありという考えですよね。伝記的事実なども作品のなかに流れ込んでいるんだから、作品をじっくり十全に考え論評することが、ひいては創り手の人間的側面について語ることにもなるっていう、そんな発想だと言えましょう。なによりいちばんたくさんの時間を作品そのものの分析に割きたいわけだから、という現実的な理由はもちろんありますけれどもね。

 

そんな考えでずっとやってきましたから、ぼくは音楽についてしゃべるときも「真実は音にあり」という態度を貫いているんですね。はっきり言って創り手の人生や来歴なんかはメンドくさいといった面もありますけどね。ライナー・ノーツでも音楽記事でもブログなんかでも、略歴紹介はたいてい読み飛ばしているわけなんです。一足飛びに中身の音楽分析を読みたい。これはもう根っから染みついた発想で、まず死ぬまで抜けないと思います。

 

自分で書くときも、音楽家の人生や伝記的側面や、つまりいわゆる略歴やキャリア紹介などという部分には極力触れないようにしています。触れちゃダメなんてことじゃない、語っていいんですけど、作品に関係した部分だけ、っていうことですね。たとえばアメリカ音楽のばあいだと、どこの州のどこの都市出身でどこの街で活動したかという事実は、そのひとの音楽性に直結しています。そういったことは言わないといけないですけど、密接な関連がなさそうな周辺情報は音楽を聴く上ではジャマじゃないでしょうか。たとえば、何人兄弟だとか、そんなのは。

 

必要な(伝記的)情報も、実は音楽のなかにはっきり聴きとれるものとして顕在しているわけですからね、だから結局音源のことだけ語ればオッケーではあるんですよね。それがぼくの考えかた。たとえばマイルズ・デイヴィスが「マドモワゼル・メイブリー」という曲をやって、それがリズム&ブルーズ調であるとき、その音楽性はとても大切ですけど、メイブリーってだれなのか?マイルズの恋人?いつどこで出会ってその後どうなった?結婚した?みたいなことは、まあどうでもいいわけです。ベティ・メイブリーさんからマイルズはソウルやファンク・ミュージックを教わったかもしれませんが、結局はマイルズの音楽です。いつもそこに、音のなかに、すべての真実があると思うんです。それについてだけ語りたいわけですよ。

 

2019/07/02

サオダージの魅力

A3606111364_10https://open.spotify.com/album/5QB5byBZc0vuQYKoPKQlpx?si=iWZmKjbaQi-d4VPY1cMu4Q

 

http://elsurrecords.com/2019/04/24/saodaj-pokor-ler/

 

ミニ・アルバム『pokor lèr』(2018)をリリースしたサオダージ(Saodaj)。このまったく知らないレユニオンのバンド(ユニット?)の CD を買ったのは、エル・スールのホーム・ページに載ったアルバム・ジャケットの魅力と原田さんの紹介文のおかげです。これは絶対おもしろいに違いない!と感じて買ってみたら、正解。いまのところ日本語で話題にしているかたが(原田さんふくめ)三人くらいしかいないですけど、ちょっと聴いてみてほしいのです。

 

サオダージは打楽器担当の男性三名とヴォーカル担当の女性二名の五人で構成されていて、それでライヴ活動なども行なっているみたいですが、アルバム『pokor lèr』のレコーディングにはもう一名男性が参加しているのがブックレットに記載されています。しかし聴いた感じ、五人だか六人だかは判別できません。また女性も打楽器をやって、男性も歌っています。

 

レユニオンの音楽ということで泥臭いマロヤなどを連想しているとサオダージはかなり違います。もっとグッと洗練された様子なんですね。その洗練とはレユニオンでアフリカとアジアがブレンドされたことのうち、とりわけアジア、なかでもインド音楽成分がもたらしているものなんじゃないかと思えます。『pokor lèr』でもマロヤ系かなと思える曲がないでもないですけど(たとえば2曲目)、基本的には別物でしょう。

 

1曲目のアルバム・タイトル曲はインドの両面太鼓ドールのサウンドが印象的で、それにハンド・クラップや金属系パーカッション類がからんでいきます。それらでグルグルと回転するような打楽器リズムを形成しているんですね。そんな前傾的なビート・メイクに交わる女性ヴォーカルの鮮烈さ、はつらつとした感じも特筆すべきものです。男性も声を出しています。ほぼ全曲でリズムは前衛的な変拍子を使ってあって、そんな点もインド音楽的と言えるかも。

 

ヴォーカル・アレンジメントという面で聴くと、サオダージの『pokor lèr』の中心はあくまで女性二名で、男性はある種の下支え、通奏低音的なボトムスを形成する役目であるばあいが多いみたいで、決してリードでは歌いません。しかし男性ヴォーカルの歌いかたには、台湾先住民のそれや、あるいはときどき仏教の声明を思わせる部分もあるんですね。楽器演奏でも実はそうなんです。

