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2020年2月

2020/02/29

ain’t は洋楽でおぼえた

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https://open.spotify.com/playlist/6m5yWDQ2IMRmkJdxXtSl30?si=Adp-WoruTPOSzc-CKRKREQ

 

音楽で憶えた英語の代表格は "ain't”。これ、現在に至るまで学校や教科書で聞いたり見たりしたことは一度もないですからねえ。もっぱら洋楽(や洋画)で知った表現です。ジャズやブルーズやロックなどの曲題や歌詞には実に頻出するものなんです。だからぼくら洋楽ファンはこの ain't になんの疑問もいだかずそのまま受け入れていますけど、英語の歌に関心のない日本人にはわからないものだそうですよ。

 

数年前も、とあるかた(たぶん日本語ネイティヴ)と Twitter でふざけて英語でしゃべっていて、gonna を使ったら、相手に?マークが出ていましたからねえ。たぶんそんなもんなんですよね。ain't とか gonna とかぼくらなにも不思議に思っていませんし、TPO を選ぶとはいえ英語ネイティヴのみなさんにもすんなり受け入れられるものですけど、一般的にはあまり知られていないものかもしれません。

 

そんな具合で、洋楽で憶えた英語ってけっこうたくさんありますよね。アルバム題、曲題、歌詞など。ぼくのばあいはむかしから歌詞の中身をあまり気にしたことがなく、レッド・ツェッペリン・コピー・バンドでヴォーカルをやっていたから歌詞も憶えはしましたけれど、その高校生当時は歌詞の「音」だけ丸暗記していたというに近い状態だったんじゃないでしょうか。意味なんかはもちろんわからない部分も多く。

 

ain't は be 動詞や have 動詞の否定形なんですけど、それだけとは限らず一般に動詞を否定する表現としてカジュアルにひろく使われているような気がします。実例によく遭遇しますからね。そんでもってぼくらにとっての「実例」とは、たとえばデューク・エリントンの「Things Ain't What They Used To Be」であり、マイルズ・デイヴィスで知ったガーシュウィンの「It Ain't Necessarily So」(『ポーギー&ベス』)であり、ロッド・スチュワート&ジェフ・ベックの「I Ain't Superstitious」(ハウリン・ウルフ)であり、ビル・ウィザーズの「Ain't No Sunshine」であり、ってことなんです。

 

それらを聴き、意味はさほど気にしないにせよ、たぶん動詞を否定しているんだな、なにかを否定する表現なんだ、ということは想像がつきますよね。ain't なんていう表現はどんな教師からもどんな本からも教わりませんでしたから、つまり実地教育、実例教育っていうか、そのまま現物をたくさんぶつけられて、それでそのうち感覚と類推でわかるようになったという、そんなもんですよね。

 

ぼくのばあい、大学で英米文学を専攻し、専門はアメリカの現代小説だったんでそれを、主に三年生のころからかな、たくさん原書で読むようになり、卒業論文はウィリアム・フォークナーで書いたんですけどフォークナーなんかもひととおり原書で(翻訳でも)読みました。フォークナーはミシシッピの深南部の作家で、作品のなかには黒人やプア・ホワイトなんかもたくさん出てきます。

 

フォークナーは会話描写が写実的ですから、南部なまり黒人なまりなどそのまま「音」を文字で記しているわけですけど、大学生になってそれらを読んで、戸惑ったりわからないと思って辞書を引いたりなんてこともすくなかったのは、それ以前に似たような英語表現に、洋楽で、たくさん接していたからに違いありません。だから、英文学者としてのぼくにとっても洋楽が教師だったんです。

 

あっ、いま思い出しました。アメリカ合衆国本土にはなんども行きましたが、ニュー・ヨーク・シティあたりで「南部出身ですか?」と言われたことがあります。日本人なんですと答えると「う〜ん、南部なまりがあるように聞こえる」と言われ、そうなのか、ハシクレとはいえいちおう英語教師であるぼくとしてはスタンダードな英語をしゃべって教えていたつもりでしたから、ちょっとイカンな、しかしそんなのはアメリカ南部音楽(由来)の歌ばかり聴いて歌ってきたからだとか、苦笑してしまいました。

 

それくらいぼくにとってはアメリカ南部の、黒人の、くだけた日常の英語表現が身近なもので、それは間違いなく洋楽にまみれるように接してきたからなんですね。ぼくが南部人なのかと言われたように、日本にいて洋楽でアメリカ黒人の、南部人の、くだけた英語にばかり接しあたかもそれが標準的なものだと思い込みそのままネイティヴの前で披露すると、アレッ?となってしまうことだってありますが、それでも最も日常的に接している英語が洋楽、それもアメリカ南部音楽なんだからしょうがないですよねえ。

 

ジャズやブルーズやロック、リズム&ブルーズやソウルやファンクなどなど、いままで空気を吸ったり水を飲んだりするのと同じように聴いてきましたけれど、いまも、これからも、たぶん変わりありません。ぼくはダメ教師ですけど、ちゃんとした英語教師のなかにもこの単語やこの表現は洋楽のこれこれの曲題で知りました、なんていうひとはたくさんいるんですよね。

 

そんな感じで、アメリカ(やそれ由来のイギリスのでもいいけど、ロックは UK ロックのほうが)のくだけた音楽を浴びるように聴いてきたぼくらにとっては、中高大の英語の教師や教科書や参考書など、どんな人どんな本よりも洋楽で、英語を学んだのでした。会話などでよく使う日常的なカジュアルな英語、つまり ain't や gonna みたいなやつですけど、もう100%洋楽がぼくらの教師でしたよね。

 

(2020.1.29)

2020/02/28

デジタル・ピアノは永遠にチューニング不要

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いまはバンドの仲間内で練習用ほかで音源を共有したい際は、メールやメッセージング・アプリなどに添付してネットで送ればいいし、オリジナルなら音源共有サイトなどに上げるのもいいでしょう、実際そうしているんだろうと思いますし、かりに物体に入れて持ち運ぶ必要があったとしてもスティック型のメモリーや、もちろんディスクでもいいんですけど、それでやればピッチがみんなのあいだで狂ったりしないはず。

 

これがですね、むかし、そう、いまから40年ほど前、ぼくが高校生時分にバンドをやっていた時代にはカセットテープでやりとりしていたわけですよ。するとですね、ピッチ(音程)にかんし重大な懸念が生じるばあいもありました。各自が持つテープレコーダーやラジカセなど再生装置の回転数の問題で、渡した相手のてもとで微妙にテンポが速くなったり遅くなったりして、それで若干音程が高くなったり低くなったりするんですね。

 

複数人で同じ一個の曲を練習したいわけなのに、それぞれでピッチが微妙に違うなんていうのは致命的です。これはぼくがやっていたようなレッド・ツェッペリン・カヴァー・バンドでもそうでした。高校生時代ですからね、まだお小遣いをためてレコードをやっと一枚買えるかどうかとかいう世界です。課題曲が収録されているアルバムを持っているのは仲間内でも少数。その持っているやつがカセットテープにダビングしてみんなに配ります。

 

しかしですね、カセットデッキやラジカセやの機器メーカーや、あるいは個体差もあったんじゃないですか、テープの回転速度はですね。自分の経験でしか語れませんが、やっていたのはツェッペリン同様の4ピース・バンドで、だから音程の問題がシビアになるのはギターとベースですよね。ぼくはヴォーカルでしたからちょっとくらい音程が違っても合わせるのはラクチンですが、ギターとベースはたがいにもし把握している音が半音も上下したら(なんてことはなかったけど)大問題ですよ。

 

当時は(いまも多くは)A=440Hz になっていたと思います。(ギターの5弦を合わせる)音叉がそうでしたし、アナログ・チューナーなんかもそれ基準だったはず。そういえばチューニング・パイプなんてものもあったなあ、いまもあるの?ギターやベースやなど、あるいはヴァイオリン族や三味線などなど、つまり弦楽器はその場でパッとチューニングを演奏者各自で修正・変更しやすいですけど、ピアノなど鍵盤楽器はそうはいきませんよねえ。ほぼ固定的でチューニングもその道の専門家がやります。だからピアニストと共演することでもあれば、そのピアノが出す A なら A の音に(それが狂っていても)みんなが合わせるしかないんじゃないですか。

 

とにかくですね、1970年代終わりごろのアマチュア高校生バンドのメンバーたちは、知識も技術もないし頭も固いしで、だからもらったテープと同じ音じゃないと演奏できないよ!みたいな感じになることがあったかなかったか、でもいや、現実にはですね、たとえばツェッペリンのこの曲、キーは Am だ(「天国への階段」)、それで基準は A=440Hz でやっているからギターやベースが各自それでチューニングして自宅で音を出してみれば曲のここはこの音になるはず、っていうことで、いざメンバーが顔を合わせてバンドでやって、ピッチがずれていて戸惑うなんてことはありませんでした。ラジカセなんかで聴いたものは若干狂っていたとしてもですね。

 

それにそもそもレコード盤をまわすターンテーブルの回転速度だって若干のメーカー差、個体差があったかもしれませんしね。ここが正確じゃなかったらほかも全滅です。自分の、あるいはレコード所有者のターンテーブル回転が本当に正確であったかどうかはわからないんですから、ハナからレコードで聴いた際のピッチが正しくなかったかもしれないし、その上そこからカセットテープにダビングしたものをいろんな環境下へばらまくわけですからねえ。

 

楽器のチューニングにかんしては、上でも書きましたように弦楽器類はチューニング変更がきわめて容易、ということは簡単に狂いやすい種類の楽器であるというのも確かなことです。だからライヴなどの際、ギターリストは曲間でよくペグをまわして微調整しているでしょう。ピアノはそれに比べればまだ狂いにくいとはいえ、グランド・ピアノやアップライト・ピアノなどアクースティック型はときどき調律師にみてもらわないといけないです。

 

その点、デジタル・ピアノはいいですよ。ぼくの持つヤマハのデジタル・ピアノ P-125は A=440Hz で工場出荷時にチューニングされていますけれど、どんなに弾いてもこれが永遠に狂わないんですって。買ってみるまでこのことをぼくは知りませんでした。さらにこれを微妙に上げたり下げたりも各自でカンタン自由にできるんです。いまは442くらいがスタンダードなんでしょうか。その微妙なチューニング変更もワン・タッチなんですよ。

 

それにしても本当にデジタル・ピアノっていいですね。ぼくのはヤマハ製だけど、フェンダー・ローズみたいな(とは書いてない、他社だから)エレクトリック・ピアノ音も、ハモンド B3みたいな(とは書いてない、他社だから)オルガンの音も、チェンバロ音も、それからソリーナみたいな(ってみんな憶えてる?)ストリング・アンサンブルの音だって、ボタンを一個押すだけで出せちゃうんですからね。自動デモ演奏もできるし、打楽器音の伴奏だって付けられます。

 

A=440Hz のチューニングが絶対に狂わないから、CD などを聴きながらあわせて弾いていると、あ、この CD はピッチがちょっぴり違っているぞなんてことにもすぐに気づけます。たとえばこのあいだ奄美島唄の平田まりなのアルバムにあわせてデジタル・ピアノを弾こうとして(そんなヤツおかしいちゅ〜ねん)ピッチが合いませんでした。平田は三味線弾き語りですからね。そういった CD はほかにいくつもあります。

 

話がとっちらかってますが、たとえば A の基準音のヘルツ数の問題や(最近ピッチがやや上がり気味らしい)、プロのピアノ調律師がやる平均律チューニングとはどれほどのマジックなのかということや、あるいはまた回転数の違いで音程が微妙に狂っている戦前の古いジャズやブルーズ音源の問題や(どうして Spotify にあるもの、たとえば1920年代のサッチモは CD のとピッチが違って聴こえるのか?いったいどれをソースにしたのか?)など、たくさん関連する話題があることは今日は扱いませんでした。

 

またの機会に。

 

(written 2020.1.28)

2020/02/27

演歌は泣き節しなづくり?

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演歌というと「泣き節」「しなづくり」と言うひとがいますけど、演歌をあまり聴いていないんだなと思います。たしかに古式ゆかしき演歌歌唱法だとそうなるかもしれないし、実際いまでも多いですけどね。でもそんな演歌歌手ばかりじゃないんです。もっとこう、かつてのニュー・ミュージック(古っ!)のシンガーたちみたいに、スッとナチュラルで繊細に歌う演歌歌手だっているんですよ、それも複数名。

 

たとえば発音が素直であるとか、コブシもまわさないとか、ヴィブラートも使わないとか、こういった特徴は、アメリカのジャズ・トランペット界だとルイ・アームストロング系の強くて濃ゆい演奏法が主流だったところに逆を行ったビックス・バイダーベックや、まただれよりもマイルズ・デイヴィスがそうじゃないですか。マイルズはたぶんジャズ界で最も聴かれているトランペッターですよ。

 

日本の演歌界でも同様のことが言えるんです。スムースでナチュラルな生の繊細な質感を大切にする、いわばオーガニック演歌、ネオ ENKA みたいな世界の担い手が近年出てきています。その最たるものが(ここ数年の)坂本冬美であり、そしてだれよりも岩佐美咲なんです。反対にコブシとヴィブラートを使いまくり濃厚にこねくりまわすのが都はるみ、森進一、森昌子、石川さゆりなどでしょうか。前者はまだ数が少ないですが、後者なら無数にいますよね。だからオーガニック演歌はまだマイノリティですけれどもね。

 

昨日書いた演歌のフィクショナリティ(がリアルに転化する)みたいな部分は、実は泣き節、しなつくりみたいな濃厚抒情表現法で実現されていたというのが本当のところではあります。現実世界、日常生活ではありえないような発声法ですからね。つまり、フィクションなんです、ああいった歌いかたはですね。典型例をあげておきますと、有名どころで美空ひばりの「悲しい酒」、近年では森昌子の「なみだの桟橋」(これはわさみんも歌った)あたりでしょう。ティピカルな演歌スタイルかもしれません。
https://www.youtube.com/watch?v=jqPpBzKYn-Q

 

タメとヴィブラートがすごい森進一の「北の螢」もちょっと聴いてみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=IoNdfSU4DyU

 

こういったものはこれで立派な歌なんですけど、これら同じ曲でもわさみんこと岩佐美咲が歌うとかなり違った様子になるんですね。それら二曲とも『美咲めぐり〜第1章〜』に収録されています。わさみんは「北の螢」でも「なみだの桟橋」でも、こんな歌いかたはぜんぜんしていません。すーっと素直に声を出し、コブシをまわさずヴィブラートもかけず、ナチュラルでスムースでナイーヴな歌を聴かせてくれているんですね。

 

泣き節、しなづくりみたいな古式な演歌唱法だと、曲はその歌手のものになるでしょう。リスナー側としても、歌手の色が濃いもんですからそれに耳がいき、結果的に「歌を」聴くよりも「歌手を」聴くということになるんじゃないでしょうか。歌の持つ本来の魅力が、それでは伝わっていかない可能性もあります。岩佐美咲や近年の坂本冬美(『ENKA』シリーズ)のようなナチュラルでやわらかく軽い歌いかたをすれば、曲じたいの美しさがきわだって、よりよくリスナーに伝わります。

 

以前、わさみんとちょこっとこのことについて話をしたことがありますが(とある歌唱イベントの特典会の際に)、「どうしてこういう歌唱法を選択しているの?」というぼくの問いに、わさみんは「それが歌がいちばん伝わるから」と返してくれました。やはりですね、生得的・本能的という部分もありましょうが、わさみん自身しっかり考えてこういう歌いかたをしようと選びとっているんですよ。それがいちばんいい歌唱法だからと。

 

坂本冬美だって2016〜18年の『ENKA』シリーズ三作では、素直な発声でナチュラルにふわっと歌い、それと同様にやわらかいフィーリンみたいなアレンジ&伴奏をともなって、ベテラン実力派によるネオ・オーガニック演歌とでもいうようなものを聴かせてくれていましたよね。濃厚表現に抑制を効かせたそんな冬美の歌は、わさみんと同様の路線なわけですが、そういったナチュラル&スムースな演歌唱法こそ、ここ10年ほどのフィーリングにピッタリ合う新時代の斬新なやりかたなんじゃないでしょうか。

 

また、わさみんはそういった歌いかたをしているからこそ、そんな、なんというか濃ゆ〜い歌詞の世界も、それからたとえば中島みゆきやさだまさし(山口百恵)やイルカや森高千里の書く日常感覚に根差したポップな歌の世界も、無理なく同居させられるんですね。これはできるようでなかなかできないことですよ。世界が違うんですから。歌詞の世界観も違えばメロディ体系も和音構成も違っています。わさみんや冬美はどっちも難なく歌いこなせる稀有な才能の持ち主なんです。

 

っていうことは、浮世離れした(ティン・パン・アリー的な)あんな現実的ではない非日常感も、ルイ・ジョーダンやチャック・ベリーらの卑近な生活感覚も、それはなかなか同居しないものですけど、わさみんや冬美は同じ地平において同様に歌えるということです。いま日本人歌手で、そんなヴァーサタイルなスタイルを持つ歌手がどれだけいるというのでしょう。ひょっとしてわさみんと冬美だけ?とは思いませんが、相当少ないのは事実ですね。

 

どうか、演歌というと「泣き節」だ「しなづくり」だという臭い手垢のついたステレオタイプばかり言わないでいただきたいと思います。もはやそんな演歌歌手ばかりじゃありません。むしろ2010年代の現代感覚にフィットするニュー演歌は、わさみんや冬美がやっているような生感覚を活かしたナチュラル、スムース、ナイーヴな表現法にあるんですから。わざとらしいつくりものの演歌唱法ばかり言わないでほしいです。

 

演歌はだんだんと年金受給者世代だけのものになりつつあるというのが現実で、このままではジャンルじたい滅亡してしまうかもしれません。たくさんの演歌スタンダードを現代感覚で歌いこなした冬美や、激情濃厚演歌も自分なりの感性と素直な声で聴かせてくれるわさみんは、絶滅の危機に瀕する演歌界の救世主になりえるかもしれないんです。演歌も演歌なりに時代にあわせて更新されていかなくちゃいけません。生まれ変わっていかなくてはなりません。そう考えたら(軽いポップスも同じように歌える)わさみんや冬美の重要性がいっそう理解しやすいのかもしれないですね。

