想像力の涵養
音楽を聴く効用のひとつに、想像力の涵養ということがあると思います。この音がこう来たら、次はどうなるだろう、たぶんこうだ、とまだ鳴ってもいないサウンドが頭のなかにかきたてられるわけです。こういったことは、たくさん音楽を聴いてきているリスナーのみなさんであれば必ず体験していることだと思うんですね。はじめて聴く曲でも次の音が想像できる、これはわりとふつうのことです。
音楽を聴いていて、この音はこの先どうなるのか、次にどんな音が来るのか、あるいはこういったサウンドだったならきれいだなあ〜って頭のなかで思い浮かべることですね。そのとおりに音楽が進むと、よしっ!っていう気分になったりするし、期待が外れると、う〜んこうだったらよかったのに〜とちょっと残念で悔しい気もしたりなど、みなさん体験していますよねえ。
これは、こういう音楽ならこういったサウンドの並びになっていくだろうっていう、ある程度のパターンが自分のなかに刻み込まれているからであります。だから裏切られたときに、それが楽しく美しかったら新鮮な驚きで、うれしい気分になったりもしますよね。思ったとおりに次のサウンドが来ても、マンネリなパターンだとつまらないって感じるのも当然です。
一種のミュージシャン、あるいはプロデューサー感覚ということに近いことかもしれないですが、音楽を創っていくようなそんな立場に、頭の想像のなかでだけなっているということです。この感覚があるかないかは、ただ聴くだけのファンであるぼくが聴いて楽しむだけのときにも、その享楽感覚の深さを支配する大切なことになっていたりするんですね。
音楽をぼくは創造するわけじゃありませんが、音楽を想像するということは毎日どんどんやっているわけです。CD でも配信でもどんどん聴いていて、その聴いている音楽の理想的な姿、目標を思い浮かべることは日常的にやっていますよね。すると、目標が高いせいなのか、その理想レベルに達している作品に出会うことはなかなかありません。でも、たまに出会えると運命の相手だ、人生パートナーだって思えますよね。
そんな想像=創造の理想的パートナーともいうべき音楽作品を自分のなかでどんどん増やしていくことが、音楽だけ人生を歩んできているぼくにとってはかなり大切なことで、滋養にもなっているし、いざというときには助けられたりもするし、生活のうるおいになって、生活、人生が充実しますよね。
こういったことは、音楽を長年にわたりたくさんどんどん聴いていないとたぶんできないことかもしれません。音楽のある程度のパターンを脳裏に刻み込んでいく、そのストックが増えれば増えるほど、自分のなかでの自在な(音の)想像力もたかまりますから。だから、まったく聴いたことのない新鮮なパターンの音楽に出会って、しかもそれがすばらしいものであったときの感動も、またいっそう大きいんですね。
そういった想像力の涵養は、創造というものに(頭のなかでだけであったとしても)姿を変え、それはもの(音楽)をつくりだすだけでなくて、自分の人生をつくりだしていくことにも大きくかかわります。そうです、音楽を聴いて想像力をたかめることは、人生を創造することにつながるんですね。
(written 2019.8.24)
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