 

考えてみれば、レユニオンにたどりついたアジア系文化のうち、最大はインドだとしても、また何割かは中国由来だったり台湾由来だったりするでしょう。オーストロネシア音楽を意識しているとはサオダージの本人たちが発言していることなので、アルバム『pokor lèr』について書くひともみんなそれを言っていますが、音楽を聴くとむべなるかなと思うんです。

 

まだまだ完成品というよりは、スケールの大きな意欲作という域かもしれませんが、この意匠で充実のフル・アルバムが完成したらいったいどんなものができあがるのか、想像しただけでもワクワクする末恐ろしいサオダージ。太古の軌跡に残されたオーストロネシア人の共通感覚を音楽に探るといったこのバンド(ユニット?)、要注目です。

2019/07/01

ヴァカンス・ミュージックとしての「ワッツ・ゴーイング・オン」by ウェザー・リポート

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ジョー・ザヴィヌルやウェイン・ショーターほかメンバーの自作曲しかやらなかったウェザー・リポートですけど、例外が二曲だけありますよね。『ナイト・パッセージ』(1980)にある「ロッキン・イン・リズム」(デューク・エリントン作)と『スポーティン・ライフ』(85)にある「ワッツ・ゴーイング・オン」(マーヴィン・ゲイ作)。

 

ところでウェザー・リポートがマーヴィンの「ワッツ・ゴーング・オン」をカヴァーしているという事実は、いったいどれほど認知されているのでしょう?ひょっとして、マーヴィン、ウェザー双方のファンからも無視されてきているんじゃないかという気がするんですけどね。有名曲でカヴァーも数多く、そのなかにはたとえばダニー・ハサウェイのみたいに人気ヴァージョンになったものがありますけれど、ウェザーがインストルメンタルでやっていることは、あまり知られていないのでは。

 

ウェザーの「ワッツ・ゴーイング・オン」は、マーヴィンのオリジナルとはずいぶん違います。もちろんマーヴィンのだって歌詞で訴えはするものの曲調はそんなにシリアスではありません。どっちかというと楽しそうな感じに仕上がっていますよね。それをインストルメンタルでカヴァーするもんだからウェザーのヴァージョンにはどこにも深刻さがないような、言ってみればノーテンキな「ワッツ・ゴーイング・オン」になっています。

 

マーヴィンのオリジナル同様に、ウェザーも曲導入部でみんなのしゃべり声をはさみこんでいるところからはじまります。日本語だって聞こえます。そのムードは、いわば南フランスのヴァカンス・ホテルかどこか、そんな場所での娯楽を享受するかのような、そんな感じだと思うんですよ。演奏がはじまったらこのヴァカンス・ムードは拡大します。

 

マーヴィンが歌うパートをウェザーはジョーのシンセサイザーで表現。それにウェインのテナー・サックスが小さくからみます。特筆すべきは背後のオマー・ハキム(ドラムス)とヴィクター・ベイリー(ベース)の二名のリズム演奏。それらがなかったらまあまあ聴けるという出来にはならなかったかもしれません。

 

サビに入るとシンセが引っ込んでテナー・サックス中心になりますが、マーヴィンの原曲にあった不安感は、その部分でそこそこ表現されているように思います。ただし、戦争や差別といった人類の危機を歌い込んだマーヴィンの不安感、深刻さとは違います。ヴァカンスのカジノでお金が足りなくなってどうしよう〜?とでもいった感じののんびりしたものじゃないでしょうか。

 

おもしろいなと前々から感じているのは、中間部でテンポが消えてウェインのフリー・ブロウイングになって、それが終わった次の瞬間に出るオマーのブラシ・プレイです。そのやわらかさは格別の心地よさじゃないかと思うんですね。そのブラシによる演奏に連なるヴィクターのベースもいいですよね。結局、そのまま演奏終了までオマーはブラシでプレイ。おだやかであったかいムードで、ぼくはちょっと好きなんです。

 

おだやかとかやわらかいとか(シリアスさのかけらもない)ノーテンキさとか、およそこの「ワッツ・ゴーイング・オン」という曲の解釈してはそぐわないおかしなものかもしれません。しかしどういうふうにとりあげてどういうふうに演奏するかはそれこそ音楽家の自由ですから。できあがりがおもしろかったらそれですべてオーケーじゃないかと思います。

 

ま、それでもこのウェザーの「ワッツ・ゴーイング・オン」はやっぱりイマイチかもしれないです。これを収録したアルバム『スポーティン・ライフ』はなかなかの充実作、傑作だと思っていますので、そのあたりは以前もくわしく書いたんですけど、またもう一回あらためて強調したいと思ってはいます。だって、『スポーティン・ライフ』って、ずっと無視されつづけているアルバムなんですもん。

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