 

(written 2020.1.28)

2020/02/26

岩佐美咲で考える歌のリアルとフィクション 〜 日本の演歌とアメリカのティン・パン・アリーに共通すること

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共通しているのは(特に歌詞が)非日常的で現実離れしているっていうこと。主旋律なんかもそうですね。だから妄想するにはちょうどいいんです。ティン・パン・アリーのラヴ・ソングについてこのことは以前書きました。日本の演歌、たとえばわさみんこと岩佐美咲の歌の世界だってそうなんですよ。あなたのためならこの命さしだすわとか、この手のセリフが多いですからね。これはわさみんだけじゃなく演歌全般について言えることです。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-48535c.html

 

わさみんの歌った曲なら、非現実性がもっとも激しいのは、たぶん「無人駅」「鞆の浦慕情」「佐渡の鬼太鼓」や、カヴァー曲だと「北の螢」(森進一)「風の盆恋唄」(石川さゆり)「旅愁」(西崎みどり)「恋の奴隷」(奥村チヨ)「飛んでイスタンブール」(庄野真代)「20歳のめぐり逢い」(シグナル)あたりでしょうか。

 

これらのうち最後の三曲は演歌とは言えないでしょう。でもあまりそこを区別しすぎても意味がないので、今日はとりあえずそれらも念頭に置くことにします。わさみんも歯の浮くような浮世離れした歌詞と抑揚の激しいドラマティックなメロディをわりとたくさん歌っているわけですよ。本人のブログや Twitter など見ていると、ふだんはきわめて卑近な日常生活感あふるる24歳(2020年1月27日時点)ですから、やはり仕事は仕事と割り切ってとりくんでいるのでしょう。

 

また、わさみんの歌う歌詞やメロディなど音楽的には現実離れしていますが、制作面から見れば、豪華な生演奏オーケストラなんかぜんぜん使わず(2016年のファースト・ソロ・コンサートで起用したその一回だけ)、すべて代用の鍵盤シンセサイザーやプログラミングでまかなうっていう、ライヴならカラオケっていう、とことん現実的な貧乏路線で行っていますけどね。そこはいかにも不況下の音楽業界らしいところなんです。

 

それはおいといて、演歌など歌の世界が歌詞面でもメロディ面でも非日常的で現実離れしていて、ときどきかなりドラマティックで夢のようである、激しい、というのは、しかしぼくのような人間にとっては楽しいことなんですよ。ぼくはいつも妄想していますからね。それでかなりいい気分にひたって、それでなんとか毎日生きているわけです。ぼくにとってはそういったフィクションが人生に必要なんです。

 

以前くわしく書きましたが、アスペルガー症候群という障害をぼくは持っています。現実の人生での人間関係はいっさいうまくいかないんです、ダメなんです。最近はすべてをあきらめるようになっていて、絶望、というとことばがあれですけど、まあそんな感じです。しょうがないんですよ、そういう人間に生まれついたんですから。アスペルガーの人間はたぶんみんなそうです。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-bc2c68.html

 

だけど、それじゃあ生きていけない。なにか人生における人間関係以外の癒しが必要です。それが激しく楽しくて、(現実がダメだから)出会うフィクション世界が現実離れしていればしているほど、しらけたりせず、楽しい気分というか妄想というか、それにひたって癒されるんですよね。ティン・パン・アリーや演歌の世界など、現実世界ではありえないような恋愛模様こそ、楽しいんです。それこそが(非現実だけど)ある意味ぼくにとっての「現実」「リアル」なんですね。

 

わかっていただけるでしょうか?いや、わかっていただけなくとも、ぼくはそうやって生きてきたし、今後もそういう人生を送るでしょう。2017年に出会ったわさみんこと岩佐美咲の歌の世界も、ぼくにとってはそういう非日常的なフィクションとして大きな救いになっているわけなんですね。しかもわさみんのばあいは「会いに行ける(元)アイドル」でしょう、ここも肝心な点です。非現実的な演歌世界を歌いこなすわさみん本人には、現実に会えて、握手したりおしゃべりできるっていう、ここがだから麻薬的なんですね。リアリティのないフィクションの担い手にはリアルで会えるっていう。

 

なんなんでしょうね、この構造。これがですね、日常の生活感覚満点のリアルな歌を歌う歌手たちにリアルで会えてもこんなうれしい気分にはたぶんならないと思うんですね。じゃあリアリティのない演歌世界を歌うわさみんにリアルで会えて、あたかもそのフィクションが実現したかのような、そんな心持ちにひたって満足しているのか?というとそれはまったく違います。会える本人は本人、歌の世界はそれでまた別だと、おしゃべりしながらも認識できています。

 

このあたりのちょっと複雑な二重システムが、ティン・パン・アリーや演歌界など、歌という虚構の世界の存立にかかわる重大時なんじゃないかと、ぼくはぼんやりと感じとっています。というかうっすらこころににじんできているだけで、中村とうようさんみたいにちゃんと論理の筋道を立ててわかりやすく説明することはまだできません。とにかく、リアリティや現実味の薄い、絵空事みたいな内容の歌は、リアリティがないんだけどだからこそ、フィクションとしてはリアルに成立するんじゃないですか。

 

わさみんこと岩佐美咲の歌(やティン・パン・アリーのソングブック)を聴いて、そんなことを考えました。

 

(written 2020.1.27)

2020/02/25

演歌、特にご当地ソングの歌詞はむずかしい 〜 岩佐美咲篇

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https://www.youtube.com/watch?v=xoXVLx1DtpU

 

わさみんのばあい特に難解なのが「鞆の浦慕情」と「鯖街道」で、ふつうになんとなく歌を聴いているだけだとなにを言っているのかわからない部分がけっこうありますからね。ひとえにぼくが広島県福山市と福井県小浜市の地名などにうといのが理由ですが、そうじゃなくてもだいたい演歌は歌詞がむずかしいんですよねえ、歌いこなすのもむずかしいですけどね。

 

それでわさみんのいままでの全シングル曲計八曲は、すべて『美咲めぐり〜第2章』(2019.11)初回特別盤を買えば残さず聴けます。それを聴きかえしていても、やっぱり「鞆の浦慕情」と「鯖街道」はむずかしいですね。演歌や歌謡曲 CD の常道としてこれも歌詞カードが付属していますから、それをながめながら聴いて、はじめてなんと歌っているのか理解できるというありさまです。嗚呼なんと情けないぼく。

 

そもそも歌でなくとも固有名詞って人名でも地名でもむずかしいものですけれどね。わさみんの「鞆の浦慕情」だと、2017年2月にわさみんを知ってこの曲と出会ったときは、全体的に歌詞がチンプンカンプンだったというのが真実です。たとえば一番の「雲を筆にして」。上手い表現ですけど(歌詞は秋元康)、聴きとれなかったです。続く仙酔島(せんすいじま)。これなんか、知らなかったからなんのことやら?ですよ。

 

やはり一番の歌詞にある「雁木へ焚場へ」(がんぎへたでばへ)。超難解。これも福山市鞆の浦の港湾・船舶にちなむ名詞ですが、焚場(たでば)なんかぼくのパソコンで変換できなかったですよ。意味は漢字を見ればなんとなく想像できるような気もしますが、歌を聴いているとき漢字なんか見ませんからね。歌詞カードで確認するまでの長いあいだ、ぼくはワケわからないまま、なんと歌っているのだろう?と思いつつ五里霧中で聴いていました。いまは調べて意味を把握していますけどね。

 

「雁木へ焚場へ」からそのまま「船番所」(ふなばんしょ)と続きますが、これも慣れていないとむずかしいはず。「雁木へ焚場へ、船番所」ですからね。やすっさん、難度高すぎですよ〜。しかもこの連のなかには最後に「ああ燈籠塔」(とうろとう)が出てきますのでね。これも知らなかったぼくは聴きとれませんでした、ってあたりまえだちゅ〜ねん、やすっさん、なんでこんなむずかしい歌詞書くの?歌わせるの?ドS気質なん?

 

出だしの「雲を筆にして」が聴きとれなかったのはぼくの実力不足ですけど、ほかの部分、自分のことを棚上げすると、当時わさみんはまだデビュー三年目で成熟しておらず、歌詞の発音もやや不鮮明だったというか、勘繰ってしまうと、読解困難な地名など固有名詞ふくめ、たぶん秋元康からもらった歌詞をわさみん本人も最初わからず、読みも教えてもらった上で手さぐりでというか、ふられたルビを見ながらスタジオ録音したのではないかとぼくは想像しています。雁木をがんぎ、焚場をたでばなど、当時わさみんが知っていたでしょうか。

 

「鞆の浦慕情」だと、二番に入って「冬の強情っ張り」。これをわさみんは「ごじょっぱり」と歌っていますが、「ごじょっぱり」という音ではなんのことかわらなかったですね。歌詞カードで確認すればなんでもない言葉ですけど、音だけだとですね。しかしですね、歌でも音楽って音(サウンド)ですから、文字じゃありませんから。そう、ここは音楽を聴く際にとっても重要になってくることです。歌詞もあくまで「サウンド」なんですから。ことばが「音」として耳に入ってくるから音楽になるんであって、歌詞カードなど文字で見て理解するのは音楽じゃありません。

 

それにしても港湾とか船舶関係の用語が素人にはむずかしいんだというのはたぶん世界共通ですよね。わさみんの歌で聴く「鞆の浦慕情」は日本語でもこんなに難度高いんです。ぼくの40年ほど前の大学生のころ、英文学の指導教官だった教授の専門が『白鯨』で有名なハーマン・メルヴィルで、メルヴィルの作品をさんざん英語で読みましたが、船の各部名称などを英語で知るわけもなく、も〜う辞書を引きまくって、それでもわからないものが一部あるっていう、当時もいま思い出しても地獄のような思い出があるんです。

 

わさみん。「鞆の浦慕情」に比べれば、やはりむずかしいと思う「鯖街道」はまださほどでもないのかもしれないですね(それほど「鞆の浦慕情」の歌詞は難解)。鯖街道というものがある、福井県はサバの名産地であるというのは無知なぼくでも知っていましたが、それでも曲「鯖街道」のなかにはやはり耳慣れないことばが出現します。

https://www.youtube.com/watch?v=MUpDeozfdig

 

一番冒頭の「小浜の港に鯖が揚るころ〜」は一聴で理解できますが、第二連に「根来坂、越える〜」(ねごりざか)っていうのがあります。根来坂は聴いてもわかんないっしょ〜。2017年のシングル曲ですからさすがにわさみんも発音や歌唱の成熟度が上がっていて、しっかり「ねごりざか、こえ〜る〜」と歌っているのが聴きとれていましたが、その「ねごりざか」がなんのことやらわかりませんでしたからね。小浜のことをなにも知らないもので、ゴメンチャイ。

 

続く第三連でわさみんの歌う「今日はとっても十八里」って、なんのこっちゃ?どういう意味や?とずっと思っていたアホなぼく。歌詞カードを見れば、「今日はとっても」じゃなくて「京は遠ても十八里」なんですよね。そういえば鯖街道は京都へと続いているのでした。いやあ、われながら無知っぷりにはあきれるしかありません。

 

二番へ来ても「小入谷あたり」。おにゅうだに、なんですけど、その読みではパソコンで漢字変換できませんでしたよ。三連目でふたたび「京は遠ても十八里」が出てきますが、調べてみたらこのフレーズは小浜市でみなさんがよく言う鯖街道のキー・フレーズのようです。若狭から運ばれたサバも京の都へ到着するころにはちょうどいい塩加減になるぞという常套句だとのこと。京都の食文化には若狭の魚が息づいているんですね。さすがはやすっさん、教養が光っとるでぇ〜。

 

で、魚の塩加減とかっていうようなことは、わさみんの曲「鯖街道」の歌詞ではメタファーとして頻用されているんですね。これも作詞家秋元康が腕を見せたということなんですけど、2019年11月21日の代々木上原でのザ・令和ライヴの際も、歌いはじめる前の曲紹介で「歌詞がおもしろいので」とわさみん本人が言っていました。

 

つまり一番にある「終わった恋を塩漬けにして」とか、二番にある「人の気持ちは腐りやすくて、山道を急ぐ」とか「運んだ愛もいい塩梅に」(「はこんだあいもうやまいに」に聴こえるけどね)とか、恋に破れた女性がそれを忘れよう傷心を癒そうと鯖街道を旅する心情を、運ばれるサバの塩加減に喩えて歌詞にしているわけですよ。やすっさん、さすがや、教養人や。

 

ともあれ旅などを歌って地名を歌詞のなかに練り込むというのは、世界中の音楽で行われているごくふつうのことです。アメリカン・ポップスなんかでもたくさんあって、最有名どころで言えばたとえば「ルート 66」などありますね。だから日本の演歌のご当地ソングがこんな感じになっているのも不思議なことではありません。せめてぼくにもうちょっと知識と教養があれば…、というのが真相ですが、でも上で書きましたように、音楽や歌は「音を聴く」ものであって、歌詞カードを「読む」ものじゃないですけどね〜。

 

(written 2020.1.27)

2020/02/24

同じ CD を何枚も買うというマニア行為というかオタク行為というか

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上の写真、どうして部屋に三枚もあるんでしょう、このシェバ・ジャミラ(アルジェリア)のライヴ盤。これがまだジャズやロック系の名盤リマスターだとか紙ジャケだとかの再発もので、同じアルバムでも異なる種類をというならば理解しやすいでしょうけど、このシェバ・ジャミラのアルバムのばあいはなにからなにまでまったく同じですからね。それなのになぜか三枚。これでもまだ減ったんですよ、聴いてみたいというお二人に一枚づつ差し上げましたから、多いときで五枚あったわけです。われながらアホだとしか言いようがないですね。

 

Spotify で聴けるものはそっちで聴くように最近なっていますから、こうした CD の買いかたはなくなったんですけれども、買っていた時期にはこんな(一見)バカバカしいことも平気でやっていました。たぶん音楽 CD 好きのみなさんであれば似たような、同じような、状態が発生しているんじゃないでしょうか。ダブり買いは、ただたんに持っていることを忘れているとか見つからないとかだけで生まれるものとはかぎりません。わかっていても「好きだから」「ほしいから」という理由で買っちゃいますよねえ。

 

たとえば AKB 系の(元)アイドルたちだと、CD 買った枚数分だけ握手券がもらえますし、また売り上げ数を伸ばしてあげたい、それが応援だ推し行為だという考えもあって、だから同じものをどんどん買うというのがわりとふつうのことになっていると思います。握手券目当てで彼女たちの CD をたくさん買って、握手券だけ取って CD は捨てる、なんていうのが熱心な音楽 CD 好きから批判されたりもしますよね。

 

おまえら AKB 系の(元)アイドル好きが CD 買うのは握手券目当てでしかないだろう、CD じゃなく握手券が大切なんだろう、音楽が好きなわけじゃないだろうとか、あるいはそもそもレコード会社や事務所など運営側のそんな CD 販売方法にも批判が集まったりしますよね。握手券を付属させて CD を売れば数が出て、それでオリコンなりのチャートに反映されるからって、そんなアホをやるのか、とかですね。

 

ぼくに言わせれば、ジャズやロックや、あるいはシェバ・ジャミラはライだけど、そういった種類の音楽の CD を同じものでたくさん買ってしまう、持っているという人間は、大量買いする AKB 系のオタクとなんら変わりはないです。考えようによっては、握手券もなにもいっさいもらえない、特典なんかぜんぜんないのに、それらの CD を複数枚買ってしまうファンのほうが理解できないですよね。そっちのほうがいっそうのアホでしょう。

 

でも好きなんですから、それでいいと思うんです。ぼくはむかしから好きになればレコードだって二枚、三枚と買っていたし、いまでも聴く用と保存用とかいって CD でも同じものを最初から二枚買うという音楽好きのかたに遭遇したりしますよ(CD もそんな劣化すんのかなあ?)。そんなことこんなこと、すべて理解できることです。好きなものは何枚も持っていたい、それにまみれたい、ずっと聴いていたい、ありとあらゆる状況でその音楽に接していたい、失いたくない、などなど音楽好きであればみなさん同様のはず。

 

AKB 系のオタク向け CD 販売方法はたしかに批判される面がなきにしもあらずかもしれません。しかしですよ、オタクというかマニア、音楽ファン、好き者 〜〜 どう呼んでもいいですが、そういった人間の行動には類似したものがあるのも事実です。本好きもそうかな、たぶん。本質的にはみんな同じなんです。ジャズやロックの名盤で同じものをたくさん持っているファンも AKB 系(元)アイドルの CD を何枚も買う人間も、同じです。

 

ぼくのばあいでいえば、ここ一年半くらいですか、わさみんこと岩佐美咲ちゃん(は AKB48出身)のイベントにどんどん出かけていくようになり、現場でどんどん CD を買うと自分の身にどんないいことが起きるのか、皮膚感覚で理解納得できるようになり、それで同じものをたくさん買うようになりました。がしかしそうなる前から、シェバ・ジャミラにしろマイルズ・デイヴィスにしろオールマン・ブラザーズ・バンドのフィルモア・ライヴにしろ、その他たくさん、種類は違えど同じアルバムをなんども買い増したりしていたわけですから。やっていることは大学生のころから変わっていないですね。言いかたをかえれば進歩がありません。

 

(written 2020.1.27)

2020/02/23

マイルズ黄金のセカンド・クインテットで聴けるリズム実験

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https://open.spotify.com/playlist/1kYSYpokrH3D5VBD84f8Q8?si=E4_PLdQhTsKrhtI2wgTJEQ

 

