ジョニの「ウッドストック」は、楽園へのレクイエム
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ジョニ・ミッチェルの二枚組ライヴ・アルバム『シャドウズ・アンド・ライト』(1980)の最後の最後で、まるでコーダのようにして、ギター弾き語りでひっそりと静かに歌われる曲「ウッドストック」が好き。それはまるでにぎやかだった乱痴気騒ぎのあとひとりでしんみりとたたずみながらポツポツとふりかえり語っているかのようです。
しかし、「ウッドストック」というこのジョニの曲は、決してウッドストック・フェスティヴァル1969を斜めに見たり、その楽園幻想が崩壊したあとの幻滅や失望を扱ったりしたものではないんですね。わりとストレートな楽園賛美、ユートピアニズムを歌った内容です。ヴェトナム戦争だって蝶のイメジャリーに変換されていますから。ジョニ自身は別の仕事のため、1969年8月のあのヤズガーズ・ファームには行かなかったそうで、ちょっと不思議な感じがしますね。
ジョニの曲「ウッドストック」は、英語を解さないかたが、あるいは歌詞をいっさい無視して、聴けば、その哀愁感とわびしさが強烈に漂うスケールとメロディ・ライン、サウンドのせいで、ウッドストックという楽園が崩壊したあとの虚無感をつづった曲なのだとしか思えないですよね。でも、歌詞をよく聴けば逆です。いったい、ジョニのこの「ウッドストック」とはなんでしょうか。
ジョニ自身のヴァージョンは1970年のアルバム『レイディーズ・オヴ・ザ・キャニオン』収録のものが初演であるこの曲「ウッドストック」が生まれた背景、いきさつ、ジョニはウッドストックで歌いそうな歌手だったのにどうして行かなかったのか、じゃあどうやって、だれからどこから情報を得てこの曲を書いたのか 〜〜 など諸々についてはいままでイヤというほど語られていますから、今日は省略します。
歌詞はユートピアニズムに満たされているのに、曲はペシミスティックで憂鬱そうというジョニの曲「ウッドストック」。ジョニは当時からこういった曲想のものをよく書くソングライターなんで、ことさらとりたてて言うこともないのかもしれないです。いまの、いや、むかしから、大好きなライヴ・アルバム『シャドウズ・アンド・ライト』のラストで、まるでクール・ダウンのように歌われる「ウッドストック」を聴いて、感じてきた、感じていることを素直に記しています。
端的に言って、ジョニの「ウッドストック」とは、あの1969年のフェスティヴァルのアンセムでありながら、同時にレクイエムにもなっているなと思うんですね。この印象は、まず第一にはやはり、全体がにぎやかなお祭り騒ぎみたいな二枚組ライヴ・アルバム『シャドウズ・アンド・ライト』のクロージングに置かれている、それが実にしんみりとした感じであるというところに最大の原因があります。ジャコ・パストーリアスというハレの権化みたいなベーシストが大活躍していますし、このライヴ盤二枚組全体が、あたかもウッドストック・フェスティヴァル1969みたいじゃないかと思うんですよ。
『レイディーズ・オヴ・ザ・キャニオン』収録の初演をふくめジョニ自身によるヴァージョンをいくつか聴いていますと、曲「ウッドストック」は、やはりもとからやや暗いというか陰鬱気なサウンド・イメージを持った曲なのは間違いありません。リフレイン部では毎回エデンの園に言及するほどのユートピア主義に満たされた歌詞なのに、曲がそれを裏切って、まるで果実を食べてしまったあとのアダムとイヴや末裔の姿を、それもメロディ・ラインやサウンドで表現しているかのようです。
ジョニはあくまでウッドストック・フェスティヴァル1969をすばらしかったものだとして扱っているようですよね。1969年12月にライヴでこの曲を披露する前に語ったことばなども残っていますけど、その後ずっとのちのちまでも、ジョニはこのウッドストックについては楽観的な見方を捨てていないみたいです。そんなジョニのことばがいくつもあります。
しかしそんなジョニの考えやそれが反映された歌詞を、曲が裏切っているんですね。曲「ウッドストック」のメロディに漂う強烈な終末感、わびしさは、まるでウッドストック幻想が崩壊してのちのひとびとの持った失望、失意、幻滅、喪失感を、曲づくりしながら、歌いながら、そうとは意図せずに気付きすらせず、ジョニが込めてしまったかのようです。すくなくともぼくはそう感じています。
ここが音楽のおそろしいところだと思うんですね。曲を書き歌う本人も、曲じたいがどこまでのひろがりを持つものなのか、コントロールしきれないんです。音楽だけでなく、とてもすぐれた芸能・芸術作品はいつもそうなんですが、作者や演者の意図をはるかに超えてしまう部分があります。ばあいによっては正反対を向きますよね。そうやって、受け手からすれば実に多様な解釈を可能とするところに、傑作の傑作たるゆえんがあるんです。
ジョニ自身は楽園思想を持ち続けていて、曲「ウッドストック」にかんしても決して幻滅の気持ちを込めたなどと自覚していないということはわかっています。1979年のライヴ収録である『シャドウズ・アンド・ライト』のヴァージョンはじめ、後年までくりかえし歌い、録音作品化までしているわけですから、とうぜんそうですよね。でもしかし、曲とは生きものです。どこまでその曲のイメージが拡大するかは作者にもわからないことなんです。
こわいことに、ジョニは曲「ウッドストック」でユートピアを歌いながら、しかも同時にその楽園崩壊と幻滅をも歌い込んでしまっているんですね。いまの、2019年の、というよりもアルバム『シャドウズ・アンド・ライト』をはじめて聴いた40年ほど前の大学生のころから、ぼくが曲「ウッドストック」に共感するのは、むしろ失意、失望のメランコリー・ソングとしてのフィーリングにあります。
ジョニ自身がこの曲「ウッドストック」に幻滅と憂鬱のフィールがあるということに気づいてもいないというところは、本当に音楽のすごさ、おそろしさを表しているものだと、ぼくは震えさえします。気づいていたらライヴなどでくりかえし歌えませんからね。ただただ、聴き手であるぼくがそれを、特に『シャドウズ・アンド・ライト』のヴァージョンに、感じとってしんみりし、部屋のなかでたたずんでしまうというだけのことです。
<あの夏>からピッタリ半世紀。ウッドストック・フェスティヴァル1969とはいったいなんだったのでしょうか。アンセムとまで言われる(のは CSNY のヴァージョンかもしれませんが)曲「ウッドストック」を書いたジョニは、あそこへ行きませんでした。ジョニ自身は行けなかったという強い喪失感を抱いたそうです。それがあったからこそ理想化され、曲「ウッドストック」はこんな歌詞を持ったのでしょう。
ただ、もうひとつ、行けなかったというジョニの強い喪失感は、ある種のメランコリーとなって曲「ウッドストック」のこの哀切感の濃いメロディ・ラインとサウンド・フィールに反映されたかもしれないなと思うんです。もしそうだったなら、そのメランコリーは、結果的に、楽園へと足を運ぶことのないまま幻滅と失意に満たされてしまうぼくのフィーリングにちょうどよくフィットして、それがウッドストック1969の幻想が崩壊してのちのひとびとの持った失望感や憂鬱さ、暗さに、ぼくのなかで転化したように思うんです。
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