1963年に加入していたハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムズに、64年秋にウェイン・ショーターがくわわってのマイルズ ・デイヴィス黄金のセカンド・クインテット。この五人だけでの正式スタジオ・アルバムは四枚。『E.S.P.』(1965)『マイルズ ・スマイルズ』(66年録音67年発売)『ソーサラー』(67)『ネフェルティティ』(67年録音68年発売)。次作『マイルズ ・イン・ザ・スカイ』(68)もほぼこのクインテットですけど、電気楽器導入とロック/ファンクへのアプローチがみえるので、やや傾向が異なっていますよね。

 

四枚『E.S.P.』『マイルズ ・スマイルズ』『ソーサラー』『ネフェルティティ』はアクースティック・ジャズを究極的につきつめたものということになっていて、ちょっと芸術的なというかピュア・ジャズのある種の頂点にあるものだという評価が一般的だと思います。それは間違っていないでしょうけれど、ぼくにとってのおもしろみはちょっと違うところにあるんですね。最近それを痛感するようになってきました。

 

それはこれら四枚が、1968/69年からマイルズが追求することになったラテン/アフリカンなリズムとファンク・ジャズへの予兆になっているんじゃないかということなんですね。まずわかるのが『E.S.P』にある「エイティ・ワン」で、これは1965年当時のジャズ界ではまだめずらしかったロックふう8ビートを使った曲です。マイルズ史上初のものなんですね。しかし「エイティ・ワン」はストレートなロック8ビートで、ラテンっぽいところは聴きとれません。

 

おもしろいのは「エイティ・ワン」でも4ビート・パートがあるところ。この曲では8ビート・パートと別個にならんでいるだけで、両者がポリリズミックに溶け合ったりはしていません。このあたり、リズムへのアプローチはまだまだ深化をみせていないのだとも考えられますね。しかしまず第一歩を踏み出したものだったとは言えるはず。4ビートと8ビートをラテンをキーにして合体させることが、この後のマイルズのリズム追求の軸になっていきます。

 

このクインテット一作目の『E.S.P.』では「エイティ・ワン」一曲だけでしたが、二作目『マイルズ・スマイルズ』からグンと増えています。パッと聴いた瞬間に8ビートを使っているとわかるものが四曲もありますからね。「オービッツ」「フットプリンツ」「フリーダム・ジャズ・ダンス」「ジンジャーブレッド・ボーイ」です。しかもこれらには複雑に跳ねるラテン・リズムの影響が色濃く聴けます。たいへんにおもしろいところですよね。

 

さらに、上でも書きましたがこれら四曲ではただのストレート8ビートを採用しているというだけじゃなく、メインストリーム・ジャズの4/4拍子感覚もしっかり残っていて、8ビートと4ビートが渾然一体となってポリリズミックに溶け合っているのが最高の音楽果実なんですね。もうなんか聴いていてワクワクゾクゾクして、たまらない快感です。特にトニー・ウィリアムズのドラミング・スタイルにスリルを感じます。トニーは一小節を四つに割って均等にハイ・ハットを踏むことで4ビート感覚を維持しつつも、シンバルやスネア(ふくむリム)でラテンな8ビートを同時に表現しているんですね。いやあ、すごいなあ。

 

三作目『ソーサラー』では、リズム・ニュアンスのそんなポリリズミックな複雑さがやや整理され、いっそうグッと直截的に8ビート・ラテンなリズム表現に至っています。このアルバムでそれが鮮明に聴けるのは二曲「プリンス・オヴ・ダークネス」と「マスクァレロ」です。前作『マイルズ・スマイルズ』でも大活躍だったトニーがここでも大爆発、さらにトニーまかせなだけじゃなくて、ソロをとる三名ともソロ内容でリズム・アプローチを聴かせてくれているのが進歩ですね。二曲ともウェイン・ショーターの作曲です。

 

前作『マイルズ・スマイルズ』との大きな違いは、これら「プリンス・オヴ・ダークネス」「マスクァレロ」では4ビート感覚がほぼ消えていることと変型ラテン・リズムみたいなものへ直接的に踏み込んでいるところ。ポリリズミックな表現性はなくなりましたが、リズムが整理されてノリやすくなり、跳ねも強くなり、あえて言えばストレート・ジャズの枠内にはもはやとどまらなくなっているとしていいのかも。すくなくともこんな種類の変型ラテン・ビートはいわゆるモダン・ジャズのなかはありません。

 

四作目『ネフェルティティ』でもそんな路線を継承しているのが、ハービーの書いた曲「ライオット」で、これはかなりいいですよねえ。この曲はハービー自身自分のアルバムでも再演していますけど、そっちはまずまずといったところなんですね。やっぱりトニーがいるかどうか、ボスのマイルズの指揮下にあるかどうかは大きなことだったのでしょう。このマイルズ・バンドでの「ライオット」でも変型ラテン・ビートを五人全員が一体となって表現しています。特にシンバルとスネアのトニーですね。

 

さて、マイルズ黄金のセカンド・クインテットの四作におけるこういったリズム実験は、ただたんにジャズ・ミュージックのなかでのものというよりも、もっと先へつながっていく予兆のようなものとして聴いたときにいっそう興味深さを増すものだと思うんですね。というのも『ネフェルティティ』の録音直後あたりから、例の「スタッフ」(『マイルズ・イン・ザ・スカイ』)に至るまでのあいだにマイルズは同クインテットで、たとえば「ウォーター・オン・ザ・パウンド」(1967/12録音)「ファン」(68/1)のようなものを録音済みだからです。
https://open.spotify.com/track/38uFCARfKD8lHFN2a3ZLVd?si=KcngvvhZTmqThNBTKYwRtg
https://open.spotify.com/track/24KtxJ86loaAJlZ7VJbEd8?si=TGNq2kfpRFGVGC2nw7YzIQ

 

これら二曲は1981年まで未発表のままでしたが、このあとの録音になる「スタッフ」などを一気に飛び越えて『キリマンジャロの娘』や『ビッチズ・ブルー』などへとダイレクトにつながっていくものだとぼくには聴こえるんですね。すくなくとも「ウォーター・オン・ザ・パウンド」「ファン」の二曲はカリビアン/アフリカンなファンク・ジャズへとグンと近づいています。

 

録音当時は未発表のままになっていたとはいえ、こういった実験を経てこそマイルズも大胆に1968/69年から新時代のニュー・ミュージックへと踏み出すことができたのです。それはひとことにしてファンク・ジャズの創造。ファンクのルーツははからずもラテン・リズムにありますからね。ラテン・ビートで聴けるシンコペイション、リズムの跳ねが、そのままたとえばジェイムズ・ブラウンの「コールド・スウェット」に直結しているのは言うまでもありません。

 

マイルズがジェイムズ・ブラウンなどファンク・ミュージックを積極的に聴きはじめとりいれはじめるのは、1968年のベティ・メイブリーとの出逢い以後となっていますけれども、それ以前からマイルズはマイルズなりに自分の力で、リズムのラテンな跳ねやロック系8ビートとジャズの融合を試みていたのです。そんなところが黄金のセカンド・クインテットの四作でわかるなというのが、今日ぼくの言いたかったことです。

 

(written 2020.1.27)

2020/02/22

文章はケチャップだ

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サッカーの本田圭佑選手がかつて、ゴールはケチャップみたいなもんだ、出ないときは出ないけど、出るときにドバドバッと出る(からチームにしばらく得点がなくても心配するな)と語ったことがあります。有名なことばなのでご存知のかたも多いんじゃないでしょうか。それになぞらえてぼく流に言えば、文章はケチャップです。書けないときには書けないが、書けるときにまとめてどんどん書けちゃうんです。

 

というかぼくは書けないという状態におちいったことはいまのところまだ一度もありません。ほかの用件のため書かないということなら多いですけどね。たとえば岩佐美咲関連やそのほかどこかへ旅行してライヴ・イベントやコンサートなどに参加するときなどは、前後の移動日もふくめてなにも書かないです。

 

毎日一回ブログを更新したいわけなので、そして現実いままでの四年半ほどはそれが欠かさず実行できていてこれからもそうしたいわけなので、ってことは平均して一日一本のペースを守って文章を書いていかなくてはなりません。書かない日もあるということは、書ける日にまとめて複数本書いておくという意味になります。

 

だから時間的、精神的、能力的に余裕のあるときに二本、三本とまとめて書いていますけれども、なっかなかふだんはむずかしいことなんですね。べつに本格的な内容じゃなくていいんだぞと最近は自分に言い聞かせるようにしていますが、いままでがいままでですからどうしても身構えてしまうというか、おおげさな覚悟みたいな、そんなものを持たないと書けないような気分がちょっぴりだけ残っています。

 

もっと気楽に取り組めばいいんですけどね。で、実際気楽に取り組むように、以前よりはなっているかもなと思います。それ以前からぼくも(本田圭佑選手じゃないけど)一日にドバッと三本くらい書けちゃうことはたまにありました。一日二本完成ならたくさんありますし。サッカーの世界だと一人の選手が一試合で3ゴールを決めると "ハットトリック" という特別な言いかたがあるくらいでかなりまれなこと。ぼくも一日三本は、ありますけど、まれですね。

 

ケチャップっていうかなんというか、ぼくの文章書きのばあい気分なのか(精神面ふくめの)体調ゆえなのか、あるいはネタがどんどんわいてきて止まらないというインフレ状態になることがあるということか、書けちゃうときは一気に書けちゃいます。しかもスポーツ選手の好調維持みたいなもんで、ぼくも一日複数本書ける充実状態が数日とか一週間くらい続くんですね。

 

書こうとした日に一個も書けなかったということがいままでありませんから、文章にかんするときのぼくはスランプ知らずということなんでしょうか。でもねえ、ここ一年半ほどのあいだ、特に岩佐美咲関連でよく出かけますから、本当に書きためられるときに一気にどんどん書いておいてストックしておかないと、実際ヤバイんですよ。現在のところブログ用文章ストックは20個です。これでも最盛期よりはかなり減っているんですから。

 

あ、これで今日は四つ書けました。

(written 2020.1.26)

2020/02/21

ダメだと思ってもあきらめずに、アイデアのメモを持ち続け、書くこと

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きのう書いた「仮想の愛」もそうで、ぼくが書くものなかには、そのアイデアの端緒を思いついてメモしてから、こんなくだらないもの…、と思っていったん捨ておいて、その後一年、二年と経ち、またなにかをきっかけにふくらんで、最終的にまとまった文章にできたというものがわりとあります。だから一度これはダメだと思ってもデリートせずに、メモをずっと残して持ち続けているんですね。ふだんから頭の片隅にもおいています。

 

あきらめない、維持し続けるということはぼくのばあいけっこう大切なことのように思えているんですね。思いついてそのまま書けるというばあいも多いですけど、ふだんどんどん音楽を聴いては浮かんだアイデアをテキスト・ファイルとしてメモしておけば、そのメモがたまれば、随時ピック・アップして書いていけばいい、完成品になるのが遅れても、という考えです。

 

言いかたをかえればゆっくりやる、じっくり取り組むっていうことですかね。年月が経ってそのメモが発酵したり円熟したり、しなくても、もっと時間が過ぎてのなにかのきっかけでポンとはじけることがときどきあるというのが事実です。仕事なんかでもそうかもしれませんが、趣味である音楽文章書きについても言えることなんです。

 

文章を書いて食べているプロのみなさんがどうなさっているのかは知りません。でもうまく書こう、本格的なものを書こう、はやく書こうという考えを最近は捨てつつあります。実際にキーボードを叩いている時間は短くても、総保存期間が長いばあいもあります。思いついてすぐ書きはじめ、勢いであっけなく完成しちゃうことだってときどきありますが、そんなときはもちろんスッキリ爽快気分ですが、いまはすぐ書くものとメモを保存して時間が経ってからなにかのきっかけでふくらむものと、半々くらいですかね。

 

それで、そんな文章管理に使っているのは Bear というノート・アプリで、恥ずかしいんですけどその画面をキャプチャーして今日いちばん上にその写真のはしっこのほうを載せました。これを書こうとか、この新作、旧作はいいぞとりあげようと思ったら、まずこのアプリにどんどんメモします。明日アップロード予定のもの、完成したもの、準備中のものと三つの欄が一個のノートのなかにあります。書くのに使っているテキスト・エディタは Jedit Ω です。

 

Bear で準備中の欄を見て、次なに聴いてなにを書くか考えて、書いて完成したら上の完成済み欄にドラッグ&ドロップで上げています。完成済みの文章のなかから明日はなにをブログにアップするかは前日に決めていますが(書いた順ではない)、次になににとりくむかは準備中の欄をながめてぼんやり考えているんですね。そのぼんやりメモのなかには、古いというかかなり前にメモしたものが混じっているわけですよ。

 

一度「こんなもの」と思ってもすぐには放棄せず、あきらめずそのアイデアというかメモは残し続けておく、完全には忘れ去らずに頭の隅っこにおいておけば、ふとしたことで、ぜんぜん関係なさそうなことを考えたり聴いたりしているときのそのきっかけで刺激されて、そのメモがふくらんでまとまった文章が完成できるということがなんどもあります、いままでも、たぶんこれからも。

 

ぼくみたいなシロウトのこんなアドバイスなんて、ブログでもなんでも文章をどんどん書こう、現に書いているがときどき悩んでいるといったみなさんの参考になんかならないなとは思いますが、それでも四年半以上一日も休まずにブログを更新し続けられていますし、そんなにひどすぎない文章にはなっているんじゃないかという、おぼろな自負も持っていますので、こんなこともありますよという、これもメモを仕上げました。

 

(written 2020.1.26)

2020/02/20

仮想の愛(「至上の愛」みたいに)

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https://open.spotify.com/playlist/59P34UAJ5eMh7uWq02ebHM?si=17yzhggcScWfpunQZGN0JA

 

(おととい書いた)エラ・フィッツジェラルドがヴァーヴのソングブック・シリーズでどんどん歌うティン・パン・アリーのラヴ・ソングの数々を矢継ぎばやに聴いていると、なんだかとってもいい気分です。音楽として上質だから、というのが最大の理由で、いままでもおとといも記事にしたのはそのため。でも気分いいのはそれだけじゃないんです。あたかも自分がヴァーチャル恋愛しているような、そんな気分にひたることができるからでもあるんですね。

 

ヴァーチャル恋愛、だから仮想の愛ですけど、ティン・パン・アリーのソングライターたちが書いたラヴ・ソングの特に歌詞は浮世離れしていて、歯の浮くようなものですよね。とうてい現実世界でだれもこんなこと言わないし思いすらもしないであろうような、そういった、美しすぎてまあアホみたいなもんですよ。でもぼくにはちょうどいいんです。なぜならそれは仮想の愛だから。想像しているだけ、頭のなかでだけ完結しているものだから。

 

非現実的に美しく、夢のように楽しく、現実の恋愛なんてなかなかそんなわけにはいきませんけど、ぼくは現実の人生でだれかを好きになったり、はするかもしれなくても、だれかを(本当の意味で)愛したりはしないわけです。人間というか他人に興味がないし、自己愛が激しすぎる人間ですからね。性欲はあるしロマンティックなことやそういう関係を持つことは大好きだけど、現実にだれかと恋愛することはありえません、ぼくのばあい。

 

だから恋愛ごとではすべてヴァーチャルな世界に生きているぼく。そんなぼくにとって、自分の頭のなかでの妄想恋愛ごっこをふくらませるのに、ティン・パン・アリーのラヴ・ソング以上にもってこいのものはないんですね。それらを聴いていると、現実世界では口にできないであろうような歯の浮く恋愛文句が次々と出てきますが、それが妄想にはちょうどいいんですね。ただただ気持ちよさにひたることできます。

 

そんなティン・パン・アリーのラヴ・ソング(の特に歌詞)が一般大衆の日常感覚からかけ離れているのはたしかなことで、だからこそアメリカなら1940年代のルイ・ジョーダンはじめもっと卑近な庶民生活に根差したポップで身近な歌詞内容を、グッとわかりやすいノリのいいリズムとメロディに乗せて届ける音楽が人気になり一般的になり、それがひいてはロック・ミュージックを産む母胎ともなりました。ビートルズのあんな爆発的な人気の背景にはそんなこともあります。

 

しかしぼくのばあい、恋愛とは常にヴァーチャルなもので妄想ですから、生活感覚から遠ければ遠いほどいいんです。それでこそ美しく楽しく、気分がいいわけですよ。おかしいでしょう、こんな人間。しかも歌詞が英語であるというのも好ましい大きな要素で、日本語詞みたいに一聴即解じゃないというその距離感が、これまたヴァーチャル恋愛のそのヴァーチャル度、非現実性、非日常感を醸成してくれて、だからいわばセレブ気分を味わせてくれて、都会の高級ホテルのグレードの高い部屋でくつろいでいるような心持ちで、好ましく思えるわけなんですね。こんなやつ、ヘンだ。ふつうみんな恋愛は現実なのに、ぼくにとってはそうじゃないんです。

 

ルイ・ジョーダンやチャック・ベリーやビートルズやといった音楽家たちの書き歌うラヴ・ソングで、そういったセレブ気分にひたれないってことはないんですけれど、ティン・パン・アリーのラヴ・ソングはあまりにも現実離れしていますから、だからつまりこの世のものとは思えないわけで、日常感覚がないわけで、そこがいいんです。ぼくにとって恋愛は妄想でこの世の現実のできごとではありませんから、だからそれにフィットするためには音楽も現実離れしているほうが似合うし都合がいいんです。

 

それで、ティン・パン・アリーの歌を聴きながら部屋でくつろいで、嗚呼こんな台詞…と思って、実に気分いいんですね。ハリウッド映画のアカデミー賞のレッド・カーペットの上を着飾ったセレブ俳優たちが歩いているでしょう、ちょうどそんなことを自分もしているという、そういう妄想にひたれるのが、音楽だとたとえばエラ・フィッツジェラルドの歌うティン・パン・アリーのラヴ・ソングの数々なんですね。ぼくにとっての恋愛とは、それを思い浮かべることとは、これすなわちそういった非現実なんですね。

 

たとえばガーシュウィンだったら「ラヴ・イズ・ヒア・トゥ・ステイ」や「エンブレイサブル・ユー」とか、コール・ポーターだったら「アイ・ゲット・ア・キック・アウト・オヴ・ユー」とか、そのほかエラ・フィッツジェラルドが歌うたくさんあるスタンダードのラヴ・ソングの、そういったかなり背伸びしたというか、庶民の恋愛感覚じゃないなと思える高踏的な世界にひたり、部屋のなかでなんというか悦に入る、きれいなそういった音楽を聴きながらなんとなく気持ちいい、それは現実をいっとき忘れて逃避しているだけですけれども、そんな時間を過ごすこともぼくには必要なんですね。

 

現実の人間関係は、恋愛ふくめぜんぜんダメなぼくだから、せめてきれいな音楽を聴いて、妄想の、ヴァーチャルなロマンティシズム、ヴァーチャルな恋愛にひたっていたいわけです。それで癒されるんだからいいじゃないですか。

 

(written 2020.1.26)

2020/02/19

槇原敬之を焚書するのなら、ビートルズやストーンズやマイルズも焚書しろ

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こないだ2月13日に槇原敬之が逮捕されました。覚せい剤取締法違反で。昨年は電気グルーヴのピエール瀧の件もありましたね。裁判で有罪判決がくだったピエール瀧とはちがって今回の槇原のばあいはまだ逮捕されただけで証拠はなし本人も否認している簡易検査でも陰性ということで、まだなにかを言うには早すぎると思います。推定無罪の原則も尊重しなくてはなりません。でもピエール瀧のときと同様のことが今回もくりひろげられるかもしれない可能性が示されつつありますので、やはりちょっと記しておきたいと思うんですね。

 

それは日本の音楽家が違法薬物で罪に問われたら、日本でだけだと思うんですけど、マスコミにあおられてレコード会社が盛大に自粛をはじめてしまうことです。発売済みのレコードや CD を一斉回収し、配信も全停止してしまうでしょう、これは実にバカらしいことだと思うんです。俳優が同様の罪に問われた際も出演作品がお蔵入りになってしまったりするのだって同じように愚かなことですが、ぼくにとって切実なのは音楽です。

 

音楽家が罪に問われて、それでその音楽家の全作品の流通を全停止してしまうなんてことは、はっきり言ってまったく抑圧的で有害なバカバカしい行為だからやめていただきたいと思います。今回の槇原のばあいも、またぞろ自粛祭りの狂態がくりひろげられようとしています(ただし Spotify など配信はストップしていない)が、いまにはじまったことじゃないんですね。昨年のピエール瀧の一件以来、電気グルーヴの音楽作品はこの世から抹殺された状態のままなんです。

 

こういったことはまっとうな処分でしょうか?意味のあることなんでしょうか?音楽家の違法薬物騒ぎそのものにはぼくはなんの興味もないというか完全に他人事で、まあ犯罪をはたらいたのであればそれ相応の刑事罰を受けるしかないとしか思えません。どんな犯罪内容だったのかどんな罰がくだる or くだったのかもネット・マスコミ報道以上のことをまったく知らないです。

 

だからそれはいいんです。問題はだれか音楽家が違法薬物などで罪に問われた際、その作品を一切合切闇に葬ってしまう、焚書してしまうのはオカシイだろうと言っているんです。法を犯したならその行為は法で罰せられる、これは当然です。しかしそのことで作品を全面抹殺してしまうのは異常です。なんらの法にも契約にももとづいていない、必要のない弾圧、示威行為にほかなりません。唾棄すべき慣習でしょう。音楽創造・制作と違法薬物とのあいだにはなんの関係もないんですよ。罪は罪、音楽は音楽であって、別のものとして分けて考えるべきです。

 

今回、槇原の一件が明るみに出た翌日に、さっそく某テレビ局は槇原が制作した番組テーマ曲を流すのを停止したそうです。もううんざりなんですが、笑ってしまったのは差し替えた音楽がビートルズの「ヒア・カムズ・ザ・サン」だったことですね。ビートルズの連中は違法薬物にかんしシロなんでしょうか?違法薬物関係で槇原の音楽を使えないなら、ビートルズだっていっさい使えないんじゃないですか?

 

ビートルズだけじゃないですね、ローリング・ストーンズだってエルトン・ジョンだってニルヴァーナだってだれだって、ロック/ポップ界の外に目を向ければボブ・マーリーだって、あるいはヘロイン常習者で、それをやめて以後もコカインを常用していたマイルズ ・デイヴィスの音楽はどうなるんです?マイルズの CD はショップに並んでいるじゃないですか。配信だっておおっぴらにまかり通っていますけど、これ、いいんですかね。マイルズは違法薬物常用者だったんですよ。チャーリー・パーカーなんか、もはや音楽史から名前そのものを抹殺しなくちゃいけないんじゃないですか。もちろんパーカーの音楽はいっさい聴けなくしなくちゃいけません。CD も配信もやめなくちゃ。かのサッチモことルイ・アームストロングだって麻薬常用者でした。

 

販売できる音楽なんか、なくなってしまいますよね。

 

つまりですね、その程度の無意味なバカバカしい行為でしかないんですよ、電気グルーヴにせよ槇原敬之にせよ、彼らの音楽作品の流通を止めるなんてのは。音楽家が(薬物で)逮捕されたら、レコードや CD、配信用の楽曲などすべてが流通停止になり、コンサートも中止、CM や他者への楽曲提供なども全面ストップ…、 ということがあたりまえだとされていて、だれひとりとしてその「理由」をつまびらかに説明することなどないんですけど、理由なんかないんだからそれも当然です。

 

麻薬中毒者だろうが(殺人者だろうが)、そのひとの創った音楽が楽しく美しくすばらしければ、それはひとの心を癒すいい音楽なんです。どんな善人の創る音楽でもつまらない作品のほうが音楽的にはよっぽど悪いです。いずれにせよ聴くか聴かないかはぼくらリスナーの選択なんで、問答無用に聴けない状態においてしまうのはかなりヒドいことですね。そこにはレコード会社の内輪のムラ論理しかなく、音楽家のことも購買聴取層のことも考慮されていません。

 

音楽文化先進国では、音楽家が違法薬物で罪に問われた、有罪判決が出たことで、その音楽作品が焚書されることなんてありえませんし、いままで一回もそんなことにはなっていません。「そのことじたいでは」作品の流通にも、ライヴ公演にも、まったくなんの影響も出ないんですね。もちろんがっかりしてファンをやめるひとはいるのかもしれませんが、それは個人的なことです。大手メディアが自粛圧力を盛り上げて、レコード会社が動いて云々…なんてのは日本だけでのことでしょう。

 

電気グルーヴの一件、そして今回はじまろうとしている槇原敬之の件。そこには正義もなく、音楽や芸能・芸術への、音楽家への、敬意もありません。もちろんいままで買い支えてきたファンへの感謝だって一片たりとも感じられません。文化への抑圧を、当の文化発信者であるはずのレコード会社がやってしまおうとしているんですから。そんなことをやっているから日本社会はどんどん根腐れしてきているんですよ。

 

(written 2020.2.18)

2020/02/18

エラ・フィッツジェラルドのソングブック・シリーズ完全集を Spotify でぜひおてもとに

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https://open.spotify.com/playlist/2raa6r7LUBMZTvjdayvVYm?si=auZhGuUhRoKr7POBG4x3lg

 

以前、エラ・フィッツジェラルドのソングブック・シリーズについて書きました。「アメリカン・ミュージックの宝石箱〜エラのソングブック・シリーズ」と題して。こ〜れは、本当にすばらしい音楽なんですよ。アメリカン・ミュージックに興味がおありのみなさんであれば必聴です。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-b4fa.html

 

ヴァーヴ・レーベルに録音し発売されたエラのソングブック・シリーズは全八巻。デューク・エリントン・ソングブックを除きとりあげられているのはいずれも有名なティン・パン・アリーのソングライターばかりです。あの曲もこの曲もどの曲も、それらすべてスタンダードは彼らの書いたものなんですね。ティン・パン・アリーとはなにか?という説明は今日しません。ヴァーヴのエラのそれらを発売順に列挙しておきますと、

 

・コール・ポーター(1956)
・リチャード・ロジャーズ・アンド・ローレンツ・ハート(1956)
・デューク・エリントン(含むビリー・ストレイホーン)(1957)
・アーヴィング・バーリン(1958)
・アイラ&ジョージ・ガーシュウィン(1959)
・ハロルド・アーレン(1961)
・ジェローム・カーン(1963)
・ジョニー・マーサー(1964)

 

この完全集、でも CD だとけっこう大きなサイズになるんですね。コンプリート・ボックスで買えば値段も張ります。それにいまや中古でしか入手できないんじゃないですか。いかにすばらしい宝石であるとはいえ、ぜんぶを手に入れて持ちふだんから愛聴するというのはむずかしい面があるのかもしれません。でも心配することはありませんよ、いまは Spotify などサブスクリプション(ストリーミング)・サービスがありますから。

 

ぼくも上の過去記事を書いたときはまだ Spotify をやっていなくて(そもそもサービスの日本上陸前だったはず)、だからエラのソングブック・シリーズも完全集ボックスで持っている CD やそこからインポートした iTunes ファイルで聴いていました。Spotify を使いはじめてしばらく経って、このヴァーヴ・レーベルのエラのソングブック・シリーズをさがしたらちゃんとありました。全八巻ぜんぶしっかりあるんです。

 

それで、フィジカルでも完全集となって箱に入っているんだから Spotiy でもそうしようと思ってコンプリート・プレイリストをつくろうと、でもその前に念のために検索してみたら、やっぱりすでにありましたね。『Ella Fitzgerald: The Complete Songbooks』という私家製プレイリスト、どなたか存じませんがありがとうございます。フォロワーが100人以上いますね。これをぼくもふだんから愛聴させていただいております。それが今日のいちばん上のリンク。

 

ぜんぶで17時間以上もありますし、CD でだってそうですけど、ぜんぶを、あるいは一人のソングライター・ブックに絞っても、トータルで向き合って真剣に聴くなんて、しなくていいんです。そのときそのときの気分で、今日はコール・ポーターをちょっととか、明日はアーヴィング・バーリンを覗いてみようかなとか、そんな感じでその日のそのときの気分でちょこちょことつまみ食いすれば OK なんですよ。

 

つまみ食い、というかつまみ聴きですか、そういったやりかたですらも、このエラのソングブック・シリーズの真価はよくわかるものなんですね。まず曲がもとからいい。アレンジやオーケストラ伴奏も極上、そしてエラのヴォーカルのヴェルヴェットのようななめらかさ。すべてがあいまって、もう言うことなしの極上さ、超上質ミュージックじゃありませんか。

 

アメリカン・ポピュラー・ミュージックの歴史をひもときますと、19世紀なかごろのスティーヴン・フォスターら作曲家たちが楽譜出版で生計を立てるようになったあたりがその本格的なはじまりと見ていいかもしれませんが、その数十年あとになってのティン・パン・アリーの成立こそ、21世記にまで連綿と続くこの国の大衆音楽の基盤とみなすべきでしょうね。

 

いまどきフォスターの書いた曲を歌う歌手などあまりいない、新作アルバムなどにも収録されないのに対し、ガーシュウィンやアーヴィング・バーリンやロジャーズ&ハートなどなどティン・パン・アリーのラヴ・ソングズはいまだにどんどんレコーディングされている、歌手も歌うしジャズ・ミュージシャンもやる、発売されるという事実をもってしても、このことは納得できると思うんですね。

 

大衆音楽の世界ではある時期以後自分で歌う曲は自分で書く、新作アルバム用に新曲をみずから用意するというのがふつうになりましたけど、1950/60年代にブリルビルディングのソングライターたち(バート・バカラックやキャロル・キングなど)が出現したように、プロの作家たちの書く完成度の高い曲の数々は、現在でも土台になっているものなんです。そんな世界の第一人者たちだったのが19世紀末〜20世紀頭のティン・パン・アリーのソングライターたちなんですね。

 

エラのソングブック・シリーズは、そういった、アメリカン・ミュージックの豊穣な遺産を、みずからの偉大な歌唱力でもっていまに引き継ぎ具現化してくれているものなんですね。エラはジャズ歌手かもしれませんが、このヴァーヴのソングブック・シリーズはそんな狭い枠を悠々と超えています。価値が不変な普遍の音楽遺産と考えられるものなんですね。

 

ちょっと気分でちょこっと覗いてみるだけでいいです。むしろそれをオススメします。このエラのソングブック・シリーズ完全集をぜひ、てごろにアクセスできる日常においてください。ふだんの流し聴きにもいいし、ちょこっと10分、15分でもヒマができたらすこしづつ聴いてみてほしいです。エラのソングブック・シリーズこそ最上のアメリカン・ポップ・ミュージックなんです。

 

(written 2020.1.26)

2020/02/17

原田知世 in the night

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https://open.spotify.com/playlist/1IlylYVTXg6he9HhD2TNXU?si=F9O4Tda3SDiLgaJUqFZahw

 

このプレイリストをつくったのは2019年の10月でしたから、書くのがちょっと遅れました。昨2019年、原田知世の新作アルバム『Candle Lights』がリリースされたときにそのきっかけで作成したものだったんです。伊藤ゴローがプロデュースする知世は、入眠準備用のくつろぎミュージックとしても最高なんですけど、『Candle Lights』なんかは格別そうですよねえ。

 

でもこの新作アルバムだけだとちょっと時間が短いんです。約51分しかありません。集中して聴き込むにはこれくらいですけど、入眠準備のためのナイト・ミュージックとしてはあっという間に終わってしまいます。このアルバムが出る前から、近年の知世のスモーキーな声はおやすみ BGM としてこれ以上ない快適さだと思って聴いてきましたし、『Candle Lights』でいっそうそれを確信しましたから、自分用のナイト・ミュージックとしての知世プレイリストをつくったんですね。

 

この約二時間近いプレイリスト『原田知世 in the night』を、お風呂から上がった夜22時半すぎごろに聴きはじめ、そのまま入眠準備をし、音楽のヴォリュームはややしぼって小さめの音量で BGM としてちょうどいいようにして、時間が来たら眠剤を飲み、30分ほどで眠くなっていくその時間が、ぼくにとっては一日でいちばんくつろいでいるまったりタイムなんですね。いやあ、幸せな気分です。ベッドに入るのは24時すぎごろ。

 

小さめの音量で静かな雰囲気で聴いていれば、知世の最近の、ちょっとハスキーにかすれたような声質がちょうどいい感じに響くんですね。それでもってこういった落ち着いた雰囲気の曲の数々をムーディーに歌っているのを(小さな音で)聴けば、心が安らかになって一日の雑音も消え、しずまっていくような、そんな心持ちがします。心にさざなみが立たず、スーッと凪の状態になって、それで入眠用のナイト・ミュージックとしてはこれ以上ない心地よさなんですね。

 

そんな知世(+ゴロー)ワールドは、やっぱり最新作の『Candle Lights』で最大限に発揮されていますから、ぼくのこのプレイリストもそれが中心です。そこへ至る前に一時間くらい足していますけどね。まずぼくの大好きな『恋愛小説2〜若葉のころ』(2016)を置き、続けて知世オリジナル・ソングを伊藤ゴロー流にリメイクした近年ヴァージョンも持ってきています。つまり主に『音楽と私』(2017)からですが、「時をかける少女」だけは2007年の『music & me』のボサ・ノーヴァ・ヴァージョンを。

 

それが終わったら、このプレイリスト本番の『Candle Lights』セクションです。2019年の新作アルバムですけど、でも新曲は一つだけ。残りは過去曲のリメイクと、過去のアルバム収録曲をそのまま再録したもので占められていますから、ややコンピレイション的な側面もあります。でも間違いなくニュー・アルバムだといえる全体の統一性だってあるんですよね。

 

それはキリリと引き締まった冬の空気感と、クラシカルだったりジャジーだったりする(のはたぶんプロデューサーの伊藤ゴローのおかげかな)アレンジがおだやかで、知世の近年のこの声質によく似合っているということ、快活で激しいアップ・ビーターは一曲もないこと、などですかね。それらのおかげでアルバム『Candle Lights』全体を貫く一個のムードが聴きとれますよね。とても静かでおだやかでスタティック。躍動感はありませんが、寝る前には必要ないものです。

 

さあ、今夜もこれを聴きながら、静かでおだやかな気分で眠りにつくことにしましょう。

 

(written 2020.1.27)

2020/02/16

カナ書き論議 II(ver. Feb. 2020)

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I はこれ https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/2018-1396.html

 

人名や地名など固有名詞も、楽器名などの普通名詞も、なるべく発音に近いカタカナ表記を心がけていますが、あんまりやりすぎてもなぁという気がしています。たとえばジャズ・サックス奏者 Sonny Rollins はソニー・ロリンズで定着しているしぼくもそう書きますが、本当だったらサニー・ロウリンズでなくちゃいけません。でもサニー・ロウリンズと書くとだれのことだかその瞬間にはわかってもらえない気がしないでもなく。

 

しかしながらギターリスト(この guitarist 表記も心がけていることのひとつ)の Sonny Landreth はサニーですっかりおなじみですからね。ソニーと書くひとは少数派でしょう。そんな感じでカナ表記に揺れがあるものは、いや、なくてもあまりにかけ離れているばあいなど、なるべく原音への近似値を追い求め、音に近い(同じとはなりませんが)表記をすべきというのがぼくの信条です。

 

このあたり、表記体系の異なる言語間での移植の際にだけ発生する問題で、英語→日本語のばあいも音を汲み取った上でその音をカナ表記しなくてはならない(日本語→英語方向でも同じ問題が起きる)わけだけからめんどうくさいわけですよ。これが英語人名をたとえばイタリアでどう書くか?なんていう問題はぜんぜん発生しません。同じ文字体系ですから。発音の際はレナード・バーンスタインをレオナルド・ベルンステインと言っていようが、表記の際は問題が隠れるんですね。

 

ぼくの言っているカナ書き問題も文字表記体系の異なる言語間でだけ起きる問題で、音と文字の事情がぴったりくっついているからこそ発生することがらです。同じアルファベット文字表記圏内でとかだったら表記上はなにも違和感がありませんからね。通じていないにせよ、目で追うだけであればノー・プロブレム。ここが各種外国語(漢字圏を除く)と日本語の移植の際に大きな問題となってくることです。

 

さて、ぼくは Miles Davis をマイルズ・デイヴィスと表記する習慣ですけれども、これだってまだまだマイルスが主流ですよね。地名だって New York、New Orleans は二語ですから、カナ書きの際はニュー・ヨーク、ニュー・オーリンズと中黒(・)を入れているんですけど、こんな人間はあまり見かけません。ぼくがオカシイんでしょうか。ロス・アンジェルス、サン・フランシスコと書きますけれど、ぼく以外でこんな地名表記を見ることは少ないですね。ほぼなしかな。不安になってきます。マイルズ・デイヴィスは中村とうようさんはじめまあまあいますけどもね。

 

最大の懸案は、発音がわからないことばをどうカナ表記したらいいのか?ということです。わからないんだから、ぼくの外国語能力なんてかなり限られたものなんだから、そういった際には大多数のみなさんがお使いのマジョリティを採用するか、それかあるいは原語のまま書くということにしています。大多数とは違う表記をなさっているケースを発見したばあい、気になるのはマイルズ表記と同様の事情があるのではないか?と疑ってしまうことです。マイルス表記が大多数の日本ですけど、マイルズが正しい、しかし少数派だとぼくは知っています。似たようなことかもしれないぞと案じてしまうんです。

 

カナ表記のもう一つの重要点は、そのカナ表記を見て原綴りを想像してもらえるかどうか?という点です。つまりひとことにすれば、だれのことかどこのことかなんのことか、曖昧性なく認識していただけるような、そういうカナ表記でなくてはなりません。だからばあいによっては必ずしも原音に近くないカナ表記を受け入れざるをえないことだってありますね。ローリング・ストーンズのドラマーは本当だったらチャーリー・ウォッツなんだけど、もはやそうは書けない、ワッツじゃないと落ち着かないと思うケースなどです。

 

あるいはレッド・ツェッペリンみたいに、まあピーター・バラカンさんは英語母語話者でいらっしゃる(けれども英語以外のことばの表記にもなぜだかうるさいが、しかもかなりいい加減だし、どうなの?バラカンさん?)ということで、だからゼペリン、いやゼプリンだったかな、忘れた、でもそんな表記ですよね。これはどうにも受け入れられないです、日本人大ファンの心情としては、わかってんのかバラカン!

 

第一に Zeppelin というのはもともと英語じゃないぞということがあるでしょう。英語発音ではたしかにゼプリンで、バンド・メンバーたちもそう発音していましたが(じゃあそう書けばいいじゃな〜い)、この飛行船は英語圏のものじゃありませんからね。ドイツのフェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵にちなんだ名称です、それを英国も輸入したんだから Led は英語だけど複合語みたいなもんで、かの飛行船は日本でもドイツ由来でツェッペリンと呼ぶんだし、ロック・バンドもレッド・ツェッペリンでよしというのがぼくの見解です。同類多し。

 

でもでも英語だけのバンド名だったならば、だからたとえば Faces はやっぱりフェイセスなんてウソ表記です。フェイシズにちゃんとしてほしい、いまからでも遅くはないと強く強くファンのみなさんとレコード会社さんとジャーナリズム、各種ライターさんたちに言いたいですよ。

 

最初に書きましたように、カナ書きはやりすぎても意味はない、外国語なんだからどうがんばっても近似値にしかならない、同じにはならないんだから、というかそもそも発音を正確に文字で表記なんかできるのか?たとえ母国語であっても?アルファベットで英語人名の発音を正しく表記できるの?英語名詞なんか同じ表記で米と英で音が違うだろ、だから Sonny Rollins もアメリカではサニーだけどイギリスではソニーだ、でもアメリカ人だし、 とかって、どんどん根源的な疑問がわいてきてこの問題は止まりませんキリがありませんので、今日はこれくらいでやめときます。

 

(written 2020.1.25)

2020/02/15

テニール・タウンズがかわいすぎる

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2020年2月11日の朝、Twitter をぶらぶらしていてどれかの音楽系アカウント(アマゾンだっけな)のリツイートかツイートで偶然出会ったテニール・タウンズ(Tenille Townes)。その写真(上掲)を見ただけで、もうなんてかわいいのかと、びっくりしちゃいました。いやあ、ここまでかわいい女性ってなかなかいませんよねえ。端的に言ってぼくのタイプどまんなかで、しかもそれが歌手だっていうんですから、もうすぐに飛びついちゃいました。
https://twitter.com/amazonmusic/status/1226913735614201862

 

現在26歳のテニール・タウンズがいま日本でどれだけ話題になっているのかわかりませんが、カナダ出身のカントリー系シンガー・ソングライターみたいです。いままでのところアルバムを二枚リリースしているようですけれども、その二枚『リアル』(2011)『ライト』(2013)は、たぶんローカル・リリースみたいな感じだったんでしょう、さがしてもどこで買えるか見つかりませんし、Spotify にもありません。

 

Spotify で聴けるテニールは、いくつかのシングル曲を除けば二枚の EP だけ。『リヴィング・ルーム・ワークテープス』と『ロード・トゥ・ザ・レモネイド・スタンド』。どっちもコロンビア系レーベルからとなっていますが、実は彼女コロンビア・ナッシュヴィルと契約したということで、カナダ・ローカルのカントリー・シーンではいままでもそこそこ活躍してきたみたいですけど、いよいよメイジャー・デビューということになるわけですよ。

 

そのメイジャー・デビュー第一弾アルバムが、今2020年の春リリース予定の『ザ・レモネイド・スタンド』(コロンビア・ナッシュヴィル)。だから『ロード・トゥ・ザ・レモネイド・スタンド』はその先行 EP みたいな位置づけなんでしょうね。2018年となっている『リヴィング・ルーム・ワークテープス』とあわせてなんどか聴いてみました。

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・『リヴィング・ルーム・ワークテープス』https://open.spotify.com/album/4tqIQcOp7So49ZKF4Mzvp3?si=ZyYyKuLSQv2qNzVq1m_gYg
・『ロード・トゥ・ザ・レモネイド・スタンド』https://open.spotify.com/album/3BmVXY7sEPUYMaGfPCAO6M?si=H1JWxs-gRmKnY-G9XvrDwg

 

こういった声質ですから好みが分かれるところかもしれませんが、個人的には好印象ですね。こういう声とこういう歌いかたをするカントリー系のシンガーって、アメリカにもいっぱいいるじゃないですか。テニール自身の書く曲や弾くギターの魅力とあわせ、なかなかチャーミングだなと思いますね。そう、まずなんたって曲がいいですよね。

 

曲のよさは、実を言うと同じ曲でも『リヴィング・ルーム・ワークテープス』収録のヴァージョンのほうがわかりやすかったりします。お化粧していない、生ギターでの弾き語りで披露しているだけあって、テニールの曲の魅力がよりあらわになっているかもと思うんです。「ジャージー・オン・ザ・ウォール - アイム・ジャスト・アスキング」「サムバディーズ・ドーター」「ワイト・ホース」の三曲がどっちにもありますから、比較してみてください。

 

個人的にはサウンドに分厚いメイクを施すよりも、テニール自身のアクースティック・ギター弾き語りメインでこうやって静かに淡々と展開される音楽のほうが好みです。ですがメイジャー・デビューということでコロンビア側としてもしっかりプロデュースしたいのでしょうね。それはよくわかります。いままでのローカル・リリースの過去作二枚がどんな感じだったのかも聴いてみたい気がしますね。

 

いずれにせよ今春にいよいよメイジャー・デビューとなるテニール・タウンズ。26歳でルックスも極上、曲も声もチャーミングですし、人気が出るといいなあ。ゆくゆくはメイジャー・レーベルからテニール自身の弾き語りアルバムを出してほしいです。

 

(written 2020.2.13)

2020/02/14

奇跡の名曲「あたらしいともだち」〜 Soggy Cheerios (2)

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https://open.spotify.com/album/69USJW7Ro6Pk137lHpcNlc?si=fOrEgkXLR2yiiLmzhgLHDQ

 

Soggy Cheerios の二作目『EELS AND PEANUTS』(2015)1曲目の「あたらしいともだち」は奇跡の名曲でしょう。たぶんこのデュオ(鈴木惣一朗&直枝政広)がいままでにやったもののなかでは、最新作『III』をふくめても、最高傑作曲が「あたらしいともだち」じゃないですか。その最新作にしてからがアルバム・ラストにボーナス・トラックとしてこの曲のライヴ・ヴァージョンを収録しているんだから、本人たちだって同様に考えているかも。

 

個人的には『III』ではじめてソギー・チェリオスを知ったわけなので、「あたらしいともだち」もそれに収録のかもめ児童合唱団ヴァージョンでまず聴きました。その後、一作目『1959』(2013)、二作目『EELS AND PEANUTS』も聴いてみて、やはりこの曲が群を抜いた傑作、名曲であると確信するようになりました。でもきっかけがあって、それは YouTube で観たこの曲の MV ↓
https://www.youtube.com/watch?v=SIVIlSfQ7XI

 

モノカラーのこの映像、基本的に二人のスタジオ・セッションの様子をコラージュしていますけど、そこにこの曲の歌詞がパッ、パッと字幕で出るでしょう、ひとことひとことかみしめるように、ソギー・チェリオス側からそれを届けたいというようなそんな歌詞の出しかたですよね。親密な感じもうまく演出されているし、「さみしい時には、思い出してね、いつもどこかで、きみを気にしてる、ともだちがいること」っていうこの暖かみのあるリリックで、ぼくはちょっと泣いちゃいました。

 

歌のメロディもとても人間味あふれるやさしくあったかい感じだし、美しく、アレンジもサウンドもいい(やはり鈴木の弾くマンドリンが効果的)。歌詞もなにもかもひっくるめて、この「あたらしいともだち」という曲の傑出したハートウォーミングさがじんわり聴き手に伝わってきます。そんな MV ですっかりノックアウトされ惚れちゃってからは、CD や配信で聴いても同じように感動するようになりました。

 

ところでこの MV で一点気になることがあります。リール・テープがまわっているシーンがあるでしょう。えっ、ソギー・チェリオスはアナログ・レコーディングなの?と思ったんですけど、別のカットでは Mac コンピューターも一瞬映りますよね。CD ブックレット記載のクレジットによれば、この曲ではプログラミングは使っていません。ほかの曲で Mac を使ったってことですかねえ。う〜ん、どうなんだろう?

 

ともあれ「あたらしいともだち」みたいな傑出した名曲がアルバム・オープナーだから『EELS AND PEANUTS』のファースト・インプレッションがとてもいいわけです。そして聴き進んでいくと、実際かなりいい曲がたくさん並んでいますよね。5「うつくしいとしること」、7「道」、8「ふやけたシリアル」、9「次の季節のための歌」、11「サウンド・オヴ・サイレンス」などは本当にすばらしい曲だと思います。やはり曲のトータル・プロデュースがいいですよね、昨日も書きましたが。

 

いい曲がたくさん並んでいる、粒ぞろいである、という意味では、このセカンド・アルバムのほうが『III』より上かもしれないですね。個人的には出会いの感動が大きかったから『III』にどうしても軍配をあげちゃうんですけど。ビートルズ的シックスティーズ・ポップ〜セヴンティーズのアメリカン・ロックとか、そのあたりにあるだろうこの二名の音楽的ルーツは、『EELS AND PEANTUS』のほうが素直に表出されているかなと感じます。

 

ふわりとあったかい人肌のぬくもりを感じるソング・ライティングとサウンド・プロデュースが、三作とおしてぼくの思うソギー・チェリオス最大の魅力で、手づくり感というかヒューマンなてざわりがあるのがこのポップ・ユニットの特長ですね。鈴木の弾くマンドリンがやはり効果的に響く点もあわせ、こういったことが二作目『EELS AND PEANUTS』でもフルに発揮されています。

 

(written 2020.2.4)

2020/02/13

Soggy Cheerios との出逢い 〜『III』

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https://open.spotify.com/album/4Iz8QbHoeiQgPmvG3SY2c7?si=MO6jVjzpTEOMVfbjtT-k2A

 

萩原健太さんのブログで知りました。
https://kenta45rpm.com/2020/01/14/iii-soggy-cheerios/

 

鈴木惣一朗(ワールド・スタンダード)と直枝政広(カーネーション)によるポップ・ユニット Soggy Cheerios の文字どおり三作目になる『III』が昨2019年暮れにリリースされています。もうかなりのヘヴィ・ローテイション盤になっているので、ここらでやっぱりちょっと記しておきましょうね。これ、いままでのこのユニットのアルバム中たぶん最高傑作じゃないかと思いますし。

 

ソギー・チェリオスでいちばんいいのはソング・ライティングにありというのがぼくの見方で、曲を書き、アレンジし、サウンド・メイクする、どんな音をどこにどう配するかという、トータルな意味での曲づくりがとってもすばらしいなと思います。最新作『III』では、それまでと違って作詞作曲者名クレジットがユニット名じゃなく、鈴木か直枝のそれぞれ個人名になっていますが、いままではどうしていたんでしょうかねえ。

 

さらにソギー・チェリオスは本当に二人だけのユニットで、演奏も基本二名がさまざまな楽器を多重録音し声も重ねるというやりかたで音楽をつくっていますが(若干のゲスト参加はあり)、できあがったアルバムを聴いて判断すると、演唱面までふくめた意味でのプロデュース全体がやはり秀逸だな冴えているなと思うんです。プロデューサーもソギー・チェリオスになっています。

 

このユニットの音楽の色彩感をある意味特徴づけているのは鈴木の弾くマンドリンじゃないかと思うんですけど、そのほか若干のエレキ・ギターやエレピなど聴こえはするものの、基本アクースティックなサウンド・メイクが中心になっているのも個人的嗜好に合致しています。ナチュラルな木の香りがしてくるようなサウンドというか音楽ですよね、ソギー・チェリオスって。

 

鈴木の弾くマンドリンの高音のキラキラした音色が控えめに輝く瞬間とか、両名の弾くアクースティック・ギターのやわらかい音色など、スムース&ナチュラル。本当に心地よくって、しかもポップ。さらに日本の音楽家じゃないとこの表現はできないなと確信できるサウンド面での個性もあります。もともとはビートルズや、あるいはアメリカン・ポップス(ロック)がルーツになっているユニットじゃないかとは思うんですが。

 

ここの歌ここの演奏が特にすばらしいと傑出したものがあるわけじゃなく、プロデュースや(トータルな意味での)ソング・ライティングがみごとであるというのは『III』についても言えること。まず1曲目の「繭」。これなんか最高じゃないですか。やはり鈴木のマンドリンが効いていますが、この曲ではギター&ヴォーカルだけのパートとリズム隊が入ってくるパートとのコントラストが本当にすばらしく、グッと心をつかまれます。

 

特に傑出した歌もあるわけじゃないと書きましたが、2曲目の「海鳴り」は例外です。ここではシンガー・ソングライターの優河が歌っているのがもうなんともいえず最高で、なんなんですかこの声は?まるで神の声のようじゃないですか。優河のことは、このソギー・チェリオスではじめて知ったんですけど、もうビックリしちゃいました。こんなに透き通った、しかもミスティックな声ってこの世に存在するんですね。優河のこともちゃんとチェックしなくちゃね。

 

そのほかアルバム前半ではやはりアクースティック・ギターを中心とし、マンドリン・サウンドを効果的に置きながらの弦楽器アンサンブルで組み立てられていますが、あいだにインストルメンタルな6「まだら」をはさんでの後半部では、個人的に8「HAPPY」が沁みました。健太さんもおっしゃっているように歌詞がグッとくるという面はたしかにありますが、それ以上にこのポップでさわやかな曲調がぼくは大好きですね。

 

アルバムのラストにはボーナス・トラックとしてライヴ収録の「あたらしいともだち」(名曲!)が置かれています。2019年5月26日の渋谷ライヴで、かもめ児童合唱団がフィーチャーされています。この曲は前作『EELS AND PEANUTS』(2015)の1曲目だったもので、『III』ラストのこのライヴ・テイクでは演奏がソギー・チェリオスの二名だけ。チャイルド・クワイアによってこの曲の持つあたたかみのある美しいメロディ・ラインと歌詞のよさ、人間味がいっそうきわだっています。

 

ソギー・チェリオスはこの新作『III』リリースにともなう全国ライヴ・ツアーを2月15日の神戸から実施します。ぼくは最終日3月24日渋谷公演のチケットを買いました。バンド形式でやるのがこの日だけということで、東京まで行くのはたいへんなんですけど、おおいなる楽しみです。

 

(written 2020.2.3)

2020/02/12

内なる炎を静かに燃やす 〜 ダグエラ

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https://open.spotify.com/album/4mbvMFhpaWnMu1Tjv1oMzN?si=fKaUNQ_mSDeFe4BwswqyUQ

 

ダグエラ(D'Aguera)はブラジルの男女デュオで、ギターのリルカド・ラジッキとヴォーカルのベアトリス・トマス。そのデビュー作『ダグエラ』(2019)がわりといいんじゃないでしょうか。このアルバム、1曲目でのピアニストはじめゲスト参加のミュージシャンがたくさんいてその色も濃いので、デュオ・アルバムだという先入観で聴きはじめると(ぼくがそうだった)戸惑いますが、音楽的には充実していると思います。

 

ジャケット・デザインがこんな感じで、静謐な水をたたえたようなフィーリング。これは中身の音楽を端的によく表していると思うんですね。だからジャケットのこの雰囲気でこんな感じかなと想像をなさったかたは、たぶんそのままの音が聴こえるので予想どおりとの感想を持てるはず。透明感があって、ちょっとミナス音楽的なふわっと漂うような、ヴェールのような音楽をやるのがダグエラです。

 

しかしそれだけじゃないんですね。ダグエラの音楽は、内的にはけっこう激しい炎を燃やしているのが、聴けばわかります。2曲目までは静かで美しい感じで進みますが、3曲目でトロンボーンが聴こえるようになるとサンバな雰囲気が出てきていますよね。ここからのアルバムはミナスというよりサンバっぽいものを中心にして展開されています。それでも激しい快活な感じではなくて、やっぱりおとなしいんですけどね。

 

たくさんのゲスト参加ミュージシャンたちがかなりがんばっていますけど、ダグエラの二名に限って言えばヴォーカルのベアトリスがかなりいいですね。声がきれいでしょう。なんだか透き通ったような声質で、しかも張るところは張り、でも力まず声も立ちすぎずおだやかで、ヴォーカリストとしてなかなかの資質の持ち主だと思います。歌詞を歌っているときもスキャットやハミングみたいな時間もとても聴きごたえあります。

 

4曲目でギンガがゲスト参加してベアトリスとヴォーカル・デュオを聴かせているのもいいし、バンドリンをくわえてやっている5曲目でのスキャットもリズミカルで快感ですね。全体的にダグエラの音楽からは、ギターのリカルドが堅実に弾く上でヴォーカルのベアトリスがおとなしいながらも内に秘めた炎を静かにしかし激しく燃やすっていう、そういった印象を受けます。

 

アルバム終盤の7、8曲目、特に8曲目はちょっと大きめの管楽器アンサンブルと打楽器が入り、これも静かではあるけれど軽いサンバのようなノリが聴けますね。徐々に熱が上がり炎が燃え上がり、後半部でかなり熱くなっていきます。パーカッション、ホーンズ、ヴォーカルと三者それぞれのアンサンブルも激しくなって、最終的にはけっこうな高みに到達してフィニッシュします。

 

(written 2020.1.25)

2020/02/11

歪んだ音ほど美しい(2)〜 チック・コリア in マイルズ『ブラック・ビューティ』

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https://open.spotify.com/album/3qFhhUSLJxUKrRIbmcDo11?si=2_3tmJEcQI6XkELDppGIKw

 

グレイトフル・デッドの前座で1970年4月10日にサン・フランシスコのフィルモア・ウェストに出演したマイルズ・デイヴィス・バンド。このときは9〜12日と四日連続公演のメイン・アクト(二部)は日によって違いますが、一部のマイルズはずっと出ています。そのなかからフルに公式発売されているのは、73年にまず日本でだけレコード二枚組でリリースされた10日分の『ブラック・ビューティ』だけ。

 

ところで関係ない話からしておきますとこの『ブラック・ビューティ』、レコードで二枚組、CD でも二枚組、だから配信でも二つになっていますが、この1970/4/10のマイルズ・ライヴはワン・ステージでした。聴けばわかることですけれども、二枚になっているということで二部構成だったんじゃないかと誤解なさるかたがいらっしゃるかも。ツー・アクトのフィルモア公演の第一部出演ですから、ライヴはワン・ステージだけです。一回だけ。1時間19分という長さ(はワン・ステージと思えないほどですが)なので、二枚になっています。

 

さてこの日のライヴはチック・コリアのかっ飛ばしぶりがものすごいんですよね。なんなんですか、このフェンダー・ローズのナスティでダーティな音色は!?濁りに濁り歪みに歪んでいて、こんなの聴いたことないですよ。マイルズ・バンドとチック・コリアとフェンダー・ローズといえば、前年1969年バンド、いわゆるロスト・クインテットからいっしょですけど、こんなものすごいサウンドじゃありませんでした。この1970/4/10の『ブラック・ビューティ』、たぶんチックの生涯最高名演だろうと思います。

 

とにかく1曲目の「ディレクションズ」を聴いてみてくださいよ。こんなフェンダー・ローズの音色、ふつうありえませんから。アルバム『ブラック・ビューティ』全体でそうなんですけど、主役は完全にチックですね。チックがこの日のバンドを牽引していて、それは「ディレクションズ」の出だしを聴いただけでおわかりのはず。まずチックが出て、そこにリズムが参加してボスも出ますけど、チック出現の時点でもうその場の空気をかっさらっていますからね。

 

フェンダー・ローズだけでどうしてこんな汚い(最高にいい意味)サウンドが出せるのか不思議ですけど、ファズやリング・モジュレイターなどのエフェクター類を最大限に活用したということだったんでしょうね。もっと不思議なのはここまでダーティな音色を出しているフェンダー・ローズのチックは、マイルズ・バンド時代のライヴでもほかに見当たらないということなんです。

 

だからこの日だけのパフォーマンスだったということで、どうしてこの日に限ってこうなっているのか?なにかリキが入る理由があったんじゃないか、あるいはただの気分なのか、しかしエフェクター類をこの日だけ用意しておいたとも考えにくいから、ふだんは置いてあっても使わなかったということか?などさまざまな疑問がぼくの頭のなかを駆けめぐります。1970年だしサイケデリック・カルチャーのメッカ、サン・フランシスコだから?サイケ・ロック・ギターリストもよくファズとかワウとか使っていましたよね。チックは活躍中だからだれか本人に聞いてみて。

 

ともあれ『ブラック・ビューティ』1曲目の「ディレクションズ」。まずは冒頭小さくチックが出ますけど、(ミキシングのゆえか)音量が持ち上がるところからがザラザラしたサウンドで攻めるナスティ・チックの本番です。いや、その前、ジャック・ディジョネットが入ってくる前の出だし部分からチックはエレピにファズをかけていますよね。もうそこだけでザラザラしていて快感なわけですけど、これ、どうしてこんなナスティ、ダーティな音色になっているんでしょう?ファズ?

 

ジャック・ディジョネットが(エレベのデイヴ・ホランドも)入ってきてトリオ演奏になって、スネアかんかんでチックもナスティさ全開で盛り上がってきたところで満を持してマイルズが出ますね。チックはぐわんぐわんとリング・モジュレイターでかましていて、ボスとのかけあいもスリリングで最高じゃないですか。トランペットが高らかに一閃すればチックも強く激しく鍵盤を叩きエフェクトをぐわんとかましていますよね。いやあ、すごい、すごすぎる。シビレます。

 

「ディレクションズ」でマイルズが吹いているあいだじゅうずっとチックはこんな音色で激しく攻めているんですね。二番手スティーヴ・グロスマンのソプラノ・サックス・ソロになるとおとなしくなるのがちょっと意外ですが、三番手で自分のエレピ・ソロになれば、ここは自分の場!とばかりに過激なフレーズと音色を連発。いやあ、快感ですね。こんな「ディレクションズ」、こんなナスティなチックはほかには一個もないんですよね。

 

2曲目以後も、曲によってパートによってはクリーン・トーンで弾いている時間もありますが、全体的にチックはフェンダー・ローズにエフェクターをかませて音色を歪めていますよね。まるでハード・ロック・ギターリストみたいに。この鍵盤奏者、このほんのちょっとあとにリターン・トゥ・フォーエヴァーというバンドをはじめて、フェンダー・ローズでの澄んだきれいなサウンドで一斉を風靡することになったのはみなさんご存知のとおりです。それもいいんですけど、ぼくにはこんな歪み濁った汚い音色で過激に突き進むチックこそ大好物なんです。

 

3曲目「ウィリー・ネルスン」でのフリー・インプロヴィゼイション・パートもすごいし、二枚目1曲目「ビッチズ・ブルー」でも音色がダーティでかっ飛んでいますよね。最初クリーン・トーンで弾きだしていますがだまされちゃいけません、すぐにギャワ〜ン!となってしまっています。その切り替えのエフェクターのスイッチをオンにする瞬間のブツッという音も入っていますね。最高に楽しいじゃないですか。大好きです、こういうの。

 

ライヴ・ラストの「スパニッシュ・キー」でのチックは、冒頭の「ディレクションズ」と並ぶローズの音色のダーティ&ナスティさ。演奏終了の合図「ザ・テーマ」終了時にこれまたリング・モジュレイターでグワングワンと。エレピのグワングワンでマイルズ・バンド出演終了となってしまうんです。なんじゃこりゃ!すげえ!こんなチック・コリア、ほかじゃあ絶対に聴けません。これがチックの生涯ベスト・パフォーマンスでしょう。

 

(written 2020.1.22)

2020/02/10

デビューしたてのヴァイブ・サルサ・コンボ 〜 ヴィブラソン

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https://open.spotify.com/album/5vQDIj0z7MI6W1UdU7BnQZ?si=AB_GHYoKQxuwLIISBaaa_Q

 

ヴァイブラフォンをフィーチャーしたサルサ・バンドはたくさんあると思いますが、これは新人でしょうか、ヴィブラソン。2019年リリースの『Llegó Vibrasón!』がどうやらデビュー・アルバムみたいです。アメリカ合衆国西海岸で活動をしているんじゃないでしょうかね、1曲目のしゃべりで「ベイ・エリア・サルサ・バンド!」って名乗っていますからね。

 

サルサというかニュー・ヨーク・ラテンとヴァイブラフォンとの関係は、たぶんティト・プエンテまでさかのぼる歴史があると思うんですね。ティトはサルサのルーツのひとりにしてティンバレス奏者ですけれど、ときどきヴァイブラフォンも演奏していました。シングル盤収録曲のなかにはスタンダード・ソングのカヴァーも多く、これらの伝統が(西海岸バンドだけど)ヴィブラソンにも受け継がれているのでしょう。

 

ヴィブラソンの『Llegó Vibrasón!』でも実際カヴァー曲が多いんですね。「ロンリー・イン・ザ・ナイト」やスティングの「イングリッシュマン・イン・ニュー・ヨーク」「フラジャイル」などなど。それらが原曲の雰囲気をとどめないほど完璧なラテン・ナンバー化していて、これ、知らないひとが聴いたらオリジナル・ナンバーだと思うかも。かなりダンサブルで楽しい感じですね。

 

ラップというか語りが多く入っているのもこのアルバムの特色ですね。それらはだいたい英語です(歌は多くがスペイン語)。ほとんどの曲が踊りやすいミッド・テンポでどっしりしていて、実際楽しいし、しかしアレンジはけっこう凝っていて一筋縄ではいかない複雑なキメも聴かせます。ヴァイビストのソロはかなりジャジー、しかもジャズ・マンがよくやるスタンダードからの引用も多く、ワン・パターンかもしれないけれどなかなか聴けるものがあるんですね。

 

楽曲によってはインストルメンタルもあり、多彩な内容で飽きさせません。アルバム中最後の2トラックは、そこまでに収録されている曲の別ヴァージョンみたいですね。特に「ラテン・ヴァイブ・チューズデイズ」がいいです。ヴァイブ・ソロもかなり聴かせる内容だし、第一ノリが最高です。どの曲でもダン、ダン、ダダン、ダンダンといったバンド一体となったキメのリフ演奏は、やっぱりティトのマナーを彷彿とさせるもので、ぼくなんかはうれしくなっちゃいます。

 

(written 2020.1.24)

2020/02/09

ジャズ・ダンスなサルサ・コンピレイション 〜『ソル・ヴァイブレイションズ』

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https://open.spotify.com/album/5vWpWeuyKCIbX3v6ATnM7q?si=6UXcjWcHSJGEsact7VP1Cw

 

これはたぶん DJ 用のサルサ・コンピレイションってことなんですかね、アナログ・レコードでリリースされたらしい『ソル・ヴァイブレイションズ:ラテン・ダンス・ムーヴメンツ』(2019)。アナログはもう聴かないぼくだけど Spotify で聴けますので。で、耳を通してみたら、なかなか楽しいです。US、UK、スペイン、ブラジル、フランス、キューバ、ウルグアイ、そして日本と、世界各国のサルサ・バンドを集めてあるみたいですよ。

 

ヴォーカル入りとインストルメンタルが半々くらいですかね、もうちょっと歌ものが多かったらもっと楽しかったかもしれませんけど、サルサは基本、パターン反復の音楽なんで、器楽演奏でこんなふうにやっているのはみなさんご存知のとおり。楽しいです。個人的にグッとくるのはやはりおなじみの有名曲をサルサ・アレンジでやっているもの。

 

具体的には4曲目の「アズ」(スティーヴィ・ワンダー)と10曲目の「マンテカ」(ディジー・ガレスピー)ですね。後者はハナからアフロ・キューバン・ソングでしたが、スティーヴィの前者はそうでもありませんでしたから。それがここまでのサルサに仕立て上がっているのを聴くだけで、もうじゅうぶん満足ですよ。10曲目、EC3の「マンテカ」も見事なできばえ。しかもジャジー です。

 

7曲目、ジャン・パブロ・トーレスの「オール・リゼム・アヘッド」で聴けるサックス・ソロなんかも聴きごたえのあるすばらしい内容ですし、そのほかどの曲もノリがよくて踊りやすいフィーリングですね。フロア用ミュージック・コンピとしてはなかなかよくできたアルバムじゃないでしょうか。サルサというよりラテン・ジャズ、ジャズ・ダンスといった趣かもしれませんが、こういうのを聴いて体を動かして、いやなことも忘れましょう。

 

(written 2020.1.23)

2020/02/08

ダンス・ミュージックとしてのモダン・ジャズ

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https://open.spotify.com/playlist/1OAOMYbP4EDgKstUio9FdD?si=GRfrwHFVQ4y6OGRurch5Mg

 

昨日書いたジャズ・ディフェンダーズ。そのなかでリンクを貼った萩原健太さんのブログ記事にあった以下の一節には、とっても激しくうなずいちゃいました。いや、まったく同感です。健太さんがぼくの気持ちを代弁してくれている!と猛烈にうれしくなったんです。

 

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ぼくは1950年代のファンキー・ジャズをR&Bインストの一環ととらえて踊りながら聞くとか、そういうのも楽しいですよね、と発言して、重鎮さんから鼻で笑われたものだ。そういうことを大声で言うもんじゃない、恥ずかしい、と諫められた。

40年近く前だ。大昔の話。おっかなそうなクロートさんがやけに難しく、ありがたそうにジャズを解説しつつ、“鑑賞”するみたいな風潮がまだ幅をきかせていたころ。今にして思えば、そんな時代もあったのだなぁ、と遠い目になる。
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https://kenta45rpm.com/2020/01/09/scheming-the-jazz-defenders/

 

このくだり、完璧に健太さんに共感できちゃいますよねえ。そう、ぼくにとってもハード・バップとはそういったものなんです。ダンス・ミュージック。聴きながら踊る、すくなくとも手拍子をとったり、指や肘を動かしたり、思わず腰や膝を揺すったりする、そういったものなんですね、ジャズって。この一点においては(ぼくのなかで)戦前古典ジャズもビ・バップもモダン・ジャズもかわりありません。

 

今日いちばん上でリンクを貼ったのは、ブルー・ノート・レーベル公式配信プレイリスト『ブルー・ノート・ブーガルー』(2018)#BlueNoteBoogaloo ですけど、たとえばですよ、これのオープナーになっているリー・モーガン「ザ・サイドワインダー」を聴いて、腰や肩や膝が動かないっていうひとがはたしているのでしょうか。これをジッと目をつぶってありがたくおしいただく、鑑賞するなんていうリスナーがこの世にいるでしょうか。

 

そんなリスナーがいたとしたらウソだとしか思えないですけど、実際にはぼくがジャズを聴きはじめた約40年前でもたくさんいらっしゃったことを忘れたわけじゃありません。その典型がむかしの日本のおしゃべり禁止ジャズ喫茶のお客さんたちとマスター(ママ)。モダン・ジャズとはアートだ芸術なのだ、キビシクまじめに耳を傾けなくちゃならない、それで聴きながら沈思黙考するのであ〜るっていう、そういった考えかたのみなさんが、ぼくの周囲にもむかしはそりゃたくさんいたもんです。

 

リー・モーガンの「ザ・サイドワインダー」やハービー・ハンコックの「ウォーターメロン・マン」や、それらに象徴されるジャズ・ロック、ソウル・ジャズの流れにあるものであれば、それでもまだダンサブルであるという認識がすこしあったかもしれませんが、ごくふつうのストレートなメインストリームのハード・バップともなれば、そりゃあもうジャズ喫茶のなかでみんなが石仏のように静まりかえり難しい顔になって、ひとことも発さず、もちろん膝や肩を揺すったりなんか1ミリもせず、そんなことしようものならにらまれて、微動だにせずただただ観賞していたもんですよ。

 

しかし考えてみれば、ハード・バップとリズム&ブルーズは親戚関係にあります。ビ・バップとリズム&ブルーズが兄弟で、どっちも1930〜40年代のカンザス・シティ・ジャズ〜ジャンプ・ブルーズを源流、母として誕生したものなんですね。えっ?あんな汚らしい音楽とモダン・ジャズが血を分けたものだなんて、ウソだぁ〜っ!と言いたくなる気持ちは理解できないわけじゃありません。

 

たとえば1940年代最大の黒人スター、ルイ・ジョーダンのことを考えてみましょう。ルイの音楽を聴いて、どなたが聴いても、これはジャズである、スウィング・ミュージックである、いや、ジャンプだ、うん、ロックしているんじゃない?と、さまざまな表現が可能じゃないかと思うんですね。実際のところルイはジャンプ・ミュージックの人物として扱われることが多いんですが、出自はジャズ界にあるんですよね。
https://www.youtube.com/watch?v=c8uxrypkqv4

 

リズム&ブルーズを直接的に産んだジャンプ・ミュージックですが、ジャンプとスウィング・ジャズ、特に黒人スウィングとは区別できませんからね。黒人スウィングがそのままジャンプをやるようになったわけなんです。たとえばライオネル・ハンプトン。ハンプはご存知スウィング・ジャズのヴァイブラフォン奏者で、1930年代にはスウィング界最大のスター、ベニー・グッドマンのコンボで活動していましたが、40年代に入って自分のビッグ・バンドを持つようになると猛然とジャンプするようになったんですからね。音楽的にはジャズですけど、そのままジャンプと呼ばれるようになったんです。
https://www.youtube.com/watch?v=Lbh8RUfAkA0

 

ってことはつまり、ブラック・スウィングもジャンプも区別できないっていうのが間違いないところで、そのジャンプはそのまま1940年代末から50年代にかけて、直接的に、リズム&ブルーズへと姿を変え、しかも同時にチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーらビ・バッパーをも産んだのです(バードもディジーもジャンプ・バンドの出身ですから)。油井正一さんが「ブギ・ウギ、バップ、8ビート・ロックには明らかな公分母がある」とおっしゃったゆえんです(『ジャズの歴史物語』アルテスパブリッシング、p.90)。

 

同箇所で油井さんも指摘なさっていますが、最大のキー・ポイントは黒人感覚、日常の挙措とダンス感覚に根差した黒人のリズム・フィールが音楽のなかに持ち込まれているという点でです。黒人音楽である(ブラック・)スウィングも、(ブギ・ウギを基底に置く)ジャンプも、リズム&ブルーズも、そしてビ・バップも、同種のリズム感覚を共有しているんですね。パーカー在籍時のジェイ・マクシャン楽団の録音をちょっと聴いてみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=eNKavSl2HG4

 

この「コンフェッシン・ザ・ブルーズ」(歌はウォルター・ブラウン)は1941年の録音。リズム&ブルーズの歴史を飾る第一号にして、同時にここにはパーカーがいるんですね。ソロなど吹きませんが、これが A 面になっていたレコードの B 面がバードをフィーチャーした「フーティ・ブルーズ」。これをお聴きになれば、もはやビ・バップの祖型があると理解していただけるのではないでしょうか。同一楽団による一枚のレコードの A 面がリズム&ブルーズ、B 面がモダン・ジャズだったのです。というか「フーティ・ブルーズ」でもブラウンが歌っていますから、一曲のなかにリズム&ブルーズとモダン・ジャズが共存しているとも言えるんです。
https://www.youtube.com/watch?v=scqZJ3NL_xg

 

今日いちばん上で引用した萩原健太さんの発言は、もちろんこういった歴史的経緯をふまえた上でのものですけれど、そうでなくとももともと若いころからハード・バップにリズム&ブルーズ的(というかロック的な)ダンス感覚があると、直感的に感じとって、それで踊っていたということだと思うんですね。ぼくもそう。今日書いたような、ブギ・ウギ、黒人スウィング・ジャズ、ジャンプなどとモダン・ジャズやリズム&ブルーズ(ロック)との歴史的関係はずいぶんあとになって学んだだけのことです。

 

もとはといえば高校〜大学生のころにモダン・ジャズを聴いて、これは楽しく踊れるなあというかリズムがとれるし、実際手や足や腰が動いてしまうというのを、ジャズ喫茶のなかですらも、体験していたその原初的なというか初心者感覚がもともとありました。モダン・ジャズとリズム&ブルーズ(ロック)は、ヴォーカルを抜いて楽器演奏だけにしてしまえば感覚的にとくに違いはないぞと、身をもって実感していたことなんですね。理屈はわかっていませんでした。ただ楽しかったんです。

 

健太さんは「1950年代のファンキー・ジャズ」と限定されていますけれど、たしかにファンキー・ジャズはダンサブルですよね。そもそもモダン・ジャズはダンス・ミュージック(とすくなくとも関連がめっちゃ深い)なのだと、上の段落まででぼくは今日強調しましたけれど、それを抜きにしても、モダン・ジャズにゴスペルやソウルなどの音楽要素をプラスしたのがファンキー・ジャズですからね。

 

ぼくの見方では、1960年代になって踊れないフリー・ジャズが勃興するまでは、ほぼどんな種類のジャズでも、アーリー・ジャズでもビ・バップでもハード・バップ全般でも、それにあわせてダンスすることができるんだと40年前から感じてきたし、いまでもこの意見はちっとも間違っていないと確信しています。フリー・ジャズがジャズからダンスを奪ったのち数年で、ファンキーなソウル・ジャズやジャズ・ロック系のものが台頭し、そのまま1960年代末〜70年代のジャズ・ファンクへとつながったのは、いま考えたらジャズ・ミュージックの持つ根源的ダンス遺伝子の顕現だったと思いますね。

 

(written 2020.1.21)

2020/02/07

”あのころ”の空気感 〜 ザ・ジャズ・ディフェンダーズ

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https://open.spotify.com/album/6GUCV6aQBQsteA3P0cmsh0?si=EIB5stN8QyaRYjb141DMVQ

 

萩原健太さんの紹介で知りました。
https://kenta45rpm.com/2020/01/09/scheming-the-jazz-defenders/

 

ちょっと大げさな名前のジャズ・ディフェンダーズ。英国のグループというかプロジェクトで、昨2019年末にデジタル・リリースされた(CD は2020年1月末発売)アルバム『スキミング』は、とても現在の新作とは思えないレトロさ加減。これ、1950年代後半〜60年代初頭ごろの、あのころの、ハード・バップ一直線なんですね。ジジイ趣味もいいところなんですけど、こういう音楽にある種の郷愁をいだく人間には文句なしに楽しいはず。

 

ジャズ・ディフェンダーズは英国のセッション・ピアニストであるジョージ・クーパー(31歳)が牽引するもので、彼がたぶんこの1950年代的ブルー・ノート・ハード・バップ再現を考えついて、メンバーを集めたんだと思います。編成はジョージの鍵盤(オルガンは彼の兼任か別奏者がいるのかわからず)を中心とするリズム・セクションにトランペット+テナー・サックスという、典型的ハード・バップ・コンボ。全員 UK スタジオ・ミュージシャンじゃないでしょうか。

 

もうね1曲目の「トップ・ダウン・トゥーリズム」からして笑っちゃいますよねえ。それくらいストレートでど真ん中の懐かしきハード・バップ路線。アルバム全体がそうなんですよ。収録の全10曲すべてジョージ・クーパーの書き下ろしだそうで、まだ31歳なんだけど、こういった音楽趣味があるのかなあ、ハード・バップは時代を超えた不変・普遍の音楽だということなのか、あるいは隔世遺伝でこそテイストが濃厚に煮詰められ純化されるということでしょうか。

 

アルバム・タイトルになっている3曲目「スキミング」はオルガンの音が聴こえるジャズ・ロック/ソウル・ジャズですけど、ほかにも9曲目の「シール・カム・ラウンド」も同傾向で、これらはハービー・ハンコック「ウォーターメロン・マン」(1962)やリー・モーガン「ザ・サイドワインダー」(63)からの直系遺伝子ですね。まさしくブルー・ノート・サウンド!

 

そう、ハービーとかリーとか、ソニー・クラークやドナルド・バードや、ホレス・シルヴァーとかアート・ブレイキー(ジャズ・メッセンジャーズ)とか、そういったラインナップがすぐ頭に浮かんでくるジャズ・ディフェンダーズの『スキミング』。ブルーズ・フォーマットを基調とし、ちょっぴりラテンなリズム活用だっていかにもですし、静水をたたえたような(かすかに新主流派ふうの)バラードだって美しく響きます。

 

惜しむらくは健太さんもご指摘のようにちょっぴりホットさが足りないっていうか、ぼく的には肝腎要の<なにか>がここにはないような気もするんですね。そこが時代的にもハード・バップ全盛期から遠く離れたひとたちがあえて似せてやっているだけという、ことばは悪いかもですけどフェイクもの、物真似にすぎない、とひとによっては聴くかもしれません。

 

それでも2019年リリースの新作ジャズでここまでやれれば、じゅうぶんオーケーですけれどもね。なにはともあれ聴いて楽しめるアルバムであることは間違いないです。ジョージ・クーパーのジャズ・ディフェンダーズが単発のプロジェクトなのか継続的に録音活動を続けてくれるのかは、いまはまだ不明です。

 

(2020.1.21)

2020/02/06

オタクの金の使いみちは、交通費と宿泊費だ 〜 わさみん篇

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https://www.youtube.com/watch?v=P6-6BiRmjqo

 

という投稿がちょっと前に Twitter 見ていてどなたかのリツイートでまわってきて、まさしくそのとおりと激しくうなずきました。ぼくのばあいは歌手であるわさみんこと岩佐美咲ちゃんのファンですからその話になりますけど、まったくもって交通費と宿泊費、つまりひとことにして旅費がかさんでどうしようもないんですね。今年はちょっと我慢して倹約しなくちゃねえ。それになんだか今年のわさみんはいまのところ関東ばかりでイベントやっていますしねえ。

 

ともかく現場で CD やグッズをどんどん買うとかいう以上に旅費がかさむわけです。これはひとえにぼくが地方在住だからですね。首都圏にお住まいで首都圏のイベントにどんどん行っていらっしゃるわさ民(美咲ファンのこと)さんであれば、自宅から行けて電車賃だけということで、そんなたいした出費にはならないんじゃないかという気もします。その分 CD 買えていいなあ〜って思いますよ。

 

ぼくは愛媛県のなかでもさらに田舎である大洲市在住ですから、どこへ出かけていくにもまず松山まで行かなくてはなりません。そこから関西方面だとまず岡山まで特急で一本。岡山で新幹線に乗り換えて新大阪まで、といった感じです。帰りはその逆を。若干安い往復割で切符買っても総額で二万円近い金額が必要なんですね。首都圏エリアだと飛行機以外の選択肢は事実上ありません。たいへんなことですよ。

 

その上最低でもイベント現地に一泊はしないといけません。ぼくはたいてい前乗り(イベント前日に到着して一泊すること)しますし、イベントが二日連続であれば(わさみんは土日の二日間イベントやることが多い)もう一泊、二泊しないといけないでしょう、これでホテル代が総額で数万円かかります。たいへんなことですよ。

 

その上食事代だっていりますよ。グルメだとは自覚していませんが、それでもそこそこいい食事をしているぼく。お店で夕食を食べれば一回これも数千円近くかかるばあいが多いんですね。以前2019年6月、箕面温泉スパーガーデンでのわさみんコンサートの帰り、大阪は心斎橋の神戸牛 A5ランク専門店でステーキを食べたときは、いいものを選んでしまったということもあって、食事代はなんと三万円越え。

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そういえば、もっと前2019年の2月、東京は浅草の老舗演歌店ヨーロー堂でのわさみん歌唱イベントの際にはですね、その前に浅草今半でしゃぶしゃぶを食べました。このときも一皿100g一万円の最高級霜降り牛を三皿食べて、やはりお会計の際に三万円越えを支払うことになったんです。なんだかいいものばかり食べていますねえ、う〜ん、いやホント、グルメではないと思うんですけれども。たいへんなことですよ。

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わさみん歌唱イベントの楽しさは、あくまでぼくにとっては、わさみん本人に会って歌を聴き握手しておしゃべりするなどのこともさることながら、往復の交通機関で音楽を聴きながら車窓から眺める風景だとか、食べるごはんのおいしさ美しさだとか、宿泊するそこそこ悪くないホテルでのくつろぎと楽しさだとか、そういったこと諸々が総合的にあいまってできあがっているわけなんですよ。

 

それら全体ひっくるめてぼくにとってのわさみん遠征の楽しさを形成しているわけなんで、だからホントお金かかっちゃいますね。地方在住じゃなくオタクでもないみなさんは、現場でどんどんグッズや CD を買うから出費がかさむんだろうと想像なさっていそうな気がしないでもないですが、そうじゃありません。いちばんは旅費(交通費+宿泊費+食事代)なんです。それが地方在住オタクのお金のいちばんの使いみちなんです。

 

さあ、次に行けるわさみんイベントはいつになるんでしょう?今2020年はまだ一度も参加していないですからねえ。首都圏エリアばかりでやっているんじゃあ行けないですよ、わさみん&運営サイドのみなさん。どうかお願いします、もっと西へも来てください。

 

(written 2020.1.19)

2020/02/05

ネオ・ソウル・ミュージック(3)〜 プリンス『ザ・レインボウ・チルドレン』篇

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https://open.spotify.com/album/7iikVlTD1TjzDhOJWgUdsc?si=APfYsgcHTjSwR4irS_jG1A

 

ネオ・ソウルは意識してずっと継続的に聴き続けていますけれども、そうするといままであまり意識していなかったことに気付くばあいがあります。今日の話題はプリンスの『ザ・レインボウ・チルドレン』(2001)。いままでにこのブログでもなんどか書いたアルバムですが、これ、ネオ・ソウル作品として聴けるんじゃないですかね。最近そうかもってとらえるようになりました。

 

ネオ・ソウルというより、オーガニック・ソウル、ニュー・クラシック・ソウルと呼ぶほうがふさわしいかもしれないんですが、日本ではネオ・ソウルの呼称が定着する前にそんなふうな表現があったんだそうですね。1990年代半ば〜後半ごろの話でしょうか。オーガニックなんて、『ザ・レインボウ・チルドレン』を形容するのにぴったりなことばじゃないですか。

 

いましっかりこのアルバムを聴きなおすと、最大の印象はジャジーだなということで、しかもかなりゴージャス。ヒップ・ホップからの流入はないと思います。ヒップ・ホップ・ビートが聴けないという点ではいわゆるネオ・ソウルとはすこし違うなと思うんですが、生の楽器演奏を中心に、マシンやコンピューターによる組み立てはほぼなしという、すなわちオーガニック・ソウルであるという点ではプリンスのカタログ中いちばんですね。

 

しかし CD 付属のブックレットを見なおすと、やはり基本的にプリンスひとりの多重録音でこの『ザ・レインボウ・チルドレン』も仕上げているんですね。コーラス陣とホーン陣は他人が参加しているのと、ドラムスは全面的にジョン・ブラックウェルが担当。しかしそれ以外はだいたいプリンスひとりなんです。それでここまでバンド形式の生演奏でやったようなサウンド・テクスチャー、質感、肌ざわり、グルーヴがあるというのはすごいでしょう。

 

そういったような(バンド形式での生演奏行為重視フィール)ことが、このアルバムのジャケット・デザインからも伝わってくるように感じますね。アルバムはストレート・ジャズみたいな1曲目「レインボウ・チルドレン」で幕開けしますが、2「ミューズ 2 ザ・ファラオ」ではやくもネオ・ソウル路線が開花しています。このフィーリングと質感ですよ、コットン100%みたいな、このテクスチャーがネオ・ソウルっぽいです。

 

このアルバムで聴けるメッセージ性、物語性みたいなこと(がかなり強いんですが)は、いっさい無視して今日書いているんですが、やはりネオ・ソウルっぽい3曲目「デジタル・ガーデン」を経て、「ザ・ワーク Pt.1」は以前からぼくの大好きな一曲。これもかなりジャズ演奏っぽくてネオ・ソウルからやや離れているかもしれません。でも好きだぁ〜、この曲。ジョン・ブラックウェルのスネア・ワークも心地いい。

 

その後7「メロウ」、8「1+1+1 イズ 3」もネオ・ソウルっぽいし(後者はソウルというよりファンクに近いけど)、11「シー・ラヴズ・ミー 4 ミー」なんかはどこからどう聴いてもそうじゃないですか。エレキ・ギターやエレピのサウンドが本当に心地よく響き、プリンスもやわらかく歌っています。あ、そうそう、プリンスってファルセットを使うこともかなり多いし、やはりファルセットで歌ったカーティス・メイフィールドのヴォーカルとの共通点はありますよね。カーティスはネオ・ソウルの先祖です。

 

黒人問題を扱った社会派の12「ファミリー・ネイム」だってサウンドだけ聴けばソフトだし、続く13「ジ・エヴァーラスティング・ナウ」は興奮のラテン・ナンバーですけど、その次のアルバム・ラスト「ラスト・ディセンバー」もストレートで raw なエレキ・ギターのサウンドとプリンスの声が心地いいですよね。こういうの、ネオ・ソウルに多いように思います。バック・コーラスの使いかたもまさしく同じで、やはりこのアルバムはプリンス流のネオ・ソウル宣言かもですね。それ以上に歌詞やナレイションでメッセージを強く投げかけているので、わかりにくくなっていますけれども。

 

(written 2020.1.20)

2020/02/04

ネオ・ソウル・ミュージック(2)〜 アンジー・ストーン篇

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https://open.spotify.com/album/06H2UUZRxzOuD7gyB5MjLu?si=feMM2uPwS4Wk0zGhZIfoaA

 

以前アンジー・ストーンの記事を三個書きました。それとは別にネオ・ソウルのことも書いたんですけど、なんだか最近知ったところによればアンジー・ストーンはネオ・ソウル・シンガーの代表格の一人みたいですね。知りませんでした。ネオ・ソウルは継続的に聴き継続的に調べ続けていて、そうするとネオ・ソウル名盤選みたいなネット記事のいくつかに、アンジーのアルバムが掲載されているんです。

 

でもよくわからないのは、アンジーのアルバムのなかにはプログラミングでトラックをつくってあるものがすこしあるように思えることなんです。ネオ・ソウルっていうのは打ち込みよりも演奏行為重視のスタンスが特色の一つなんでしょ。う〜ん、たとえばアンジーの『カヴァード・イン・ソウル』(2016)。これ、だいたいぜんぶコンピューターでサウンド・メイクしてあるんじゃないですか。以前記事にもしました。

 

ほかにもちょっと演奏っぽくないなと聴こえるアルバムがあって、どうなんでしょうね、クレジットがわからないっていうか、ぼくはいままで Spotify で聴いているだけだからわかるわけないけれど…、と思って実は最近アンジーの CD を何枚か買ってみたんですよ。そうしたらなにも書いてないじゃないですか。こりゃどうなんでしょう、演奏者がいるのか打ち込みなのか知りたくて CD 買ったのに、なにも書いてないなんて…。残念のひとこと。CD 買った意味ないじゃん。

 

ぼくがいちばん好きなアンジーは、いまのところ最新作の『フル・サークル』(2019)とソロ・デビュー作の『ブラック・ダイアモンド』(1999)で、たとえば『フル・サークル』の CD 付属ブックレットにも、演奏者名、プログラマー名どっちも記載がほぼなし。曲の作者、プロデューサーとか、あとはレコーディングとかミックスとか、そういうのしか記載がありません。

 

曲によってはミュージシャン名が載っていたりもするんで、その曲はそれらの演奏者がいて、それ以外は打ち込みってことなんでしょうか?ちょっとわかりません。でも一曲だけ演奏者名が明記されてあるということは、それ以外は打ち込みなのだと考えていいのかもですね。生演奏の質感があるなと思う『フル・サークル』ですけれどもね。わりと好きな『カヴァード・イン・ソウル』CD ではいっさいなんの記載もありません(やっぱりぜんぶ打ち込み?)。ソロ・デビュー期のアンジーはどうだったんでしょう?

 

いまではひょっとしたらいちばん好きなアンジーかもしれないと思う『ブラック・ダイアモンド』は CD 買ってないんでなんとも言えませんが、これとかその次の『マホガニー・ソウル』(2001)とかがよくネオ・ソウル名盤選にあがっています。この時期は演奏行為重視だったということかなあ。『マホガニー・ソウル』のほうが頻繁に推薦されているみたいですけど、個人的には『ブラック・ダイアモンド』もかなり好きです。

 

それであんまり演奏行為云々にこだわりすぎてもネオ・ソウル・シンガーとしてのアンジーをとらえたことにならないかもしれないんでこの話題はここまでにして『ブラック・ダイアモンド』。ここのところこればっかり聴いているんですね。これ、いい一枚ですよね。1999年の作品で、世紀転換点あたりにおけるまさにネオ・ソウルの代表作といえるんじゃないでしょうか。

 

とくに好きなのは2曲目「ノー・モア・レイン」と4「エヴリデイ」。11「マン・ラヴズ・ヒズ・マニー」、14「ヘヴン・ヘルプ」もいい曲ですね。曲はアンジーがだいたい書いていますけど、ネオ・ソウル・ソング・ライターとしてもこのソロ・デビュー期にすでに完成されていたことがわかります。書く歌詞もいい。アンジーの歌いかたは個人的に1970年代のカーティス・メイフィールドを連想させるものがあって、そこも好き。ふわりとやわらかいけどしっかりした芯があるっていうそんなヴォーカルですよね。

 

ビートはやっぱりかなりヒップ・ホップ系から来ているなとわかります。それで以前『フル・サークル』の記事のときに書いたんですけど、ぼくは「セイム・ナンバー」が大好きだからと思ってもアルバムでそういった快活なリズムを持つ曲はこれだけ、ほかはミドル・テンポの落ち着いた感じが多いんだなあって。デビュー作『ブラック・ダイアモンド』までさかのぼり、またネオ・ソウルをたくさん聴いていると、これはこの種の音楽の特色の一つなんじゃないかと思えます。

 

快活にズンズン来るビート・ナンバーはあまりないんですよね。ディアンジェロなんかでもぜんぜんないんじゃないですか。落ち着いたミドルなビート感、これがネオ・ソウルやアンジーたちのカラーかもなと思えるんです。ビートはマシンというかコンピューターでそういったフィーリングのものをつくってあるかもしれませんが、その上にヴォーカルとコーラス、電気鍵盤楽器、ベース、エレキ・ギターあたりを(演奏で)重ねるっていう、そういったサウンド・メイクじゃないですか。アンジーの『ブラック・ダイアモンド』でも快速テンポはまったくなし。

 

でもいまはそんな、かっ飛ばすのはなしの(ぼくはどんな音楽でも速いテンポの曲が大好きなんだけど)中庸なのがネオ・ソウル、アンジー・ストーンのよさ、特長だなと理解できるようになったし、心地よく感じます。アンジーにしても、特に「ヘヴン・ヘルプ」みたいなバラード系っていうかこういったメロウなスロウ・ナンバーで実にいいフィーリングがします。この曲、本当にいいですよね。歌いかたも好きだし、曲もアレンジもサウンドも好き。

 

『マホガニー・ソウル』のことはまた別な機会に書きます。

 

(written 2020.1.17)

2020/02/03

CD 買わなくても音楽はしっかり聴けるんですよ

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https://www.spotify.com/jp/

 

このブログではその日話題にする音楽が Spotify で聴けるときは必ずそのリンクを貼ってあります。理由は三つあって、一個は文章だけで説明する能力に自信がないから。一個はそれでも文章をお読みになってこの音楽は気になるなと思われた読者さんがその場でパッとすぐに聴けるように。もう一個は音楽なんだからなんだかんだ言って聴かないとお話になんないよと思っているから。中村とうようさんだってみなさんだってオーディブックみたいなのを編纂していたのは、やはり百言一聴にしかずと思っていたからでしょう。

 

それほど音楽のばあいは「聴く」ということがなによりも大切なんですが、その聴くという行為は必ずしもレコードで、CD で、というわけではなくなりつつあります。日本では2016年か17年ごろからかな、 Spotify や Apple Music などストリーミング・サービス(音楽系サブスク)で音楽を聴くというのが普及しはじめ、いまやすっかり定着しているのではないでしょうか。

 

ぼくは主に Spotify をふだん使っているのでその話になりますが、Spotify(というか音楽サブスク)のメリットは安価な定額制でいくらでも聴き放題、しかも CD 並の高音質、カタログの品揃えも膨大だということですね。もちろんパソコンやスマホの内蔵スピーカーで鳴らしているぶんにはたいした音になりませんが、ネット回線経由で来ている音源そのものの質は高いんで、ちゃんとした出力装置をつなげば満足できるサウンドになります。

 

さらに Spotify のメリットはその膨大なカタログ数にあります。世界最大の CD ショップがどこにあるのか知りませんが、たばになっても Spotify にはかなわないはず。つまり知らない音楽、CD で持っていない、買っていない音楽をどんどん聴けるという点がメリットですよね。ストリーミング・サービスがはじまる前は、あ、これ聴きたいな、となればレコードなり CD を買うしか手段がなかったでしょう。ほんの参考に YouTube で試聴するとか、その程度だったでしょう。それで CD ショップに行くのを、あるいは届くのを、待つしかなかったわけです。そんな世界が180度転換したんですよね。

 

こないだこのブログにコメントしてくださったあるかたが、ここでとりあげられている音楽を CD で持っているものは聴きなおし、持っていないものはたまに CD 買って聴いていますとおっしゃっていました。ありがたいです。ですけれども、もうね、なんのために毎日毎日 Spotify のリンクを書いているのかわからなくなりましたよ(笑)。「たまに CD 買う」のはもちろんすばらしいことです。でも Spotify ならば月額たったの980円で無制限に聴き放題なんですよ。記事になっているのが気になったら即その場でそのまま聴けるんですよ。ジャネット・エヴラにせよどれにせよ。

 

ジャネット・エヴラの『アスク・ハー・トゥ・ダンス』もぼくは CD 持っていないんですけれど、一枚いくらするんですか?1500円とか2000円くらい?たぶんそんなもんですよね。無制限に高音質で聴き放題にするためにかかる Spotify の月額はたったの980円なんです。いいですか、毎月980円だけ払えば、あとは毎月何百時間聴いても1円もかかりません。その上 CD と同じ音質ですから。

 

これ、迷うことがあるんでしょうか。どなただってお財布事情には限界があるでしょう。さらにいえば買った CD を置いておく部屋のスペースにだって通常は限界があります。この二つの理由によって、どんどん無限に CD を買いまくるというのはどなたにとっても不可能なことのはず。ところがどんどん無限に聴きまくれるんですよ、Spotify ならばね。不可能が可能になるんだから、勝負はすでについているような気がします。

 

無限になんか聴けないよ、とおっしゃるかもですが、ぼくの言いたい「無限」とはそういう意味じゃなくって、あ、これちょっと気になるアルバムだな、でも CD 持ってないや、どこのお店に置いてあるかな?となった次の瞬間にそれが聴けるのだという意味なんですよね。Spotify にない音楽はもちろん聴けませんけど、レコードや CD だって廃盤になったり在庫切れになったりして手に入らないことは多いでしょう。

 

商業流通品としてレコードや CD で販売された、されている音楽のほぼすべてが Spotify で聴けますし、Spotify じゃないと聴けない、(レコードはあっても)CD は存在しない、というアルバムだってけっこう多いですよね。ぼくは Spotify ユーザーであるおかげでそういったものも聴き逃すことがなくなりましたし、そのなかにはかなりすぐれた音楽もありました。モロッコのマアレム・マフムード・ガニアなんか、CD じゃないとヤ派は歯ぎしりして悔しがったことでしょう。

https://open.spotify.com/album/4pCHBjS3nULoQ3NEy3WI0g?si=LSwSbXTYTXijT0xC0WmTww

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ネットにつながったスマホかパソコンがあればすぐ聴けて手間いらず、レコードや CD を扱うみたいな面倒がないというのも Spotify のメリットですね。円盤形物体を出したり入れたりは手間なんですよ。これをサブスクへ移行した最大の理由にあげていらっしゃるかたもいます。個人的にはそんな手間も愛おしいんでそこまでのことじゃないんですけれど。経済的な理由ですね、ぼくのばあいは。CD で買うなら何万円、何十万円になろうという音楽だって、Spotify で聴くならひと月たったの980円ですから、しかも高音質で、これ、躊躇している理由はないです。

 

ぼくが980円980円と言っているのは Spotify プレミアムのことですけれども、これからはじめるひとは、最初の三ヶ月間プレミアムが無料です。タダで三ヶ月間フル・アクセスできるんですよね。三ヶ月試してみて、これはいい!と思えば四ヶ月目から980円(学生のみなさんは学割が効いて480円)だけ払えばいいし、自分には合わないなと思えばそこでやめればいいんです。どうですか、ちょっとお試しになってはいかがです?
https://www.spotify.com/jp/premium/

 

(written 2020.1.17)

2020/02/02

歌はヘタだけど、サウンドは心地いいし曲もいい 〜 ゲイリー・コーベン

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https://open.spotify.com/album/4cb5KTC7Nn66kAQSOj8kSY?si=8kuk0675SyW95Qt7m8tYvg

 

ゲイリー・コーベンの『ガッズ・イン・ブラジル』(2019)。Gods というのはゲイリーとカシン(プロデューサー)のことなんでしょうか。ともあれ、サウンドはスーパー心地いい、ヴォーカルはヘタで聴いていられないというのが第一印象のアルバムです。これ、歌っているのがゲイリー・コーベンだということなんですよねえ。う〜ん、ヘタだ。業界では有名人ですけれども、だからって歌わせてみようってのは…。

 

ところで、ゲイリー(ギャリー)・コーベンは現在ポーランド在住で、リイシュー専門の Whatmusic レーベルの創始者として知られていると思います。そのゲイリーはいまから25年も前、リオ・デ・ジャネイロでカシンとフラット・シェアリングしていたそうで、その後カシンはブラジル音楽シーンでの大物プロデューサーに成長。カエターノ・ヴェローゾ、ガル・コスタその他大勢を手がけ、ブラジル音楽を代表する人物となりました。

 

リオでフラット・シェアリングしていたそのころからゲイリーは曲を書きためていたんだそうで、カシンはそれを知っていたようです。しかしそれらの曲をなんとかしようとはゲイリーは首を縦に振らず。カシンの頭のなかにそれらのゲイリーの曲がずっと残ったまま年月が経過。カシンは折に触れて「曲はどうなった?君のアルバム、創らないの?」と言い続けたんですって。

 

親友ゲイリーにゲイリーのつくった曲をみずから歌わせてみよう、アルバムを創ろうとずっと思い、問いかけ続けていたカシン。それが25年経ってようやく実現したのが『ガッズ・イン・ブラジル』ということになるんでしょう。ゲイリーがイエスの答えを出したのが2018年のロンドンでだったそう。友情の結実ですね。録音はゲイリーの住むポーランドはワルシャワで行われ、演奏には当地のポップ・デュオでカシンもかかわりのあるミッチ&ミッチが中心となって参加しました。最終的にカシンはリオに持ち帰り完成させたようです。

 

そんなこのアルバム、言いましたように主役のヴォーカルがふにゃふにゃでまったく好みから外れているんですけれども、しかしそれでもなんどもくりかえして聴いてしまうのはサウンドが極上だからですね。ゲイリーもソング・ライティングのほうなら文句なしです。曲がいい、プロデュースがいい、演奏もいいとなれば、あとはもっとちゃんとした歌手に歌わせてくれていればなあ。

 

でもこれくらいでちょうどいいのかもしれません。主役ヴォーカリストに声の強い、色の濃い人物を持ってくれば、その個性がきわだってしまい、それを聴くことになりますので、曲そのものやサウンド・プロデュース、演奏から若干耳が離れるかもしれません。そういうのがふだんのぼくの音楽の聴きかたです。

 

歌手のヴォーカルを聴かせたい、それが主役だという作品ならそれでなんの問題もありません。しかしゲイリーの『ガッズ・イン・ブラジル』は曲が主役だと思うんですね。プロデュースをやったカシンも曲そのものがずっと気になっていたんだそうですし、曲がいいから録音して具現化したいという気持ちだったと思います。

 

曲を活かしそれを聴かせるためには、これくらいのヴォーカルでちょうどいいのかもしれないですね。カシンのメイクしたサウンド、演奏陣もみごとで、心地いいことこの上なし。音楽的には(ちょっぴり1960年代風味もありつつの)1970s 的ブラジリアン・ポップスですね。ちょうど好みでもありますし、ゲイリーとカシンのルーツにもなっているあたりかもしれません。このアルバムはゲイリーの曲の魅力とカシンのプロデュース・ワークのたまものですね。

 

(written 2020.1.16)

2020/02/01

驚異の洗練 〜 チェリナのポップR&Bが心地よすぎる

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https://open.spotify.com/album/3HtNWmhwolwjvqAV1RcJZK?si=HGpiet_kRRa-6ck8msLXvQ

 

bunboni さんに教わりました。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2020-01-06

 

もうチェリナに夢中。1月6日以降毎日、それもくりかえしなんども、聴いています。朝に、昼に、日が暮れてから夜に、聴き、目覚めの音楽として、元気を出したいときのエネルギー源として、リラックスしたいときリフレッシュしたいときの伴として、寝る前の入眠剤代りに、聴き、も〜う、これ以上に心地よい、どんなときでもどんな状況でも、どんな心境のときでも、ぴったりフィットするいい音楽って、ほかにないんじゃないでしょうか。もはやゾッコンなんですね。

 

新人チェリナ(エチオピア)の2018年作デビュー作『チェリナ』。アルバムの導入として置かれている1曲目からしてもう雰囲気がいままでのエチオ・ポップとはまったく違いますよね。ひとことにして都会的洗練。やわらかくオーガニックなネオ・ソウル的質感で、ジャジーですらあります。これは心地いい。エチオピアのローカル色はなくて、世界で通用するポップネスを獲得していますよね。ユニヴァーサルなサウンドというか。

 

そういったコットン100%みたいな肌ざわりのよさはアルバム全体を貫いているものなんですね。上の段落で書いたことは、ほぼだいたいアルバム『チェリナ』すべてに当てはまることなんです。bunboni さんは11曲目にだけローカル色ありとおっしゃっていますが、ぼくは節まわしの微妙なニュアンスとしてアルバムの複数箇所にそれを感じています。けれどもほんのかすかな隠し味程度なんですね。通り過ぎ交叉してのちにほんのり漂う香水みたいなものでしょうか。

 

アルバムの曲はたしかにポップ・レゲエみたいなのが多く、こういうのだったら(シリアス・)レゲエが苦手なぼくでも好物ですね。2曲目、3曲目と軽いレゲエ・ビートが続きますが、サウンドのテクスチャーはオーガニック。生演奏行為重視の姿勢がよくわかって、聴いていてとても心地いいですね。チェリナのこのアルバムにおけるレゲエ・ビートは、メッセージを運ぶヴィーヒクルとしてではなくて、あくまで質感のいいやわらかいリズム・スタイルとして使われています。

 

そう、(ヴォーカルをふくめ)サウンドの質感のよさ、心地よさをどこまでも追及しているというのがこのアルバム最大の特長で、楽器はアクースティックやエレクトリックのピアノを多用、クリーン・トーンのエレキ・ギターもやわらかく響き、ビートもひょっとしたら打ち込みじゃなくて演奏ドラムスかもしれません。こういった演奏行為重視の姿勢は、サウンドやヴォーカルの質感ともども、アメリカのネオ・ソウルを強く想起させます。

 

格別な個人的お気に入りは4曲目「Anemogn」。最高に心地いいじゃないですか、このピアノとヴォーカルが。これ、なにも知らないひとに黙って聴かせたら、(何語?と思うかもですけど)ネオ・ソウルだと思うんじゃないですかね。落ち着いたフィーリングでしっとりと歌うチェリナと寄り添うピアノはどこまでもオーガニック。う〜ん、好きだ。こういった都会的洗練がエチオピア・ポップの新人から聴けるようになったんですねえ。

 

ほんのりかすかなエチオピア色を感じないでもない5曲目「Bati」 もかなりいいです。ホーンズも入って、またここでもレゲエはなしですね。都会の街を彷徨っているようなこの曲は、チェリナのソング・ライティングそのものがいいんです。ふわりとやわらかい声の出しかたはアルバムをとおし一貫していますが、パートによっては強く張ったりもしていますね。続く6曲目もたいへんに好みです。

 

こういった4、5、6曲目のレゲエ・ビートをとくに使わないセクションの流れが、いやもちろんアルバム全体がいいですけど、なかでもとくにぼくは大好きでたまらないんですね。レゲエ・ビートはもはやユニヴァーサルなものですけれど、それにチェリナのレゲエ・ビートの用いかたはアフリカの音楽家によくある特定のパターンじゃありませんけれど、それを強調しないこのセクションではいっそう世界に通用する普遍的ポップネスを獲得できているなと感じます。7曲目「Black Bird」 もレゲエなしですね。

 

あれっ、こうやって見てくると、あんがいレゲエ・ビートは使っていない曲も多いですねえ。使ってある曲とで半々くらいでしょうか。その後ふたたびレゲエ・セクションになりますが、やわらかいポップネスは変わらず。エレキ・ギター中心にサウンドを組み立てている9曲目もかなりいいですね。エチオピア色のある11曲目、ダブっぽい音像もある12曲目を経て、ラストまで一息で聴かせる説得力と、時間を忘れさせる快感がチェリナの音楽にはあります。

 

(written 2020.1.15)

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